唐書巻一百八十四
列伝第一百九
馬植 楊収 発 厳 涉 路巌 韋保衡 盧攜
【馬植伝】
馬植は、字は存之で、鳳州刺史の
馬勛の子である。進士に及第し、また制策科に選ばれ、校書郎に補任された。寿州団練副使から三遷して饒州刺史となった。開成年間(836-840)初頭、安南都護となった。官吏の事務に精通し、文雅によって政治を彩り、清廉で煩わしさがなく、洞夷も安んじた。羈縻の諸首領が皆やって来て誼みを結び、子弟を派遣して都護府に送り込み、賦租の税の約束を願い出た。馬植は上奏して武陸県を陸州とし、そこで現地の首領を選抜して刺史とした。やがて州の領域内の廃池で珠が再び産出するようになった。政務に最も優れた者との評価を受け、検校左散騎常侍となり、黔中観察使に遷った。
会昌年間(841-846)、京師に召還されて光禄卿を拝命し、大理卿に遷った。馬植は自ら声望が当時の諸公に勝るとも劣らないと自負していたが、長く外任に任じられ、朝廷に戻っても要官につけず、宰相の
李徳裕に抑えられていたから、内心では怨みを抱いていた。
宣宗が即位すると、
白敏中が宰相となり、おおむね李徳裕と親しくなかった者は、全員序列によらず登用され、そのため馬植は刑部侍郎によって諸道塩鉄転運使を領し、戸部に遷り、にわかに同中書門下平章事(宰相)となり、中書侍郎に昇進した。
それより以前、左神策軍護軍中尉の
馬元贄は最も
帝に寵用・信頼され、通天冠と犀帯を賜った。しかし馬植はもとより馬元贄と親しく、分け隔てない親密な間柄であり、馬元贄は賜った帯を馬植に贈った。他日、便殿で対面すると、帝はその帯のことを知り、馬植に詰問し、馬植は恐れおののき、詳細に事実を申し上げた。ここに宰相を罷免されて天平軍節度使となった。赴任すると、詔によって側近の官吏が御史台の獄に下され、私的な交際の事実がすべて明らかとなったから、常州刺史に貶され、太子賓客によって東都分司となった。後に起用されて忠武軍・宣武軍節度使となったが、卒した。
それより以前、馬植は
集賢殿大学士を兼任していたが、校理の
楊収が道で三院御史と遭遇し、道を譲ることをよしとしなかったから、朝長の馮緘がその部下に命じて辱めさせた。馬植は怒り、以下のように奏上した。「開元年間(713-741)、
麗正殿が酒を賜った時、大学士の
張説以下十八人は誰が最初に酒杯をあげたらよいかわかりませんでした。張説は学士というのは互いに譲り合うのが徳行であるとし、遂に同時に酒杯をあげました。今馮緘が楊収を辱めましたが、これは大学士全員を辱めたのに等しいものです。馮緘を罷免してください。」 御史中丞の
令狐綯は故事を引用して皇帝に上書して馮緘を救おうとしたから、
宣宗は許して不問に処した。そのため令に「三館の学士は行台を避けず」と著されたのは、馬植より始まったのである。御史台の制度に、「三院(台院・殿院・察院)が御史台に戻ると、その中の一人を朝長とする」とある。
【楊収伝】
楊収は、字は蔵之で、自らを隋の越国公
楊素の後裔だと言い、代々馮翊に住んだ。父の
楊遺直は、
徳宗の時、上書によって宮中に到り、仕えて濠州録事参軍となり、姑蘇(蘇州)で客死した。
楊収は七歲で父を喪い、喪に服すようすは成人のようであった。母の長孫氏は自ら経籍を教え、十三歳で概ねを理解した。文章をよくし、賦は即興でたちまちにできたから、呉の人々は神童と呼んだ。郷里の人々は多くが門前に集って楊収が詩を賦するのを見物したが、あまりの多さに家の垣根を圧し潰すほどであった。楊収は「角の生えた獣でもあるまいし、どうして我が家の垣根にぶつかるのか」と嘲け笑ったが、軽妙な様子はだいたいがこうであった。成長すると、身長は六尺二寸(約182cm)で、額は広く顎に張りがあり、眉も目も大きかった。寡黙で笑うことも少なかったが、博学強記で、他の物事であっても理解できないものはなかった。非常に貧しく、母が仏教を信じていたから、自らも幼い頃から肉を食べなかった。そこで母とは「お前が進士に合格したら、肉を食べなさい」と約束した。
涔陽の土中から古鐘が掘り出され、高さは一尺ばかりで、楊収はこれを叩くと、「これは姑洗均の角調(G)だ」と言い、後で汚れをえぐってみると、二つの欒(打音点)が刻まれていたから、言った通りであった。かつて、「琴には黄鐘均(C、D、E、F♯、G、A、Bのオクターブ)・姑洗均(E、F♯、G♯、A♯、B、C♯、D♯のオクターブ)・無射均(A♯、C、D、E、F、G、Aのオクターブ)の三均があり、そこから派生する諸調性は、蔦が灌木に絡みつくように広がっている」と言った。当時、安涚なる者がおり、世間では琴をよくし、また音を知る者として称えられていた。楊収は「本来の五弦に加えられた二本の弦は、どのような由来によるものですか」と尋ねると、安涚は「代々周の文王・武王の二王によって加えられたと伝えられています」と言い、楊収は「「文王操」を弾くことができますか」と言うと、安涚はそこで黄鐘均の宮調(C、D、E、F♯、G、A、Bのオクターブ)で演奏し、少商(第七弦)で大絃に応じた。すると楊収が「止めてください。あなたの言う通りでしたら、少商は武王の弦のはずです。文王の時代にどうして武王の響きを用いることができましょうか」と言ったから、安涚は大いに驚き、そこで音楽の主意を尋ねた。楊収は次のように述べた。「楽が滅んでから長い時代がたっています。上古では天地宗廟を祭る際に、商調を用いませんでした。周の人は大呂(第二音)で歌い、「雲門」を舞って天神を待ち、太蔟(第三音)で歌って「咸池」を舞って地祇を待ちました。大呂と黄鐘の調和は、陽の音の始まりです。しかし「雲門」は黄帝の音楽です。「咸池」は尭の音楽です。黄鐘を用いることを避けて、太蔟を次に用いたのです。だからこそ天を祭るには、圜鐘を宮とし、黄鐘を角とし、太蔟を徵とし、姑洗を羽とします。地を祭るには、函鐘を宮とし、太蔟を角とし、姑洗を徵とし、南呂を羽とします。結局のところ、商および二少(少宮・少徵)の音は用いられなかったのです。思うに、商の音は強く、二少の音は格落ちであるから、正しいものを取り入れ、繁雑さを省いたのが理由なのでしょう。漢では天を祭るのに商を用いましたが、宗廟では用いませんでした。鬼神が商の音の強さを恐れるとされたからです。西京(前漢)の儒者たちは圜鐘・函鐘の説に惑わされ、そのため王朝成立より、郊祀・宗廟の音楽は、ただ黄鐘均の一均(一オクターブ)を用いるだけでした。章帝の時、太常丞の鮑業が始めて十二宮を転調させる方法を生み出しました。そもそも旋宮(宮の転調)とは七音を一均(一オクターブ)とし、均とは韻のことを指していますが、古代では韻の字がなく、ただ一韻の音を指しています。始めはある音律を宮とし、ある音律を商とし、ある音律を角とし、ある音律を徵とし、ある音律を羽とし、ある音律を少宮とし、ある音律を少徵としました。これらはまた「変」とも「比」とも呼ばれています。一均(一オクターブ)が成立するならば五音は節度や秩序を形成します。これが旋宮(宮の転調)なのです。」 そこで楊収は律管を並べて安涚に示した。安涚は当時七十歳以上であったが、このようなことは今まで聞いたことがなく、しかも楊収はまだ冠礼すら済ませていない若者であった。
兄の
楊仮がまだ出仕していなかったから、進士に貢挙されることをよしとしなかった。楊仮が仕官すると、そこで京師に入った。翌年、進士に及第し、
杜悰の上表によって淮南推官に
辟署された。杜悰が度支使となり、剣南東川節度使、剣南西川節度使となると、たちまち幕府に従って三遷した。宰相の
馬植の上表によって渭南県の尉・
集賢殿校理とし、宰相の議によって監察御史に補任されることとなった。しかし楊収は兄楊仮が外任となっていたから、情誼によって兄に先んじるべきではないとし、固辞した。馬植は高潔さを評価し、沙汰止みとした。また杜悰の節度府で判官となった。蜀に可県(可泉県)があり、巂州の西南にあたり、地は広くなだらかで、水や泉が多く、灌漑して稲作に適していた。ある者が杜悰に向かって屯田を設置して、兵糧の輸送の手間を省き、これによって辺境の兵士の食糧にあてるよう計画した。杜悰はこの意見に従おうとしたが、楊収は以下のように述べた。「田はつくることができても、兵を得ることができません。また地は蛮地の真ん中にあり、もともと中国の土地ではありません。今、西南の駐屯兵を割いて耕作に行かせるなら、姚州・巂州の兵が少なくなり、賊はその隙間に乗じるでしょう。もし兵を徴発して賊を防ぐのなら、民は疲れ兵士は怨むでしょう。たとえ大豊作になったとしても、蛮は長駆して掠奪するので、これは賊の兵糧を助けることになり、どうして国益にかなうでしょうか。」 そこで沙汰止みとなった。
それより以前、
周墀が宰相を罷免されて、剣南東川節度使となると、上表によって楊収の弟の
楊厳が掌書記となった。にわかに周墀が卒すると、杜悰は楊厳を
辟署して観察使判官とし、兄弟が並んで幕府に就任した。しばらくもしないうちに、
楊仮が浙西判官から監察御史に抜擢された。しかも楊収も同じく剣南西川節度府から遷ってきたから、兄弟が同じく御史台にあり、世間から称賛された。礼学に詳しかったから太常博士に改められ、しかも楊厳もまた揚州から召喚されて監察御使となった。楊収は建言して、「漢の制度では、官吏を統率する機関を省とし、専門的な職掌を行う機関を寺としました。太常寺は、専門的な職掌を行うもので、天子の旗を官吏するからです。今、旗は常に車に飾られるからという理由で太僕寺に属していますが、正しいことではありません」と述べ、実行される前に、母の喪によって免官となった。服喪があけると、淮南節度使の
崔鉉によって節度府の支使となった。京師に戻ると侍御史を拝命した。
夏侯孜が宰相として度支使となると、引き立てられて判度支の実務を担った。後に長安県令に遷った。
懿宗の時、累進して中書舎人・翰林学士承旨に抜擢され、中書侍郎によって同中書門下平章事(宰相)となった。それより以前、南蛮は大中年間(847-860)以来、邕州に放火し、交趾を掠奪した。華人を徴発して駐屯させたものの、悪性の瘴気にあたって死ぬ者が十人中七人におよび、戦っても功績があがらず、蛮の勢いはますます伸張した。楊収は豫章で兵士三万人を募集し、鎮南軍を設置して蛮を防ぐよう提議した。全軍に足で弩を引くことを教え、戦いでは必ず教えを行きわたらせたから、蛮は戦線を支えることができなかった。また兵糧を蓄え、舟を浮かべて南海に運び入れた。
天子はその功績をご嘉賞され、尚書右僕射に昇進し、晋陽県男に封ぜられた。
ますます貴くなるにつれ、次第に傲慢となり、奢侈にふけるようになった。門番・童・客は権勢をたよって悪事をするようになった。中尉の
楊玄价は皇帝の寵遇を得ており、楊収と親しく、楊収が宰相になったのは、楊玄价が実際に取り計らったからであった。そこで全国からの賄賂数千を楊収に事寄せようとしたが、楊収は従うことができず、楊玄价は自身を軽んじたと思い、大いに怒り、密かに讒言した。宰相として政務を取り仕切ることおよそ五年、罷免されて宣歙観察使となったが、二つの官職に伴う俸給を受け取ろうとはせず、ただ刺史の俸給のみ受け取り、公庫に銭七百万を残した。
韋保衡もまた楊収が以前に
厳譔を起用して江西節度使とした時に、謝礼百万を受け取ったこと、および他の横領の罪を弾劾した。翌年、端州司馬に貶された。役人が大舟を準備して待っていたが、楊収は乗らず、「流謫される身であるのに、このような舟でよいのか」と言い、二艘の小舟で任地に赴任した。また翌年、驩州に流され、突如詔によって宦官が追ってきて死を賜った。楊収は詔を得ると謝罪して、「宰相として功績がなく、もとより死ぬべきでした。今、ただ一人弟の
楊厳が先人の祭祀を行っております。ご使者殿、少しの間筆を執る時間をいただけませんか」と言うと、使者はこれを認めた。楊収は自ら書簡を書いて天子に謝罪し、弟の楊厳の死罪を許し、先人の祭祀を行わせてほしいと書き綴った。書簡を使者に授けると、ただちに鴆毒を仰いで死んだ。
帝は書簡を見ると胸を痛め、そこで楊厳を許したが、楊収に連座して流罪・死罪となった者は十一人であった。三年後、詔によって追ってその無実の罪を雪がれ、官爵を復した。子に
楊鉅・
楊鏻がいる。
【附、楊鉅伝】
楊鉅は、乾寧年間(894-898)初頭に翰林学士となり、洛陽遷都に従い、散騎常侍で終わった。
【附、楊発伝】
楊収の兄の
楊発は、字は至之である。進士に登第し、また抜萃化に合格し、累進して左司郎中となった。
宣宗の時、
順宗・
憲宗に尊号を追加しようとし、担当官署は廟の神主(位牌)の改造を議論し、新しい諡号を書こうと、詔によって百官は議論した。楊発と都官郎中の
盧搏が神主を改作したことについて、古代の文章に前例がないとして取りやめるよう上奏した。礼を知る者はこの意見を正しいものとした。太常少卿に改められ、蘇州刺史となり、統治は年長を敬い幼い者を慈しむのを優先した。福建観察使に遷り、また優れた政務ぶりで有名となった。朝廷は統治に優れた才能があると思い、嶺南節度使を拝命した。しかし以前よりこの地は規律が弛緩しており、楊発は部下に対して厳格に扱ったから、軍は遂に怨み、軍乱を起こされ、駅伝舎に捕らえられた。婺州刺史に貶された。
【附、楊仮伝】
楊仮は、字は仁之で、仕官して常州刺史で終わった。
楊収は昆弟の楊護と共に偃師県で葬送を行い、会葬者は千人であった。
【附、楊厳伝】
楊厳は、字は凜之で、進士に貢挙された。当時、
王起は士三十人を選び、
楊知至・竇緘・源重・鄭朴および楊厳の五人はいずれも名門出身であったから、王起はそのことを上聞すると、詔によってただ楊厳のみ入れられた。累進して工部侍郎・翰林学士に遷った。楊収が宰相となると、外任に補任されることを願い、浙東観察使を拝命した。
楊収が貶されると、楊厳もまた排斥されて邵州刺史となり、
吉王傅に遷った。乾符年間(874-879)、兵部侍郎、判度支となり、卒した。子に
楊渉・
楊注がいる。
【附、楊渉伝】
楊渉は、
昭宗の時、仕えて吏部侍郎となった。
哀帝の時、同中書門下平章事(宰相)に昇進した。人となりは端厳で礼法を重んじた。当時、賊臣が傲慢で、王室は安定せず、賢人の多くは災いに見舞われていた。楊渉は宰相任命の命を受けると、家族と共に泣き、子の
楊凝式に向かって、「世の中の道義は極まり、私は網に捕まって逃れることができず、不幸を重ねようとしている。禍いはお前に及ぶだろう」と語ったが、しかし謙虚で穏やかな人物であったため、終に禍いは免れた。
【附、楊注伝】
楊注は翰林学士となった。
楊渉が宰相になった後、内職を辞職し、戸部侍郎となった。
【路巌伝】
路巌は、字は魯瞻で、魏州冠氏県の人である。父の路群は、字は正夫で、経術に通暁し、文章をよくした。性格は純潔を志し、親が没すると、一生肉食しなかった。累進して中書舎人・翰林学士承旨となり、
文宗に優遇された。立ち振る舞いは穏やかかつ謙虚で、権勢ある地位にいる者とは思えないほどであった。交際する相手には、庶民といった身分の低いものでも、礼を以て待遇し、終始一貫していた。
路巌は幼くして明敏なことは人並外れて優れ、進士に及第すると、父の時の友人である節度使から相次いで
辟署されたが、長い間たってから返答した。
懿宗の咸通年間(860-874)初頭、屯田員外郎から京師に入って翰林学士となり、兵部侍郎によって同中書門下平章事(宰相)となった。年三十六歳のことであった。宰相位にあること八年、昇進して尚書左僕射となった。
この時代より王政は衰え、宰相は権力を得た。路巌は
天子が暗愚で、また政治が自分に委ねられているのを見て取り、そこで収賄に通じ、奢侈に際限がなかった。にわかに
韋保衡と共に宰相となり、二人の権勢は天下を動かし、当時の人々はその党派のことを「牛頭阿旁」と呼び、鬼のように悪事を恐れるべきであると言った。後に権勢が等しくなると諍いとなり、そのため韋保衡とはかえって互いに関係悪化した。にわかに路巌の宰相位を罷免して剣南西川節度使とした。蛮が辺境を侵犯した後を受け、路巌は慰撫に尽力し、定辺軍を邛州に設置し、蛮を野望を抑え、旧来の関所を修復し、現地の若者を徴募して戦闘訓練し、駐屯兵の名簿を補わせた。これによって西山八国(羌女・訶陵・南水・白狗・逋租・弱水・清遠・咄霸)は来朝した。功労によって兼中書令に遷り、魏国公に封ぜられた。
それより以前、宰相であった時、委細を信頼する役人の辺咸に任せていた。ある時、至徳県令の陳蟠叟が奏上して財政問題について申し上げたいと願い出たから、
帝は召し出して謁見した。そこで「臣は辺咸の家の財産を募集して、軍事費の助けとするべきだと思います」と言うと、帝は「辺咸とは何者だ」と尋ねたから、「宰相の路巌の信頼する役人です」と答えたから帝は怒り、陳蟠叟を下がらせたから、これより誰もそのことを申し上げようとする者はいなかった。辺咸は郭籌なる者と互いに結託して悪事を行い、路巌はほとんど制御できず、軍中ではこれを「辺将軍」・「郭司馬」というのみで、勝手に給与を与えて兵士の歓心を買った。かつて閲兵場では、辺咸・郭籌が差配し、協議の事は書面で互いに示し合うとただちに焼却したから、軍は驚き、何か謀があるのではないかと、恐れおののき、遂に京師まで聞こえてきた。路巌はこの件を罪とされて荊南節度使に遷され、道中、新州刺史に貶され、江陵に到着すると免官となり、儋州に流され、家財は没籍された。路巌の容貌は偉丈夫かつ美麗で、髭は美しかったが、江陵に到着するといずれも急に年を取ったかのようにすべて白くなった。辺咸・郭籌らは捕らえて誅殺された。路巌は新州に到着すると、詔によって死を賜わり、喉を切り取って、担当官署へ提出された。ある説によると、路巌は密かに「三品以上で罪を得て誅殺される場合、喉を切り取って死んだ証拠とするべきだ」と要請した。やがてそのことが自身に及んだのである。
【附、韋保衡伝】
韋保衡は、京兆の人で、字は蘊用である。父の韋愨は、
宣宗の時、武昌軍節度使で終わった。韋保衡は咸通年間(860-874)、右拾遺で
同昌公主を娶り、起居郎・駙馬都尉に遷った。公主は
郭淑妃から生まれ、
懿宗に愛され、しかも郭淑妃は寵愛され、そのため待遇は格別なものがあり、宮中の財宝がすべて与えられた。にわかに翰林学士承旨を経て、兵部侍郎として同中書門下平章事(宰相)となり、公主を娶ってからこの地位にいたるまでわずか二年であった。また門下侍郎・尚書右僕射に昇進した。
性格は軽薄で、寵愛を恃んで権勢を振るい、好き嫌いで自分勝手に振舞い、気に入れば抜擢し、気に入らなければ退けた。韋保衡は
王鐸によって進士を及第し、
于籍・
蕭遘と同時に及第したが、かつて自分を軽んじたとして、全員を排斥させた。
楊収を追放し、
路巌を失脚させたから、人々はますます恐れた。
公主が薨じた後も、寵遇は衰えなかった。
僖宗が即位すると、司徒に昇進した。やがて恨みを抱いた者によって隠された罪を暴露され、賀州刺史に貶され、再び澄邁県令に貶されたが、遂に死を賜った。
【附、韋保乂伝】
弟の
韋保乂は、兵部侍郎から賓州司戸参軍に貶された。しかし
劉瞻ら
同昌公主の薨去の際に罪とされて貶された者は、全員復帰した。
【盧攜伝】
盧攜は、字は子升で、その先祖はもと范陽の人であり、代々鄭に住んだ。進士に及第し、浙東節度使の幕府に
辟署された。朝廷に入って右拾遺となり、台省の官を歴任して、戸部侍郎・翰林学士承旨に昇進した。乾符五年(878)、同中書門下平章事(宰相)に昇進した。やがて中書侍郎・刑部尚書・弘文館大学士を拝命した。盧攜の容貌は見栄えが悪く、言葉遣いも正しくなく、
鄭畋と共に
李翺の甥であり、同じく宰相に就任したが、しかし議論しては非難し合うことが多かった。
それより以前、
王仙芝が河南で蜂起し、盧攜は上表して
宋威・
斉克譲・
曾衮が皆優れた将軍であるから、招討使に任命した。宋威が
尚君長を殺すと、賊軍は相互に結託して強大化し、ますます収拾がつかなくなり、そこで
王鐸を荊南節度使とし、諸道都統とした。しかし盧攜は不快に思った。この当時、
黄巣はすでに広州を破り、勢力は拡大の一途をたどり、上表して天平節度使を求めてきたから、宰相・百官に詔して是非を議論させた。盧攜はもとより
高駢と親しく、高駢に頼って功績を立てさせようとし、そこで黄巣の要請に強く反対し、また黄巣を怒らせて、戦わせて王鐸を敗北させようとし、そこで黄巣に率府率といった低官位を授けて挑発した。また高駢の意見に従って南詔と和平を結ぼうとして、
鄭畋と論争になり、互いに罵り合ったから、これによって宰相を罷免されて太子賓客、分司東都となった。やがて兵部尚書となった。ちょうど高駢の将軍の
張潾が賊を打ち破り、
帝もまた盧攜を呼び寄せて門下侍郎、同平章事(宰相)とした。王鐸が敗北すると、高駢を代任とした、そこで関東の諸将で王鐸・鄭畋が任命した者を調査して、全員を解任・交代させた。盧攜は宮中では
田令孜を頼り、外では軍政を高駢に頼ったが、ただ自分の好き嫌いによって賞罰の与奪を行った。
その後、中風を病んで足が不自由となり、意識が混濁するようになり、政務の決済は側近の楊温・李修が行うようになり、賄賂が横行した。
黄巣が淮南を破り、
張潾が戦死し、
忠武軍の軍乱がおこり、天下は恐慌状態となり、人々は皆盧攜を非難し、始めて詔を下して黄巣を天平節度使とした。詔が下ったが、賊軍はすでに潼関を突破していた。翌日、太子賓客に左遷されて宰相を罷免され、分司東都となったが、この日の夜に毒薬を仰いで死んだ。黄巣が京師に入城すると、盧攜の棺を破壊して死体を長安の市で磔にされた。子の盧晏は、天祐年間(904-907)初頭に河南県の尉となったが、
柳璨に殺害された。
【賛】
賛にいわく、
盧攜は
王鐸を失脚させ、
高駢を私的に用いた結果、
賊軍は遂に咸陽・鎬京の西を、羽毛を吹き上げるかのように簡単に席巻した。朝廷に有能な人材がいなかったというべきだ。唐が滅びようとしたのは、盧攜が鳶や梟のようにねじ曲がった行いをしたからで、天が賊の手を借りてその腐った死体を磔にしたのは当然であろう。
最終更新:2026年10月15日 19:55