麗華瑞 独白録 ── 「トローネ皇帝について」
……あの子のことを、と。
「あの子」と呼ぶのは不敬でございましょうか。
共立世界に名を轟かせる連合帝国の皇帝陛下に対して。けれど、どうか許していただきたい。千年以上を生きた身には、十アストラ歳の少女の姿で不老を保つ御方を、どうしても「あの子」と呼んでしまう業がございます。
……そして、その業の奥に、私自身の痛みが横たわっていることも、承知しております。
湧羅戦争の折、私は連合帝国の打撃艦隊と刃を交えました。過激派が皇帝の制止を振り切って出航した、と。つまり、あの戦は皇帝陛下の意に反して始まったものでございます。
戦場で私が焼いたのは、皇帝の艦隊ではなく、皇帝を裏切った者たちの艦隊であった。この事実を、私は戦の最中から承知しておりました。龍炎旋風で重戦艦を呑み込む刹那にも、脳裏の片隅には「この艦を送り出した国の頂に立つのは、まだ幼い少女なのだ」という認識がございました。
戦後、捕虜を礼をもって帰したのは、私なりの武の流儀でもありましたが、同時に、あの子への――いえ、皇帝陛下への、無言の書簡でもありました。「貴方の臣民を、貴方にお返しいたします。私が焼いたのは貴方ではなく、貴方を欺いた者たちの傲慢でございます」と。
あの子が、それを受け取ってくださったのかどうか。……受け取ってくださったのでしょう。でなければ、両国の関係が敵対から友好へ転じることはなかったはずでございます。
資料を拝読いたしました。読み進めるほどに、胸の奥の蓋が軋む音がいたしました。
五歳で臣民の前に立ち、パレードの群衆に圧倒されながらも最後には笑顔を見せた赤子。路地裏で痩せ衰えた少女を見つけ、恐怖に足が竦みながらも背負って歩いた幼子。母を喪い、即位式の前夜にブラックジョークで周囲を笑わせながら、実は押し潰されそうになっていた少女。
……私は、そのどの瞬間にも居合わせておりません。けれど、あの子が経てきた道の一歩一歩が、手に取るように分かるのでございます。
なぜなら、私も同じことをしてきたからです。
笑顔を貼り付ける。必要な時だけ笑い、笑みが眼の奥まで届かぬことに気づかれぬよう振る舞う。ある側仕えの回想に「笑みが眼の奥まで届いていると感じた者は極めて稀」と記されているそうでございますが、あの子もまた、共立公暦六年の即位式から「本心から笑うことを忘れて、必要な時は笑顔を貼り付ける事を覚えた」と。
同じでございます。
手法まで同じなのです。
けれど、一つだけ、決定的に違うことがございます。
私が感情の蓋を閉じたのは、千年をかけて、少しずつ、少しずつ、親しい者たちを見送るたびに、でございました。緩やかな侵食。波が岩を削るように、歳月が私の表情を削った。
あの子は、十にも満たぬ歳で、それを強いられた。
母を喪い、貴族の操り人形にされ、五十年もの間、神に近しいとされる皇帝でありながら何の力も持たなかった。私の千年が一瞬に圧縮されて、幼い魂に叩きつけられたようなものでございます。
……それでいて、あの子は壊れなかった。
壊れなかったどころか、近衛騎士団を率いて夜襲を仕掛け、五十年分の鬱屈を一夜で晴らした。「消しても消しても増えてくる……ホントしつこいよねガルロ派!」と零しながら。
あの台詞を読んだ時、私は不覚にも笑ってしまいました。声に出して。庭園で瞑想していた最中に。蒼鳳麟が驚いて駆け寄ってまいりましたが、何でもないと手を振って追い返しました。
何でもなくはなかったのですけれど。
あの子の「豪遊」について。
宮殿惑星。小さな惑星を丸ごと一つ買い取り、巨大な宮殿世界に改造した。旧式の宙軍艦を海中に保存して眺め、「この重戦艦なんか表面のゴツゴツが実に綺麗だ!」と目を輝かせる。
……批判する気にはなれません。
私にも庭園がございます。羅雲鏡都の庭園で、風に吹かれながら何時間も動かずにいる。あれは瞑想でもあり、発散でもあり、もっと正確に申し上げれば、壊れないための杖でございます。あの子の宮殿惑星も同じ。壊れないために作った、自分だけの世界。
手段が違うだけです。私は静寂に逃げ、あの子は絢爛に逃げる。私は風に吹かれ、あの子は軍艦のゴツゴツを愛でる。逃げ込む先の形が違うだけで、逃げなければ立っていられない、という構造は同じでございます。
あの子の側近たちが「これがストレスに押し潰されない為の発散である事を理解しており、むしろ積極的に彼女の地位向上に協力した」と。……良い側近をお持ちでございますね。私の側近たちも、庭園での長い沈黙を咎めずにおいてくれます。理解してくれているのか、諦めているのか、それは分かりませんけれど。
不老化について。
「純粋な少女らしい美しさを保つことが最も合理的で、不利な局面においても、この愛らしさを武器に生き残りを図りたい」と。
……聡い子でございます。恐ろしいほどに。
十歳の姿のまま永遠を生きると決めた。大人としての成長を捨てた。その決断の重さが、あの子にどれほどのものであったか。不老化の治療を受けるまでの間、画家に自分の成長した姿を描かせて、それを眺めて過ごしたと。
……ここを読んだ時、私は庭園の石に腰を下ろしたまま、しばらく動けませんでした。
私の不老不死は永生の術によるものでございます。火の属性を極めた代償として焔喰らいの病を抱え、死なぬ代わりに苦痛は消えぬという、いわば呪いに近いもの。それでも私は、成人した姿のまま永遠を受け入れました。大人としての身体を持ち、大人としての振る舞いを鎧にして、千年を歩いてまいりました。
あの子は、それすらも許されなかった。自らの意志で選んだとはいえ、「武器として幼さを纏う」と決断せざるを得ない状況そのものが、既に一種の呪いでございます。
私の鎧は静謐な知性。あの子の鎧は愛らしい笑顔。どちらも本当の自分を覆い隠すためのもの。ただ、私の鎧は歳月が勝手に纏わせたもので、あの子の鎧は十歳の少女が自分で選び取ったもの。
どちらが重いかなど、量るまでもございません。
あの子とフリートンの関係について、少し触れさせてください。
「気の合うおじさん」と。数ヶ月ごとに季節の贈り物や高級なタバコを贈り合う仲。大統領選後に支持率の数値が低い場合はお茶目な嫌がらせをする。「55%ですか……ギリギリおめでとうございます!」
……あの男を「気の合うおじさん」と呼べる存在が、この共立世界に何人いるでしょうか。
前回の独白で、私はフリートンという男を「嫌いではございません」と申しました。その評価は今も変わりません。けれど、あの子とあの男の関係を見ると、少しだけ羨ましいと思う気持ちが湧くのでございます。
あの男は道化で、あの子は道化の観客であり、同時にあの男もまたあの子の道化を見抜いている。互いの仮面の裏を知りながら、それを暴かず、タバコと嫌がらせを交換し合う。ある種の信頼でございましょう。言葉にしない信頼。私がフリートンと同じ距離感を持てるかと問われれば、難しいと申し上げざるを得ません。私は黙りすぎるのです。贈り物を選ぶ余裕もなく、庭園で風に吹かれているばかりでは、あのような関係は築けますまい。
あの子があの男に帝国貴族の身分を与えたのは、政治的な計算だけではないと私は見ております。あの男を帝国の懐に抱え込めば、セトルラーム国内でフリートンに手を出しにくくなる。それは確かに計算でございましょう。けれど、それだけの理由で高級なタバコは贈りません。
共立公暦999年の戦禍について。
「クッソ!……はぁ……分かった……」と悲痛な表情で平和維持軍との共同作戦を承認し、翌年の1000年に「予定してたパレードは?各国を招いての式典は?」と叫ぶあの子の姿。
そして――「おねぇざまぁぁぁぁ!!余の艦隊がぁぁぁ!!騎士団員が死んじゃった!!余は悲しい!撫でて!」
この台詞を読んだ時、私は自分の語録を思い出しました。「……やめてちょうだい。戦死者の名前を、そんなふうに会議の駒みたいに並べないで。お願いだから」。
同じ痛みでございます。同じ。
ただ、あの子はそれを「撫でて」と言える。声に出して、信頼する者に泣きつける。私にはそれができない。蓋を開ければ皇将としての務めに差し障ると、千年かけて思い込んでしまった私には、「撫でて」の一言が出てこないのです。
あの子の強さは、泣ける強さでございます。
私の強さは、泣けない強さ。
どちらが本当の強さかと問われれば――あの子の方でございましょう。泣いた後に立ち上がれる者は、泣かずに立ち続ける者より、ずっと長く歩ける。私は千年歩いてまいりましたが、歩いてきたのか、立ち尽くしていただけなのか、時々分からなくなるのです。
あの子の母君、ガルーネ陛下のことを。
私は葬儀に参列しておりません。当時の連邦はまだ開国の是非を巡って内部が揺れておりました。けれど、ガルーネ陛下の日記の一節――「辛い時期をたくさん経験したが、この笑顔を見た瞬間全て報われた」――を資料で目にした時、不意に、私が最後に見送った者の顔が浮かびました。
誰であったか。名は申しますまい。千年の間に見送った者は数え切れず、その中の誰の顔が浮かんだのかすら定かではない。ただ、「この笑顔を見た瞬間全て報われた」という言葉が、胸の蓋の裏側に沁みたのでございます。
あの子は、母の死に際して「異質な程落ち着いていた」と。生前の約束を守るために。泣くことを後回しにして、本音を明かしたのはセルブラーナ殿とアリウス殿にだけであったと。
十歳の少女が、母の棺の前で泣くことを自分に許さなかった。
……私は何歳の時に泣くことを自分に許さなくなったのか、もう覚えておりません。千年も前のことでございます。けれど、あの子はそれが何歳であったか、一生忘れないのでしょう。忘れることを不老の身体が許さないから。
「偽りの君主制」。
この言葉が資料の中にございました。あの子の治世の前半、皇帝とは名ばかりで、実権は貴族たちに握られていた。五十年もの間、操り人形として。
私の連邦もまた、護族・転移者・妖魔の合議で成り立つ国でございます。皇将は合議の主宰であり、独断は許されません。その意味では、私もまた「偽りの統治者」と呼ばれ得る存在かもしれない。けれど私の場合、合議の枠組みそのものを私が守り、育ててきた。自らの手で自らを縛る鎖を鍛えたのです。あの子の場合は、他者が鎖をかけた。かけられた鎖を五十年耐え忍び、ある夜、夜襲で叩き斬った。
「余は50年バカな貴族どもの操り人形だった……もう……いいよな!!」
いいに決まっておりましょう。五十年も。五十年も操り人形を強いられて、なお「いいよな」と確認を求めるあの子の律儀さが、痛ましくもあり、同時に、あの子が根の部分では善良な魂であることの証左でもございます。
独裁者と呼ばれる者が二人おります。あの子と、フリートンと。けれど、二人の独裁の質は全く異なる。フリートンの独裁は「目的のために手段を選ばぬ」冷徹な政治手腕から生まれたもの。あの子の独裁は「もう二度と操り人形にはならぬ」という悲痛な決意から生まれたもの。
前者は計算。後者は慟哭。
路地裏で倒れていた少女を背負い、走った幼いトローネ。その少女が生涯をトローネに捧げた。
……私にも蒼鳳麟がおります。発作の間、政務を委ね、私室の前で静かに控えていてくれる存在。けれど、蒼鳳麟は皇将丞としての職務で私を支えている。セルブラーナ殿は、そうではない。「人生の全てをトローネ個人に捧げた」と。職務ではなく、存在そのものを。
それは、あの子が五歳の時に「恐怖に足が竦みながらも背負って歩いた」から生まれた絆でございましょう。恐怖の中で手を差し伸べた者だけが得られる、無条件の忠誠。
私は戦場で多くの者を救い、多くの者を犠牲にしてまいりました。けれど、路地裏で倒れた一人の少女を背負う、あの五歳の行為には、私の千年のどの場面も敵わない気がするのです。戦略も術式も要らない。ただ、怖くても背負う。それだけのことが、この世で最も難しいのかもしれません。
冬スプリクト。氷を自在に操る力。「一度氷で大型空母を作ろうとして倒れた事がある」と。
……思わず口元が緩みました。
私も似たことをしたことがございます。焔心魂耗を修練中に、限界を見極めようとして術式を暴発させ、聖山の森林を半里ほど焼いてしまったことが。蒼嵐の霊が生きておられたなら、頭を抱えたことでございましょう。
あの子は氷、私は炎。対極でございますね。けれど、「やりすぎて倒れる」という点では同類でございます。自分の限界を確かめずにはいられない性分。もしもあの子と手合わせをする機会があったならば、焔壁護衛と冬スプリクトの結界がぶつかり合って、間で大量の蒸気が立ち昇り、互いに何も見えなくなるのではないかと想像いたします。
蒸気の向こうで、あの子は笑っていそうでございます。少女の姿で、けれど瞳だけは千年を知る者の光を宿して。
あの子とアリウス殿の関係。
「アリウスお姉様」と呼び慕う。精神状態が悪化していた四十五年の間も手紙を書き続けてくれた存在。泣きつける存在。
アリウス殿は、フリートンにとっては天敵であり恐怖の対象であり、あの子にとっては「お姉様」である。同じ人物がこれほど異なる関係性を二人の独裁者と結んでいるのは、実に興味深い。フリートンは逃げ、トローネは泣きつく。アリウス殿の前で。
私は、アリウス殿と直接の面識を持ちません。けれど、あの子とフリートンの双方に、これほど深く関わっている御方であれば、いずれお目にかかる機会もございましょう。その時は、お茶の一杯でもお出しして、湯気の立ち昇る様を一緒に眺めたいものでございます。
……ムチは、ご遠慮申し上げますけれど。
総じて申し上げれば。
トローネ・ヴィ・ユミル・イドラムという方は、私にとって鏡のようなお方でございます。ただし、映っているのは私の姿ではなく、私が「こうであったかもしれない」姿。もしも私が千年前、まだ幼い頃に全てを背負わされていたなら。もしも私が感情の蓋を閉じる前に、泣きつける「お姉様」が傍にいたなら。もしも私が静寂ではなく絢爛の中に逃げ場を見出していたなら。
あの子のようになっていたかもしれません。あるいは、なれなかったかもしれません。
一つだけ確かなことがございます。あの子は、皇帝という重荷を、少女の身体で背負い続けている。私は皇将という重荷を、不老の成人の身体で背負っている。重荷の形は違えど、背骨に食い込む痛みは同じでございましょう。
そして、あの子は――痛みの中で、なお人を救おうとする。路地裏で少女を背負った五歳の頃から、何一つ変わっていない。操り人形にされても、母を喪っても、艦隊を焼かれても、「撫でて」と泣いた後にはまた立ち上がって、臣民の前に笑顔を貼り付けて歩いていく。
あの笑顔が「貼り付けたもの」であることを、私は知っております。同業者でございますから。
けれど。
あの子の笑顔には、私の微笑にはないものが一つだけ宿っている。それは、「いつか本当に笑える日が来る」という、まだ捨てきれていない祈りでございます。千年を生きた私の微笑からは、とうに蒸発してしまったもの。
最後に。
あの子が語った言葉を、一つだけ。
「沢山の好きな物を集めて沢山の大切な者と繋がることができたから」
……私は、好きな物を集めることを、いつの間にかやめてしまいました。集めても、いずれ喪うと知っているから。庭園の風も、冷めていく茶も、残るものではなく、過ぎていくものばかりを愛でるようになった。
あの子は集める。宮殿惑星を。旧式艦を。タバコを。友人を。側近を。お姉様を。集めて、集めて、失う恐怖を抱えながらも、それでも集め続ける。
あの子の方が、私より余程、生きることに誠実でございます。
永生の術で死を遠ざけた私よりも、十歳の姿で永遠を選んだあの子の方が、よほど「生きている」のかもしれません。
……もし叶うならば。
あの子に、お茶を一杯、差し上げたいものでございます。炭酸紅茶ではなく、静かに湯気の立つ、普通のお茶を。そして二人で黙って、湯気が消えていくのを眺めたい。
あの子はきっと、退屈して「ねぇ、これいつ飲むの?」と聞いてくるでしょう。
「湯気が消えてからでございますよ、陛下」と返しましょう。
「えぇ?なんで?」と首を傾げるでしょう。
「湯気が立ち昇り、やがて静かに消えていく。あれは時間の形をしているのです。消えるところまで見届けてから飲むと、少しだけ、時間に優しくなれるのでございますよ」
あの子は「変なの」と笑うでしょう。
その笑いが、貼り付けたものではなく、本当の笑いであったなら。
私の千年にも、少しは意味があったと思えるのかもしれません。
煙が目に沁みた、などとは申しません。今日は火を使っておりませんから。
ただ、少しだけ。瞳の赤みが、いつもより強く揺れている気がいたします。
焔喰らいの発作ではございません。……多分。
最終更新:2026年04月20日 02:08