ケイエスミラクル(競走馬)

登録日:2024/01/04 Thu 01:46:15
更新日:2025/03/26 Wed 22:53:23
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ケイエスミラクル(K.S.Miracle)日本競走馬

メディアミックス作品『ウマ娘 プリティーダービー』にも登場しているが、そちらでの扱いは当該項目参照。
ケイエスミラクル(ウマ娘 プリティーダービー)


目次

【データ】

誕生:1988年3月16日
死亡:1991年12月15日
享年:3歳
父:Stutz Blackhawk
母:レディベンドフエイジヤー
母父:Never Bend
調教師:高橋成忠 (栗東)
主戦騎手:佐伯清久→南井克巳*1
馬主:高田喜嘉
生産者:Tsukao Farm
産地:アメリカ合衆国
セリ取引価格:-
獲得賞金:1億3,370万円 (中央)
通算成績:10戦5勝 [5-2-1-2]
主な勝鞍:91'スワンS(GⅡ)

【誕生】

1988年3月16日生まれの鹿毛の牡馬。米国産日本調教となる「◯外」で、父はスタッツブラックホーク。母はレディベンドフェイジャー。
父のスタッツブラックホークはミスタープロスペクター産駒だが、現役時代は40戦してようやく3勝しただけの馬であり、種牡馬としても重賞馬を1頭出しただけと、偉大な父とは違いド三流と言わざるを得ない馬だった。
そのうえ、言わずと知れた大種牡馬ミスタープロスペクターだが、日本でその血が定着するのは実はもっと後の話。
当時はまだダートの短距離専門だと思われていた節があり、彼が日本にやってきた90年頃に至ってはミスプロ系の日本での実績は皆無だった。
さらに言えば「外国産馬を輸入して走らせる」のも比較的珍しかった頃であり、来歴からして早すぎる馬である。

そんなわけで血統的にもパッとしない中、3歳(以下旧表記)の秋に来日し千葉の牧場に入厩。獣医師が最悪を想定しうるレベルの高熱を発症し命の危機に瀕するも、奇跡的な回復を遂げたと言われている*2
そしてその後は栗東の調教師である高橋成忠氏に預けられることになり、来るデビューに向けてトレーニングに臨むことに。
ただ、これによってデビューが遅れてしまい、デビュー時には4歳を迎えていた。

【戦歴】

1991年4月20日に新潟競馬場の4歳未勝利戦芝1600mでデビュー。
デビュー戦ではパリスハーリーに敗れて惜しくも2着に終わるものの、続く2週間後の未勝利戦では、着差がつきにくいはずの短距離戦ながら2着のシンコウヤマトに8馬身もの大差をつけて圧勝。

その後は条件戦であるわらび賞での2着入賞を果たした後、2ヵ月半を休養に当てることになる。
続いて、騎手を南井克巳へ交代した上で挑んだ石狩特別でも4馬身差をつけての勝利、次戦の藻岩山特別でも2着に9馬身差の圧勝と、
条件戦ながらも他を圧倒する程のスピードの才を覗かせていた。

しかし、後に挑んだ初の重賞であるGⅢ、セントウルステークスでは今までの快勝が嘘のような13着という惨敗を喫してしまうことになる。
ところが、更に続いてのOPレース、オパールステークスではレコード勝ち達成と、前戦の惨敗が嘘のような活躍を披露。

そして迎えるGⅡ、スワンステークス。
バンブーメモリーダイタクヘリオスダイイチルビーなどの多くの強豪ライバルを交えての運命の一戦。
最後まで競り合ってきたダイイチルビーをギリギリクビ差で交わし、こちらでもレコード樹立と共に初の重賞勝利を成し遂げて見せた。

1月も経たない内に次に挑んだのが初のGⅠ戦線であるマイルチャンピオンシップ。
ダイイチルビーと並んで当時の強豪スプリンターとしての人気を決定的にしながらの出走であったが、
同じライバルであったダイタクヘリオスの豪脚を捉えきることができず、ルビーと共に敗れて3着に終わった。

そしてやってきた運命の日、1991年12月のGⅠ、第2回スプリンターズステークス。
当時はサクラバクシンオーの快進撃の少し前、整備の進んでいない短距離戦線における唯一のGⅠレース*3であった。

若干戦歴が21世紀時点から見ると*4やや過密気味ではあったものの、スワンステークスでのレコード勝ち、マイルチャンピオンシップなどの好走を経て、既に当時の強豪スプリンターとしての評を更に盤石なものとし、
得意距離である1200mであることに加え、騎手は先約のあったフェイムオブラスの騎乗が決まっていた南井克巳から、かの七冠の皇帝シンボリルドルフの相棒たる名騎手、岡部幸雄に交代。
ダイタクヘリオスも有馬記念を選択し本レースを回避したため、最早ケイエスミラクルの勝利を疑う者がいない程の万全の態勢であり、2.2倍の1番人気に推される程であった。
なお、ヘリオスはその有馬でダイユウサクにスワンS・マイルCSのリベンジを喰らい、翌年スプリンターズSと有馬を連闘するがそれは別の話

レース本番、前半3ハロンを32秒2というハイペースをものともせずにいつも通りの鮮烈なスピードを見せ、
中団に位置しながらやってくる第4コーナーカーブ、ここから追い上げて先頭集団に取りつこうとしたのだが…


おおっと!? ちょっとおかしくなったぞ13番ケイエスミラクル!!

ケイエスミラクル、故障発生だ!!


ケイエスミラクルが突然の失速*5
先頭を突き進むライバルのダイイチルビーの勝利を後ろで眺めながら、医師が下したのは左第一趾骨粉砕骨折という余りにも重く辛い現実。

最早競走馬としての生を謳歌するのは不可能である事は明白であり、再度の奇跡も起こる事なく予後不良の診断が下され、そのまま薬剤による安楽死の処置が取られる。
奇跡の先でスプリント路線を駆け抜け続けた先、あまりにも突然すぎる最期に多くのファンが悲しみに暮れることとなった…


もしこのスプリンターズステークスで勝利していたならば、翌年に米GⅠ・ブリーダーズカップへの参戦も検討していたという。
そうなっていれば4年後のタイキブリザードに先んじて初のBC挑戦馬となり、また種牡馬入りしてその快速を受け継ぐ馬を出すことができれば日本のミスプロ系の隆盛も現実とは全く別物になっていたかもしれない。
生涯戦績は10戦5勝[5-2-1-2]、獲得賞金は1億3370万円。
デビュー前の苦難を乗り越え、その名の通り奇跡のデビューを果たした先、あまりにも短く儚い馬生を駆け抜けた1頭だったと言える。

スプリンターズSは本来出走せずに休養予定であったが馬主の意向で出走した使い詰めの結果、と当時のファンから言われる事もあったが、本当にそうだったかのソースがない事、
そもそもダイイチルビーがラスト3戦は全く同じ秋ローテを組んでいるし全体で見ても当時からしたらそこまで使い詰めではない事、所属厩舎が「長くレースに使い続ける」タイプの調教師だった為体調維持等には慣れていたはずな事。
これまでG1勝利がなかった馬主が目の前にその大チャンスが転がってた時に飛びつかずにいられるかと言う事もあって現在はそのような声はほぼ聞かれない。そう言う方向性でブッ叩かれるのはサンエイサンキューの馬主の方*6

【創作作品での登場】

2022年8月21日放送の「ぱかライブ Vol.20」でダイイチルビー共々初登場。
一人称は「おれ」。メジロアルダンと同じ水色の髪と尻尾に中性的な容姿と、クールだがどこか儚さを感じさせるデザインとなっている。
ちなみにヒミツでは「好きな絵本の影響で持ち物に白鳥モチーフの物が多い」とされているが、これは史実のケイエスミラクル号の主な勝ち鞍が「スワン(白鳥)」ステークスであることに由来していると考えられる。

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最終更新:2025年03月26日 22:53

*1 オグリキャップナリタブライアンの鞍上も務めた騎手

*2 この辺の記述は何故かwikipediaの初版(2005年)から書かれているのだが、肝心のソースがなく、後追いで探され始めた今も現状見つかっていない。そのためそこそこ有名な話ではあるが、ソース不明の流言であったりする。

*3 高松宮記念の前身である高松宮杯はこの当時も存在したが、芝2000mのGⅡという、現在とは全く異なる立ち位置のレースだった。

*4 使い詰め上等な当時としてはまだ配慮されてる方である。

*5 この実況と故障の様子は、JRAがYouTubeや東京競馬場の競馬博物館内で公開している1991年スプリンターズステークスの動画アーカイブでも確認できる

*6 厩舎側の「休ませろ・使うな」という訴えをガン無視して一切の休養を取らせず連闘を強行。最終的には主戦であった田原騎手をして「調教で跨ると骨が軋む音が分かる」状態だと指摘されるも出走を強行させた結果有馬記念で故障。その後馬主の「繁殖牝馬として生かせば金になる」という判断の元延命措置が採られたが、結果的に2年苦しみ抜かせた末に死なせてしまっている