登録日:2009/10/31 Sat 11:22:29
更新日:2025/03/17 Mon 10:51:15
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●概要
永禄10年8月3日生まれ。有力な守護大名・伊達氏(役柄は奥州探題、鎌倉時代からの名門であり一応守護大名でもある)の17代として、米沢城で最上義姫と伊達輝宗の間に生まれる。
幼名は梵天丸。
幼少時に天然痘に懸かって死にかけ、結局一命を取り留めたものの右目を失明してしまった。
眼帯をした姿は有名だが、本人もやっぱり気にはしていたようで、彼の肖像などは皆両目が健在な状態で描かれている。
右目を失った醜い容貌から母に疎んじられたが、父には厚く信頼され一流の教育を受け、後に父から家督を譲られる。
このとき、伊達家当主は5代連続で将軍からの偏諱を受けていたが、伊達家中興の祖と称えられる伊達宗家第9代当主政宗にあやかり政宗と名乗った。
しかし直後、二本松畠山義継の謀略により父を自ら見殺しにさせられる。更に四方の諸勢力を敵に回し、苦境に陥りながらも奥羽で版図を拡大する。
1590年。毒殺未遂に遭い、それを企てた母親を追放処分にし、弟の小次郎は斬殺。
しかし、確かに母親の義姫は事件後出奔しているものの、それ以降も母子間で頻繁に手紙のやり取りをしていたり、
後の朝鮮出兵の際には義姫が無事の帰国を望む気持ちを込めた和歌を送り、感激した政宗から母親の下に朝鮮木綿が送られたりと、
暗殺未遂後も、同居こそしていなかったが仲の良い親子関係だったことがうかがえる証拠が残っており、本当に義姫が首謀者だったのか疑わしいとする声もある。
どころか最近では「実は小次郎は生きていて僧となってある寺に隠遁し、政宗や義姫との仲も良好だった」という説すらある。
別に『花の慶次』や『独眼龍改-ネオドラグーン-』の話ではない
この説では伊達家の家臣団の結束が諸々の事情で崩壊しかけていたのを政宗と義姫、小次郎等が極秘裏に芝居を打ち、小次郎を無礼討ちする(様に見せかける)事で
主従の上下の徹底と家臣の結束を狙ったものとされる。
小次郎を僧籍にしたのも万が一政宗が不意の事態で早逝した場合還俗して伊達家をすぐに立て直し維持し易くする為との事。
確認出来る範囲の史実でも伊達と芦名・佐竹との全面戦争は政宗が小次郎を芦名家の跡取りにゴリ押しした事が原因なので、少なくともこの時点では「弟を他の大名の名跡を継がせれば頼りになる同盟者になる」と政宗が確信する程度には兄弟仲は良好だった。
さらに同年、小田原征伐に慌ただしく参陣し
秀吉の前に膝を屈した。
しかし以後も敵領内での一揆扇動疑惑等ちょくちょく怪しい動きを見せ、秀吉に殺されそうになるのはしばしばだった。
秀吉の死後は
家康に接近。
関ヶ原の際は旧領の回復(その手形が通称100万石の御墨付き)を見返りに東軍につき、最上義光らなどと上杉勢と交戦。
その他に味方であるはずの南部領で客分の和賀忠親を暴れさせるなど第三勢力の拡大を目指したが、そのせいで家康からの100万石の御墨付きはパーに。
こうして彼の野望はここに潰えた。
以降は家康の六男・松平忠輝の岳父という立場もあって幕府における有力大名となり、
後に忠輝は兄・秀忠によって改易される憂き目に遭っているが、政宗は幕府及び秀忠・家光に忠実に仕えたという。
また、海外にも興味を示し、関ヶ原後には家康の許可を得てスペインに家臣の支倉常長ら遣欧使節を送っている。
そして、1636年5月、参勤交代中に体調を崩した政宗は、21日に江戸で家光から見舞いを受けた3日後、70歳(満68歳)で死去。
遺体は防腐処理を施されて仙台に帰った後、生前の彼の指示通りに今の瑞鳳殿に埋葬された。
その死に際して将軍家から江戸・京都の人々への服喪命令が下っているが、当時、御三家以外の大名の死に対する服喪命令が下るのは異例であった。
「もう10年早く生まれていれば、地方の覇権を争い天下を窺いえた人物」とされる政宗。
晩年残した漢詩「馬上少年過ぐ」には、そんな彼の無念さが垣間見える。
「独眼竜」の初出は実は死後200年近く経った天保期であり、幕府お抱えの儒学者・頼山陽による漢詩。
その文武に長けた逸材を「三国志の英傑
曹操に匹敵する」と高く評価し、
唐王朝末期に最強と称された武将・李克用の別名である独眼竜を彼に冠したのである。
ただし同じ詩において劉備の髀肉之嘆を引き合いに出しているので、この時代にはすでに晩年メタボだった事が知られていたようである
●逸話
小田原征伐に参陣した際、切腹の覚悟を示すために白装束を纏って秀吉の前に現れ、
さらに遅参の詰問に現れた前田利家らに千利休に茶の指導を受けたいと申し出て、その振る舞いで秀吉たちを感嘆させたという。
また、一揆の煽動がバレて呼び付けられた時は白装束に加え金の十字架を背負って行き、「オレを罪人だと言うなら、この十字架にオレを括り付けて煮るなり焼くなり好きにしろ」と言い放ったとか。はりつけの覚悟(ry
結局政宗の必死のパフォーマンスを面白がった秀吉の決済により、転封(事実上の大減封)処分で落ち着いた。
源頼朝の奥州征伐以来の領地である伊達郡・信夫郡や生まれ故郷の置賜地方は没収されたけどね。
「陸奥守様」「黄門様」といった官名よりもなぜか諱で呼ばれる事を好んでいたらしく、「政宗」と諱だけが書かれた武家屋敷の古地図が複数残っている。
一般的なイメージとしては「右目に刀の鍔を撒いた姿」が有名で、創作作品ではお馴染みであるが、実はあれは創作で、史書にはそのような事実は無い。
実際は布の眼帯を撒いていた(佐竹氏文書)らしい。
また束帯姿の肖像画が残っており、そこには両目が書き込まれているのだが、政宗が亡くなる前に遺言として
政宗(現代語訳)「確かにオレはガキンチョの時に病気で片目なくしちゃったけどさ、もともとはカーチャンが五体満足に生んでくれたのに、片目なくしたままの姿だったらカーチャンが可哀想じゃん。だからさ、オレが死んだ後にオレの肖像画を描いたり木像にするときにはちゃんと両目ある状態にしといてくんね?」
と言い残したためであるとされている。
「10年早く産まれていれば天下を取れた」という評価は有名だが、実際10年早く産まれていて天下統一できていたかというと微妙なところ。
とにもかくも「奥州という立地が最悪すぎる」という一点が天下取りレースには致命的であり、仮に奥州統一までは成し遂げられても中央の信長や秀吉の勢力に対抗できるだけの戦力をまとめ上げられたかは怪しい。
「江戸幕府での立場が史実よりちょっと良くなるぐらいで終わりそう」とも。
かの有名な巨大な三日月の前立てが付いた兜が有名な鎧
「黒漆五枚胴具足」は、現在国宝に認定されている。
そのデザインは海外でも人気で、『
スターウォーズ』の
ダース・ヴェイダーのモデルにもなっており、
日本でも
ザンボット3や
ギルガザムネ、
仮面ライダー鎧武等がこれを模している。
オシャレ好き・派手好きなことでも知られ「伊達者」の語源にもなった。ただし、政宗本人は派手ながらも実用的な品を好む傾向に有り
現代の「伊達者」の意味の様な「派手だが見掛け倒しの役に立たない物で着飾った者」ではない点には注意。
正妻・愛姫との間にはなかなか子宝に恵まれず、28歳の時にようやく一人目が生まれた。
後継者が欲しかった政宗はうっきうきで男の子の名前を考えるも、生まれたのはなんと女の子。
退くに退けなくなった政宗は仕方なく考えていた「五郎八」に「姫」とつけて無理矢理命名した。
こうして生まれたのが後に家康の息子・松平忠輝の妻となる「五郎八姫(いろはひめ)」である。
ちなみに後継者となる、後の忠宗はさらに6年後にようやく生まれた。
政宗のネーミングセンス……と思いたくなるが、実は愛姫も従兄の次男に「男猿(おさる)」と名付けていたり。似たもの夫婦だった。
実は上記の五十八姫誕生以前に側室との間に秀宗と言う息子がいたのだが、庶子なので後継者にするか政宗には長く腹がくくれなかったようだ。
忠宗が産まれるまで8年間はれっきとした長男なので、秀吉への人質身分にされて「秀」の字までもらってしまい、家康の時代になると一層微妙な立場に。結局、豊臣滅亡後に四国
宇和島の初代藩主になり、こちらもちゃんと明治まで保った。
秀宗も10万石と井伊直政の娘を嫁にもらったりしていて後世から見れば悪い待遇に見えないが、幼少期に刻まれた父や実家との感情のしこりは根深かったようで、藩内の刃傷沙汰が尾を引いて(もう藩主なのに)政宗から勘当されたり、腹を割って話して仲直りしたりと伊達の家系らしくゴタゴタしている。
じいちゃん(輝宗)・ひいじいちゃん(晴宗)・ひいひいじいちゃん(稙宗)達も草葉の陰でさぞ盛り上がってたろう。大伯父さん(義光)も一緒だったやもしれず。その頃まだ生きてるおばあちゃん(義姫)は御愁傷様です。
ちなみに秀宗も父に負けじと結構な子沢山パパになる。子は親を映す鏡?
有能な文化財クラッシャー。掛け軸を破いたり、天目茶碗を叩き割ったり…。
仲が悪かった蒲生氏郷と前述の一揆を鎮圧する際に毒を盛るという噂を自分で流し、警戒している氏郷をお茶に誘ってとんでもなく濃いお茶を飲ませ、
氏郷が慌てて薬を飲むのを見て笑うという[[DQN]]お茶目な悪戯をした。
その後氏郷は政宗の真意を疑いつつ、道沿いを放火しながら行軍したとか。当然だね。
世情が落ち着いてからは内政に力を入れ今にも続く穀倉地帯とし、
水戸の黄門様の時代には実高62万石に対し内高は百万石にも及ぶ生産体制の基礎を築いている。
また三陸海岸沿いに大々的な港を作り、江戸との交易の基礎を作る。特に石巻の港は江戸や堺にも匹敵する大港として名高かったという。
そういう観点を考慮するならば「合戦に強い兵法者というより内政・経済に強い為政者タイプだった」と言えるだろう。
家康には警戒されていたが、2代秀忠・3代家光にはその忠勤ぶりから篤く信頼され、特に家光には祖父の如く敬愛されて「伊達の親父殿」と呼ばれた他、
将軍の御前での
帯刀許可・
紫の馬の総の授与など御三家ですら許されなかった破格の厚遇を受けている。
家光の時代には既に戦国時代を生き残った武将のほとんどが鬼籍に入っていたため、貴重な生き証人として家光に秀吉や家康との思い出や合戦の話を請われたという。
また家光が鷹狩りに嵌っていた時には「私は外遊していた家康公の首を狙う算段ばかりしていたんですよ」と言って諌められ鷹狩りを控えたという。
アドバイスとは言え、既に徳川家で神格化されていた家康の首を狙っていたと将軍に言う辺りは元
DQNならではの度胸かもしれない。
政宗が病の際には江戸城の御典医を宛がい寺社には祈祷をさせ、自らも伊達の上屋敷へと見舞いへ赴いていた。
いずれも幕府としては兎も角、家光本人からは譜代・外様どころか御三家をも超える厚遇を受けている。
2chでは戦国ちょっといい話/悪い話スレの逸話の常連。
DQN四天王の一人であり、どっちかっちゅーとやってる事が
厨二病っぽい。
だが良い話スレでも逸話が出たり、まともに良い事してる時もあり、四天王ではわりと良識派である。
第二次大戦後、戦災で焼失した自身の霊廟、瑞鳳殿の再建にあたり、墓所の発掘が行われ、詳細に遺骨を調査された武将でもある。
隻眼で若輩ながら才気あふれる人間だったために優男や精悍な
イケメンというイメージが定番になっているが、
骨などからの鑑定の結果とっても綺麗好きで、晩年は
とってもデブだったようだ。
尤も
戦国武将であり、平和な時代では身体を動かす事も減るだろうから引退した親方衆力士やプロレスラーみたいな感じだろうが。
60歳で末娘も授かっており、その頃まだシモの方も元気だった様子。
当時の還暦の健康事情では相当逞しい事だし、21世紀の60~70歳と並べる方が浅慮というものであろう。
頭蓋骨から顔が復元されたこともあり、隻眼による皮膚炎などを考慮しない場合であるが、現代基準で見てもなかなかのナイスミドルである。
なお、この遺骨は後に
NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』の最終回にライブラリ出演している。
戦国時代舞台の大河ドラマでは前代未聞かつ唯一の本人登場である。
ちなみに相棒である片倉景綱も晩年は
太り過ぎで糖尿病が原因で没している。主従揃って何やってんだか。
副葬品として鉛筆等が出土しており、晩年まで先進的であったことが窺える。
渡り鳥を焼いて食べてたり、母から食事に毒を盛られたという逸話もあるため、政宗は食事に関して相当なグルメだったのであろう。
実際に、晩年の趣味は料理だったという。厠を改造して小さな書斎状態にして、その日の献立を考えていたとか。
ずんだ餅作って食ってたしね。日本で味噌の大規模な量産体制を初めて拵えたのもこの人。
「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである」という、現代にも通ずる料理観も持っており、
遊びに来た秀忠に手料理を出した際、毒味をしようとするお付きに「(自分にとって秀忠が)大切な客人だからこそ自ら料理したのだ」と激怒して秀忠を感激させたという逸話も。
酒も大好きだったようで、わざわざ仙台城に醸造所を作らせたり、よその有名な杜氏を招こうと手紙を何通も書いている(そしてその手紙が現存している)。
ただ、ホントかどうかは分からないのだが、酒の飲みすぎで失敗したという逸話が意外と多い。
あまり知られてはいない話だが、
真田幸村のページを見ていただくとわかるが白石城当主・片倉小十郎重永(景綱の息子)が
真田幸村の家族を受け取った時、
政宗へ報告に行った際に政宗は徳川には報告せず(捕虜や身内を他国で受け取った場合は報告するのが普通だった)静かな村へ隠すことを許可した。
この時小十郎に「徳川への報告はよいのですか?」と聞かれたのに対して政宗は
政宗(現代風訳)「いいべ。どうせこんな田舎じゃバレねぇんだから。徳川嫌いだし。手紙書いても俺、字が下手くそだから読めねえってバカにされるし。
幸村もすぐ帰ってきて迎えにくるっしょー笑。それよりまだ福島から魚こないわけ?」
といい、徳川へは報告しなかった。
●彼を扱った作品
小説
漫画
「
へうげもの」
「
殿といっしょ」一応主人公だよ!一応ね。
「政宗くんと景綱くん」
「独眼竜改-ネオドラグーン-」
「烈!!!伊達先パイ」
ドラマ
歌
曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く
追記、修正お願い致します。
- 某ソシャゲアニメで一人だけ えらいアダルトな美貌武将だったなぁ -- 松永さん (2013-07-25 00:18:19)
- 最上との関係や、義姫自身の性格があったから、母とは険悪なイメージだけど、遺された手紙から母と子の関係自体は良好だったようだ。 -- 名無しさん (2013-12-31 03:40:40)
- ↑義姫とは晩年に話しをするようになり仲直りとまではいかなくても中々いい親子関係になったそうだよ
義姫は年取ってから穏やかになったとか
政宗公は当時の平均身長よりもでかいので巨漢って記されてるものもある -- 名無しさん (2013-12-31 04:30:40)
- 若いうちは謀略に掛かったり失敗したりのイメージがあるけど、江戸時代に入ってからの為政者としての手腕(仙台を江戸の米所にまで成長させる、徳川との関係の円滑化など)は見事の一言だと思う。 -- 名無しさん (2013-12-31 11:35:37)
- ハッタリかましすぎて 秀吉には全く通用しなかったりしたが ミスも補完してるってのは好感
てゆーか独眼竜は幕末の子孫たちを殴って良い -- 名無しさん (2014-01-10 16:07:59)
- 筆マメだったらしいね。用も無いのに家臣に「連日雨だから暇してるんじゃない?」と言う文面の手紙を送ったりしてたとか何とか。 -- 名無しさん (2014-01-10 17:23:59)
- なるほど いい項目だ -- 名無しさん (2014-02-20 17:07:23)
- 失明って単純に書かれてるけど、小学校にあった伝記?には腐った目玉が垂れ下がっていたそうな。戦でそれを掴まれて引っ張られないように、家臣の子供だかに(普通の刀で)抉り取らせたとかなんとか。 -- 名無しさん (2014-02-22 00:31:23)
- ↑ 抉ったのは小十郎(片倉景綱)じゃなかったっけ? -- 名無しさん (2014-02-22 01:03:56)
- ↑5、↑6、徳川家との関係は円滑になったし、領内の48館制度も徳川家に倣ったもの。幕末の末裔たちはよくやった方だね。先祖がスペインとの関係をチラつかせながら家康に圧力を掛けたのに対し、幕末の末裔たちもアメリカとの関係をチラつかせて、戦争したし。 -- 名無しさん (2014-03-23 12:56:03)
- 太ったのは多分、戦争がなくなって趣味に興じれるようになった晩年以降だろうね -- 名無しさん (2014-07-25 14:34:03)
- 戦国武将の中で、一番尊敬して、好きな武将だなぁ。 山岡荘八氏の歴史小説の影響だけど -- 名無しさん (2014-07-25 18:19:27)
- すまけいさんが葵徳川三代で演じた政宗は野心家で皮肉屋で胡散臭くて好きな政宗像だ -- (2014-08-09 16:32:41)
- なんだかんだで人気高いんだなぁ -- 名無しさん (2014-08-12 16:41:09)
- 子孫が芸人 -- 名無しさん (2014-08-12 18:36:20)
- 正宗豪快なイメージがあるけど、かなりバランスが取れた人物でもあるんだよな。倹約家で何事もいきすぎるのを戒めてたし。 -- 名無しさん (2014-08-18 16:01:42)
- あと10年早く産まれたら奥州統一してた、って話があるけど蘆名とかその他諸々が力持っていた時期だし多分無理だよね。あの時代に産まれたからこそ輝けたんじゃないかなって思う。 -- 名無しさん (2014-10-23 13:08:13)
- デブはもしかしたら徳川を憚って阿呆を装った別の大名と同じような理由からかもしれぬ -- 名無しさん (2016-01-22 14:35:24)
- 優柔不断な一面もあるし、天下統一を成し遂げられる器じゃなかったと思う。むしろ、大物に取り入ったり晩年は趣味に生きたり、身の丈に合った生き方をしたとも言える。 -- 名無しさん (2016-06-20 13:46:05)
- 奥さん(正室)の愛姫が、12歳だかで嫁いできたことが書いてないのう。 -- 名無しさん (2016-07-29 15:29:12)
- 当時はそれぐらい割とよくあるぞ、駒として使えりゃ縁故要員になるんだし一桁で婚約した例も東西問わずある -- 名無しさん (2016-08-24 14:10:37)
- ↑ 子孫が芸人って誰よ、ちょっと詳しくお願い。 -- 名無しさん (2016-08-24 14:15:18)
- 子孫の芸人ってサンドウィッチマンの伊達みきおのことやね ご先祖が政宗の弟なんだとか -- 名無しさん (2016-09-19 19:49:49)
- .............それ、政宗の子孫じゃなくね... -- 名無しさん (2016-09-19 20:09:21)
- 伊達みきおは南北朝時代に伊達家から分かれた大條家の子孫だな。幕末に大條家が伊達の苗字をもらってるからややこしいけど。大條家は伊達本家から嫁をもらったりしてるから伊達政宗の子孫というのも間違いではない。 -- 名無しさん (2016-09-19 20:19:14)
- なるほど。だが、なぜそこまで詳しいのだ。 -- 名無しさん (2016-09-19 20:38:37)
- ↑割と色んなバラエティ番組で言われてるぜw -- 名無しさん (2016-09-20 03:27:00)
- 伊達政宗がデブなのはデマだろ 実際には体格は普通だが割と鍛えてあったはず -- 名無しさん (2017-01-14 21:02:03)
- さすがに鎧からはデブというサイズではないし 少なくとも骨太でそう見えただけというか晩年太っただけだろうし -- 名無しさん (2017-10-16 12:06:06)
- やはり、大河を見た世代としては、政宗=ケン・ワタナベのイメージがあるなぁ。 -- 名無しさん (2017-10-16 12:16:32)
- ドラマ「柳生三代の剣」「天下騒乱」ではろくでもないクソジジィみたいな扱いだ・・・。 -- 名無しさん (2018-07-03 10:01:45)
- 「あと十年早ければ」って言われてるけど、どうだろ。だって、信長の野望やってればわかるけど、最上のすぐ隣にあの長尾上杉がいるんだぜ? -- 名無しさん (2018-07-03 14:31:59)
- 作品一覧にNHK大河ドラマの「独眼竜正宗」を入れよう(提案)。あれが伊達政宗の知名度を一気に押し上げたのだから。 -- 名無しさん (2018-10-25 10:36:57)
- 祐筆に代筆させることの多い大名の中では直筆の手紙が多い人。小十郎への私的な手紙は宛名が「かた小へ」と書いてありちょっとかわいい -- 名無しさん (2018-10-25 11:04:15)
- モンストではハズレキャラ(しかも上方修正すらされてない)なのだが、後にリファインされてパワーアップ しかもボス敵として登場した際には頭おかしいレベルの強敵という… -- 名無しさん (2020-05-31 17:06:31)
- 例を見ない「大河ドラマに本人出演(発掘された頭蓋骨登場)」という離れ業をやってのけた人物でもある。 -- 名無しさん (2020-07-02 01:39:15)
- 宮城県出身の山寺宏一氏に政宗公を演じて欲しい -- 名無しさん (2020-08-27 13:52:04)
- 伊達政宗の死因は癌だったそうだ。 -- 名無しさん (2022-02-24 14:21:44)
- この時代のこの身分ならば料理にこだわりがある人ならば糖尿病になってもおかしくはない -- 名無しさん (2022-08-02 13:22:13)
- つまり、サンド伊達の姪である声優の伊達のさゆりんも、政宗の子孫ということに……。 -- 名無しさん (2025-01-31 10:03:04)
最終更新:2025年03月17日 10:51