劉璋

登録日:2021/03/01 Mon 23:00:00
更新日:2021/03/03 Wed 20:37:29
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劉璋とは、「三国志」の時代の人物。字は季玉。

益州を治めた劉焉の息子。のちに劉備によって益州を奪われた。
三国志界隈では劉禅に比較される無能として有名である。



【生涯】

◇前歴

劉焉の第四子で、末子。字の「季玉」の「季」とは「伯仲叔季」の通り「四男」を意味する。*1
母親は費氏で、彼女の親族には費観、後に蜀の四相の一角と評価される費禕がいる。

父・劉焉はもともと洛陽で九卿まで昇ったほどの大物官僚だったが、乱世が訪れるのを見越して益州に牧(監察長官)として赴任。
彼は大変な野心家で、現地では自ら皇帝そのものの装飾・設備をこしらえて「君臨」していた

その劉焉だが、元は洛陽から赴任という形を取っていたので、家族のほとんどは洛陽に残っていた。唯一、三男の劉瑁だけが父について益州に赴任したが、
劉焉の長男・劉範と次男・劉誕、そして四男劉璋は、依然洛陽に残されていた。

さて後漢王朝も、劉焉の乱行は把握していた。荊州刺史に赴任した劉表からも報告が入っていた。
しかし当時の後漢王朝は、長年の腐敗堕落による統治システムの崩壊と、黄巾の乱による消耗、そして董卓の台頭と反董卓連合の反乱とで、すでに末期症状を呈していた。
劉表が荊州刺史になったのも、本来の荊州刺史を孫堅が反董卓連合のどさくさ紛れにブチ殺したからである。

そんな情勢で劉焉を討つ余力は後漢王朝にはなく、実質の主導者である董卓も東方に集中していて南に兵力を差し向ける余裕はなかった。
そのうえ劉焉は、道教教団の指導者・張魯を裏で操り漢中郡を支配させ防壁としたり、益州内部では流民を組織化して強力な軍隊「東州兵」を作ったりと、かなりの軍事力を培っていた。


◇益州入り

それでも、捨て置くことはできない。
朝廷(このころ長安に遷都した)は、劉焉を説得するため、急きょ劉璋に官位を授けて益州に派遣し、劉焉を説得するよう命じた。「妙なことはやめて、長安に参勤せよ」と。

しかし劉焉は長安の足元を見透かし、帰還命令を無視したあげく、劉璋も返さず手元に置き留めた。人質を取り返したのである。
あまつさえ194年、涼州の馬騰が反乱して長安に攻め込むと、劉焉は馬騰を後方支援する一方、長安内部にいまだ残る劉範・劉誕に、内部から馬騰に呼応させようとした

ところが、この劉焉の計画は当時の長安の支配者・李傕と郭汜によって撃ち破られ、劉範・劉誕は処刑される。
さらに当時、劉焉の本部があった綿竹が落雷で焼失。
一連の不幸と異変でショックを受けた劉焉は、折しも老齢で体が弱っていたこともあり、病を発してあっけなく死去

ここに至り、益州の豪族たち(筆頭は趙韙(ちょうい)。益州の大豪族で、有力官僚であった)は、後漢朝廷から派遣される後任の刺史ではなく、劉焉の子どもを自分たちで「後継」に擁立することにした。
それで白羽の矢が立ったのが、三男の劉瑁ではなく、四男の劉璋であった


兄を差し置いて弟が即位したのは、なにも劉璋のためを思ってのことではない。
どころか、豪族たちは劉璋が無能だから担ぎ上げたのである。
原文では「州大吏趙韙等貪璋温仁、共上璋為益州刺史」、
意訳すると「益州の大幹部・趙韙たちは、劉璋の生ぬるい優しさを貪るために、共同して劉璋を益州刺史とするよう上奏した」とある。

そういえば、兄の劉瑁は劉焉が唯一最初から益州に同伴した息子である。おそらく、劉焉にとって本命の「太子」はこの劉瑁だったのだろう。
しかし、劉焉はただでさえ辣腕で、豪族の権力を削減するほどの「強い」君主であった。
そんな有能な、いや凶暴な君主が二代も続いては、豪族たちはたまらない。
だからこそ、優柔不断で統治能力がなく、豪族たちの自分勝手な行動を抑制できず、なにより赴任したばかりで益州事情に詳しくなくて「騙せる」劉璋が、担ぎ上げる対象に選ばれたのだろう。
「神輿は軽くてパーがいい」、というわけだ。

(余談ながら劉璋就任直後、劉焉配下だった甘寧が謀反を起こしている。この背後には劉表の工作があり、趙韙に敗れた甘寧は荊州に出奔した)


◇益州刺史・劉璋

趙韙らの目は正しかった。劉璋は、劉焉や劉表とは違い、問題解決能力のない無能だったのである。

まず劉焉は、かなり辣腕であり、強力な君主であった。
その強さを支えたのが「東州兵」という自前の軍である。

君主は豪族や傭兵に戦力を外注していれば、結局「君主であるにもかかわらず」外注先の言うことを聞かなければならなくなる。
特に戦乱の時代にあっては、君主としては外部に戦力を頼るのではなく、自前と言える戦力を持つべきなのだ。
だが、べき論としてはそうであっても、自前と言える戦力を抱えること自体君主個人に求められる力は生半可なものではない。
結局大半の君主は力不足ゆえにやむなく戦力を外注し、飲み込まれていくのだ。

劉焉は元は荊州からなだれ込んだ流民、難民を組織化・訓練して、いっぱしの軍隊として鍛えなおした。これを「東州兵」といい、劉焉直属の軍隊である。

当時の地方豪族は、とにかく力が強かった。人口の八割は国家ではなく豪族に帰属し、政府は徴税・徴兵・労役すらままならなかった*2
そうした、政府を騙して利権を貪り、人民を抱え込んで「カネや兵士が欲しければいうことを聞け」と迫る豪族たちを、劉焉は東州兵を用いて滅ぼしていったのだ。
元々地縁もない所で、10年にも満たない期間で豪族を抑止できるほどの軍を抱える…それは劉焉が生半可な君主ではなかったことの証明だろう。

劉焉の立場からすればそれは当然の行いではあるが、豪族たちの立場からすればとんでもない「弾圧」である。


しかも東州兵は、劉焉が死んだことでタガが外れ、益州内部で横暴を極めた。
劉焉の手駒となって豪族を「弾圧」した東州兵は、豪族や人民から恨みを買っている。
そのため東州兵と益州住民とで激しい内紛状態となっていたのだが、肝心の劉璋はこの問題を全く解決できなかった*3
確かに難民問題は現代でも難しい。しかし一度君主となったからには、解決は「しなければならない」。君主になるつもりはなかった、などといっても詮無いのである。しかし劉璋にはどうしようもなかった。

またかつて劉焉は、東州兵を内部鎮圧に使う一方、北方からの防備に張魯を利用していた。しかし劉璋は、この張魯も使いこなせなかった。

他にも劉璋はまともに政令を出せず、対処療法すらままならないことが多くあった。
そのため豪族や住民は成都の本庁を見限り、自分たちの力で問題解決にあたった。
といえば聞こえはいいが、要は自分たちの勢力を拡充することに腐心し、劉璋のことなど歯牙にもかけなくなったということである。
そして下に勢力が集まれば、上の権力は薄くなる。


こうなると、実力者たちは劉璋のことなど完全に無視する。いや反乱さえ平気で行った。

東北で袁紹曹操が天下分け目の決戦を行っていた建安五年(200年)、劉璋を擁立した益州豪族の領袖・趙韙が、ついに反乱を起こした。
不満があったわけではなく、取れると思って反乱しただけだろう。そして横暴を繰り広げる劉璋直属の東州兵と、それを取り締まれない劉璋に不満を抱いていた益州住民、報復に燃える益州豪族も呼応し、趙韙の反乱はたちまち益州内部を覆った

幸い、東州兵が「劉璋が敗れれば次は自分たちも破滅する」と考えて一致団結し、なんとか反乱軍を討伐、首謀者の趙韙は劣勢になったところを味方の裏切りに遭い討ち取られた。

しかし大規模な反乱がおきたことと、その鎮圧に手間取ったことで、劉焉のもう一つの防壁だった張魯も劉璋の足元を見透かし、成都からの命令を無視するようになった。
怒った劉璋は、ちょうど手元にいた張魯の母と弟を殺害したが、張魯の怒りを買い反乱に追い込むだけに終わる。
劉璋は幹部の龐羲*4に張魯討伐を命じたが、返り討ちにあった。

あまつさえ劉璋は、周囲の讒訴で龐羲と対立する事態も招いた。
幸いにも、龐羲が先に謝罪したことで落ち着いたが、下手をすると龐羲(前線司令官)が張魯(反乱した敵)や劉循(後継者)と組んで益州に攻め込む事態だったのである。


◇SOS劉備

そんなこんなで、劉璋は益州を実効支配できなかった。

しかしそれは裏を返すと、豪族たちが好き勝手するには都合がいい君主ということになる。
うかつに彼を廃して、下手に優秀・強力な君主が来てはたまらない。現状維持を図るなら、むしろ劉璋には長くいてもらった方がいい。
そういうわけで、いわば非力さと無能さが政治的価値となって、劉璋はこの戦国乱世にあって、君臨から十年以上の歳月を「君主」として生きることができた

曹操が南進を開始した際も、荊州から揚州に向かうコースを取っており、劉璋は目標ではなかった。
このとき劉璋は曹操に頻繁に使者を送り、歓心を買う一方で、益州進出の意向も探っていた。
(ちなみに、劉璋から曹操への使節の返礼として、曹操は劉璋とその兄・劉瑁に官位を与えている。……が、なぜか劉瑁はほどなくして発狂して死んだという……)

ところが、あまりにしつこく使者を送ったため、曹操はつい劉璋の使者をそっけなくあしらった。
そのそっけなくあしらわれたのがあの張松で、彼は曹操を恨み、劉璋には「曹操を拒絶し、劉備と組むよう」進言する。

やがて曹操は赤壁の戦い周瑜に敗れ、劉備はどさくさ紛れに荊州南部を制圧
劉璋は曹操一強だと思っていたのが揺らいだこともあって、今度は張松を劉備のもとに派遣し、益州に入って張魯・曹操と戦うため力を貸してくれるよう頼んだ。


◇劉備の蜀取り

ところが、その派遣した張松、およびその仲間である法正・孟達は、すでに劉璋を見限っていた

劉璋が君主として存在できるのは、地方豪族の言いなりとなる軽くてパーな神輿だからである。それは現状維持を図るなら好都合だが、現状を打破しての改革を望むならば、単なる障害でしかない
そして、張松・法正・孟達はそうした現状打破を望むグループだった。
もちろん、豪族内部の利権抗争を一発逆転したいという意図もあろう。法正・孟達は外地からの移民で、劉璋を擁立する益州豪族たちとは出自が違う。
彼らは劉備を単なる援軍として招くのではなく、自分たちが擁立する益州の新たなる支配者として招いていた。

この劉備の蜀入りについて、劉璋配下では反対意見もかなりあった。王累・黄権・劉巴・張任・厳顔らがその代表で、王累に至っては自決までしている。
しかし劉璋は、ここでは強く我を通した。おそらく、長年益州豪族に軽んじられてきたことで、彼らを信用できなくなったのだろう。現に王累・黄権・張任・厳顔は益州出身である。*5
また、劉備軍をかつての東州兵のように用いて、益州豪族の打倒まで期待したかもしれない。

しかし張松が劉備に内通していた証拠が見つかり、張松を処断したものの開き直った劉備が益州攻略を開始
劉璋は二年にわたって抵抗し、劉備軍の軍師・龐統を戦死させるなどかなりの損害を与えたが、
劉備軍に逃げ延びた法正・孟達の誘導、諸葛亮張飛趙雲劉封を中心とする劉備軍の増強、涼州に隠然たる影響力を持つ馬超の劉備軍への投降などが加わり、劉璋軍は次第に追い込まれていく。


◇降伏とその後

最終的に劉璋軍は成都に籠城することになった。
しかしそれでも、劉璋の手元には三万の軍が残り、食料も一年分はあった。
さらに部下からは、焦土作戦を展開して、遠征軍ゆえに補給の厳しい劉備軍を干上がらせるよう進言もあった。
劉備軍が兵站に苦しんでいたのは事実であり、あるいは撃退の可能性もあった。

しかし劉璋は、ついに一切を諦めた。
「父子で益州を収めること二十年余り、人々に恩徳を与えることもしなかった。いま戦争を三年にわたって続け、人民もすっかり疲弊している。それを知ったうえで、わしは心安らかではおられない」
……と語った劉璋は、折しも劉備が派遣した簡雍の降伏勧告を潔く受け入れ、劉備へと投降した


劉備は劉璋に危害は加えなかったが、益州に残すことはせず、荊州西部(益州と荊州の境界)にある公安郡へと引っ越させた。
ただこれは、これから劉備が益州を統治するにあたって、劉璋が不満分子に担ぎ上げられて反乱の神輿になることを避けた措置でもある。
危害を加えなかったのも、「劉璋の敵討ち」という大義名分を与えないためだろう。
実際に諸葛亮を中心として、厳格な法治体制改革が実行されるわけだが、そういう時に劉璋が妙なこと(法治体制で既得権益を奪われる層が反乱の神輿として担ぎ上げるなど)に巻き込まれないように守る、精いっぱいの配慮といえる。

また劉備は、劉璋の長子・劉循(りゅうじゅん)は益州に留めて取り立て、奉車中郎将にもしている。これも人質ではあるが、礼遇でもあった。
劉循は綿竹陥落後、劉備の軍を雒城(現在の広漢市)で1年以上食い止め、その間に龐統を戦死させてもいる。張任らの部下も奮闘しただろうが、彼自身武将としての活躍も期待されていたかもしれない。特に出番なかったけどね
次男の劉闡(りゅうせん)(劉緯とも)は、父・劉璋とともに荊州・公安へと移動した。


その後、関羽が北伐戦のさなかに孫権に裏切られて滅び、荊州が失陥した際、劉璋も逃げ遅れた。
孫権は劉璋を「益州牧」に担ぎ上げて、益州攻略の大義名分として擁立しようとした(益州に置いておくと変に擁立されて危ない、という危惧が的中したともいえる)が、
ほどなくして劉璋は病死してしまった。西暦219年。享年は不明。
一緒にいた劉闡は呉に仕えたが、蜀地にいた劉循は引き続き劉備に仕えた。


【評価】

「優柔不断な無能」という評価が普及している。実際の行動・事績もそれを後押ししている。

もちろん、劉璋に関連する資料はほとんどが蜀漢政府に由来するものであろう*6
となると劉備を肯定し、劉璋を悪く書くのは当たり前で、それなりに割り引いてみる必要はある。

しかし劉璋の失政の記録はやたらと詳細で生々しく、しかも現実味がありすぎる
董卓や陶謙のような「暴虐をしていた」などありきたりな暴君像ではなく、
  • 「劉焉の代に難民を組織した軍をコントロールできなくなった」
  • 「地方豪族に舐められていた」
  • 「張魯と戦っていた前線司令官を疑い一触即発の危機」
など、非常に具体的かつ合理的(いかにもありそう、という意味である)。
実際、同時代の劉表も、地方豪族に擁立されてやっと荊州統治ができたという話があり、劉璋の無能エピソードはだいぶ真実に近いと思われる。


ただ、完全なる無能力者というのは間違いだろう。
なんだかんだで趙韙の大規模な反乱を平定した事実や、張魯の進出を阻んできたこと、実戦慣れした劉備軍に二年間も持ちこたえたこと、張任・厳顔・黄権を中心とした名将たちの存在など、軍事面でそれなりの力を発揮している

もちろん、それが劉璋の奮闘というよりも東州兵や豪族が立場を守るために奮闘したものとも見れる。
実際、趙韙の反乱は東州兵(荊州出身の難民)が益州住民の恨みを買ったことに端を発しており、東州兵には「趙韙の勝利=東州兵への報復」となり、死活問題なのだから奮闘しただろう。
張魯や劉備が進出することは、益州豪族たちのこれまでの好き勝手ができなくなる危険があり、彼らも奮闘したはずである。事実、劉璋側で頑強に抵抗した武将のほとんどは益州出身者だった。
劉璋がそれら「個人的な立場で奮闘した兵たち」に乗っかった面は確かにある。

しかしそれを加味しても、乗るだけの器量は最低限備わっていたのは確かだろう。
神輿として担ぎ上げたはずが暴走して国家もろとも破綻、なんてことにはならなかっただけマシともいえる。


もっとも、彼の場合の問題点は政治的な能力の低さである。
そもそも彼が劉焉の跡を継げたこと自体が「優柔不断で無能だから」というところに端を発しており、彼が無能なのはある意味当然なのだが。
成果を上げた軍事面に関しても、対張魯の前線司令官だった龐羲を疑い、あわや一触即発になった(龐羲が完全に張魯側につき、しかも娘婿の劉循を擁立して、三者連合して攻め込むこともありえた*7)というあたり、政治センスがかなり悪い。やはり豪族たちの奮闘あっての劉璋だったのか。

ダメな二代目ということで劉禅と併称されることも多いが、劉禅と違って劉璋はやたら反乱に見舞われているのも特徴的。

外交センスに関しても、赤壁直前の曹操に三回も使者を送り、その都度なにかしらの贈り物を交換したため、ウザがられたともいわれている(その結果、三回目の使者に立った張松があしらわれた)。
この辺にもどうにも政治慣れしていない節がある。


【三国演義の劉璋】

史実からの変更点はほとんどない。
父の劉焉は、演義では「黄巾の乱」で幽州太守として劉備たちを配下にしたこともあり、後年劉璋が劉備に助けを求めた際に「叔父甥の仲」として親しむ一因になる……のだが、作品によってはこの劉焉時代のエピソードに触れられないこともある。
ちなみに、差し挟まれるさして出来の良くない詩のなかでは、劉禅と劉璋を重ねるものもある。


【創作の劉璋】

  • コーエー三国志
武力や統率力はからっきし、知力や政治力も凡人並み、魅力だけはやや高め……と、劉禅のプチ強化型というべき数値。
作品によっては武力に加えて知力まで一ケタ台の時期もあった。
ただ、部下の数は多く、武官も文官もバランスよくそろっていることや、周囲に強敵がほとんどいないことから、君主プレイをするには割と余裕がある部類。
敵の襲来に備えて、思う存分国力を増強しよう。

  • 三國無双
モブキャラ。

  • 蒼天航路
なぜか大仏のような顔をしている。確かに仏教が伝来した時期だが……
優雅で温和なようでいながら独特なカリスマもあり、観察力や分析力もそれなりにある。
また乱世の政略にこそ疎いが、領民を豊かにするという意味では優れた人物として描かれた。
正史要素はあまり反映されていない模様

  • 恋姫無双
名前だけの登場。性別さえ不明。

  • 三国志大戦
温仁というだけあってか、常に特技として魅力を持ってくるのが特徴。
まず最初は雑多な勢力がまとめられた他軍で登場。ピザデブ。
しかし低スペックの上に計略も汎用の援軍、兵種も何の特徴もない歩兵で使いどころは全くない。
排出停止を経たのち、3で復活。所属が漢軍に変わって兵種が攻城兵となり、計略は汎用なものの普通の武官のような性能にされている。

リブート後はしばらく出て来なかったが、第五弾でようやく漢軍に登場。
なんと2.5コストという重量級武将にされており、弓兵なので戦闘にも関わりやすい。が、スペックはコストに対してかなり低い。
そして入蜀の導きという専用の計略を獲得、自分を撤退させる代わりに蜀軍の敵味方の武力を上げる。
上限である8コストのうち2.5コストが撤退するだけあって相応に強力だが、敵に蜀軍の武将がいるとそっちも強化してしまう。しかも範囲がクソデカいので自軍だけ強化というのが狙いにくい。
混色にはペナルティがある上に自分以外蜀の武将という制約があるため普通に単色で固めた方がよいということで、当然ながらネタ扱いされている。



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最終更新:2021年03月03日 20:37

*1 同じように四子で「季」が入る字の人物として馬良(季常)がいる

*2 魏・呉・蜀「三国」の人口はたった800万。これは後漢全盛期の人口6000万のわずか15%である。つまり三国を初めとする政府は、全人口の15%しか実効支配ができなかったのだ。

*3 ただ拱手傍観したわけではなく、趙韙に東州兵の取り締まりを任せたらしい。しかしその趙韙が後述する事態を引き起こすため、彼には解決する意図が最初からなかった模様。

*4 長安で馬騰らの進行が失敗した際、劉範・劉誕らの遺族を連れて益州まで導いた男で、劉璋一家にとっては恩人。しかも劉璋の息子・劉循の妻は、この龐羲の娘である。

*5 劉巴は曹操に阿った荊州南部の豪族であり、劉備によって支配されてしまった地元が再び曹操に支配されることを願っている。このため反劉備という立場で利害が一致している。

*6 陳寿は「蜀漢は史官を置いていなかったから記録が残らなかった」とするが、この説は当時から疑問視されていた。実際、三国志には蜀漢政府の記録由来としか思えない記述が多いのである。

*7 歴史にはこういう事態はよくある。明の北方司令官であった燕王・朱棣(のちの永楽帝)が、甥の建文帝を滅ぼして自ら即位した件や、明の大将・呉三桂が、明朝を滅ぼした李自成を討つべく、清朝と連合して攻め込んだ件、など。