河井継之助

登録日:2011/10/16(日) 09:47:01
更新日:2025/03/23 Sun 02:36:08
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河井 継之助(かわいつぎのすけ、またはつぐのすけ)

文政10年(1827)1月1日生~慶応4年(1868)8月16日没。
諱は秋義(あきよし)、号は蒼龍窟(そうりゅうくつ)

画像出典∶wikipedia「河井継之助」より抜粋


【概要】

越後長岡牧野家の家臣で幕末~明治初期にかけて日本で最初にガトリング砲を購入し、ヒャッハーした人物。

育て上げた軍隊を率いて太政官と戦い、相手方の山縣(やまがた)有朋(ありとも)木戸孝允を嘆かせ、
後世、戦前を代表するジャーナリスト・徳富(とくとみ)()(ほう)は講演で、
「維新三傑(西郷隆盛(おお)久保(くぼ)利通(としみち)木戸孝允)を足した合計値より大きくないが、三人を足して三で割った平均値よりは高い」
と評した。

軍事面での才覚だけでなく、内政・財政面でも桁違いの実力を発揮した、ギアスでも持っていたのかと疑う程のリアルチートキャラ

あくまでも、薩摩・長州中心の王政復古に反旗を翻し、降伏を潔しとせず、牧野家の世継ぎを海外亡命させようと画策するなど、最後まで従おうとしない一面を見せた。


【経歴】


徳川幕府を支える譜代大名の越後長岡牧野家(禄高74000石)の中級家臣(禄高120石)である(かわ)()(だい)右衛()(もん)(さだ)の間に長男として生まれる。
後に(なぎ)()嘉兵衛(かへい)の妹すがを妻に娶る。
代々河井家の当主は、幼名を「継之助」、元服すると、通称として「代右衛門」を世襲するのだが、継之助は元服後も幼名である「継之助」で通した。

子供の頃は負けず嫌いで、剣術や馬術は自己流で済ましたが、凝り性な所があり、学問や射撃、盆踊りや釣りは熱心に行った。
のちに陽明学にハマる。

その後、江戸や北日本各地・西日本各地を遊学し、斎藤(さいとう)拙堂(せつどう)古賀(こが)茶渓(ちゃけい)佐久間(さくま)象山(ぞうざん)(やま)()方谷(ほうこく)から大いに影響(財政再建、海外事情、陽明学、人材登用)を受け、
その旅の感想が万延元年(1860)3月7日付で、備中松山城下から、長岡城下にいる義兄の梛野嘉兵衛に、

『天下の形勢は早晩大変動を免れず、今の世界情勢は戦国時代だ。
時の勢いほど、恐ろしいものはなく、外人をまねて、風俗も制度も一変するのは、必ず近いうちだろう。
過去の日本も、大化の改新の後、遣隋使や遣唐使を送って、文学を支那に学び、唐の律令を学んで取り入れているのだから、今日の洋風・洋式も10年後には違和感がなくなるだろう。
今の急務は、日本を欧米列強並みの富国強兵国家にするには、朝廷や幕府にこだわらないで、
「政道御一新、上下一統、富国強兵」
の国是(国の基本方針)を定めて、実現することにある。
開国はもはや自然の勢いであり、いつまでも幕府が日本を治めていると思っていたら、浅はかで嘆かわしいことであるが、朝廷や幕府の間に薩摩島津家や長州毛利家の家臣達が介入して、離間の策を施しているのが心外だ。
幕府も朝廷に対して、軽々しい態度を取らないことだけを願いたい』

と手紙に記している。

ちなみに、当時の日本政府である徳川幕府を支える譜代大名として京都所司代や老中を輩出する家柄で、(まき)()忠精(ただきよ)(まき)()忠雅(ただまさ)と二代に渡り老中を輩出し国政に関与出来る立場から、越後長岡牧野家から倒幕運動に走ったのは、白峰(しらみね)駿馬(しゅんま)*1ただ一人であり、幕府に不満や反発はあっても反旗を翻すほどの大名家ではなかったことを付け加えておく。

この時期の当主・牧野忠恭(ただゆき)は文久2年(1862)8月24日京都所司代に就任する。

攘夷派浪士やその後ろ盾になる薩摩島津家や長州毛利家の家臣達が朝廷や幕府の人事に介入するのを手を加えて見ているしか出来ない無力感に苛まれて、文久3年(1863)6月11日、
「当時の京都は騒動続きであり、長岡のような小大名では対応できない」
として辞職した。

その後、文久3年(1863)9月13日老中に就任、同年12月24日更に外国事務取扱に命じられ、元治元年(1864)7月22日には勝手用掛を命じられた。

三代続けての老中就任で、外務大臣で財務大臣である。

攘夷論に反対し、横浜鎖港談判使節団*2を派遣したり、常陸水戸徳川家の天狗党による騒乱を鎮めるべきと主張すると、政事総裁職・武蔵川越松平家の松平(まつだいら)直克(なおかつ)が天狗党を擁護し対立する有り様*3

長州毛利家が行った攘夷とそれに対する欧米列強の反撃が圧勝だった事を受け、牧野忠恭は外務大臣として欧米列強の代表と謁見し、戦後処理を務めた。

慶応元年(1865)4月13日、政局に難題*4が積まれるに及んで老中職を退いた。

京都所司代の辞任は京都詰公用人として、老中の辞任は江戸詰公用人兼御用人として、いずれも河井の進言によるものだった。

牧野忠恭が老中を辞め、長岡に帰国すると河井は郡奉行、町奉行、中老、家老、執政兼軍事総督と権力の階段を駈けあがるとともに、改革に辣腕を奮い、中級・下級の家臣や農民や町人でも実力があれば要職や役人として抜擢、74000石の譜代大名を劇的に変化させ、政治改革の実を上げた。


中央の政局に関しては、元治元年(1864)9月14日梛野嘉兵衛付書簡に、

『幕府の長州征伐は、諸大名を制御する威権の無い事を天下に示すことになり、事態をさらに悪化させる恐れがあり、賢明な考えとは思えません。
長州侯の領地を御召し上げるだけの御覚悟が無ければ、第二、第三の長州侯が出てくることは著しく明らかなことです。

攘夷、尊王とはなどと浪人共が言いふらしていますが、それは誠に愚かな事です。
天皇の下すべての人民は王臣であり、天皇を尊ばないものは一人もいないでしょう。
攘夷とは何たる事でしょう。例えば洋艦が来航しようとも、我が国の綱紀を立て、兵が強く国が富んでいれば、恐れるに足りません。
その準備もいたらず、攘夷攘夷と騒ぎ立てるのは臆病者の戯言で、心が痛みます。

むしろ、我々は通商の道を開き、外国を利用して国を富ます事が出来ます。
無禄の浪人共の仕業なら一笑に付すことも出来ましょうが、薩摩・長州が外国と戦争を起こしたのは無謀の振る舞いでしょう。
将来の天下大乱の兆しと思います。
今は容易ならざる時代、上下一致して、綱紀を引き締め、財用を充実して、兵力を強くして、一朝有事の際、御家名を汚さない心掛けが必要といえましょう』

と書き記している。


大政奉還後、当主の牧野忠訓(ただくに)*12を擁して上坂。
王政復古後、上洛して京都に成立した薩長を中心にした太政官に過去の徳川政治の実績を擁護し、攘夷運動の胡散臭さを批判し、
徳川(とくがわ)慶喜(よしのぶ)の新政権内での指導的地位の就任(=大政再委任)にするように建白書を提出したが、返答は無かった。

戊辰戦争では、徳川方に兵糧攻めを提案したが無視され、江戸や横浜で情報を集めて長岡に戻り、太政官に内戦の非を主張したが、ボタンの掛け違いから挫折、力づくで戦争を止めるため、反太政官同盟である奥羽越列藩同盟に加盟し、中越一帯で一進一退の攻防を3ヶ月続けた。

そして、一旦は敵の手に落ちた長岡城を、奇襲で奪還するが、その直後、戦況視察で負傷。
指揮の取れないまま敵の攻撃を受けてしまい、再度の落城で長岡軍は再起をかけて会津へと向かう。

会津に入った河井は只見村で休息を取り、その際に元奥医師の松本(まつもと)良順(りょうじゅん)医師から診察を受けるが、この時点で既に手遅れの状態にあり、河井も自らの死期を悟ったようで、周囲の人物に後図を託したり、()(やま)修造(しゅうぞう)
「これからは武士ではなく商人を目指せ」
とアドバイスしたりしている*13
その後、河井は亡命先の陸奥会津松平家領塩沢村で、傷口が悪化して慶応4年(1868)8月16日に没した。

辞世の句は「八十里 腰抜け武士の 越す峠」*14
戒名は忠良院殿賢道義了居士。


なお、太政官と同盟は越後方面で4~6倍の戦力差があったが、河井の友人と自称する外国人武器商人たちが同盟に武器を提供し、
河井の焦土戦術と奇襲戦法を組み合わせた手段を選ばないやり方が互角の戦いにしたのである。

その後遺症で領内の8割が焼け野原になり、巻き込まれた被災者・部下から恨まれた。戊辰戦争での戦死者は309人と言われる。
河井は被災者を救済すると公言したが、途中で死去したため、後を小林(こばやし)虎三郎(とらさぶろう)が行うことになる。これが米百俵の逸話である。

河井亡き後の越後長岡牧野家は、陸奥会津松平家、出羽米沢上杉家、陸奥仙台伊達家と亡命先を転々とし、明治元年(1868)9月23日に降伏。
越後長岡牧野家は官位、所領を没収されたが、74000石→24000石への石高の減少、当主を忠訓から忠毅(ただかつ)へ交代、藩治職制*15により長岡藩と改めて再出発をすることが赦された。


太政官から反逆首謀者を出せといわれたので長岡藩は河井と戦死した家老の山本(やまもと)帯刀(たてわき)を申告し、太政官も両者の家名断絶を長岡藩に伝える。
長岡藩は更に存命中の(みつ)()正弘(まさひろ)を首謀者として差し出し、三間は東京で獄中に繋がれる事になる*16

河井家の遺族は長岡藩の意向で、森家が引き取り、源三が世話人となる。

父は明治4年(1871)に長岡で死去。母と妻は源三が札幌農学校の教師として赴任したため、源三ととも北海道に移住。
江別に住んでいたことが記録に残っている。母は明治21年(1888)、妻は明治27年(1894)それぞれ病没。

河井家の家名再興は太政官により明治16年(1883)2月16日に認められ、同22年(1889)2月11日の帝国憲法発布に伴う大赦令により、河井の反逆罪という汚名は濯がれることとなった。


【作品】

時代劇では大河ドラマ「花神」の後半の主人公として登場、高橋英樹が熱演。
テレビ朝日の特番では阿部寛、日本テレビの二時間時代劇では中村勘三郎がそれぞれ演じている。

2021年6月18日には、映画『峠 最後のサムライ』が公開予定(主演・役所広司×監督・小泉堯史)。

ゲームではコーエー(現:コーエーテクモホールディングス株式会社)の「維新の嵐」シリーズに登場。
PC9801版ではシナリオ3の佐幕派側の主人公として選ぶことができる。

続編の「維新の嵐・幕末志士伝」では長岡藩家老として学力・兵学・国外見識に高い人物として登場する。


【余談】

◆河井の反対派のその後
『峠』で河井を煙たく思う上司として出てくる先祖代々の家老「稲垣(いながき)平助(へいすけ)重光(しげみつ)」(小説では年上らしい感じだが実際は年下だった)。
彼は行政面で功績を上げられず、河井の活躍の余波で降格・減俸になった。
その結果、反発する形で勤皇派になっていた。

史実での彼は開戦後出奔、河井とは逆に太政官との降伏交渉に奔走し戦後の牧野家の助けになるも、その時いろいろ振り回され、
「なんで敵前逃亡して交渉した」
と叩かれた所為か戦後町人として一生を終え、彼の娘はその後アメリカで結婚生活を過ごし、著書『武士の娘』で名を残した。

また江戸留学時代、河井も師事していたことがある佐久間象山の愛弟子だった等から稲垣と別ベクトルで継之助とは違う思想者だった小林虎三郎*17
彼は「今は薩長に頭を下げてでも戦争を回避した方がまし」と考えていた。
彼は開戦後おとなしくしていたが、河井の死後「大参事」なるトップクラスの役職となり、戦後長岡に学校を開いたり、他藩からの寄付「米百俵」を学校のために使うなどして長岡の偉人として名を残した。

人間やりたいことをどうやるか、またどんなタイミング・周囲の世論でやるかで人のためになっても評価が違うという事かもしれない。


【後継者たち】

彼の生き様から、様々な分野に後継者が存在する。

()(やま) 修造(しゅうぞう)(1842~1916)
牧野家領内の生まれで、尊皇攘夷の志士として故郷を出奔、紆余曲折の結果*18、河井に師事する。
継之助の遺言である「商人になれ」という言葉を胸に、慶應義塾をへて大蔵省に入省。
国立銀行の立て直しをした後、辞職。
外遊後アサヒビール、商業興信所(日本初の信用調査会社)等の創業に関わる。
阪神電鉄初代社長となり、()(だい)友厚(ともあつ)から後を託され、関西財界を発展、衆議院議員選挙に出馬、当選し、代議士になった。
戦前は阪神タイガースの産みの親として甲子園球場の前に銅像が建っていたが、戦時中の貴金属供出により銅像は無くなった。


(じょう) 泉太郎(せんたろう)(1856~1936)
河井の親戚筋に当たる。
慶應義塾を卒業後、英語教師を務める傍ら自由民権運動に携わった。

城の政治思想の特徴は戊辰戦争での敗戦経験の影響を強く受けたもので国体の見直しを訴え、共和政体論を主張していたことにある。

昭和2年(1927年)に憲兵隊により取り調べを受けたことにより、自身の原稿類を焼き捨てた。


()(やま) 正太郎(しょうたろう)(1857~1916)
牧野家家臣団出身。
父親は河井の友人で蘭方医の()(やま)良運(りょううん)
河井が父親に様々な相談を持ちかけて訪ねてくる為、流れとして親しくなり影響を受けた。
戊辰戦争後、家督を相続し、廃藩置県後、東京に出て政治家を志すが、西洋画に魅了され、川上(かわかみ)冬崖(とうがい)を皮切りに、アベル・ゲリノー、アントニオ・フォンタネージから西洋画の技法を学ぶ。
以後、東京師範学校図画教員として図画教育の普及に尽力する。
普通教育の科目に毛筆画と鉛筆画のどちらを採用するかをめぐり、鉛筆画を主張、毛筆画派のフェノロサらに敗れ、岡倉(おかくら)天心(てんしん)らの洋画排斥論に反対し東京高等師範学校を解任された。
明治22年(1889年)明治美術会の創設に参画するも、26年(くろ)()(せい)()が帰国し白馬会を結成すると、小山ら明治美術会の画家は「旧派」と呼ばれ高等美術教育の傍流に追いやられ、東京高等師範学校などの初等中等教育の場で活動する。
小山の大きな功績として、明治20年(1887年)に画塾「不同舎」*19を主宰し、後進の育成に努めたことが挙げられる。
工部美術学校の洋画部が廃止され洋画を学ぶ機会を失いかけていた画学生に歓迎され、塾生も最盛期には300人を数えた。
彼の生き方は教育家、画家としての名声を高め、維新元勲の山縣有朋などに一目置かれる程の人物であり、小山が河井の印象を山縣から聞き出す時に大いに役立った。


◆ジェームズ・ファブル・ブラント (1842~1923)
河井の友人を自称するその一。
スイス生まれのスイス人で電気工学を学び、国民皆兵のスイス軍では射撃隊下士官の経歴を持つ。

1863年、日本との修好条約を締結に来たスイス使節団の一員として来日。
締結後、使節団は帰国したが、ブラントは日本に残り、横浜で仲間と共に時計・宝石・武器を扱うファブル・ブラント商会を設立。
長岡牧野家、薩摩島津家、伊予宇和島伊達家等に武器を販売してしていた。
牧野家がガトリング砲を購入したり、薩摩島津家の情報も断片的(横浜での武器取引など)ではあるが、この人から得ていた。

戊辰戦争後も日本人と結婚して横浜や大阪で商売を行い、四男三女の子供を授かり、母国に帰ることなく日本に住み続けた。


◆シュネル兄弟
ハインリッヒ・シュネル (1841~?)
エドゥアルト・シュネル (1844~?)

河井の友人を自称するその二。
兄弟の戸籍が記載された一番新しい資料*20によると、ヘンリーとエドワードは英語表記でオランダ語表記によると兄はヨハン・ハインリッヒ・シュネル、弟はフリードリック・ヘンドリック・エドゥアルト・シュネルと明記されている。
従来はバイエルン王国*21生まれとされたが、現在の資料によると両親は後年ドイツ帝国の版図になるヘッセン選帝侯国の出身で父親の仕事の都合でオランダの植民地・ジャワ*22に移住し、兄弟はそこで産まれた。

弟は1860年頃にオランダ国籍を名乗り日本に来日、横浜で牛乳・牛肉・日用雑貨を扱う商会を設立。

若いながら横浜居留地の代表者に選ばれ、住民のトラブルを処理するなど、苦情処理役として働いていた。
1864年からは駐日スイス総領事館の書記官も務める様になるが、スイスの駐日外交代表であるルドルフ・リンダウやカスパー・ブレンヴァルトがドイツ語圏内の人物で、ドイツ語、オランダ語、日本語に通じたエドゥアルトを重用した為である。

兄は1863年8月、日本とプロイセン王国の修好通商条約の批准書交換の為に来日したプロイセン使節団の中でオランダ語とドイツ語を流暢に話す翻訳官や書記官を務め、そのまま日本で勤務した。

慶応3年(1867)11月、出羽米沢上杉家の重臣・甘粕(あまがす)継成(つぐなり)は大阪に向かう蒸気船の中で河井と兄弟が意気投合して談笑していたと日記に記している。

その後、甘粕もこの兄弟と仲良くなり、陸奥会津松平家の家臣や殿様も兄弟を河井の紹介を通じて仲良くなり、平松(ひらまつ)武兵衛(ぶへい)という名前を与えている。

戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の武器購入を担当し、金や武器はイギリス嫌いの外国人商人を通じて集めて新潟港に送り込んだ。

明治元年(1868)10月20日、太政官外務省寺島(てらしま)宗則(むねのり)を原告とし、エドゥアルトを被告とする裁判が、オランダ領事ファン・ボルスブルックを首席判事として横浜で開催された。

同盟への武器譲渡は安政の五か国条約で定められた正規の政府以外への販売禁止にあたるとして賠償金を求められた。

被告のエドゥアルトは、

『ベルギー*23、イタリア*24、デンマーク*25と交わした通商条約には正規の政府以外への武器の譲渡が許されており、オランダ人は最恵国待遇により他の五か国条約の国民にも適用される。

そもそも、戊辰戦争中、欧米諸国は内戦に局外中立*26の立場を取っていて、太政官と同盟は交戦団体という政府の一つ手前の扱いになる。
長崎で外国人商人から武器を購入するのが許されるなら、新潟で外国人商人から武器を購入するのも許される。
私を裁くなら、先ず長崎の外国人商人を裁くのが先だろう。順番がおかしい』

と主張。

この時エドゥアルトは局外中立、交戦団体、オランダ国籍で最恵国待遇という通商条約と国際法を駆使して理論武装し、同月23日、被告人として太政官の訴えを退けた。

太政官は欧米諸国の公使が勢揃いする中で今回の裁判を起こしたのだか、末端とは言え、外交官の端くれであるエドゥアルトに国際法を駆使されて散々に論破され、国際条約を勉強しろ!と突きつけられ、公使達から失笑を買ったのである。

ハインリッヒは生き残りの会津武士やその家族を連れてアメリカ・カルフォルニアに渡り、そこを開拓して新天地を得ようとしたが挫折。
長岡藩にも手紙を送り、商社を設立し、海外貿易を行い、外貨を獲得して、その利益で領地を復興させると宜しいと提案しているが、「米百表」モードの長岡藩に無視されている。

二人ともその後の行方は分からない。

兄弟が河井に惚れ込んだ理由は、合理主義に毒されたヨーロッパ人が失った何かを持っているから、という証言がある。
戊辰戦争中、河井の為に順番待ちの客を無視して武器(元込め銃)や金を融通し、
牧野家の武器購入担当者も日本の商人に、あの様な人は居ないと驚かせたが、河井は、
「あいつらの本質は怜悧、義理や人情などないよ。
客の心を惹く為にわざとしているに過ぎない。」
と言い切った。




追記・修正は牧野家家臣団をフランスに亡命させてから、お願いします。

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最終更新:2025年03月23日 02:36

*1 牧野家を出奔して、海援隊に属す

*2 孝明天皇や攘夷派の不満をガス抜きする為、幕府は江戸に近い横浜の閉鎖を交渉する横浜鎖港談判使節団をフランスに派遣した。はなから達成不可能な任務で、使節団の本当の目的はフランス士官殺害事件の賠償交渉だった。

*3 元治元年(1864)6月22日松平直克を政事総裁職から解任

*4 第一次長州征伐は終わったが、高杉晋作が武装蜂起、クーデターに成功。長州征伐が再燃。欧米列強が兵庫開港、大坂開市を求めて大坂湾に来航など

*5 仕事をサボり、働くなるから。賭博をする暇があるなら働け!

*6 寛政の改革時に長谷川平蔵が設立した犯罪者矯正施設。師匠の山田方谷も実施している。

*7 当時としては珍しく、今で言う夜22時〜朝4時までの外出を認めたが、時間を過ぎれば、どの様な理由が有ろうと斬首にした。

*8 2000石から20石くらいの分布だった石高を上は500石、下は50石に圧縮。その代わり今まで禄高に応じて行っていた軍役を廃止したので収入は減るが出費はそれ以上に減るので結果、負担が減る。家老が個人的に抱えていた家臣(通称・陪臣)は牧野家が直接召し抱える形に切り替わった。

*9 過去数年の取れ高を出して、その平均で年貢を集めるやり方。検見法といって毎年検地をして年貢を集めるやり方もある。検見法は毎年の検地が手間だが、不作の年は融通が効くのが売り。定免法は検地の手間は省けて、平均値で年貢を集められるが、不作の年は農民の負担が厳しい

*10 アメリカの南北戦争が終わり、南北戦争用に大量生産したり、開発が間に合わなかった新兵器類が世界中で余っていた事も関係する

*11 今のパンではなく、甘食から甘さが無くなった感じ

*12 牧野忠恭が慶応3年(1867)7月11日に隠居し家督を相続。安政5年(1858)12月、丹後宮津松平家から養嗣子として入る。

*13 ちなみに戦後、外山は河井が遺した福沢諭吉宛の添え状もあって慶応義塾で学んだ後、実際に商人となって大成功を収めている。

*14 実際には会津に入る前、大怪我をして一人では歩けない自分を自嘲して詠んだ句であり、河井自身には辞世の句のつもりは恐らくなかったと思われる。

*15 明治元年(1868) 10月28日に布達された太政官令。大名家を藩という呼び名で統一し、各大名家でまちまちな職制を,藩主、執政、参政、公議人などの職制に統一。収入の使い方や兵隊の上限などが定められた布達

*16 後に釈放され、文部官僚、警察官僚、軍人、初代憲兵司令官、石川県知事と内政、軍事の両面で活躍した

*17 佐久間象山の塾で吉田松陰と並んで“象門の二虎”と呼ばれた逸材。幕政批判をしたと見なされ、謹慎、体調を崩して在宅勤務で西洋兵学の翻訳に携わっていた。

*18 江戸に出て清河八郎に弟子入り、清河の死後、昌平黌に入り塩谷宕陰に弟子入り。塩谷の案内で河井を知り故郷に帰る。塩谷は山田方谷や佐久間象山と共通の知人。河井は塩谷の紹介で山田方谷に弟子入りした

*19 現在の東京都文京区団子坂界隈の不動坂に由来する

*20 2007年に日本に寄贈された。

*21 当時のドイツはプロイセン王国とその他の国に分裂。統一されたドイツ帝国が誕生するのは1871年

*22 現在のインドネシア

*23 日白修好通商航海条約。慶応2年(1866)6月21日締結

*24 日伊修好通商条約。慶応2年(1866)7月16日締結

*25 日丁修好通商航海条約。慶応2年(1866)12月7日締結

*26 局外中立とは、戦争をしている国同士、もしくは内戦中の勢力のどちらにも味方せず、公平な態度をとるという、国際法上の立場の事。