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李邈

登録日:2025/12/13 Sat 20:26:37
更新日:2026/05/03 Sun 22:58:17
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李邈(りばく)とは、三国志の時代の益州にいた狂人として名を残した男である。字は漢南。


経歴

元々は劉璋配下の臣であり、劉璋が劉備に降伏したことでそのまま劉備に仕えることになった。

李邈はある年の正月の宴席というめでたい場で、酒を注ぐ係をやっていた。
そこで「なんで劉備様は劉璋様に張魯対策で呼ばれたのに張魯を倒さずに劉璋様を攻めたんですか?w」とクッソ空気の読めない発言をした。
劉備は「じゃあお前はなんで劉璋を助けなかったんだ」と返すと「助けたかったんですが力不足でしてえ・・・」と言った。
現場主義の劉備の性格からして、こういう力もないくせにおべんちゃらだけの奴は大っ嫌いである。
益州取りはお互い本当に必死になって戦ったし、その場には戦死した者の縁者も少なくないのにこいつはヘラヘラと自分のことを棚に上げやがったのだ。
君主だけでなく大勢にケンカを売ったのだから当然「じゃあお前は要らんな」ということで処刑が決まった。そらそうよ

だがこれを諸葛亮が止めた。
というのも彼以外の三人の兄弟*1は『三龍』と呼ばれるほど優秀なのでこいつもそれなりの実力もあるだろうし、また正月の宴席の場で君主の機嫌を損ねたから、という理由もよろしくない。
その場にいる劉璋の元配下たちにもケンカを売っている許し難い放言なのだが、こいつに対して強権的な刑罰をしてしまうと劉備としてはその場にいた益州グループ全員を敵に回すという危険性がある。
全て計算づくで劉備にケンカを売ったのだ。

ただ、彼の計算は諸葛亮の予想の遥か下を行っていた。


次に彼の名前が出たのは馬謖を処刑する時である。
馬謖の罪状も出揃い、全てが整ったその時に口を開けたのが李邈である。
「秦は孟明視*2を赦したのに楚は成得臣*3を殺したせいで二代に渡って振るいませんでしたねw」擁護風煽りをかました。

諸葛亮もこれには内心ブチギレた。なんなら助けたことを後悔したとさえ思ったろうが、もちろん理性的な諸葛亮は今度もしっかり自分を止めた。
そして「成都へ行け」と怒りを押し殺しながら強制帰還命令を出した。お前なんぞしばらく声も聞きたくなければ顔も見たくないということである。そらそうよ

後に馬謖を処刑した後にタイミングを見計らって蒋琬も同じことを言って諸葛亮を諫めた。
二人で談話して「仕方なかったんだよ・・・あの日・・・あの時・・・馬謖はまだ殺すべきじゃなかった・・・」くらいの弱音は吐けるくらいのタイミングで、である。
つまり公衆の面前で言うことではないし、ましてや恩人にする真似ではない。
蒋琬は諸葛亮を諫めてこそいるがこうしたことから能力面でもきっちり評価されており、諸葛亮から死後の後継に指名され、蒋琬が生きている間は蜀は健在であった。


そして最後に名前が出たのは諸葛亮の死後ほどなくである。
劉禅も喪に服し、蜀という国そのものが悲しみに暮れている時だ。
そこで李邈は上奏した。

>「亮身杖彊兵,狼顧虎視,五大不在邊,臣常危之。今亮殞沒,蓋宗族得全,西戎靜息,大小為慶。」

「諸葛亮は強大な軍を握って獣みたいに四方を睨んでた奴っすよ、本来辺境に置いてはならない存在で、反逆でもされたら危ないと思ってたんスよ。諸葛亮が死んだってことは、これで皇室も安泰、西の異民族も静かになるでしょう。国民皆喜びましょう!!」

彼の真意については後に語るが、諸葛亮を親であり師のように仰いでいた劉禅からの返答は一つ。



今度ばかりは違った。自身を守ってくれた諸葛亮はもういないし擁護する人物も現れない、どうやら計算が狂ったようだ。
君主に二度もケンカを売り恩人にもケンカを売ったばかりか泥まで塗った狂人は、今度こそ無事に投獄され処刑された。そらそうよ

もちろん諸葛亮と違い誰にも惜しまれることはなかった。残念でもないし当然


しかしこの行動は劉禅の行動からするとかなり際立って目立つ行動である。

基本的に劉禅は温厚で口さがない言い方をすると戦時においては甘い皇帝で、しかも良くも悪くも部下の言い分を聞き入れやすく自分で独断専行するようなタイプではないというのに、李邈の処刑に関しては自らが動いている。
どのくらい甘いかというと、廖立という人物が「俺の才能は諸葛亮の次ぐらいなのになんで李厳如きの下なんだよ?大体樊城や夷陵の戦いもさあ・・・」ととんでもない不敬不満を同僚の前で洗いざらいぶちまけて、それを受け取った諸葛亮が「死刑にしましょう」と言ったところを「いやそれは可哀想だから流罪で」というくらいである。
これは「又聞きだから」というのもあるかもしれない。いくら心服している諸葛亮がそう判断したとはいえ、間違った讒言で死刑にしたなら取り返しがつかないのも確かだ。*4
甘い処罰ではあっても、劉禅は完全な諸葛亮の傀儡ではなく、自分の意思をちゃんと持っている。その上で諸葛亮もこれに従い流刑としていて、それ以上手を下すことも無かった。
そして劉禅は軍事・政治といった国事に口出しはせず諸葛亮やその後継人たちに任せきりにしてはいるが、それもまた劉禅の意思とも取れる。後宮を拡張したいなーとか言って諫められて止めたりしているけども、それも意思表示の一つではある

だが李邈は自分の口で直接劉禅に対し、師父で功臣たる諸葛亮の死に対して辱める言葉を放った。絶対に誤ることなどない事実である。


もう一つ重大なのが、李邈が吹き込んだのは「反逆の可能性であった」ということである。
劉備との酒宴や馬謖の助命についての李邈の言動は実にKYではあるが、個人が不愉快になるだけなので聞き流すことも一応はできた。
だが、「反逆の可能性」はそうは行かない。
反逆は強勢だった国を滅亡に追い込む危険性の高い特級懸念事項であり、どんな国でも最大の重罪である。

そして反逆に関する讒言も歴史上繰り返され、逆意のない者を本当に反逆するしかない状態に追い込んでしまったり、皇帝自ら能臣を切り捨てて国を弱体化させてしまった事例は枚挙に暇がない。
三国時代でも、当wikiに項目がある例なら二宮の変が讒言をきっかけに勢力争いが起き、国が弱体化した一例だ。
それだけに、反逆の告発は「もし告発が偽りだったならば命を賭けます!」という覚悟でやらなければいけないものなのだ。*5

諸葛亮は劉備の死後、10年にわたって蜀漢における軍事・政治の両方を握っていた。
その気になれば国を乗っ取ることもできたかも知れないが、諸葛亮自身は反逆や独立の動きは見せていない。
諸葛亮を疑うような上奏は、完全な無根拠の讒言であることは明らかであった。
そして、蜀漢内部では諸葛亮の北伐に従った軍人や彼に任されて留守の内政を受け持った重臣たちに今後の政務を託さなければならない。
諸葛亮の反逆を疑うことは、今後の蜀漢の柱石となる主要な人材にまで疑いをかける行為に他ならないのだ。



ではなぜ李邈はこんな進言をしたのか?
実の所、前記した上奏文には前文がある。

「呂祿、霍禹,未必懷反也;孝宣之君,非樂殺臣也。然臣畏其逼,君畏其彊,故姦邪得以間之」

「呂祿と霍禹は逆心を抱いていたとは限らない、孝宣帝も家臣を喜んで殺すような人物ではなかった。なのに、臣下も君主もお互いを恐れるようになって、結果として邪悪な計略が間につけ込んでしまった。」

呂禄は前漢の劉邦夫人呂后の一族で、権勢をふるったが呂氏の乱で敗死した。
霍禹も同じく前漢で権勢を持った人物であるが、段々と権力を剥がされていくのに粛清されると危機感を感じ、孝宣帝に反逆を起こそうとして返り討ちに遭った人物である。
臣下が権力を持ちすぎるあまり相互に猜疑心が生じてしまい、結果としてつけ込まれ大きな政争になってしまった…という例である。
この文章では、「呂祿と霍禹は逆心を抱いていたとは限らない」と指摘しており、その上で引き合いに出したと言うことは、諸葛亮を露骨に逆臣と指名したつもりではないとも取れる。

そもそも劉禅は生前の諸葛亮に権限を与えすぎていた。
後漢では丞相は廃止されていたのに、曹操がわざわざ丞相を復活させて自ら丞相になり、結果漢は簒奪されている。
だが、蜀漢は劉備帝位就任に際してそんな「曰く付き」なシステムである丞相位を設けて諸葛亮に任せているのだ。
劉備存命中は諸葛亮は軍は率いていなかったし、丞相も行政トップに過ぎなかったが、劉禅の代になるとその丞相に軍権まで与えられていたのだ。

それでも、諸葛亮は忠臣だったからこの体制は奇跡的に成立できていた。
諸葛亮への権限集中による軍政一体化の結果、弱小で地理的条件も悪い蜀漢が北伐で健闘できたという説もあるほどである。
だが、これは奇跡的な例外であって他の君主が真似したら危ない、というのは後世でもしばしば語られているところである。
君主たるもの、臣下の忠誠を得るに越したことはないが、一方で反逆させないように手綱も握ることは必要なのだ。
そう見れば、臣下一人に軍事も政治もと大権を与えて、しかも独立行動させるなんて危ない。諸葛亮が死んだならこれを機会に改めるべきだというニュアンスの上奏だったとも取れる。

しかし政治体制に多少の問題があろうと諸葛亮が劉備の代からの大功労者であることは疑いようもない。
彼自身には反逆の兆候など全くないどころか忠誠を誓っていたし、亡くなった後は諸葛亮の残した人材で国家運営を継続していかなければならない。
李邈としては、甘ちゃんな劉禅に強い言葉でショックを与えて進言を通そう・・・とこれまでのKY発言の延長で強い言葉を使ったのかもしれないが、それは国家の維持のためにも決して許されない絶対のタブーまでも踏み抜いていたのである。
まあ劉禅側も諸葛亮の死を侮辱されたと感じてつい感情的になってやったことかもしれないが・・・


李邈の能力


諸葛亮のとりなされた後は、犍為太守・丞相参軍・安漢将軍という3つの役職についていた。

犍為郡は要地であり、劉備入蜀後に太守を任されていたのは李厳。
後に尚書令となって諸葛亮も一目置かざるを得なかった蜀漢の重鎮である。
夷陵の戦いで蜀漢の人材が大幅にいなくなった後に任されたともとれるが、それでも適当にあてがうようなポストとは言い難い。

また「安漢将軍」はいわゆる雑号将軍であり特別高い将軍位という訳ではないが、彼以外の安漢将軍は
  • 徐州以来の大パトロンで諸葛亮より席次が上だった麋竺
  • 何がむむむだ!と言って馬超の懐柔に成功し、その他正史でも有能さが伝えられる李恢
とやたら豪華な面子である。李邈の後にも王平が任じられており、雑号と言っても適当に与えるような将軍位ではなかったようなのだ。

そう見ると、単なる口だけの無能という訳ではなく、案外彼の実務能力はそれなりに高く評価されていたのかもしれない。

ただ、諸葛亮は基本的に李邈を物理的な意味で手元から離そうとしてはいなかった。
こんな放言癖のある男に「丞相参軍」という役職をつけているということは要するに「手元に置いておかないと何言いだすか分からん」という可能性がある。
助命し役職を与えそれでもなお毒を吐かれたのだから、諸葛亮の心中は察するに余りある。
そして手元から離れた瞬間、その放言で死んでいる。諸葛亮が出師の表まで出して忠心を示したのに対し、彼がいる間にそれを不忠だと弾劾できるほどの能力も、自分が禁句を口にした自覚もなかった。

蜀漢全体でも、その気になれば諸葛亮の権限を制限できる場面はあった。
例えば、馬謖のやらかしで第一次北伐が失敗に終わった事件である。この時は諸葛亮自身願い出ての降格処分となっているが、この敗軍処罰を契機に軍権を制限するというのであれば、常識的な対応であろう。
しかし、この時李邈が諸葛亮の権限制限を進言した記述はないどころか、やったのは「(馬謖が)負けたからって処罰しちゃうのは国を弱くしますよね?」という、むしろ逆の進言である。

こうした場当たり的な主張の上に、明らかなKYと言う要素まで加われば、上奏の「当たっている部分」も単なる結果論と言うことも疑わしくなってくる。
少なくとも、李邈に対しての高い評価に結びつけることは困難だと言わざるを得ない。

とはいえあの温厚な劉禅が激怒するほどに自身の死後もなおも深く諸葛亮のことを思ってくれていたことについて、蜀漢という国が滅び本懐を果たせはしなかった諸葛亮もほんの少しだけだが、草葉の陰で心が揺れたことだろう。

そして裴松之は李邈についてこう触れている。「李邈が四人兄弟なのに『三龍』ってことは、そういうこと」と。


ただ、それなりの能力がある狂人というのは行き過ぎれば歴史に残るものである。
曹操の下にいた禰衡孫権の下にいた虞翻*6*7のように、である。
『三国志 Three Kingdoms』でも劉禅が李邈を死刑にするくだりが拾われたりしているので、「悪名は無名に勝る」という言葉が相応しいか。

しかし呂蒙の幕僚として荊州攻略に成功するなど度々功績を挙げており仲の良い人物もそれなりにいたので左遷後も数多の門下生を抱え慕われ天寿を全うし息子たちも登用された虞翻はともかく、李邈と同じく碌に仕事できないのに悪口だけは達者な禰衡はやはり権力者に斬られている。古今東西自分の身の程を知ることは大事である。

なお、目立つシーンが舌禍シーンくらいしかない上にそれだと上の二人と被るためか、KOEIの三国志シリーズにもSEGAの三国志大戦と英傑大戦にも実装されていない。(2025年10月現在)
特に『三国志14』はシステム上数多くのキャラクターが必要とされており、兄弟の李朝・李邵も登場しているのにこいつだけカットされた。

蜀の舌禍で言うとこいつより偉い楊儀がいる。
彼は諸葛亮の幕僚としてはナンバーツーでありしっかりと活躍もしていたのだが、才能を鼻にかける狭量な性格で、いつも魏延と対立しており、そのため諸葛亮死後の事実上の後継者には遺命により温厚で能力も高い蒋琬が選ばれた。
失脚した楊儀*8「ちくしょうこんなことなら諸葛亮が死んだ時に全軍挙げて魏に裏切っとくんだった!!」と費禕に不忠な放言をしてしまい、当然ながら流刑となる。
その後も流刑先から誹謗中傷する文面を送りまくり、いざ拘束されると自殺したという。
諸葛亮がいてもいなくても文官どもはこの始末。本当、蜀漢はよく持ったものである。









なんでアットウィキは自治厨の巣窟になってたしたらばを消してくれた三代目管理人をクビにしたんですかあ?w
あの項目もうちょっと良くしてあげたいんですけど追記・修正する能力がなくってえ・・・

この項目がムカついたなら……\ブチッと/

最終更新:2026年05月03日 22:58

*1 劉備を漢中王に推挙する文章を書いた李朝、丞相府の官吏登用にあたる重職である西曹掾に任命された李邵、そして彼らに並ぶほどの才能があったが夭逝した末弟

*2 齢70を超えて秦の宰相になった百里奚という虞の大夫の息子で、同じく宰相となった。殽の戦で大敗したが赦され、後に晋との戦で大勝した

*3 春秋覇者の一人である文公・重耳と戦い敗れた猛将。楚の成王は敗北して帰還した彼に敗戦の責任を取らせて自殺させた。文公は「窮鼠猫を噛む」と成得臣の逆襲を恐れたが、彼が死を賜ったことを知ると安心した

*4 「とはいえ諸葛亮の事は慕っている=諸葛亮が反逆しない事が前提だがその前提が覆る事はないからコイツも安全」と考えたのかも?

*5 かの有名なハンムラビ法典でも、第一条は「殺人で告訴して立証できなかったら告訴者は死罪」である。

*6 李邈や禰衡のように処刑されていないし才も発揮して功も立てているが、地の文で「狂直」とまで言われるほどのヤバい人物であり、あまりの口ぶりに孫権も辟易して二度も左遷し左遷先で亡くなった。正直なところ身の程を多少なりとも弁えていたから左遷で済んでいるようなものであり、協調性がなく糜芳を自分の口車で降しているのにその麋芳のみならず于禁にまで「おいクズ野郎」とか言っている。まぁ双方ともに味方が頑張ってい死守しようとして討ち死にしたものまでいるのに降伏して生きながらえる道を選んでしまったため白い目で見られても仕方のない部分はあったが。

*7 また、呂蒙が関羽と戦う際に左遷されていた虞翻を推挙して傘下に組み込んだり当初は不遇だった丁覧や徐陵が出世できるように便宜を図ったりと波長が合う人物となら仕事ができるし、中央から退いた後開いた塾は数多の門下生を抱えるなど面倒見がいいという長所がある。

*8 といっても降格などはされておらず、この時点では費禕と同等以上の立場だったのだが……