ヒシアケボノ(競走馬)

登録日:2024/01/21 Sun 14:43:28
更新日:2025/04/29 Tue 07:40:35
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電撃界の巨漢横綱

週刊100名馬No.60 ヒシアケボノ 表紙より

ヒシアケボノ(Hishi Akebono)は日本の元競走馬サンデーサイレンスの初年度産駒世代でもある95年クラシック世代で唯一無二の巨体とスピードを誇った。

メディアミックス作品『ウマ娘 プリティーダービー』にも登場しているが、そちらでの扱いは当該項目参照。
ヒシアケボノ(ウマ娘 プリティーダービー)

+ 目次

【データ】

誕生:1992年2月27日
死亡:2008年11月19日
享年:16歳
父:Woodman
母:Mysteries
母父:Seattle Slew
調教師:佐山優(栗東)
主戦騎手:角田晃一
馬主:阿部雅一郎
生産者:Swattenham Stud.et.al
産地:アメリカ合衆国
セリ取引価格:5万2000ドル
獲得賞金:3億2426万2000円
通算成績:30戦6勝[6-1-6-17] 内訳(中央競馬)29戦6勝(地方競馬)1戦0勝
主な勝鞍:1995年GIスプリンターズS、95年GⅡスワンS
タイトル:1995年JRA賞最優秀短距離馬

【誕生】

1992年2月27日にアメリカのスウェッテナム・スタッドで生産された。当牧場は現代競馬に大系統を築き上げたサドラーズウェルズやGⅠ勝ち馬でブラックタイド・ディープインパクト兄弟らを出産したウインドインハーヘアの生産地として世界的に有名である。

本馬の父ウッドマンは世界的種牡馬ミスタープロスペクター産駒。競走馬時代にGⅢ2勝、種牡馬として米国二冠馬ハンセルやエクリプスSなどGⅠ3勝ホークウイングなどを輩出、産駒の重賞勝利数は100を超えた。
ベルモントS(ダート2400m)を制したハンセルは例外だが、産駒は早熟傾向の短距離~マイル活躍馬が目立つ。日本に輸入された産駒では芦毛の怪物ことスピードワールド*1が知られる。
ミステリーズは4戦未勝利、GⅢ3着がある。玄孫に2016年BCマイル優勝馬Touristがいる。この牝系には2009年ローズS1着秋華賞2着ブロードストリートがいる。
母の父は1977年に史上初の無敗でのアメリカ三冠を達成したシアトルスルー。種牡馬としてエーピーインディら多数の活躍馬を輩出した。
本馬の半弟に英仏直線GⅠを制した1998年クラシック世代のアグネスワールドがいる。
甥には2003年クイーンアンS勝ち馬Dubai Destination*2やマイルGⅠ2勝Librettist がいる*3

本馬は1992年11月、ケンタッキー州キーンランドで行われた繁殖牝馬、当歳馬のミックスセールに出された。そこで、1989年からアメリカの競り市に参加し、多くのマル外活躍馬を所有した阿部雅一郎の目にとまった。すぐに落札され、購買価格は5万2000ドルだった*4
幼駒だったがすでに骨格がガッシリして幅のある馬体だったため、横綱の曙太郎*5がすぐに連想されたという。ケンタッキー州のテーラーメイドファームに2歳秋まで過ごし、その後3歳3月までカリフォルニア州のフラッグイザップファームにて育成された。
日本に移ると門別の白井牧場でトレーニングを積み、馬体重は500キロを超えるまで成長したのだった。

阿部雅一郎

阿部雅一郎オーナーがアメリカでの競り市にこだわるのには大きな理由があった。父・雅信は所有馬の血を引く馬にこだわり続け、息子の雅一郎の代には数多くの所有馬と経済的圧迫をかかえていた。決定打となったのは1976年のマルゼンスキーの朝日杯3歳S。期待馬ヒシスピードが2.2秒差つけられる惨敗を契機に閉鎖的で限界のある日本競馬市場から競り市で自由に、スピードのある馬が手に入れられるアメリカ競馬市場を求めるようになったのだ。
そこで全ての所有馬を売却し、セリで手に入れた二代目「ヒシマサル」*6がJRA重賞初制覇を成し遂げると意欲的になった。


【競走馬時代】

1994年

佐山優厩舎に入り、坂路調教を受けるとその巨体がホースマンたちの間ですぐに話題となった。
前年にはヒシアマゾンがGⅠ阪神3歳牝馬Sをレコード勝ちしていた。ヒシアケボノは馬体重552kgで11月5日の新馬戦に出走、鞍上は田中勝春、2番人気だったが同じマル外・コクトジュリアンの4着に敗れる。コクトジュリアンはこの後GⅠ朝日杯で3着・GⅢクリスタルCで重賞制覇し7歳まで短距離界の名バイプレーヤーとして活躍する。
同30日の新馬戦は前走2着でマル外・タイキクレセントの2着だった。

1995年前期

田中勝春で2戦するが3着・4着に敗れ、武豊に代わっても5着だった。巨漢馬にありがちな腰の甘さとスタート下手が課題だった。またウッドマン産駒だからダート使いしていたことも苦戦として挙げられよう。
転機となったのは7月8日芝1200m未勝利戦、ベテランの河内洋が騎乗すると2着に2.2秒差つける大差勝ち。ここから小倉1200m戦3連勝しオープン入り、遅れてきた大物として見られるようになった。
付け加えると当時はGⅠNHKマイルC・GⅢ葵ステークスはなかった。

1995年後期

9月10日のGⅢ京王杯オータムハンデキャップに出走、2番人気だった。
これは調教で栗東トレーニングセンターの坂路創設以来、最も速い49.4秒という破格の数字*7をたたき出していたからである。佐山師は「まだ余力十分」とコメントし注目が高まった。
ドージマムテキの3着だったが皐月賞1着・ダービー2着のジェニュインにハナ差と好走していた。
大井競馬場の東京盃に1番人気で出走もダートはまったく不得意なようで6着。
続いて京都競馬場のGⅡスワンSに出走、4番人気を覆すパワフルな走りで2着に4馬身差つける圧勝だった。ケイエスミラクルのレコードを0.8秒上回る1:19.8と文句なしであった。この勝利から角田晃一が主戦騎手となる。
角田騎手が「前はスピードの違いで逃げていただけ。性格が素直だから折り合いもつくし、ゲートが開いて作戦を考えながら乗れる余裕がある。それにしても見るたび、乗るたびに大きくなっている。それで脚元がなんともないんだから凄いよね。次のマイルCSは距離がちょっと微妙だけど、今からスプリンターズSは自信があります」と豪語するように自信満々でGⅠの大舞台へと進んでいく。
GⅠマイルCSに2番人気で出走、1番人気は武豊を迎えたビコーペガサス。かつて京成杯でヒシアマゾンを破った実力馬である。
レースは浦和から来た名マイラーのトロットサンダー、伏兵メイショウテゾロに差し切られ3着、しかし1番人気ビコーペガサスに先着し先行馬唯一の前残りであったことは評価できた。

第29回 スプリンターズステークス(GⅠ)

12月開催だったGⅠスプリンターズSに1番人気で出走、海外GⅠ馬So Factualやかつて先着を許したコクトジュリアン・メイショウテゾロ、前走1番人気ビコーペガサスらと対戦することとなった。
レースでは出遅れてしまい角田が慌てて手綱をしごくが、短距離先行馬としては痛恨の後方競馬に。ニホンピロスタディが警戒に逃げる中、巨体からパワーが溢れ出て4コーナーを曲がり切れなさそうだったが一気に5番手へと加速、海外の刺客らを弾き飛ばしていく。

「ヒシアケボノ!ビコーペガサス!インコース、ソーファクチュアル! 僅かに抜けた!ヒシアケボノ!
ヒシアケボノ1着!そして2着にビコーペガサス! ドバイからの刺客、ソーファクチュアルは3着!
勝ちタイムは、1分8秒1! 上がり3ハロン35秒2!しかしこのレース、審議の青ランプが灯っています!
先頭でゴール板を駆け抜けたのはヒシアケボノ! 」
(フジテレビ・三宅正治アナウンサー)
ビコーペガサスに1・1/4馬身差つける快勝、上りは34.7の最速と文句無しで短距離界の横綱となった。佐山優厩舎は開業11年目でGⅠ初制覇だった。このときの馬体重560kgは2024年1月現在、JRA史上最高馬体重でのGI勝利である*8。直線でビコーペガサスと並ぶとかぶさって見えなくなるほど体格差があったがこのレースの最低体重馬は418kgのコクトジュリアンだった。
芝1200m5戦全勝で3歳シーズンを終え、1995年の最優秀短距離馬に輝いた。

1996年

4月のシルクロードSを1番人気で出走したが同期の内国産牝馬フラワーパークの3着に敗れ、新たに設立されたGⅠ高松宮杯(芝1200m)に1番人気で出走、三冠馬ナリタブライアンに先着こそしたが再度フラワーパーク(とビコーペガサス)にちぎられて3着だった。
安田記念に出走したが陰りが見え始めたこと、距離がやや長いとみられ12番人気に。同じ勝負服のヒシアマゾンをはじめGⅠ馬8頭が揃う豪華レースとなった。
角田騎手はスタートダッシュを信じて「遅くもないし、速くもない。ちょうどいい感じ」の逃げを打つ。先行馬を翻弄しながら府中の直線で再加速すると粘りこみを図ったがトロットサンダーとタイキブリザードに差し切られ僅差3着に敗れた。しかしフラワーパーク・ヒシアマゾンらGⅠ馬6頭に先着し距離の克服を見せたのは大きかった。
しかしこの激走がヒシアケボノにとって最後の輝きだった
秋初戦スワンSはスギノハヤカゼにレコード勝ちされた上の11着、まぁ前走からプラス30kgの580kgだったのが痛かったのかもしれない。
マイルCSでは生涯最高体重582kgで出走も安田記念で抑え込んだジェニュインの15着。曙太郎が233kgなので2.5人分である。
スプリンターズSはフラワーパークとエイシンワシントンのマッチレースを眺める5着・・・完全に早熟馬だったのだ。

1997年

10戦して未勝利だった。勝利を求めてOP戦に出るもハンデ60超えが応え5着が限界。シルクロードSでは生涯最低15着のブービー負けをし、秋競馬は同じくマル外で体格のいいタイキシャトルに蹂躙された。
角田晃一との最後のレースとなったCBC賞ではゲートを突き破って暴走、ヒシ軍団の目立つメンコを装着しており、このころにはもう集中力が切れていたのかもしれない。スタートをやり直し7着だった。
マイルCSも先行はしたものの前半5ハロン56秒5という淀の坂ガン無視レベルの超ハイペースに巻き込まれ横山典弘タイキシャトルのはるか後方の14着に大敗。
最後の出走となったスプリンターズSは、角田が同じ日に阪神牝馬特別でビワハイジに騎乗することを選んだためヒシアマゾンの主戦だった中舘英二に委ねられたが、結果はタイキシャトルから1.6秒差の9着だった。

通算30戦6勝、ウッドマン産駒の宿命・早熟に勝つことはできなかった。晩年はやや詰めたローテを悲しむ人がいるが、休養すれば大幅に馬体重が増えてしまう問題を解決するための決断だった。
また大型馬にありがちな脚部不安は彼には一切なく3歳シーズンに12戦しているようにタフだった。筋肉ゴツゴツで健康な彼の馬体には何の問題もなかったのだ。そのせいでコーナーでしょっちゅう膨れたりしているけど。
短距離界で何度もしのぎを削ったビコーペガサスとは体格差が凄いため凸凹コンビと呼ばれた。成績はヒシアケボノが10戦4先着と負けている。なお1つ年上のビコーペガサスは7歳まで走っていた。

【引退後】

引退して2年後の1999年には650kg(+84)と益々でかくなっていた。
JBBAの胆振種馬場にて種牡馬入り。丈夫な馬体、血統のわりに40万円という安価な種付け料から初年度は70頭を超える牝馬を集めたが巨体ばかりが引き継がれ競走能力が伴わなかったことから年々人気を落とした。
牡馬代表はデイリー杯2歳S6着が最高のセトノアケボノ、活躍は牝馬に目立ち最多獲得賞金は最大534kgのヒシアスカの9498万円。140頭近い産駒を残したがオープン入りした産駒は0、繫殖入りした4頭から産駒は6頭しか出ておらず母の父としても活躍が危惧されていた。
晩年に千葉の下総種馬場に移動、種付け数が激減する中下総種馬場が閉鎖、東大農学部附属牧場に移動して種牡馬を続けていたが、東大農学部で生産された産駒はデビューできずに終わった。
ウッドマン系が衰退し始めた2008年11月19日に16歳で死去、死因は明らかにされていない。
その死から2年後に誕生したヒシアスカの3番仔は500kg近くの牝馬としては雄大な馬体だった。彼女こそGⅢフェアリーSを制したクラウンロゼ(父ロサード)で、ヒシアケボノの血を引く唯一の重賞勝ち馬である。
早熟だったか長い間惨敗を続けたが、ラストラン長岡S(1600万下)を逃げ切り勝ちし有終の美を飾って*9繫殖入りした。

【特徴】

21世紀に入ってプロキオンSでドンフランキー594kgで優勝、海外に目を向ければブラックキャビア620kgを記録したともいわれデカい馬が定着し始めたが当時のヒシアケボノは規格外だった。
「ヒシアケボノでかすぎ」と呼ばれるうえに白いシャドーロールをつけていたため目立って仕方なかった。競走馬時代晩年は馬体重の話題を集めたが、裏を返せばレース内容は早熟馬の悲しい惨敗だったため目を当てられなかったのである。

短距離界で何度もしのぎを削ったビコーペガサスとは体格差が凄いため凸凹コンビと呼ばれた。成績はヒシアケボノが10戦4先着と負けている。なお1つ年上のビコーペガサスはヒシアケボノが引退した後も7歳まで走っていた。

短距離馬はスピード勝負のため気性がやや荒い傾向にあるが佐山師いわく「体が大きな馬でしたが、気持ちが優しくて、とても可愛い目をした馬でした。体も丈夫で手のかからない本当に可愛い馬でした」だったとのこと。引退後も見学者が接しやすいほど大人しく愛嬌のある馬だったといわれている。黒鹿毛で顔立ちのよいイケメンでもあった。

半弟アグネスワールドも500kg前後の馬体と高いスピードを持っていたが、速すぎるスピードと気性ゆえ兄ヒシアケボノ同様コーナリングが下手で、そのせいか海外では勝てても国内GⅠ制覇は出来なかった。なおアグネスワールドの最高馬体重518kgはヒシアケボノの最低体重馬である。

引退までの全30戦を良馬場で走ったことで知られるが晴れていたのは16回であった。

【創作作品での登場】

巨体と温厚な性格を併せ持った中等部の女子学生として登場。
ウマ娘になってもそのデカさは健在で、不思議とニシノフラワーやマヤノトップガン等小柄な子と絡む場面が多いので余計にデカく見える。レースでも短距離が主戦場な関係でニシノフラワーやカレンチャンと戦うため余計に目立つ。
ただ設定上の身長は180cmと言うほどデカいわけではなく、ライブ*10や画面表示上の問題*11で抑えめになっていると考えられる。一方シングレでは元ネタが特別デカいわけでもない190cm級のウマ娘が量産されていた。ところで品種の差で確実に彼女らよりデカいであろうばんえいウマ娘がいたらどうなるんでしょうね
アニメではヒト属の子供を両脇に抱えてニコニコしていた。もはや力士か何かである。名前の由来だし。
温厚な性格で、食べるのが好き、人に食べさせるのも好きなウマ娘。にょわー!っていうより美味しいから大丈夫だよ
名前ネタ*12なのか相撲が好きという一面もあり、得意料理はちゃんこ。幼少の頃は皆を笑顔に出来るちゃんこになることが夢だった。
2021年9月9日には満を持して☆3のプレイアブルキャラとして実装。
何と前述のちゃんこ鍋ネタも取り入れられており、体力ややる気が大きく回復すると言う嬉しいイベントが。
後登場時のアニメーションが完全に進撃の巨人的な何か。

とにかくデカい事が強調されており、稀に実馬のスケールを超えた大きさに描かれた事もある。
1995年スプリンターズステークス自体はなぜかカットされたものの、直後ツノダ(角田)騎手と楽しくお正月を楽しん…だのはいいのだが、うっかり体勢が崩れて意味深な連想をさせるマウントポジションを一頭と一人でとってしまい、偶々様子を見に来たビワハイジにソッチ系の関係だと誤解される羽目に…。
また1997年東京新聞杯前には騎手の薦めでダイエットに挑戦するも失敗し回避となり、1997年高松宮杯時にはフラワーパークやビコーペガサスと共に、結果的に最後のレースに付き合った相手としてナリタブライアンの存在の大きさを痛感していた。
そして没後、クラウンロゼのフェアリーS前に幽霊として現れ、自分とは逆に小柄な孫の父ロサードと対面していた。

  • 漫画『新・優駿たちの蹄跡』「ヒシアケボノ~サラブレッド発祥の地~」(やまさき拓味)
晩年下総種馬場にいた頃の仕事が減りつつも種牡馬を続けるヒシアケボノの様子を通して、ある中年サラリーマンの物語と、そのサラリーマン自体はラストで報われても現実では彼の様にいかず題の様にサラブレッド牧場発祥の地ながら寂れゆく千葉への哀愁の想いが綴られている。


追記・修正は逞しい方がお願いします。

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最終更新:2025年04月29日 07:40

*1 京成杯を制し3歳馬ながら安田記念3着爪が弱く3歳秋から低迷した。

*2 GⅡ競走で欧州マイル三冠含むGⅠ7連勝を記録することになるロックオブジブラルタルを破ったことがある。

*3 両方とも主戦がデットーリ騎手だった。

*4 1992年の1ドルはおよそ126円、購買価格は日本円でおよそ655万円となる。

*5 アメリカのハワイ生まれ、外国人初の横綱となった。

*6 重賞3勝、ジャパンC5着。亡き父に負い目を感じて父の所有した名馬と同じ「ヒシマサル」と裏技を使って名付けた。

*7 一般的に53秒前後が目安だといわれている。2022年版レコード一覧ではOP勝ち馬ブルミラコロ・アイラブテーラーの47.4が最高だと確認できる

*8 地方競馬を含めると2016年東京大賞典優勝馬・アポロケンタッキーの565kgが最高。

*9 恐らく引退前の7歳で小倉記念2勝目を挙げた父ロサードの影響であろう。

*10 立ち位置や手を繋ぐパフォーマンスなど

*11 育成シナリオではヒシアケボノに限らず表示位置の高さの調整がなされているが(身長差のあるウマ娘同士の膝の位置を比べると分かりやすい)、それでもかなりギリギリのサイズ。

*12 ヒシアケボノの名前は元力士の曙太郎に由来。