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更新日:2025/03/23 Sun 02:36:08
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河井 継之助(かわいつぎのすけ、またはつぐのすけ)
文政10年(1827)1月1日生~慶応4年(1868)8月16日没。
諱は
秋義、号は
蒼龍窟。
画像出典∶wikipedia「河井継之助」より抜粋
【概要】
育て上げた軍隊を率いて太政官と戦い、相手方の
山縣有朋や
木戸孝允を嘆かせ、
後世、戦前を代表するジャーナリスト・
徳富蘇峰は講演で、
「維新三傑(
西郷隆盛、
大久保利通、
木戸孝允)を足した合計値より大きくないが、三人を足して三で割った平均値よりは高い」
と評した。
軍事面での才覚だけでなく、内政・財政面でも桁違いの実力を発揮した、ギアスでも持っていたのかと疑う程のリアル
チートキャラ。
あくまでも、薩摩・長州中心の王政復古に反旗を翻し、降伏を潔しとせず、牧野家の世継ぎを海外亡命させようと画策するなど、最後まで従おうとしない一面を見せた。
【経歴】
徳川幕府を支える譜代大名の越後長岡牧野家(禄高74000石)の中級家臣(禄高120石)である河井代右衛門と貞の間に長男として生まれる。
後に梛野嘉兵衛の妹すがを妻に娶る。
代々河井家の当主は、幼名を「継之助」、元服すると、通称として「代右衛門」を世襲するのだが、継之助は元服後も幼名である「継之助」で通した。
子供の頃は負けず嫌いで、剣術や馬術は自己流で済ましたが、凝り性な所があり、学問や射撃、盆踊りや釣りは熱心に行った。
のちに陽明学にハマる。
その後、江戸や北日本各地・西日本各地を遊学し、斎藤拙堂、古賀茶渓、佐久間象山、山田方谷から大いに影響(財政再建、海外事情、陽明学、人材登用)を受け、
その旅の感想が万延元年(1860)3月7日付で、備中松山城下から、長岡城下にいる義兄の梛野嘉兵衛に、
『天下の形勢は早晩大変動を免れず、今の世界情勢は戦国時代だ。
時の勢いほど、恐ろしいものはなく、外人をまねて、風俗も制度も一変するのは、必ず近いうちだろう。
過去の日本も、大化の改新の後、遣隋使や遣唐使を送って、文学を支那に学び、唐の律令を学んで取り入れているのだから、今日の洋風・洋式も10年後には違和感がなくなるだろう。
今の急務は、日本を欧米列強並みの富国強兵国家にするには、朝廷や幕府にこだわらないで、
「政道御一新、上下一統、富国強兵」
の国是(国の基本方針)を定めて、実現することにある。
開国はもはや自然の勢いであり、いつまでも幕府が日本を治めていると思っていたら、浅はかで嘆かわしいことであるが、朝廷や幕府の間に薩摩島津家や長州毛利家の家臣達が介入して、離間の策を施しているのが心外だ。
幕府も朝廷に対して、軽々しい態度を取らないことだけを願いたい』
と手紙に記している。
ちなみに、当時の日本政府である徳川幕府を支える譜代大名として京都所司代や老中を輩出する家柄で、
牧野忠精、
牧野忠雅と二代に渡り老中を輩出し国政に関与出来る立場から、越後長岡牧野家から倒幕運動に走ったのは、
白峰駿馬ただ一人であり、幕府に
不満や反発はあっても反旗を翻すほどの大名家ではなかったことを付け加えておく。
この時期の当主・牧野忠恭は文久2年(1862)8月24日京都所司代に就任する。
攘夷派浪士やその後ろ盾になる薩摩島津家や長州毛利家の家臣達が朝廷や幕府の人事に介入するのを手を加えて見ているしか出来ない無力感に苛まれて、文久3年(1863)6月11日、
「当時の京都は騒動続きであり、長岡のような小大名では対応できない」
として辞職した。
その後、文久3年(1863)9月13日老中に就任、同年
12月24日更に外国事務取扱に命じられ、元治元年(1864)7月22日には勝手用掛を命じられた。
三代続けての老中就任で、外務大臣で財務大臣である。
攘夷論に反対し、横浜鎖港談判使節団を派遣したり、常陸水戸徳川家の天狗党による騒乱を鎮めるべきと主張すると、政事総裁職・武蔵川越松平家の松平直克が天狗党を擁護し対立する有り様。
長州毛利家が行った攘夷とそれに対する欧米列強の反撃が圧勝だった事を受け、牧野忠恭は外務大臣として欧米列強の代表と謁見し、戦後処理を務めた。
慶応元年(1865)4月13日、政局に難題が積まれるに及んで老中職を退いた。
京都所司代の辞任は京都詰公用人として、老中の辞任は江戸詰公用人兼御用人として、いずれも河井の進言によるものだった。
牧野忠恭が老中を辞め、長岡に帰国すると河井は郡奉行、町奉行、中老、家老、執政兼軍事総督と権力の階段を駈けあがるとともに、改革に辣腕を奮い、中級・下級の家臣や農民や町人でも実力があれば要職や役人として抜擢、74000石の譜代大名を劇的に変化させ、政治改革の実を上げた。
- 賭博を厳しく戒め、潜入捜査、おとり捜査で摘発。
- 人足寄場を設立し、博打打ちや犯罪者をそこに入れ、算盤や勧善懲悪を学ばせ社会復帰に備えて手に職を付けて給金を与えた。
- 遊郭も期限を設けて段階的に廃止、遊郭の持ち主にも転業資金を与え、遊女にも手に職を付けさせて給金を与えて社会復帰に備えさせた。
- 家臣の俸禄を最低限度に抑え、再建の目途がつくと最終的に禄高の均整化を実施、
- 牧野家の家宝を売却し、御用金を集めた。
- 定免法に切り替えて収入の安定化を狙った。
- 相場を調べて、最安値の場所で米や銅銭を買い漁り、最高値で売れる場所で売り抜けた。
- 信濃川の通行税を撤廃して流通の自由化を促進して、人が来るようにした。
今までの和流軍学を廃止、フランス式軍制を導入し、西洋式の最新武器を買い揃え、主な購入品目は
ガトリング砲、四斤山砲、臼砲、十二斤野砲など大砲31門、エンフィールド銃、スナイドル銃、シャープス銃等々小銃2000挺を保有し兵力も家臣団と農兵を合わせて歩兵3個大隊約1000人と砲兵要員約200人に再編成し、鬼教練で精鋭に仕上げた。
大体こんな感じ。
軍事総督―大隊長―軍事掛―銃士隊長・銃卒隊長(銃士隊・銃卒隊、各四個小隊)となっている。
身分により、銃士隊(士分)と銃卒隊(足軽以下)に分かれて小隊を編成し、戦闘の際は銃士・銃卒の二個小隊で戦うことが多かった。
二個小隊での指揮は、銃士隊長が執った。
四個小隊で戦闘する場合の指揮官は軍事掛(中隊長ポジ)、八個小隊での場合は大隊長。
軍事掛、大隊長には直属の兵が付いていた。
- 銃士隊は、隊長(小隊長ポジ)・小令・半令(どちらも分隊長ポジ)(以上、指揮官)各1名、嚮導(先行偵察兵)2名、鼓者(15~16歳の少年)1~2名、銃士32名前後からなり、弾薬方(弾薬の管理、調達)、営造方(陣地等の設計、構築を担当)が若干名いた。
- 銃卒隊は、隊長1名、小令・半令各1名、銃卒(足軽、中間、町同心など)35名前後、弾薬方、営造方が若干名。
- 大隊長には軍目付3名、使番4名、使番手付4名、宿割人足差配3名、日誌方2名、医師2名、病人掛2名、勘定方3名、弾薬運搬方4名、鼓者3名、中間12名、計42名が大隊本部として機能していた。
- 軍目付は普段は作戦参謀として勤務するが、戦傷死した小隊長の補充要員にもなった。
- 総督直属として、軍資金の管理や民政の担当をする幕僚など70名ほどいた。
- 軍装は、陣笠、筒袖の洋服(黒羅紗)に段袋(ズボン)の洋装。
慶応3年(1867)12月18日には、越後長岡牧野家の実権を握っていた河井が家臣に一挺ずつ行き渡るようエンフィールド銃を貸与している。
刀も二本差さなくても良い、何なら丸腰も可と選択制にした。
兵糧はパン食を試していたが、味が納得いかなかったのか、不採用にしている。
袖印は、「五間梯子」
大砲は四斤山砲くらいなら1門に付き6人程で運用していた。
二十四斤惣砲だと7人で運用していた。
中央の政局に関しては、元治元年(1864)9月14日梛野嘉兵衛付書簡に、
『幕府の長州征伐は、諸大名を制御する威権の無い事を天下に示すことになり、事態をさらに悪化させる恐れがあり、賢明な考えとは思えません。
長州侯の領地を御召し上げるだけの御覚悟が無ければ、第二、第三の長州侯が出てくることは著しく明らかなことです。
攘夷、尊王とはなどと浪人共が言いふらしていますが、それは誠に愚かな事です。
天皇の下すべての人民は王臣であり、天皇を尊ばないものは一人もいないでしょう。
攘夷とは何たる事でしょう。例えば洋艦が来航しようとも、我が国の綱紀を立て、兵が強く国が富んでいれば、恐れるに足りません。
その準備もいたらず、攘夷攘夷と騒ぎ立てるのは臆病者の戯言で、心が痛みます。
むしろ、我々は通商の道を開き、外国を利用して国を富ます事が出来ます。
無禄の浪人共の仕業なら一笑に付すことも出来ましょうが、薩摩・長州が外国と戦争を起こしたのは無謀の振る舞いでしょう。
将来の天下大乱の兆しと思います。
今は容易ならざる時代、上下一致して、綱紀を引き締め、財用を充実して、兵力を強くして、一朝有事の際、御家名を汚さない心掛けが必要といえましょう』
と書き記している。
大政奉還後、当主の牧野忠訓を擁して上坂。
王政復古後、上洛して京都に成立した薩長を中心にした太政官に過去の徳川政治の実績を擁護し、攘夷運動の胡散臭さを批判し、
徳川慶喜の新政権内での指導的地位の就任(=大政再委任)にするように建白書を提出したが、返答は無かった。
戊辰戦争では、徳川方に兵糧攻めを提案したが無視され、江戸や横浜で情報を集めて長岡に戻り、太政官に内戦の非を主張したが、ボタンの掛け違いから挫折、力づくで戦争を止めるため、反太政官同盟である奥羽越列藩同盟に加盟し、中越一帯で一進一退の攻防を3ヶ月続けた。
そして、一旦は敵の手に落ちた長岡城を、奇襲で奪還するが、その直後、戦況視察で負傷。
指揮の取れないまま敵の攻撃を受けてしまい、再度の落城で長岡軍は再起をかけて会津へと向かう。
会津に入った河井は只見村で休息を取り、その際に元奥医師の松本良順医師から診察を受けるが、この時点で既に手遅れの状態にあり、河井も自らの死期を悟ったようで、周囲の人物に後図を託したり、外山修造に
「これからは武士ではなく商人を目指せ」
とアドバイスしたりしている。
その後、河井は亡命先の陸奥会津松平家領塩沢村で、傷口が悪化して慶応4年(1868)8月16日に没した。
辞世の句は「八十里 腰抜け武士の 越す峠」
戒名は忠良院殿賢道義了居士。
なお、太政官と同盟は越後方面で4~6倍の戦力差があったが、河井の友人と自称する外国人武器商人たちが同盟に武器を提供し、
河井の
焦土戦術と奇襲戦法を組み合わせた手段を選ばないやり方が互角の戦いにしたのである。
その後遺症で領内の8割が焼け野原になり、巻き込まれた被災者・部下から恨まれた。戊辰戦争での戦死者は309人と言われる。
河井は被災者を救済すると公言したが、途中で死去したため、後を小林虎三郎が行うことになる。これが米百俵の逸話である。
河井亡き後の越後長岡牧野家は、陸奥会津松平家、出羽米沢上杉家、陸奥仙台伊達家と亡命先を転々とし、明治元年(1868)9月23日に降伏。
越後長岡牧野家は官位、所領を没収されたが、74000石→24000石への石高の減少、当主を忠訓から忠毅へ交代、藩治職制により長岡藩と改めて再出発をすることが赦された。
太政官から反逆首謀者を出せといわれたので長岡藩は河井と戦死した家老の山本帯刀を申告し、太政官も両者の家名断絶を長岡藩に伝える。
長岡藩は更に存命中の三間正弘を首謀者として差し出し、三間は東京で獄中に繋がれる事になる。
河井家の遺族は長岡藩の意向で、森家が引き取り、源三が世話人となる。
父は明治4年(1871)に長岡で死去。母と妻は源三が札幌農学校の教師として赴任したため、源三ととも
北海道に移住。
江別に住んでいたことが記録に残っている。母は明治21年(1888)、妻は明治27年(1894)それぞれ病没。
河井家の家名再興は太政官により明治16年(1883)2月16日に認められ、同22年(1889)2月11日の帝国憲法発布に伴う大赦令により、河井の反逆罪という汚名は濯がれることとなった。
【作品】
時代劇では大河ドラマ「花神」の後半の主人公として登場、高橋英樹が熱演。
テレビ朝日の特番では
阿部寛、日本テレビの二時間時代劇では中村勘三郎がそれぞれ演じている。
2021年6月18日には、映画『峠 最後のサムライ』が公開予定(主演・役所広司×監督・小泉堯史)。
ゲームではコーエー(現:コーエーテクモホールディングス株式会社)の「維新の嵐」シリーズに登場。
PC9801版ではシナリオ3の佐幕派側の主人公として選ぶことができる。
続編の「維新の嵐・幕末志士伝」では長岡藩家老として学力・兵学・国外見識に高い人物として登場する。
【余談】
◆河井の反対派のその後
『峠』で河井を煙たく思う上司として出てくる先祖代々の家老「稲垣平助重光」(小説では年上らしい感じだが実際は年下だった)。
彼は行政面で功績を上げられず、河井の活躍の余波で降格・減俸になった。
その結果、反発する形で勤皇派になっていた。
史実での彼は開戦後出奔、河井とは逆に太政官との降伏交渉に奔走し戦後の牧野家の助けになるも、その時いろいろ振り回され、
「なんで敵前逃亡して交渉した」
と叩かれた所為か戦後町人として一生を終え、彼の娘はその後アメリカで結婚生活を過ごし、著書『武士の娘』で名を残した。
また江戸留学時代、河井も師事していたことがある佐久間象山の愛弟子だった等から稲垣と別ベクトルで継之助とは違う思想者だった小林虎三郎。
彼は「今は薩長に頭を下げてでも戦争を回避した方がまし」と考えていた。
彼は開戦後おとなしくしていたが、河井の死後「大参事」なるトップクラスの役職となり、戦後長岡に学校を開いたり、他藩からの寄付「米百俵」を学校のために使うなどして長岡の偉人として名を残した。
人間やりたいことをどうやるか、またどんなタイミング・周囲の世論でやるかで人のためになっても評価が違うという事かもしれない。
【後継者たち】
彼の生き様から、様々な分野に後継者が存在する。
◆
外山 修造(1842~1916)
牧野家領内の生まれで、尊皇攘夷の志士として故郷を出奔、紆余曲折の結果、河井に師事する。
継之助の遺言である「商人になれ」という言葉を胸に、慶應義塾をへて大蔵省に入省。
国立銀行の立て直しをした後、辞職。
外遊後アサヒビール、商業興信所(日本初の信用調査会社)等の創業に関わる。
阪神電鉄初代社長となり、
五代友厚から後を託され、関西財界を発展、衆議院議員選挙に出馬、当選し、代議士になった。
戦前は
阪神タイガースの産みの親として甲子園球場の前に銅像が建っていたが、戦時中の貴金属供出により銅像は無くなった。
◆城 泉太郎(1856~1936)
河井の親戚筋に当たる。
慶應義塾を卒業後、英語教師を務める傍ら自由民権運動に携わった。
城の政治思想の特徴は戊辰戦争での敗戦経験の影響を強く受けたもので国体の見直しを訴え、共和政体論を主張していたことにある。
昭和2年(1927年)に憲兵隊により取り調べを受けたことにより、自身の原稿類を焼き捨てた。
◆小山 正太郎(1857~1916)
牧野家家臣団出身。
父親は河井の友人で蘭方医の小山良運。
河井が父親に様々な相談を持ちかけて訪ねてくる為、流れとして親しくなり影響を受けた。
戊辰戦争後、家督を相続し、廃藩置県後、東京に出て政治家を志すが、西洋画に魅了され、川上冬崖を皮切りに、アベル・ゲリノー、アントニオ・フォンタネージから西洋画の技法を学ぶ。
以後、東京師範学校図画教員として図画教育の普及に尽力する。
普通教育の科目に毛筆画と鉛筆画のどちらを採用するかをめぐり、鉛筆画を主張、毛筆画派のフェノロサらに敗れ、岡倉天心らの洋画排斥論に反対し東京高等師範学校を解任された。
明治22年(1889年)明治美術会の創設に参画するも、26年黒田清輝が帰国し白馬会を結成すると、小山ら明治美術会の画家は「旧派」と呼ばれ高等美術教育の傍流に追いやられ、東京高等師範学校などの初等中等教育の場で活動する。
小山の大きな功績として、明治20年(1887年)に画塾「不同舎」を主宰し、後進の育成に努めたことが挙げられる。
工部美術学校の洋画部が廃止され洋画を学ぶ機会を失いかけていた画学生に歓迎され、塾生も最盛期には300人を数えた。
彼の生き方は教育家、画家としての名声を高め、維新元勲の山縣有朋などに一目置かれる程の人物であり、小山が河井の印象を山縣から聞き出す時に大いに役立った。
◆ジェームズ・ファブル・ブラント (1842~1923)
河井の友人を自称するその一。
スイス生まれのスイス人で電気工学を学び、国民皆兵のスイス軍では射撃隊下士官の経歴を持つ。
1863年、日本との修好条約を締結に来たスイス使節団の一員として来日。
締結後、使節団は帰国したが、ブラントは日本に残り、横浜で仲間と共に時計・宝石・武器を扱うファブル・ブラント商会を設立。
長岡牧野家、薩摩島津家、伊予宇和島伊達家等に武器を販売してしていた。
牧野家がガトリング砲を購入したり、薩摩島津家の情報も断片的(横浜での武器取引など)ではあるが、この人から得ていた。
戊辰戦争後も日本人と結婚して横浜や大阪で商売を行い、四男三女の子供を授かり、母国に帰ることなく日本に住み続けた。
◆シュネル兄弟
ハインリッヒ・シュネル (1841~?)
エドゥアルト・シュネル (1844~?)
河井の友人を自称するその二。
兄弟の戸籍が記載された一番新しい資料によると、ヘンリーとエドワードは英語表記でオランダ語表記によると兄はヨハン・ハインリッヒ・シュネル、弟はフリードリック・ヘンドリック・エドゥアルト・シュネルと明記されている。
従来はバイエルン王国生まれとされたが、現在の資料によると両親は後年ドイツ帝国の版図になるヘッセン選帝侯国の出身で父親の仕事の都合でオランダの植民地・ジャワに移住し、兄弟はそこで産まれた。
弟は1860年頃にオランダ国籍を名乗り日本に来日、横浜で牛乳・牛肉・日用雑貨を扱う商会を設立。
若いながら横浜居留地の代表者に選ばれ、住民のトラブルを処理するなど、苦情処理役として働いていた。
1864年からは駐日スイス総領事館の書記官も務める様になるが、スイスの駐日外交代表であるルドルフ・リンダウやカスパー・ブレンヴァルトがドイツ語圏内の人物で、ドイツ語、オランダ語、日本語に通じたエドゥアルトを重用した為である。
兄は1863年8月、日本とプロイセン王国の修好通商条約の批准書交換の為に来日したプロイセン使節団の中でオランダ語とドイツ語を流暢に話す翻訳官や書記官を務め、そのまま日本で勤務した。
慶応3年(1867)11月、出羽米沢上杉家の重臣・甘粕継成は大阪に向かう蒸気船の中で河井と兄弟が意気投合して談笑していたと日記に記している。
その後、甘粕もこの兄弟と仲良くなり、陸奥会津松平家の家臣や殿様も兄弟を河井の紹介を通じて仲良くなり、平松武兵衛という名前を与えている。
戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の武器購入を担当し、金や武器は
イギリス嫌いの外国人商人を通じて集めて新潟港に送り込んだ。
明治元年(1868)10月20日、太政官外務省寺島宗則を原告とし、エドゥアルトを被告とする裁判が、オランダ領事ファン・ボルスブルックを首席判事として横浜で開催された。
同盟への武器譲渡は安政の五か国条約で定められた正規の政府以外への販売禁止にあたるとして賠償金を求められた。
被告のエドゥアルトは、
『ベルギー、イタリア、デンマークと交わした通商条約には正規の政府以外への武器の譲渡が許されており、オランダ人は最恵国待遇により他の五か国条約の国民にも適用される。
そもそも、戊辰戦争中、欧米諸国は内戦に局外中立の立場を取っていて、太政官と同盟は交戦団体という政府の一つ手前の扱いになる。
当時の戦争に関する国際法(戦時国際法)においては、国家には、一定の権利義務が定められている。
具体的には
- 敵戦力の破壊および殺害。
- 中立国の船舶に対して国防上の要請から、もしくは戦時禁制品の取り締まり等のための海上封鎖、臨検や拿捕。
- 捕虜の抑留。
- 占領地で軍政を敷いて、敵国民やその財産についての一定の強制措置。
などである。
当時は
「国家は、他国家から承認を受けることにより、初めて国際法上の主体として存在することになる」
という考え方である。
この場合は、他のどこの国からも承認を受けていない新国家は国家ではないとされるが、現実には
「一つでも承認している国があれば国際的に国家とみなされる」
とされ、それまで国家を統治してきた政府が、革命・クーデター・内戦などによって崩壊した後、異なる勢力が当該国家を代表する政府を名乗った場合や、同じ地域に先行する国家があった場合に、新国家・新地方政府を名乗る政府が樹立される場合もある。
こうした場合に、その政府を正式な政府と認める場合には政府承認が行われる。
大規模な反乱や内乱が持続した場合や、別の都合により政府としての承認を行わない場合には、政府と承認しない勢力に対して、本来の正統な政府と同等の交戦当事者として資格が与えられる場合がある。
戦闘中における戦争法規の遵守や和平交渉を行うためである。
交戦団体承認を行った国家もその内戦に関して国家間の戦争と同等の義務を負うことになる。
長崎で外国人商人から武器を購入するのが許されるなら、新潟で外国人商人から武器を購入するのも許される。
私を裁くなら、先ず長崎の外国人商人を裁くのが先だろう。順番がおかしい』
と主張。
この時エドゥアルトは局外中立、交戦団体、オランダ国籍で最恵国待遇という通商条約と国際法を駆使して理論武装し、同月23日、被告人として太政官の訴えを退けた。
太政官は欧米諸国の公使が勢揃いする中で今回の裁判を起こしたのだか、末端とは言え、外交官の端くれであるエドゥアルトに国際法を駆使されて散々に論破され、国際条約を勉強しろ!と突きつけられ、公使達から失笑を買ったのである。
ハインリッヒは生き残りの会津武士やその家族を連れてアメリカ・カルフォルニアに渡り、そこを開拓して新天地を得ようとしたが挫折。
長岡藩にも手紙を送り、商社を設立し、海外貿易を行い、外貨を獲得して、その利益で領地を復興させると宜しいと提案しているが、「米百表」モードの長岡藩に無視されている。
二人ともその後の行方は分からない。
兄弟が河井に惚れ込んだ理由は、合理主義に毒されたヨーロッパ人が失った何かを持っているから、という証言がある。
戊辰戦争中、河井の為に順番待ちの客を無視して武器(元込め銃)や金を融通し、
牧野家の武器購入担当者も日本の商人に、あの様な人は居ないと驚かせたが、河井は、
「あいつらの本質は怜悧、義理や人情などないよ。
客の心を惹く為にわざとしているに過ぎない。」
と言い切った。
追記・修正は牧野家家臣団をフランスに亡命させてから、お願いします。
- この人もチートだが あの チート太政官 岩倉閣下には勝てんかったか
てゆーか 同盟国が明らかに足引っ張ってるんです -- 名無しさん (2014-01-23 12:24:13)
- こう言っちゃあ何だけど、正直戊辰戦争最大の激戦地区は長岡か庄内であって会津ではないと思うんだ...。 -- 名無しさん (2014-05-25 19:14:08)
- ↑会津は包囲されたら大砲撃って降参するまで待つパターンが成立したからな……どっぢも戦後は地獄だったが -- 名無しさん (2014-05-25 20:13:21)
- 河井継之助が町奉行に就任していたという話しは初耳です。何かの間違いでは??? -- トウヘンボク (2014-06-07 02:23:09)
- 慶応二年(1866)11月19日に「御番頭格 、町奉行兼郡奉行」と河井継之助伝にはありますが。 -- 名無しさん (2014-06-07 13:23:53)
- ↑×4 兵力的には長岡だと思う。当時の俗謡に「花は白河、難儀は越後、物の哀れは秋田口」と言われていた。しかし、薩長同盟の裏書きに始まり、倒幕の密勅、王政復古の大号令、小御所会議での議題は辞官納地問題と守護職・所司代の免職問題。大久保ら薩摩島津家の強硬派は会津・桑名両松平家を孤立させ、両者を見せしめに叩くことで王政復古を劇的に演出する提案書を慶応四年(1868)1月2日に岩倉具視に提出している。孝明天皇が王政復古にも大政奉還にも否定的で徳川体制の存続に熱心で、八月十八日の政変の後、島津家に徳川体制の存続を依頼したが、島津家が断ったので、孝明天皇が会津松平家に頼んで、会津側が一会桑権力という形でこれを引き受けた経緯がある。要するに、孝明天皇を批判出来ない倒幕派が孝明天皇の代わりに会津松平家をフルボッコにした、というところかな。 -- 名無しさん (2014-06-12 21:16:19)
- ↑1、4遅レスだがありがとう。...たまーに本やTVとかで「幕末最大の戦場会津」とか呼称されてるの見て、ずっとモヤモヤして言いたかったんだ...「会津が大変だったのは事実だが、長岡や庄内や河井を無視するなよ...」と。話を河井に戻すけど、幕末史で一番好きだな河井。 -- 名無しさん (2014-08-01 22:52:21)
- ↑1 会津松平家や桑名松平家(や新選組)は徳川幕府というより孝明天皇の正義のために御家の家財を傾けて戦ったからな。長岡牧野家がチャーターしたスネルの蒸気船に乗って箱館経由で新潟に戻った際、会津松平家や桑名松平家の家臣が乗船していたけど、徳川宗家の大久保一翁が河井に依頼して江戸から引き離したと桑名松平家の岡本武雄が記しているからな。古屋作左衛門の歩兵派遣は勝海舟の指示だと越前松平家の本多修理が日記に書いていて、これには新選組を甲府に派遣したのは大久保とある。ある時期までは河井と徳川宗家は繋がっていたのではないかと思うんだよね。反王政復古の共同戦線で。ただ、現地の状況の変化が両者の明暗を分けたと思うけど。 -- 名無しさん (2014-08-02 10:26:49)
- ガトリング砲が有名だが実は当時のガトリング砲は理論先行の欠陥兵器、台車に固定して使うので横に撃てないので正面の敵数人を倒しておしまい、正直ぼったくられて欠陥品掴まされただけ。 -- 名無しさん (2016-09-07 11:13:13)
- ↑それは後世の単銃身機関銃と比較した場合であって、当時の兵器水準からはまた評価が異なる。当時の装甲艦はほとんどガトリング砲を標準装備してたほどだし、適切に運用されればその脅威はハンパではない。まあ長岡藩にそんな近代戦の運用思想があったわけはないが、それは維新で使われた舶来兵器の大半に共通すること(ぼったくり価格なのもね)。 -- 名無しさん (2016-10-09 13:52:38)
- まだ大御所が小説にしてるだけまだマシである。庄内なんて幕末好きでも酒井玄蕃辺りを知ってる人がいるかどうか -- 名無しさん (2016-12-16 00:33:39)
- ↑藤沢周平氏がコラムで取り扱っていますよ。藤沢氏の小説のモデルは庄内酒井家だし。 -- 名無しさん (2017-03-12 05:13:19)
- ↑4 素人考えだけど土台ごと持ち上げて向きを変えれば良いんでね? -- 名無しさん (2018-02-06 12:35:04)
- 何気にスネル兄弟の扱いひでえw -- 名無しさん (2023-01-13 21:06:11)
- 河合と共に戦死した山本帯刀の余談。河井家の家名再興と同時期に山本家も再興されるが、その時に養子に入ったのが後の山本五十六。 -- 名無しさん (2024-09-04 17:33:58)
最終更新:2025年03月23日 02:36