唐書巻三十六
志第二十六
五行三
水不潤下 常寒 鼓妖 魚孽 蝗 豕禍 雷電 霜 雹 黒眚黒祥 火沴水 常陰 霧 虹蜺 龍蛇孽 馬禍 人痾 疫 天鳴 隕石
『洪範五行伝』に「宗廟をおろそかにし、祈祷をせずに、祭祀を廃止し、天の時に逆らうと、水は潤い下らなくなる」とあり、水が本来の性質を失って、百川が逆流してあふれ、郷邑を壊し、人民を溺れさせ、災いをおこすことをいう。また『洪範五行伝』に「耳が人の言葉をよく聴かないこと、これを不謀(浅慮)という。これによって起こる咎徴は急で、その罰は常寒(厳寒)、六極では貧しさがこれに当たる。時に鼓妖が起こり、時に豚の禍が起こり、時に耳の痾が起こり、時に雷電・霜・雪・雨・雹が起こり、黒色の眚・祥が現れる。これは火が水を損ねたのである」とある。
水不潤下(水は潤い下らなくなる)。
貞観三年(625)秋、貝、譙州・鄆州・泗州・沂州・徐州・豪州・蘇州・隴州の九州で水害となった。水は太陰の気である。もし臣下が道を独占し、女官が君主に個人的な要望を行い、夷狄が強く、小人が褒貶し、厳刑によって勝手すると、下民がその憂いにたえず、そこで則陰性の物質が勝り、その気は応じて水が至り、天に謫見(天からの譴責)され、月および辰星(水星)は列星(二十八宿)の司水なる者とともにこれに変化し、もし七曜(太陽・月・火星・水星・木星・金星)が中道(太陽の運行する道)の北に従えば、皆水祥である。貞観四年(630)秋、許州・戴州・集州の三州で水害となった。貞観七年(633)八月、山東、河南の四十州で大水害となった。貞観八年(634)七月、山東、江淮で大水害となった。貞観十年(636)、関東および淮海の旁らの二十八州で大水害となった。貞観十一年(637)七月癸未、黄気が天にわたり、大雨となり、穀水が氾濫して洛陽宮に入り、深さ四尺となり、左掖門を破壊し、官寺十九を破壊し、洛水は六百家以上を漂わせた。九月丁亥、黄河が氾濫し、陝州の河北県および太原倉を壊し、河陽の砂州を壊した。貞観十六年(642)秋、徐州・戴州の二州で大水害となった。貞観十八年(644)秋、穀州・襄州・豫州・荊州・徐州・梓州・忠州・緜州・宋州・亳州の十州で大水害となった。貞観十九年(645)秋、沁州・易州の二州で水害となり、実りを阻害した。貞観二十一年(647)八月、河北で大水害となり、泉州の海は氾濫し、驩州で水害となった。貞観二十二年(648)夏、瀘州・越州・徐州・交州・渝州等の州で水害となった。
永徽元年(650)六月、新豊県・渭南県で大雨となり、零口の山から水が突然出て、家や建物を流された。宣州・歙州・饒州・常州等の州で大雨・水害となり、溺死者数百人であった。秋、斉州・定州等の十六州で水害となった。永徽二年(651)秋、汴州・定州・濮州・亳州等の州で水害となった。永徽四年(653)、杭州・夔州・果州・忠州等の州で水害となった。永徽五年(654)五月丁丑夜、大雨で、麟遊県の山から水が出て
万年宮の玄武門をつき、寝殿に入り、衛士で溺死する者がいた。六月、河北で大水害となり、滹沱河が氾濫し、五千家以上が失われた。永徽六年(655)六月、商州で大水害となった。秋、冀州・沂州・密州・兗州・滑州・汴州・鄭州・婺州等の州で水害となり、実りを阻害した。洛州で大水害となり、
天津橋を破壊した。十月、斉州の河が氾濫した。
顕慶元年(656)七月、宣州涇県の山で水が突然出て、地の上を平らかにすること四丈(約12m)、溺死者は二千人以上であった。九月、括州で暴風雨があり、海水が溢れ、安固県・永嘉県の二県を破壊した。顕慶四年(659)七月、連州の山で水が突然出て、七百家以上が流された。
麟徳二年(665)六月、鄜州で大水害があり、人のいる家や建物を破壊した。
総章二年(669)六月、括州で大風雨があり、海が溢れ、永嘉県・安固県の二県を破壊し、溺死者九千七十人となり、冀州で大雨となり、水が地の上を平らかにし、深さ一丈(約3m)、民家一万家を破壊した。
咸亨元年(670)五月丙戌、大雨となり、山から水が溢れ、溺死者五千人以上となった。咸亨二年(671)八月、徐州の山で水が出て百家以上が流された。咸亨四年(673)七月、婺州で大雨となり、山で水が暴漲し、溺死者五千人以上となった。
上元三年(676)八月、青州で大風があり、海が溢れ、民家五千家以上を流された。斉州・淄州等の七州で大水害となった。
永隆元年(680)九月、河南・河北で大水害となり、溺死者は非常に多かった。永隆二年(681)八月、河南・河北で大水害となり、民家十万家以上を破壊した。
永淳元年(682)五月丙午、東都で連日大雨となり、乙卯、洛水が氾濫し、
天津橋および
中橋を破壊し、民家千家以上を流された。六月乙亥、京師で大雨となり、水が地を平らかにすること深さ数尺であった。秋、山東で大雨となり、水害・大飢饉となった。永淳二年(683)七月己巳、河が氾濫し、河陽橋を破壊した。八月、恒州の滹沱河および山の水が突然溢れ、実りを阻害した。
文明元年(684)七月、温州で大水害となり、千家以上が流された。括州の渓水が突然膨張し、溺死者百人以上となった。
如意元年(692)四月、洛水が氾濫し、
永昌橋を破壊し、民家四百家以上を破壊した。七月、洛水が氾濫し、民家五千家以上を破壊した。八月、河が河陽県に氾濫した。
長寿二年(693)五月、棣州で河が氾濫し、民家二千家以上を破壊した。この年、河南の十一州で水害となった。
万歳通天元年(696)八月、徐州で大水害となり、実りを阻害した。
神功元年(697)三月、括州で水害となり、民家七百家以上を破壊した。この年、河南の十九州で水害となった。
聖暦二年(699)七月丙辰、神都で大雨となり、洛水が
天津橋を破壊した。秋、河が懷州で氾濫し、千家以上が流された。聖暦三年(700)三月辛亥、鴻州で水害となり、千家以上が漂流され、溺死者四百人以上となった。
久視元年(700)十月、洛州で水害となった。
長安三年(703)六月、寧州で大雨が降り、水害となり、二千家以上が流され、溺死者千人以上となった。長安四年(704)八月、瀛州で水害となり、民家数千家を破壊した。
神龍元年(705)四月、雍州同官県で大雨が降って水害となり、民家五百家以上が流された。六月、河北の十七州で大水害となった。七月甲辰、洛水が氾濫し、民家二千家以上を破壊した。神龍二年(706)四月辛丑、洛水が
天津橋を破壊し、溺死者数百人となった。八月、魏州で水害となった。
景龍三年(709)七月、澧水が氾濫し、実りを阻害した。九月、密州で水害となり、民家数百家を破壊した。
開元三年(715)、河南・河北で水害となった。開元四年(714)七月丁酉、洛水が氾濫し、舟数百艘が沈んだ。開元五年(717)六月甲申、瀍水が氾濫し、溺死者千人以上であった。鞏県で大水害となり、城邑を破壊し、民家数百家が失われた。河南で水害となり、実りを阻害した。開元八年(720)夏、契丹が営州に侵攻し、関中の兵士を出発して援軍とし、澠池の欠門山に行き、穀水の上で野営したが、夜半ば、山からの水が突然来て、一万人以上が全員溺死した。六月庚寅夜、穀水・洛水が氾濫し、西は
上陽宮に入り、宮人の死者は十人中七・八人に及び、畿内の諸県の田の実り、家や建物は払底してしまい、掌閑の衛兵で溺死する者は千人以上で、京師の
興道坊が一夜にして陥没して池となり、民家五百家がすべて没して見えなくなった。この年、鄧州三鴉口が大水で谷を塞いだ。二小児が水浴びをしているのが見え、しばらくして大蛇が十匹取り囲み、口を広げて天を仰いだ。ある者が割いてこれを射ると、突然暴雷雨となり、数百家が流された。開元十年(722)五月辛酉、伊水が氾濫し、東都城東南隅を破壊し、地を平らかにすること深さ六尺、河南の許州・仙州・豫州・陳州・汝州・唐州・鄧州等の州で大水害となり、実りを阻害し、民家を流し、溺死者は非常に多かった。六月、博州・棣州で河が決壊した。開元十二年(724)六月、豫州で大水害となった。八月、兗州で大水害となった。開元十四年(726)秋、全国の五十州で水害となり、河南・河北が最もひどく、河および支流がすべて氾濫し、懐州・衛州・鄭州・滑州・汴州・濮州の人ある者は樹上、ある者は舟に居住し、死者千人を数え、潤州は大風が東北より吹き、海の大波で瓜歩州が水没した。開元十五年(727)五月、晋州で大水害となった。七月、鄧州で大水害となり、溺死数千人となった。洛水が氾濫し、鄜城に入り、地を平らかにすること深さ一丈(2.9m)以上、死者は数え切れず、同州の城市および馮翊軒を破壊し、民家二千家以上を流した。八月、澗水・穀水が氾濫し、澠池県を破壊した。この秋、全国の六十三州で大水害となり、実りを阻害し民家の家・建物を破壊し、河北が最もひどかった。開元十七年(729)八月丙寅、越州で大水害となり、州県の城を破壊した。開元十八年(730)六月壬午、東都の瀍水が揚州・楚州等の州の租船を破壊し、洛水が
天津橋・
永済橋の二橋および民家千家が破壊された。開元十九年(731)秋、河南で水害があり、実りを阻害した。開元二十年(732)秋州・宋州・滑州・兗州・鄆州で大水害となった。開元二十二年(734)秋、関輔、河南州十餘で水害となり、実りを阻害した。開元二十七年(729)三月、澧州・袁州・江等の州で水害となった。開元二十八年(740)十月、河南郡十三で水害となった。開元二十九年(741)七月、伊水・洛水および支流がすべて氾濫し、実りを阻害し、
天津橋および東西漕、
上陽宮の兵舎を破壊し、溺死者千人以上となった。この秋、河南・河北郡の二十四州で水害となり、実りを阻害した。
天宝四載(745)九月、河南・淮陽・睢陽・譙の四郡で水害となった。天宝十載(751)、広陵の大風が海潮を動かし、江口の船数千艘を沈めた。天宝十三載(753)九月、東都の瀍水・洛水が氾濫し、十九坊を破壊した。
広徳元年(763)九月、大雨が降り、地を平らかにすること数尺、当時、吐蕃が京畿に侵攻していたが、水害によって勝手に壊滅して去った。広徳二年(764)五月、東都に大雨が降り、洛水が氾濫し、二十坊以上を流した。河南諸州で水害となった。
大暦元年(766)七月、洛水が氾濫した。大暦二年(767)秋、湖南および河東・河南・淮南・浙東・浙西・福建等の道の五十五州で水害となった。大暦七年(772)二月、江州の江が氾濫した。大暦十年(775)七月、杭州の海が溢れた。大暦十一年(776)七月戊子、夜に雨が降り、京師の地を水が平らかにすること一尺以上、溝渠は膨張して溢れ、民家千家以上を破壊した。大暦十二年(777)秋、京畿および宋州・亳州・滑州の三州で大雨が降って水害となり、実りを阻害し、河南が最もひどく、地を水が平らかにすること深さ五尺(149cm)、河が氾濫した。
建中元年(780)、幽州・鎮州・魏州・博州で大雨が降り、易水・滹沱河が溢れ出し、山から下って、石を転がして樹を折り、水の高さは一丈(約3m)以上で、実りを阻害しつくしてしまった。
貞元二年(786)六月丁酉、大風雨となり、京城の街路が水害となって深さ数尺で、溺死者がいた。東都・河南・荊南・淮南の江・河が氾濫した。貞元三年(787)三月、東都・河南・江陵、汴州・揚州等の州で大水害となった。貞元四年(788)八月、灞水が突然氾濫し、百人以上を殺した。貞元八年(792)秋、江淮・荊州・襄州・陳州・宋州から河朔までの四十州以上で大水害となり、実りを阻害し、溺死者二万人以上、城郭・家や建物を水没させ、幽州の地を水が平らかにすること深さ二丈(約6m)、徐州・鄭州・涿州・薊州・檀州・平州等の州で、すべて深さが一丈(約3m)以上となった。貞元八年(792)六月、淮水が氾濫し、地を水が平らかにすること七尺(210cm)、泗州城が水没した。貞元十一年(795)十月、朗州・蜀州の二州で江が氾濫した。貞元十二年(796)四月、福州・建州の二州で大水害となり、嵐州で突如雨が降り、水の深さ二丈(6m)となった。貞元十三年(797)七月、淮水が亳州で氾濫した。貞元十八年(802)春、申州・光州・蔡州等の州で大水害となった。
永貞元年(805)夏、朗州の熊・武の五渓が氾濫した。秋、武陵県・龍陽県の二県の江が氾濫し、一万家を流した。京畿の長安県等の九県で山から水が出て実りを阻害した。
元和元年(806)夏、荊南および寿州・幽州・徐州等の州で大水害となった。元和二年(807)六月、蔡州で大雨が降り、地を水が平らかにすること深さ数尺となった。元和四年(809)十月丁未、渭南で突然水害となり、民家二百家を流した。元和六年(811)七月、鄜坊・黔中で水害となった。元和七年(812)正月、振武軍の河が氾濫し、東受降城を破壊した。五月、饒州・撫州・虔州・吉州・信州の五州で突然水害となり、虔州が最もひどく、地を水が平らかにすること深さ四丈(12m)となった。元和八年(813)五月、陳州・許州で大雨が降り、大隗山が崩落し、水が流出し、溺死者千人以上となった。六月庚寅、大風となって屋根を壊して瓦を吹き上げ、人々が多く圧死した。京師で大水害となり、城南が深さ一丈(約3m)以上で、
明徳門に入って、車の車輪の跡のようであった。辛卯、渭水が氾濫し、済州が孤立した。当時、所在の百川が氾濫し、多くの道が途絶した。滄州で大雨となり、塩山県等の四県を浸した。元和九年(814)秋、淮南および岳州・安州・宣州・江州・撫州・袁州等の州で大水害となり、実りを阻害した。元和十一年(816)五月、京畿で大雨が降って水害となり、昭応県が最もひどかった。衢州で山から水が出て実りを阻害し、深さ三丈(約9m)、州の城郭を破壊し、溺死者百人以上となった。六月、密州で大風雨となり、海が溢れ、城郭を破壊し、饒州の浮梁県・楽平県の二県で突如雨が降って水害となり、四千戸を流した。潤州・常州・潮州・陳州・許州の五州および京畿で水害となり、実りを阻害した。八月甲午、渭水が氾濫し、
中橋を破壊した。元和十二年(817)六月乙酉、京師で大雨が降って水害となり、
含元殿の柱一本が傾き、市中で水の深さ三尺(90cm)となり、民家二千家以上を破壊した。河南・河北で大水害となり、洺州・邢州が最もひどく、地を水が平らかにすること二丈(約6m)となった。河中・江陵・幽州・沢州・潞州・晋州・隰州・蘇州・台州・越州で水害となり、実りを阻害した。元和十三年(818)六月辛未、淮水が氾濫した。元和十五年(820)秋、洪州・吉州・信州・滄州等の州で水害となった。
長慶二年(822)七月、河南の陳州・許州・蔡州等の州で大水害となり、好畤山から水が出て民家三百家以上を流した。処州で大雨となって水害となり、地を水が平らかにすること深さ八尺(約240cm)、城邑・桑田を破壊したのは大半であった。長慶四年(824)夏、蘇州・湖州の二州で大雨が降って水害となり、太湖が決壊した。睦州および寿州の霍山で山から水が突然出た。鄆州・曹州・濮州の三州で雨が降り、水が州城を破壊し、民家・田の実りをほぼ蕩尽した。襄州・均州・復州・郢州の四州で漢水が決壊した。秋、河南および陳州・許州の二州で水害となり、実りを阻害した。
宝暦元年(826)秋、鄜州・坊州の二州で突然水害となり、兗州・海州・華州の三州および京畿・奉天等の六県で水害となり実りを阻害した。
大和二年(826)夏、京畿および陳州・滑州の二州で水害となり、実りを阻害した。河陽で水害となり、地を水が平らかにすること五尺であった。河が決壊し、棣州城を破壊した。越州で大風となり、海が溢れた。河南の鄆州・曹州・濮州・淄州・青州・斉州・徳州・兗州・海州等の州であわせて大水害となった。大和三年(829)四月、同官県で突然水害となり、三百家以上を流した。宋州・亳州・徐州等の州で大水害となり、実りを阻害した。大和四年(830)夏、江水が氾濫し、舒州の太湖県・宿松県・望江県の三県の民田数百戸を水没させた。鄜坊で水害となり、三百家以上を流した。浙西・浙東・宣歙・江西・鄜坊・山南東道・淮南・京畿・河南・江南・荊襄・鄂岳・湖南で大水害となり、皆実りを阻害した。大和五年(831)六月、玄武県の江が氾濫し、高さ二丈(約6m)で、溢れて梓州羅城に入った。淮西・浙東・浙西・荊襄・岳鄂・東川で大水害となり、実りを阻害した。大和六年(832)二月、蘇州・湖州の二州で大水害となった。六月、徐州で大雨が降り、民家九百家以上を破壊した。大和七年(833)秋、浙西および揚州・楚州・舒州・廬州・寿州・滁州・和州・宣州等の州で大水害となり、実りを阻害した。大和八年(834)秋、江西および襄州で水害となり、実りを阻害した。蘄州の湖水が氾濫した。滁州で大水害となり、一万戸以上が溺れた。
開成元年(836)夏、鳳翔麟遊県で突然雨が降って水害となり、
九成宮を破壊し、民家数百家以上を破壊し、死者百人以上となった。七月、鎮州の滹沱河が氾濫し、実りを阻害した。開成三年(838)夏、河が決壊し、鄭州・滑州の外城に浸水し、陳州・許州・鄜州・坊州・鄂州・曹州・濮州・襄州・魏州・博州等の州で大水害となった。江・漢水が氾濫し、房州・均州・荊州・襄州等の州の民家および田の収穫物を蕩尽した。蘇州・湖州・処州等の州で反乱して水が城に入り、処州で地を水が平らかにすることが八尺(約240cm)となった。開成四年(839)秋、西川・滄景・淄青で大雨となって水害となり、実りを阻害し、民家・建物に影響があり、徳州が最もひどく、地を水が平らかにすること深さ八尺(約240cm)となった。開成五年(840)七月、鎮州および江南で水害となった。
会昌元年(841)七月、江南で大水害となり、漢水が襄州・均州等の州の民家を破壊すること非常に多かった。
大中十二年(858)八月、魏州・博州・幽州・鎮州・兗州・鄆州・滑州・汴州・宋州・舒州・寿州・和州・潤州等の州で水害となり、実りを阻害した。徐州・泗州等の州で水害となり深さ五丈(約15m)となり、数万家を流した。大中十三年(859)夏、大水害となった。
咸通元年(860)、潁州で大水害となった。咸通四年(863)閏六月、東都で突然水害となり、龍門から
定鼎門・
長夏門等の門を破壊し、住人を流して溺れさせた。七月、東都・許州・汝州・徐州・泗州等の州で大水害となり、実りを損なった。九月、孝義山で水が出て深さ三丈(約9m)となり、武牢関の金城門・汜水橋を破壊した。咸通六年(865)六月、東都で大水害となり、十二坊を破壊して流し、溺死者は非常に多かった。咸通七年(866)夏、江淮で大水害となった。秋、河南で大水害となり、実りを阻害した。咸通十四年(873)八月、関東・河南大水害となった。
乾符三年(876)、関東で大水害となった。
光化三年(900)九月、浙江で氾濫し、民家を破壊すること非常に多かった。
乾寧三年(896)四月、河が滑州を破壊したから、
朱全忠がその堤防を決壊して二つの河とし、千里(約430km)以上分散させた。
常寒(厳寒)。
顕慶四年(659)二月壬子、大雪が降った。まさに春は、少陽(ひがし)の農事にいそしむべき季節であって、寒気が脅かすのは、古人は占で、人君が刑罰・法律を残虐に行って節度がないの象であると思っていた。これは厳寒のようなものである。
咸亨元年(670)十月癸酉、大雪で、平地に三尺(90cm)つもり、人々は多く凍死した。
儀鳳三年(679)五月丙寅、
高宗が
九成宮にあって、長雨・極寒となり、護衛の兵士に凍死者が出た。
開耀元年(681)冬、極寒となった。
久視元年(700)三月、大雪となった。
神龍元年(705)三月乙酉、睦州で突然の寒波があって、また凍った。
開元二十九年(741)九月丁卯、大雪が降り、大木が折れ曲がった。
大暦四年(769)六月伏日(三伏日の総称で、一年で最も暑い時期)、寒かった。
貞元元年(785)正月戊戌、大雪が降り、寒かった。丙午、また大雪が降り、寒く、民が飢え、凍死者が多かった。貞元十二年(796)十二月、大雪が降って非常に寒く、竹・柏・柿の樹が多く枯死した。占(京房『易伝』妖占)に、「徳ありて険に遭う。その異変は寒である」とある。貞元十九年(803)三月、大雪となった。貞元二十年(804)二月庚戌、雷がなり、大雹が降り、落雷となり、大雪が降った。既に雷がなっているのに雪となっていないのは、陰が陽を脅かしているからであり、魯の隠公九年(『春秋左氏伝』)の通りである。
元和六年(811)十二月、極寒となった。元和八年(813)十月、東都で極寒となり、霜の厚さ数寸で、雀や鼠が多く死んだ。元和十二年(817)九月己丑、雪が降り、人々で凍死する者が出た。元和十五年(820)八月己卯、同州で雪が降り、実りを阻害した。
長慶元年(821)二月、海州で海水が凍り、南北二百里(約86km)、東は果てしなかった。
大和六年(832)正月、雪が降って月を跨ぎ、非常に寒かった。大和九年(835)十二月、京師で寒さに苦しんで。
会昌三年(843)、春寒く、大雪となり、江の左岸は最もひどく、民で凍死する者が出た。
咸通五年(864)冬、隰州・石州・汾州等の州に大雪が降り、平地が深さ五尺(約149cm)となった。
景福二年(893)二月辛巳、曹州で大雪となり、平地が深さ二尺(約60cm)となった。
天復三年(903)三月、浙西で大雪となり、平地が深さ三尺(約90cm)以上となり、気が多く煙のようで、その味は苦かった。十二月、また大雪となり、江・海が凍った。
天祐元年(904)九月壬戌朔、大風となり、寒さは仲冬のようであった。この冬、浙東・浙西で大雪となった。呉・越の地気が厳寒となって雪が積もったが、これは厳寒のようなものである。
鼓妖(音の異常)。
武徳三年(620)二月丁丑、京師の西南で音があって山が崩れるかのようであった。これは音の異常のようなものである。説者(前漢の李尋)は「人君聡くなく、衆に惑わされ、声だけあって形のないものが聞こえ、その出所がわからない」と考えた。
天授元年(690)九月、検校内史の
宗秦客が任を拝命した日、雲がないのに落雷があった。これは音の異常のようなものである。
貞元十三年(797)六月丙寅、天が暗く、街の鼓がならなかった。
中和二年(882)十月、西北方で雲がないのに雷が鳴った。
天復三年(903)十月甲午、大きな音が宣武軍節度使の庁事から聞こえた。これは音の異常のようなものである。
魚孽(魚の異常)。
如意年間(692)、済源県の
路敬淳の家の水碾の柱が壊れそうであったから、これを交換して薪とすると、中に鮎魚がいて長さ一尺(約30cm)以上あり、生きているかのようであった。これは魚の異常のようなものである。
開元四年(714)、安南都護府の江の中に大蛇がいて、首と尾が横たわって両岸に出て、日が経つと腐り、少しずつ自ら切れていった。数日して江の魚がすべて死に、江を覆って下流に流れていき、十里五里にわたって付着し、江の水が臭かった。
神龍年間(707-710)、渭水に蝦蟆がいて大きさは鼎のようであり、里の人は集まって見ていたが、数日していなくなった。この年大水害となった。
元和十四年(819)二月、昼に魚がいて長さ一尺(約30cm)以上あり、鄆州の市に落ちてきて、しばらくして死んだ。魚が水を失って市に落ちるのは、敗滅の象である。
開成二年(837)三月壬申、大魚が長さ六丈(約30m)、海から淮水に入り、濠州の招義県に到着すると、民がこれを殺した。これは魚の異常のようなものである。
乾符六年(879)、汜水・河で魚が逆流して遡上し、垣曲県・平陸県の境にやってきた。魚は民の象で、逆流して遡上するのは、民が君令に従わないのである。
光啓二年(886)、揚州で魚が降った。元和十四年(819)の占の通りである。
蝗。
武徳六年(623)、夏州で蝗害となった。蝗の百姓に害するのは、功績がないのに禄を食むようなもので、すべて貪欲から生まれたのである。先儒は人主が礼を失い法令を多くすると旱魃になると思っており、魚・巻き貝は変じて虫蝗となったから、魚の異変に属する。
貞観二年(624)六月、京畿が旱魃と蝗害となった。
太宗が苑中にて蝗を掴むと「人は穀物を命とする。百姓に過ちがあれば、それは予一人の責任だ。ただ私を食らえ。百姓を害してはならん」と呪い、飲み込もうとしたから、侍臣は
帝が病気になるのを恐れ、諌めた。帝は「災いを朕の身に移そうというのだ。病を恐れる必要はない」と言い、遂に飲み込んだ。この年、蝗は災害とはならなかった。貞観三年(625)五月、徐州で蝗害となった。秋、徳州・戴州・廓州等の州で蝗害となった。貞観四年(630)秋、観州・兗州・遼州等の州で蝗害となった。貞観二十一年(647)秋、渠州・泉州の二州の蝗害であった。
永徽元年(650)、夔州・絳州・雍州・同州等の州で蝗害となった。
永淳元年(682)三月、京畿で蝗害となり、麦の苗がなくなった。六月、雍州・岐州・隴州等の州で蝗害となった。
長寿二年(693)、台州・建州等の州で蝗害となった。
開元三年(715)七月、河南・河北で蝗害となった。開元四年(714)夏、山東で蝗害となり、実りを阻害し、音は風雨のようであった。開元二十五年(737)、貝州で蝗害となったが、白鳥が数千万羽いて、群れて飛んで蝗を食らい、一晩で食べ尽くしてしまい、収穫物には害はなかった。
広徳二年(764)秋、蝗害で、関輔が最もひどく、米は一斗あたり千銭にもなった。
興元元年(784)秋、螟(ズイムシ)・蝗が山から東は海の際まで、天を暗くして野を覆い、草木や葉はすべて食い尽くされてしまった。
貞元元年(785)夏、蝗害で、東は海から、西は河や隴まで、群れ飛んで天を覆い、十日たってもやまず、至るところの草木や葉および家畜の毛が靡いて残存しているところがあれば食い尽くしたから、餓死者が道に枕を並べた。民は蝗を蒸し、さらして風に巻き揚げ、翅と脚をとって食べた。
永貞元年(805)秋、陳州で蝗害となった。
元和元年(806)夏、鎮州・冀州等の州で蝗害となった。
長慶三年(823)秋、洪州で螟(ズイムシ)・蝗が八万頃もの実りを阻害した。
開成元年(836)夏、鎮州・河中で蝗害となり、実りを阻害した。開成二年(837)六月、魏博・昭義・淄青・滄州・兗海・河南で蝗害となった。開成三年(838)秋、河南・河北の鎮、定州等の州で蝗害となり、草木や葉がすべて食い尽くされた。開成五年(840)夏、幽州・魏州・博州・鄆州・曹州・濮州・滄州・斉州・徳州・淄州・青州・兗州・海州、河陽・淮南、虢州・陳州・許州・汝州等の州で螟(ズイムシ)・蝗害となり、実りを阻害した。占(京房『易伝』妖占)に、「国に悪人が多く、朝廷に中心がいないためである。高位にいて俸禄を貪っている者どもは、あたかも虫さながらである」とあり、だからこの年蝗が発生したのである。
会昌元年(841)七月、関東・山南の鄧州・唐州等の州で蝗害となった。
大中八年(854)七月、剣南東川で蝗害となった。
咸通三年(862)六月、淮南・河南で蝗害となった。咸通六年(865)八月、東都、同州・華州・陝州・虢州等の州で蝗害となった。咸通七年(866)夏、東都、同州・華州・陝州・虢州および京畿で蝗害となった。咸通九年(868)、江淮・関内および東都で蝗害となった。咸通十年(869)夏、陝州・虢州等の州で蝗害となった。徳がないものを退けないと、民を虐げて搾取して罰とするのである。
乾符二年(875)、蝗が東から西まで天を覆った。
光啓元年(885)秋、蝗が東方よりやってきて、群れ飛んで天を覆った。光啓二年(886)、荊州・襄州で蝗害となり、米は一斗あたり三千銭となり、人々は互いに食い合った。淮南で蝗害となり、西よりやって来て、留まったままで飛んで行かず、水に浮かんで城に取り巻いて揚州府の官署に入り、竹や樹、旗や儀仗は、一晩で切られたようになり、仏幡・仏幟や仏画・仏像はすべて齧ってその首を取り去り、撲っても止めることができなかった。十日ほどして自ら互いに食い尽くしあった。
豕禍(豚の災い)。
貞観十七年(643)六月、司農寺で豚が子を生んだが、一つの首に八本の脚があり、首から分れて二体となっていた。
貞元四年(788)二月、京師の民家で豚が子を生んだが、二つの首に四本脚であった。首が多いのは、上が一つではないことである。この年、宣州で大雨と落雷があり、物が地に落ちたが猪のようで、手足にそれぞれ二つの指があり、赤班の蛇が捕らえてこれを食べた。しばらくして、雲が合わさってまた見えなくなった。これは豚の災いのようなものである。
元和八年(813)四月、長安の
西市で豚が子を生んだが、三耳に八本脚で、尾から分かれて二つになっていた。足が多いのは、下が一ではないことである。
咸通七年(866)、徐州蕭県の民家の豚が豚小屋から出て舞い、また牡豚が多く隣里の群豚を率いて行き、また互いに噛みつきあった。
乾符六年(879)、越州の山陰県の民家で豚が家の中に入って、器物を破壊し、机や甕を咥えて水次に置いた。
広明元年(880)、絳州稷山県の民家で豚が生まれたが、人の形のようで、眉・目・耳・髪がなかった。占に「邑に乱あり」とあった。
雷電。
貞観十一年(637)四月甲子、
乾元殿前の槐樹に落雷があった。落雷が輝くのは、天の震怒で、これによって殺戮を象るのである。槐は古では三公の樹である。
証聖元年(695)正月丁酉、雷があった。雷は陽声で、出るのがその時ではなければ、臣下が君主の権力を狙うの象である。
長安四年(704)五月丁亥、落雷があり、大風が木を抜き、落雷で死ぬ者がいた。
延和元年(712)六月、河南偃師県李材村で落雷が民家に入り、地が雷で裂け、広さ一丈(約3m)以上、長さ十五里(約6,450m)、深さは測りしれず、裂けたところの井・厠がそれぞれ通じ合い、あるいは墳墓にあたり、柩が平地に出たが損傷はなかった。李は国姓であり、落雷は刑罰の象で、地は陰の類である。
永泰元年(765)二月甲子夜、落雷があった。これより雷がなく、六月甲申になって雷が鳴った。
大暦十年(775)四月甲申、落雷と暴風で木を抜き瓦を吹き上げ、人で雷で死ぬ者がおり、京畿で実りを阻害されたのは七県に及んだ。
建中元年(780)九月己卯、雷が鳴った。建中四年(783)四月丙子、東都畿汝節度使の
哥舒曜が
李希烈を攻撃するため、潁橋(汝州)に進軍すると、大雨と落雷があり、人々で十人中三・四人が話すことができなくなり、馬や驢馬が多数死んだ。
貞元十四年(798)五月己酉夏至、始めて雷が鳴った。
元和十一年(816)冬、雷が鳴った。
長慶二年(822)六月乙丑、大風と落雷があり、太廟の鴟尾を落とし、御史台の樹を破壊した。
大和八年(834)七月辛酉、
定陵台で大雨・落雷となり、建物下の地面が二十六歩(約42m)にわたって裂けた。占に「士と庶民の心が離れ、大臣は専横すると、大敗を救わず」とある。
会昌三年(843)五月甲午、始めて雷が鳴った。
咸通四年(863)十二月、落雷があった。
乾符二年(875)十二月、落雷があり、雹が降った。
乾寧四年(897)、
李茂貞が将軍の
符道昭を派遣して成都を攻撃しようとし、広漢にやってくると、落雷があり、石が帳の前に隕ちた。
霜。
貞観元年(623)秋、霜が実りを枯らせた。京房の『易伝』に「人君が刑罰を妄りに行えば、天がこれに応じて霜を降らせる」とある。貞観三年(625)、北の辺境で霜が実りを害した。
永徽二年(651)、綏州・延州等の州で霜が実りを枯らせた。
調露元年(679)八月、邠州・涇州・寧州・慶州・原州の五州で霜が降りた。
証聖元年(695)六月、睦州で霜が降り、草を枯らせた。呉・越の地で暑く盛夏であるのに霜が降り、昔はいままでこのようなことはなかった。四年四月、延州で霜が草を枯らせた。四月は純陽になろうとしており、人君が恵みを天下に行き渡らせるべきことの象であるから、かえって霜が降りるのは、これは無陽である。
開元十二年(724)八月、潞州・綏州等の州で霜で実りを枯らせた。開元十五年(727)、全国の十七州で、霜が実りを枯らせた。
元和二年(807)七月、邠州・寧州等の州で霜が実りを枯らせた。元和九年(814)三月丁卯、霜が降り、桑を枯らせた。元和十四年(819)四月、淄州・青州で霜が降り、雑草および茨を枯らせたが、穀物に被害はなかった。
宝暦元年(826)八月、邠州で霜が実りを枯らせた。
大和三年(829)秋、京畿奉先県等の八県で早霜となり、実りを枯らせた。
大中三年(849)春、霜が降り、桑を枯らせた。
中和元年(881)春、霜となった。秋、河東で早霜となり、実りを枯らせた。
雹。
貞観四年(630)秋、丹州・延州・北州・永州等の州で雹が降った。
顕慶二年(657)五月、滄州で大いに雹が降り、人にあたって死者が出た。
咸亨元年(670)四月庚午、雍州で大いに雹が降った。咸亨二年(671)四月戊子、大いに雹が降り、落雷があり、大風が木を折り、
則天門の鴟尾三つを落とした。先儒は「雹は、陰が陽を脅かすものである」と考えた。また「君主地震が過ちを犯しながら、その過ちについて耳を傾けようとせず、賢者を邪魔して悪人を用いると、雨と雨が一緒に降り、車を破壊し、牛馬を殺す」と述べた。
永淳元年(682)五月壬寅、定州で大いに雹が降り、麦の実りおよび桑を害した。
天授二年(691)六月庚戌、許州で大いに雹が降った。
証聖元年(695)二月癸卯、滑州で大いに雹が降り、燕や雀を殺した。
神功元年(697)、媯州・綏州の二州で雹が降った。
聖暦元年六月甲午、曹州で大いに雹が降った。
久視元年(700)六月丁亥、曹州で大いに雹が降った。
長安三年(703)八月、京師で大いに雹が降り、人や家畜で凍死者が出た。
神龍元年(705)四月壬子、雍州同官県で大いに雹が降り、鳥や獣を殺した。
景龍元年(707)四月己巳、曹州で大いに雹が降った。景龍二年(708)正月己卯、滄州で雹が降り鶏の卵のようであった。
開元八年(720)十二月丁未、滑州で大いに雹が降った。開元二十二年(734)五月戊辰、京畿の渭南県等の六県で大いに雹が降り、麦を傷つけた。
大暦七年(772)五月乙酉、雹が降った。
貞元二年(786)六月丙子、大いに雹が降った。貞元十七年(801)二月丁酉、雹が降った。己亥、霜が降りた。戊申、夜、雷鳴が聞こえ、雹が降った。庚戌、大雪が降って雹となった。五月戊寅、好畤県で風と雹があり、麦を阻害した。貞元十八年(802)七月癸酉、大いに雹が降った。
元和元年(806)、鄜州・坊州等の州で雹が降った。元和十年(815)秋、鄜州・坊州等の州で風と雹となり、実りを阻害した。元和十二年(817)夏、河南で雹が降り、人にあたって使者が出た。元和十五年(820)三月、京畿の興平県・醴泉県の等県で雹が降り、麦を傷つけた。
長慶四年(824)六月庚寅、京師で雹が降り、弾丸のようであった。
大和四年(830)秋、鄜、坊等州で雹が降った。大和五年(831)夏、京畿の奉先県・渭南県等の県で雹が降った。
開成二年(837)秋、河南で雹がふり、実りを阻害した。開成四年(839)七月、鄭、滑等州で雹が降った。開成五年(840)六月、濮州で雹が降り拳のようであり、人を三十六人殺し、牛馬で死んだのが非常に多かった。
会昌元年(841)秋、登州で雹が降り、文登県が最もひどく、瓦を破壊し、実りを阻害した。会昌四年(842)夏、雹が降り、弾丸のようであった。
乾符六年(879)五月丁酉、宰相の
豆盧瑑・
崔沆に制を授け、殿庭が霧で四方を塞ぎ、百官が並んで
政事堂で祝賀すると、雹が降って鳧の卵のようであり、大風と雷雨で木が抜けた。
広明元年(880)四月甲申朔、汝州で大雨風となり、街の街路樹を十本中二・三本抜いた。東都で雲が西北より起こって、大風が共に来て、
長夏門内の表道の古槐樹が自ら抜けたのが十本中五・六本で、宮殿の鴟尾がすべて落ち、雹が降って杯のようであり、鳥や獣が川や沢で死んでいた。
黒眚黒祥(黒色の眚・祥)。
大暦二年(767)十二月戊戌、黒気が塵のように北方に充満した。黒気は天地四時の陰気が不和となって災害が生まれるのである。
貞元四年(788)七月、陝州より河陰まで、河の水が黒く、汴水に流入し、汴州の城下に至ったが、一晩して元通りとなった。これは黒色の眚・祥のようなものである。占に「法が厳しく刑が酷薄であれば、水性を傷つける。五行が変節し、陰陽が互いに攻撃しあい、気色が錯乱するのは、すべて敗乱の象である」とある。貞元十四年(798)、潤州に黒気があって堤防のようであり、海門山横から江中にわたり、北固山と相対し、また白気があって虹となって金山から出て、黒気と交わり、朝になろうとすると消えた。
大和四年(830)正月壬寅、黒気が帯のようで、東西天の際まで広がった。
咸通十四年(873)七月、
僖宗が即位すると、この日、黒気が大皿のようで天から
含元殿の庭まで広がった。
火沴水(火が水を損なう)。
武徳九年(628)二月、蒲州で河(黄河)が清くなった。襄楷は「河は諸侯の象である。清は陽明の兆しである」と考えた。
貞観十四年(640)二月、陝州・泰州で河が清くなった。貞観十六年(642)正月、懐州で河が清くなった。貞観十七年(643)十二月、鄭州・滑州で河が清くなった。貞観二十三年(649)四月、霊州で河が清くなった。
永徽元年(650)正月、済州で河が清くなった。永徽二年(651)十二月、衛州で河が清くなった。永徽五年(654)六月、済州で河が十六里(約6,880m)にわたって清くなった。
調露二年(670)夏、豊州で河が清くなった。
長安年間(701-705)初頭、
醴泉坊の
太平公主の邸宅の井戸の水が溢れ流れた。また并州文水県の猷水が枯渇し、武氏の井戸が溢れた。
神龍二年(706)三月壬子、洛陽城の東七里(約3km)で、地の色が水のようになり、樹木や車・馬はそれぞれ、清らかな影が見え、しばらくして都に移り、一月ほどで消えた。長安の街中で、往々にして水の影がみえた。昔苻堅が死のうとしている時、長安でかつてこのようなことがあった。
景龍四年(710)三月庚申、京師の井戸の水が溢れた。占に「君主の凶である」とあり、また「戦争が起ころうとしている」とある。
開元二十二年(734)八月、清夷軍の黄帝祠の古井戸が湧き立った。開元二十五年(737)五月、淄州・棣州で河が清らかになった。開元二十九年(741)、亳州の老子祠の九井が涸れて再び湧き出た。
乾元二年(759)七月、嵐州の合河関の河が三十里(約12km)にわたって井戸水のように清らかになり、四日して変わった。
宝応元年(762)九月甲午、太州から陝州まで二百里(約86km)以上にわたって河が清らかになり、澄み切って川底が見えた。
大暦年間(766-779)末、深州束鹿県中に水の影が長さ七・八尺となり、遠望すれば人馬が往来するのが見え、水中であるかのようで、その前に行くと、水は見えなくなった。
建中四年(783)五月乙巳、滑州・濮州で河が清らかになった。
貞元十四年(798)閏五月乙丑、滑州で河が清らかになった。貞元二十一年(805)夏、越州の鏡湖が渇水した。この年、朗州の熊・武の五渓の水が合流した。占(京房『易伝』妖占)に「山崩れ川涸れると、国は必ず滅亡する」とあり、同じく、「諸侯が武力で征しあえば、その異変として水(かわ)が二つ相接して一となる」とある。
開成二年(837)夏、旱魃で、揚州の運河が渇水した。
大中八年(854)正月、陝州で河が清らかになった。
咸通八年(867)七月、泗州下邳で湯が降り、鳥や雀を殺した。水が火に沸き上がるのは、物を傷つけるであろうから、これは火が水を損なうようなものである。雨は上から降ることの、鳥や雀は民の象である。
中和三年(883)秋、汴水が淮水に入って合流し、船数艘を破壊した。
広明元年(880)夏、汝州峴陽峰の龍池が枯渇した。これは川が渇水するようなものである。
『洪範五行伝』に「君主が中正でないこと、これを「不建」(立たない)という。これによって起こる咎徴は眊(乱れていること)で、その罰は曇天続き、六極では弱(君主の力量が弱い)がこれに当たる。時に射にまつわる妖が起こり、時に龍蛇の孽が起こり、時に馬の禍が起こり、時に下の者が上を伐つという痾があり、時に日月の運行が乱れ、星辰が逆行する」とある。これは木金火水土が天を損なうのをいうのである。
常陰(曇天続き)。
長安四年(704)、九月より長雨で空が暗く、神龍元年(705)正月まで続いた。
貞元二十一年(805)秋、連月雨が降り止まなかった。
元和十五年(820)正月庚辰から丙申まで、昼は常に空が暗く、微かに雪が降り、夜は雨がやんだ。占に「昼に霧が出て夜に晴れるのは、臣の志を申し上げることができるのである」とある。
咸通十四年(873)七月、霊州の空が暗かった。
乾符六年(879)秋、雲や霧が多く空が暗く、朝から午刻になって晴れた。
光啓元年(885)秋、河東で大いに雲や霧が出た。翌年夏、昼が暗かったことは六十日にも及んだ。光啓二年(886)十一月、淮南の空が暗く雪が降り、翌年二月まで続いた。
景福二年(893)夏、連日空が暗く、四十日以上続いた。
霧。
長寿元年(692)九月戊戌、黄色い霧が四方に立ち込めた。霧は百邪の気で、陰となって陽を冒し、地をもととして天に応じた。黄は土となり、土は中宮となる。
神龍二年(706)三月乙巳、黄色い霧に立ち込めた。
景龍二年(708)八月甲戌、黄色い霧が混濁して雨が降らなかった。二年(景龍三年の誤り)正月丁卯、黄色い霧が四方に立ち込めた。十一月甲寅、日の入り後、暗い霧が四方に立ち込め、二日たって止んだ。占に「霧が連日晴れなければ、その国は混乱する」とある。
開元五年(717)正月戊辰、暗い霧が四方に立ち込めた。
天宝十四載(755)冬三月、霧が暗闇から起こり、十歩の外で人が見えず、これを「昼昏」といった。占に「国が破れる」とある。
至徳二載(757)四月、賊将の
武令珣が南陽を包囲すると、白霧が四方に立ち込めた。
上元元年(760)閏四月、大霧となった。占に「戦争がおこる」とある。
貞元十年(794)三月乙亥、黄色い霧が四方に立ち込め、日に光がなかった。
咸通九年(868)十一月、
龐勛が徐州を包囲し、甲辰、大霧が暗く立ち込め、丙午まで続いた。
光化四年(901)冬、
昭宗が東内(太極宮)にいた時、
武徳門内に煙や霧が四方に立ち込め、門外の日の色が明るく輝いた。
虹蜺(虹)。
武徳年間(618-623)初頭、隋将の
堯君素が蒲州を守備すると、白虹が城中に下った。
唐隆元年(710)六月戊子、虹蜺(にじ)が天にわたった。蜺(にじ)は、北斗七星の精である。占に「后妃が密かに王者を脅かしている」とあり、また「五色が代わる代わる現れ、宮殿を照らすのは、兵事がある」とある。
延和元年(712)六月、幽州都督の
孫佺が兵を率いて奚を襲撃しようとし、賊との境界に入ろうとすると、白虹が頭を軍門に垂れていた。占に「その下に流血がある」とある。
至徳二載(757)正月丙子、南陽で夜に白虹が四度あり、上は百丈(297m)以上にわたった。
元和十三年(818)十二月丙辰、白虹が出て広さ五尺(約150m)で、東西は天にわたった。
会昌四年(842)正月己酉、西方に白虹が出た。
咸通元年(860)七月己酉朔、白虹が西方に横たわった。咸通九年(868)七月戊戌、白虹が西方に横たわった。
光啓二年(886)九月、白虹が西方に見えた。十月壬辰夜、また同じように見えた。
天復三年(903)三月庚申、曲がった虹が日の東北に見えた。
龍蛇孽(龍・蛇に関する異常)
貞観八年(634)七月、隴右で大蛇がたびたび見られた。蛇は女子の徴で、大は象とするところである。また汾州で青龍が見られ、物を吐いて空中にあり、光明は火のようで、地に墜ちて地が燃え上がり、これを掘ると玄金(鉄)を得た。広さ一尺(約30cm)、長さ七寸(約21cm)であった。
顕慶二年(657)五月庚寅、五龍が岐州の皇后泉で見られた。
先天二年(713)六月、京師の朝堂の塼下に大蛇が出て、長さ一丈(約3m)以上、大きな蛙がいて大皿のようであり、目が赤いことはまるで火のようで、互いに戦い、突然蛇が大樹に入り、蛙が草に入った。蛇と蛙はいずれも陰の類で、朝堂から出たのは、本来出るべき場所ではないのである。
開元四年(714)六月、郴州の馬嶺山の麓に白蛇がいて黒蛇と戦った。白蛇の長さは六・七尺(約180~210cm)、黒蛇を呑み込み、腹にいたると口と眼から血が流れた。黒蛇の長さは一丈(約3m)以上で、頭が白蛇の腹から出たが、両方とも死んだ。
天宝年間(742-756)、洛陽に巨大な蛇がいて、高さ一丈(約3m)以上、長さ百尺(約30m)で、芒山の麓から出た。胡僧の無畏がこれを見て、「これは水を決壊させて洛城に注ごうとしているのだ」と言い、そこで天竺の法で呪し、数日して蛇は死んだ。天宝十四載(755)七月、二頭の龍が南陽城の西で戦った。『易』の坤に「上六、龍が野で戦う」とあり、文言に「陰の勢いが盛んになって陽とまぎらわしくなれば、必然的に陰と陽とは相い戦うことになる」とある。
至徳元載(756)八月朔、成都の丈人廟に肉角の蛇が見られた。至徳二載(757)三月、蛇が南陽門の外で戦い、一匹の蛇は死に、もう一匹の蛇は城に登った。
建中二年(781)夏、趙州寧晋県沙河の北で、棠樹が非常に茂っており、民はこれを祠って神とした。蛇が数百数千という数が東西からやって来て、北岸に集まっては棠樹の下に集まって、二つの固まりとなり、南岸に留まったものは一つの固まりとなり、突然直径一寸(約30cm)の亀三匹が現れ、周囲を這い回り、固まりとなった蛇はことごとく死に、その後それぞれがその固まりに登った。農民がこのことを報告した。蛇の腹はすべて傷があり、まるで矢があたったかのようであった。刺史の
康日知がそのことを利用しようとし、三匹の亀を奉って来献した。建中四年(783)九月戊寅、龍が汝州城の壕にいるのが見えた。龍は大人の象で、それが渕に潜っているのは、また天に飛ぼうとしているからであるが、城壕は本来いるべき場所を失ったのである。
貞元年間(785-805)末、資州で一丈(約3m)以上の龍を得て、西川節度使の
韋皋が箱に入れて献上しようとし、百姓が勝手に見物した。三日して煙に燻されて死んだ。
大和二年(826)六月丁丑、西北で龍が戦った。大和三年(827)、成都の門外で龍が牛と戦った。
開成元年(836)、宮中で多くの蛇が互いに戦いあった。
光化三年(900)九月、杭州で龍が浙江で戦い、水が溢れ、民の家や建物を破壊した。占は天宝十四載(755)と同じである。
光啓二年(886)冬、鄜州洛交県で蛇が県の官衙にいるのが見え、また州の官衙にいた。蛇は冬には冬籠もりするから、『易』に「龍や蛇が冬籠もりするのは、それによってより長く身を保とうがためである」とある。
馬禍(馬に関する異変)。
義寧二年(618)五月戊申、角が生えた馬がおり、長さ二寸(約6cm)で、根本に肉があった。角は戦争の象である。
武徳三年(620)十月、
王世充の偽左僕射の
韋霽の馬に角が生え、項にあたった。
永隆二年(681)、監牧馬が大量死し、およそ十八万頭にも及んだ。馬は國の武備で、天がその備えを去れば、国はまさに危亡しようとするのである。
文明年間(684)初頭、新豊県で馬が子馬を生んだが、二首で同じ項で、それぞれ口と鼻があり、生まれてすぐ死んだ。また咸陽県で牝馬が石を生み、大きさは升のようで、上は微かに緑毛があった。いずれも馬に関する異変である。
開元十二年(724)五月、太原で変わった馬と子馬が献上され、両肋がそれぞれ十六本で、肉の尾で毛がなかった。開元二十五年(737)、濮州で馬が子馬を生んだが、肉の角があった。開元二十九年(741)三月、滑州刺史の
李邕が馬を献上したが、肉のたてがみがあり、胸には鱗があり、嘶きは他の馬とは違い、一日に三百里(約129km)を走った。
建中四年(783)五月、滑州で馬に角が生えた。
大和九年(835)八月、易定県の馬が水を飲み、そこで吐くと一つの珠が出てきたから献上された。
開成元年(836)六月、揚州の民の明斉の家の馬に角が生え、長さ一寸三分(約3.3m)であった。
会昌元年(841)四月、桂州で馬が子馬を生んだ。三本足であったが、群れに従って放牧できた。
咸通三年(862)、郴州の馬に角が生えた。咸通十一年(870)、沁州綿上県および和川県の牡馬(おすうま)が子を生んだが、すべて死んだ。京房の『易伝』に「方伯がその威権を分散すれば、その妖怪として牡馬が子を生む」とある。
乾符二年(875)、河北の馬が人を生んだ。
中和元年(881)九月、長安の馬が人を生んだ。京房の『易伝』に「諸侯が相伐てば、その妖怪として馬が人を生む」とあり、または「人が流亡する」とある。中和二年(882)二月、蘇州嘉興県で馬に角が生えた。
光啓二年(886)夏四月、
僖宗が鳳翔にいる時、馬の尾がすべて蓬を音をたてて食べることは篲のようであった。音をたてて食べるのは怒りの象である。
文徳元年(888)、
李克用が馬二頭を献上し、肘膝にすべてたてがみがあり、長さ五寸(約15cm)ほどで、蹄の大きさは七寸(21cm)の甕ほどである。
人痾(人の異常)。
武徳四年(621)、太原の尼志覚が死に、十日して蘇った。
貞観十九年(645)、衛州の人の劉道安の頭に肉の角が生え、ある時は隠れ、ある時は見えて一定ではなく、そこで大衆を惑わしたから、誅殺された。角は戦争の象で、肉は触れてはならないものである。
永徽六年(655)、淄州高苑県の民の呉威の妻と、嘉州の民の辛道護の妻が二人共一度に四男を産んだ。おおむね物が常に反すれば妖怪となり、また陰気が盛んであれば母の道も盛んである。
顕慶三年(658)、普州で人が化けて虎となった。虎は猛々しく噛んで真心がない。
儀鳳三年(679)四月、涇州が二人の小児を献上し、心が連なっているが体は異なっていた。これより以前、鶉觚県の衛士の胡万年の妻の呉氏が一男一女を産んだが、その胸で互いに繋がっており、ほかはそれぞれ違う体で、そこで切り離してみると、ただちに二人とも死んだ。また産んだが、また同じようであり、二人とも男であり、遂にそのまま育て、四歳になって朝廷に献上した。
永隆元年(680)、長安で女魃(旱の神)が捕らえられ、長さは一尺二寸(約36cm)で、その形は怪異であった。『詩』に「旱魃が民を虐げ、その様はあたかも焼かれるかのようである」とある。この年の秋、雨が降らず、翌年正月まで続いた。
永隆二年(681)九月、万年県の女子劉凝静が白衣を着て、従者数人で、太史令の官衙にのぼり、この頃どのような災異があるのか尋ねた。これを捕らえさせて上聞した。この夜、彗星が見えた。太史は天文・暦候を司るのは、王者が天の法則を大切にし、恭んで民の時を授けるのが理由であり、女子が尋ねるべきものではない。
載初年間(689-690)、涪州の民である范端が化けて虎となった。
神功元年(697)一月庚子、人が走って
端門に入り、また
則天門に入り、
通天宮に至ったが、門番および仗衛はこれに気付かなかった。当時、
来俊臣の婢が肉塊を産んで二升器のようであり、これを解剖すると赤い虫がいて、突然化けて蜂となり、人を刺して去った。
久視二年(702)正月、成州で巨人の跡が見られた。
長安年間(701-705)、郴州佐史が病のために化けて虎となり、その兄嫁を喰らおうとして捕らえられると、人となり、まだ完全に化けているわけではないとはいえ、虎の毛が生えていた。
太極元年(712)、狂人段万謙が
承天門に潜入し、
太極殿に登り、御牀にあがり、天子を自称し、また「私は李安国である。人相は私が三十二歳で天子になるだろう」と言った。
開元二十三年(735)四月、冀州が長身の人の李家寵を献上し、八尺五寸(約255cm)あった。
大暦十年(775)二月、昭応県の婦人である張氏が一男二女を産んだ。
貞元八年(792)正月丁亥、許州の人である李狗児が仗を持って
含元殿に上り、欄檻を撃ち、誅殺された。貞元十年(794)四月、恒州で巨人の跡が見られた。貞元十五年(799)正月戊申、狂人の劉忠が銀台にやって来て、白起の命令を上表し、天下に火災があると言っていた。貞元十七年(801)十一月、翰林待詔の
戴少平が死んで十六日で蘇った。この年、宣州南陵県丞の李嶷が死んで、すでに殯して三十日で蘇った。
元和二年(807)、商州洪崖県の冶役夫が化けて虎になろうとしたが、大勢の人が水を懸けたから、果して化けなかった。
長慶四年(824)三月、民の徐忠信が
浴堂門に潜入した。
宝暦二年十二月、延州の人である賀文の妻が一度に四男を産んだ。
大和二年(826)十月、狂人劉徳広が
含元殿に侵入した。
咸通七年(866)、渭州で、ある人に一寸(約3cm)程の角が出来た。占に「全国で戦争がおこる」とあった。咸通十三年(872)四月、太原晋陽の民家で幼児がいて、二つの頭で首が異なり、四つの手で足が二本であった。これは天下が不一である妖怪である。この年、民間の皇甫氏が十四歳になると、突然身長が七尺(約204cm)以上となり、よく飲みよく食べ、三倍食べても食べる前かのようであったが、一年ほどで死んだ。
乾符六年(879)秋、蜀郡の婦人の尹氏が、首が豚のような子を産み、目は尻の下にあった。占に「君主が失道する」とあった。
光啓元年(885)、隰州温泉県の民家で死人が出て、葬って半月たつと、通りかかった人が地下から呼ぶ声を聞き、その家が掘り出してみると、再び蘇ったが、一年ほどで死んだ。光啓二年(886)春、鳳翔郿県の女子がまだ歯が生え変わる前で男となったが、十日で死んだ。京房の『易伝』に「これを陰が盛んになると言い、賊が王となる」とある。
大順元年(890)六月、資州の兵の王全義の妻が妊娠したかのようになり、物が次第に下って股に入るような感覚があり、足の親指に到ると、痛みがひどく、切り開いてみると珠が生じて弾丸のようであり、次第に長大となって杯のようであった。
天祐二年(905)五月、潁州汝陰県の民の彭文の妻が一度に三男を産んだ。
疫(疫病)。
貞観十年(636)、関内・河東で疫病が大流行した。貞観十五年(641)三月、沢州で疫病が流行した。貞観十六年(642)夏、穀州・涇州・徐州・戴州・虢州の五州で疫病が流行した。貞観十七年(643)夏、潭州・濠州・廬州の三州で疫病が流行した。貞観十八年(644)、廬州・濠州・巴州・普州・郴州の五州で疫病が流行した。貞観二十二年(648)、卿州で疫病が大流行した。
永徽六年(655)三月、楚州で疫病が大流行した。
永淳元年(682)冬、疫病が大流行し、両京で死者が枕を路に並べるほどであった。占に「国が賑恤しようとすると、邪乱の気が最初に民が受け、そのため疫病となる」とある。
景龍元年(707)夏、京師から山東まで、河北で疫病が流行し、死者数千人となった。
宝応元年(762)、江東で疫病が大流行し、死者が過半数にも及んだ。
貞元六年(790)夏、淮南・浙西・福建道で疫病が流行した。
元和元年(806)夏、浙東で疫病が大流行し、死者が過半数にも及んだ。
大和六年(832)春、剣南から浙西まで疫病が大流行した。
開成五年(840)夏、福州・建州・台州・明州の四州で疫病が流行した。
咸通十年(869)、宣州・歙州・両浙で疫病が流行した。
大順二年(891)春、淮南で疫病が流行し、死者が十人中三・四人に及んだ。
天鳴。
天宝十四載(755)五月、天が鳴り、音は雷のようであった。占に「人君憂いあり」とある。
貞元二十一年(805)八月、天が西北から鳴った。
中和三年(883)三月、浙西で天が鳴り、音は碾磑を転がすかのようであった。
無雲而雨(雲なくて雨が降る)。
元和十二年(817)正月乙酉、星が見えているのに雨が降った。占に「雲なくて雨降るのは、これは天が泣いているのをいう」とある。
隕石。
永徽四年(653)八月己亥、石が同州馮翊県で十八個隕ち、光輝き、音は雷のようであった。これは星が隕ちて化したようなものである。庶民は星であり、上から隕ちるのは、民がその上に去るの象である。または「人君が詐妄して隠蔽するとそうなる」とある。
最終更新:2025年03月11日 10:46