石田三成(戦国武将)

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石田三成(戦国武将) - (2022/10/05 (水) 00:17:38) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2009/10/29 Thu 20:25:55
更新日:2024/02/28 Wed 08:27:30
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この項目では戦国時代の人物としての石田三成について記述します。

石田(いしだ)三成(みつなり)(1560~1600)は戦国時代の人物、武将である。


●目次

★人物

近江の出身で、長浜時代の羽柴秀吉に登用されたと伝わるがいまいちはっきりしていない。
近江出身者の特徴とも言うべき高い実務能力を有し、早い時期から羽柴家の台所を切り盛りしたとされる。
本能寺の変が起こった際には直ちに兵坦を確保、秀吉軍の素早い進軍を助けている。
武将としても優秀だったと思われるが、前線に回される事が少なく、出た時も活躍出来なかった。

その正義感の強さに惹かれ、大谷吉継や田中吉政らとは交流があった。
また、義を掲げる直江兼続とも仲が良かった様子だが、当時において「義に生きる」と言うのは、「清廉潔白で正義感が強い」では無く、「乱世の戦国においても学問の大切さを理解している」という意味合いとなっており、兼続とはお互い官僚的な気質であった事からウマが合っていたとも言える。一方、この点に関しては、皮肉にも後に敵対する徳川家康とも通じている。

一方、優れた行政能力を持ちながらも、若くして文治派として出世し、秀吉からも過度なまでに重用された事から、武断派から嫉妬を買いやすく、その生涯全体を見ても、つくづく人望には恵まれなかった。
ただし、人望に恵まれなかった点に関しては三成本人にもかなり問題があった為でもあり、官僚の性に加えて彼自身が狷介*1で好き嫌いの態度の差が激しいと、人から嫌われ易い性格をしていた。
また、後述の逸話にもある様に、真面目過ぎたが故に、不正に関しては意図した物ではないとしても厳しく糾弾する等、過剰なまでに規律に固執し、不器用で配慮に欠ける言動をしてしまう事もあった。
更にそれを改善する為の努力や、自身のやり方を省みようともしない性質が、周囲の反感を加速させてしまう要因にもなっていたようである。
計算には長けているが、人の心までは読むことができない、といったところだろう。
特徴が似ている事から、現代で言うアスペルガー症候群だったのではないかという説も。

文治派の自身とは対照的に、常に前線で命懸けで戦ってきた武断派である福島正則や加藤清正等からは、同じ秀吉の子飼いの兄弟分でありながらも嫌われていた。
それでも、名護屋城建設の際には清正と見事なコンビネーションを見せたという話も残っているのだが、後述の朝鮮出兵の時期に、関係が悪化し決別してしまっている。
これに関しても、三成本人が「どうせあの二人に何を言った所で無駄に決まっている」と勝手に自己完結してしまう傾向があった結果、結局そのままで終わるどころか、更に悪化させてしまう事態に繋がっている。

「人望を集める」、「人と無駄に衝突しない」為の努力や配慮をする事も、人の上に立つ者として求められる物であるので、それをしなかった事が三成の最大の欠点であったのは間違いないのが悲しい。
ただ、人への配慮に全く無関心では無いのも事実で、自身の領土の民からは慕われていたとされている。
その証拠に自らが追われている際に恩のある村人に匿われるも、「このままでは匿った人たちが殺される」ということで突き出すように願った。
ということから、民に対してはかなり慈悲を見せていた思われる。*2


親友と言っても過言ではない程親しかった大谷吉継にすら、
「お前には人望がなく禄高も家康に大きく劣る*3のだから、家康を打倒するなら他の人を上に立てろ」と助言されたほどである。
三成はその助言を受け入れ、関ヶ原の戦いの際には大大名である毛利輝元を総大将に立てているのだが、結局自らのそれまでの行動が仇になる形で、本戦では自滅に近い末路を迎えてしまう事になっている。

しかしこれらの欠点はもしかしたら「敗軍の将」としての後世の後付けのせいかも知れない可能性は留意すべき点である。
かの織田信長も「魔王」として苛烈な印象を付け加えられ以降400年に余りそのイメージがまとわりつき、ここ数年の研究でそれらがもしかしたら偽りではないのかと言われているのだから。
しかしその欠点の内訳が「度の過ぎた真面目さや正義感故の融通の利かなさ」という辺りから、多少の過大表現はあれどそういう人物だったのは間違いないだろうか。



★来歴

豊臣政権下

秀吉に仕官したばかりの時は、特に目立った活躍は無かったものの、彼が関白に就任してからは、従五位下治部少輔(じゅうごいげじぶのしょう)に就任。以降は堺奉行、検地奉行等、行政官として手腕を発揮していく事になる。
有名な「太閤検地」も、事実かどうかは不明であるが、三成の発案ではないかとされている。
九州平定後には博多奉行にもなり、復興に寄与したり、色々な地方の検地を担当している。

しかし、行政官として活躍する反面、武将としての活躍は優秀と言えない状況が続き、小田原征伐の際は忍城攻略軍の司令官として長大な堤防を築き水攻めを試みたが決壊し失敗。小田原本城が先に陥落する大失態を犯してしまった。
この水攻めは近年では秀吉の指示と言われており、本人はむしろ難色を示していたとされる。指揮官でありながら結局企画担当として扱われる三成の姿が垣間見える。
作戦の立案者はどうあれこれがきっかけで三成は戦下手と馬鹿にされるようになったとか。

最初の朝鮮出兵である「文禄の役」の際は、自らも朝鮮に渡り、奉行人達を纏めて各武将の働きぶりを秀吉に報告する役だったが、真面目ゆえに不手際や軍紀違反まで事細かに秀吉に謹言。一方で自身は明との講和交渉に積極的役割を果たし、秀吉から更に信頼を得た為に、結果的に秀吉の不興を買った武将達から恨みを買ってしまう事になった。
例えるなら、ちょっぴりワルな学生たちが融通の利かないクラスの風紀委員を「チクリ魔」と毛嫌いするようなものだろうが、三成自身の空気の読めない言動も、原因と言えるが。

文禄から慶長の時代に入ってからは、京都奉行に任じられている一方で、キリシタン弾圧を命じられた時は、秀吉の怒りを宥めたり、奔走して捕まえる人間や処刑者を減らす為に奔走したりしていた。結局処刑は防げなかったが、処刑された彼等はルイス・フロイスによって「日本二十六聖人」として扱われている。
二度目の朝鮮出兵となる「慶長の役」にて、戦線縮小を求めた在朝鮮の諸将達に激怒した秀吉が、彼等に譴責や所領の一部没収といった暴挙に出た際は、それらに関する状況を報告したのが自身の縁戚であった結果、処分を受けた諸将達からも恨みを買ってしまう事になる。
前述の文禄の役での三成による謹言からも、処分を受けた諸将達には三成の陰謀に映ってしまったのかもしれない。
また、戦の経験など皆無でありながら、日本軍の総大将として参加させられた小早川秀秋が独断専行してしまった件についても、窮地に陥った味方の清正を助ける為の行動であった以上、ある程度配慮してもよかったはずなのだが、融通の利かなかった三成はそれもそのまま報告。
結果、秀頼の事で秀秋の存在を疎ましく思っていたと思われる秀吉が、減封転封命令によって彼を追い落とす切っ掛けを与える事になってしまっている*4
しかもこの後、没収された秀秋の領地や一部の家臣ですらも三成が手中に収めてしまった為、散々な目にあった秀秋からは、相当な恨みと反感を買ってしまったのは、言うまでもないだろう。
更に、秀次事件のときは秀吉の命令により秀次を糾問したり、秀次一族の死後にはその旧領を受け継いだりしている。
これらの点を見ても、秀吉が三成に対し、過剰なまでに重用・信頼を置くようになってしまったのは明らかで、後の悪評や他の武将達からの恨みつらみへと発展してしまう原因となっている。

秀吉死後

秀吉死後、五大老の筆頭となっていた家康と連携する形で、朝鮮半島からの日本軍撤退をいち早く行い遠征軍を助けているのだが、文禄の役で渡海した以降は、国内に留まり続けていた為か、武断派から嫌われるのは変わらなかった。
というか『こっちは命懸けで必死に戦ってきたのに、なんだよこれ!あーもー全部石田が悪い!!』なんて言われる始末。ぶっちゃけ清正の例の進軍なんかやらされたら兵糧を管理する文官側もそりゃ冷たくするわとは思うが。
が、三成はそんな状況には殆ど気にしないまま、秀吉の遺命であった「秀吉の許可無しによる大名同士の婚姻」を破った徳川家康を厳しく弾劾するが、上手くかわされる。
とまあ、ここまで言えば三成の方が正しいと見えるのだが、実は家康よりも前に三成の方が秀吉の死から わずか十日後 にて、毛利輝元を証人に、長束正家・増田長盛・前田玄以の三人と起請文を交わす遺命破り(徒党を組む)に出ていたりするので、偉そうな事は言えない。
加えて、秀吉から政権執行者を任されていた家康が行った大名同士の婚姻も、遺命破りになるかは微妙で、更に秀吉の残した大名同士の婚姻の内容は「秀吉本人からの許可が要る」という物で「秀吉の死後は誰が許可するのか」については全く決まっていなかったという「抜け穴」もあった*5
また、三成は家康を咎めても、彼と婚姻を結んだ清正や正則、伊達政宗に関しては咎めていない為、余計に家康の豊臣家からの追放を目的としたものと見えてしまっている。

そんな事をやっている内に、前田利家の死を契機となる形で、逆に武断派七将*6に命を狙われる失態を犯してしまい、佐竹義宣と徳川家康に守られる。
なお家康が守ったのは、三成が「今ここで自分が死ねば豊臣家の内紛は無くなり家康にとって都合が悪い=自分は家康に殺されない」と見込んで家康に助けを求めたためだという。
殺されないと見込んで敵にさえ助けを求める三成の頭脳に、家康は戦慄したとか…。
しかし、命は助かったが結局、隠居させられてしまい、同時に家康は三成の優秀さに対して更に警戒を強めることになったという。
ただし、徳川屋敷に駆け込んで家康に守られるのが三成の策略であったという点や、家康が三成を恐れて隠居に追い込んだという点は、後年の創作である可能性も高い。
ここで三成を何のお咎めも無しにしてしまえば、三成がまた命を狙われる事になるのは明白で、最悪の場合は武断派七将全員が豊臣家から離反し、戦国の世に逆戻りになってしまう可能性もあった為とも取れ、「豊臣家の秩序を守り、なおかつ三成の命を助けるには、隠居させるしかなった」という解釈も出来る。
いずれにせよ、こうなってしまったのは武断派七将との関係を改善しようとしなかった三成自身に原因があったというのが、痛い話である。

関ヶ原の戦い

秀吉の死から時間も経ち、豊臣家の重鎮である前田利家も亡くなった後、実質豊臣家の最高権力者となった家康は、越後の領主となっていた堀秀治から、同じ五大老の一人である上杉景勝に謀叛の疑いありという名目で会津上杉討伐を行う*7

三成はこれを好機と密謀を巡らせ、親友の大谷吉継や五大老の毛利輝元、宇喜多秀家、五奉行の長束正家・増田長盛・前田玄以の三人、小西行長、安国寺恵瓊といった大名達に協力を仰ぎ、1600年に西国大名を束ねて家康討伐に乗り出す。
西国大名の動員、壮大な布陣、大義名分の確保等、僅か数十万石(19万石程度)の小大名としては見事な準備を整え、大阪城に入城し家康の弾劾状を叩きつけた三成の正義を成す為の戦いは、関ヶ原にて遂に幕を上げる…。



しかし、現実はそんなに甘くなかった…。



三成本人からしてみれば、間違いなく「奸臣の家康を討つ正義の為の戦い」であったのが、元々西軍についた武将達の多くは家康の会津征伐に協力する為に出陣し、なし崩し的に協力させられたに過ぎない上に、三成の挙兵は客観的に見れば「自らの復権を賭けたクーデター」の様なものの為か、家康と戦う事に乗り気でない者が多かった。
家康に同行していた武断派七将やその他の大名に呼びかけた際も、彼等の女房や子供を人質にした上に、人質の一人である細川ガラシャが自害した結果、誰一人も家康から離反する事無く、むしろ「三成、許すまじ!」と激怒させてしまう事になり、特に妻を失った細川忠興に至っては、福島正則と共に最前線で三成の首を取ろうという勢いだった。
この事件に加え、小山評定により東軍の統率は非常に高かった。
自らの指揮する西軍の中でも、三成の謹言が原因で所領や多くの家臣を奪われた小早川秀秋は、三成を激しく恨んで早くから家康と内通しており、
碌に家臣に相談もせずに総大将に担がれた毛利輝元も、勝手に三成への協力を決めた事で家臣達に咎められた結果、その家臣である吉川広家が毛利秀元や恵瓊の軍を牽制。
西軍の中でも特に実戦経験豊富である島津義弘と島津豊久に至っては、三成から1000人の軍勢を軽視され、前哨戦の墨俣の戦いで見殺しにされた挙句、本戦前日に提案した夜襲も馬鹿にされた事に激怒し、「もう知るか!」と言わんばかりに最初から我関せずの姿勢をとられてしまう始末だった。
なお三成は豊臣秀頼が西軍として戦場に駆け付けることを期待していたようだが、家康が仕組んだこととはいえ会津討伐は豊臣家と朝廷が正式に発表したことなので、そんな豊臣家が上杉を助けるようなことをすれば豊臣の信用に関わるので出陣などできるわけがなかった。
更に言うなら、そもそも当時僅か7歳の秀頼が権力を維持できていたのは五大老や五奉行といった重臣達の後ろ盾があったからであり、いくら奸臣といえどその力を積極的に削ぐような真似をしたら、一番割を食うのは他でもない秀頼自身である。
家康の入念な工作も理由の一つであるが、三成自身の軽率な判断や行動もまた西軍のまとまりを悪化させる大きな要因となり、開戦初期から中期にかけては優勢に進めるも、兼ねてより三成を恨んでいた秀秋率いる軍の大谷軍への攻撃が切っ掛けとなり、敗戦。
伊吹山山系へ農民達に匿われる形で逃亡するも、捕縛される。
同年、同じく捕縛された行長、恵瓊の二人と共に六條河原で処刑された。

★評価

一般に無能な小心者、豊臣政権を私した奸臣というイメージが近年まで続いていたが、
これは徳川政権の正当化を図る江戸幕府の情報統制による影響を多分に含んでいる点を忘れてはならない。
皮肉にも敵対していた張本人、徳川家康や"水戸黄門"徳川光圀と言った江戸幕府の最高責任者達が、石田を忠臣・名臣と呼んでいる。

近年再評価の機運が高く、忠臣・名臣として表現されるようになりつつある。
だが一方で、あまりに見直しや美化が行われ結果、源義経の様に判官贔屓され過ぎているのではないかという批判もある。
義の人*8である直江兼続、大坂の陣にて奮戦した真田信繁ともども「彼らは豊臣のために戦う正義の人」、逆に徳川家康とそれに従うものは悪人という扱いにされることすらよくある。
三成が融通の利かないマニュアリストなのは事実であり、最前線で戦う武将達との確執は、自身の失脚や家康の征夷大将軍への就任、豊臣家が一大名にまで落とされた挙句に滅亡した遠因でもあった。
また、三成の関ヶ原の西軍敗戦が原因で、上杉家、毛利家は所領を大幅に減封され、真田昌幸や真田幸村、長宗我部盛親といった名立たる武将達の改易や破滅にも繋がった事も踏まえれば、やはり擁護しきれない。
「水清ければ魚棲まず」という諺がある様に、清廉潔白すぎることではなく清濁併せ呑む大器こそが、本当に大事なのかもしれない。


★逸話

  • 三杯の茶(三献茶)
一杯目…温くて沢山。まずは喉の渇きを潤す。
二杯目…やや熱くて少なめ。
三杯目…熱くてちょびっと。
この気の効いた三杯の御茶を貰ったのが、秀吉である。
「はぅ~三成ちゃんお持ち帰りぃ~!」
逆にこれを「茶坊主の阿り」と武断派武将達には小賢しく思われた。
勿論これは創作ではあるが、「茶坊主」という罵りは便利らしく現代の創作で採用されることは多い。


  • 商才
最初の石高は無石。代わりに河原の葦の採取税を取って莫大な利益を出す。

大阪を台風が襲った際、普請現場*9の被害が気になり、工事担当者より先に調べ上げて秀吉に報告。
おかげで担当者は秀吉に「うーん、三成の報告の方が分かりやすいかも」と言われてしまい面目丸潰れ。
ここで責任者に渡せないのが三成である。


  • 無欲な男
自分の禄高4万石の際、筒井家浪人島勝猛を半分の2万石で勧誘。数々の仕官を断った島もこれには敵わず仕官。
ちなみにこの島という人物、関ヶ原で東軍兵士にトラウマ(関ヶ原三大トラウマ)を植え付けた島左近その人である。

加増された際、一人にまるまる加増分を与え仕官させる。

秀吉の右腕と言ってもいい地位にいながら秀吉のように豪奢な暮らしはせず、質素に暮らしていた。
さぞかし財を貯め込んでいるだろうと攻め込んだ佐和山城の質素さに兵士一同愕然としたとか。
これに関しては『主君から与えられた物はすぐに使い切るべし。それを貯め込むのは盗人と変わらない』という三成の考え方も関係しているだろう。
ちなみに『貯め込むのは盗人』であり、『使い込んで借金するのは愚人』とも考えていたとか。


  • 大谷吉継との友情
武将たちによる茶会では、結束を深めるため一杯のお茶を集まった諸侯で回し飲みするのが通例となっていた。
ハンセン病を患っていた大谷吉継は、その病気から自分の後にお茶を飲むことを嫌がられ、肩身の狭い思いをしていた。
そしてとある茶会にて、吉継はお茶を飲んだ際、膿(鼻水という説も)をお茶の中に落としてしまった。
吉継の後に続いた武将はお茶を飲むふりをしてやり過ごしたが、三成は吉継の気持ちを慮ってかぐいっと一口にお茶を飲み干したという。
その三成の態度に感じ入った吉継は彼と友誼を深めていき、強い信頼関係を築いていった。
非常に男気溢れるエピソードだが最近の研究ではそもそも大谷義継がハンセン病であるか怪しく、創作である可能性が高いらしい。


  • 超真面目な頑固者
大阪城で同僚*10と一緒に、頭巾を被って日に当たって暖を取っていた三成。
家康が来た時、自分より凄く偉いのに頭巾も取らずガン無視。
近くにいた同僚に注意されても、業を煮やした同僚に頭巾を取られて焚き火に放り込まれてもガン無視。
これにはターゲット(家康)も苦笑い。

毛利家から「こんな時季に取れるのは珍しいので献上したい」と果物*11が送られてきたとき、
「時季外れとはいえ立派な果物であるが、時期外れのものを食べて公*12に何かあったら大変だから受け取れません」と突き返した。
一応「万が一何かあったら毛利家の面子が丸潰れになる(下手すれば責任問題で誰かの首が物理的に飛びかねない)」という理由もあったのだが、
「何も突き返すことないだろ、横柄だ」と大ブーイングを受けることとなった*13


  • 管理職と現場の乖離
朝鮮帰りの加藤清正たちを労おうと「お前らが今度京都にきたら茶会でもしようか」と言ったら、
「7年も命懸けで戦って金も食料も人員もすっからかんの俺たちに茶会出ろとかナメてんのか?」とブチキレられる。
茶会に招かれた側も礼儀的に手ぶらで参加はできない*14のでごもっともな話である。


  • 関ヶ原から敗走後捕まって大津城で晒されていた時の反応
福島正則…「捕まってやんのバーカ」と罵られて「お前をここに晒せなかったのが悔しい」と憎まれ口。

黒田長政…「勝負は時の運」と羽織りを貰って「有り難う」と御礼を言う。

藤堂高虎…「うちの鉄砲衆にアドバイスを」と求められ、「傭兵に頼りすぎ。組頭を何とかせにゃ」とアドバイス。後にアドバイス通り鉄砲隊を再編成。

小早川秀秋…見るなり「地獄に落ちろ、クズが!」と激怒。小早川ビビる*15


  • 最後まで諦めない
処刑場に行く途中で「喉が渇いた」と訴え、白湯を求めるも無かったために干し柿を出され、「干し柿は痰の毒。自分は痰持ちだから」と断る。
これから死ぬ人間が健康を気にするのか、と嘲笑した兵士を「志ある者は生きている限り諦めないものだ」とたしなめたという。
また、捕らえられた後に「敗戦の将ならば敗戦の責任をとってすぐに切腹すべきだった。そうすれば縄目に遭うこともなかっただろうに」と言われた時も、
「大望ある者は簡単には諦めないもの。私は再起を図っていただけだ」と言い返したとか*16
なおこのエピソードから創作などで苦手な物「柿」にされがちでもあるが嫌いなものを理屈つけて食べなかったわけではない……よね?
他方御城プロジェクト:RE~CASTLE DEFENSE~の三成は柿が大好き。どちらにせよこの果物との縁は持たされる傾向にある。

  • しかし命運尽きる際は潔く
関ヶ原の戦いの後、捕らえられて引っ立てられた三成に家康は「勝負は時の運。どんな名将とて負ける時は負けるもの。恥に思うことはない」と言うが、
三成は平然としたまま「そんなことはわかっている。私に天が味方しなかっただけだ。早く首を切るがいい」と言い返したという。
この潔い態度に家康は「流石に大将の器がある。命乞いをした平宗盛*17とはわけが違う」と言ったとか。
上記の「諦めの悪さ」とは矛盾するような逸話であるがそれは違う。諦めが悪い事と往生際が悪い事はまた別の話なのだ。

  • 家康の方は…
秀吉の死後、本格的に対立を深めた三成と家康。
しかし三成はともかく、家康の方は彼を政敵と見つつも個人的には嫌っていなかったとされている。
三成の息子である石田重家の事は実の孫の様に可愛がっていたらしく、三成が失脚した後も自らの権限で元服を認め、自らの家康の「家」を含めた元服名を与えている程。
会津征伐の際には吉継の傘下として出陣を認め父親の汚名返上の機会も与えようとしており、そして三成と対立し最終的に斬首刑に処せられた後も家康は「十代前半の若さ」であるのを理由に重家の助命嘆願も赦している。
これらからも家康の方が三成を嫌っていた可能性は極めて低いと言え、前述の様に三成を武断派七将から庇ったのも、彼の息子である重家の事を思ったが故なのかもしれない。
また三成の娘達も徳川下で大事にされ、特に次女の小石殿の孫(三成から見て曾孫)は三代将軍徳川家光の側室となり子を宿し、以降石田三成の血を現在までに残している。

一方家康の次男「結城秀康」は、襲撃事件の後三成の護衛をした縁で、彼から正宗の刀を貰った。
石田三成が江戸幕府において逆賊と罵られていることを知りつつも彼はそれを大切にしたという。


互いに戦を起こすほどまで争い「逆賊」と扱う間柄ながらどこか相手への敬意を感じるそれらの行為は偶然か、それとも。


★石田三成が登場する作品

小説

司馬遼太郎『関ヶ原』
童門冬二『石田三成』

漫画

原哲夫『SAKON-戦国風雲録-』
重野なおき軍師黒田官兵衛

ゲーム

戦国無双シリーズ
  • 幸村、兼次と合わせて義トリオの一人。cv竹本英史
イケメンだが口の悪さが玉に瑕。実はツンデレ。武器は扇子でビームも撃てるし地雷も設置できる。


  • BASARA3より登場。CV関智一。秀吉を敬愛してやまないヤンデレ。
秀吉がいるときといないときで精神の安定度が違いすぎる。

戦国大戦
  • 初登場はver2。レアリティはRでどこか傲慢さを感じさせる少年で後にそのまま成長した姿も登場した。ver3の関ヶ原でついにSRとして排出。ゴリラモデルと計略ムービーが絶妙なダサさで三成らしいと評判。CV緑川光
信長の野望
  • 文官型のステータスで義理が高い
太閤立志伝
采配のゆくえ←主人公
  • 関ヶ原の戦いの時点で二十代、エンディングでは・・・




筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
*18


追記・修正お願い致します。

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