登録日:2023/09/20 Wed 02:27:58
更新日:2025/05/06 Tue 11:46:29
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翔馬
自他ともに認める、中距離の王者。
2000Mで彼を前に行かせたら、必ずマークしなければならぬ。
その実力が、ジャパンカップで大きく花開いた。
外国馬たちを蹴散らした、府中2400M、逃げっ切りのひとり旅。
そのうしろ姿に、ぼくたちは、天翔けるサラブレッドの夢を見た。
カツラギエースとは
日本の元
競走馬。
目次
【データ】
生誕:1980年04月24日
死没:2000年07月03日
享年:21歳
父:ポイズィーボーイ
母:タニノベンチア
母の父:ヴェンチア
生国:日本
生産者:片山専太郎
馬主:野出長一→野出一三
調教師:土門一美 (栗東)
主戦騎手:西浦勝一
生涯戦績:22戦10勝[10-4-1-7]
獲得賞金:4億1068万3400円
主な勝鞍:84'宝塚記念(GⅠ)、84'ジャパンカップ(GⅠ)、84'サンケイ大阪杯(GⅡ)、84'毎日王冠(GⅡ)、84'京阪杯(GⅡ)、83'NHK杯(重賞)、83'京都新聞杯(重賞)
受賞歴:84'JRA賞最優秀5歳以上牡馬
【誕生】
1980年4月24日生まれの黒鹿毛の牡馬。
父のポイズィーボーイは
イギリス生まれ。戦績もまずまずでオーストラリアで種牡馬入りしたのち、日本に輸入された。
当時日本国内を席巻していたテスコボーイと同じプリンスリーギフト系の種牡馬であったが産駒も特筆すべきものはおらず、また来日後は2世代を送り出して死去したためあまり産駒が残されておらず、その数少ない産駒も目立った活躍を残せていなかった。
また生産牧場も家族経営の小さな牧場ということもあり、まさしく超零細血統での生い立ちとなった。
【戦歴】
栗東の土門一美厩舎に入厩したが、馬体もあまり見栄えの良いものではなく、また調教での動きも良くなかったことから期待はかなり薄めだったが、阪神競馬場の芝1200mでのデビュー戦で7番人気ながら2着に8馬身もの圧勝劇を見せる。
その後の条件戦でも全て複勝圏内に入るなど好走を見せ、年内を4戦2勝で終え、目標をクラシック三冠に据える。
1983年の初戦でまさかのシンガリ負けを喫してしまったが、次走の条件戦を制し、皐月賞に駒を進める。
しかし、そこには強大な存在がいた。
ミスターシービーである。
父はエースと同じプリンスリーギフト系ながら国内を席巻した「お助けボーイ」にして「天馬」トウショウボーイ。
ここまで5戦4勝2着1回、爆発的な末脚で勝ち進んでおり、当日も2.4倍の1番人気。
しかし当日は
大雨で、馬場状態はもはや田んぼレベルの極悪不良馬場。追い込み馬には不利と、シービーにとって逆風となる環境であった。
そんな中でカツラギエースは7番人気。
レースでは果敢に先行策をつけるものの、この極悪馬場を苦手としたのか脚を取られてしまい、そんな環境をものともせず追い込みをかけたミスターシービーの11着。
ダービーに狙いを定め、府中の環境に慣らすべくNHK杯へ挑み、大外の枠ながらも外から差し切り重賞初制覇。重賞ウィナーの称号を引っ提げダービーに挑むも、またしてもミスターシービーの前に屈し6着。
その後休養前に1戦出走するも、のちに「マイルの皇帝」の名を冠することになる
ニホンピロウイナーの2着。
ひと夏越えて秋になると本格化が来たのか、緒戦となる神戸新聞杯ではスズカコバンの僅差2着だったが、次走の京都新聞杯では逃げるリードホーユーを
6馬身千切って1着、しかもコンディション不良だったとはいえミスターシービーが4着に敗れていた。なお、リードホーユーは年末の有馬記念優勝馬である。
そんな成長が期待に変わったのか、菊花賞ではミスターシービーに次ぐ2番人気であったが、3000mは距離が長すぎたのか最終直線で力尽き、21頭立ての20着と惨敗。「淀の坂」から大捲りをかけるシービーの三冠達成を後方から眺めるポジションに甘んじることとなった。
なおクラシック三冠ではミスターシービーの
ライバルはカツラギエース……ではなくメジロモンスニー。
3歳時にカツラギエースを破っており、また皐月賞・ダービーともに2着と強さを見せていたが、神戸新聞杯直後に骨折、菊花賞を断念せざるを得なくなってしまっている。
菊花賞後は年内を休養に充て、年明けはこの年から距離が2000mに短縮された天皇賞(秋)を大目標に据える。
初戦の鳴尾記念は4着であったがこれは叩きのレース。続くサンケイ大阪杯では快勝、さらに58.5kgの斤量を背負った京阪杯も連勝し、宝塚記念に挑戦。
ここまでの中距離重賞の連勝が評価され1.9倍の支持を集めると、その支持に応えて完勝しついにG1制覇を達成したのであった。
その後高松宮杯に出走したが道中の不利もあって5着。
秋の初戦は毎日王冠。菊花賞以来休養していたミスターシービー久々の出走ということや、南関東
三冠馬サンオーイの出走もあり3強の様相となる。
最終直線では
逃げるカツラギエースが追い込むミスターシービーをアタマ差下し、天皇賞(秋)へ弾みをつけたが、本番の天皇賞(秋)では折り合いを欠いてしまい、追い込みをかけたミスターシービーの5着。
さらに不名誉なことに、この敗戦から
「前哨戦では強いが本番では負ける」「宝塚記念もシービーがいなかったから勝てた」と揶揄されるようになってしまった。
毎日王冠の4日前には、母のタニノベンチャを繁殖馬として買ってきた牧場主の片山専太郎が79歳で亡くなっている。
その後、マイルチャンピオンシップを予定していたがジャパンカップを選択。
このジャパンカップは、とある話題で持ち切りだった。
この年の「無敗」三冠馬・シンボリルドルフが出走するというのである。
さらに前年の三冠馬ミスターシービーも出走するということもあり、かつこれまでのジャパンカップでは日本勢が勝てていないことも加わり、
「新旧三冠馬、どちらが日本勢初のジャパンカップ制覇を成し遂げるか」に注目が集まっており、カツラギエースは完全に話題の外に追いやられてしまった。
当日の人気も10番人気と期待はほとんどされていなかった。
しかし、カツラギエース陣営には秘策があった。
「大逃げ」である。
西浦騎手と原園講二厩務員は土門調教師に噓をついたまま、分厚めの皮を入れたメンコを被せ外界の音を遮断し、手綱の長さも30cm伸ばしてリラックスさせた状態で、エースの気のゆくままに走らせる戦術を選択した。
向こう正面では後続に10馬身近く引き離しての大逃げを展開したが、1000mのタイムは61秒6というスローペース。
ルドルフは中段に、シービーは最後方待機の策を取ったが、この策を逆に利用し脚を貯めると、最終直線では追う後続を驚異の粘りで下し、日本馬初のジャパンカップ制覇を成し遂げたのであった。
ルドルフ頑張れ!!!カツラギエースが頑張った!カツラギエースが粘る!!
カツラギエースを追ってルドルフ!ベッドタイム!カツラギ来る! 外からマジェスティーズ!
しかしシービー・ルドルフの2強を期待した観衆はどよめき、ゴール後のスタンドは静まり返っていたという。西浦騎手も「勝ってしまったという感じでしたから、不安というか、困惑というか」とコメント。
とはいえ西浦騎手のインタビュー第一声は競馬界の名言「してやったり」。土門調教師は秘策を聞かされていなかったことなど咎めることもなく、3人に「ありがとう」と告げた。
この勝利で「世界の西浦・世界のニシウラ」の異名がつくこととなった。
そんなカツラギエースの大逃げを目の当たりにしたとある1人の観客の人生が大きく変わることになる。
名は
佐藤哲三。
このレースを見て騎手を志し競馬学校に入学。このジャパンカップから19年後、
タップダンスシチーに跨り、あの日のカツラギエースと同じ逃げで史上最大着差となる
9馬身差をつけてジャパンカップを制することになる。
それ以外にも、種牡馬生活中に見学に訪れた見学客の中に2人、あのジャパンカップに勇気づけられ自殺を思い留まった人がいたという。
その後有馬記念を引退レースにすることが告知され、またシンボリルドルフにミスターシービーも出走することもあってか世間の注目を大きく集め、この3頭が単枠指定された。
このレースでもジャパンカップと同じ大逃げを打ったものの、もう負けられないシンボリルドルフの猛烈なマークを受けて2着だったが、ミスターシービーは3着と先着し、対戦戦績を4勝4敗と五分に戻した。
これをもって「三冠馬キラー」と呼ばれることもある。
【引退後】
引退後はレックススタッドで種牡馬入り。
馬産地からの期待を集めたがクラシックを狙える大物は現れず、中央重賞勝利を挙げたのも1頭に留まった。その唯一の勝ち馬ヤマニンマーリンはオークスで競走中止・予後不良となってしまった。
地方競馬やダートで活躍馬を送り出し、アポロピンクが東京ダービーを、ヒカリカツオーヒがエンプレス杯連覇という内容だ。
2000年7月3日に心臓発作を起こし、死去。享年21歳。
カツラギエースの墓石にはこう刻まれている。
あの"ジャパンカップ"を想い出します
"ジャパンカップ"の感動を!!
もう一度、君とミスターシービーの対決を!!
【創作作品での登場】
その痛快な勝利のイメージからなのか、気風の良い爽やかな熱血少年……もとい少女。
しがない田舎の生まれという点が強調されており、対照的にカリスマ性抜群なミスターシービーに憧れると同時に超えるべき目標として強く意識している。
ミスターシービーがアプリ以前から存在している割に出番が無く、カツラギエースを筆頭としたライバル不在(同世代なしでシンボリルドルフ程度)がその一因として挙げられることも多かったが、アプリ2周年でカツラギエースが発表&ミスターシービーが育成実装という形になった。
追記・修正は、強豪相手に逃げ切れる方がお願いします。
- 人気薄の時ほど逃げは決めやすいものだし、同期にシービーという稀代の追い込み馬がいたのも幸運だったろうけど、それでも当時の日本馬初のジャパンカップ制覇は立派な勲章 -- 名無しさん (2023-09-20 18:40:56)
- カツラギレンエース ボクハヤヒデ -- 名無しさん (2023-11-29 00:32:21)
- 「西浦騎手と原園講二厩務員は土門調教師に噓をついたまま」この説明だけだと何の理由でどういう嘘をついたのかさっぱり分からないよ -- 名無しさん (2024-11-29 10:54:53)
最終更新:2025年05月06日 11:46