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更新日:2025/04/25 Fri 22:16:08
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酒井玄蕃(1842〜1876年)
幼名は虎之進、通称は家督相続前は吉弥、相続後は吉之丞、玄蕃、諱は了恒。(了恒の読み方には、アサツネ、サトツネ、ノリツネ、ヨシツネ、レウコウなど諸説あり)。
字は伯通。
号は脩古堂、淳古堂。
概説
出羽庄内酒井家家臣。
戊辰戦争では敵方の太政官から「鬼玄蕃」の二つ名で怖れられ、常勝不敗を謳う庄内軍の象徴的存在だった。
戊辰戦争後は役人を務めた後、民間軍事アナリストの先駆けみたいな事をした。
誕生
天保13年(1842)11月12日、出羽国鶴ケ岡城下に出羽庄内酒井家(石高14万石)家臣で父・酒井了明、母・市の間に長男として生まれた。
出羽庄内酒井家は
徳川四天王の筆頭を務める譜代大名の名門。
その中、酒井家の身分は当主・酒井家の親族で代々吉之丞、玄蕃を名乗り家禄は1300石。
もう一つの
酒井奥之助家(出羽庄内酒井家初代・忠勝の9男が初代当主。家禄は1100石。)と共に
両敬家と称され、家臣というより歴代当主の相談役として重んぜられ、御家の危機以外は役職に就かなかった上級武士の家柄である。
和名類聚抄という平安時代中期に作られた辞書によると、田川郡大泉郷から大泉が後白河法皇の荘園に記載され、大泉荘となる。
戦国時代に大泉荘の内側という意味から荘内と呼ばれる様になり、それが変化して庄内となった。
庄内酒井家には家中と給人の区別があり、家中が約500人位ほどのキャリア組(上級武士)で給人は足軽など約2000人ほどのノンキャリア組(下級武士)だった。
このほか、高禄の武士に仕える陪臣と呼ばれる家来や中間などを含めると2800人程になる。
幕府開闢時に徳川宗家が定めた軍役は、1万石につき約200人であるから、ほぼ規定に沿う。
戦前を代表するジャーナリスト・徳富蘇峰の著書である近世日本国民史に、庄内酒井家の気風を紹介している。
「庄内の若者は質実剛健が服を着て歩いている。雨や雪の日でも傘はささない。草鞋を履き、蓑笠の格好で出ていく。下駄を履くなど言語道断、自分で拵えた草鞋か草履で外出する。
衣服も腕を覆い、膝を隠すに過ぎない。晴れ着など無く、どこに行くもこれしか着ない。寒くなったからと言って、綿入れなど論外、僅かに単衣を羽織る程度である」
嘉永5年(1852)、10歳になり酒井家の学問所・致道館に入学する。
徳川幕府は朱子学を学ぶ様に奨励していたが、この大名家では荻生徂徠の徂徠学を学んでいた。
徂徠学は古文辞学と言って、古い字句や文章を直接読んで後世の注釈に囚われる事無く、孔子の教えを直接研究しようとする学問。
庄内酒井家は過去の行財政改革を領内最大の地主兼大商人の本間家の財政支援と徂徠学の教えを両輪にして成功した体験があり、その教えを家臣の教育に役立てようとした。
本間家は越後出身。
戦国時代に酒田に住み、元禄2年(1689)に屋号『新潟屋』を名乗り、古着や古道具、染物、金物、小間物を扱う商店として成立、繁盛した。
本間光丘の代に今までの事業を改め、金貸しと田畑の集積を中心に1代50年で全国トップクラスの地主に成長、献金を重ね、借金に苦しむ家臣団・庄内酒井家の債務整理に成功した事で家臣に取り立てられ、本間家が庄内酒井家の負債を引き取った。
これ以降、酒井家の本間家に対する信頼は絶大なモノになる。
それまでが、家中が野蛮と横暴が服を着て歩く様な存在で、平民に無礼討ちをして、平民側も報復で暴力沙汰を繰り返したり、博打に溺れて生活が破綻したり、徒党を組み、夜中に他人の家屋を破壊したり、糞尿を撒き散らすなどの迷惑行為が絶えなかったので、再教育が必要不可欠だった。
致道館は学生を学力に応じて5つの等級に分けて、それぞれ専用の教室で学習させた。
- 句読生(資格は10〜14歳。今の小学生課程。午前8時に始業し、午後2時で終了。午後4時まで自習を認められた。儒学を暗誦させた。)
- 終日詰(資格は15歳以上。今の中学生課程。午前8時に始業し、午後5時まで自学自習した。)
- 外舎(今の高等学校課程。終日詰の成績優秀者が該当し、2人で1室与えられた。午前9時に始業し、午後4時まで自学自習した。以後は武芸やホコリと呼ぶ、ただ殴る蹴るの暴れ回る運動があった。外舎は13室しかなく、少数精鋭だった。)
- 試舎生(今の大学教養課程。一人一室を与えて1年を1期とし、優秀な者を進級させた。)
- 舎生(今の大学学部課程。一人一室を与えて致道館内で生活させる。修学年限は3年を一考と呼び、二考、三考に及ぶ者もいた。卒業後は高い役職に就任出来た。)
- 年1〜4回の試験に合格すれば、年齢や修学年数に関係なく、進級出来る制度であった。
句読生には専門の教師が付くが、終日詰以上は自学自習と会業と呼ばれる討論会が中心だった。
会業は助教を責任者にして学生達に課題と期日を与えて、研修の成果を個人ごとに発表し、互いに討論して疑問を明らかにして理解を深めていく学習方法を採った。
陸奥会津松平家の日新館、長州毛利家の明倫館同様、致道館も家中専用の教育機関である。
給人は鶴岡や酒田で家臣が営む私塾に通うか、酒田の町人衆みたく金のある者は出羽米沢上杉家(15万石)の学問所・興譲館が他所の平民を受け入れているのを聞き、そこに入学するか、清河八郎みたく、地元の私塾で勉強した後、江戸に出て東堂一堂や安積艮斎に弟子入りして儒学を学ぶなどがあった。
武芸も似たような感じで、家中は致道館や剣術師範から学び、給人は剣術師範から学ぶか金のある者は領外に出て清河八郎みたく江戸で北辰一刀流の免許皆伝を修めて独立、道場を持つ感じ。
武芸は重正流馬術、新九流兵法を免許皆伝。
軍学は軍学師範・秋保政右衛門より、寄合組の頭となるべき候補者10人の一人に選ばれ、調練稽古の節、熟練と認められた。
寛政4年(1793)ロシア帝国の使節・ラックスマンが伊勢の漂流民
幸太夫を護送して根室に来航して通商を求めると、幕府は海防の必要性を痛感し、沿岸の諸大名に海防の強化を命じた。
庄内酒井家は直ちに
吹浦・
今泉・
鼠ヶ関の3ヶ所に外国船見張番所を設け、翌年(1794)4月、鶴ヶ岡城の大手門前で外国船打払いの訓練を実施し、行軍を行い、危機意識を高めた。
御用商人の本間家が大坂・堺に大砲10門を発注し、完成品を庄内酒井家に献上した。
文化4年(1807)6月3日、ロシア船が樺太、択捉島に侵略する為の対抗策として、家臣325人を海路・福山(今の北海道松前市)に派遣した。
結局、ロシアの侵略は無かったので、8月末に帰国した。
文化5年(1805)7月、本間家が荻野流の小銃を献上したので、試射会を実施、庄内酒井家で荻野流砲術が盛んになる。
天保義民事件の件を経て、嘉永元年(1848)4月17日、
「
飛島に外国船1隻が来寇して砲撃を加えた。越後沖に外国船3〜4隻が航行して飛島に来寇するかも知れない」
という情報を受けたので、飛島に家臣80人を派遣し、海岸線の警戒を厳重にした。
嘉永6年(1853)6月と安政元年(1854)正月と2度のアメリカ合衆国・東インド艦隊司令長官ペリー来航により徳川幕府は日米和親条約を締結、下田・箱館の2港を開いた。
同年6月、庄内酒井家は品川沖に完成した5つの台場の中から5番台場の守備を命ぜられ、品川海岸に陣屋を建てて船で台場に通勤し警備させた。
ペリー艦隊を見て、従来の武士だけの防衛体制下では不可能と自覚し、郷村の「体格の良い者」を集めて担当する事にし、秋保政右衛門が計画を立て、総兵力10804人を海岸線の要所に配置する計画とした。
同年9月には
糀山に射撃場と訓練場を開設し、従来の長沼流軍制を改め、洋式訓練を実施。
安政2年(1855)には幕命により家臣16人を幕府内で洋式兵学の権威である
江川英龍の塾に入塾させた。
この後も引き続き庄内酒井家は家臣を江川塾に送り込み、指揮官の育成に励む。
この頃で酒田港付近に4ヶ所、西浜海岸に1ヶ所の砲台が築かれていた。
安政6年(1859)9月、品川台場の警備を免除された代わりに蝦夷地の警備と開拓を命ぜられた。
庄内酒井家としては蝦夷地警備は金や米、人の持ち出しが多いのに実りが少なく、負担の大きい罰ゲームと受け止めており、家臣団の非主流派を片っ端から送り込んだ、ある種の流刑地。
庄内本国、蝦夷地、江戸の3ヶ所で江川塾で学んで帰ってきた人物たちが家臣団、農民、町人達に洋式訓練を施した。
慶応3年(1867)4月頃にはイギリス式に軍制を改め、訓練を行う。
青年時代
安政4年(1857)15歳にて元服し、吉弥と名乗る。
妻は初め、同家家臣・石原郷兵衛の娘・千代岡と入籍したが、しばらくすると離縁している。
理由は不明であるが、しきたりなど家の雰囲気に馴染めなかったのかも知れない。
万延元年(1860)2月22日、18歳の時、後室として同家家臣・中村七兵衛(諱は嘉之)の三女・玉浦(13歳、5歳年下)と入籍した。
文久2年(1862)9月29日、20歳で致道館試舎生に進み、翌年(1863)12月16日、庄内酒井家が江戸市中取締役を命ぜられると、部屋住みの身ながら江戸詰となり、番頭に任ぜられ20人扶持を給わる。
元治元年(1864)7月19日、長州毛利家は京都を追放された長州派公卿、殿様の京都政界復帰を訴える武力行使に出た。禁門の変である。
孝明天皇の御所に砲弾をぶち込んだ長州毛利家に対して、幕命を受けた庄内酒井家は同年7月26日、江戸麻布桧木坂の下屋敷を接収、玄蕃は二ノ手隊長として務めた。
同年8月14日、大砲長に任ぜられ、同年10月17日、部下を率いて江戸市中に潜入した水戸天狗党の残党2名を討ち取る活躍を示したが、自らも左膝に二針縫う負傷を負い、江戸詰を免ぜられ、業務中でも勉学に励んていた事を褒められて帰郷した。
帰郷後、致道館に復学し舎生に進級、慶応2年(1866)1月15日に近習頭見習、2月に近習頭となり、30人扶持を給わる。
その間、家臣団で江川塾の門下生から西洋兵学を学び、独学で孫子、呉氏、尉繚子や和流軍学を学び、それぞれの長所短所を取捨選択して、自分なりの用兵学を構築していった。
先の話になるが、戊辰戦争後も学びを続け、イギリス式、フランス式の軍制に熟練し、軍隊用語はオランダ、イギリス、フランス式を操る事が出来た。
庄内酒井家は幕府から費用手当てとして、元治元年(1864)8月18日、2万7千石の土地を出羽国内に付与され17万石格となり、徳川権力を支える有力大名と位置づけられた。
御家騒動と家督相続
慶応3年(1867)8月30日、母・市が亡くなる。享年43歳。
同年9月11日、祖父・酒井右京が政治事件の首謀者として切腹、父親は血縁者という事で隠居・謹慎、家禄1500石から800石が減封され、家禄700石で玄蕃が家督を相続し、同年11月29日に組頭に就任する。
歴代庄内酒井家当主と両敬家の仲が良ければ問題無いのだが、そうでは無い時、御家騒動の火種になった。
天保義民事件騒動時の当主・
忠器は、領内の名君、領外ではトラブルメーカー的な気質があった。
文化6年(1809)6月27日、江戸詰元締役・
坂尾儀太夫が陸奥仙台伊達家(62万石)領内の関駅で宿の主人の息子と口論になって彼を斬り殺し、事件を伊達家と酒井家に届け出て帰国した。
酒井家は無礼討ちっしょ、と素通りしたが、伊達家は勝手に領民殺してトンズラすんじゃねーよ、キチンと出頭して裁き受けんかい!とブチ切れて一触即発の事態になる。
最終的に幕府が仲裁に入り、酒井家側へ坂尾に家禄召し上げ、無期限の蟄居と宿屋に慰謝料を支払う様に裁定、酒井家は20両を支払ったが宿屋側は遺憾の意を示し、慰謝料を拒絶した。
翌年の参勤交代で関駅を通過すると聞いた忠器は事件を思い出して、参勤交代の経路を変更した。本来は幕府の許可が必要なのだが、無許可で経路を変更したのがバレて、幕府の怒りを買い、重臣二人が御役御免で責任を取った。
その後、内政面では名君として天保年間の凶作を乗り切り、幕府の印象を良くしていたが
天保義民事件とその報復として印旛沼の土木工事が来た。
天保13年(1842)4月、忠器が病気を理由に隠居し、これを間近で見ていた息子で当主に就任した
忠発は、父親みたく幕府と喧嘩しないようにと融和路線へ切り替えた。
忠発が当主に就任すると、両敬家や
天保義民事件で奔走して無事難局を切り抜けたと自負する江戸留守居役・
大山庄太夫(=以後は非主流派)らは、幕府との融和を目指す忠発を凡庸で暗愚な当主と軽蔑し、隙あらば廃立を計画、忠発は2度ほど未然に廃立計画を潰したが、彼らを潰そうとすれば幕府に嗅ぎ付かれると思うと、傍観するしか出来なかった。
その後も非主流派は隙あらば廃立を計画、幕府に内政干渉紛いの嘆願書まで提出する行動を行い、紆余曲折の結果、文久元年(1861)8月、弟の
忠寛に家督を譲り、忠発は隠居した。
しかし、忠寛は翌年(1862)9月17日病死、家督を忠発の子
忠篤が相続した。
それまでの間に、家臣団は世代交代が進み、
松平権十郎(諱は
親懐)や
菅善太右衛門(諱は
実秀)ら若い世代が台頭、両敬家の当主を蝦夷地の責任者に左遷したり、要職から外したりした。
非主流派は元治元年(1864)春にも幕府に内政干渉紛いの嘆願書を提出していたが、幕府は
江戸市中取締役の実務を行う権十郎を高く評価していて、嘆願書の内容を知った権十郎は改革派を獅子身中の虫と憎んだが、潰す機会をジッと待つ事にした。
慶応2年(1866)6月から開戦した第二次長州征伐が失敗に終わり、庄内酒井家領内でも凶作や物価高で政策批判が起こり、減税を求める声が高まったが、権十郎らはこれを好機と捉え、実権を握る隠居・忠発、当主・忠篤の裁可を貰い、非主流派を一網打尽にする事に決めた。
忠発からすれば20年以上に渡り自分を苦しめてきた非主流派との対立に決着を付けた。
忠発「
こんな奴ら消えちゃえ!」
大山庄太夫は既に自殺していたが、墓から遺体を掘り起こして斬首、両敬家の元当主で首謀者・酒井右京は切腹、酒井奥之助は既に死去していたが、息子・
権七郎は家禄200石削減、隠居禁足。
両敬家に次ぐ権勢を誇り、財力は本間家に次ぐと謳われた
松平舎人(諱は
敬親)が切腹、家禄1800石を削減、長男・
源四郎に家禄200石を相続。
慶応3年(1867)9月11日までに非主流派を断罪し、良くも悪くも庄内酒井家は一つになった。
後世、干支に因んで丁卯の大獄と呼ばれた。
玄蕃の残されたモノを調べると、戊辰戦争後が圧倒的に多く、戊辰戦争前も漢詩や和歌はあるが数は少なく、政治的な立ち位置を明らかにはしなかった。
父・了明と元当主・忠発の関係は微妙なモノで中老に就任するが蝦夷地副奉行として左遷人事を受けたり、任期が終わり、国許に戻ると家老に昇進したが、兄・右京が御家騒動の首謀者と分かると家老を辞職した。
慶応3年(1867)12月25日の江戸薩摩屋敷焼き討ちに関する件は
新徴組に任せたいと思う。
戊辰戦争へ
慶応4年(1868)1月3日から行われた鳥羽伏見の戦いに庄内酒井家は菅らを派遣。
日本国大君・徳川宗家当主の徳川慶喜が夜逃げ、全軍総崩れからの撤退となり、雰囲気は最悪だった。
徳川海軍が中心となり、残りの兵や金を集めて江戸に戻った。
菅は1月16日まで大坂に留まり、同年2月18日江戸の庄内酒井家上屋敷に帰着。
松平権十郎らと対談、大坂の情勢を話した後、権十郎から徳川慶喜にヤル気がない、仲が良かった勘定奉行の
小栗忠順に話を聞くと慶喜が戦わないなら盟主がいないから戦わないと返答され、江戸を引き払い、国許に戻り、対策を考えると返答。
権十郎は菅に意見を求めると、賞味期限が切れた徳川幕府の看板を掲げて戦うのは論外、慶喜の謝罪状を携えて徳川宗家の存続をお願いするのは上策なんだけど、権十郎さん、やりたくないんでしょ?それは、と発言。
菅が次善の策として関東に割拠して譜代大名や徳川宗家の有志を集めて頑強に戦う事はワンチャン勝てるかもだけど、薩摩・長州、強いては天皇と戦うに辺り、
承久の乱みたく束ねるだけの盟主がいないと指摘し、権十郎さんが一番好きな庄内に割拠して戦うのは下策ですよ、と話し、帰ると決まったなら庄内全土を焦土にして、女子供が死に絶えても従わないという断固たる決意を固めて戦いましょうと付け加えた。
慶應4年(1868)1月に庄内酒井家の京都留守居役・中村右内が京都の薩摩屋敷を訪れ、島津家の京都留守居役に焼き討ちの話を伝えると、島津家としては酒井家の焼き討ちは正当な権利の行使であり遺恨は持たないと断言、酒井家に対して東征軍の中を通り抜け出来る通行手形を手渡した。
同年1月14日、幕末期に京都守護職を務め、孝明天皇の寵愛を独占し、薩摩・長州から妬まれ、薩長同盟の裏書きで打倒の対象、討幕の密勅で殺戮の対象にされた陸奥会津松平家から原政之進、相馬孫市の二人が当主・松平容保の親書を携え鶴ヶ岡城に来訪、庄内酒井家当主・忠篤は江戸にいたので隠居の忠発が謁見した。
原は京都詰公用人として6年間京都に在住し、薩摩・長州が繰り出す権謀術数の生き証人であり、相馬は鳥羽伏見の戦いで兵を率いて最前線で戦った生き証人。
その二人から、孝明天皇の正義を奉じる我々が、亡き父親の言うことを聞かない親不孝者の明治天皇を諌める為、君側の奸で親不孝をそそのかす薩摩・長州を倒しましょう、と申し出を受けた。
この後、同年2月9日、12日と会津側の使節は来訪するが、庄内側は返答を避けた。
同年2月2日、庄内酒井家の江戸屋敷に太政官から徳川慶喜と松平容保の追討令がもたらされ、酒井家的に慶喜への寛大な処置を太政官に申し出る事にして使者・石井与惣、土屋新三郎を派遣したが、東征大総督府・有栖川宮熾仁親王に三河吉田駅で会い書状を提出したが、参謀・林通顕によって却下された。
林の話は、改めて奥羽に来訪する奥羽鎮撫総督府に書状を提出せよという、体の良いたらい回しであった。
庄内酒井家は薩摩からの申し出もあり、太政官を認めさえすれば、追討はしないという感じだった。
当主・忠篤は同年2月8日江戸城にて徳川慶喜と謁見、慶喜から出羽村山地方7万4千石の徳川宗家領地を江戸治安維持功績の経費として庄内酒井家に与えた。
慶喜は政権こそ大政奉還で返上したが、領地は返上していなかったから、土地は自分のモノであるという認識である。
それだと天皇家が政権運営出来ないから困ると王政復古の大号令、小御所会議で辞官納地を求めて紛糾し、その最中に発生したのが鳥羽伏見の戦いであった。
勝った太政官は同年1月10日、京都三条・荒神口の2つの橋に「
旧幕府の土地はオレの土地」と高札を立てたが、電報、電話、FAX、インターネットのない時代に、一片の布告がそう急に全国に徹底する事はない。
更に言えば、諸外国は明治天皇と徳川慶喜を対等の存在と見做して「交戦団体」として内戦に局外中立を布告していた。
忠篤はその2日後、江戸を出発、途中で仙台に立ち寄り、仙台伊達家当主・伊達慶邦に慶喜へ寛大な処遇が下りる様に周旋を依頼した後、同年3月9日、庄内に帰国した。
帰国後の同年3月13日、「軍事掛」を設けて以下の5人を任命した。今なら最高戦略責任者という肩書である。
名前(年齢)∶役職の順
- 松平権十郎(31)∶家老
- 菅実秀(39)∶当主・忠篤の側用人
- 山口三郎兵衛(諱は将順)(51)∶元当主・忠発の側用人
- 和田助弥(諱は光観)(32)∶郡代
- 山岸嘉右衛門(諱は貞文)(41)∶郡代
権十郎が総責任者、山口が酒井家へのつなぎ役、菅、和田、山岸は資金繰り、指揮官、兵員、人足などの人的資源のやり繰り、外国との折衝、武器購入等を手分けして担当した。
慶應4年(1868)2月26日、太政官は左大臣•
九条道孝を奥羽鎮撫総督に任命、副総督に
沢為量、参謀は
醍醐忠敬、同年2月30日に下参謀として薩摩から
大山格之助(諱は
綱良)、3月1日に
世良修蔵が任命され、翌日京都を出発。
奥羽鎮撫総督府軍が海路、陸奥仙台伊達家領・東名浜に上陸したのは同年3月23日。
奥羽の諸大名は幕末期、西日本の大名家みたいに京都に人を派遣したりして情報は集めていた。
まぁ、得た情報も距離が離れている分、時間とともに変化しているので、その情報を鵜呑みにして良いのか判断に迷う処もあり、情報の裏を取る頃には新しい情報が来るというのも日常茶飯事だった。
京都で天皇、関白、摂政、武家伝奏、議奏、或いは他の大名家と間接的、直接的に接する様になった者と京都から遠く離れ、冷静に第三者的な視点で政局の動向を眺めていた者との温度差と状況判断の差が、ここではモロに噴き出した。
世良や大山が眼尻を挙げて金切り声で会津討伐を叫べば叫ぶ程、奥羽の諸大名や家臣、民衆の心は離れていった。
そこに同年4月2日、寒河江・柴橋事件というのが発生した。
上述の通達で太政官は出羽国内36万石の徳川直轄地を接収する事を決め、3月下旬に仙台伊達家と出羽天童織田家(2万石)に実行を命じた。
太政官側は金や米が無いまま遠征してきた為、村山郡の寒河江、柴橋から接収して少しでも足しにしようとしたのだが、金も米も無い。金は最低限しか保管してないし、収獲した米は既にその年の秋、村ごとに酒田港から江戸に送るのが村山郡の慣習である。しかし、そんなご当地ルールなど知らん、と太政官側が米は庄内酒井家が送ったに違いない!と決めつける。
庄内酒井家は3月中旬、郡代・高橋省助が現地に赴き、徳川宗家代官・山田左金次が江戸に報告の為、出張したので代行を務める河野俊八から移管受領の手続きを行った。
移管を喜ばないのが地元住民である。
徳川直轄地は税金が安いし、規則も緩いが、庄内酒井家に移管されると税金が高くなり、規則も厳しくなるので反発、住民代表が仙台に赴き、奥羽鎮撫総督府に
「ぐへへ、旦那、庄内の奴ら、天子様の土地を土足で踏みにじり強奪してます!」
と陳情。
太政官側はこれを奇貨として、庄内酒井家をついでに朝敵として討伐しようと思い付いた。
太政官側は同年4月6日に出羽久保田佐竹家(20万5千石)に対して、「速やかに庄内を討伐せよ!」と命じ、陸奥弘前津軽家(10万石)にその後詰めを命じた。
平田派国学の生みの親・
平田篤胤の故郷で晩年この地で国学を教えた事もあり尊王攘夷思想が強い、太政官に好意的な佐竹家であるが、
「それでも腑に落ちない処があります。
一、庄内酒井家を討伐する理由はなにか?
二、降伏した場合、どの様に処置するのか?
三、先に会津松平家を討伐しろ、次は庄内酒井家を討伐しろと命令が二重になっているので、どの様な手順で行うのかキチンとして欲しい」
と質問してきた。
それに対する回答が
一、徳川慶喜を擁護し、徳川幕府を再興しようと企んで、昨年の冬に江戸で諸大名の屋敷を焼き討ちしたのが許せない!
二、降伏して開城したら赦す。
三、庄内酒井家の討伐のみ専念せよ。
というものだった。
佐竹家的に、徳川慶喜の擁護がダメなら、越前福井松平家や尾張徳川家、
勝海舟も朝敵になる筈だが、それは無いし、徳川宗家も会津松平家も庄内酒井家も徳川幕府を再興する気は無いと公言しているが、何処から出た話だ、と疑問符。
諸大名の屋敷って要は江戸の薩摩屋敷焼き討ちが許せないってだけでしょう?。
あの焼き討ちは上野前橋松平家(18万石)、出羽上山松平家(3万石)、越前鯖江間部家(4万石)などの大名家も参加しているが、朝敵に含まれてない。
返答に無いけど、徳川直轄地から米や金を接収出来ないひがみが根底にあるよな、と確信した。
同年4月9日、再び会津側から南摩綱紀が来て、20日程滞在、この時「会庄同盟」が締結された。
後に同月26日、南摩に伴われて軍事掛の菅・本多安之助が会津若松に赴いた。この後、両家は互いに外交掛を常駐させ、連絡を密にする。
この同盟の後、会津、庄内両者からそれぞれが徳川幕府から委託管理された蝦夷地の土地を担保に援助を受けようとプロイセン王国日本公使マックス・フォン・ブラントに申し出があった。
ブラントはプロイセン本国に手紙を送り、受け取った首相のビスマルクは
「面積小さいし、リターン少ないし、維持費は掛かるし、デメリットしかないよね。
フランスと全集中して殴り合いするのに、極東の揉め事に俺達を巻き込むな!」
と全力で断られた。
プロイセン王国は陸軍こそ、欧州トップクラスの実力を持つが海軍はライン川の河川警備隊程度の規模しかない、肩身の狭い立場にあり、後にドイツ帝国・ヴィルヘルム2世の代になり海軍に本腰を入れる国である。
この話を聞いた海軍はこれを機会に海軍も拡張しようとビスマルクに頼み込むが断られた。
追伸でブラントが長崎にあるイギリス系のグラバー商会が数年前から薩摩と業務提携しているが、薩摩の資金繰りが怪しく、担保にしている蒸気船を売却したり、奄美大島や琉球諸島の産物開発権を担保に金を貸し付けているが、イギリスが同商会の利権を手に入れたと本国に報告したのである。
報告を受けたプロイセン海軍が蝦夷地は要らんが、五島列島か台湾は欲しい、と色気を見せ、ビスマルクは相手がまだいるなら交渉しなさい、と手紙を送ったが、その頃には•••••
まぁ、仮に契約が出来ても、日本の土地を維持開発出来なかったのはガルトネル事件で明らかだし、プロイセンは日本に銀行を持たない為、東アジアで金を使う為に金融上、イギリスのオリエンタル・バンクを通す必要があり、イギリスがノーと言えば、この話はそこで終わり。
箱館のプロイセン副領事コンラート・ガルトネルの兄ライノルト・ガルトネルは明治2年(1869)2月19日、当時、箱館を事実上支配していた榎本武揚との間に七飯の開墾地300万坪を99年間の租借契約を結んだ。榎本は契約の見返りとして1万両を借り入れ、5千俵の米を購入した。
箱館戦争終結後、ガルトネル側から契約を引き継げ!と申し込まれた太政官は何、これ?と慌てたそうだが、翌3年(1870)12月10日、契約書にある違約金を支払う条文に基づき、13万ドルを支払い、貸し付け契約を解除した。
この件は、箱館の榎本政権が太政官と関係なく、独立した政権として承認されていた証明である。
長州贔屓の歴史家は否定するか糾弾するが•••••
ガルトネル側が持ち込んだプロイセン製の農具や種子は蝦夷地とは合わず、挫折したとある。
榎本が外国資本の導入を決断したのは、オランダ留学時、欧州の農民が農具や化学技術を駆使した大規模農法を実践しているのに、日本の農民は猫の額ほどの土地に鍬や鋤で耕す、規模の小ささに苛立ちを覚え、欧州のやり方を学ぶ為の代償だと思えば、長い目で見たら99年などあっという間の出来事だよ、と永井尚志に話している。
会津、庄内更には、仙台、久保田、弘前、盛岡南部家(20万石)と幕末期の奥羽諸大名は蝦夷地開拓に気が乗らず、寧ろ重荷と考えていた。
更に2年に1度、2つの大名家で日露の雑居地になっている樺太の防衛を担当するなど、担当者の間では罰ゲームという話すら囁かれていた。
坂本龍馬やその取り巻きが蝦夷地開拓に瞳を輝かせているのとは対象的である。
庄内側は太政官側の攻撃に備えて最上川沿いの清川口、参勤交代の正規ルートで米沢に通じる大網口、その中間にある羽黒山、日本海側の佐竹家との国境である吹浦口に、敵に対しこちらから応戦しない事を厳命して守備隊を派遣した。
同年4月24日明け方、太政官側の薩摩兵1個小隊(120名)、長州兵1個小隊(35名)、出羽新庄戸沢家からも1個小隊(50名)の約200名が清川口に襲来、庄内側も正規軍4個小隊(1個小隊50名)200名、民兵4個小隊200名の合計400名で迎撃、午後2時頃に撃退に成功した。
太政官側の記録は「朝から猛攻を仕掛けたけど、昼になり腹が減って、弾丸も無くなったので帰りました、サーセンwww」だった。
庄内側の記録は「敵の一撃を受けて戸惑ったが、よく見ると、顔に疲れが出ていたので、踏み留まり、民兵や少年兵が積極的に前に出て、正規軍がそれを見て奮起し、押し返す事に成功した」だった。
奥羽に来た太政官側は常に補給が乏しく、それに伴い士気が低かった。
逆に庄内側は装備、軍制、指揮官の技量などを再確認し、指揮官の消耗に備えて、育成に励む事になる。
清川口の庄内軍から報告を受けた鶴ヶ岡城の軍事掛は増援として家老・石原平右衛門と玄蕃にそれぞれ400名の部隊を与えて派遣したが、戦闘は既に終わっていた。
同時進行で太政官と会津と庄内の和平を斡旋する為に陸奥仙台伊達家と出羽米沢上杉家が働いていたが、この戦いで庄内酒井家側はブチ切れ、その急先鋒が玄蕃だった。要は
「和平はこちらを油断させる謀略で、本音は討伐か!殴りっぱなしでも手が痛いことを教えてやるぞ!」と報復する気マンマンである。
太政官側の先鋒を天童織田家が務め、出羽山形水野家(5万石)、上山松平家が後詰めをしていた。それならこちらから天童・山形を占領し、岩沼にいる九条総督と新庄にいる沢副総督の連携を断ち、圧力を掛けて庄内討伐を断念させるべきだと主張し、太政官側を潰す事を目論み、大網口を守備する家老・酒井兵部(諱は順孝)の部隊と合流した。
同年4月28日、太政官側は天童織田家に討伐令を下し、この辺りに飛び地を持つ諸大名にも布告、兵を全て集めても約400名と少なかったが翌月5日を攻撃開始の日とした。
玄蕃は当初、新庄城の攻略を目論んだが、最上川をさかのぼる主要ルートは守りが堅く、清川口からの裏道は薮が険しく補給や通行が困難の為、一旦後回しにし、天童攻略作戦を提案、鶴ヶ岡城の軍事掛に上申した。
軍事掛からは勝手なマネをするな、専守防衛と提案を否定されたが、玄蕃は兵部を説得、これが成功して天童攻略に賛同した。
太政官側の総攻撃情報を入手した庄内酒井家は2日前に対峙する太政官側から発砲があり、これを静めるという理由から天童攻略を決定。
庄内酒井家は太政官側を上回る約1千を投入して、慶応4年(1868)閏4月3日深夜から進軍を開始、翌日最上川を渡り天童城下になだれ込み、勝敗は一日で決した。
この戦いでは庄内側の民兵が民家や武家に放火、大声でデマを叫び混乱を誘うなどと細かい部分で活躍した。
織田家当主・織田信敏は家族を連れて仙台伊達家に亡命。
山形水野家は天保の改革に挫折した老中・水野忠邦のあと、老中になった水野忠精を経て当時の当主は13歳の忠弘で、この時、父・忠精と共に上洛、京都に滞在中だった。留守番を預かるのは分家筋の家老で26歳の水野元宣。
庄内酒井家に敵意は無いし、戦力もない為、戦争を避ける為、使者を送り不可侵条約を結んだのだが、庄内から使者が戻る途中で天童の戦いとなり、太政官側に派遣していた家臣が18名戦死した。
戦闘が終わった翌日、兵部や玄蕃が今こそ千載一遇のチャンスと新庄攻略の準備をしていると鶴ヶ岡城から使者が来て
「
何でこんな事を……また戦争がしたいのか、アンタ達は!!と殿様はお怒りです。直ちに国境まで兵を退いて下さい」
と伝えた。
その次の日、再度鶴ヶ岡城から使者が来て、
「
これがお前達の求めていた戦争か!?、これ以上やらかすなら酒井家から追放するぞ!と殿様はお怒りデス」
と最後通告。
二人で血気にハヤる部下たちを宥めながら、国境まで兵を退いた。
この後、兵部は鶴ヶ岡城に出向いて天童攻めの報告、玄蕃はしばらく国境の警備を行った。
同年閏4月28日、太政官との交渉が決裂したと判断した米沢上杉家は新庄にいる太政官の排除を行うため、庄内酒井家と手を組み、米沢700名、庄内1000名、他に山形、上山などから合わせて300名が加わり2000名の大軍で軍事行動を開始、この中に玄蕃も部隊を率いて従軍。
太政官側は新庄を撤収して久保田佐竹家に逃走した。
同時期、日本海側の吹浦口でも庄内酒井家と太政官から出兵命令を受けた久保田佐竹家が交戦したが、佐竹家が敗退。
この時、佐竹家の出兵の模様を見た太政官から
「えっ、黒船来航の時代に鎧兜・弓・槍・刀・火縄銃からの法螺貝、陣太鼓、旗指し物とか戦国時代の仮装行列ですか?それは宴会の余興でやって下さいよ!これ、実戦ですよ、分かってます?」
とダメ出しされると、
「これが我らの本気です、この想い、天子様に届け!!」
と返答されてしまい、太政官は
「だめだこりゃ」
とさじを投げた。
佐竹家は財政難で西洋式軍備に金を支払う事が出来なかったので、旧式の武装しか準備されていなかった。
ひとまず春の戦いは幕を閉じた。
この間の出来事を玄蕃は父親に宛てた手紙にしるしているが、
「米沢の人物は千坂高雅(通称は太郎左衛門)など特に優秀です。鶴ヶ岡の軍事掛とは頭の出来が違う、とバッサリ。
新庄戸沢家や天童織田家など奥羽の小大名は自分達がヤラれなければ今日は庄内、明日は薩長と打算と保身の二枚舌から手のひら返しは日常茶飯事。
敵としては大した事はないが、味方としては足手まといだから、敵に回すとどうなるか?を奴らに教えて於かないと、禍根を残す事になる、と勤皇・佐幕は建て前、本音は我が身可愛さとバッサリ。
もう一つの大国・仙台伊達家に辛辣で、伊達家の内情を調べたら、伊達四十八館と呼ばれる48の領主が34万石の領地や家臣を分割支配。
殿様は28万石の領地を治めて、直属の家臣を養っている。
統一された軍事制度がなく、殿様含め49通りの軍隊による連合軍で構成され、武器も規格も編成もバラバラの烏合の衆でしかなく、仙台伊達家は戦争では役に立たない」
と記している。
太政官側が新庄から退いたのを見て、庄内・米沢連合軍は解散、同年5月14日、玄蕃ら庄内酒井家は軍を鶴ヶ岡城に引き上げた。
玄蕃はそのまま米沢城下に派遣され、約1ヶ月程、奥羽諸大名の動向を調査、後に鶴ヶ岡城に戻り、同年6月には中老職に任じられた。
これまでの戦いで敵の実力を判断し、軍を再編、大幅に刷新した。
指揮系統はだいたいこんな感じ。
大隊長−副将−小隊長−分隊長−伍長
大隊の人数が700名〜1000名とバラツキはあるが、6個大隊を編成した。
大隊名∶大隊長名∶人数と内訳。
一番大隊∶松平甚三郎(諱は久厚)。人数は歩兵10個小隊500名、砲兵に大隊本部を含め約600名。軍夫を加えて約1000名、大砲2門。
二番大隊∶酒井玄蕃。歩兵9個小隊450名、砲兵、工兵に大隊本部を含め約550名。軍夫を加えて約950名、大砲2門。
三番大隊∶酒井兵部。歩兵15個小隊750名、砲兵に大隊本部を含め850名。軍夫を加えて約1250名、大砲2門。
四番大隊∶水野藤弥(諱は重剛)。歩兵14個小隊700名、砲兵に大隊本部を含め約800名、軍夫を加えて約1200名、大砲2門。
酒田大隊∶俣野市郎右衛門(諱は景明)。
歩兵13個小隊650名、砲兵と大隊本部を含め約750名。軍夫を加えて約1150名、大砲2門。庄内酒井家の第二の拠点である港町・酒田を守備するが後に転用される。
越後大隊∶石原多門(諱は重雄)。歩兵9個小隊450名、砲兵に大隊本部を含め約550名。軍夫を加えて約950名、大砲2門。慶応4年(1868)5月3日に成立した会津・庄内両大名家を救済する為に結成した奥羽越列藩同盟。同盟が海外から物資を輸入する補給港・新潟を守る為に派遣された。
これで約4100名。
他に国境や海岸線に設置された砲台の守備隊や占領地の守備隊を含めて、4560名を動員。
庄内酒井家は上述の様に武士階級は2800名。
事務方の役人を引いた2350名が戦場に投入され、足りない分を農民1640名・町人570名の2210名を集めて賄い、イギリス式訓練を施し、小隊に編成して戦場に投入した。
全兵力の48.5%が非武士階級の兵士である。
大隊本部は参謀1名、会計・宿割り担当2名、武器弾薬・補給担当3名、軍医1名、連絡役兼書記3名、斥候役3名、太鼓手兼喇叭手が2名に大隊長と副将の3名で18名に助手を含め約50名。
1個小隊は上述の様に50名。
二手に分ける際は小隊長と分隊長で指揮する。
その下に探索役が3名程いて伝令や偵察等を務め、小隊ごとに太鼓手が1名、他の44名が兵士となる。
装備している武器は、当時日本で売買されていた外国製の武器が上海の兵器市場から廻ってくる品物。アメリカの南北戦争が終わり在庫処分一掃セールで流れて来たアメリカ製の武器や中国で一番力のあるイギリス製品が幅を利かせていた。
それを
河井継之助の親友と自称するシュネル兄弟や箱館在住のプロイセン商人ライノルト、コンラートのガルトネル兄弟、日本人商人の
柳田藤吉から購入した。
購入契約書から、フランス式先込め施条式のミニエー銃、イギリス製先込め施条式のエンフィールド銃、同じくアメリカ製元込め施条式のシャープス銃、スペンサー銃を購入している。
大砲は日本で一般的に使用されている先込め施条式の四斤山砲やナポレオン砲と呼ばれた十二斤滑空砲などが使用されている。
出羽三山に囲まれ、国境の道が険しく、陸路による大砲輸送に難があったからか、沿岸砲はあるが、陸軍の大砲はそこまで多くない。
軍装は、陣笠、筒袖の洋服(黒羅紗)に段袋(ズボン)の洋装。袖印は日の丸(酒井家では朱の丸と呼び、代々使用していた。)
海軍は無かった。
補給規則はこんな感じ。
一、身分の貴賤を問わず、1人あたり一日玄米一升の割合で支給。飯は握り飯と漬物、生みそまたは梅干しの類を宿主に出させ、必ず実費を支払う事。
二、米は駐屯予定地の村役人にあらかじめ頼み、その土地の相場で金を支払う事。
三、3日に1回、1人一朱(1両の1/16)相当の肴や汁物を宿に調理させる事。
四、寝具は一切宿から借りない。夏場に蚊帳を借りる時は借り賃を支払う事。陣中は全て自ら炊飯する。宿はただ寝る為に借りる。場合によっては炊き出しをお願いする。
弾薬輸送はこんな感じ。
一、小銃一挺につき弾薬250発ずつ、当日輸送の事。そのうち100発ずつ、荷車を郷夫に引かせ、150発ずつ駄馬に背負わせて送る。外に30発ずつ各自胴乱(弾薬箱)に入れて腰に着ける。
二、郷夫による輸送は歩兵1小隊に付き小銃50挺位、500発入り弾薬箱6箱、1000発入り長持2棹を郷夫12人に担当させる。
三、駄馬による輸送は、歩兵1小隊500発入り15箱、二駄半の見積り(一駄は馬1頭。要は馬2頭と半分)。
四、一大隊の小銃およそ500挺、弾薬輸送の郷夫120名、他に大砲が各大隊に二門。この郷夫が60名。
五、大隊で使用する駄馬は23駄、大砲分が8駄、各人の私物が16駄、計47駄ほどは各宿場町の継馬により輸送する事。
金銭はあらかじめ2ヶ月分の経費として一両二歩(一歩は一両の1/4)を手渡し、それとは別に月二歩を支給する。
軍令はこんな感じ
一、宿場町を通る際、足並みをそろえて行進。町をはずれれば足並みを解くが、列を離れず、号令、合図に従って行動する事。
二、宿営する際、必ず一旦整列し、号令に従い混雑の無いよう各自の宿に入る。出陣の際も同じく一旦整列し、足踏みをしてから行進を始める。宿営は大太鼓と喇叭、出陣は小太鼓で合図する。
三、昼食の大休止、行軍2kmごとの小休止、休憩からの行軍開始も全て号令、合図による事。
行軍停止は喇叭の長声で知らせる。
四、毎朝大隊本部から大太鼓、喇叭を鳴らすので、小隊はこれに小太鼓で応じる事。一番太鼓で朝食、二番太鼓で出発準備、三番太鼓で整列する事。
陣中規則はこんな感じ。
一、戦闘中に戦死・負傷者を介抱して戦機を逸してはならない。戦闘終了後に各隊毎に処置する事。
二、投降した者、生け捕った者を侮辱してはならない。戦死した敵の遺骸は不作法に扱わない。
三、分捕りについては、自分が討ち取った相手の持ち物は格別だが、それ以外は各自上官の指図がない限り、手を付けてはならない。
四、万一、法令に背き、上述の各条を犯した者は、場合によっては死罪を申し付ける。
従軍している郷夫らも当てはまる。
大隊長の訓示はこんな感じ。
この度の戦いは御家の一大事ゆえ、出陣先での乱暴狼藉は申すに及ばず、強奪がましい所業があってはこれまでの御威徳を汚し、天地に対して申し訳も相立たず、また最後の勝利も覚束ない。各自苦しい事もあるが年来の御恩に報いるのはこの時と、奮発精励されたい。
訓示の原文は玄蕃のモノであるとされる。
この他に分家筋の出羽松山酒井家(2万5千石)から6個小隊300名を増援として派遣。内陸部を進む部隊(指揮官・長坂右近介)と海岸線を進む部隊(指揮官・永井丹治)にそれぞれ3個小隊ずつ別けて配置した。
秋田戦争
沢副総督、に薩摩・長州軍は久保田城下に居たが、九条総督と醍醐参謀は
世良下参謀が殺害された後、仙台伊達家に軟禁されていた。
そこに海路より肥前佐賀鍋島家(35万7千石)の兵300名と豊前小倉小笠原家(15万石)の兵130名が増援として仙台にやって来た。
指揮官は鍋島家の家臣で太政官の参謀・
前山清一郎(諱は
長定)。
九条と合流した前山は仙台伊達家の首席家老・
但木土佐(諱は
成行)と会見し、但木が「沢副総督とその仲間はこちらで京都に送り返します、あなた方は揃って京都に戻られたらいかがです?」と話すと、九条、前山は「一緒に来たんだから、一緒に帰ります」と返答。
九条は前山の入れ知恵で伊達家へ会見の前に佐賀・小倉の閲兵をしたいと申し入れ、それを認めさせ、会見の場にはフル武装の兵隊430名が会見の場を占領していた。
その場を押し切られてしまい、九条と前山は仙台を離脱、久保田にいる沢たちと合流した。
久保田に着いた九条、沢らは前山や大山らの入れ知恵で佐竹家に圧力を掛けて奥羽越列藩同盟を離脱させた。
伊達家は同盟を離脱しない様にと説得の使節を派遣したが、大山から「アイツらはテロリストでーすwww今、ここで使節を殺さないと、
おめーの席、ねーから」と唆され、11人の使節を殺害した。
これで佐竹家や弘前津軽家などが同盟を離脱。
佐竹家と久保田にいる薩摩・長州・佐賀らの兵に寝返りをキメた新庄らが加わり庄内討伐2ndステージを開始した。
南では仙台伊達家と会津松平家を主力とする白河口の戦局が悪いので、テコ入れに庄内酒井家から一番大隊と二番大隊を投入する話が検討されていた。
これに対する反論が2種類あり、1つは同盟の補給線兼対外貿易港である新潟を守る為にも、越後へ既に1個大隊を投入しているが、更に追加すべきだという案と、玄蕃が主張する久保田に太政官の軍がいる以上、これを排除してから、白河なり越後に兵を出すべきだと言う案。
軍事掛の権十郎が白河口に話をまとめた矢先に、久保田のクーデター騒ぎとなり、同盟側からの依頼もあり、一番大隊と二番大隊は久保田にいる太政官の勢力を駆逐する為、仙台、米沢と共に戦う事になった。
庄内酒井家は最終的に出羽内陸部の新庄から院内、湯沢、横手、大曲、角館、神宮寺を侵攻した一番、二番大隊と吹浦口から仁賀保、本荘、亀田、新屋と侵攻した三番大隊、鳥海山と升田から矢島、神ヶ村を経て椿台(現在の秋田空港付近)に侵攻した四番大隊、その増援に加わった酒田大隊と既に越後に出兵している1個大隊を入れると、全戦力を投入した。
玄蕃は二番大隊大隊長として、北斗七星をあしらった旗印を軍旗に用いて進軍、最終的に不敗神話を残した。
金箔(きんぱく)で北斗七星を配した縦約180センチ、横約120センチの旗で、玄蕃は破軍星旗と名付け、この旗を見ると敵軍は戦わずして逃げた、と伝わる。「およそ十余戦。皆ことごとく賊軍を撃破した。その時に用いた旗、これを子孫に遺す」と玄蕃が記した漢文の由緒書きがある旗袋がある。
軍事掛の菅と軍略のやり取りをしていて、記録が残っている。
「用兵とは生き物。ここは必ず落とす、敵は絶対殲滅する、というものではない。敵の強いトコロを避けて、弱いトコロを突く事が用兵の大切なトコロである」
「戦場で食糧の乏しい時は、主将は1椀で済ませても、兵士には2椀の食を与える。いつも兵士の労苦を労り、暖かい言葉をかけてやれば、死力を尽すであろう。それから、進むも退くも、常に地の利に心を配らねばならない。これを忘れると、いたずらに兵を失う事になる」
「一番大隊と二番大隊とは、いつも二手に分かれて、一つは正兵として正面から敵に当たり、これを引き付け、一つは奇兵として側面から敵を攻める。側面から攻められるくらい、イヤなモノはない。交互に奇兵は正兵となり、正兵は奇兵となって敵を疲弊させ、敵を分断し、時間を与えない様にする事である」
と。
軍事掛の権十郎からは新庄戸沢家への因縁話を聞かされた。
新庄戸沢家は、太政官が進駐した影響で、江戸から酒田に船で運んだ荷物が受け取れない事態に陥った。
一旦、太政官の勢力が去った後、新庄戸沢家は奥羽越列藩同盟に加盟し、同年5月、家臣・竹村直記に馬一頭をつけて庄内酒井家へ贈り物とし、見返りにエンフィールド銃300挺の分与を依頼した。
権十郎がお隣さんだし、同盟の建て前これを認めたが、同年7月上旬、弾薬と共にモノを酒田で受け取り、太政官に寝返って兵を招き入れ、庄内酒井家を敵に回した。
戸沢家側は「賊を利用して、賊を葬る武器を手に入れる、これぞ知恵なり」という話を聞き、道化師を演じる羽目になった権十郎はブチ切れ、玄蕃に新庄殲滅を厳命した。
慶応4年(1868)7月14日の新庄城攻防戦では、一番大隊が太政官側の主力を引き付けた隙を突いて、玄蕃指揮の二番大隊が抜け道を通り新庄城を攻略、この時、新庄戸沢家の決死隊が奇襲を仕掛け、小隊長・
服部正蔵、分隊長・
大島武助らが戦死、奇襲が成功したかに思えたが、玄蕃が「
退くな……退くなと言っておろうが……退く奴は構わん、オレが叩き斬ってやる!」と脳筋プレイな台詞を吐き、大隊を叱咤激励、勢いを取り戻して新庄城を占領。
新庄戸沢家当主の戸沢正実自ら陣頭指揮に出たが、城を捨てて久保田方面に逃走した。
残りの太政官側も新庄城が落城したのを見て、退却した。
玄蕃は松平大隊長や占領地代官の
新徴組頭取の
田辺儀兵衛(諱は
柔嘉)が来るまで城下町の消火作業を行い、城下各所に有る土蔵を封鎖し、略奪を固く戒めた。
翌日、以下の様な布告を発した。
- お隣さんに兵を出すのはイヤなんだけど、戸沢家が二枚舌の手のひら返しをしながら攻撃をした為、やむを得ず自衛の為に平定した。自衛の為ですよ!
- 兵火に焼かれて困窮する者は官有林から材木を伐採したり、酒井家に名乗り出れば、手厚く保護します。
- 敵対した者でも主君の為に戦死したなら、墓碑を建てるから、名乗り出なさい。
- 領民一同非常の困窮に鑑みて、今年の年貢は半減する。
- 庄内軍には迷惑にならない様に厳しく申し渡しているが、不心得者があったら、少しも遠慮せず訴え出ること。
とある。
中には武士の子供を捕虜にして突き出し、報酬を受け取る民衆もいたくらいだが、子供を保護して、その子は後に弁護士になった。
陣中でも弁当は自分で作り、冷や飯に生味噌でも不足も言わず、常に兵と同じモノを食し、行軍が終わり、宿舎が決まると玄蕃は皆を先に入れ、外で異常無しの報告を聞くまで休む事をしなかった。
その後、連戦連勝を重ね、同年8月11日には佐竹家重臣・戸村大学(諱は義得)が指揮する横手城を陥落させたが、佐竹家側の戦死者が地元民により身ぐるみ剥がされて裸で放置。
これを見た松平大隊長は玄蕃と相談して、庄内軍名義で葬儀を行い、遺体を埋葬し、「佐竹家名臣戸村家忠士之墓」の墓碑を建てた。
同年8月13日、角間川の戦いでは先鋒として出陣した仙台軍が敗退、退却して来るのを囮として利用し、両翼を延ばした半包囲隊形からの十字砲火で殲滅に成功する。
島津義弘「オレの技だ!」
この時も、太政官側の戦死者が地元民により身ぐるみ剥がされて裸で放置されたので埋葬して、墓碑を建てた。
玄蕃「俺たち、葬儀屋じゃねーから」
連戦連勝を重ね、久保田城下に18kmの距離まで迫った為、太政官側は玄蕃の旗印である北斗七星の旗を見ると「鬼玄蕃が来た!」と参謀から兵卒まで震えて眠り、悪夢にうなされる日々を過ごした。
当時の俗謡に「花は白河、難儀は越後、物の哀れは秋田口」と言われていた。(意味は、白河口の戦争は容易であったが、越後口は難儀を極めた。秋田口は連戦連敗で太政官的に
黒歴史にしたい、と。)
太政官側の沢副総督や久保田佐竹家当主・佐竹義尭がこの体たらくにブチ切れ、沢に対して太政官の参謀や各隊の隊長が「一致団結して鬼玄蕃を始めとする庄内軍を殲滅します!出来ない時は、我らの生殺与奪は思いのままに!」と誓約書を提出。
義尭は家臣団に対して「祖宗以来の土地は半分が庄内軍に占領された。源平以来の名家が滅亡寸前。汝らはいつになったら御恩に報いるの?今でしょ~」と訓示を与えて発破を掛けた。
同年8月9日には盛岡南部家が同盟側として参戦、大館方面から侵攻し、同月26日には鷹巣の北、米代川の対岸に位置する今泉まで侵出したが、太政官側の反撃に会い、同年9月中旬には南部領内に押し込まれたが、佐竹家は領地の75%が戦場となった。
戦局は同年7月29日に同盟の対外貿易港・新潟、越後長岡牧野家(7万4千石)の本拠地・長岡城、陸奥二本松丹羽家(10万1千石)の本拠地・二本松城が陥落した。
新潟港は海上から陸兵が上陸、占拠され陥落。この時、米沢上杉家家老・
色部長門、庄内酒井家家老・
石原倉右衛門が戦死。
長岡城攻防戦の前後に戦況視察に出た長岡牧野家総督・
河井継之助が重傷を負い、戦線離脱。越後方面の同盟で実質的な総司令官だった彼の離脱で混乱した隙を太政官に突かれて長岡城は陥落。
同年8月11日には村上内藤家(5万石)が降伏。
越後全域が太政官に抑えられ、庄内酒井家は南方の国境に敵を迎え撃つ事になり、越後に派遣された大隊を呼び戻し、領内警備にあたっている部隊を投入して野戦陣地を構築し、侵攻に備えた。
奥羽山脈を越え、会津若松、米沢、仙台を繋ぐ交通の要所、二本松城も陥落。
米沢上杉家はこれで心が折れて、婚姻関係にある土佐山内家(24万石)や日向高鍋秋月家(2万7千石)から降伏勧告を受けて慶応4年(1868)9月4日、太政官に降伏。
仙台伊達家も心が折れ、江戸から海路、徳川脱走海軍を指揮する
榎本武揚がテコ入れに来たが、効果は無く、分家筋の伊予宇和島伊達家(10万石)から降伏勧告を受け入れ明治元年(1868)9月15日、太政官に降伏。
太政官は上杉家が無力化したのを知ってから会津領侵攻を行い、同年8月20日、母成峠を攻撃、翌日にはこれを攻略、同月23日には会津城下に雪崩込み、後に籠城戦に入った。
秋田方面も色々変わった。
同年9月4日には三番大隊長・酒井兵部と四番大隊長・水野藤弥が罷免され、後任には三番大隊副将・水野弥兵衛が就任し、四番大隊は松宮源太夫(諱は長貴)が鶴ヶ岡城から赴任し、水野藤弥は副将に降格となった。
太政官側は主力を務める佐竹家が戦国時代の武者人形から、エンフィールド銃3000挺が支給され、出で立ちも西洋式の戦いのそれに相応しいモノに変更された。
ここに派遣された佐賀鍋島家はアームストロング砲を所持しておらず、アメリカ製やイギリス製の鋼鉄製先込め式施条砲とスペンサー銃で武装しイギリス式軍制で組織された庄内酒井家の上位互換だが、武者人形の佐竹家と武器の規格が合わず、手持ちの弾薬を使い切ると、補給が出来ない。
太政官側は対外貿易港である箱館の外国人商人・オールトに連絡を取り、手持ちの銃砲の現物と弾薬、蒸気船などを発注した。
オールトは上海へ赴き、在庫を抑えて発送したが、補給物資が届くまで時間が掛かると言われ、それまで
佐賀鍋島家は決戦時の予備戦力扱いとして戦力を温存した。
海岸線を侵攻する庄内軍の三番大隊が久保田城下に8kmの距離まで迫ったので、兵力の再編成を行い、ついに補給も届き、活気が出て来た佐賀軍を海岸線に配置し、野戦陣地を構築。同年8月18日、29日、9月12日と侵攻した庄内軍を撃退した。
佐賀鍋島家は『佐賀藩銃砲沿革史』の中で
「庄内軍は地の利を活かし、エンフィールド銃と四斤山砲で俺たちと互角に渡り合ったのは、敵ながら見事。しかし、俺たちの方が武器は上だから勝つのが
当たり前、当たり前、当たり前www」
と記している。
それまでの庄内軍が佐竹家と他の軍との武装や戦い方のミスマッチを突いて連戦連勝を重ねて来たが、太政官側は京都に手紙を送り、増援をお願いして、最終的に7千の兵を佐竹家支援に差し向けた。
四番大隊・酒田大隊は椿台付近に構築された太政官側の野戦陣地に同年9月10日、11日と攻撃を仕掛けたが撃退された。
内陸部に布陣する一番、二番大隊と仙台軍は後方を仙台軍が守備し、前線を庄内軍が攻める形を取り、侵攻したが、太政官側の装備が向上し、数が増えて、以前ほど圧倒的に勝てなくなってきた。
庄内側もそれまでの進撃を支えた訓練十分の指揮官や兵士が戦傷死し、今まで損害が出ても国元から指揮官や兵士を送り穴埋めをしたが、上述の様に国元に敵が現れたので補充が出来なくなった。
同年9月14日、両大隊長はじめ幹部で会議を開催し、総攻撃を仕掛け、久保田城攻略を決定し、その準備をしている最中に上山松平家の使者・玉造権左衛門が訪れ、「米沢が降参、仙台も降参しようというので、当家も降参すると決めました」と伝えた。
この話を聞いて再び両大隊長はじめ幹部で会議を開催し、大軍が国境に迫る以上、酒井家は主力が佐竹家領内にいるのは得策では無い。たとえ主君の命令が無くとも、速やかに引き揚げるべきだと全会一致で採択された。
この時点で奥羽には雪が降り、朝には葉に雪が積もる寒さである。
しかし、迂闊に撤退すると敵に追撃されるので、前面の敵に攻撃を仕掛けて、戦意を挫いてから撤退する作戦を採用した。
翌日の内に撤退準備を完了し、翌日出発。途中、今まで一緒に戦ってきた仙台軍とその分家筋の一ノ関田村家(3万石)(彼らは国元の降伏を聞かされておらず、庄内軍の退却を聞いて、撤退を開始し、翌18日に仙台から使者が派遣されて降伏を知った。)に別れの挨拶をした。
一番大隊、二番大隊共に退却時、追撃はなく、庄内への撤退を完了した。
玄蕃は庄内に帰着後、同年9月22日に鶴ヶ岡城へ登城、戦功により300石加増され1000石となる。
海岸線から侵攻した三番、四番、酒田大隊は一番、二番両大隊の撤退の連絡を受けて三番大隊が最後尾を守り、四番大隊は同年9月17日、酒田大隊はその翌日に撤退を行い、途中でこの両者は合流し、同月20日、庄内に到着。
同月18日には鶴ヶ岡城の軍事掛から正式に撤退命令が下された。
三番大隊は前述の二個大隊が安全圏に入ったのを確認してから、撤退を開始した。
庄内酒井家が海岸線を久保田城下に向けて侵攻すると、仁賀保家、矢島生駒家の旗本領、出羽本荘六郷家(2万石)、出羽亀田岩城家(2万石)を占領し、各地に代官を派遣した。
最初に進駐してきた太政官側は金や米がなく、現地の大名や旗本領から徴発したので、評判はイマイチだった。他にも弾除けとして太政官側の先鋒として顎でこき使われたり、体のいいパシりであった。
仁賀保、生駒、六郷の三家は領地・領民を捨てて佐竹家に亡命した。
岩城家は当主・隆邦が慶応4年(1868)4月1日に上洛して明治天皇に拝謁、太政官の傘下に入り、同年5月25日に亀田に帰国する。当主留守中に家臣団は御家安泰の意味も含めて奥羽越列藩同盟に加盟した。
この二重外交が、現地の太政官から疑惑をかけられ、佐竹家が政変で同盟を離脱すると一緒に離脱して庄内酒井家と戦火を交えたが太政官側が連戦連敗、戦線を縮小すると称して久保田城下間近まで撤退した。
岩城家が
「共に戦ってきた仲間を見捨てるのか!」と太政官に尋ねると「
…たまには自分の手足を動かせ…!」と突き放され、隆邦が家臣団や領民に「天子様と存亡を共にするぞ!」と主張すると、家臣団や領民が「オレたちは領内を焼け野原にされたくないから庄内に従うよ。殿様一人で逃げてね。代わりの殿様はこちらで用意しますwww。家臣のいない殿様、天子様が相手にするか知らんけど?」と突き放され、不本意ながら庄内酒井家に降伏、隆邦とその家族は庄内に亡命した。
後日談として庄内軍撤退後の亀田城下に進駐した太政官は亀田城下の武家屋敷や城内を洗いざらい漁り、戦利品と称して書画骨董美術品を持ち帰り、久保田城下の古美術商に売却、換金した。モノは昭和初期まで「亀田物」として高値で売買されていた。
佐竹家の総司令官的な立場にいた渋江内膳(諱は厚光)が率先して戦利品漁りに励む有り様で、民衆からは
「渋々と イヤないくさをくり出して 進む心は さらに内膳」
と皮肉られた。
似たような立場に天童織田家がいる。こちらも太政官に従い、先鋒を務めながら、戦闘に敗れて領地は庄内酒井家に焼け野原にされ、太政官に見捨てられ、太政官寄りの立場を主張した実力者・
吉田大八は庄内酒井家から「
こんな所で朽ち果てる己の身を呪うがいい!」と詰め腹を切らされ、奥羽越列藩同盟に加盟する。
慶応4年8月17日以降、越後を平定した太政官が4万の軍を占領地警備、会津松平家、米沢上杉家、庄内酒井家の4つに分けて進軍。庄内との国境で戦いが始まった。
海岸線側の鼠ヶ関と山間部の関川の両方で戦闘が行われた。
越後から帰国する大隊の内、半分を米沢から来る太政官側を守備する為に
左沢に割いたので、実際は5個小隊と砲兵を含めた350名に
新徴組3個小隊150名と領内警備の歩兵5個小隊250名、計750名を二手に分けて配置し、防戦に当たらせた。
鼠ヶ関側は、地形を活用した野戦築城と火力の集中的な使用、何より敵方の指揮系統のチグハグさに助けられ、鼠ヶ関を守りきった。
関川側は庄内軍のチグハグな兵力運用と敵方の兵力の集中使用により明治元年(1868)9月11日に関川村を占領された。その後は庄内軍が再攻勢に出たくとも兵力不足に陥り、野戦陣地を構築して侵攻を食い止めた。
ここに来て、庄内酒井家は戦力の枯渇に陥った。
降伏と敗戦処理
先に太政官に降伏した米沢上杉家は庄内討伐の先鋒を命じられ、世継ぎの
上杉茂憲が自ら兵を率いて庄内との国境、大網口に向かった。
昨日までの友軍と戦うのも士気が上がらない事もあり、明治元年(1868)9月14日、千坂高雅が「今、太政官に降伏して帰順するならその旨を斡旋する」と越後で一緒に戦った石原多門に手紙を送ってきた。
その2日後、鶴ヶ岡城城内で当主・酒井忠篤は重臣・軍事掛を招集し、米沢からの降伏勧告を受け入れるかの会議を開き、菅実秀が「ここに来ての降伏とは何か?一度開戦に判断を定めたら城を枕に討死と定め、領内を焦土にするべし」と周りが降伏に傾いている中、一人徹底抗戦を主張。
玄蕃が徹底抗戦論者として危険分子扱いされていたり、庄内酒井家に武器を納品していたエドゥアルト・シュネルが鶴ヶ岡城に登城、会議に参加し「
私にいい考えがある」と発言したなど、会議は混沌とし、軍事掛の山口三郎兵衛が老公・忠発様のご意見を聞きましょうと提案、忠発は
「もう、充分じゃな。」
と発言して、ここに庄内酒井家は降伏勧告を受諾した。
降伏を受け入れたら、次は手続きである。
庄内酒井家は
中世古才蔵・
武藤半蔵・
吉野遊平の3名を上杉茂憲の陣中に急行させた。米沢側の気遣いで米沢城下では太政官の警戒が厳しく、入国出来ないからとの判断だった。
千坂からの提案で庄内酒井家は奥羽鎮撫総督府、会津征討越後口総督府、東北遊撃軍将府の3つに降伏文書を提出した方が印象が良くなるとの助言で中世古と武藤は鶴ヶ岡に戻った。
同年9月23日、吉野は越後口総督府参謀・
黒田清隆と対面し、以下の条件を吉野に約束させた。
- 同年9月26日までに庄内酒井家は国境の守備兵をすべて引き上げる。(但し、遠境で即日に通達出来ない場合、1日の猶予は認める。諸部隊に布告が行き渡らず、行き違いで交戦しても、これは咎めない事にする。)
- 鶴ヶ岡城は27日に開城する。当主は総督府参謀に面会の後、城を出て禅龍寺に退去して謹慎する。
- 武器は全て所定の場所に集めて、総督府参謀が点検した後、しばらくは家老の屋敷で保管、後に輸送する。
- 東京の大総督府では、追って当主を呼び出すが、その際のお供は50人で参上し、改めて謝罪する。
- 家臣団は自宅に於いて謹慎する。重役や役人の公務による出張は遠近に関わらず、自由に出向いて構わない。
- 領内にいる他の大名家の家臣や旧幕臣は武器を差し出した上で僻地にて深く謹慎する。混乱が収まり次第、旧幕臣は静岡、他の大名家の家臣はそれぞれの地に帰すので、名簿を作成しておくこと。
吉野はこの文面を鶴ヶ岡城に持ち帰り、報告。
同年9月26日、庄内酒井家と出羽松山酒井家の戊辰戦争での降伏日になる。
同じ日に久保田城下で悪戦苦闘していた大山参謀は庄内軍撤退の報告を受けて軍を南下、新庄南方の清水で薩摩島津家総差引(総司令官)・
西郷隆盛や黒田参謀、東北遊撃軍将府参謀・
船越洋之助(諱は
衛)たちと合流。後に黒田参謀が鶴ヶ岡城下に入り、その日の夜に当主・酒井忠篤と会見し、約束通り禅龍寺で謹慎生活に入った。
翌27日、続々と太政官側の主力が鶴ヶ岡城に入城、西郷が黒田・大山の両参謀を従え、城内を視察し、銃器を点検し、これを越後新発田城内にある会津征討越後口総督府本営に輸送させた。庄内に滞在していた会津松平家の南摩綱紀の手記には送られた銃器は4900挺、大砲30門とある。
この手記では太政官側の進駐人数を15156人としている。その際、鶴ヶ岡城下が平穏無事で家臣団は原則自宅で謹慎しているが、刀を差しての外出を認めていた。町中は普通に商売しているし、敵軍の略奪暴行はなかったと記している。
また、庄内酒井家家臣の
安倍惟親の手記によると、入国した太政官側の進駐人数は44850人、新発田城下に送られた銃器はミニエー銃8000挺と記されている。
庄内酒井家では、三番大隊が吹浦口の守備に当たっていた。帰還した各大隊は、鶴ヶ岡城へ撤収したが、水野大隊長は撤収指令を受けていない為、吹浦口の野戦築城に兵を配置した。
同日、太政官側は吹浦口へ侵攻、庄内軍の応戦に太政官側は
「やるな!、実に良いトコロに攻撃してくる」とすると、庄内軍も
「ここが踏ん張り処じゃ!打ち負かされるなよ!」
と覚悟を見せる。
しかし、この日、戦闘中の三番大隊に鶴ヶ岡城から降伏・停戦を伝える使者が到着。同月28日、三番大隊は鶴ヶ岡城に撤収した。
戊辰戦争における庄内酒井家の戦死者は322名、負傷者412名と言われる。
次の29日には
西郷隆盛と薩摩軍が鶴ヶ岡城下から去った。黒田に対して、
「大軍が1日滞在するだけで庄内酒井家に大迷惑だから帰るね。そうしないと、他の大名家の軍隊が軍規を乱したりする可能性がある」と一番に去った。
この時、黒田や同じ薩摩島津家家臣の
高島鞆之助が敗者に対して激甘なんですけどと口にすると、
「(前提として島津家から庄内酒井家への厳罰は釘を差されているが黒田・高島はこれを知らない。)戦争も終わったし、これからは兄弟として仲良し過ごそう。まぁ、反逆したら、
塵一つ残さず、消滅させてやる…!」と返答し、黒田・高島共に「西郷さん、顔は笑っているが、目が笑ってないよ」と恐怖を憶えた。
庄内酒井家の領地は占領下とされ、船越洋之助が責任者として残り、酒田に軍務局出張所と民政局が開設された。
禅龍寺で謹慎中の酒井忠篤は他の朝敵となった大名家当主と共に東京での謹慎・待命を命ぜれたので、明治元年(1868)10月9日、太政官通達により鶴ヶ岡を出発し、東京の芝・清光寺に入り、謹慎した。
戦後処理
庄内酒井家の戦後処理は素早かった。
上述の新発田城下に銃器を引き渡しに赴いた際、明治元年(1868)10月7日に黒田や越後口の参謀・吉井友実に献金の嘆願書を提出している。
同年11月には太政官に宛てて、箱館に割拠する榎本武揚の軍に対して追討軍に参加したい、献金もしますよ、と申し出ている。
太政官内部では朝敵藩の処分が話し合われていて、長州系の
木戸孝允が会津松平家や庄内酒井家に厳しい処置を、仙台伊達家や米沢上杉家は寛大な処置と主張。
大村益次郎は会津は成り行きであの位置にいるから処分は緩くても良いが、仙台は会津討伐を申し出て、手のひら返しで
参謀を殺して太政官と戦争をするから許せん、米沢もその同類と見なしていた。
大村は当初、
庄内は余力があるから厳罰で解体論だったが、庄内側が太政官に対して積極的に協力を申し出ている姿勢を見て態度が軟化。
岩倉具視・
大久保利通、
大隈重信らは厳罰で石高を大幅に減らしても、浪人を大量発生させて社会不安を起こしては身も蓋も無い。太政官内部で厳罰解体論が勢いを失い、藩治職制により後に「大泉藩」と名乗る。
本来ならば斬首すると宣言した松平容保や酒井忠篤の命を救うという寛大な措置に留めた。
明治元年(1868)12月7日、24日、25日と3度の通達により、当主・忠篤は謹慎、弟の
忠宝が家督相続、12万石に減封し、会津若松に移封させるという趣旨。
形の上では庄内の支配権を失っており、酒田民政局の支配下に置かれていた。しかし、実際は会津若松には赴かず、今まで通りの支配を行っていた。
朝敵藩には叛逆首謀者を調べて届け出る様に下令された。この場合、当主の身代わりに責任を取る為、処刑されるのだが、庄内酒井家でも、誰を出すかで問題になった。
一番最初に
「みんなで考えて実行したから、いませーん」と答えたら
「ふざけんな!誰か出せ!」と却下された。
本来なら権十郎や菅が対象になるのだが、酒井家は苦肉の策として前述の石原倉右衛門が戦死したのを利用し叛逆首謀者として全ての責任を背負わせた。
太政官、特に長州系は第一次長州征伐の毛利家が3人の家老、4人の重臣を処刑されたみたいに血の清算をしたいと考えた。特に木戸孝允はそれをする事で時代は変わったんだ!とアピールしたい訳である。
新選組の
近藤勇が首を刎ねられ、三条河原にさらし首になったのは、そうした意図がある。
ただ、近藤程度じゃインパクトが弱いので、松平容保の首を刎ねたいと木戸は駄々をこねたが、薩摩系の大久保利通、
伊地知正治、黒田清隆らに、
「やり過ぎは良くないと思うぞ」と反対され、長州系でも大村益次郎や
広沢真臣はそこまで血の報復に賛同しなかったので木戸が折れて、その下の重臣でガマンした。
尚、この措置により石原家は一旦断絶となるが、倉右衛門の弟・孝五郎に酒井の性を与え、家を再興した。
庄内酒井家みたく、既に死んだ者を首謀者にして済ませた藩もある。
米沢藩は本来、千坂高雅やその下で幕僚として活躍した
甘粕継成が対象になるのだが前述の石原と同じ日に戦死した色部長門に叛逆首謀者として全ての責任を背負わせた。
長岡藩では陣没した
河井継之助と会津戦争で捕虜となって斬られた家老・
山本帯刀(諱は
義路)の2人に叛逆首謀者として全ての責任を背負わせ、更に存命中の
三間正弘を首謀者として差し出し、三間は東京で獄中に繋がれる事になる。
会津松平家だと本来なら慶応2年(1866)から主席家老の地位にいた
梶原平馬(諱は
景武)や公用局創設時の生き残り・
小森久太郎が対象になるのだが、ここも戦死した
田中土佐・
神保内蔵助を申し上げ、生き残りの家老で
萱野権兵衛が処刑された。
仙台伊達家では家老の但木土佐、
坂英力、奥羽越列藩同盟を理論的に支えた
大槻磐渓を差し出し、但木と坂が処刑された。
盛岡南部家は筆頭家老・
楢山佐渡(諱は
隆吉)、
佐々木直作、
江幡五郎を東京に差し出し、楢山が見せしめの為に盛岡で処刑、佐々木と江幡は釈放された。佐々木は改名して
板垣桑蔭と名乗り、その孫が
板垣征四郎。江幡も
那珂通高と改名する。
庄内残留委員会(仮)を設置、松平権十郎、菅実秀、山口将順を頂点に戸田総十郎(諱は直温。後に松本十郎と改名する。)や犬塚勝弥(諱は盛巍)、田辺儀兵衛、俣野市郎右衛門らと共に手分けして庄内残留を交渉した。
京都へ戸田、犬塚、俣野らが派遣されて、小浜藩にお願いして岩倉具視や三条実美に掛け合い、政治献金を重ねた結果、「国替えすること無く、庄内12万石で残留」を記した嘆願書を受け取らせた。
東京には菅、田辺、玄蕃が派遣された。明治2年(1869)1月9日、太政官から昌平橋にある丹波篠山藩(青山家・5万石)の上屋敷を拝領し、翌月9日には浅草に有った下屋敷が返還されて活動拠点とした。主な活動は黒田清隆に贈り物を受け取らせ、他の薩摩系政治家にも政治献金を重ねて嘆願書を受け取らせた。
明治2年(1869)2月には、西蝦夷地の再開拓を願い出る願書を提出、幕末の蝦夷地開拓の経験を活かして開拓を行い、天皇の為に働きたいと願い出て、転封阻止の材料とした。
酒井家は農村部から「寸資金」を集め、農民達は東京に出て来てグループに分かれ、太政官に
天保義民事件みたく、「百姓といえど二君に仕えず」をスローガンに請願活動を行った。
酒井家の株主とも言うべき本間家は、太政官と天秤に計り、酒井家を選び、3万両の活動資金を提供し、人も派遣して酒井家を支援した。
太政官内部で薩摩系政治家(これには鹿児島にいる島津家や西郷隆盛が寛大論一択と圧力を掛けている。)が主張する庄内への寛大論が多数を占め、明治2年(1869)5月4日、太政官より会津若松への転封は中止になった。
同年5月20日、太政官は酒田にいる本間外衛(諱は光美。本間家第6代当主。)を東京に呼び出し、同年6月8日に5万両献金を命じ、鉱山判事に任じて太政官に取り込もうとした。
同年6月12日の時点で献金による解決が強くなると情報を掴み、14日には酒井家と本間家で50万両まではなんとか工面出来ます、という相談をしている。
同年6月15日、太政官は庄内酒井家に磐城平への転封を命じ、期限を8月までと定めた。大隈情報だと酒井家の磐城平への転封案は大村益次郎が言い出しっぺとしている。
2日後の同月17日に版籍奉還が布告され、藩主を改めて藩知事に任命し、翌18日、忠宝を磐城藩知事とした。
酒井家としても酒田民政局の支配下にいるので、そろそろ出ていかなければならず、明治2年(1869)7月末までに藩士714人が出発したが、酒井家は再び転封阻止の裏工作を始めた。
玄蕃はそれまで東京で折衝の仕事をしていたが、同年6月庄内へ報告に戻り、同月19日学校御用掛として教育を担当する。
少し戻ると明治2年(1869)5月18日、箱館に立て籠もる榎本武揚が降伏して戊辰戦争は終結。太政官や鹿児島、高知、広島、久留米、福岡、旧会津、秋田、宇和島、金沢などの諸藩が財政難から戊辰戦争の戦費を賄う為に、公式基準に満たない劣悪なお金(=贋金)を大量に発行して取引に使用、その総額が3000万両と規模が大きく、外国公使から損害賠償を求められた。
太政官は少しでも正金獲得の一つの選択肢として、献金という形で損害賠償用にお金を準備する為、酒井家ともう一つ盛岡藩から献金を得る形を取った。
もう一つ説があり、それは大隈情報だと大村が庄内からの献金を使い、軍の教育施設を設立する為に求めたというのがある。
酒井家としては大蔵大輔としてこの問題に取り組む大隈に狙いを付け、外国人への損害賠償に献金を使い、その見返りに庄内残留を勝ち取れるのでは?と考え、大隈と接触をはかった。本間外衛が12回門前払いを受け、同年7月10日、13回目に初めて面会することが出来たと日記に記している。本間は感触は悪くないと見た為、14日、次は菅が大隈と面会し、50万両準備出来ますと伝えると18日、21日、22日と太政官に呼び出されて、70万両の献金で手を打つ代わりに酒井家の庄内復帰を認めるという通達が出された。
この70万両、米1石が4両6分という当時の相場から言って、石数にすると15万2千石になる。
庄内酒井家の年収に相当する金額が消える。
庄内酒井家は大隈に対して「無理無理」と難色を示したが、意外にも大隈は「ともかく承知するが良い。どうしても金が出来ない時は、出さなければ良いではないか」と助言した。
しかし、庄内復帰と言っても明治2年(1869)7月20日、酒田を中心とした庄内地方の北側に酒田県が設置され、津田山三郎(諱は信弘。熊本藩出身。)が権知事に任命されていた。
磐城藩知事の酒井忠宝は明治2年(1869)7月22日、庄内復帰を認められ、同月24日、庄内藩知事に任命され、庄内地方の南側を統治する事になった。庄内藩という名前も宜しくないので改名しろと指示され、大泉藩か鶴岡藩の何れかにしたいと伺いをたてたら、同年9月29日、大泉藩に改称する様に通達が出た。(同時に前当主・忠篤は謹慎を解かれた。)
同年8月14日、太政官から30万両献金の催促が来たので、本間家が音頭を取り「寸資金」という名の下に農民、藩士、町人へ献金を募った。
献金は町や村に割り当てられ、農民の中には田畑を担保に借金して献金した者もいた。
同年8月23日、太政官に3万両の献金を行ったのを皮切りに10月15日頃まで上納した。
残金40万両について太政官と交渉し、分割払いや減額を狙った結果、明治3年(1870)4月20日、太政官内の会議で大久保利通が大泉藩の献金免除を提議した。大隈重信や伊藤博文らは反対したが、賛成多数により同月28日、大泉藩に対し、「残金40万両は献金に及ばず」と通達した。
上述の贋金騒動の損害賠償に充てがわれる筈の金が、贋金騒動も治まり、予想より被害額が少ないのと、各藩の債務整理に目途が付き、献金の価値が下ったから、残金は支払わない事になった。
献金で、軍の教育施設を設立すると求めた大村が明治2年(1869)9月4日、同じ長州系攘夷派に襲われ11月5日に死亡したのも大きかった。
献金した30万両は大泉藩に戻されたが、大泉藩は黙っていた。これはある騒動の火種となった。
村井茂兵衛は盛岡南部家の御用商人・鍵屋茂兵衛として戊辰戦争前後を通じて南部家に献金が23万両に上っており、しかも、村井家は南部家の危急存亡の時と追加融資を頼まれ、明治元年(1868)11月、更に 7 万両を献金して、その見返りに尾去沢銅山の経営権を得た。
しかし,尾去沢銅山は同年12月の盛岡藩の朝敵藩処分による減封により、同年(1868)12月7日、太政官の直轄地となり、盛岡県が支配する。
そのため,村井茂兵衛は,改めて太政官の鉱山司から尾去沢銅山の取扱責任者を命じられる。
すなわち,盛岡県から明治2年(1869)6月、尾去沢銅山の経営権を明治2年〜明治6年(1873)までの6か年間,引き続き村井茂兵衛が掌握することになったのである。
しかし,版籍奉還により尾去沢銅山のある盛岡県鹿角郡は明治2年(1869)11月28日、新設の江刺県に編入されることになった。
太政官は尾去沢銅山の官業経営を図るため明治 2 年(1869)12月、大学大助教大島髙任を民部省鉱山司権正に任命、「民部省鉱山司出張所」を盛岡の村井茂兵衛宅に置いた。
そして大島髙任を駐在させ小坂銀山と尾去沢銅山の調査を命じ、明治3年(1870) 4月、
「尾去沢銅山之義見込伺書」
という上申書を提出した。
尾去沢銅山の製鋼法が旧式であり、その改善には莫大な資金が必要であるとし、新設備が整うまで当分の間は、徳川時代から尾去沢銅山を請け負っていた村井茂兵衛に継続してその経営を任せ、江刺県にその取締を委任するべきであると上申した。
同年8月、当時の民部大丞・井上馨は尾去沢へ調査のために出張し、その結果、同年12月、大島髙任の上申通り、尾去沢銅山は村井茂兵衛が引き続き経営を請け負い江刺県がこれを取り締まることになった。
少し戻ると明治2年(1869)7月22日、白石藩南部家は旧領の盛岡への復帰と同時に、太政官より70万両の献納を命じられた。
大阪の蔵屋敷の勘定方・川井清蔵は70万両を工面する為に大阪豪商の間を奔走したが既に盛岡藩がブラックリスト入りで借入れは不可能。
国内がダメなら外資という事でイギリス人商人オールトから14万2千ドルを借り入れて献納金の一部を用立てようとしたが、盛岡藩の重役から贋金の損害賠償に充てる金だから、国内の正貨を出来るだけ集めるのが筋で、外資からの借り入れは破談にせよとの指令を受けた。
破談の場合の違約金は5万ドルとなっていたため川井は個人な契約で借入金を借り入れて汽船を運用し、営業の利益で盛岡藩が支払う違約金を調達する方策を考え、藩庁の了解も取りつけて、日本金で124427両2歩を月に1.75%の利子で村井茂兵衛に貸付け営業させることにしたのであった。
明治3年(1870)2月、川井の個人契約で外国人から借金をしたのを大蔵省が疑いを抱いた。
大蔵省から不審を抱かれた川井は、疑惑を糊塗するため、村井を債務者とする偽の借用書を2通作成し、明治3年(1870)2月14日、村井へ偽の借用書への調印を求めた。
村井としては,自分が実際に借りてもいない借金の債務者となるのは、川井に頼まれたモノとはいえ、盛岡藩との親密な関係を考えれば避けられなかった。
偽の借用書は2通作成され,村井からオールト商会宛のもので川井の奥書がある借用書。
しかし,この川井の偽装工作は直ちに露見し、明治3年(1870)6月、川井は民部省へ召喚され,川井は50日、村井は40日の押込処分を受けるに至った。
更に、川井は司法省の尾去沢銅山事件調査により、上記に関連した藩債を自債と詐ったので明治7年(1874)5月18日、司法省裁判所から川井は禁錮1年に処せられることになった。
明治3年(1870)7月、盛岡藩知事・南部利恭は,太政官へ盛岡藩知事辞職願を提出。
建前は「朝敵」の汚名を雪ぐ意図からなされたものであることが窺え、太政官は
「献言ノ趣至誠ノ衷情神妙」
であるとして,明治3年(1870)7月10日南部利恭の本官を免じるとともに盛岡藩を廃して盛岡県を置くことにした。
本音は取り立てが厳しいから太政官に債権譲渡をして、早く支払いから逃げて楽になりたい、というのがミエミエである。
これにより、川井とオールトの借金はどうなったか?
盛岡県は15万両の拝借を太政官政府に願い出て、明治3年(1870)閏10月と同年12月の両度にかけて15万両を貸し渡されたのだか、オールトには振り込まれず、オールトは太政官を相手取り公訴に及ぶこととなった。
オールト関係の外債は,322569ドル余。
207283ドル余は既に入金済みであったので、差引115286ドル余が政府の弁償金残高となる計算であった。
太政官は明治4年(1871)10月に協議の末、元利とも残高115202ドル27セントを外務省からオールトに弁償して旧盛岡藩・村井茂兵衛と英商オールトとの貸借関係は終了したのであった。
ここで,太政官と村井茂兵衛との間で,新たに貸借関係が生じてくる。
盛岡藩は蒸気船による交易事業で外債を返却しようとするも、利益どころか逆に赤字垂れ流し状態で外債の返済すら覚束なかった。
外国人商人から訴訟沙汰となったので、外務省の判断で村井が支払えない為に国が肩代わりする形で明治4年(1871)10月、洋銀145000ドルを支払って落着した。
このように村井茂兵衛が関係している盛岡藩の外債は総計40万円余に上り、これらは総て太政官が支払って処理した。
『世外井上公伝』は,断罪している。
『盛岡藩は諸藩中で実に随一の外債を負つたものであつた。
これも畢竟川井等が村井その他を欺いて借用書に調印させ、会計の実際は自己の手に収め一切他の容喙を許さず、数十万円を塵芥の如く濫費したのに因るものである』
明治4年(1871)9月2日、大蔵省の戸籍寮にあった聴訟所の名称が判理局と改められ、専ら旧藩の外債を審議する独立の部局となった。
そして,この判理局が旧盛岡藩の外債の公私の別を審理するにあたり調査したところ、同藩の用達を勤めていた村井茂兵衛が盛岡藩から多額の借入をしているということを示す多数の「証文」があることが判明した。
一例を示すと
「覚 一,金弐万五千両也 右奉内借 村井茂兵衛」
という「証文」であり、宛名は藩の勘定方であった。
これは村井茂兵衛が藩から「貸付」を受けたことを明証するものであるというのが判理局の見
解なのであった。
しかし村井茂兵衛の側からすれば、これは当時の盛岡藩の慣習上の表現であって、実際は村井茂兵衛が藩に金員を「貸付」けたものであって、決して藩から「借入」れたものではない。藩が民間から金員を調達しても,書類上は「奉内借」と書くのが通例となっていたのであり、例示の「証文」の場合は、村井茂兵衛が藩に代わって立て替えたことを示すもので、藩の「内債」であると陳弁した。
大蔵省は村井がどんな言葉や条件を口にしても、鉱山運用でお墨付きを貰いながら、川井とグルになって偽の借用書を作り、詐欺行為で実刑判決を受けた前科がある為、村井を信じる事が出来なかった。
文言通り、支払いを請求した。
結果、支払えなかったので銅山は差し押さえ、新しい持ち主・岡田平蔵が大蔵省から尾去沢銅山の払い下げを受け経営権を手中にした。
岡田平蔵は,天保8年(1837)3月15日、江戸日本橋村松町で生まれた。
初名は村尾銀次郎。
後に日本橋の金物問屋・岡田平作(屋号・伊勢屋)の養子となり岡田姓となる。
養父の岡田平作は横浜開港を機に輸入業を始め、横浜運上所の諸色目利御用達となり、岡田平蔵が諸色目利役をしていた。
明治2年(1869)10月、太政官を去った薩摩出身の五代友厚とともに、古金銀貨幣を溶解・分析する「金銀分析所」の事業を始める。そして、この金銀分析所で作った地金を大阪造幣寮に納め明治 4 年(1871)造幣寮分析御用を勤めるに至る。
そして,廃藩置県に際しては、
「廃藩の令の下りし時諸藩に奔走して大砲を買ひ神戸に輸りて溶解し更に青銅鉱として売捌きしに,諸藩は大砲の無用となりし頃なれば価の高下をも問はずして乞ふに任せて売りけるゆゑ
思はずも数万円の利を得たり」
というように岡田平蔵の商略は群を抜いており、「伊勢平」と称された。
岡田平蔵は,地金事業を始めてから、鉱山金属に関心を持つようになり、院内・阿仁の鉱山も経営していた。
それで当時関係を深めつつあった大蔵大輔の井上馨との縁を利用し、尾去沢銅山の払い下げを斡旋した。
尾去沢銅山払い下げの手続について言えば、払い下げは非公開で、大蔵省の要路者と平素から密接な関係にある岡田平蔵が、井上馨の内意を忖度した大蔵省担当者と内々打合せの上、村井茂兵衛と「対談」し、尾去沢銅山を譲り受けた。
それゆえ,世人の疑惑を招くことにもなったのであったし、岡田平蔵への払い下げに、井上馨等の「魂胆」が見え隠れする。
その後,岡田平蔵は,尾去沢銅山の経営権を1明治6年(1873)秋に設立した
「東京鉱山会社」
に移し、明治7年(1874)1月、井上馨、エドワード・フイツシャー商会と「岡田組」を設立し、米の取引・輸出事業を始めるが、同年 1 月15日,東京銀座煉瓦街で死体となって発見された。
鉱山は岡田家に返され、「岡田組」は最終的に三井物産になった。
明治6年(1873)6月10日、茂兵衛は死去、鉱山が彼の元に戻ることはなかった。
盛岡藩の70万両は尾去沢銅山事件として終幕した。
藩から県へ、そして海外へ
戊辰戦争後、太政官は官制改革や地方行政の改革を行い、それを各藩に求めた。重点は身分格式や職制の簡素化、給与の圧縮である。多くの藩は戊辰戦争で財政が逼迫し、問題解決の為、こうした改革と向き合わなければならなかった。
庄内地方の南半分を領地とする大泉藩も例外では無かった。
人口が農民・町人が79934人、戸数14744軒、士族(旧家中)1055人、卒族(旧給人)3515人、戸数1860軒であった。
大泉藩は今までの部屋住みの人間や陪臣、中間などを上士、下士に取り立て、これに家禄を与えた上で、ここから家禄を削ったが上士側が削減した割合は多かった。
大泉藩はこれを元手に本間家を通じて三井組に斡旋して横浜のアメリカ人商人から明治2年(1869)9月20日、13万両で蒸気船を購入した。これは酒田県が庄内米を東京で売りさばいて利益をあげているのに対抗し、大泉藩も庄内米を東京で売りさばいて利益をあげるための輸送手段としてである。蒸気船は明治3年(1870)5月24日に大泉藩内の加茂港に入港、就航した。
加えて同年6月からは藩営の生糸貿易を開始し、外国商人から前金として15万両を受け取り、3年で生糸を引き渡す契約となっている。この為、藩は生糸・真綿の生産を奨励し、管理・統制をする布達を出した。
蒸気船の名前は善宝丸と明治2年(1869)11月23日、大泉藩の御用状に記されている。
人事面では藩治職制に基づき、明治2年(1869)7月22日、大参事に松平親懐、松平久厚、権大参事に菅実秀、酒井玄蕃、水野藤弥、松宮長貴が就任した。
同じ頃、同年2月に嘆願書を出していた西蝦夷地の開拓に許可が降り、北海道虻田郡の支配を命ずる文書が届いた。
明治3年(1870)3月には常備軍を編制するので、銃砲類の返却を求める願書を提出し、同年5月25日、小銃720挺が返還され、6月7日には東京市中警備で大泉藩兵が上京した。
大泉藩も太政官の改革をうけて、士族・庶民の意見を取り入れる為、広議所を開設したが、開店休業であった。
大泉藩の財政は収入が米68953石、金2741両、その他蝋・塩・漆で支出は藩主家禄が12000石、士族・卒族の家禄が45700石、藩庁、東京藩邸の人件費、維持費が18324石、金5337両、その他寺社、御用達の費用があり、差引き、米2741石、金1770両が不足とある。
藩債は大阪商人から176366両、東京商人から367740両、鶴岡・酒田商人から235617両を借り入れ、合計779723両となり、外国商人からの借り入れは無し。
他の藩では和歌山藩が津田出や陸奥宗光が実権を握り、太政官から許可を貰いドイツ式の国作りを行い、徴兵制度を導入して成果を挙げていた。鹿児島藩は西郷隆盛が実権を握り、和歌山藩に弟の西郷従道を派遣して報告を聞き、藩政改革を実施した。
明治3年(1870)8月、前当主・酒井忠篤は犬塚勝弥、長沢顕郎(諱は惟和、松平親懐の弟。)を鹿児島に派遣し、藩知事・島津忠義と西郷隆盛に親書を渡し、戊辰戦争時の御礼を述べたいのと、今後の指導を懇願し、来訪の許可を求めた。
大泉藩は更に前当主・酒井忠篤自ら藩士70名(分家筋の松嶺藩士16名を含む)を引き連れて明治3年(1870)11月12日に東京を出発し、12月10日鹿児島を訪問した。
鹿児島では集成館事業を見学、1日に600人の職人が兵器廠で4斤半鉄製施条砲や砲弾を製作したり、戦争が終わり安くなったミニエー銃を買い漁り、スナイドル銃に改造して配備したり、火薬製造所、紡績工場、精米所、製糖所、造船所、反射炉などで働いている、と記し、兵学寮に入って実習を受けたりと、明治4年(1871)3月まで滞在した。忠篤が一番ヤル気に満ちていて、藩士と共に寝食を共にし率先して学ぶなど、見学に来ていた西郷や島津藩知事が驚くほどだった。兵学寮には全国から人が集まり千人ほど在籍していた。
何故、こんなに力を入れるのか、と忠篤らが訊ねると、外遊から帰国した太政官の役人に聞くと、普仏戦争やロシアの南下政策、朝鮮の騒乱など世界中がきな臭いので、それに備えている、と鹿児島藩の公式見解が有った。
西郷隆盛は明治4年(1871)2月、勅命により上京。改革を行うには太政官に力の裏付けがないとイケないと、鹿児島で育成した薩摩軍団を中心に御親兵を創設し、全国に圧力をかけた。
大泉藩で国許担当の権大参事として他の2人(水野・松宮)と共に勤務していた玄蕃は太政官より兵部省出仕の内命を受け明治4年(1871)5月に上京。
残りの権大参事・菅実秀は明治2年(1869)1月4日に鶴岡を離れ、ずっと東京に滞在して太政官との折衝に務めていた。
玄蕃は鹿児島から帰ってきた忠篤や藩主の忠宝の相談役になり、菅はこの頃、西郷と初めて出会い、心酔する様になる。
その西郷は一向に改革が出来ない太政官の有り様にイライラが募り、俗物どもの粛清に乗り出すのでは?というデマが流れた。
西郷が嫌悪する俗物どもは
山県有朋、井上馨、
鳥尾小弥太、
野村靖ら長州系実務官僚達と大隈重信らだが、彼らは彼らで中央集権を達成するには廃藩置県しかないと考えていた。最大の抵抗勢力は当時、東京に居て鹿児島藩兵を御親兵に送り込み、参議に就任していた
西郷隆盛だと考えていた。
彼らの中で事態の打開を謀る為に、誰が西郷を説得するかで問題になり、井上と大隈は西郷から嫌われており、一番嫌われていない山県が西郷と面会した。
山県が「楽に国を強く出来る方法として藩や県を無くして一つにまとめる廃藩置県があるんですけど、賛成ですか?ハイですか?」
と話し掛けると、西郷は「賛成に決まっているじゃないですか!誰ですか?オイが廃藩置県に反対しているとデマを流すのは?井上とか大隈ですねwwwオイは廃藩置県をするなら、反対派が出ると思い、対抗できるだけの戦力を集めて、陣頭に立って戦争をする覚悟でここに来ました。誰も廃藩置県の話をしないから、みんな諦めたのかと失望して、鹿児島に帰ろうと思った。山県、本音を打ち明けてくれてありがとう!オマンさあ、俗物どもから卒業じゃ!」と語り、山県が呆気に取られて、
「西郷さん、嘘じゃないですよね?」
と確認すると西郷は
「大隈みたくクルクル手のひら返さないし、舌も10枚くらい重ねたサギ師のアニキ分じゃないし、二言は無いよ」と返答した。
この結果を受けて、山県、井上、大隈らは大久保、木戸に話をして同意を取り付け、さらに三条、岩倉に話をして、三条、岩倉が明治天皇に謁見、廃藩置県の詔を布告して、廃藩置県が実行された。
明治4年(1871)7月14日の事である。
270の藩を廃止、国直轄の県とし、県は統廃合し、最終的に3府72県となった。
2年前の版籍奉還によって藩知事とされていた大名には藩収入の一割が約束され、東京居住が強制された。
藩知事および藩士への俸給は国が直接支払い義務を負い、のちに秩禄処分により削減・廃止された。
また、藩の債務は国が引き継いだ。
各藩が出していた藩札の回収・処理を行って全国一律の貨幣制度を実現する必要性もあった。
藩札の合計は3909万円、(藩札を除く)藩債の合計は当時の歳入の倍に相当する7413万円(=両)にも達していた。
太政官は藩債を3種類に分割した。
•明治元年(1868年)以後の債務については公債を交付しその元金を3年間据え置いた上で年4%の利息を付けて25年賦にて太政官が責任をもって返済する(新公債)
•弘化年間(1844〜1847年)以後の債務は無利息公債を交付して50年賦で返済する(旧公債)
•天保年間以前の債務については徳川幕府が天保14年(1843)に棄捐令(無利子年賦返済令)を発令したことを口実に一切これを継承せずに無効とする(徳政令)
届出額の半額以上が無効を宣言されて総額で3486万円(うち、新公債1282万円、旧公債1122万円、少額債務などを理由に現金支払等で処理されたものが1082万円)が太政官の名によって返済されることになった(藩債処分)。
新公債は、西南戦争の年を除けば毎年償還され、1896年までに予定通り全額が償還された。旧公債も、1921年に償還を完了した。
大泉藩が廃藩置県時点で太政官に申し出た藩債の総額は599441円(外債は無し)、公債として113307円を引き受け、残りは無効とした。
本間家などの御用商人兼地主層は大打撃を受け、本間家はこれで財閥になり損ねたと言われた。
廃藩置県が急速に行われた最も重大な理由は軍制の統一、財政の健全化。
軍制については、全国的な徴兵制を敷くことを可能にした前提条件として、明治4年(1871)制定の戸籍法に基づいて翌年(1872)に壬申戸籍が編製され、国直轄の県が成立して人口の管理が統一されたのは大きい。
この戸籍により、当時の日本の総人口は3311万人と集計された。
藩の軍事組織を解体し、徴兵令によって軍を再編成することによって統一が図られた。
明治5年(1872)11月28日太政官布告第379号の徴兵告諭に基づき、翌明治6年(1873)1月10日に徴兵令が施行。
以後徴兵規則に基づき、毎年徴兵による新兵の入営日となった。
兵役年限を常備3年・予備3年・後備4年の計10年に延長、兵役範囲を縮小、海軍徴兵を別に定めるなど国民皆兵を理念とはしたが、体格が基準に達しない者や病気の者などは除かれ、また制度の当初、
「一家の主人たる者」
「家のあとを継ぐ者」、
「嗣子並に承祖の孫」(承継者)、
「代人料を支払った者」
「官省府県の役人、兵学寮生徒、官立学校生徒」
「養家に住む養子」
は徴兵免除とされた。
このため、徴兵逃れに養子になる等の徴兵忌避者が続出し、徴兵免除の解説書まで出版されたりもした。
この結果、二十歳以上の男子の3%~4%くらいしか徴兵できなかった。
元ネタは和歌山藩が導入した徴兵制度を下敷きにしている。
財政面では、廃藩置県直後の歳出のうち、37%が華士族への秩禄であった。
その大部分を占める士族に関しては徴兵令によって家禄の根拠を失わせ、さらに秩禄処分によって華士族の秩禄を完全に廃止することで財政の負担は軽くなり、改善が図られた。
府県の行政は太政官が任命した県令が担当するのだが、大泉藩の場合、大泉県となったが県令は空席で大参事が松平親懐(権十郎改め)、権大参事は菅実秀、酒井玄蕃らが務めていた。
ここから玄蕃と忠篤・忠宝は大泉藩を離れていく。先ず、忠篤が同年8月12日に兵部省7等出仕、玄蕃が17日に同じく兵部省7等出仕として任官、これに伴い、大泉県権大参事を免職になった。忠宝はドイツ語習得の為ボルツの屋敷に寄宿した。
廃藩置県に伴い同年8月20日、藩兵の解体と4鎮台が設置された。この時の鎮台兵は徴兵制度施行前なので、御親兵からの移籍組と士族の志願者による壮兵によって構成。常備兵への編成替えが布達された。東京鎮台は近衛兵との兼ね合いがあり、分営を新発田に設置した。新発田分営に送る為、旧大泉藩から200人を派遣する事になり、募集と引率を玄蕃が担当する事になった。
まず10月に庄内に赴き、人選をした後、同年12月9日に庄内を出発して、新発田の分営に人を届け、東京へ帰り報告した。この頃から体調不良による発熱が出て来る。
玄蕃は明治5年(1872)1月18日、兵部省を退職した。同年3月16日付で同郷の陸軍大尉・北楯利盛に宛てた手紙に「肺の病気で退職しました。療養に専念しろと医師の指示です。東京は薬も医師も良いから、その内、回復しますよ」と肺の病気が理由と記している。
その後、熱海で湯治をしながら、その合間に同年4月19日、横浜に赴き、西郷隆盛から「この人は本当に国を支える人物に相応しい」と認められ、推薦によりドイツへの官費留学で軍事学を学ぶ酒井忠篤と長沢顕郎を見送る。前述の大山綱良と対面したのがこの後、22日には熱海に戻り湯治をしながら、6月3日に東京へ赴きドイツ人医師から「完治には時間が掛かるから薬を飲んで気長に養生して下さい」と診察結果を言い渡された。
再度、明治6年(1873)2月17日、西郷の推薦によりドイツへの官費留学で法律を学ぶ酒井忠宝と神戸善十郎を見送り、故郷庄内に5月28日に戻り、しばらく療養生活に入る。
療養生活中の玄蕃宛てにドイツで留学中の忠篤から近況報告の手紙が届く。
大略は
「ヨーロッパやアメリカの、その空気を吸うだけで僕は高く飛べると思っていたのかなぁ…」と海外留学すれば成長出来ると思うのは大間違いだ!予め、基礎がないとどんな応用も身に付かない、基礎は大事とか、日本人がいても、勉強するのはあなた自身と、後からくる弟に良く釘を差しておいてくれ、と頼んでいる。それとは別にドイツ軍、ロシア軍、オーストリア軍の軍事訓練を目の当たりにしたが、庄内、薩摩、日本陸軍と参加したり見学したが、ヨーロッパは軍事の本場だけあり、レベルが段違いだ、これに追いつくのは大変だが、頑張ってみせるとか、士官学校の勉強が大変、日常会話は普通に出来るが、軍事知識、特に欧州の歴史に対する積み重ねが無いのがキツい。せめてフランス、イギリス、オランダの軍事史があったら送って欲しい、とお願いしている。
忠篤は7年間、忠宝は6年間、ドイツに留学していた。
同年11月13日に庄内を出発し、東京を経由して12月15日、横浜で乗船、熊本経由で30日鹿児島に到着。この時、酒田県の役人として栗田元輔、伊藤孝継の2人が一緒だった。
明治6年(1873)10月の政変で下野した西郷隆盛の本音を確かめるべく、派遣された。
明治7年(1874)1月9日、この時初めて西郷隆盛と会見。この会見を玄蕃は手記に記しており『近世日本国民史』第87巻によると、西郷が朝鮮との国交樹立を熱望したのは、ロシアの南下政策に対抗、清朝と日本と朝鮮でこれに備える為の一つだとしている。
同月25日まで鹿児島に滞在しており、篠原国幹ら私学校党の士族と意見交換をし、後に庄内から留学生を送る話を決めて、明治8年(1875)12月、伴兼之、榊原政治が私学校に留学する。
同年2月9日東京に、24日に庄内に戻り、酒田県首脳部に復命報告をした。
この後、3月に東京に赴き湯島にある酒井忠宝の屋敷の一室を借りて生活。外務省に出入りし、清国の事情を聞きながら、北海道開拓使長官に就任していた黒田清隆から個人的に「清国の事情、地理、軍事力の実態を探索し、万が一、開戦になった際の戦略を具申せよ」と特別任務が与えられた。
反面、体調は悪くなる一方で、同年9月30日、父親に宛てた手紙には「咳き込むと痰に血が混ざったモノが出て来る」と記していて、肺結核の初期症状が出ていた。
合間をみて、庄内出身で陸軍に在籍している士官、下士官の為に湯島の屋敷で兵学教室を開いている。
明治4年(1871)7月14日の廃藩置県後、統廃合を繰り返し庄内地方は同年11月2日、第二次酒田県として成立、県庁は酒田に置かれた。
第二次酒田県は県令が置かれず、大参事に松平親懐、権大参事に菅実秀、残りの役人全てが庄内士族による独占であり、この有り様を「100万石より価値がある」と喜んでいた。
太政官は、県令に他藩出身者を任命したが、酒田県と鹿児島県は例外とした。後世の歴史家から士族集団の割拠主義の典型と評され、中央集権の妨げとも呼ばれた。
この人事を認めたのは西郷で、太政官が直接統治した明治2年(1869)7月20日に成立した第一次酒田県、明治3年(1870)9月末からの第一次山形県酒田出張所が民衆騒動を鎮圧出来ず、
統治が破綻していたのに比べ、大泉藩はキチンと民衆に対する締め付けが成功していた実績を評価し、第二次酒田県を庄内士族に委ねた。
先に記すと、酒田県は大泉藩時代から武器や軍隊を引き継ぎ、明治5年(1872)1月から天狗騒動を鎮圧、指導者20名を逮捕、内16名を投獄、4名を自宅軟禁としたと同年2月17日、太政官に報告し、4年間にわたる騒動を鎮圧した。
戻ると、版籍奉還や廃藩置県で反発が少なかったのは太政官が華族、士族に
秩禄(=年金)が与えられ、最低限の生活保障があったから。
しかし、太政官にとって歳出の37%が華士族への秩禄は財政上の負担であり、当時、参議の職にあった西郷隆盛は、問題の解決をはかるべく、大蔵省に処分案を依頼した。これによると、秩禄の30%を削減し、残りも6年位で打ち切る。その6年分にあたる禄券(=金禄公債)を手渡し、その売買を許す、というモノ。
珍しく、反対する者は情け容赦無く斬り捨てる木戸孝允が慈悲が無さすぎると反発し、岩倉具視、大久保利通は西郷さん、乱暴過ぎ、もう少し穏やかに行こう、として実施はより緩く行われたが、それでも士族たちはブチ切れていたから、西郷案なら暴動確定であったかも。
それでも、禄券がある内に士族の転業、転職を支援して、出来るだけ落伍者を出さない様にしたい太政官の趣旨は見えてくる。
西郷と出会った頃の菅実秀が強く影響を受けて、士族を転業させて殖産興業を担いたく、地元で先ず実例を示したいと西郷に申し出た。
何をしたいのか?と西郷に問われると菅が養蚕と茶の栽培をしたいと返答した。生糸は当時、日本の輸出産業で輸出総額46%、茶は26%とこの2品目で72%のシェアを占めていた。これなら国策に叶い、士族も助かり、地元も助かる一石三鳥の事業だと菅はその構想を西郷に話した。
士族の殖産興業は西郷も薩摩島津家時代の友人・
桂久武(都城県令。旧家老)が霧島山麓で試行しているのを見て、道半ばという雰囲気であり、菅が行い、全国で士族が転業して殖産興業を行えば、士族が社会の厄介者にならないで済むという意図が有った。
明治5年(1872)4月、酒田県は旧大泉藩の常備兵360名を選び、隊を組に改め、開墾に当たらせた。開墾地は鶴岡の東・赤川沿いの3万坪の荒れ地の払い下げを受けた。
堤防を築き、開墾も1ヶ月で桑畑の植付け、茶の種を蒔き終えた。
次は旧庄内士族3千人(この中には
新徴組が含まれている)を月山の麓にある
後田林の丘陵地帯235haの開墾へ動員し、明治5年(1872)8月17日に開墾を始めた。
元藩主・忠発が視察に訪れ「松ヶ岡」と命名。
開業資金は酒田県が太政官から許可を得て、44219円と米1940石を庄内士族に援助した。庄内酒井家名義で23534円が援助、本間家から10000円が援助され、旧御用達からの援助を得て、援助金は87798円に達した。この時、大泉藩に戻された30万両が、酒田県の手により、開墾事業に流用されたと言う話が出て来た。明治6年(1873)2月に
新徴組が脱走、同年5月には酒田県の役人から、
金井質直、
栗原進徳、
本多允釐ら10余名が東京の司法省に訴え出て、菅実秀の横暴、開墾の強制、県が開墾名義で軍隊を解散してない事を訴えた。
太政官内部でも参議兼司法卿・
江藤新平や参議・大隈重信や大蔵大輔・
井上馨などが話を聞いて、調査をしようと提案したが、当時、太政官の実権を握る西郷隆盛は、酒田県幹部の言い分を全面的に採用し、司法省(江藤)や大蔵省(井上)に圧力をかけて訴えを退け、新徴組や金井らを絶望のドン底に叩き落とした。
明治6年の政変で西郷隆盛が失脚すると、今度は庄内農民から訴えが出て来て、他所は明治4年(1871)田畑勝手作、同5年(1872)田畑売買、職業自由の許可を行い、壬申地券発行、同6年(1873)地租改正と土地所有制度を改めているのに、酒田県だけ米で税金を納めるのはなぁぜなぁぜ?と問い詰め、旧税制だと農民は収入の75%を奪われるが、地租改正後は60%まで下がるから、地租改正から今までの過払い金請求を行った。
裁判の結果、松平親懐が禁固235日、新徴組に虐待をした人たちに禁固90日の実刑判決が下された。
菅実秀以下の酒田県幹部は無罪だったが、太政官に睨まれた事もあり、菅は明治7年(1874)11月に酒田県を退職した。
税金の過払い金請求が行われ、農民一人につきワッパと呼ばれる弁当箱に入るくらいの金が返金されたので後世、『ワッパ騒動』と呼ばれた。
酒田県は鶴岡県を経て山形県となり、県令のいない酒田県には
三島通庸が県令に就任、そのまま山形県令に就任し、ワッパ騒動で農民に返還される過払い金を半分土木建設の費用として流用した。
故郷庄内が大荒れの時期、玄蕃は太政官の密命で清国に渡っていた。
清国へ
明治7年(1874)10月3日、北海道開拓使専用船・玄武丸は横浜港を出港し、天津へ向かった。
太政官、しかも薩摩閥のやらかした台湾出兵の後始末をするべく、清国の首都・北京に派遣された。
明治4年(1871)10月に琉球人、明治6年(1873)3月に小田県の住民が台湾に漂着した。
前者は先住民に漂着した66人中54人が殺され、後者は4人漂着して、先住民から略奪され危害を加えられそうになったトコロを清国政府が救い出し、体調が戻ってから上海経由で東京に戻した。
前者の件で琉球を預かる鹿児島県令の大山綱良が上京して東京の外務省に出兵を提案、外務省は明治6年(1873)外務卿・
副島種臣が清国との間に締結された日清修好条規の批准書交換で清国に渡るのに合わせて台湾漂着民問題も含めて交渉、台湾問題が未解決のまま副島は明治6年政変で外務卿を辞め、後任が
寺島宗則となった。
太政官は薩摩閥を中心に士族の不満が溜まっているのを感じ取り、ガス抜きの為に台湾出兵を実施した。
理由は先住民に危害を加えられたから、である。
太政官内部で参議・木戸孝允は
「自分で決めたルールを勝手に変えるな、このダブスタクソ野郎!!」と反対し、陸軍卿・山県有朋は徴兵制度が始まったばかりで軍の編制も途中で対外戦争など無理ゲー、と反対し、日本の保護者ヅラしていたイギリス公使・ハリー・パークスも国際紛争に進展しそうだからと全面協力を約束していた兵員輸送をキャンセルすると反対し、台湾出兵に際して日本の民間企業を活用しようと三井と太政官の半官半民の日本国郵便蒸気船会社まで協力を断るとしてきた。
大久保利通と大隈重信が兵員輸送を民間企業の三菱・
岩崎弥太郎に頼むと、郵便汽船三菱会社の持ち船13隻を全て輸送船として提供。
明治7年(1874)5月6日〜6月3日の間、陸軍中将・
西郷従道を総司令官として兵員3650名、軍艦5隻、輸送船13隻、軍事費770万円を投じ、戦死者12名、風土病による病死561名。
この出兵に全面協力した三菱は株が爆上がり、大久保、大隈から絶大な信用を得た。
郵便蒸気船会社は明治8年(1875)3月、解散に追い込まれ、太政官が所有船18隻を買い上げ、無償で三菱に払い下げた。
大久保、大隈は三菱を徹底的に贔屓にし、年間25万円の助成金を交付し、日本海運界最大の船会社になった。
良かったのはこれだけで、後は難問山積。
宣戦布告無しに出兵したから、清国、アメリカ、イギリスから非難轟々、特に米英からは東アジアの平和と安定を脅かすテロ国家と名指しされた為、駐清特命全権公使・
柳原前光が明治7年(1874)4月8日から清国側代表、直隷総督・
李鴻章と北京で交渉を行うが相手にならず、内務卿・大久保利通自ら全権弁理大臣として明治7年(1874)8月1日、清国派遣を命じられ、同月6日東京を出発、9月10日に北京入りした。
この頃、黒田清隆は、大久保と共に北京行きを希望したが却下され、交渉決裂に備えて大久保宛ての書簡、陸軍卿・山県と海軍大輔
川村純義の密書を持参した密使8名を玄武丸に乗せて派遣した。
交渉決裂時は大久保達を連れて日本に帰す役割を担っているので、船は天津近郊に碇泊し、8名は清国入りした。
海軍卿・
勝海舟は出兵反対派で、太政官内外で賛否両論が渦巻き、台湾出兵自体が薩摩閥の軍事ピクニックという雰囲気だった。
明治天皇は台湾よりロシアに備えて朝鮮問題を解決すべきでは?と提案してきたが、朝鮮問題こそ時間が掛かる案件なので後回しにしたいのが、薩摩閥の本音であり、台湾や琉球は島津家時代からの薩摩閥の縄張りなので他人に邪魔されたくないのである。
その密使に玄蕃が選ばれていた。
密使の人達
人物 |
出身藩 |
備考 |
松村淳蔵 |
鹿児島藩 |
密使の時点では海軍中佐。後に海軍中将まで昇進。 |
調所廣丈 |
鹿児島藩 |
密使の時点で開拓幹事。名前の読み方を変えた調所広郷の三男。後に貴族院議員になる。 |
志岐守行 |
鹿児島藩 |
密使の時点で海軍大尉。後に陸軍に転籍して西南戦争で戦死。 |
石﨑次郎太 |
長崎 |
徳川時代は長崎通訳。満州語の翻訳や辞書の編纂を仕事にしていた。密使の時点で大蔵省8等出仕。後に外務省に転籍。 |
寺田良輔 |
徳山藩 |
密使の時点で開拓使8等出仕。後に郡長を歴任。 |
矢沢幸 |
佐賀藩 |
密使の時点で海軍13等出仕。一行の中では唯一の10代(17歳11ヶ月)。 |
勝山重良 |
大泉藩 |
玄蕃と同郷。密使の時点で酒田県士族。開拓使のNo.2、松本十郎(上述の戸田総十郎が改名した)の推薦。松本、玄蕃、勝山は致道館の同期生。松本と黒田は北海道開拓使つながり。 |
幸い、交渉決裂とはならず、李鴻章と大久保の間で話はまとまり、戦争にはならなかった。
この時に締結された日清両国間互換条款によると
- 清国が日本の出兵を認め、賠償金10万両を支払う。
- 40万両は台湾国内の設備投資に使う。
で台湾は清国のモノ、琉球からの漂流民は日本人として扱う=琉球は日本の領土という事などが決まった。
玄蕃も結果として清国内を旅する事になり、この旅を日記に記している。
中には廬山、泰山、黄鶴楼といった漢詩の舞台になった場所を訪ねた話も。
天秤座の黄金聖闘士はいなかったのかな?
明治7年(1874)12月4日、帰国。黒田清隆宛てに現時点で日清戦争をしたら、という意味の報告書『直隷経略論』を提出している。
蒸気船が足りないから大量の兵を運べない、食料の現地調達は厳しい、河が広く橋が無いため、渡るのが困難、黄砂に慣れないと肺をヤラれる、都市は城壁が高く街そのものが城である、住民と言葉が交わせないから情報が取れない、土地が広く、兵が足りなくなるとし、これらを解消しないと、戦争は金の面でも兵の面でも無理です、と報告書をまとめている。
晩年
帰国後、玄蕃は再び療養生活に入った。
東京にいた時は遠藤厚夫と手紙のやり取りを行い、体調悪化を記している。
明治8年(1875)5月28日、庄内に帰郷したが、その顔は
「やつれて黄色を含んだどす黒い色」と言われ、昔日の美男子の面影は無くなりつつあったと、黒崎馨が日記に記している。
少し体調が良くなると、家族、兄弟、親と外出して湯治や釣りをして、水入らずの日々を過ごしていた。
それでも、晩年の玄蕃は
「君、寡言沈黙、一家団欒の中でも笑うこと無く、終日座り、読書に耽り、その容貌は温和にして婦人のようであった」と後年、回想されていた。
同年10月5日、東京に向けて旅立つ。
先月、朝鮮半島にて江華島事件が勃発。
同年12月9日、黒田清隆が全権弁理大臣に任命されると、玄蕃は死に場所を朝鮮に求めて黒田へ随員に入れてくれるように頼んだが、黒田の返答は
「あ、玄蕃はダメ。これ3人用だから」
と断られ、落胆を露わにした。
この時、太政官の李氏朝鮮に対する外交方針を
「金銭を取るのでもなく領土を広げるのでもなく、ただ開国させることだけが目的」と日本がペリー艦隊から受けた「砲艦外交」に重ねた。
明治9年(1876)1月29日、精神的落胆が大きかったのか、更に体調を崩し、呼吸不全に陥る。
その間、寿命を感じたのが1月27日に遺書を作成して、家族、兄弟に宛てている。
大略は
昔を懐かしむのは止めて、刀など家宝も売り払い、農業を営みながら、一家団欒する喜びを噛み締めよう、というモノ。
同月30日、主治医が手に負えず、東京の医者に診てもらうようにとの事で、無理を押して東京湯島の酒井邸に移る。
明治9年(1876)2月5日、満33歳3ヶ月で死去。
法号は寂静院殿玄誉湛然義勇居士。
墓は谷中霊園にある。
家族、親族のその後。
後妻の玉浦との間に1男2女を設ける。
玉浦は義経流長刀免許皆伝の腕前を持つ才色兼備の婦人であった。
明治40年(1907)5月15日死去とあり、60歳で没した。
長男・了敏は慶応4年(1867)4月13日に生まれ、明治11年(1878)6月25日、10歳で病死。この為、玄蕃の酒井家の家督は、弟の調良が相続する。彼は柿の品種改良に励み、新種の種無し柿の栽培に成功し、これが皇室にも献上された。
長女・梅岡は明治3年(1870)年生まれ、次女・お三は明治7年(1874)生まれ。
父親・了明は明治16年(1883)に亡くなっている。66歳であった。
後世の評価
戦前は優秀な指揮官として、反太政官陣営の中では
河井継之助、
土方歳三、
立見尚文と同列に扱われていた。
太政官側の優秀な指揮官は大村益次郎、
板垣退助、伊地知正治、
山田顕義、山県有朋あたり。
メディア
NHK大河ドラマ『八重の桜』や映画
『峠 最後のサムライ』、『十一人の賊軍』など、奥羽越列藩同盟が主題となるような作品は多くあるが、大体が敗者をクローズアップしている作品だからか、列藩同盟の貴重な勝者である玄蕃が登場することはない。
歴史特集番組であれば、NHK『歴史への招待』や『歴史秘話ヒストリア』、『英雄たちの選択』で取り上げられたこともあり、知る人ぞ知る人物であると言えよう。
玄蕃が鹿児島県に留学生として送り出した伴兼之、榊原政治の話は日本テレビ系年末時代劇スペシャル『田原坂』で放送されている。
フランス留学の話を断り、篠原国幹へ西郷軍に志願する場面や2人が戦死する下り、伴には12歳年の離れた鱸成信という兄がいるのだが、そちらは太政官に与し、兄弟に分かれて争い、鱸成信も戦死している場面も放送されている。
何故か、玄蕃はカットされているが•••••
今後のメディア展開が期待される。
ゲームでも取り扱われたことはないが、漫画『
氷室の天地 Fate/school life』の作中ゲーム『英雄史大戦』で偉人カードとして登場。作中プレイヤーである木下の「マイナー日本偉人デッキ」の一人。「
ぼくの考えた最強偉人募集」という読者投稿企画で採用されたキャラクターで、能力(宝具)は使用していた軍旗「破軍星旗」で自陣営にバフ、敵陣営にデバフを与える地味だが堅実な効果。木下の試合の後も
美綴綾子に託されて使用されるなど長く活躍した。
参考文献
酒井玄蕃の明治−坂本守正【荘内人物史研究会】
幕末維新戊辰戦争事典−太田俊穂【新人物往来社】
明治維新資料−幕末期【荘内資料集】
明治維新資料−明治期【荘内資料集】
庄内藩−斎藤正一【吉川弘文館】
戊辰戦争の資料集−箱石大【勉誠出版】
新編庄内人名辞典
出羽松山藩の戊辰戦争【松山町史−史料集】
補定戊辰役戦史・下巻−大山柏【時事通信社】
異形の人・厚司判官松本十郎伝−井黒弥太郎【北海道新聞社】
佐賀藩銃砲沿革史−秀島成忠編【原書房】
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- 雑談ページで悩んでたのってこれか・・・まあ大政奉還は建前で幕府が相変わらず封建しようとしてたのはわかった -- 名無しさん (2025-04-06 21:30:47)
- 建て主です。最近の研究も踏まえてキチンと記事作成したら、長くなりました。スミマセン。 -- rokudenashi37564 (2025-04-07 12:26:08)
最終更新:2025年04月25日 22:16