原文
Le ciel1 (de Plancus2 la cité3) nous4 presaige
Par clairs5 insignes & par estoiles6 fixes7,
Que de son change subit8 s'aproche9 l'aage10,
Ne11 pour son bien, ne11 pour ses12 malefices.
異文
(1) ciel : Ciel 1589PV 1611B 1649Ca 1650Le 1668 1672
(2) de Plancus : de Plaucus 1557B, de Planlus 1588Rf 1589Rg, de Paulus 1589Me, Plancus 1594JF, de Plencus 1597 1600 1605 1610 1611A 1628 1649Xa 1716, de Ploncus 1627
(3) la cité : a cité 1644 1653 1665, la Cité 1589PV 1672
(4) nous : nons 1628
(5) clairs : clers 1557U 1557B 1568 1590Ro 1600 1605 1611A 1628 1649Xa 1772Ri, clercs 1597 1610 1611B 1660 1672 1716
(6) estoiles : estoille 1660
(7) fixes : lixes 1589PV
(8) subit : subits 1772Ri
(9) s'aproche : saproche 1672
(10) l'aage : lage 1672
(11) Ne / ne : Ni / ni 1594JF
(12) ses : les 1649Ca 1650Le 1668
(注記)1668Pのみ1行目の括弧がなく、前後とヴィルギュル(カンマ)で区切られている。
音韻
ピエール・ブランダムールは、Plancus を1音節とし、
ノストラダムスはラテン語の -usをしばしば発音していないと指摘している。また、2行目と4行目は一見韻を踏んでいないようだが、fixes はフィクスではなくイタリア語の影響でフィスと読んでいたようだとしている。
日本語訳
天は我々(
プランクスの都市)に予兆を示す、
明白な徴候と恒星によって、
その急変に時代が近づいていることを、
その吉兆のためでも凶兆のためでもなく。
訳について
大乗訳1行目「天はプランクスという名の一群にかかわることを予言する」は誤訳。元になったはずの
ヘンリー・C・ロバーツの英訳は The Heaven foretelleth concerning the city of Plancusとなっており、nous (我々)を訳していないのは共通しているが、「一群」の出所が分からない。余談だが、ロバーツの英訳にある foretelleth は現代英語の活用形ではない。それは
テオフィル・ド・ガランシエールの英訳を丸写ししたものであり、直すのを忘れたのだろう。
同2行目「あきらかなしるしとして固定された星で」も不適切。前半と後半は並列的であり、実証的な論者はもとよりロバーツの英訳でさえそうなっている。なお、「固定された星」は直訳としては正しいが、いうまでもなく「恒星」を示す熟語である。
同4行目「弱さにも 善にもよることなく」も「弱さ」が誤訳。ロバーツの英訳に出ている Wickedness を Weakness とでも見間違えたのだろう。
山根訳1行目「天がプランクスの市について予言する」は、nous が訳されていない。「プランクスの都市について」という訳し方自体は許容範囲内である。
同2行目「晴れた空と恒星を使って」も、元になった
エリカ・チータムの英訳をほぼ忠実に訳したものだが、insigne は signe とほぼ同じ意味なので、単に「空」とするのは不適切だろう。
信奉者側の見解
ジャン=エメ・ド・シャヴィニーは、ギヨーム・パラダンの著書をもとに、1564年の
リヨンで死者数が激増したことを予言していたと解釈した。また、1589年4月と5月にも当てはまるとしていた。前者の解釈は、1790年にドドゥセがまとめたパンフレットでも踏襲された。
池田邦吉はそれに触発されたのか、カッコが使われていること自体が暗号で、その上端と下端をそれぞれつなげるとde Plancus la Cité を囲む楕円形を導き出せるので、都市を丸ごと含むような巨大円盤が宇宙から飛来してくることと解釈した。
同時代的な視点
ピエール・ブランダムールは、「明白な徴候」を彗星か流星の類とし、ギヨーム・パラダンが記録している1528年の「天の火」(彗星)の話を引用している。それによると、1528年4月5日の午後5時から8時の間に、リヨン上空を轟音とともに彗星が横切り、そこから放たれた二筋の炎はソーヌ川と河岸の平原に落ちたという。
他方、恒星が示す変化とは、354年4ヶ月をひとまとまりとする
リシャール・ルーサらから引き継いだ年代観において、月の時代が1530年前後に始まったとされていたことを指すとした。
ノストラダムスがこの詩を書いたのはそれから20年程度後のことであり、執筆時点で当時のことを回顧したときに、それらが吉兆でも凶兆でもなかったと位置付けたものだという。
こうした読み方は
高田勇・
伊藤進、
ピーター・ラメジャラーらが支持している。
ジャン=ポール・クレベールは、リヨンの急変を商業上の没落と結びつけた。
フランソワ1世の長子であった王太子フランソワは、1536年にリヨンでポーム競技に興じた後、冷水を飲んでから急に具合が悪くなり、四日後に死去した。その事件を境に、フランソワ1世のリヨンへの態度は好意的なものから一変し、同じ頃にリヨンはパリに人口や商業の面で追い抜かれた。
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最終更新:2011年03月24日 22:20