巻三十五 志第二十五

唐書巻三十五

志第二十五

五行二

稼穡不成 常風 夜妖 華孽 臝蟲之孽 牛禍 黄眚黄祥 木火金水沴土 山摧 山鳴 土為変怪 金不従革 常暘 詩妖 訛言 毛蟲之孽 犬禍 白眚白祥 木沴金



  『洪範五行伝』に、「宮殿を建築し、楼台を飾り立て、節操の無い女を納れ、親族の秩序に逆らい、父や兄を侮れば、収穫が上がらなくなる」とある。これは土が本来の性質を失って、水害や旱魃の災を起こし、草木や百穀が実らなくなることをいうのである。また、「思慮が寛容ではないこと、これを「不聖」(聖徳がない)という。これによって起こる咎徴は霿(愚昧で判断能力がない)で、その罰は強風、六極では凶短折(短命)がこれにあたる。時に有脂夜の妖(心の蒙昧さが夜の暗闇となってあらわれる)が起こり、時に華孽(花に関する異常)が起こり、臝蟲の孽(ズイムシの異常)が起こり、時に牛の禍が起こり、時に心腹の痾(思心の気が損なわれると発症する病気)が起こり、時に黄色の眚・祥があらわれ、時に木・火・金・水が土を損ねたのである」とある。

  稼穡不成。
  貞観元年(623)、関内で飢饉となった。

  総章二年(669)、諸州四十州で飢饉となり、関中が最もひどかった。

  儀鳳四年(679)春、東都で飢饉となった。

  調露元年(679)秋、関中で飢饉となった。

  永隆元年(680)冬、東都で飢饉となった。

  永淳元年(682)、関中および山南州の二十六州で飢饉となり、京師で人々が互いに食人した。

  垂拱三年(687)、天下が飢饉となった。

  大足元年(701)春、河南諸州で飢饉となった。

  景龍二年(708)春、飢饉となった。景龍三年(709)三月、飢饉となった。

  先天二年(713)冬、京師、岐州・隴州・幽州で飢饉となった。

  開元十六年(728)、河北で飢饉となった。

  乾元三年(760)春、飢饉となり、米一斗あたり千五百銭となった。

  広徳二年(764)秋、関輔で飢饉となり、米一斗あたり千銭となった。

  永泰元年(765)、飢饉となり、京師で米一斗あたり千銭となった。

  貞元元年(785)春、大飢饉となり、東都・河南・河北で米一斗あたり千銭となり、死者が枕をならべた。貞元二年(786)五月、麦が実ろうとしているときに長雨となり、米一斗あたり千銭となった。貞元十四年(798)、京師および河南で飢饉となった。貞元十九年(803)秋、関輔で飢饉となった。

  元和七年(812)春、饑。八年、広州で飢饉となった。元和九年(814)春、関内で飢饉となった。元和十一年(816)、東都・陳州・許州で飢饉となった。

  長慶二年(822)、江淮で飢饉となった。

  大和四年(830)、河北および太原で飢饉となった。大和六年(832)春、剣南で飢饉となった。大和九年(835)春、飢饉となり、河北が最もひどかった。

  開成四年(839)、温州・台州・明州等の州で飢饉となった。

  大中五年(851)冬、湖南で飢饉となった。大中六年(852)夏、淮南で飢饉となり、海陵県・高郵県の民が官河中で漉って異米を得て、「聖米」と号した。大中九年(855)秋、淮南で飢饉となった。

  咸通三年(862)夏、淮南・河南で飢饉となった。咸通九年(868)秋、江左および関内で飢饉となり、東都が最もひどかった。

  乾符三年(876)春、京師で飢饉となった。

  中和二年(882)、関内で大飢饉となった。中和四年(884)、関内で大飢饉となり、人々が互いに食人しあった。

  光啓二年(886)二月、荊州・襄州で大飢饉となり、米が一斗あたり三千銭となり、人々が互いに食人しあった。光啓三年(887)、揚州で大飢饉となり、米一斗あたり一万銭となった。

  大順二年(891)春、淮南で大飢饉となった。

  天祐元年(904)十月、京師で大飢饉となった。

  常風(常に風が吹く)。
  武徳二年(619)十二月壬子、大風が木を抜いた。『易』巽為風に、「巽が二つかさなっているのは、命令をかさねてくりかえすという意味である」とある。そのことが物にまで及ぶのは、人君の誥命を象り、天地の間に鼓動し、ときには砂を飛ばして塵を巻き揚げ、怒とするのであり、家々を壊して木を抜くのは、怒がひどいのである。その占に「大臣が専横して、気力充実し、衆は同志に叛き、君主は蒙昧暗愚なことを行い、これらが政治を行えば皆が傷つき、そのため常風(常に風が吹く)となる」とあり、また「大風が宮殿に入り、一日に二・三度あり、もし風声が雷のように地にふれて起きるならば、戦争が勃発するであろう」とある。

  貞観十四年(640)六月乙酉、大風が木を抜いた。

  咸亨四年(673)八月己酉、大風が太廟の鴟尾を落とした。

  永隆二年(681)七月、雍州で大風が実りを阻害した。

  弘道元年(683)十二月壬午晦、宋州で大風が木を抜いた。

  嗣聖元年(684)四月丁巳、寧州で大風が木を抜いた。

  垂拱四年(688)十月辛亥、大風が木を抜いた。

  永昌二年五月丁亥、大風が木を抜いた。

  神龍元年(705)三月乙酉、睦州で大風が木を抜いた。崔玄暐が博陵郡王に封ぜられたが、大風が輅車の蓋を折った。神龍二年(706)六月乙亥、滑州で大風が木を抜いた。

  景龍元年(707)七月、郴州で大風となり、家を壊して木を抜いた。八月、宋州で大風が木を抜き、家々を壊した。景龍二年(708)十月辛亥、滑州で暴風が家を壊した。景龍三年(709)三月辛未、曹州で大風が木を抜いた。

  開元二年(714)六月、京師で大風が家を壊し、大量の木を抜くこと十本中七・八本に及んだ。開元四年(714)六月辛未、京師・陝州・華州で大風が木を抜いた。開元九年(721)七月丙辰、揚州・潤州で暴風雨となり、家を壊し木を抜いた。開元十四年(726)六月戊午、大風が木を抜き、家を壊し、端門の鴟尾がすべて落ちた。端門は、号令がここから出る場所である。開元十九年(731)六月乙酉、大風が木を抜いた。開元二十二年(734)五月戊子、大風が木を抜いた。

  天宝十一載(752)五月甲子、東京で大風が木を抜いた。天宝十三載(753)三月辛酉、大風が木を抜いた。

  永泰元年(765)三月辛亥、大風が木を抜いた。

  大暦七年(772)五月乙酉、大風が木を抜いた。大暦十年(775)五月甲寅、大風が木を抜いた。

  貞元元年(785)七月庚子、大風が木を抜いた。貞元六年(790)四月甲申、大風雨となった。貞元八年(792)五月己未、暴風が太廟の建物・瓦を壊し、門闕・官署・家々の破壊はあえて数えられたほどであった。貞元十年(794)六月辛未、大風が木を抜いた。貞元十四年(798)八月癸未、広州が大風となり、家を壊し舟を転覆させた。

  元和元年(806)六月丙申、大風が木を抜いた。元和三年(808)四月壬申、大風が含元殿の欄檻二十七間を壊した。占に戦争が起こるとあった。元和四年(809)十月壬午、天に気があって煙のようで、臭いは皮を燃やしたようで、日が西に傾くと大風は止んだ。元和五年(810)三月丙子、大風が崇陵上の宮衙・殿の鴟尾および神門の戟竿六本を壊し、垣四十間が破壊された。元和八年(813)六月庚寅、京師で大風雨となり、建物を壊し瓦を舞い上げ、人々で圧死する者が多かった。丙申、富平県で大風となり、棗木千株以上を抜いた。元和十二年(817)春、青州で一晩暴風が西北より吹き、天地が暗くなり、空中に旌旗のようなものがあり、屋根瓦の上で蹂躙するような音がした。人相見の占いに「五年もしないうちに、この地で大殺戮が起こるだろう」とあった。

  長慶二年(822)正月己酉、大風が土砂を巻き揚げて曇らせた。十月、夏州で大風となり、砂を飛ばして堆積させ、高さは城の堀に及んだ。長慶三年(823)正月丁巳朔、大風で、土砂を巻き揚げて終日暗かった。長慶四年(824)六月庚寅、大風が延喜門および景風門を破壊した。

  大和八年(834)六月癸未、暴風が長安県の官衙および経行寺の塔を破壊した。大和九年(835)四月辛丑、大風が木一万株を抜き、含元殿の四鴟尾を落とし、殿庭の樹を三本抜き、金吾仗舎を破壊し、城門・楼観の内外三十所以上、光化門西城の十数雉(高さ十丈、長さ三十丈)を破壊した。

  開成三年(838)正月戊辰、大風が木を抜いた。開成五年(840)四月甲子、大風が木を抜いた。五月壬寅、また同じようであった。七月戊寅、また同じようであった。

  会昌元年(841)三月、黔南で大風が瓦を舞い上げた。

  咸通六年(865)正月、絳州で大風が木を抜き、十囲にも及んだ。十一月己卯晦、潼関で夜中に大風となり、山が雷がなるようで、河が吹き上がり石が音を発し、群烏が乱れ飛び、潼関が傾いた。十二月、大風が木を抜いた。

  乾符五年(878)五月丁酉、大風が木を抜いた。

  広明元年(880)四月甲申、京師および東都・汝州で雹が降り、大風が木を抜いた。四年(884)六月乙巳、太原で大風雨となり、木千株を抜き、実りを阻害すること百里に及んだ。

  光化三年(900)七月乙丑、洺州で大風となり、木を抜いて建物を壊した。

  天復二年(902)、昇州で大風となり、屋を壊して大木を飛ばした。

  夜妖(夜が妖をなす)。
  大和九年(835)十一月戊辰、昼でも暗かった。

  咸通七年(866)九月辛卯朔、天が暗かった。

  乾符二年(875)二月、宣武軍の境内で黒い風がおこり、土が降った。

  天祐元年(904)閏四月乙未朔、大風があり、土が降った。

  華孽(花に関する異常)。
  延載元年(694)九月、宮中に梨の花一枝が出て宰相に示した。多くの木が揺れ落ちて花が咲き、陰陽が損なわれた。伝(『春秋左氏伝』宣公十五年)に「天が四季の正常な流れに反するのが災」とあり、また常燠(常に暑い)のようなものである。

  神龍二年(706)十月、陳州の李に花が咲き、鮮やかに茂ること春のようであった。

  元和十一年(816)十二月、桃杏が花咲いた。

  大和二年(826)九月、徐州・滑州の李が花が咲き、実は食べることができた。

  会昌三年(843)冬、沁源県の桃李に花が咲いた。

  広明元年(880)冬、桃李の花、山の花がすべて咲いた。

  中和二年(882)九月、太原の諸山の桃杏の花が咲き、実がなった。

  景福年間(892-893)、滄州の城堀の中の氷が文様となり、大樹・花・葉・香りを描くかのようで、当時の人はその地に兵難があるだろうと思った。これは花に関する異常のようなものである。

  臝蟲之孽(ズイムシの異常)。
  貞観二十一年(647)八月、莱州に螟(ズイムシ。稲の茎を食べる害虫)が発生した。

  開元二十二年(734)八月、榆関道で虸蚄蟲(アワヨトウ)が実りを阻害し、平州の境界に侵入したが、群雀がやって来て食べ、一日で全滅した。開元二十六年(738)、榆関道で虸蚄蟲が実りを阻害し、群雀がやって来て食べた。

  三載、青州で紫蟲(コオロギ)が田を食べたが、鳥がこれを食べた。

  広徳元年(763)秋、虸蚄蟲(アワヨトウ)が実りを阻害し、関中が最もひどく、米一斗あたり千銭となった。

  貞元十年(794)四月、江西の渓流魚の頭にすべて蚯蚓(ミミズ)が載っていた。

  長慶四年(824)、絳州が虸蚄蟲(アワヨトウ)が実りを阻害した。

  大和元年(827)秋、河東、同州・虢州等の州で虸蚄蟲(アワヨトウ)が実りを阻害した。

  開成元年(836)、京城に蟻が集まって、長さ五・六十歩(約6.9から8.9m)、広さ五尺(約148cm)から一丈(2.9m)になり、厚さは五寸(約15cm)から一尺(約29cm)になった。開成四年(839)、河南で黒い虫が田を食べた。

  牛禍(牛の異常)。
  調露元年(679)春、牛に疫病が大流行した。京房の『易伝』に「牛が少ければ穀は実らない」とあり、また占に「金が動に革む」とある。

  長安年間(701-705)、前脚がない牛が献上され、三足で歩行した。また牛の脚の上に数本の足が生え、蹄はすべて備わっていた。武太后の従姉の子の司農卿の宗晋卿の家の牛に三本の角が生えた。

  神龍元年(705)春、牛に疫病が流行した。神龍二年(706)冬、牛に疫病が大流行した。

  先天年間(712-713)初頭、洛陽の市に牛がいて、左臂に人の手があり、長さ一尺、ある時はこれを曳いて物乞いをしていた。

  開元十五年(727)春、河北で牛に疫病が大流行した。

  大暦八年(773)、武功県・櫟陽県の民家が犢(子牛)を生んだが、二つの首があった。

  貞元二年(786)、牛に疫病が流行した。貞元四年(788)二月、郊牛(郊祭に供える犠牲の牛)が犢(子牛)を生み、六本足であった。足が多いのは、下が一つではないからである。郊所は天を奉るからである。貞元七年(791)、関輔で牛に疫病が大流行し、死んだのは十頭中五・六頭に及んだ。

  咸通七年(866)、荊州の民家の牛が犢(子牛)を生んだが、五本足であった。咸通十五年(874)夏、渝州江陽県で水牛が驢馬を生んだが、驢馬は死んだ。

  光啓元年(885)、河東に人語を話す牛がいたが、その家が殺して食べた。光啓二年(886)、延州膚施県で牛が死んだが再び蘇った。

  黄眚黄祥(黄色の異物・黄色の祥瑞)。
  貞観七年(633)三月丁卯、雨で土が降った。貞観二十年(646)閏三月己酉、黄雲があり広さ一丈(2.9m)、東西は天のはてまでであった。黄は土木工事のためである。

  永徽三年三月辛巳、雨で土が降った。

  景龍元年(707)六月庚午、陝州で土が降った。十二月丁丑、雨で土が降った。

  天宝十三載(753)二月丁丑、雨で黄土が降った。

  大暦七年(772)十二月丙寅、雨で土が降った。

  貞元二年(786)四月甲戌、雨で土が降った。貞元八年(792)二月庚子、雨で土が降った。

  大和八年(834)十月甲子、土の霧が昼を暗くし、十一月癸丑までであった。

  開成元年(836)七月乙亥、雨で土が降った。

  咸通十四年(873)三月癸巳、雨で黄土が降った。

  中和二年(882)五月辛酉、大風で、雨で土が降った。

  天復三年(903)二月、雨で土が降り、天地昏霾。

  天祐元年(904)閏四月甲辰、大風で、雨で土が降った。

  木火金水沴土(木火金水が土を損なう)。
  武徳二年(619)十月乙未、京師で地震があった。陰が盛んとなって常道に反しているなら地震となり、そのため占に臣下が強勢で、后妃に専横され、夷が中華を犯し、小人が道に通暁し、強盗に襲われ、叛臣となるとある。武徳七年(624)七月、巂州で地震があり、山が崩れて江を塞き止め、水の流れを塞いだ。

  貞観七年(633)十月乙丑、京師で地震があった。貞観十二年(638)正月壬寅、松州・叢州の二州で地震があり、家や建物を破壊した。貞観二十年(646)九月辛亥、霊州で地震があり、雷のような音がした。貞観二十三年(649)八月癸酉朔、河東で地震があり、晋州が最もひどく、圧死者が五十人異常であった。乙亥、また地震があった。十一月乙丑、また地震があった。

  永徽元年(650)四月己巳朔、晋州で地震があった。己卯、また地震があった。六月庚辰、また地震があり、雷のような音がした。永徽二年(651)十月、また地震があった。十一月戊寅、定州・襄州で地震があった。は始め晋王に封ぜられ、即位した当初にしばしば地震となり、天下が帝によって動揺しようとする象である。

  儀鳳二年(677)正月庚辰、京師で地震があった。

  永淳元年(682)十月甲子、京師で地震があった。

  垂拱三年(687)七月乙亥、京師で地震があった。垂拱四年(688)七月戊午、また地震があった。八月戊戌、神都で地震があった。

  延載元年(694)四月壬戌、常州で地震があった。

  大足元年(701)七月乙亥、揚州・楚州・常州・潤州・蘇州の五州で地震があった。(長安)二年(702)八月辛亥、剣南六州で地震があった。

  景龍四年(710)五月丁丑、剡県で地震があった。

  景雲三年(711)正月甲戌、并州・汾州・絳州の三州で地震があり、家や建物を破壊し、圧死者百人以上であった。

  開元二十二年(734)二月壬寅、秦州で地震があった。西北におぼろげに音がして、裂けてはまた合わさり、時間がたっても止まず、家や建物の大半を破壊し、圧死者四千人以上となった。開元二十六年(738)三月癸巳、京師で地震があった。

  至徳元載(756)十一月辛亥朔、河西で地震があり、裂けて音がし、家や建物が陥没し、張掖郡・酒泉郡が最もひどく、至徳二載(757)三月癸亥になって止んだ。

  大暦二年(767)十一月壬申、京師で地震があり、東北より来て、その音は雷のようであった。大暦三年(768)五月丙戌、また地震があった。大暦十二年(777)、恒州・定州の二州で大地震があった、三日で止み、束鹿県・寧晋県の地が数丈にわたって裂け、砂石が水流とともに出て地を平らにし、家や建物を破壊し、圧死者数百人であった。

  建中元年(780)四月己亥、京師で地震があった。三年六月甲子、また地震があった。建中四年(783)四月甲子、また地震があった。五月辛巳、また地震があった。

  貞元二年(786)五月己酉、また地震があった。貞元三年(787)十一月丁丑夜、京師・東都・蒲州・陝州で地震があった。貞元四年(788)正月庚戌朔夜、京師で地震があった。辛亥、壬子、丁卯、戊辰、庚午、癸酉、甲戌、乙亥のすべてで地震があり、金州・房州の二州が最もひどく、江が溢れ山が裂け、建物の多くが破壊され、人々は皆野宿した。二月壬午、京師でまた地震があり、甲申、乙酉、丙申、三月甲寅、己未、庚午、辛未、五月丙寅、丁卯のすべてで地震があった。八月甲午、また地震があり、雷のような音がした。甲辰、また地震があった。貞元九年(793)四月辛酉、また地震があり、雷のような音がした、河中、関輔が最もひどく、城壁・家や建物を破壊し、地が裂け水が湧き出た。貞元十年(794)四月戊申、京師で地震があった。癸丑、また地震があり、侍中の渾瑊の邸宅で樹が湧き出て、樹の枝にすべて(ミミズ)が載っていた。貞元十三年(797)七月乙未、また地震があった。

  元和七年(812)八月、京師で地震があり、草樹が皆揺れた。元和九年(814)三月丙辰、巂州で地震があり、昼夜八十回、圧死者百人以上、地が三十里陥没した。元和十年(815)十月、京師で地震があった。元和十一年(816)二月丁丑、また地震があった。元和十五年(820)正月、穆宗が即位し、戊辰、始めて群臣を宣政殿で朝会したが、この夜地震があった。

  大和二年(826)正月壬申、地震があった。大和七年(833)六月甲戌、また地震があった。大和九年(835)三月乙卯、京師で地震があり、屋根の瓦がすべて落ち、門窓で音がした。

  開成元年(836)二月乙亥、また地震があった。開成二年(837)十一月乙丑夜、また地震があった。開成四年(839)十一月甲戌、また地震があった。

  会昌二年(842)正月癸亥、宋州・亳州の二州で地震があった。十二月癸未、京師で地震があった。

  大中三年(849)十月辛巳、上都および振武軍節度使・河西節度使・天徳軍節度使・霊武節度使・塩夏節度使等の州で地震があり、家や建物を破壊し、圧死者数十人であった。大中十二年(858)八月丁巳、太原で地震があった。

  咸通元年(860)五月、上都で地震があった。咸通六年(865)十二月、晋州・絳州の二州で地震があり、家や建物を破壊し、地が裂け泉が湧き出て、泥が出て青色となった。咸通八年(867)正月丁未、河中、晋州・絳州の三州で大地震があり、家や建物を破壊し、死者が出た。咸通十三年(872)四月庚子朔、浙東・浙西で地震があった。

  乾符三年(876)六月乙丑、雄州で地震があり、七月辛巳になって止み、州の城・家や建物がすべて破壊され、地面が陥没して水が湧き出て、死傷者が非常に多かった。是月、濮州で地震があった。十二月、京師で地震があり音がした。乾符四年(877)六月庚寅、雄州で地震があった。乾符六年(879)二月、京師で地震があり、雷のような音がし、藍田県で山が裂け水が湧き出た。

  中和三年(883)秋、晋州で地震があり、雷のような音がした。

  光啓二年(886)春、成都で地震があり、一か月中に十数回あった。占に「戦争、飢饉がおこる」とあった。十二月、魏州で地震があった。

  乾寧二年(895)三月庚午、河東で地震があった。

  山摧(山崩れ)。
  貞観八年(634)七月、隴右で山が崩れた。山は高く険しいから、上から落ちるの象である。

  垂拱二年(686)九月己巳、雍州新豊県露台郷で大風雨と落雷があり、山が湧き出て、高さ二十丈(約59m)、池の周囲は三百畝で、池中に龍鳳の形があり、麦が生え、武后は吉兆だと思い、「慶山」と名付けた。荊州人の兪文俊は上言して「天気が不和であれば寒暑が隔たり、人の気が不和であればイボができます。地が不和であれば、うずたかい山ができます。今陛下は女の主で表立ってその地位におられるので、剛柔が転倒し、そのため地の気がふさがり、山は変じて災となっています。陛下は「慶山」だと思われていますが、臣は慶事ではないと思っています。身を慎んで徳を修めて天の譴責に答えるべきです。そうでなければ、災禍がくることを恐れるのです」と申し述べたが、武后は怒り、嶺南に流した。

  永昌年間(689)、華州の赤水南岸の大山に、昼間にたちまち風が吹いて暗くなり、かすかな音があって雷のようであり、しばらくして次第に東に数百歩移り、赤水をかかえ、村民三十家以上を圧し、山は高さ二百丈(約592m)以上、水深三十丈(約89m)、坂の上の草木はまるで燃えるかのようであった。「金縢」に、「山が移るのは、人君が道を用いず、禄位が公室を去り、賞罰は君主によらず、邪な者が執政し、政治は女主にあって、五年も表に出ず、王を逃亡させるようなことがある」とある。

  開元十七年(729)四月乙亥、大風と落雷があり、藍田山が百歩(約13.8m)以上崩れ裂けた。畿内の山である。国は山川をつかさどり、山は川を崩して渇水させるのは、亡国の証である。占に「人君に徳が消えて政治を簡単に変えるとそうなる」とある。

  大暦九年(774)十一月戊戌、同州夏陽県に山があって河上に移り、音は雷のようであった。大暦十三年(778)、郴州の黄芩山が崩れ、圧死者数百人に及んだ。

  建中二年(781)、霍山が裂けた。

  元和八年(813)五月丁丑、大隗山が崩れた。元和十五年(820)七月丁未、苑中の土山が崩れ、圧死者二十人となった。

  光啓三年(887)四月、維州の山が崩れ、連日止まず、灰燼が天を覆い、江の水を塞き止めて逆流した。占に「国破れる」とあった。

  山鳴(山が鳴る)。
  武徳二年(619)三月、太行山聖人崖で音がした。占に「侵攻がある」とあった。

  開元二十八年(740)六月、吐蕃が安戎城を包囲し、水路を断ったが、城の東山で巨石が裂ける音がして、泉が二所湧き出た。

  土為変怪(土が化け物となる)。
  垂拱元年(685)九月、淮南で地から毛が生え、あるものは白く、あるものは蒼く、長さは一尺(29cm)ほど、住民の床下にまんべんなく生え、揚州で最もひどく、大きさは馬のたてがみのようで、これを燃やすと臭いは毛を燃やしたかのようであった。占に「戦争がおき、民は安じない」とあった。

  長寿年間(692-694)、東都天宮寺の泥像がすべて汗を流した。

  天宝十一載(752)六月、虢州閺郷の黄河の中で女媧の墓が大雨のため暗くなり、所在がわからなくなったが、乾元二年(759)六月乙未の夜になって、河近くの人が、風があって雷の音がするのを聞き、朝にその墓が湧き出たのを見た。下に巨石があり、上に二本の柳があり、それぞれ長さが一丈(2.9m)以上で、当時の人は「風陵堆」と名付けた。占に「塚墓が自ら移ると、天下が破れる」とある。天宝十三載(753)、汝州葉県の南で土の塊が闘い、中に血が出て、数日もの間止まなかった。

  大暦六年(771)四月戊寅、藍田県の西原の地が陥没した。

  建中年間(780-783)初頭、魏州魏県の西四十里で、地が数畝にわたって突然数尺にわたって高く伸びた。建中四年(783)四月甲子、京師で地に毛が生え、あるいは黄色であるいは白く、長さ一尺(29cm)ほどあった。

  貞元四年(788)四月、淮南および河南で地に毛が生えた。

  元和十二年(817)四月、呉元済の郾城の守将の鄧懐金が城とともに降り、城が勝手に五十歩以上(約6.9m)にわたって崩壊した。

  大和六年(832)二月、蘇州で地震があり、白い毛が生えた。

  長慶年間(821-825)、新都県の大道観で泥人に髭が数寸生え、抜いてもまた生えてきた。

  咸通五年(864)十月、貞陵の隧道が崩落した。神策軍に浮屠像(仏像)があり、懿宗はかつて跪拝すると、像が地に四尺(116cm)陥没した。

  『洪範五行伝』に「征戦を好み、人々の命を軽んじ、城郭を飾り立て、辺境へ侵攻すれば、金は変形できなくなる」とあり、これは金が本来の性質を失って災いを起こすことをいうのである。また『洪範五行伝』に「言葉が従われないこと、これを不乂(治まらない)という。これによっておこる咎徴は僭、罰は旱魃、六極は憂いである。時に詩歌の妖がおこり、時に介虫の孽がおこり、時に犬の禍がおこり、時に口舌の痾がおこり、時に白色の異物・祥瑞が現れる。これらは木が金を損ねたのである」とある。

  金不従革(金は変形できなくなる)。

  堯君素は隋のために蒲州を守り、兵器は夜にすべて光を放って火のようであった。火は金を溶かすから、金は恐れるところであり、敗亡の象である。劉武周が并州を根拠地とし、兵の勢いは非常に盛んで、城の上で鉾の刃が夜ごとに火の光を放った。

  貞観十七年(643)八月、涼州昌松県の鴻池谷に石が五つあり、青色の材質で白い文で字が書かれており、「高皇海に多子を出す。李元王八十年。太平天子李世民、千年太子書す。燕山人士・楽太国主は、大いなる説話を尊び、文仁を推奨し、千古大王より優れる。五王六王七王。十風毛才子、七仏八菩薩、上果は仏田に及ぶ。天子の文武、貞観はなお盛大で、聖は四方にくまなくする。上は治めずして孝を示し、仙人の武器は八たび善をなす」とあった。太宗は使者を派遣してこれを祭って「天には定まった天命があり、吉祥の征兆を碑文であらわした。文字は明らかであるが、天象歴法は深淵で、既に高廟の業はあらわれ、またこの眇身が皇位を賜った。皇太子李治におよび、また貞符が降り、詳細に姓氏を記した。はじめは微小であると思い、いよいよ恐懼への懐きを増すのである」と述べた。昔、魏は土徳によって漢に代わり、涼州の石に文があった。石は金の類であり、五行相勝の理によってこれを推し、そのため当時の人は魏氏の妖で、晋室の瑞であると言った。唐もまた土徳の王で、石に文があり、この事は非常に似ていた。しかしその文ははじめ明らかにはならず、後人が後の事実によって推測して験としたのである。思うに武氏は革命すると、自らを金徳の王だと思い、その「仏菩薩」というのは、慈氏金輪(仏陀)の号である。「楽太国主」は鎮国太平公主安楽公主で、二人共女性が国を乱し、「五王六王七王」は、唐の歴代が十八代の数をいうのである。

  垂拱三年(687)七月、魏州で地から船のような鉄が出て数十丈にもなった。広州で金が降った。金は仲秋に位し、刑罰となり、戦争となる。占に「人君多く無実の者を殺し、一年戦争が朝廷に災いする」とある。

  開元二十三年(735)十二月乙巳、龍池の聖徳頌石が自然と鳴り、その音は清遠で鐘や磬のようであった。石は金と同類である。『春秋左氏伝』に「民に怨嗟がきざすと、ものを言わぬはずの物がものを言う」とあり、石が鳴るのは、これは石がものを言うようなものである。

  天宝十載(751)六月乙亥、大同殿前の鐘が勝手に鳴った。占に「庶民の雄(かしら)が乱をおこす」とある。

  至徳二載(757)、昭陵の石馬が汗を流した。昔、北周の武帝が晋州で勝利をおさめると、斉に石像があり、汗を流して地を湿らせたが、これはその類である。

  乾元二年(759)七月乙亥昼、渾天儀に液があって汗のように下に流れた。

  上元二年(761)、楚州が宝玉十三個を献上した。「玄黄天符」とあるのは、形は笏のようで、長さは八寸(232cm)で、穴があり、兵の病気を退けるという。「玉鶏毛」とあるのは、白玉であり、「穀璧」とあるのもまた白玉であり、粟粒が自然に出て、彫ったり削ったりした痕跡がなかった。「西王母白環」とあるのは二つあり、「如意宝珠」とあるのは、大きさは鶏卵のようである、「紅靺鞨」とあるのは、大きさは大きな粟のようで、「琅玕珠」とあるのは二つあり、形は玉環のようで、四分して一つ損失している。「玉印」とあるのは、大きさは手の半分ほどで、筋模様が鹿のようで、貫入が中央に印となっている。「皇后採桑鉤」とあるのは、箸のようで、その端が曲がっている。「雷公石斧」とあるのは穴がない。一つは銘文がない。十三であった。これを日中に留め置くと、白気が天を連ねた。

  元和年間(806-820)、文水県の武士彠碑が亀頭を失った。翰林院に鈴があり、夜中に文書が入ると、これを引いて代わりに呼び伝えていたが、長慶年間(821-825)、河北で兵を用いると、夜にたちまち自ら鳴り、軍中の損耗とともに応じ、音が緊迫していれば軍事もまた緊迫し、音が緩やかならば軍事も緩やかであった。資州に一方一丈(2.9m)の石があり、数畝にわたって走行した。

  大和三年(829)、南蛮が成都を包囲し、玉晨殿を取り壊して石垣とすると、咆哮するような音が三度あって、止んだ。大和四年(830)五月己卯、通化坊の南北二門は閉鎖して開くことができず、鑰(かぎ)を入れると、これを持っていたかのようであった。その管が敗れ、門は開いた。また浙西観察使の王璠が潤州の城の濠を修造した際に、土中から四方形の石が出てきて、銘文が刻まれており、「山に石あり、石に玉あり、玉に瑕あり、瑕は休である」とあった。

  広明元年(880)、華岳廟の玄宗御製碑にかすかな音がして、数里の間まで聞こえ、十日ほどして止んだ。これは石がものを言うようなものである。

  光化三年(900)冬、武徳殿前の鐘の音が突然かすれ、天復元年(901)九月、音はまた小さくなった。

  常暘(旱魃)。
  武徳三年(620)夏、旱魃となり、八月になって雨が降った。武徳四年(621)、春より雨が振らず、七月になって雨が降ったが、少陰の気があり、その気が毀れると雨が降らなかった。少陰は、金であり、金は刑罰となり、戦争となり、刑が無実の場合に行われ、戦争が治まらなければ、金気は毀れ、そのため常に旱魃となるのである。火は盛陽で、陽気は勇猛果敢で、そのため聖人は礼を定めてこれを抑えたのである。礼が失われると未分不相応で横暴となり、それによって盛陽に導けば、火が勝って金が衰え、そのためまた旱魃となるのである。五行では、土が満ちて水を抑え込むと、土木事業がおこって水気は阻害され、また常に旱魃となる。天官は東井宿で、水に関する事をつかさどり、天漢(あまのがわ)・天江もまた水の祥である。水は火と仇で、制を土に受け、土火は謫見(天からの譴責)であるから、もし日蝕が過分にしてまだ至らず、七曜(太陽・月・火星・水星・木星・金星)とともに中道(太陽の運行する道)の南に従えば、旱魃の祥となる。武徳七年(624)秋、関内・河東が旱魃となった。

  貞観元年(623)夏、山東で大旱魃となった。貞観二年(624)春、旱魃となった。貞観三年(625)春・夏、旱魃となった。貞観四年(630)春、旱魃となった。太上皇から帝位を伝えられてここに到り、この年に水害と旱魃となった。貞観九年(635)秋、剣南・関東の二十四州で旱魃となった。貞観十二年(638)、呉・楚・巴・蜀の二十六州で旱魃となった。冬、雨が降らず、翌年五月まで続いた。貞観十七年(643)春・夏、旱魃となった。貞観二十一年(647)秋、陝州・絳州・蒲州・夔州等の州で旱魃となった。貞観二十二年(648)秋、開州・万州等の州で旱魃となった。冬、雨が降らず、翌年三月まで続いた。

  永徽元年(650)、京畿、雍州・同州・絳州等の十州で旱魃となった。永徽二年(651)九月、雨が降らず、翌年二月になった。永徽四年(653)夏・秋、旱魃となり、光州・婺州・滁州・潁州等の州が最もひどかった。

  顕慶五年(660)春、河北の二十二州で旱魃となった。

  総章元年(668)、京師および山東・江淮で大旱魃となった。総章二年(669)七月、剣南の十九州で旱魃となり、冬に雪が降らなかった。

  咸亨元年(670)春、旱魃となった。秋にまた大旱魃となった。

  儀鳳二年(677)夏、河南、河北が旱魃となった。儀鳳三年(679)四月、旱魃となった。

  永隆二年(681)、関中で旱魃となり、霜がおり、大飢饉となった。

  永淳元年(682)、関中で大旱魃・飢饉となった。永淳二年(683)夏、河南・河北で旱魃となった。

  永昌元年(689)三月、旱魃となった。

  神功元年(697)、黄州・隋州等の州で旱魃となった。

  久視元年(700)夏、関内・河東で旱魃となった。

  長安二年(702)春、雨が降らず、六月まで続いた。長安三年(703)冬、雪がなく、翌年二月まで続いた。

  神龍二年(706)冬、雨が降らず、翌年五月まで続き、京師・山東・河北・河南で旱魃・飢饉となった。

  太極元年(712)春、旱魃となった。七月、再び旱魃となった。

  開元二年(714)春、大旱魃となった。開元十二年(724)七月、河東、河北で旱魃となり、は親ら宮中で雨を祈り、壇席を設けると、たちどころに三日雨が降った。九月、蒲州・同州等の州で旱魃となった。開元十四年(726)秋、諸道十五州で旱魃となった。開元十五年(727)、諸道十七州で旱魃となった。開元十六年(728)、東都・河南、宋州・亳州等の州で旱魃となった。開元二十四年(736)夏、旱魃となった。

  永泰元年(765)春・夏、旱魃となった。永泰二年(766)、関内で大旱魃となり、三月から雨が降らず、六月まで続いた。

  大暦六年(771)春、旱魃となり、八月まで続いた。

  建中三年(782)、五月から雨が降らず、七月まで続いた。

  興元元年(784)冬、大旱魃となった。

  貞元元年(785)春、旱魃となり、麦の苗がなくなり、八月まで続き、旱魃はひどく、灞水・滻水が渇水しようとし、井戸はすべて水がなかった。貞元六年(790)春、関輔で大旱魃となり、麦の苗がなくなった。夏、淮南・浙西・福建等の道で大旱魃となり、井戸や泉は枯渇し、人は乾き暑気あたりとなって病気になり、死ぬ者は非常に多かった。貞元七年(791)、揚州・楚州・滁州・寿州・澧州等の州で旱魃となった。貞元十四年(798)春、旱魃となり、麦が生えなかった。貞元十五年(799)夏、旱魃となった。貞元十八年(802)夏、申州・光州・蔡州で旱魃となった。貞元十九年(803)正月、雨が降らず、七月甲戌になって雨が降った。

  永貞元年(805)秋、江浙・淮南・荊南・湖南、鄂州・岳州・陳州・許州等の二十六州で旱魃となった。

  元和三年(808)、淮南・江南・江西・湖南・広南・山南の東西ですべて旱魃となった。元和四年(809)春・夏、大旱魃となった。秋、淮南・浙西・江西・江東で旱魃となった。元和七年(812)夏、揚州・潤州等の州で旱魃となった。元和八年(813)夏、同州・華州の二州で大旱魃となった。元和十五年(820)夏、旱魃となった。

  宝暦元年(826)秋、荊南・淮南・浙西・江西・湖南および宣州・襄州・鄂州等の州で旱魃となった。

  大和元年(827)夏、京畿、河中、同州で旱魃となった。大和六年(832)、河東・河南・関輔で旱魃となった。大和七年(833)秋、大旱魃となった。大和八年(834)夏、江淮および陝州・華州等の州で旱魃となった。大和九年(835)秋、京兆・河南・河中、陝州・華州・同州等の州で旱魃となった。

  開成二年(837)春・夏、旱魃となった。開成四年(839)夏、旱魃となり、浙東が最もひどかった。

  会昌五年(845)春、旱魃となった。会昌六年(846)春、雨が降らず、冬もまた雨が降らず、翌年二月まで続いた。

  大中四年(850)、大旱魃となった。

  咸通二年(861)秋、淮南・河南で雨が降らず、翌年六月まで続いた。咸通九年(868)、江淮で旱魃となった。咸通十年(869)夏、旱魃となった。咸通十一年(870)夏、旱魃となった。

  広明元年(880)春・夏、大旱魃となった。

  中和四年(884)、江南で大旱魃・飢饉となり、人々が互いに人食しあった。

  景福二年(893)秋、大旱魃となった。

  光化三年(900)冬、京師で旱魃となり、光化四年(901)春まで続いた。

  詩妖(詩・歌の異常)。
  竇建徳が敗れる以前、有謡曰:「豆が牛の口に入り、勢いは長いこと維持できない」とあった。

  貞観十四年(640)、交河道行軍大総管の侯君集が高昌を討伐した。これより以前、その国中で童謡があり、「高昌の兵馬は霜雪のよう、漢家の兵馬は日月のよう、日月が霜雪を照らせば、回首(帰順)して自ら消滅する」

  永徽年間(650-655)後、民が武媚娘曲を歌った。

  調露年間(679-680)初頭、京城の民謡に「側堂堂、橈堂堂」の文句があった。太常丞の李嗣真が「側は不正で、橈は不安です。隋より以来、楽府に「堂堂曲」があり、再び堂堂と言うのは、唐が再び受命する象です」と述べた。

  永淳元年(682)七月、東都が大雨となり、人々は多く餓死した。これより先、童謡に「新しい実りは箱に入らず、新しい麦は場に入らず、八・九月におよんで、犬が空と塀に吠える」とあった。

  高宗は調露年間(679-680)より嵩山を封じようと思ったが、突厥が叛いたから止めた。後でまた封じたいと思ったが、吐蕃が入寇したから遂に停めた。当時、童謡に「嵩山はおよそ幾層もあり、登るのを恐れないのにできず、ただ登ることができないのを恐れる。三度兵馬の兆しがあって、傍道に湧き上がるのを打ちあてる」とあった。

  永徽年間(650-655)末、里歌に「桑条也」「女時韋也」の楽があった。

  龍朔年間(661-663)、当時の人々は飲酒の際にふざけて「子母は互いに去り離れ、連台はひねり倒れる」と言い、俗では盃と盤(たらい)を子母といい、また盤を台といった。また里歌に「突厥塩」があった。

  永淳年間(682-683)以後、民の歌に「楊柳、楊柳、漫頭駝(もやしの駱駝)」があった。

  垂拱年間(685-688)以後、東都に契苾児の歌があり、すべて淫靡な歌詞であった。契苾は、張易之の小字である。

  如意年間初頭(692)、里歌に、「黄麞(ノロジカ)、黄麞、草の中に隠す、彎弓射てお前を傷つける」とあり、その後、王孝傑が黄麞谷で敗れた。

  神龍年間(707-710)以後、民謡に「山南は烏鵲の巣、山北は金駱駝、鎌の柄に穴をあけず、斧には柄をつけず」とあり、山南は唐であり、烏鵲の巣は人々の居住が少ないことである。山北は胡であり、金駱駝は、虜が獲て重く載せることである。安楽公主が洛州に安楽寺を造り、童謡に「憐れむべき安楽寺、明らかに樹に頭が懸けられる」とあった。

  景龍年間(707-710)中、民謡に「黄色の牸(めうし)と犢子(こうし)は引綱を曳いて断たれ、両足は地を踏んで麻靴を断たれ、城の南の黄色の牸(めうし)と犢子(こうし)は」とあった。また「阿緯娘歌」があった。当時、また謡に「憐むべき聖善寺、身は緑毛の衣を着け、河の中に引きずり込んで、鯉魚の子を踏み殺す」とあった。

  玄宗が即位前に潞州にいた時期に、童謡に「羊頭山の北に朝堂をつくる」とあった。

  天宝年間(742-756)、術士の李遐周玄都観の建物に詩を書きつけて、「燕市の人皆去り、函関の馬帰らず。人逢う山下鬼、上に羅衣をかける」とあったが、人々は皆理解できず、これは詩・歌の異常のようなものである。また安禄山がまだ叛乱を起こす前、童謡に、「燕燕上天を飛び、天上の女児白氈に鋪く。氈上に千銭あり」とあった。当時、幽州ではまた謡があり、「旧来戴竿を誇るも、今日看るに堪えず。但看る五月の裏、清水河辺に契丹を見る」とあった。

  徳宗時、ある者が詩をつくって、「この水は涇水に連なり、二つの眼で血は川に満ち、青牛は朱虎を追い払い、まさに太平の年と号す」とあり、これは詩・歌の異常のようなものである。朱泚が敗北する二か月前、童謡に、「一隻の筯、二つ頭の朱、五・六月、化して胆となる」とあった。

  元和年間(806-820)初頭、童謡で、「脱穀、脱穀、三三三」とあり、そこで身を翻して「舞い終わった」と言った。

  大中年間(847-860)末、京師の小児が布を畳んで水に着け、これを縛って太陽に向け、これを「暈(めくら。後に鄆王であった懿宗を揶揄したものとされる)を抜擢する」と言った。

  咸通七年(866)、童謡に、「草青々として、厳霜を被り、鵲は始めて巣作りをし、狂乱をみる」とあった。咸通十四年(873)、成都の童謡に、「咸通癸巳、出ても行くところなく、蛇は去って馬来る。道路ようやく開き、頭に片瓦なく、地に残灰あり」とあった。この年、歲陰(十二支)は巳であり、翌年は午であった。巳は蛇であり、午は馬である。

  僖宗の時、童謡に「金色の蝦蟆は怒り目となって争い、曹州をひっくり返して天下に叛く」とあった。

  乾符六年(879)、童謡に、「八月霜寒なく草青し。将軍の騎馬空城を出る。漢家の天子は西に巡狩し、なお江東に向かってさらに兵を求める」とあった。

  中和年間(881-885)初頭、童謡に、「黄巣走り、泰山の東、死ぬも生きるも翁家の翁」とあった。

  訛言(流言)。
  貞観十七年(643)七月、民の流言に、官が棖棖(内蔵を食らう悪鬼)を派遣して人を殺し、これによって天狗を祭るとあった。それがやってくると言い、身は犬の皮を着て、鉄の爪で、闇夜に人の内蔵を食らって去った。ここに互いに恐れ震え、夜ごとに騒動となり、皆が弓剣をひっさげて自ら防衛し、兵器がない者は竹を尖らせてつくり、郊外にあえて一人で移動する者はいなかった。太宗はこれを憎んで、夜を通じて諸坊の門を開かせ、宣旨して慰撫すると、一か月ほどで止んだ。

  武后の時、民は飲酒して声をあわせて歌い、曲が終っても歌い足りなければ、これを「族塩」といった。

  開元二十七年(729)十月、改めて東都の明堂を建造すると、官が小児を捕らえて明堂の下に埋め、厄除けにするという流言があった。村や野で児童が山谷に隠れ、都城は騒然とし、ある者が兵がやってきたと言った。玄宗はこれを憎んで、使者を派遣して慰諭し、しばらくして止んだ。

  天宝三載(744)二月辛亥、星が月のようで、東南に墜ち、堕ちた後に音がし、京師で官が棖棖(内蔵を食らう悪鬼)を派遣して人々を捕らえ、肝をとって天狗を祭るという流言があり、人々は非常に恐れ、畿内で最もひどく、使者を派遣して安心するよう説諭したが、貞観十七年(643)の占と同じであった。

  天宝年間(742-756)以後、詩人は多く憂い苦しんで流寓の思いをなし、江湖の僧寺に寓意した。楽曲もまた多く辺境の地名があり、伊州・甘州・涼州等は、その曲はほとんど淫靡な音楽となり、皆これを「入破」と呼んだ。また胡旋舞があり、もとは康居(サマルカンド)より出たもので、旋回が敏捷であるのを上手であるとし、当時の人々はこれも尊んだ。破は思うに破壊のことをいうのであろう。

  建中三年(782)秋、江淮で毛人がいてその心臓を食らうという流言があり、人々は大きに恐れた。朱泚が皇帝を僭称すると、その旧邸を名付けて潜龍宮とし、内府の珍貨を移してこれを実態のあるものとした。占い師が『易』の「潜龍用いるなかれ(『易経』乾為天 初九)」であると思い、これを敗北の兆しとした。

  大和九年(835)、京師で、鄭注お上のために金丹を調合し、生きた小児の心臓・肝をとり、密かに命じて子どもを捕らえること数え切れないという流言があった。人々はしばしば密かに「どこそこで何人かの子どもがいなくなった」と語り合った。方士は金丹が神仙となれると言い、思うに大嘘で不条理の語で、ある者は信じてこれを服用し、発熱して多くが死んだから、もしくは戒めとするところがあるものであろうか。子どもは無辜の者で、その心臓・肝を取るのは、殺戮があるだろう象である。

  劉従諌がまだ死ぬ前、潞州に狂人が腰を折って市で「石雄が七千人と共にやってくるぞ」と言ったが、劉従諌は捕らえて捕った。

  咸通十四年(873)秋、成都で㹫母鬼が夜に人家に入るという流言があり、民は皆恐れ、夜に集まって座った。ある者は誰かの家で鬼を見て、眼は明々として灯火が燃えるようであったと言ったから、民はますます恐れた。

  黄巣が京師に入る以前、都の人は黄米および黒豆の屑を蒸して食べ、これを「黄賊が黒賊を打つ」と言った。僖宗の時、巷で喧嘩する者が激怒して、「任じられて右廂の天子を見たぞ」と言った。

  毛蟲之孽(毛虫の異常)。
  永徽年間(650-655)、河源軍に三匹の狼がいて、昼に軍門に入ったため射ると斃れた。

  永淳年間(682-683)、嵐となり、勝州で兎が実りを阻害し、千万が群となり、苗を食い尽くすと、兎もまた見えなくなった。

  開元三年(715)、熊が昼に揚州城に入った。

  乾元二年(759)十月、百官に詔して勤政楼に登って安西兵が陝州に赴くのを閲兵すると、狐が楼上に出てきたから、捕獲した。

  大暦四年(769)八月己卯、虎が京師長寿坊の宰相元載の家廟に現れたから、射殺した。虎は、西方の属で、猛威を併呑し、処刑の象である。大暦六年(771)八月丁丑、白兎を太極殿の内廊で捕獲した。占に「国に心配事がある。白は喪の祥である」とあった。

  建中三年(782)九月己亥夜、虎が宣陽里に入って、二人に傷を負わせ、追い詰めて朝に捕獲した。

  貞元二年(786)二月乙丑、野鹿が含元殿前にいて捕獲した。壬申、また鹿が含元殿前にやってきたから捕獲した。占に「大喪がある」とあった。貞元四年(788)三月癸亥、鹿が京師西市の門にいて捕獲した。

  開成四年(839)四月、麞(ノロ)が太廟に出てきたから捕獲した。

  犬禍(犬の災い)。
  武徳三年(620)、突厥の処羅可汗が入寇しようとすると、夜に犬の群れが吠えているのが聞こえたが、犬は見えなかった。

  武后の初め、酷吏の丘神勣の家で犬が子を生んだが、皆首がなく、項にあたるところに孔があって口のようになっており、昼も夜も鳴き吠えたが、突然いなくなった。

  神功元年(697)、安国(ブハラ)が二つ首の犬を献上した。首が多いのは、上が一つではないことである。

  天宝十一載(752)、李林甫が朝起きて洗顔・身支度して朝廷に向かおうとし、書囊を取って見ると、中に鼠のようなものがいて、地に躍り出てただちに犬に変り、雄大で牙があり、李林甫を見た。李林甫はこれを射て、あたって殺したかのように声があがったが、矢とともに消えた。

  貞元七年(791)、趙州柏郷の民の李崇貞の家の黄犬が犢(こうし)に乳を与えた。

  会昌三年(843)、定州深沢県令の家で犬に角が生えた。

  大中年間(847-860)初頭、犬に角が生えた。京房(『易伝』妖占)は「公平さが失われ害しようとするのに応じる」とあり、また「君子が危機に陥ると、犬に角が生える」とある。

  咸通年間(860-874)、会稽に犬が生まれたが吠えることができず、打ち据えても声がなかった。犬の仕事は吠えて守ることであるから、それが出来ないのは、象鎮守する者が敵から守ることができないの兆しの象である。

  成汭が荊南節度使となると、城中の犬が皆夜に吠え、占い師の向隠は城郭が廃墟となるだろうと思った。

  中和二年(882)秋、丹徒県の犬が豚と交った。占に「諸侯に謀があって国を害せんとする者がいる」とある。

  白眚白祥(白色の異物・祥瑞)。
  調露元年(679)十一月壬午、秦州の神亭の野の北で霧が開けると日が初めて耀くかのようになり、白鹿・白狼がいるのが見えた。これは白色の異物・祥瑞のようなものである。

  神龍二年(706)四月己亥、毛が越州の鄮県に降った。占(京房『易伝』妖占)に「邪人進めば、賢人逃れる」とある。

  大暦二年(767)七月甲戌の日の入り時、白気があって天にわたった。九月戊午夜、白霧が西北より起こり、天にわたった。大暦五年(770)五月甲申、西北に白気があって天にわたった。

  貞元二十年(804)九月庚辰の甲夜(午後七時)、白気が八あり、東西天にわたった。

  大和三年(829)八月、西方に白気があって柱のようであった。大和七年(833)十月已酉、西方にまた白気があって柱のようなのが三つあった。

  光啓二年(886)四月、白気の頭が黒いことが髪のようで、東南より揚州に入って消えた。

  光化二年(899)三月乙巳、日中に白気が天にわたり、西南より東北に貫いた。

  天復元年(901)八月己亥、西方に白雲があって靴の底のようで、中に白気を出して白絹のようであり、長さ五丈(約14.6m)、上は天をつき、分かれて三彗となり、頭は垂れ下がった。占に「天下に戦争がある。白は戦いの祥である」とある。

  木沴金(木が金を損なう)。
  神龍年間(707-710)、東都白馬寺の鉄像の頭が理由なく自ら殿門の外に落ちた。

  天宝五載(746)四月、宰相李適之は常に鼎を並べて美味な料理を揃えていたが、夜も半ばになると、鼎が躍り出て互いに戦って和解せず、鼎の耳や足がすべて折れた。


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