マンノウォー(競走馬)

登録日:2022/05/28 (土) 02:07:00
更新日:2022/05/31 Tue 08:37:09
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マンノウォー(Man o'War、1917/03/29〜1947/11/01)とは、かつてアメリカ合衆国で生産・調教された元競走馬・種牡馬。
米国競馬史上に燦然と輝く絶対の金字塔であり、セクレタリアトと並び称されるビッグ・レッド(偉大なる栗毛)にして米国最強馬候補筆頭であり、全世界最強馬議論においても頂点争いに平然と名を連ねるやべーやつである。
ぶっちゃけ、近代競馬シーンに降臨したUMAのような何かと言っても過言ではない。
誰ですか近代アメリカにイベコンぶっぱしたの



初代ビッグ・レッドの血統背景

父系はマッチェム系*1に属し、クロスはハーミット*2とガロピン*3がそれぞれ5×5とわりとおとなしめ。

フェアプレイはローレンスリアライゼーションステークス*4の勝ち馬であり、3回リーディングサイアーに輝いた大種牡馬。
マフバーはデビューから5戦目にしてようやく初勝利&即引退という経歴だが、「神経質すぎてまともに走らせられなかったのでとりあえず勝たせて繁殖入りさせた」「おとなしく従順だったので気性の激しいフェアプレイの薄め液として使うつもりだった」という真逆の説がある。どちらが正しいにせよ、交配はフェアプレイとのみ行っていた。というかどうもフェアプレイとの仔以外まともに受胎しなかった模様。そら「マフバーはフェアプレイの正妻」とか言われるわ。
母父ロックサンドは神経質かつレース直前にしっかり準備運動しないとズブさ全開という精神デバフ特盛仕様でありながら、それをものともせず史上10頭目の英国クラシック三冠を戴いたやべーやつなので、ぶっちゃけ前者の説の方がありそう……なのだが、マンノウォー自体は最終的に父系のキレっぷりよりはまだ制御可能な領域に落ち着いたため、後者の説でも説明がつくのが悩ましい。


初代ビッグ・レッドの生涯

前説〜マンノウォー出生前後の米国競馬界〜

マンノウォーについて語る前に、前史として当時の米国競馬を取り巻く時代背景について解説したい。
まず第一に、アメリカは自由の国である。なんか色々と自由であることにこだわりすぎて逆に不自由になってるきらいがあるが、まあそこは置いといて、とにかく自由の国である。そして自由であるからには飲む(飲酒)打つ(賭博)買う(風俗)は自己責任。競馬に限らず様々なジャンルのギャンブルが全米各地で興隆していた。
ところがこの国、自由の国であると同時にピルグリム・ファーザーズ……つまり清教徒*5移民を祖と仰ぐ国でもあり、わりとド極端な思想のキリスト教宗派が幅を利かすことがある。
そのせいかアルコールやギャンブル、もしくはそれ以外の彼らが不健全と見なしたものの撲滅運動がしばしば世を騒がせた。1920年に制定された米国……どころか全世界屈指の大悪法であり、マフィアを密造酒で潤わせとんでもない規模のゼニが裏社会に消えた、米国経済の永世終身不名誉戦犯こと禁酒法は、その中でも最大の被害と停滞を叩き出したやべーのである。ぼくのかんがえたさいこうのりそうしゃかいキメた現実ガン無視主義者はこれだから……

ちょいと長くなったが、ここからが肝心なところ。禁酒法からわずかに12年前の1908年、米国競馬の中心地であるニューヨーク州で成立したハート・アグニュー法という賭博禁止法により、ニューヨーク競馬は大打撃を被った。
多くの実力馬が活躍の場を奪われ、米国外への流出を余儀なくされ、1911〜12年にはベルモントステークス中止までも余儀なくされた。のみならず、ニューヨーク以外の州でも競馬が一部もしくは全面禁止となるところが出るなど、この頃は米国競馬において最低最悪の暗黒時代と言って差し支えない大逆境だったのである。
結局テキトーに禁止するだけでは関連業界込みで縮小を招き、失業者爆増&経済への打撃で不満大爆発したため、1913年をもって米国反賭博運動は終焉を迎えた。
そして賭博撲滅運動のアレっぷりを見ておきながら禁酒法ぶちかましたアホどもの評価が、地の底突き抜けて地球の反対側から宇宙の彼方にぶっ飛んでいった
たった5年、されど5年。この暗黒期が競馬界に与えたダメージは極大どころではなく、1913年当時の競馬賞金額は「米国近代競馬開闢以来のド底辺」とさえ言われることも。

そんな米国競馬……というか経済そのものを完全復活させたものこそ第一次世界大戦。何しろ連合国向けに物資を作った端からマッハで完売御礼である。そりゃもう経済V字回復ってなもんで、労働者たちもがっつり増えた給料にホクホク顔で飲む打つ買うを楽しんだ。となれば米国競馬界も不死鳥のごとくVやねん!復活を遂げ、瞬く間に活気を取り戻した。
マンノウォー出生時の米国競馬界は、まさに暗黒時代からの歴史的大復活と再飛翔の渦中にあったのである。やっぱり何でもかんでも安直に禁止ってクソだわ


出生〜デビュー前夜

1917年3月29日、ケンタッキー州レキシントン郊外のナーサリースタッドにて1頭の幼駒――後のマンノウォーが産声を上げた。この牧場のオーナーであるオーガスト・ベルモント2世は、ニューヨークジョッキークラブ当代会長にしてベルモントパーク競馬場の設立者であり、さらに稀代の銀行家にしてNY市地下鉄創設のスポンサーでもあるなど、控えめに言って米国競馬界の超VIP兼米国財界の重鎮*6である。
前述の賭博撲滅運動に対しても抵抗の旗手として積極的に運動*7したオーガスト2世だが、この頃の生産馬の命名に関しては妻のエレノア女史*8に一任していた。
折しもマンノウォー出生直後の同年4月、アメリカが第一次大戦参戦を決定すると、オーガスト2世も65歳という高齢ながら陸軍に志願、航空隊付補給担当官としてパリに出征した。エレノア夫人はちょうど産まれたばかりの幼駒に“マイマンノウォー(私の戦争専門家)”と命名したのだが、本馬の母マフバーはアラビア語で「良い知らせ/良いことありそう」的な意味合いを持つため、どうも「戦争から無事に帰ってきてほしい」的な願いも込めた命名だったようである。

ところが、オーガスト2世は軍務に専念するためとして、エレノア夫人に所有馬すべての売却を指示*9。翌1918年にファシグティプトンの競りへ出品された時には馬名は単に“マンノウォー”となっていた。その競りでも最後の方まで売れ残っており、結局サミュエル・ドイル・リドル氏にわずか5,000ドル(現在のドル換算でだいたい85,000ドル程度)で購入されたマンノウォーは、ルイス・フューステル調教師のもとで調教されることとなった。
このフューステル師だが、元々フェアプレイを手掛けていたアンドリュー・ジョイナー師のもとで経験を積み、オーガスト2世に気に入られて彼の所有馬の多くを管理していた。しかし彼の所有馬売却が決まるとおまんま食い上げになるので、メシの種を守るためにリドル氏に接近し、親父の世話をしてたので気性もある程度予想のつくマンノウォー購入を薦めたというわけである。
なお、フューステル師がマンノウォーを薦めた理由だが、その秘めた素質を相馬眼が見抜いた……などということは特にない。気性の激しいフェアプレイ産駒であるなら当然その気性を受け継いでるはずだから、最悪でも狩猟用の乗馬としてペイできるんじゃね?というのが本当のところだそうで。
この辺のエピソードや落札額から透けて見えるが、幼少期の彼は決して評価されていたわけではなかった。そこは生まれながらにして見る者の目を奪ったセクレタリアトとは真逆である。

馴致・育成段階の頃のマンノウォーは脚こそ長いがそれを持て余し気味だったようで、調教施設での並走時に大きな跳びを持て余し負けてしまったこともあった。しかし平均3リットル超の飼葉をペロリと平らげて平然としてる大食漢だったこと、またその滋養がほぼすべて筋肉に化けたこともあり、2歳の頃には3〜4歳馬の平均体重をやや下回る程度にまで急成長。馬体の成長につれて一気にそのスペックが開花することとなる。
一方で父系由来の激しい気性は陣営にも容赦なく牙を剥き、当初は背に人を乗せるどころか馬具の装着すら嫌がってド派手にキレ倒した。何しろ誇張されてる可能性が高いと前置きしておくが、サラトガでの馴致時に後の主戦騎手となるジョニー・ロフタス騎手を振り落として12mほどもホームランし、空馬になった喜びからかそこらを駆け回り、15分ほど経ってようやく捕獲されたという逸話があるくらいだ。

さて、こんなナチュラルボーンバーサーカーな馬を調教するにはだいたい3つのやり方がある。まず、強引にでも上下関係をわからせて言うことを聞かせる。次に去勢する。最後にその気になるまでじっくり待つ。フューステル師は最後の選択肢を選んだ。
この方法、キレてても頭が良い馬にしか通じないのだが、マンノウォーはまさに頭のキレも気性のキレも別格なタイプであり、その気になった(調教と騎乗を受け入れた)ことで米国最強馬としての第一歩を踏み出したと言えよう。
なお、父父ヘイスティングス由来の噛みつき癖は最後まで治らなかったが、彼は自分の蹄を噛むことで他害衝動を抑え込んでいたらしい。他害一歩手前までノーブレーキな闘争本能も大概だが、それを抑え込むド根性も大概である。


2歳前半〜戦争(競走)専門家、出陣〜

人間との折り合いをつけ、調教により逞しくなったマンノウォーは、1919年6月初頭の未勝利戦(ベルモントパーク競馬場、ダート5ハロン)でデビュー。鞍上は前述のロフタス騎手。
本当はもう少し早い時期に別の競馬場で未勝利戦に出す予定だったらしいのだが、熱発により回避したという。結果として生産者の父の名を冠する競馬場でキャリアの第一歩を踏み出すことになったのだから、それはそれでよかったのかもしれない。
そのデビュー戦だが、マンノウォーは7頭立てで単勝1.6倍と断然の一番人気に推されると、2番手追走から3角でハナを進むリトリーヴをかわす。直線でぶっ飛ばすのを鞍上に手綱を引き絞られ抑え込まれながら、2着に6馬身差つける蹂躙で初出走初勝利を飾った。持ったままどころか抑え込まれてこれってどういうことなの……?
この跳ばしぶり、戦いぶりはすぐさま評判になり、ニューヨークモーニングテレグラフ紙は「マンノウォーは他の将来有望な2歳馬を、まるでクソ安駄馬であるかのように扱った」と報じた。

デビューからわずか3日後、キーン記念ステークス(D5.5ハロン)に出走。好位先行から3番手につけ直線向くと、ロフタス騎手の合図に応え先行する2頭を瞬時に抜き去り3馬身差の完勝。12日後のユースフルステークス(D5.5ハロン)も2馬身半差で快勝。さらに2日後ハドソンステークス(D5ハロン)に出走し、出走他馬4頭が相手にならないとしてトップハンデの約59kgと2歳馬離れした斤量を課されながら、持ったまま半馬身で楽勝
なに?どういうことかわからない?後続が必死こいて追い上げてくるのを、重荷のハンデつきかつ本気出さずに流して勝っちゃったのだ、この馬は。ステッキ入れてたらデビュー戦真っ青の蹂躙だったのでは?

月が変わって7月。トレモントステークス(D6ハロン、3頭立て)に出走すると、ここでも前走同様の斤量を課されながらも溜め逃げで後続をリード、そのまま逃げ切り勝ち。4週間の短期休養後に挑んだユナイテッドステイツホテルステークス(D6ハロン)は有力馬との初対戦となったが、これまた大斤量を課されつつも単騎逃げを打ち、そのまま押し切り快勝。
ここまで6連勝で有力馬も意に介さずねじ伏せる戦いぶりは、馬の者たちに往年の名馬かそれ以上の器を確信させるに足るものだった。


サンフォード記念ステークス〜史上最大の番狂わせ(The Greatest Upset)

8月13日、サンフォード記念ステークス(D6ハロン)に出走。例によって単勝1.55倍と断然の一番人気に推されており(というか生涯一番人気以外取ったことがないのだが)、四番人気以降は単勝31倍以上というもので、マンノウォーの勝ちはほぼ揺るがないだろうという感じだった。
が、フラッグが振られるとマンノウォー、まさかの出遅れ。ちょうどスタートラインから遠ざかったところでフラッグが振られてしまい、反応が遅れてしまったのだ。当時はスターティングゲートなどという気の利いたものはなかったし。
好位の外を追走し、4角までに3番手に上がって直線向くも、マークしていたゴールデンブルームが伸びず、さらに先行するアップセットと同馬との間に隙間が開かなかったため、内を突いたものの伸ばせず再度外に持ち出すハメになってしまう。外から切れ込んで最内を狙っただけに、この蛇行は致命的だった。
ロフタス騎手は遅れを取り戻すべく、アップセットの鞍上ウィリー・ナップ騎手が「狂ったかと思った」と表現するほどの凶相と雄叫びで必死の檄を飛ばし、マンノウォーもそれに応え凄まじい追い上げを見せたが、半馬身届かず2着に破れた。蛇行で余計に走らされて半馬身差まで詰め寄るとか、バケモノにもほどがあるぞ……

このレースの敗因として真っ先に挙げられるのが、ロフタス騎手の騎乗ミスである。スタートの出遅れで冷静さを欠き、直線で外から内を突こうとして前が壁になるというのは、短距離戦においては致命的どころの騒ぎではない。そりゃ総叩きされたって残当である。エプソムダービーで踊る勇者を駆ったグレヴィル・スターキー騎手よろしく、そればっか聞かれたり評価をされるのには同情するが。
ゴール前での強烈な猛追でむしろ評価を高めたが、かといってマンノウォーそのものに問題がなかったわけでもない。ここまで無敗でねじ伏せてきたため観客の目を惹かなかっただけで、実はこの馬スタートがどヘタクソだったのだ。米国の無双巨漢馬によく見られる傾向である。そのためスタート前にラインから後退し、助走距離を稼いでスタート時にある程度加速に乗るよう調整することで、テンの悪さをカバーしていた。その下がったタイミングでスタートサインが出たため、見事に出遅れたというわけ。実際、彼がスタート上手かったら鞍上がSAN値ピンチになることもなかっただろう。

この米国競馬史上に残る歴史的敗戦と、ワシントンポストのとある記者が「マンノウォーを負かした馬の名前がアップセット(番狂わせ)というのは、あらゆる語呂合わせの中でも最も的確な部類に入るわな」と書いたことが、当時はマイナーだった「upset=番狂わせ」という意味で英語圏の人口に膾炙するきっかけとなったのは有名である。
また、彼の敗戦をきっかけに、サラトガ競馬場はその時々の超有力馬がジャイアントキリングぶちかまされる舞台としてしばしば注目されることとなり、「チャンピオンの墓場」なるクッソ禍々しい異名を頂戴することとなった。


2歳後半〜アップセット(番狂わせ)を消し飛ばせ〜

サラトガの衝撃からわずか10日後、陣営はグランドユニオンホテルステークス(D6ハロン)に殴り込んだ。対戦相手は雪辱対象のアップセットを含む有力馬8頭。今回はテンよく飛び出すとアップセットからハナを奪い、再度の番狂わせなど許さず2着以下をねじ伏せ逃げ切る。
次走は1週間後のホープフルステークス(D6ハロン)。またしても戦うことになるアップセットや、ボールドルーラーの母母父母に当たる女傑クレオパトラなど、実力馬8頭立てのレースとなった。マンノウォーの焦れ込みが原因で10分ほど発走が遅延したものの、2番手につけて3角からの早仕掛けで先頭を奪うとそのまま突き抜け、3着を4馬身差ちぎったクレオパトラをさらに4馬身差ちぎり捨てる圧勝。クレオパトラも文句なしに強かったが相手が悪すぎた。
2歳シーズン最終戦として陣営が定めたのは、当時の2歳馬最強決定戦ベルモントフューチュリティステークス(D6ハロン)。アップセットとはこれで5戦連続対戦である。各地から集った実力馬10頭が覇を競ったこのレース、2番手先行から3角で先頭に立ったマンノウォーがそのまま押し切り、最後は馬なりで流す余裕すら見せつけ、2馬身差完封で2歳シーズンを締めくくった。

2歳時の成績は10戦9勝2着1回の完全連対。その成績から最優秀2歳牡馬に選出された。
なお、年度代表馬の座は“初代米国三冠馬”*10サーバートンに与えられた模様。

このシーズン終了後、ロフタス騎手とナップ騎手が騎手免許更新を拒否られるという事件が起こっている。どうもサンフォード記念ステークスでのアレに八百長疑惑が出たらしく、「疑わしきは罰して臭いものに蓋や!!」ムーブで両騎手がとばっちりを食らったようだ。賭博禁止法の反動でスキャンダルに敏感だったとはいえ、後世視点ではいささか過剰反応が過ぎる感はある。
ロフタス騎手に至ってはジョッキークラブで責め立てられたことにガチギレし、会員たちの前で自ら騎手免許証を引きちぎり、怒りを撒き散らしながら立ち去ったという真偽不明なエピソードまである。
後に両騎手は米国競馬の騎手殿堂入りを果たしているため、その頃には八百長疑惑は公式に否定されたわけだが、理不尽にキャリアを奪われた両騎手の心境はいかばかりであっただろうか……
この件によりロフタス騎手がステッキを置いたため、鞍上はクラレンス・クマー騎手が担うこととなった。


3歳前半〜強い者は強い(ガチ)〜

明けて1920年。冬季休養をリドル氏の地元ペンシルバニア州で過ごしたマンノウォーは、ここにきて体格がさらに増大、完全な本格化を遂げた。具体的には体高約168cm・最大体重520kg前後の巨体と化した。つまり2歳時に発揮したパフォーマンスはあれで成長途上のリミッター付きだったってことになる。マジで何なのこいつ。
さて、ぶっちゃけちょっと頭おかしいレベルで走り詰めだったこともあって、春先もじっくり休養と調教に充て、マンノウォーの3歳初戦は5月半ばのプリークネスステークス(D9ハロン)と決まった。だが、ケンタッキーダービー*11に出走しないことにファンは大きく失望し、「Riddle's riddle decision(リドルさんの謎決断)」というダジャレも生まれた。
実のところ、どうもリドル氏はケンタッキー州を田舎と見下していたフシがあった。だがそれを抜きにしても、陸上輸送が今ほど発達してない当時としては、陣営の本拠地ニューヨークからケンタッキーまで直線距離1,000kmの道程はかなりキツいものとなる。ネットは電子的に広大だが北米大陸は物理的に広いのだ。リドル氏が遠征に意義を見いだせなくても無理はない。

ともかく、プリークネスステークスである。この時期の当レースは別定重量戦で、馬齢・性別・獲得賞金額・勝利数を加味して負担重量を決めていた。当然、マンノウォーに課された斤量はトップハンデの一角となる約57kg。そして例によって断然の一番人気。今回もアップセットを含む8頭が対戦相手となる。
レース本番ではわずかに出負けしつつもスルスルと加速してハナを奪い、1馬身半後方で粘りつつも最後にパワーダウンしヨレたアップセットを後目に、全頭まとめて完封。3歳シーズン初戦を見事に勝ちで終える。
なお、他陣営が「アカン、勝てん」とわからされたためか、マンノウォーが出走したレースで5頭立て以上となったのはこれが最後となる。
次走として2週間も経たずにウィザーズステークス*12(D8ハロン)に出走。他にデヴィッドハルムとワイルドエアのわずか2頭しかいない3頭立てである。
抑えきれないスペック差と勢いそのままに先頭に立つと、必死に追いすがるワイルドエアをまったく寄せ付けず2馬身差で完勝。ついでにコースレコードを叩き出してのけた。

さらに続けてベルモントステークス(D11ハロン)に出走。定量戦*13であるため「トップハンデ与えても無双されるのに同斤量で勝てるわけないだろ!いいかげんにしろ!!」と実力馬陣営が揃って出走回避し、ケンタッキーダービーで5着入線したドナコナとのマッチレースとなった。
実はドナコナとマンノウォーは2度対戦済みなのだが、サンフォード記念ステークスでは勝馬アップセットから12馬身差の6着、プリークネスステークスではマンノウォーに15馬身半差の5着と、とっくに格付け済みだったりする。わりと本気で何しに出てきた?
まあそんなわけで戦う前からほぼ結果は決まっており、案の定最初からクライマックスまでマンノウォーのワンマンショーと化した。具体的にはテンから終いまで一切ドナコナを寄せ付けず、最終的に20馬身差つけて先頭入線し、ゲームでもようやらん幕切れとなった。
なお、ついでのようにサーバートンのレコードを3秒2もぶっちぎり、2分14秒2という全米レコード(当時)を叩き出した模様。直線向いた後は鞍上クマー騎手にひたすら抑えられてこれである。
ちなみにドナコナの鞍上は直線向く前から勝負を諦めきって追わずに流したため、他に出走馬がいたらもう少し勝負になっていた可能性が高い。代わりに追い出しがかかったマンノウォーがもっとレコードぶっちぎってたりして……
当時の新聞曰く「ダチョウとガチョウにかけっこさせたらこうもなるわな」。

さらに10日後の6月22日、スタイヴァサントハンデキャップ(D8ハロン)に出走。またしても出走回避が相次ぎ、地味に初顔合わせなイエローハンドとのマッチレースとなった。
このイエローハンド、後にハンデキャップ戦線で頭角を現した実力馬なのだが、この時点では無名のチャレンジャー枠。それもあってか、単勝オッズはマンノウォーが1.01倍とかいうちょっとわけわからんことになっていた。実質払い戻しじゃねーか
少しでも彼我の実力差を埋めるため、各々の斤量はマンノウォー約61kg、イエローハンド約46.7kgと、控えめに言ってラリったハンデ差となった。なお、レースは終いまで馬なりで8馬身差圧勝というスーパーマンノウォータイムで終わった。ハンデキャップとはなんぞや。


ドワイヤーステークス〜生涯唯一・全身全霊の逆転劇〜

続いて18日後のドワイヤーステークス(D9ハロン)に出走。このレースはジョンピーグリアとのマッチレースとなった。
ジョンピーグリアの管理調教師はアップセットと同じジェームズ・G・ロウ師*14である。ゆえにロウ師は「私のコリンこそ最強、アップセットに敗れたマンノウォーは絶対強者などではないのだ!」と諦めを全力否定しており、マンノウォーに再び敗北の苦渋を舐めさせるべく、ジョンピーグリアを全身全霊込めてフルチューンし戦いに臨んだ。
此度のレースはこれまでのマッチレース()とは違い、初っ端から2頭がゴリゴリに競り合うマッチレース(ガチ)。激しい競り合いの果て、ラスト1ハロンでジョンピーグリアがマンノウォーを振り払ったかに見えた。マンノウォーがついに再びの敗北を迎えるのか!?

しかし、そうは問屋がおろさない。

クマー騎手渾身の檄に

最初で最後の全力全開

で応えたマンノウォーがジョンピーグリアを瞬時に差し返し1馬身半差ねじ伏せ、全米レコードを叩き出して勝利した。
このレースがきっかけでアケダクト競馬場のラストハロンポールが“マンノウォーポール”と呼ばれるようになったのは有名である。また、ロウ師の執念こそ惜しくも実らなかったが、「マンノウォーにガチの本気を出させた唯一の馬」としてジョンピーグリアは高く評価され、その後もクレオパトラをハンデ差をものともせず一蹴するなど、マンノウォーを除けば世代最強クラスの実力を有することを証明した。


3歳後半〜偉大なる最強の栗毛(ビッグ・レッド)

前走から4週間の休養を挟み、陣営はミラーステークス(D9.5ハロン)を目標と定める。クマー騎手が負傷降板し、代打としてアール・サンド騎手を迎えての出走である。対戦相手はわずかに2頭の3頭立て。そして開催はサラトガ競馬場。フラグかな?
しかし、二度あることは三度あるかもしれないがマンノウォーに二度目はなかった。ベルモントステークス以来となるドナコナが斤量差を武器に必死で追い上げるも、6馬身差にねじ伏せられ撃沈。牙城は小揺るぎもしなかった。
続いて2週間後のトラヴァーズステークス(D10ハロン)に出走。ここでもサンド騎手が続投し、打倒マンノウォーを諦めないロウ師が送り込んできたアップセット&ジョンピーグリアとの3頭立てとなった。
ドワイヤーステークスの雪辱に燃えるジョンピーグリアが早仕掛けを目論むも、3〜4角にかけて失速・撃沈。代わって上がってきたアップセットが必死に追い上げるも、2馬身半の高すぎる壁は破れず。マンノウォーが42年の永きにわたり維持されることとなるコースレコードを叩き出し、さらに連勝を伸ばした。
なお、この時リドル夫人からトロフィーが贈呈されたことを機に、トラヴァーズステークス勝ち馬には“マンノウォーカップ”と呼ばれるティファニー謹製の黄金トロフィーが贈られるようになった。

さらに2週間後、ローレンスリアライゼーションステークス(D13ハロン)に出走。前述の通りグレード制導入以後どんどんと地位を落とし、ついには廃止されたこのレースだが、この時点では3歳戦線指折りの格式を誇るレースであり、賞金額もトップクラスだった。
……のだが、当年のこのレース、まさかのマッチレースである。リドル氏の親戚サラ・ジェフォーズ女史の所有馬フッドウインクが出走することで、単走になることをギリギリ回避したのだ。ちなみにキーン記念ステークスでぶつかった時は堂々の6着最下位、本格化完了前に格付け済みの相手である。勝てるわけがない。
で、何故このようなことになったかといえば……

???「すまない、俺が強すぎて本当にすまない……」

まあ要するにそういうことだ。同世代の最有力馬たちが揃いも揃って蹴散らされ、挙げ句の果てに主人公補正バリバリで出てきたはずのロウ師管理馬でさえ勝てなかった。アップセットに至っては柳の下に泥鰌などいないとばかりにサンドバッグである。ついでに言えばこのレースは定量戦。マンノウォーみたいな絶対一強に有利すぎるのだ。
となれば「勝つことで得られる格式?賞金?栄誉?それは約束された集団いじめられ回避より重要なのか?」とか考えちゃう皆さんが出るのも残念だが当然としか……
そんなわけでだーれも挑戦者が現れず、しまいにはNYタイムスに「お願いだから誰かレースに出て……二桁とは言わない、5〜6頭でいいんだ……伝統あるこのレースの価値を奪わないで……」なんて悲惨な広告が載ったくらいである。なお、この広告を見て名乗りを挙げた馬が1頭だけいたが、直前に出走回避した模様。

こういった経緯でマッチレース()となってしまったわけだが、予想家の皆さんが「マンノウォーがラチを蹴破るか飛び越えるかして遁走しない限り、勝ち目なんてないかなって」と肩をすくめた通り、フッドウインク側に勝てる要素はまったくなかった。何しろ観客たちは儲けるためではなく、観戦記念に賭けたくらいである。単勝1.01倍(キャリア二度目)ってどういうことだよ……
そういう流れもあってか、このレースから復帰したクマー騎手は初手からゴーサインを出すことに決めたらしい。スタートから3ハロンで20馬身、残り3ハロンで30馬身、直線入り口で50馬身。飛ばしに飛ばしたマンノウォーは最後を馬なりで流し気味にしたにもかかわらず、それまでのレコードを6秒も縮めるディスタンスレコードを叩き出し、ついでとばかりに100馬身差というちょっと何言ってるかわかんない大差でレースを終えた。
なお、リドル氏はレース後に「ちょっと?あんま大差つけて勝てなんて指示してないんですけど?」と言ってたりする。

ちなみにこの100馬身差、デイリーレーシングフォーム紙の公式記録集に記載されたものなのだが、実のところこの数値は「大差すぎて何馬身差あるか厳密に測定できんから、とりま100馬身差ってことで」的な、わりとふわっとしたノリで決まったものだったりする。「マイル差あったけど大きすぎたから100馬身差に縮めた」なんてヨタ説が出るくらい。
まあ、あまりにも格下すぎる相手、スタミナの差が馬身差に直結しやすい長距離戦、2頭立てだからフッドウインク側は歩いてても賞金貰える、というかそれ以前に単走回避のためだけの半ば出来レースみたいなもんってことを鑑みれば、それくらいえげつない差が出てもおかしくはない……はず。たぶん、きっと、おそらく、めいびー、ぱーはっぷす、ぷろばぶりー。

さらに1週間後、ジョッキークラブゴールドカップ(当時D12ハロン)に参戦。例によって出走馬が現れず、対戦相手は初顔合わせのルイジアナダービー馬ダマスクのみ。またしてもマッチレースである。そして2戦連続の単勝1.01倍。
今回の彼は前走ほどぶっ飛ばしはしなかったが、それでも着実に差を広げまくり、最終的に15馬身差&コースレコード更新で勝利した。

さらに1週間後、ポトマックハンデキャップ(D8.5ハロン)に出走。名前の通りハンデキャップ戦だけにジャイアントキリング志願者がついに現れ、マンノウォーにとっては久々の4頭立てで開催されることに。なおマンノウォーの斤量は約62.5kg、最大斤量差は約15.2kgと、ちょっとギャグみたいな値となった。これだけやってようやく勝ち目ありと判断されるってのも恐ろしい話
が、ここまでハンデがついても勝ち目程度の可能性しか浮かばないのがマンノウォークォリティ。本当に勝ち目は勝ち目でしかなく、決死の突撃を敢行するワイルドエアを1馬身半という越えられない壁で封じきり、またもコースレコードを叩き出して完勝した。
なお、ワイルドエアは3着以下を15馬身以上ぶっちぎっており、それほどまでにマンノウォーに肉薄してみせた、素晴らしい走りを見せたと称賛された。ある意味死体蹴りになってない?

さすがにこの連戦でマンノウォーもガタつき始めていたが、それでも古馬との最強決定戦を熱望するファンやマスコミに抗しきれず、賞金総額75,000ドルの招待競走ケニルワースパークゴールドカップ(カナダ・オンタリオ州ケニルワースパーク競馬場、D10ハロン)へ参戦。
紆余曲折を経て最終的に4歳最強馬サーバートンとのマッチレースとなったこのレースだが、前走で酷量を負ったのが響いたか脚の腱を痛めており、あらゆる意味で本調子ではなかった(なお、サーバートンも脚を痛めていたそうな)。それでも不調をものともせずに先輩を引き離し、サーバートン鞍上が必死でステッキを振るうのを後目に終始馬なりで駆け抜けると、仮にも前世代最強馬を7馬身差にちぎり捨て、コースレコードを6秒以上更新してのけた。一説によれば、このレースこそ一部始終が映像として記録された初の競馬であるのだとか。
ちなみに生涯100戦50勝とかいうわけわからん記録を叩き出した2世代前の最強騸馬エクスターミネーターについては、「エクスターミネーター陣営が招待されたけど回避した」「エクスターミネーターがマッチレース申し込んだけどマンノウォーが拒否った」という真逆の説があり、どうにもはっきりしない。

前世代最強を一蹴してのけたマンノウォーに対する招待合戦はますますエスカレートし、リドル氏も4歳現役続行に前向きだった。しかし、仮にハンデキャップ戦に出走する場合どの程度の斤量負担になるか問い合わせたところ、約68kgというキチガイじみたものになることが判明。
「いくらまともな戦いにさせるためだからってふざけんな!そんなハンデ負ったら一発で壊れるやろがい!!私のマンノウォーが強すぎてすまんな!!!」とキレたリドル氏、速攻でマンノウォーの引退を発表。3歳時11戦無敗、生涯成績21戦20勝2着1回8レコードの完全連対で現役を退いた。生涯獲得賞金約25万ドル、米国競馬史上初の20万ドルホースでもある。
後にこの年の年度代表馬と最優秀3歳牡馬を獲得。なお、2歳時の節にも記載した年度表彰は非公式なものであり、1936年にデイリーレーシングフォーム紙とターフ&スポーツダイジェストマガジン誌がタイトルを創設した際、往年の名馬を回顧する形で授与したものだったりする。


種牡馬時代

引退後は1921年よりリドル氏の知人がケンタッキー州に構えていたヘイランズスタッドで種牡馬入りし、2年目にリドル氏が同州で開いたファラウェイファームに移動した。
なお、ヘイランズスタッド繋養期にテキサスの石油業者ワゴナー氏から「マンノウォー売ってクレメンス、50万ドルでどうよ?」とオファーがあったが、秒で断られている。ワゴナー氏もめげずに「じゃあ100万ドルで!!」と倍額をちらつかせるも、リドル氏は「私のマンノウォーは売り物じゃないので」とにべもなかった。

さて、リドル氏の「私のマンノウォーは特別なんだ、安売りなんぞ絶対にせんからな」という稚気じみた独占欲もあってか、質的にはともかく量的にしょっぱい牝馬としか交配できなかったマンノウォーだが……

初手から産駒ガチャが大・爆・発。
※念の為書いておくが爆死の方ではない

産駒第一世代となる1925年3歳世代はベルモント・ウィザーズ・ドワイヤーの3ステークスを父子制覇したアメリカンフラッグを筆頭に、CCAオークスを制したフローレンスナイチンゲール、ピムリコオークスを勝ったメイドアットアームズなどが活躍。最強馬は種も最強だったと話題になった。
なもんで彼らが暴れた翌年の1926年からは種付けオファーも大爆発。さしものリドル氏も制限緩和を公言せざるを得ず、年間交配数を25頭と定めた。それでも伝説級名馬としては少なすぎるが、種付け当選倍率は2倍以上で当たり前というからとんでもない。
なお、当の1926年3歳世代は、クルセイダーを筆頭に産駒が大レースをかっさらっていき、リーディングサイアーに輝くと同時に産駒年間獲得賞金額をレキシントン以来60年ぶりに更新した。

その後は親父のフェアプレイやフランスからやって来たスーパー種牡馬サーギャラハッドらに阻まれ、リーディングサイアー戴冠こそなかったが、北米種牡馬ランキング上位層常連として活躍を続け、マッチェム系存続に多大な貢献を残している。1937年クラシック世代で史上4頭目の米国三冠馬ウォーアドミラル、41年クラシック世代では後継種牡馬ウォーレリックが名を挙げるなど、年経ても種牡馬として衰えなかった。
ウォーアドミラルの父系は途絶えてしまったが、ウォーレリックがレリックとインテントの2頭を後継としラインを伸ばすと、インテント→インリアリティ→リローンチ&ノウンファクトとサイアーラインを維持し、ゴドルフィンアラビアン直系を21世紀まで送り届けた。現在はリローンチ直系のティズナウ*15がちょくちょく大物を出してマンノウォー直系を維持しており、ウルトラチート種牡馬トリオ*16の末裔がヒャッハーする北米で小さくとも勢力を築いている。
また、牝系に合流した血は凄まじい勢いで北米サラブレッドの血統図に浸透しており、エクリプス賞受賞馬に絞っても1995年以降はマンノウォーの血を引かないチャンピオン不在というとんでもないことになってたりする。それ以前を含めても、例えばケルソ、バックパサー、ミスタープロスペクター、シアトルスルー、アファームド、アリダー、サンデーサイレンス、シガー、カーリン、ゼニヤッタ。北米が世界に誇るやべーやつらはあらかたマンノウォーの因子を受け継いでいるのだ。
余談だが、ノーザンダンサーやセクレタリアト、スペクタキュラービッドにはフェアプレイの血は入っててもマンノウォーは入ってなかったりする。

日本では母アルザダ(血統名:星友)が受胎した状態で輸入され、誕生した月友がマンノウォー系を播種。父系こそ絶えたものの、牝系は今なお孫娘のスターロツチを経て多くの活躍馬を残し、主に在来血統牝馬の中に確かな足跡を残している。
なお、日本で存命のマンノウォー直系牡馬としてはカルストンライトオとサニングデールがいるが、前者は地方競馬でこそ勝利産駒を出しているが中央ではお察し、後者はそれに加えて2021年10月に種牡馬を引退しているため、日本でマンノウォー直系が復活するには北米から引っ張らなければちと厳しいか。

種牡馬として総括すると、実働22年で合計379頭(386頭とも)の産駒数に対して産駒合計1286勝・ステークスウィナー率16.9%は極めて高水準に達していると言える。産駒の年平均生産数16頭でこれはとんでもない数値。大々的に播種してたら、とてつもなくえげつない無双ぶりを発揮していたのでは?
なお英語圏においては「彼の種牡馬成績は種付け頭数の少なさを抜きにしてもとんでもない」「たった64頭しかステークスウィナー出せなかったとかアホなの?あの種付け頭数で64頭も出してることの凄さがわからんとか正気?」と言われている。
ブルードメアサイアーとしてもステークスウィナー128頭(164頭とも)を輩出。これまた超高水準なのだが、同時期にサーギャラハッドとかいう種牡馬どころかブルードメアサイアーとしてもクッソやべーのがいたせいで、ブルードメアサイアーランキングこそコンスタントに最上位をキープしていたが戴冠はできなかった。


晩年

種牡馬入り後もマンノウォーのもとには多くのファンが詰めかけ、ファラウェイファームはケンタッキー州でも指折りの観光スポットとして知られるようになる。何しろマンノウォー繋養中の通算訪問者数は、一冊によると300万人以上、少なくとも150万人を下らなかったそうだ。
また、マンノウォーの馬屋から比較的近いところに米陸軍第1騎兵師団の基地があったのだが、例によってこの師団内にもマンノウォーファンがたっぷり控えており、師団は彼に名誉大佐の称号を贈ることで尊敬と親愛を示した。
なお彼の愛称であり、後に栗毛の70年代最強馬に受け継がれることとなるビッグ・レッド(偉大なる栗毛)だが、元々は単に赤いの(Red)とだけ呼ばれていたのが、本格化を迎えて筋肉ムキムキ全身ガチムチの巨体と化したのを機に「でかくて赤いの」と呼ばれだしたもの。

1943年まで種牡馬として実働した後、心機能と受胎率の低下から引退。その後もファラウェイファームで余生を送っていたが、1947年秋頃に体調が悪化。11月1日の正午過ぎに限界を迎えた心臓が悲鳴を上げ、心臓発作により30歳で馬生に幕を下ろした。長年担当厩務員として生涯を共にしたウィル・ハーバット氏(彼もまた心臓発作でこの世を去った)の後追いのような最後だったという。
彼の遺体は競走馬史上初となる防腐処理を施され、終の棲家に埋葬され、墓碑横に等身大の銅像が建てられた。軍隊形式で執り行われた葬儀には2,000人以上が参列し、少なくとも500人を超える群衆が詰めかけ、その死を悼んだ。当時86歳のリドル氏は葬儀に参列できない代わりにと白と黄色のカーネーションの花束を贈り、これは遺体とともに埋葬された。
葬儀の模様は全米にラジオ中継され、さらに全ての競馬場で同時刻に黙祷が捧げられた。第1騎兵師団員は任地がどこであっても黒い喪章を着けて偉大な師団名誉大佐の死を悼み、彼の死からしばらくは東京でも喪章を着けた米兵が見られたとか。
その後墓碑の老朽化を受けて1977年に銅像ともどもケンタッキーホースパークに改葬され、以後同地を訪れる人々を出迎えている。

死後10年が経った1957年に競馬の殿堂入りを果たし、2年後に彼の名を冠するマンノウォーハンデキャップ*17が創設されている。また、1999年にブラッドホース誌が企画した「20世紀アメリカの名馬100選」で堂々の第1位に選ばれた。
かくて米国の誇るビッグ・レッドは血統の基礎に遍在し、名馬の地盤としてこれからも生き続けるのである。


余談

言葉を尽くしても評価するには難しいので、当時の関係者たちの発言を記載してこれに代える。

  • 馬主・リドル氏
「100万ドルを手に入れた人間はこの世にいくらでもいるが、マンノウォーを手に入れたのは私だけだ」

  • 管理調教師・フューステル師
「彼はまるで夢の中から出てきたような馬だった」

  • 担当厩務員・ハーバット氏
「私はあいつが負けたサンフォード記念ステークスを見てません。だからあれはきっと作り話です」

  • アール・サンド騎手(クマー騎手負傷中のマンノウォー鞍上)
「まるで暴走機関車に乗ってるみたいだった。私の乗った馬では間違いなく彼が最高」

  • ウィリー・ナップ騎手(サンフォード記念ステークスでのアップセット鞍上)
「マンノウォーは無敗のまま引退すべきだったかもしれない。そこは時々申し訳なくなります」

  • 打倒マンノウォーに執念を燃やしたジェームズ・G・ロウ師
「私は47年競馬を見てきたが、その中で特に凄かったのはサイソンビー、コリン、マンノウォーだ」

  • ジョー・パーマー氏(ブラッドホース誌編集長)
「彼は馬というよりも、命を持った炎のような存在でした」

  • ジョン・ハーヴェイ氏(伝説的競馬記者)
「人は彼に馬ではない別のものを見たが、しかし見終えたあとに残るのは不思議な高揚感だけだった」




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最終更新:2022年05月31日 08:37

*1 偉大なるサラブレッド三大始祖が一角・ゴドルフィンアラビアンを祖とする、その直系子孫マッチェムのサイアーライン。本来ならゴドルフィンアラビアン系と呼んで然るべきなのだが、現存するゴドルフィンアラビアン父系はすべてマッチェム直系なのでこう呼ばれる

*2 1867年度エプソムダービー馬にして7回英リーディングサイアーに輝いた大種牡馬。馬主のヘンリー・チャップリン氏はかつて結婚式当日に婚約者をヘイスティングズ侯爵に寝取られ大恥をかかされており、その関係もあって侯爵は「ハーミットが勝てるわけないだろwwww負ける方に全財産賭けたるわwwww」と挑発。この強気すぎる言動はダービー前週にハーミットの鼻出血発症を知ったことも理由だが、案の定フラグが乱立した結果陣営は無事ダービーを制覇。なお侯爵は債務と自分のやらかしに最後まで苦しみ自殺、しかもチャップリン氏に生前「自分の分の債務は猶予長めに待つから」と善意からの死体蹴りをぶちかまされていた模様

*3 1875年度エプソムダービー馬にして、英リーディングサイアー3回、リーディングブルードメアサイアーとしても3回戴冠した大種牡馬。19世紀最大最強種牡馬セントサイモンの親父様としても有名。なお、セントサイモンともども無双しすぎて血の飽和と袋小路化を引き起こし、「セントサイモンの悲劇」が炸裂して英国内のガロピン-セントサイモン父系は一時滅亡した。ちなみにセントサイモン以外だと、ガリアードからラヴァンダンを経由した系統が東欧に持ち込まれ、21世紀初頭までかろうじて父系を維持していた模様

*4 2005年に廃止されたレース。廃止時点でのレース名はローレンスリアライゼーションハンデキャップ。創設当初はダート13ハロンのロングディスタンス相当で、ウィザーズステークスとベルモントステークスに続くクラシック戦線最終戦として、長らく米国三冠に次ぐ競争として位置づけられていた。が、次第に価値を減じグレードも徐々に格下げされ、1970年以降は芝12ハロンに変更し、最終的に廃止された

*5 カルヴァン派で非英国国教会系のプロテスタント。イギリスで主流の国教会は制度や宗教儀礼面はカトリック寄りで、清教徒はカトリック色を一掃する事を求めていた改革派にして強硬派であった

*6 ちなみに彼の父であるオーガスト・ベルモント1世も、ロスチャイルドグループのエージェントとして渡米し即座に成功を収め、ロスチャイルド北米部門の総元締めを担うなど、財界屈指のリアルチートだったりする。2代揃って熱心な競馬ファンであり、ベルモントステークスの元ネタはオーガスト1世だし、アメリカに競馬統括組織としての初代ジョッキークラブを創設した2人の片割れも彼だし、そもそもオーガスト2世がオーナーブリーダーやってるのも父からノリノリで相続したからである

*7 同時に所有馬保護のため、フランスに持っていた牧場に主力種牡馬を一時移転しており、この時期の生産馬からもしっかりGⅠ馬を輩出している

*8 元女優のエレノア・ロブソン。幼馴染でもあった前妻のエリザベス・ハミルトン・モーガンとは1898年に死別しており、彼女は後妻である

*9 なお、夫人も赤十字の活動支援として米国陸軍キャンプに参加しており、馬主業代行はもとよりほぼ不可能な状況だった。オーガスト2世が指示しなくても結局そうなったであろうことは想像に難くない

*10 当時はまだ米国クラシック三冠の概念が明確に存在しておらず、ケンタッキーダービー・プリークネスステークス・ベルモントステークスを指して米国三冠と呼ぶことはなかった。そのためサーバートンが初代三冠馬と呼ばれるのも後付である。なお、三冠に相当する当時の権威的なレースを挙げるならば、ウィザーズステークス・ベルモントステークス・ローレンスリアライゼーションステークスとなる。ちなみにマンノウォーはこの「旧三冠」の方であれば条件を満たしている

*11 当時既に3歳戦線の一角を占める大レースだったとはいえ、前述の通り米国三冠というシリーズは存在さえしてなかったことに留意する必要がある。米国競馬にグレード制すらなかった時代で、ケンタッキーダービーはあくまでも単なる大レースでしかなかったのだ

*12 現在は時期変更されケンタッキーダービーのプレップレースとなっているが、米国競馬においても特に歴史のあるレースで、マンノウォー世代の頃は3歳牡馬路線でもトップクラスの重要度と格を持っていた。レースグレードはグレード制導入時点でGⅡ、2000年以降はGⅢ

*13 それまでの成績による重量加算がなく、性別や年齢のみで斤量を算定する競走。当然だが鞍上の技量と馬のスペック、そして折り合いで全てが決まるため、一強のやべーのが実力をダイレクトに発揮するとその時点で全てが終わる。ハンデキャップ競走や別定重量戦が多い北米競馬では、定量戦に出ないのもひとつの戦略である

*14 かつて15戦無敗を誇った歴史的名馬コリンを手がけ、ベルモントステークスを管理馬で生涯8回制したベルモントキラー。数々の活躍馬を世に送り出した功績を讃え、競馬の殿堂に初年度選出された

*15 全身が闘志とド根性でできてるとさえ評された不撓不屈のBCクラシック覇者。2022年時点で唯一同レース連覇記録を有する、とんでもなくやべーやつである。2020年種牡馬引退

*16 米国競馬の主流三大血統始祖ことストームキャット、エーピーインディ、ミスタープロスペクターのこと。ミスプロ後継筆頭・ゴーンウェストに母父としてセクレタリアトが合流しているため、これら三大血統すべての父系牝祖にセクレタリアトがいることになる。そんなとこまでマンノウォーの真似しなくても……

*17 現在のマンノウォーステークス。格付けはGⅠ、施行距離は芝11ハロン。ワシントンDCインターナショナルやBCターフの前哨戦として有名で、アメリカでも数少ない格の高い芝レースのため欧州からの遠征馬もわりと出る