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手塚治虫

登録日:2011/10/22 Sat 23:41:35
更新日:2026/05/04 Mon 13:49:52
所要時間:約 5 分で読めます




手塚(てづか)治虫(おさむ)は、日本の漫画家、アニメ監督、医師。
本名:手塚治

日本漫画の歴史において、その功績と圧倒的な影響力から、『漫画の神様』と呼ばれる偉大な漫画家である。


プロフィール

生年月日:1928年11月3日
没年月日:1989年2月9日
出生地:大阪府豊能郡豊中町(現:豊中市)
出身地:兵庫県宝塚市

家族

  • 祖父:手塚太郎(司法官)
  • 父:手塚粲(住友金属の会社員)
  • 母:手塚文子(服部英男の娘)
  • 弟:手塚浩
  • 妹:手塚美奈子
  • 妻:岡田悦子(血の繋がらない親戚)
  • 第一子:手塚真(映像作家)
  • 第二子:手塚るみ子(プランニングプロデューサー)
  • 第三子:手塚千以子(女優)

生涯

生い立ち

阪大医専部(現:医学部)卒業。
なお医専部とはいえ、漫画家になった後医学博士号も取得したが、博士論文は「タニシの精子」を題材にしたものだったという。

幼少期は昆虫マニアで、中学生の時に作った細密な昆虫図も残っている。自身のペンネーム「治虫」も、甲虫のオサムシから名付けたもの。虫の習性などを題材にした作品も描いているが、蜘蛛は大嫌い。子供の頃に蜘蛛の巣に突っ込んだら卵が破け、沢山の蜘蛛の子が体を這い回る地獄を経験したため。

デビューから最期まで

1947年の『新宝島』で本格的にデビューし、一躍売れっ子漫画家となる。
だが、1960年代後半から1970年代初期まで自他共に認めるスランプ状態に陥りヒット作に恵まれず「手塚は終わった、古い」と世間でも囁かれた。
こうした中、神様の最期の花道として『週刊少年チャンピオン』が制作を依頼して生まれたのが、かの医療漫画のパイオニア『ブラック・ジャック』だった。
予想を見事に裏切り大ヒットを飛ばし、まさに不死鳥のごとき復活を果たす。

漫画家としての40余年間に描いた漫画は全604作700タイトル以上、原稿の枚数は非公式だが15万枚とも言われる。
なおギネス世界記録では石ノ森章太郎が約12万8千枚で認定されている。漫画全集でも手塚全400巻に対しては全500巻770タイトルを誇っているが、本当はどちらが上なのかはまさに神のみぞ知るところ(石ノ森も非公式には20万枚説がある*1)。
いずれにせよ『こちら葛飾区亀有公園前派出所』が40年の200巻で4万弱ということを考えると凄まじい量である。
この膨大な作品数はいつもギャラは二の次三の次で限界まで、というか限界以上に仕事を引き受けていたため。
「漫画を描くなと言われたら死ぬと同じ。」「アイデアはバーゲンセールできるくらいあるんだ。」と後年語っていたくらい、遮二無二に漫画を描き続けた。全盛期には別々の漫画を1ページずつ並行して描いて締め切りに間に合わせたという逸話も残されているほど。

晩年になっても創作意欲は衰えることを知らず、『アドルフに告ぐ』『陽だまりの樹』などの傑作を発表したが、1989年2月9日に胃癌のため死去した。60歳没。3本の連載が絶筆となった。
最期の言葉は「仕事をする。頼むから仕事をさせてくれ!」だったという。

作風と特徴

手掛けたジャンルは、SF、歴史物、少女向け、4コマ、ピカレスクなどがある。
加えて戦時中に多くの死人を目にしたことなどから「生命の尊厳」を作品のテーマとしていた。
その一方でスポーツ関係の作品についてはほとんど手がけなかった。そのため、『巨人の星』の全盛期にはアシスタントに対し「僕にはこの漫画の面白さがわからないので教えて欲しい。」と質問したエピソードは有名。

スターシステムと呼ばれる、キャラクターを役者のように使い、色々なキャラクターを別作品のモブや脇役として出演させる手法を取り入れている。
顕著なのが『ブラック・ジャック』。いきなりヒョウタンツギやスパイダー(「おむかえでごんす」の台詞で有名)などの名物キャラが登場したり、雰囲気ぶち壊しなギャグを挟んだりするが、これはこっ恥ずかしいラブシーンやシリアスな場面を描いてしまった時の息抜き・照れ隠しらしい。
「ページの問題でスピードアップせにゃならん」などのメタ発言的なネタも多用するほか、ローマ字表記で「KONNAMONOYOMANAKUTEMOII」(こんなもの読まなくてもいい)などとコマに書き込むことがある。

また、今で言うところのケモナーで、ディズニーチックに擬人化された動物は勿論、半獣キャラも作品に多く見られる。
更に『暗い窓の女』『奇子』など兄妹同士の肉体関係、つまり近親相姦を描いた作品が幾つかある。
因みに、初期の『ピピちゃん』という作品では手塚本人が画家として登場するが、妹のベッドで一緒に寝るシーンがある。
他にも『リボンの騎士』で精神的両性具有に男装、『鉄腕アトム』でロボット娘、『やけっぱちのマリア』で少年の深層心理がダッチワイフに憑依して美少女化、短編『風穴』でマネキン愛……と、様々な指向をカバーしている。
そんな何かの扉を開くには十分すぎる手塚作品のお陰で(あるいはそのせいで?)「目覚めた」人は少なくないはずだ。

鼻を大きくデフォルメした自画像が有名で(実は風呂あがりでもないと鼻のブツブツは無かったらしい)、作品中にも作者本人として、または脇役、モブとして登場。『化石島』・『バンパイヤ』・コミカライズ版『サンダーマスク』では主要キャラになっている。
別にイケメンな自画像でもないが、自己顕示欲が強めではあったかもしれない。「手塚の過去ないし生活を投影した作品」(『すきっ腹のブルース』・『マコとルミとチイ』など)では「大寒鉄郎」と名付けられている。 

評価

漫画の評価はおろか、アニメーションの制作にも熱心だったことで知られる。
その関係でアニメーション業界にも色々と影響を与えており、「手塚治虫が日本初の30分テレビアニメを安い製作費で受注したせいで今日まで製作費が安く、アニメーターが薄給になった」と言われることもあるが、このあたりの事情は複雑で、少なくとも全てが手塚治虫一人の責任ではないという声も上がっている*2

自身の作品を積極的に加筆修正しており、『火の鳥』・『鉄腕アトム』は公式単行本自体が2パターンあるうえ、『手塚治虫漫画全集』収録時にリメイクされた『新宝島』や連載版の終盤部分を大幅にカットした『人間ども集まれ!』など、没後に「雑誌連載版」がわざわざ発売されたものもある。
ただ、限界突破すぎて締め切りまでに仕上がらず、多くの担当者と印刷所のメンタルやらにダメージを与えたこともあった様子。それどころか、そんな状況でも気に入らないところがあれば書き直しまでしたという。
『チャンピオン』でこのエピソードが語られた際は関係者は懐かしんでいたが、普通に考えれば相当迷惑を掛ける行為だし信用失墜もいいところ。無理そうなときはできる限り早く無理だといって謝ったほうがいいのに……この人の場合は休載したときのダメージが相当だから多分無理だったのだろう。みんなも受ける仕事の量の調整とスケジューリングはしっかりやろう。
だが積極的に仕事を引き受けていたおかげで、1970年代初期虫プロ商事の倒産で負債を背負っても何とかなったという側面もあることを付け加えておく。

前述のとおりとんでもない激務家だったため、一日の睡眠時間は1~2時間が当たり前、アシスタントも手塚が寝たら寝る、と付き合わされる状態が長らく続いていた。
水木しげるは後年、パーティーの席で徹夜自慢をする手塚と石ノ森章太郎相手に「眠ってる時間分長生きするんです。『睡眠力』こそ全ての源ですッ!!」と説教し、「……というわけで両氏は早死にしてしまったんだなあ」とエッセイ漫画で描いている。
また、やなせたかしも「あの人はチョコレートラーメンを好んでおり、年齢の割にお腹がかなり出ていた。」と証言し、「早死にするのも当然だった。」と語っている。

人物像

神様だけあって、常識では考えられないようなエピソードを山ほど持っている。幾つか挙げるだけで人外ぶりがまざまざとわかるほど。
また創作に関する姿勢もまさしく貪欲の一言で、アニメや光るものを持つ新人漫画家などにも大いに関心を寄せていた。
  • 円を描くのに コンパスなど要らない。
  • うろ覚えで描いた野球場のスケッチがライトの数に至るまで 写真で撮ったかのように全く一緒 という記憶力。
  • 海外から 電話越し にアシスタントに、 コマ割り*1と「〇〇の作品の何話前の何ページ何コマ目に描いてある〇〇の絵と同じものをどこそこのコマへ…」 といった背景の配置を指示したり、更に 仕事場にある「〇〇の本の〇〇ページに載っている写真を参考にして描いて」 と指示したりした。なお、当時はもちろんインターネットは無いし、手塚本人も メモ帳などは持たずに 全て記憶で話していた。
  • 編集者と差し向かいで打ち合わせしていた時、「こんな構図で行こう。」と、 相手に合わせた向き でラフ絵を描いて見せた。
  • 他の漫画家は新人、ベテランに関わらず、ライバル視したことで知られており、新人でも詳しく調べ、しばしば嫉妬じみた発言をしていたことも有名。他人の漫画作品を見せてもらったとき「これなら僕にも描けるよ。」といって 本当にそっくりの絵をその場で描いてみせた。
  • 一方で、新人漫画家を誉めたり、高く評価したりする発言もたびたびしていたが、これはまだ売れていなかったりマイナーだからライバル視していなかったとも。尤も藤子・F・不二雄など、ライバルとして高く評価していた漫画家もいる。
  • 海外で海賊版が流通している事を知った際、無許可で自分の漫画を売られた事ではなく加筆された部分のクオリティの低さにキレて、わざわざその部分を自ら描き直して先方に送り付けた。
  • 手塚プロがアシスタントを募集したが、とある落選者の提出した絵を見た手塚治虫は「 これを描ける子を落とすとは何事だすぐに呼び戻せ 」と一喝。その子が弟子入りから1年ちょい(22歳時点)での連載デビュー作が『スペースコブラ』だった*3
  • 映画『ミクロの決死圏』をみて、
    「この映画は僕の作品をパクりましたね……。」
    とコメントしたことがあるらしい*4
  • 代表作の『鉄腕アトム』がアメリカに進出した時、「ロボットとはいえバラバラに破壊されるのは残虐過ぎる。」と不評だった際に、「そっちは当たり前の様に残虐な描写があるのに」と漫画の中でぼやいている。因みに、ニコラス・ケイジは「幼いころ放送されていた『鉄腕アトム』に夢中になっていた。」とインタビューで語ったことがある。
  • ディズニーマニアであり、多大な影響を受けたことを度々公言している他、1964年にはかのウォルト・ディズニーと対談している。1994年公開の『ライオン・キング』では『ジャングル大帝』の盗作疑惑が持ち上がって騒ぎとなったが、手塚プロダクションが「もし手塚本人が生きていたら、"自分の作品がディズニーに影響を与えたというのなら光栄だ"と語っただろう。」とディズニーをリスペクトする声明を出したことで沈静化したエピソードがある。そもそもジャングル大帝自体バンビのフォロワーみたいな作品だが。
    • 因みに、ディズニーの名作であるバンビやピノキオの漫画を描いた事や、イラスト付きのウォルト・ディズニーの伝記を無許可で書いたこともある。良くも悪くも色々緩かった時代という事だろう。
    • 勿論現在は事後承諾を得た上で、復刻版の発売や漫画文庫への収録が行われているので普通に読むことが出来る。
  • 曾祖父は江戸時代(幕末)の医者兼学者手塚良仙(良庵)。『陽だまりの樹』でメインキャラとして描かれて、終盤では明治時代に検事となる息子手塚太郎も少しだけ登場している*5
    さらに祖先に手塚太郎光盛という源義仲の家臣の武将がいてこちらも『火の鳥 乱世編』においていつもの手塚顔で登場する。
    実のところ良仙の実在は疑いようがない*6のだが手塚光盛などのような平家物語に出てくる武将はその子孫を自称する人間は珍しくないため
    「手塚治虫は光盛の子孫だと信じている」という域を出ないのだが、最近になって良仙関連の記録から「良仙は光盛の末裔で手塚村に住んでいた」という文書が見つかったため断定するにはまだ不十分だが、史実である可能性はいくらか増した。

代表作

漫画

  • マァチャンの日記帳(1946年)
  • 新宝島(1947年)
  • ロストワールド(1948年)
  • メトロポリス(1949年)
  • ジャングル大帝(1950年 - 1954年)
  • 来るべき世界(1951年)
  • サボテン君(1951年 - 1954年)
  • ピピちゃん(1951年 - 1953年)
  • ロック冒険記(1952年 - 1954年)
  • ぼくのそんごくう(1952年 - 1959年)
  • 鉄腕アトム(1952年 - 1968年)
  • リボンの騎士(1953年 - 1967年)
  • 火の鳥(1954年 - 1988年)
  • 0マン(1959年 - 1960年)
  • 魔神ガロン(1959年 - 1962年)
  • ふしぎな少年(1961年 - 1962年)
  • ナンバー7(1961年 - 1963年)
  • 新選組(1963年)
  • ビッグX(1963年 - 1965年)
  • W3(1965年 - 1966年)
  • マグマ大使(1965年 - 1967年)
  • バンパイヤ(1966年 - 1969年)
  • どろろ(1967年 - 1969年)
  • ノーマン(1968年)
  • ザ・クレーター(1969年 - 1970年)
  • I.L(1969年 - 1970年)
  • 海のトリトン(1969年 - 1971年)
  • アポロの歌(1970年)
  • やけっぱちのマリア(1970年)
  • アラバスター(1970年 - 1971年)
  • きりひと讃歌(1970年 - 1971年)
  • 人間昆虫記(1970年 - 1971年)
  • ふしぎなメルモ(1970年 - 1972年)
  • 奇子(1972年 - 1973年)
  • サンダーマスク(1972年 - 1973年)
  • ブッダ(1972年 - 1983年)
  • ばるぼら(1973年 - 1974年)
  • ブラックジャック(1973年 - 1983年)
  • シュマリ(1974年 - 1976年)
  • 三つ目がとおる(1974年 - 1978年)
  • MW-ムウ-(1976年 - 1978年)
  • ユニコ(1976年 - 1984年)
  • ドン・ドラキュラ(1979年)
  • 七色いんこ(1981年 - 1982年)
  • 陽だまりの樹(1981年 - 1986年)
  • プライム・ローズ(1982年 - 1983年)
  • アドルフに告ぐ(1983年 - 1985年)
  • ミッドナイト(1986年 - 1987年)
  • ネオ・ファウスト(1987年 - 1988年)
  • ルードウィヒ・B(1987年 - 1989年)
  • グリンゴ(1987年 - 1989年)

アニメ

  • 西遊記(1960年)
  • ある街角の物語(1962年)
  • ジェッターマルス(1977年)
  • 森の伝説(1987年)
  • 青いブリンク(1989年)





追記・修正くらいなら僕でも出来るよ。

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最終更新:2026年05月04日 13:49

*1 ただ手塚は後述の通り満足するまで何度でも描き直していたため、実際の原稿枚数はもっと多くなるのでは、とも言われる。

*2 当時アニメーションは見下されたものであり、製作費を安くしないと発注自体が来ないという事情もあったと言われている。また、虫プロの給料は当時基準で見ても割と高給だったという話もある(好待遇とは言っていない)。

*3 一応フォローしておくと、落とされた理由は「画風が違い過ぎるから」という物であり、担当者の見る目が無かったというわけではない。

*4 手塚作品に「人体へのミクロ化潜入」なんて似た題材を扱った『38度線上の怪物』があることから。

*5 因みに、良仙は江戸在住(常陸府中藩所属)だったのだが、太郎の代で各地に転勤した後関西に引っ越していた。

*6 明治初年になって、かつての適塾の同門の人物たちと撮影した集合写真が残っているし、同門の福沢諭吉の回顧録『福翁自伝』にも手塚の名がある。