麗華瑞 独白録 ── 「フリートンという男について」
……あの男のことを語れ、と。
よろしい。少しばかりお付き合いくださいませ。ただし、私の言葉が公正であるかどうかは保証いたしかねます。なにぶん、千年以上も生きておりますと、人を見る目が研がれると同時に、偏りもまた深くなるものでございますから。
最初にあの男の名を耳にしたのは、連邦が開国し、
共立世界との接触が本格化した頃であったと記憶しております。
セトルラーム共立連邦の大統領。異名の数々は――「ポリティカルスピナー」「偽リベラル」「独裁者」「ピエロ大統領」……まるで蔑称の見本市でございますね。これほど多くの罵倒を一身に浴びて、なお政権の座に居座り続けた人間を、私は他に知りません。
湧羅戦争の後、捕虜返還の折に帝国側の外交筋を通じて間接的にあの男の存在を知る機会がございました。トローネ皇帝陛下――あの方が妙に親しげに語る「友人」がいる、と。皇帝が友と呼ぶ人物であれば相応の器量を備えた者であろうと、そう思ったのでございます。
……甘うございました。
資料を読ませていただきました。幼年学校の視察で幼子に向かって市場淘汰の論理を説く。禁煙は一週間と持たぬ。
焼きそばパンを懐に忍ばせてアリウス女大公の機嫌を窺う。帝国の行事でアリウス殿の隣に立たされて青ざめる。ゲーミングTシャツの少年公と対戦して、使用するキャラクターが赤いドレスのアリウス殿……。
何でございましょう、これは。
私は聖山の頂で昊龍の幻影と蒼嵐の霊に相対し、魂を灼かれる試練を経て将星の座に就きました。あの男は――帝国の行事でアリウス殿の隣に並ばされて魂を灼かれている。……いえ、比べるものではございませんね。比べてはなりません。なりませんが、つい。
しかし。
しかし、でございます。
私はあの男を笑い飛ばすことができません。資料の行間に滲むものを、この老いぬ目は見落とせないのです。
あの男は、替え玉でございましょう。本物の
ヴァンス・フリートンと入れ替わり、全ての指揮権を継いだ存在。つまり、自分自身が何者であるかという問いを、生涯の起点から抱えて立っている。名すら借り物。経歴すら継ぎ接ぎ。それでいて数千年を生き延び、国を建て、国を壊し、国を手放し、また別の国で政務を執っている。
……覚えがございます。その感覚に。
私もまた、永い時の中で自分が何者であるかを幾度も見失いかけました。親しい者が老いて去り、その度に蓋をして、蓋の下に何が溜まっているのかも分からぬまま皇将の務めを続けている。仮面の上に仮面を重ね、どちらが素顔かも判じかねる。あの男が自己紹介で吐いた台詞――「全ての責任は大統領であるこの私が持つ」――あれは、道化の仮面で覆った覚悟の言葉でございましょう。少なくとも、私にはそう聞こえました。
あの男の語録を読んでいて、一箇所だけ、手が止まった場所がございます。
幼女に向けて語った言葉。「誰もが触れたがらない荷物をオジサンが背負って、どんな困難にも立ち向かっているからだよ」。
……あの言い回しは、嘘ではございません。嘘を吐ける人間は、あのような不器用な比喩を選びません。幼子の目線に合わせて膝を折り、自分が嫌われている理由を「荷物を背負っているから」と言い換えた。政敵への報復は容赦なく、裏切り者は奈落に突き落とすと豪語する男が、五歳の子供の前では牙を仕舞い、哀愁を漂わせる。
あれは、鎧の隙間から覗いた地金でございましょう。
私にも似たような瞬間がございます。戦場では冷たい顔で部隊を動かし、外交の席では穏やかに微笑む。どちらも本当で、どちらも仮面。あの男もまた、同じ構造を持っている。ただ、私が静謐で覆い隠すものを、あの男は喧騒と道化で覆い隠している。手法が正反対なだけで、蓋の下に溜まっているものの重さは、おそらく――。
いえ、勝手に量るのは無礼でございますね。
あの男の政治手法について申し上げれば、正直なところ、眉を顰める部分は少なくございません。利権の付け替え、メディアの掌握、人事の恣意的な支配、気に入らぬ官僚の地方左遷。連邦の統治において私が最も心を砕いてきたのは、護族・転移者・妖魔の間の誇りを損なわぬ調停でございます。特定の勢力に肩入れせず、角を削りすぎず、匙加減を手探りで続ける。それが私の流儀。
あの男の流儀は真逆でございます。角をへし折る。折った角で別の角を叩く。叩いた後に飴を配る。配った飴の代金を別の誰かに請求する。……乱暴でございます。けれど、それで数千年、国が回っていたのもまた事実。
料理に例えるならば――私は火加減を見ながら、焦げぬよう、生煮えにならぬよう、じっくりと煮込む調理法。あの男は強火で一気に炒め、焦げた部分は笑って削ぎ落とし、「焦げも味のうちだ」と客に出す。……客が文句を言えば「なら自分で作れ」と返す。
困ったことに、あの男の料理を食べた者の中に、「不味くはなかった」と呟く者が一定数いるのでございます。
あの男は、自らが完成させた独裁体制を、自らの意志で手放しております。セトルラームでは世論に追い出されたが、レシェドルトでは自分から降りた。この一点だけで、私はあの男を単なる権力亡者とは呼べなくなりました。
権力を手放すということが、どれほどの覚悟を要するか。私は知っております。皇将の座は合議の主宰であり、降りようと思えば降りられる。けれど、降りた後に連邦がどうなるかを考えると、手が離せない。責任という名の鎖は、自分で巻いたものほど解きにくいのでございます。
あの男は、その鎖を断ち切った。断ち切った後、旧友の船に乗り込んで、かつて煮え湯を飲まされた相手と四百五十年の航海に出た。……その胸中を思うと、少しだけ、炎以外のもので胸が熱くなります。焔喰らいの発作ではございません。多分。
一つ、どうしても解せぬことがございます。
あの男は、アリウス女大公を心の底から恐れている。文武に長けた御方の前では猫のようにしおらしくなる、と。逃亡を図り、手錠をかけられて連れ戻され、お尻をムチで叩かれる。
……私は
聖道巫術の奥義を極め、龍炎旋風で重戦艦を呑み込み、焔心魂耗で魂を燃料に変えて戦場を焼き尽くす術を持っております。「鳳凰赤瞳」の異名は敵に畏怖を刻むものでございます。
それでも、あの男がアリウス殿から逃げ回る姿を想像すると、勝てる気がしない。いえ、アリウス殿に、ではなく。あの男の「逃げ足」に、でございます。数千年かけて磨き上げた逃走術。あらゆる政敵、暗殺者、革命家から生き延びてきた男の保身能力。……焔凰乱舞で追い詰めたところで、あの男は笑いながら裏口から消えていそうでございます。
フォレニア公国での姿。五貴族家の合議に自ら収まり、聖貴族会議長として調停に回っている、と。
……変わったのでございましょうか。それとも、変わっていないのでしょうか。
蒼嵐の霊が私に告げた言葉を思い出します。「磨り減った時に何が残るかが、お前の本性だ」と。あの男は数千年の権力闘争で何もかも磨り減らし、独裁を完成させて手放し、長い航海を経て、最後に残ったものでトローネ殿の傍に立っている。
残ったものが何であるかは、私には分かりません。けれど、残ったものがある、ということだけは確かでございましょう。何も残らなかった者は、新しい国で議長など務めません。
総じて申し上げれば。
ヴァンス・フリートンという男は、私とは何もかもが違います。私が沈黙で耐えるところを、あの男は叫ぶ。私が瞑想に沈むところを、あの男はネットワーク空間に漂う。私が庭園で風に吹かれるところを、あの男は要塞カフェを貸し切る。私が茶の湯気に時間の形を見出すところを、あの男は炭酸紅茶を飲みながら処刑用BGMを流す。
――何もかもが違う。
けれど、蓋の下に溜まっているものの正体が分からぬまま、それでも務めを果たし続けているという一点において、私はあの男と同じ病を抱えているのかもしれません。焔喰らいの病ではなく、もっと古い、名前のつかない病を。
永く生きすぎた者だけが罹る病を。
最後に一つだけ。
あの男が語録の中で、こう申しておりました。「結局のところ、人間関係には利害がつきものでね。健全に人を動かしたくば、不断の努力をもって尊敬を勝ち取る他あるまい」と。
私ならばこう返しましょう。
「お茶が冷めるのを眺めるのが好きなのです。湯気が立ち昇り、やがて静かに消えていく。……フリートン殿。貴方は炭酸紅茶がお好みとのこと。あれは湯気が立ちませんね。泡が弾けて、すぐに消える。……似ておりますよ、貴方に。騒がしくて、刹那的で、けれど確かにそこに在った、という痕跡だけを残す」
嫌いではございません。
嫌いではございませんが、隣に座りたいかと問われれば――アリウス殿の反対側の席は、ご遠慮申し上げます。あの方のムチの射程に入るのは、焔喰らいの発作より堪えそうでございますから。
……煙が目に沁みただけでございます。火を扱う女の宿命なの。
だから、そんな顔で見ないでくださいまし。
最終更新:2026年04月20日 02:08