劉虞

登録日:2021/05/09 Sun 17:45:00
更新日:2021/05/11 Tue 21:56:17
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劉虞とは、「三国志」の時代の人物。字は伯安。

当時の中国北方圏、幽州を治めた、後漢皇族の大物として有名。
なお「虞」は恐れや憂い、といった意味だが、地名や国名にも使われる文字で、古代の賢王・も虞の君主だったと伝わり、周代に封建された虞国は舜の末裔を報じたと言われる。
もちろん関係はないが、劉虞はその「仁徳」で知られていたため、妙に符合した名前となっている。



【生涯】

◇前歴

生年は不明だが、漢帝国の皇族の血を引く人物。本貫は徐州・東海郡の(たん)県。
その先祖は、光武帝の長男*1で「東海恭王」劉彊に由来する。
祖父・劉嘉は光禄勲、父・劉舒は丹陽太守を務めるなど、ただの皇族ではなく実力ある皇族の家系だった。

当人も早くから出仕。
最初は故郷の郯県で下級官吏としてスタート。謹厳実直な職務ぶりが評価されて、県の上位機構である東海郡の官吏として抜擢される。
そこでもさらに功績を挙げたため、洛陽の朝廷へと推挙され、博平の県令、幽州の刺史、甘陵の相、などを歴任する。

◇仁徳の貴公子

この幽州刺史時代、現地は後漢朝の統治機構の衰退によって、異民族が流入して四方を荒らしまわり、地方豪族が住民を抱え込んで、大騒ぎになっていた。
着任した劉虞は、異民族に対して使者を送って宣撫と交渉に努めた。北狄勢力は新任刺史の恩徳に毒気を抜かれ、劉虞を経由して朝貢関係を結び直し、略奪を差し控えるようになったという。

「仁徳でもって異民族を鎮圧する」とはなかなか浮世離れした話だが、よほど評判になったようで、
病気を理由に退官して故郷に戻ると、人々は裁判所ではなく劉虞に裁定を頼むようになった。


184年の「黄巾の乱」でも、当時赴任していた甘陵にて、荒廃した人民を慰撫して、倹約に努めるなどして、治安回復に尽力。
一時は中央に招集されて尚書令・光禄勲・宗正と昇進するが、
187年に幽州で「張純の乱」が勃発すると、その反乱軍に北方異民族の一派・烏桓が加わっていたため、「異民族相手なら劉虞だ」ということで再び幽州に派遣される。
数年前の幽州時代に培われた劉虞の声望はいまだによく知られており、烏桓勢力の頭目・丘力居は戦闘を放棄してさっさと劉虞に帰順してしまう。
大勢力が抜けてしまった張純は形勢不利と見て鮮卑族の下へ逃亡するが、間もなく部下に暗殺され、反乱は鮮やかに平定。
一連の功績がすべて「劉虞の徳」によったことは、儒教政策の理想のようなものであったため、劉虞は太尉(軍務大臣で三公の一つ)にまで昇進、同時に「容丘侯」の爵位も与えられた。

ただ、この昇進を受けた時、劉虞本人は幽州に赴任したままであり、都には帰らなかった。
というより、この188年時点で都・洛陽は董卓によって制圧されており、劉虞は帰ろうにも帰れなかったのである。


◇幽州割拠

張純討伐のため、軍を率いたまま幽州にとどまることになった劉虞は、なし崩し的に幽州の軍閥的存在となる。
董卓は擁立した献帝の名のもと、劉虞に「大司馬・襄賁侯」の地位を与えるが、
劉虞は袁紹曹操袁術らが結成した「反董卓連合」に加わり、董卓に対して対決姿勢を取る。

しかし連合内部ではこれといった動きは見せず、他の諸侯ともどもただいるだけだった。
一方、袁紹は「董卓が擁立する献帝劉協」のカウンターパートとして、劉虞を皇帝に擁立して戦おうとしたが、劉虞は断固として拒絶している。
この際は袁術も劉虞側に回って反対しており、さすがに袁紹もあきらめざるを得なかった。


また劉虞の息子の劉和が、このころ董卓のもとを逃れている。
これは献帝の密命によるもので、劉和を父・劉虞のもとに戻らせて軍を動員させ、献帝を長安から救出して洛陽に帰還させよ、という指示を受けてのことだった。
ただ、劉和は途中で袁術の本陣に駆け込んだのだが、袁術は「我が陣地のほうが前線には近い。お父上への援軍要請は手紙で済ませて、軍が到着すればここから出ればよろしいでしょう」と説得したため、劉和は父のもとに駆け込めなかった。
ただ袁術はちゃんと手紙は送っており、劉虞も献帝の期待通りに援軍を出している
しかし劉和はしばらくして(後述する公孫瓚の事情を察してか)袁術のもとを抜け出して北上、父のもとに帰投しようとした。
が、途中またも袁紹に抑留される。その後の記録はしばらく消えるが、おそらくそのまま袁紹のもとで食客として過ごし、父と連絡を取ったと思われる。

結局、連合軍は董卓が正面決戦を放棄して、洛陽も破却して長安に立ち去ったことから、あっけなく空中分裂。
劉虞も、董卓が擁立したままの献帝に忠誠の証の使者を送るなど、袁紹を無視して行動していた。


◇公孫瓚との戦い

ところで幽州には劉虞ともう一人、公孫瓚が割拠していた。
彼は対異民族戦のエキスパートで、勇猛果敢な指揮ぶりから有名であったが、異民族に対して武力討伐を是とする公孫瓚と、異民族に対して融和路線を取る劉虞とでは価値観が真っ向からぶつかり合い、極めて不仲でった。

しかもこの時期、
  • 劉虞が異民族に送る予定の物資を公孫瓚が横取りしたこと
  • 劉虞の領域から公孫軍による物資略奪が相次いだこと
  • 劉虞が袁術・劉和のもとに派遣した援軍を、公孫瓚が奪おうとしたこと
    • しかも公孫瓚は劉和の暗殺計画を練っていたこと(劉和が袁術のもとを抜け出したのもおそらくこれが原因)
などから、温厚な劉虞も徐々に怒りと敵意を固めていった。

しかし劉虞は、部下の魏攸に諌められて一度目の出兵を思いとどまった。
結局、193年に魏攸が死ぬと改めて戦闘を決意、異民族まで糾合して、総勢十万以上という全盛期の袁紹や馬超にも匹敵する大軍を組織するが、
この時期の公孫瓚は袁紹相手に二回勝利を収め、しかもその戦いから一年も経過しており、疲弊も癒えて万全な情勢にあった。
その前年ならば袁紹との二連戦で、勝利した公孫軍も疲弊していたはずであり、劉虞の出兵は明らかに時機を逸していた魏攸の諌言を採用したのが過ちである。まあ採用したのは劉虞だから責任はやはり彼にあるが

そのうえ、開戦直前になって幹部が開戦に反対したり、劉虞がその幹部を士気阻喪の咎で処断したりしているが、幹部の弱音は兵の戦意を弱め、劉虞の処刑は指揮系統の混乱を招く
しかも劉虞の部下にはなぜか、公孫瓚の親族でパイプも太かった公孫紀という人物がおり、劉虞の作戦は彼を通して筒抜けになっていた。
とどめに、公孫瓚は劉虞対策として、非武装の民衆を前面に押し立てて布陣。
なまじ優しい劉虞は「殺すべき公孫瓚ただ一人である、無用な殺傷はするな」と布告したが、そんな指示を出されては勝てる戦も勝てない*2

ここまで負ける情勢をそろえた軍というのも珍しい。
対して公孫瓚は、こと戦闘に関しては一流の男である。機を読むにも敏であった。
数だけは多くとも戦意に乏しい劉虞軍に対して、公孫軍は容赦ない猛攻を掛けてこれを大破。劉虞は逃走するも、あっけなく捕えられた。


◇敗者の末路

公孫瓚は捕えた劉虞をなぶりものにした。
以前からの対立のみならず、公孫瓚は劉虞に象徴される「儒教的なエリート」を心の底から憎んでいたのである

彼は「徳のある」劉虞を引き回しにしたうえで、袁紹の皇帝擁立計画を踏まえてか「皇帝になれるほどの『徳』があるというなら、天も感応するはずだな! 雨ぐらいは降らせてくれるだろう!」と、
儒教の徳治思想をあざけるかのような難題を突き付ける。
そのうえで数日、真夏の炎天下に晒したのち、雨が降らなかったことで「徳があると偽り人を欺こうとしたが、天に拒絶された、国賊」として、劉虞を斬首にしてしまった。


そして、劉虞の名声を傷つける事件はもう一つあった。
劉虞を処刑したのち、公孫軍は彼の屋敷に押し入り、捜索(という名の略奪)を開始した。
すると妻や妾たちが奥の間から引きずり出されたが、彼女たちはきらびやかで上質な絹の衣装を身にまとっていた
普段の劉虞は、たとえ衣類や冠が破れても新調ではなく裁縫で保全するほどに「質素倹約」を掲げていたが、
実際にはそれが表向きのポーズだったということが衆目に晒されたのである。
なまじ「仁徳のある劉虞」だったのが災いして、人々は劉虞の本性に疑念を抱くことになった。



ただし、北方圏における劉虞の名声は、死後に毀損されてもやはり依然として大きなものであった
特に劉虞の処刑は、ただ殺すだけではなく、徹底的に名声を地に落とそうという公孫瓚の憎悪が先立つものであったため、
劉虞の残党や恩顧を受けた者たちは、公孫瓚への憎悪と敵意、そして「公孫瓚には降伏しても許されない」という覚悟を決めさせることになった。

そして、そうした劉虞派の武将や民衆や異民族は、公孫瓚に対抗するもう一人の巨頭、袁紹のもとへと参集するようになる。劉虞の息子・劉和が、袁紹のもとに庇護されていたことも、その流れに拍車をかける。
公孫瓚は劉虞撃破の前年まで、袁紹に対して一敗二勝という優位な立ちまわりを行っていたが、この時期を境に袁紹戦が徐々に悪化。
最終的に、公孫瓚は戦意もなくしてみすぼらしい末路を遂げることになる。


【人物】

仁徳に満ち溢れた聖人君子として知られ、儒教の理想を体現したようなエピソードがとにかく多い。
特に恩徳エピソードは異民族に対して発揮されており、当時後漢の衰退に乗じて攻め込んできた北方異民族には絶大な人気があった。
その人望たるや、反乱軍に呼応して攻め込んだ異民族が、劉虞が相手と知るとあっさり反乱軍を裏切ったほど。

もっとも、侵略や略奪までしておいて「恩徳」でなびく異民族というのも変な話なので、実際には恩徳だけでなく、交渉全般がうまかったということだろう。
異民族に対して劉虞の側から貢物を進呈していた記録もあり(それを公孫瓚が強奪するのだが)、表も裏も含めた交渉全般に長けていた模様。
異民族への「恩徳」も全くの事実無根とは思えないため、例えば夷狄の言語を理解するとか、彼らにも実入りのある話を持っていくとか、いろいろできたのだろう。


ただ、公孫瓚との戦いでは、彼の限界も露呈した。

軍事センスは無かったようで、公孫瓚が消耗した絶好の機会を逸して、逆に全盛期の公孫瓚に挑みかかり、配下の把握もできずに情報を流され(というか公孫紀のことを少しでも考えなかったのだろうか)、命を奪う戦争時に「余計な殺しは避けるように」などと非現実的な指示を下し、結果大敗した。

しかも異民族を糾合して大軍を築き上げたのはいいが、この時なぜか袁紹が動いていない。
当時袁紹のもとには息子の劉和がいたままだったと思われ(193年には袁紹のもとに投じている)、199年には劉和は袁紹の客将として、公孫瓚討伐の旗頭となっていた。
このことから少なくとも劉和は袁紹と良好な関係を築いていたはずなのだが、にもかかわらず劉虞と公孫瓚の戦いでは、袁紹が動いていない。
結局、大局的な目で見ると「劉虞がむざむざ破滅してくれたので、袁紹が得をした」形になっている。


幽州から進出するつもりや、現状を打破して天下に挑むなどの気概もなかったようで、乱世の群雄というより、なし崩しのままその地位についてしまった平凡な地方官僚だったのかもしれない。
本当に群雄的な人物であったなら、袁紹の皇帝擁立計画に乗って、皇帝を名乗り天下に挑むという選択肢も当然ありえた。これが劉焉なら乗っただろう(実際劉焉は馬騰と組んで長安に攻め込んでいる)。
そうしていれば、結果は別として、もう少し粘り、北方圏にその名をとどろかせることはできたかもしれない。

劉虞になにより必要だったのは、劉備のような「しぶとい意志」だったのだろう。



【三国演義の劉虞】

「いちおう」登場。
劉備が「黄巾の乱」の手柄で県令になりながらも、督郵を半殺しにして出奔したため、しばらくは代州牧・劉恢にかくまってもらっていたところ、北方で張純の反乱がおきる。
そこで劉虞が鎮圧に派遣されると、折よしとみた劉恢が劉虞の援軍として劉備ら三兄弟を派遣。
劉虞の兵団に加えて劉備ら三兄弟の勇猛が揃えば反乱軍は敵ではなく、見事に鎮圧に成功する。
その後の劉虞の戦功上奏で、劉備の督郵半殺しの件も帳消しとなり、次いで公孫瓚の上奏も加わって、劉備は晴れて平原県の県令として復活し、のちの「反董卓連合」まで実力を蓄えるようになる。

もっとも、劉表などと違って登場するエピソードは「こんなこともありました」的な駆け足で終わり、劉虞の人となりはまったく描かれない
また、劉備は劉虞の赴任地である幽州の出身だが、黄巾の乱で旗揚げした際の幽州刺史はなぜか劉焉になっており、貴重な面会シーンを逸してしまっている

さらに、異民族への恩徳を施した話や、その後の公孫瓚との対立から滅亡までの話は完全カット。

そんなこんなで、三国演義の劉虞は非常に地味。
作品によっては完全に登場しないものも多い。

一説には、劉虞の「恩徳にあふれる儒教の理想的な君子像」「仁徳はあるが戦には弱い」というキャラクター性が、三国演義版劉備のモデルの一つとも言われる。
ならばその劉虞を劉備と邂逅させて「劉備は劉虞の薫陶を受けた」としてもよさそうなものだが、そこで「劉備の盟友だった公孫瓚が劉虞を滅ぼした」ということがネックになったと考えられる。
つまり「劉虞が滅ぼされるのを座視していたなら劉備は問題だ」となるし、「劉虞を滅ぼした公孫瓚と劉備が仲良くする理由が説明できない」「劉虞を嫌って滅ぼした公孫瓚がよく似た劉備を引き立てる理由が説明できない」となった結果、
「いっそ触れないほうがいい」と判断されたのかもしれない。


【各作品】

  • コーエー三国志
数少ない、まともに登場する作品。それでも「6」までは参戦していなかった。
意外と能力値はよく、統率力・武力は最低実用レベル、知力や政治力は60~70台と悪くない。
そして魅力値は数々の恩徳エピソードから常に90台をキープしており、少なくとも劉禅などとは比較にならない数値がある。

ただし配下の数が非常に少なく、その質も悪いため、史実通り公孫瓚を何とかしなければ未来はない。
三国志9では弱小だから慰撫した異民族の影響か、飛射という強力な特技を持たされている。
劉虞の能力では威力はさほどでもないが、戦争での使い出があるだけマシと言えるか。


3や新版で漢勢力として登場。特技に魅力を持っているのはやはりと言ったところ。
だが持ってくる計略が全般的に決定打に欠けがちだったり史実通りの浪漫だったりとどうにも戦闘には向いていない。


まともに登場するのはこれぐらいで、三國無双や恋姫無双、蒼天航路などでは影も形もない。




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最終更新:2021年05月11日 21:56

*1 皇太子だったが、実母が皇后として不適切な態度を取ったとされて廃后されたのに伴いトラブルを予見して自ら廃位を願い出た

*2 似たような事例に明の建文帝の話がある。叔父で北方軍司令官の朱棣(のちの永楽帝)が反乱したところ、建文帝は「朕に叔父殺しの汚名は着せてくれるなよ」と配下の大将に命じてしまう。結果、思い切った戦いのできない建文帝サイドの軍団は、数では圧倒的だったのに反乱軍に敗れた。