後藤光尊

登録日:2015/12/07 (月) 00:51:59
更新日:2018/04/15 Sun 05:45:05
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今日は結婚記念日なのでホームランを打てて良かったです




後藤光尊とは、元プロ野球選手である。


解説


秋田県立秋田高等学校

法政大学(中退)

川崎製鉄千葉

オリックス・ブルーウェーブ(2002~2004)

オリックス・バファローズ(2005~2013)

東北楽天ゴールデンイーグルス(2014~2016)

1978年7月27日に、秋田県南秋田郡八郎潟町で生まれる。

身長は175cm・体重は78kg。
右投・左打で、ポジションは主に内野手をこなすが左翼も守れる。

選手としての愛称は『ゴッツ』『オリ後藤』などがよく使われる。
妻はかつてイエローキャブに所属していたタレントの斉藤ますみ。

アマチュア時代は、秋田県立秋田高等学校から川崎製鉄千葉を経由(中退した法政大学は表記されないことが多い)。
2001年のドラフト会議で当時のオリックス・ブルーウェーブから10位指名を受け入団。
その後は球団合併による分配ドラフトによって、合併球団オリックス・バファローズに分配。
しばらくして、鉄平選手との交換トレードで東北楽天ゴールデンイーグルスに入団。
引退後は楽天の球団職員に就職。

魅力溢れるプレースタイルと数少ないベテラン青波戦士として一定以上の知名度と人気を誇った選手だった。


選手としての特徴


打撃面・守備面でも色々と印象に残るのが後藤光尊という選手である。

打撃面では高いパンチ力を持つ中距離打者。
新人時代から長打力をアピールしており、長打力に悩む2015年の楽天の中でも9HRを記録している。
広い球場である京セラドームが本拠地であるオリックス時代のホームランボールが印象に残っている人は多いはず。

左投手には強くなく、長年レギュラーに定着できなかった原因でもある。
一時はそこそこ対左打率が向上したが、結局完全な弱点克服とはならなかった。

基本的にボール球を拒否する傾向の打撃であり、四球で出塁することは少ない。
2014年に至っては、54試合に出場した中で四球出塁はたったの一回のみ。
ボール球を拒否するのは、悪球打ちが得意なことで、明らかなボール球でもヒットにしてしまうためでもある。
ただし、高齢になってからは言われるほど悪球打ちでもなくなっている。

守備面では、二塁手・三塁手・遊撃手・左翼手と幅広く守れるユーティリティープレイヤー。
身体能力が高いため、時々観客を沸かせるファインプレーを行う。
…しかし、守備力は低い選手であり、守備面的な記録は決して高くない。というかむしろ低い。
2015年は得意でない遊撃手での失策数は12、二塁手での失策は5で合計17もの失策数を記録した。

走力も悪くなく、2008年には13盗塁・2011年には14盗塁を記録。
高齢になった2015年でも、大久保監督の『超機動力野球』の元、13盗塁となかなかの数字を残している。
実際なところ、2015年の盗塁成功率はそこまで高くないのだが。


指導に関しては、若手には「見て覚えろ」というスタイルで自分から教えにいくことはないらしい。
しかし、技術的な事を聞かれれば長時間使って教えるという評判がある。


経歴


プロ入り前


八郎潟町立八郎潟中学校時代は高い身体能力を生かし、野球とラグビーを兼任していた。

後藤に目を付けた秋田工高に1年からレギュラー確約条件にスカウトされるが拒否し、進学校の秋田高校に進学。
秋田高校では3年時にエース投手として活躍し、甲子園にも出場した。

甲子園球児となった後藤は、スポーツ推薦で法政大学に進学する。
しかし、法政では上級生らによりいじめを受けて留年が確定、大学を中退してしまった。
そのいじめというのは履修登録の日に寮に監禁され、留年が確定したという物らしい
いじめに発展した理由は分からないが、『練習試合でスカウトが視察していた先輩投手から空気を読まずホームランを打ったから』という噂がある。
ちなみに、噂の中に出てきた投手はこの説を否定している(ただし昔の事なので記憶が曖昧らしい)。

その後、秋田高校OBで川崎製鉄千葉野球部監督をしていた斉藤正直に誘われて同野球部に参加し、入社。
そこで様々な活躍を遂げ、シドニーオリンピック野球日本代表候補にも選出された。
なお、当時のチームメイトには藤田太陽がいた(同じ秋田出身でもある)。

そして、2001年のドラフト会議でオリックス・ブルーウェーブから10位指名を受け入団。


オリックス・ブルーウェーブ時代


プロ1年目から早速開幕スタメンとして出場。
高い長打力をアピールし、プロ初本塁打をジェレミー・パウエルから放っている。

プロ二年目の2003年は故障で出遅れたが、出場試合数を大きく伸ばす。
この頃から完全にオリックスの遊撃手として定着した。
安打数・本塁打数・打率も、1年目から向上させた。

2004年は大きな打撃不振に陥る。
結果的に他の内野手のライバル達に差を付けられる不本意な年に終わった。

そして2004年を最後にオリックス・ブルーウェーブは大阪近鉄バファローズと合併。
この時に生じた、新球団との合併ドラフトで後藤は合併球団に配分される。

合併球団での背番号の問題が生じた(後述)が、後藤は引き続き同じ背番号を着用することになる。


オリックス・バファローズ時代


合併球団での1年目は初めて100試合以上に出場。
規定打席には到達しなかったが、打率は三割近い数字を残した。
仰木彬監督の采配や打線事情などもあり、全ての打順でのスタメンを経験する。

2006年は中村紀洋などのライバルが登場したが、彼らの故障で出番はあまり減らなかった。
前年度より打撃成績は落とすが、打撃面・守備面では貴重な存在だった。
ところが、オフシーズンに就任したコリンズ監督が背番号1を使用するため、背番号24に変更。

2007年はプロで初めて左翼手を経験する。
この年は初めて二桁本塁打に到達し、打点もチーム4位の34打点を記録した。

2008年は開幕直後こそ不振に苦しむも、自然に復調。
夏には怪我での一時的な戦線離脱というアクシデントがあったが、復帰後の9月は月間21打点を記録。
完全な戦力として定着し、二桁本塁打を維持・打点や打率もチームトップレベルだった。
コリンズ監督が辞任したことにより、背番号もかつて愛用していた1が帰ってきた。

2009年は開幕こそスタメンだったが、怪我による離脱を繰り返す。
出場試合数は前年の半分以下に落ち込み、成績も低下した。

2010年は岡田新監督に見込まれ、3番打者に任命。
さらにはチームリーダーも任されたが、元々積極的に人と交流する性格ではないため一時はこの立場に悩んだ。
開幕こそ低調気味だったが、交流戦では打率.369を記録し、チーム初の交流戦優勝に導く。
特に対阪神タイガース戦は4試合で17打数10安打2本塁打7打点という驚異的なキラーっぷりを見せた。

最終的にこの年は打率.295・16本塁打・73打点、安打数は自己最多の174安打を残した。
オフには国内FA権を行使し、中日などが獲得調査を行うが最終的には残留。
この際に5年以上にも及ぶ複数年契約を結んでいた事が後々判明する。

2011年には全打順でのホームランを達成する。
パ・リーグでは歴代五位となる26試合連続安打記録も作る。
開幕当初こそ不調だったが、最終的にこの年の打率は自身初の三割台に乗せた。

2012年は開幕から調子を上げることが出来ず、二軍降格も経験する。
通算999安打目をサヨナラ打、通算1000安打達成などの記録もあったが、打撃面での不振は続く。
レギュラーではあったが、打率.242・4本塁打という不甲斐ない数字でこの年を終えた。

2013年は開幕から低調で、案の定成績の停滞が続いた。
二軍での調整も相次ぎ、成績は2010年以降の数字としては過去最低の記録を残す。

そしてシーズン終了後、鉄平選手との交換トレードで東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍することとなった。

トレードされるお互いがチームの顔であったため、両球団のファンの間で広がる衝撃は大きかった。
楽天側は、片岡治大のFA争奪戦に敗れたことによる代役探しと東北出身枠という事情で後藤を欲しがったようだ。
なお、このトレードによってブルーウェーブ時代からオリックスのみに在籍する選手が消滅する。

2010年からの複数年契約の残りは、楽天側が負担することとなった。


楽天時代


楽天時代の背番号は4。

開幕前のキャンプなどでは、松井稼頭央に気にかけられながらチームに慣れる努力をする。

2014年の開幕当初は左翼手として起用された。
開幕直後はそこそこな働きをするが、徐々に成績を下降させていく。
三塁手や遊撃手などもこなすものの、打撃面は前年からさらに数字を落とした。

このようにチームの為に全く働けていないことから、早速楽天ファンからは批判の対象となる。
楽天が昨年の日本一から最下位に転がり落ち、一方の後藤のいなくなったオリックスは久々にAクラスに入った。
上記の順位や、かなり高いが下げられない年俸の件もあり、楽天ファンから不幸の置物呼ばわりをされる。

批判されながら迎えた2015年は、遊撃手のレギュラーとして働くはずだった西田哲朗が故障で離脱。

この時の後藤は春先から2試合連続本塁打など調子が良く、遊撃手のポジションを獲得する。
チーム全体が長打力不足に苦しむ中、数少ない長打を放てる可能性のある選手として、移籍後初の4番も経験。
一方で、守備面ではかなり失策数が多く、結構投手の足を引っ張ってしまう場面も。
それに、高齢な体では1年通しての好調維持は厳しく、シーズン後半は打撃不振気味に。
しかし、最終戦では3年ぶりとなる規定打席到達に成功する。

この年で複数年契約を終えた後藤だったが、契約更改では減額制限40%いっぱいの年俸減少が行われる。
6000万円の減少の9000万円でサインし、後藤も1年を通して活躍できなかったことを謝罪した。
ただ、球団側からは『後藤がいなかったら大変なことになっていた』とまで感謝されたらしい。
まあ、2015年の楽天内野陣の戦力を考えたら貴重な存在だったのは間違いない。
それでも9000万円というのは割高に感じるファンもいるかもしれないが。

ちなみにこの年は谷佳知平野恵一中嶋聡などのブルーウェーブ所属経験者が引退。
この時点で、NPBに残る最後の青波戦士と化してしまった(MLBを含めるとイチローが健在)。

2016年は楽天球団のシーズン最初のホームランを放つ。
藤田が開幕直後に戦線離脱をしたことで、二塁手のスタメンとしてしばらく代役をしていた。
代打成功率が高く、広島戦でも得意の悪球打ちで勝利にも貢献しているが、夏頃になると調子を落として一軍登録抹消。

その後は一軍復帰を果たせず、10月初頭にベテランの栗原健太川井貴志と共に戦力外通告をされる。
成績だけ見るとまだまだ楽天内野陣では上の方(降格後の二軍成績も良かった)だが、年齢とコストパフォーマンスの問題が大きかったと見られる。
引退を決意し球団にスタッフとして残ることを決めた二人とは反して、後藤は12球団合同トライアウトへの参加を表明し退団。

甲子園でのトライアウトでは最年長の参加となり、打撃はヒット一本という微妙な結果だった反面、守備では大きくアピールした。
しかし、2016年度は戦力外選手の内野手獲得がそもそも少なく、後藤にもオファーの声はかからず。
そんな中、楽天の立花陽三球団社長が球団職員のオファーを後藤に出したらしく、これを切っ掛けに引退を決断した。
「もう一年でも二年でもやりたかったのが本音」と無念を見せながらも、「両親に『10年くらいできればいいと思っていたけど15年も出来て誇りに思っている』と言われました」とも述べた。

野球人口の減少を問題視していたらしく、球団職員として今後ばその課題に取り組んでいく模様。
「これからは表に出ることはないと思いますけど、陰から見守ってください。」とコメントしている。
ドラフト10位の戦士としてはトップレベルの実績を残した選手の引退試合がなかったことを悔やむファンの声も多く見られた。


最終的に後藤の引退で、2016年でNPBにおけるブルーウェーブ所属経験を持つ「青波戦士」は絶滅した。
何の皮肉か、吸収した旧近鉄所属経験の選手の方がNPBに残った年数が長くなってしまった。
これにより、世界における青波戦士はイチローだけという事になる。


エピソード


背番号

オリックスの合併時の際、当時の後藤の背番号であった『1』の扱いについて議論があった。
何故なら、背番号1はオリックスに吸収される近鉄の永久欠番(鈴木啓示)だったためである。
この中で、後藤は引き続き同じ背番号を着用することを希望した。
鈴木啓示も、自分の背番号は近鉄の物であるという姿勢を見せたと同時に、後藤の存在に配慮して背番号1の着用を許可した。


Aクラス

実は、今のところ所属してきた今までの球団で一回しかAクラスの経験が無い。

Aクラスを経験したのは2008年のオリックス時代の一回だけ。
後は旧オリックス時代や楽天時代を含めて全てBクラスに終わってしまっている。
同じように一回しかAクラスを経験しなかった選手には吉田豊彦などが存在する。

この事実から、一部のファンからは不幸の置物という印象を持たれている。
…後藤のいるチームは低迷するという印象を早めに振り払ってほしいところではある。
しかし、チームの順位に後藤一人では大きい影響を与えられないので仕方ないことではあるが。






追記・修正は、後藤光尊選手を応援しながらお願いします。

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