酒井玄蕃

登録日:2025/04/05 Sat 19:20:34
更新日:2025/04/25 Fri 22:16:08
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酒井(さかい)玄蕃(げんば)(1842〜1876年)

幼名は虎之進(とらのしん)、通称は家督相続前は吉弥(きちや)、相続後は吉之丞(きちのじょう)玄蕃(げんば)、諱は了恒。(了恒の読み方には、アサツネ、サトツネ、ノリツネ、ヨシツネ、レウコウなど諸説あり)。
字は伯通(はくつう)
号は脩古堂(しゅうこどう)淳古堂(じゅんこどう)


画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sakai_Noritsune.jpg ウィキメディア・コモンズより。酒井玄蕃の肖像写真。


概説

出羽庄内酒井家家臣。
戊辰戦争では敵方の太政官から「鬼玄蕃」の二つ名で怖れられ、常勝不敗を謳う庄内軍の象徴的存在だった。
戊辰戦争後は役人を務めた後、民間軍事アナリストの先駆けみたいな事をした。

誕生

天保13年(1842)11月12日、出羽国鶴ケ岡城下に出羽庄内酒井家(石高14万石)家臣で父・酒井(さかい)了明(のりあき)、母・(いち)の間に長男として生まれた。

出羽庄内酒井家は徳川四天王の筆頭を務める譜代大名の名門。
その中、酒井家の身分は当主・酒井家の親族*1で代々吉之丞、玄蕃を名乗り家禄は1300石。
もう一つの酒井(さかい)奥之助(おくのすけ)家(出羽庄内酒井家初代・忠勝の9男が初代当主。家禄は1100石。)と共に両敬家(りょうけいけ)と称され、家臣というより歴代当主の相談役として重んぜられ、御家の危機以外は役職に就かなかった上級武士の家柄である。


庄内酒井家には家中(かちゅう)給人(きゅうじん)の区別があり、家中が約500人位ほどのキャリア組(上級武士)で給人は足軽など約2000人ほどのノンキャリア組(下級武士)だった。
このほか、高禄の武士に仕える陪臣(ばいしん)と呼ばれる家来や中間(ちゅうげん)などを含めると2800人程になる。
幕府開闢(かいびゃく)時に徳川宗家が定めた軍役は、1万石につき約200人であるから、ほぼ規定に沿う。


戦前を代表するジャーナリスト・徳富(とくとみ)蘇峰(そほう)の著書である近世日本国民史(きんせいにほんこくみんし)に、庄内酒井家の気風を紹介している。
「庄内の若者は質実剛健が服を着て歩いている。雨や雪の日でも傘はささない。草鞋を履き、蓑笠の格好で出ていく。下駄を履くなど言語道断、自分で拵えた草鞋か草履で外出する。
衣服も腕を覆い、膝を隠すに過ぎない。晴れ着など無く、どこに行くもこれしか着ない。寒くなったからと言って、綿入れなど論外、僅かに単衣を羽織る程度である」

嘉永5年(1852)、10歳になり酒井家の学問所・致道館(ちどうかん)に入学する。

武芸は重正流馬術、新九流兵法を免許皆伝。
軍学は軍学師範・秋保政右衛門(あきほまさうえもん)より、寄合組の頭となるべき候補者10人の一人に選ばれ、調練稽古の節、熟練と認められた。

青年時代

安政4年(1857)15歳にて元服し、吉弥と名乗る。
妻は初め、同家家臣・石原郷兵衛(いしはらごうべい)の娘・千代岡(ちよおか)と入籍したが、しばらくすると離縁している。
理由は不明であるが、しきたりなど家の雰囲気に馴染めなかったのかも知れない。
万延元年(1860)2月22日、18歳の時、後室として同家家臣・中村(なかむら)七兵衛(しちべえ)(諱は嘉之(よしゆき))の三女・玉浦(たまうら)(13歳、5歳年下)と入籍した。

文久2年(1862)9月29日、20歳で致道館試舎生に進み、翌年(1863)12月16日、庄内酒井家が江戸市中取締役を命ぜられると、部屋住みの身ながら江戸詰となり、番頭に任ぜられ20人扶持を給わる。

元治元年(1864)7月19日、長州毛利家は京都を追放された長州派公卿、殿様の京都政界復帰を訴える武力行使に出た。禁門の変である。

孝明天皇(こうめいてんのう)の御所に砲弾をぶち込んだ長州毛利家に対して、幕命を受けた庄内酒井家は同年7月26日、江戸麻布桧木坂の下屋敷を接収、玄蕃は二ノ手隊長として務めた。

同年8月14日、大砲長に任ぜられ、同年10月17日、部下を率いて江戸市中に潜入した水戸天狗党の残党2名*6を討ち取る活躍を示したが、自らも左膝に二針縫う負傷を負い、江戸詰を免ぜられ、業務中でも勉学に励んていた事を褒められて帰郷した。

帰郷後、致道館に復学し舎生に進級、慶応2年(1866)1月15日に近習頭見習、2月に近習頭となり、30人扶持を給わる。

その間、家臣団で江川塾の門下生から西洋兵学を学び、独学で孫子、呉氏、尉繚子や和流軍学を学び、それぞれの長所短所を取捨選択して、自分なりの用兵学を構築していった。

先の話になるが、戊辰戦争後も学びを続け、イギリス式、フランス式の軍制に熟練し、軍隊用語はオランダ、イギリス、フランス式を操る事が出来た。

庄内酒井家は幕府から費用手当てとして、元治元年(1864)8月18日、2万7千石の土地を出羽国内に付与され17万石格となり、徳川権力を支える有力大名と位置づけられた。

御家騒動と家督相続


慶応3年(1867)8月30日、母・市が亡くなる。享年43歳。

同年9月11日、祖父・酒井右京(さかいうきょう)*7が政治事件の首謀者として切腹、父親は血縁者という事で隠居・謹慎、家禄1500石から800石が減封され、家禄700石で玄蕃が家督を相続し、同年11月29日に組頭に就任する。


玄蕃の残されたモノを調べると、戊辰戦争後が圧倒的に多く、戊辰戦争前も漢詩や和歌はあるが数は少なく、政治的な立ち位置を明らかにはしなかった。

父・了明と元当主・忠発の関係は微妙なモノで中老に就任するが蝦夷地副奉行として左遷人事を受けたり、任期が終わり、国許に戻ると家老に昇進したが、兄・右京が御家騒動の首謀者と分かると家老を辞職した。

慶応3年(1867)12月25日の江戸薩摩屋敷焼き討ちに関する件は新徴組に任せたいと思う。

戊辰戦争へ


慶応4年(1868)1月3日から行われた鳥羽伏見の戦いに庄内酒井家は菅らを派遣。
日本国大君・徳川宗家当主の徳川(とくがわ)慶喜(よしのぶ)が夜逃げ、全軍総崩れからの撤退となり、雰囲気は最悪だった。

徳川海軍が中心となり、残りの兵や金を集めて江戸に戻った。

菅は1月16日まで大坂に留まり、同年2月18日江戸の庄内酒井家上屋敷に帰着。
松平権十郎らと対談、大坂の情勢を話した後、権十郎から徳川慶喜にヤル気がない、仲が良かった勘定奉行の小栗忠順に話を聞くと慶喜が戦わないなら盟主がいないから戦わないと返答され、江戸を引き払い、国許に戻り、対策を考えると返答。

権十郎は菅に意見を求めると、賞味期限が切れた徳川幕府の看板を掲げて戦うのは論外、慶喜の謝罪状を携えて徳川宗家の存続をお願いするのは上策なんだけど、権十郎さん、やりたくないんでしょ?それは、と発言。

菅が次善の策として関東に割拠して譜代大名や徳川宗家の有志を集めて頑強に戦う事はワンチャン勝てるかもだけど、薩摩・長州、強いては天皇と戦うに辺り、承久の乱みたく束ねるだけの盟主がいないと指摘し、権十郎さんが一番好きな庄内に割拠して戦うのは下策ですよ、と話し、帰ると決まったなら庄内全土を焦土にして、女子供が死に絶えても従わないという断固たる決意を固めて戦いましょうと付け加えた。

慶應4年(1868)1月に庄内酒井家の京都留守居役・中村(なかむら)右内(うない)が京都の薩摩屋敷を訪れ、島津家の京都留守居役に焼き討ちの話を伝えると、島津家としては酒井家の焼き討ちは正当な権利の行使であり遺恨は持たないと断言、酒井家に対して東征軍の中を通り抜け出来る通行手形を手渡した。

同年1月14日、幕末期に京都守護職を務め、孝明天皇の寵愛を独占し、薩摩・長州から妬まれ、薩長同盟の裏書きで打倒の対象、討幕の密勅で殺戮の対象にされた陸奥会津松平家から原政之進(はらまさのしん)相馬孫市(そうままごいち)の二人が当主・松平容保(まつだいらかたもり)の親書を携え鶴ヶ岡城に来訪、庄内酒井家当主・忠篤は江戸にいたので隠居の忠発が謁見した。

原は京都詰公用人として6年間京都に在住し、薩摩・長州が繰り出す権謀術数の生き証人であり、相馬は鳥羽伏見の戦いで兵を率いて最前線で戦った生き証人。

その二人から、孝明天皇の正義を奉じる我々が、亡き父親の言うことを聞かない親不孝者の明治天皇を諌める為、君側の奸で親不孝をそそのかす薩摩・長州を倒しましょう、と申し出を受けた。

この後、同年2月9日、12日と会津側の使節は来訪するが、庄内側は返答を避けた。

同年2月2日、庄内酒井家の江戸屋敷に太政官から徳川慶喜と松平容保の追討令がもたらされ、酒井家的に慶喜への寛大な処置を太政官に申し出る事にして使者・石井与惣(いしいよそう)土屋新三郎(つちやしんさぶろう)を派遣したが、東征大総督府・有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるにとしんのう)に三河吉田駅*8で会い書状を提出したが、参謀・林通顕(はやしみちあき)によって却下された。

林の話は、改めて奥羽に来訪する奥羽鎮撫総督府に書状を提出せよという、体の良いたらい回しであった。

庄内酒井家は薩摩からの申し出もあり、太政官を認めさえすれば、追討はしないという感じだった。

当主・忠篤は同年2月8日江戸城にて徳川慶喜と謁見、慶喜から出羽村山地方7万4千石の徳川宗家領地を江戸治安維持功績の経費として庄内酒井家に与えた。

慶喜は政権こそ大政奉還で返上したが、領地は返上していなかったから、土地は自分のモノであるという認識である。

それだと天皇家が政権運営出来ないから困ると王政復古の大号令、小御所会議で辞官納地を求めて紛糾し、その最中に発生したのが鳥羽伏見の戦いであった。

勝った太政官は同年1月10日、京都三条・荒神口の2つの橋に「旧幕府の土地はオレの土地」と高札を立てたが、電報、電話、FAX、インターネットのない時代に、一片の布告がそう急に全国に徹底する事はない。

更に言えば、諸外国は明治天皇と徳川慶喜を対等の存在と見做して「交戦団体」として内戦に局外中立を布告していた。

忠篤はその2日後、江戸を出発、途中で仙台に立ち寄り、仙台伊達家当主・伊達慶邦(だてよしくに)に慶喜へ寛大な処遇が下りる様に周旋を依頼した後、同年3月9日、庄内に帰国した。

帰国後の同年3月13日、「軍事掛」を設けて以下の5人を任命した。今なら最高戦略責任者という肩書である。
名前(年齢)∶役職の順
  • 松平権十郎(31)∶家老
  • 菅実秀(39)∶当主・忠篤の側用人
  • 山口(やまぐち)三郎兵衛(さぶろうひょうえ)(諱は将順(しょうじゅん))(51)∶元当主・忠発の側用人
  • 和田(わだ)助弥(すけや)(諱は光観(こうかん))(32)∶郡代
  • 山岸(やまぎし)嘉右衛門(かうえもん)(諱は貞文(さだふみ))(41)∶郡代
権十郎が総責任者、山口が酒井家へのつなぎ役*9、菅、和田、山岸は資金繰り、指揮官、兵員、人足などの人的資源のやり繰り、外国との折衝、武器購入等を手分けして担当した。

慶應4年(1868)2月26日、太政官は左大臣•九条道孝(くじょうみちたか)を奥羽鎮撫総督に任命、副総督に沢為量(さわためかず)、参謀は醍醐忠敬(だいごただゆき)、同年2月30日に下参謀として薩摩から大山格之助(おおやまかくのすけ)(諱は綱良(つなよし))、3月1日に世良修蔵が任命され、翌日京都を出発。

奥羽鎮撫総督府軍が海路、陸奥仙台伊達家領・東名浜(とうなはま)に上陸したのは同年3月23日。

奥羽の諸大名は幕末期、西日本の大名家みたいに京都に人を派遣したりして情報は集めていた。

まぁ、得た情報も距離が離れている分、時間とともに変化しているので、その情報を鵜呑みにして良いのか判断に迷う処もあり、情報の裏を取る頃には新しい情報が来るというのも日常茶飯事だった。

京都で天皇、関白、摂政、武家伝奏、議奏、或いは他の大名家と間接的、直接的に接する様になった者と京都から遠く離れ、冷静に第三者的な視点で政局の動向を眺めていた者との温度差と状況判断の差が、ここではモロに噴き出した。

世良や大山が眼尻を挙げて金切り声で会津討伐を叫べば叫ぶ程、奥羽の諸大名や家臣、民衆の心は離れていった。

そこに同年4月2日、寒河江・柴橋事件というのが発生した。
上述の通達で太政官は出羽国内36万石の徳川直轄地を接収する事を決め、3月下旬に仙台伊達家と出羽天童織田家(2万石)に実行を命じた。

太政官側は金や米が無いまま遠征してきた為、村山郡の寒河江、柴橋から接収して少しでも足しにしようとしたのだが、金も米も無い。金は最低限しか保管してないし、収獲した米は既にその年の秋、村ごとに酒田港から江戸に送るのが村山郡の慣習である。しかし、そんなご当地ルールなど知らん、と太政官側が米は庄内酒井家が送ったに違いない!と決めつける。

庄内酒井家は3月中旬、郡代・高橋省助(たかはししょうすけ)が現地に赴き、徳川宗家代官・山田左金次(やまださきんじ)が江戸に報告の為、出張したので代行を務める河野俊八(かわのしゅんぱち)から移管受領の手続きを行った。

移管を喜ばないのが地元住民である。
徳川直轄地は税金が安いし*10、規則も緩いが、庄内酒井家に移管されると税金が高くなり*11、規則も厳しくなるので反発*12、住民代表が仙台に赴き、奥羽鎮撫総督府に
「ぐへへ、旦那、庄内の奴ら、天子様の土地を土足で踏みにじり強奪してます!」
と陳情。

太政官側はこれを奇貨として、庄内酒井家をついでに朝敵として討伐しようと思い付いた。

太政官側は同年4月6日に出羽久保田佐竹家(20万5千石)に対して、「速やかに庄内を討伐せよ!」と命じ、陸奥弘前津軽家(10万石)にその後詰めを命じた。
平田派国学の生みの親・平田(ひらた)篤胤(あつたね)の故郷で晩年この地で国学を教えた事もあり尊王攘夷思想が強い、太政官に好意的な佐竹家であるが、
「それでも腑に落ちない処があります。
一、庄内酒井家を討伐する理由はなにか?
二、降伏した場合、どの様に処置するのか?
三、先に会津松平家を討伐しろ、次は庄内酒井家を討伐しろと命令が二重になっているので、どの様な手順で行うのかキチンとして欲しい」
と質問してきた。
それに対する回答が
一、徳川慶喜を擁護し、徳川幕府を再興しようと企んで、昨年の冬に江戸で諸大名の屋敷を焼き討ちしたのが許せない!
二、降伏して開城したら赦す。
三、庄内酒井家の討伐のみ専念せよ。
というものだった。
佐竹家的に、徳川慶喜の擁護がダメなら、越前福井松平家や尾張徳川家、勝海舟も朝敵になる筈だが、それは無いし、徳川宗家も会津松平家も庄内酒井家も徳川幕府を再興する気は無いと公言しているが、何処から出た話だ、と疑問符。
諸大名の屋敷って要は江戸の薩摩屋敷焼き討ちが許せないってだけでしょう?。
あの焼き討ちは上野前橋松平家(18万石)、出羽上山松平家(3万石)、越前鯖江間部家(4万石)などの大名家も参加しているが、朝敵に含まれてない。
返答に無いけど、徳川直轄地から米や金を接収出来ないひがみが根底にあるよな、と確信した。

同年4月9日、再び会津側から南摩綱紀(なんまつなのり)が来て、20日程滞在、この時「会庄同盟」が締結された。
後に同月26日、南摩に伴われて軍事掛の菅・本多安之助(ほんだやすのすけ)が会津若松に赴いた。この後、両家は互いに外交掛を常駐させ、連絡を密にする。
庄内側は太政官側の攻撃に備えて最上川沿いの清川口、参勤交代の正規ルートで米沢に通じる大網口、その中間にある羽黒山、日本海側の佐竹家との国境である吹浦口に、敵に対しこちらから応戦しない事を厳命して守備隊を派遣した。

同年4月24日明け方、太政官側の薩摩兵1個小隊(120名)、長州兵1個小隊(35名)、出羽新庄戸沢家からも1個小隊(50名)の約200名が清川口に襲来、庄内側も正規軍4個小隊(1個小隊50名)200名、民兵4個小隊200名の合計400名で迎撃、午後2時頃に撃退に成功した。
太政官側の記録は「朝から猛攻を仕掛けたけど、昼になり腹が減って、弾丸も無くなったので帰りました、サーセンwww」だった。
庄内側の記録は「敵の一撃を受けて戸惑ったが、よく見ると、顔に疲れが出ていたので、踏み留まり、民兵や少年兵が積極的に前に出て、正規軍がそれを見て奮起し、押し返す事に成功した」だった。
奥羽に来た太政官側は常に補給が乏しく、それに伴い士気が低かった。
逆に庄内側は装備、軍制、指揮官の技量などを再確認し、指揮官の消耗に備えて、育成に励む事になる。

清川口の庄内軍から報告を受けた鶴ヶ岡城の軍事掛は増援として家老・石原平右衛門(いしはらへいうえもん)と玄蕃にそれぞれ400名の部隊を与えて派遣したが、戦闘は既に終わっていた。

同時進行で太政官と会津と庄内の和平を斡旋する為に陸奥仙台伊達家と出羽米沢上杉家が働いていたが、この戦いで庄内酒井家側はブチ切れ、その急先鋒が玄蕃だった。要は
「和平はこちらを油断させる謀略で、本音は討伐か!殴りっぱなしでも手が痛いことを教えてやるぞ!」と報復する気マンマンである。

太政官側の先鋒を天童織田家が務め、出羽山形水野家(5万石)、上山松平家が後詰めをしていた。それならこちらから天童・山形を占領し、岩沼にいる九条総督と新庄にいる沢副総督の連携を断ち、圧力を掛けて庄内討伐を断念させるべきだと主張し、太政官側を潰す事を目論み、大網口を守備する家老・酒井兵部(さかいひょうぶ)(諱は順孝(まさたか))の部隊と合流した。

同年4月28日、太政官側は天童織田家に討伐令を下し、この辺りに飛び地を持つ諸大名*13にも布告、兵を全て集めても約400名と少なかったが翌月5日を攻撃開始の日とした。

玄蕃は当初、新庄城の攻略を目論んだが、最上川をさかのぼる主要ルートは守りが堅く、清川口からの裏道は薮が険しく補給や通行が困難の為、一旦後回しにし、天童攻略作戦を提案、鶴ヶ岡城の軍事掛に上申した。

軍事掛からは勝手なマネをするな、専守防衛と提案を否定されたが、玄蕃は兵部を説得、これが成功して天童攻略に賛同した。

太政官側の総攻撃情報を入手した庄内酒井家は2日前に対峙する太政官側から発砲があり、これを静めるという理由から天童攻略を決定。
庄内酒井家は太政官側を上回る約1千を投入して、慶応4年(1868)閏4月3日深夜から進軍を開始、翌日最上川を渡り天童城下になだれ込み、勝敗は一日で決した。

この戦いでは庄内側の民兵が民家や武家に放火、大声でデマを叫び混乱を誘うなどと細かい部分で活躍した。

また、太政官側が寄せ集めの烏合の衆に過ぎないのに対して、庄内軍は清川口を襲われた怒りパワーで士気が高い。

織田家当主・織田信敏(おだのぶとし)は家族を連れて仙台伊達家に亡命。

山形水野家は天保の改革に挫折した老中・水野忠邦(みずのただくに)のあと、老中になった水野忠精(みずのただきよ)を経て当時の当主は13歳の忠弘(ただひろ)で、この時、父・忠精と共に上洛、京都に滞在中だった。留守番を預かるのは分家筋の家老で26歳の水野元宣(みずのもとのぶ)
庄内酒井家に敵意は無いし、戦力もない為、戦争を避ける為、使者を送り不可侵条約を結んだのだが、庄内から使者が戻る途中で天童の戦いとなり、太政官側に派遣していた家臣が18名戦死した。

戦闘が終わった翌日、兵部や玄蕃が今こそ千載一遇のチャンスと新庄攻略の準備をしていると鶴ヶ岡城から使者が来て
何でこんな事を……また戦争がしたいのか、アンタ達は!!と殿様はお怒りです。直ちに国境まで兵を退いて下さい」
と伝えた。
その次の日、再度鶴ヶ岡城から使者が来て、
これがお前達の求めていた戦争か!?、これ以上やらかすなら酒井家から追放するぞ!と殿様はお怒りデス」
と最後通告。
二人で血気にハヤる部下たちを宥めながら、国境まで兵を退いた。

この後、兵部は鶴ヶ岡城に出向いて天童攻めの報告、玄蕃はしばらく国境の警備を行った。

同年閏4月28日、太政官との交渉が決裂したと判断した米沢上杉家は新庄にいる太政官の排除を行うため、庄内酒井家と手を組み、米沢700名、庄内1000名、他に山形、上山などから合わせて300名が加わり2000名の大軍で軍事行動を開始、この中に玄蕃も部隊を率いて従軍。

太政官側は新庄を撤収して久保田佐竹家に逃走した。

同時期、日本海側の吹浦口でも庄内酒井家と太政官から出兵命令を受けた久保田佐竹家が交戦したが、佐竹家が敗退。
この時、佐竹家の出兵の模様を見た太政官から「えっ、黒船来航の時代に鎧兜・弓・槍・刀・火縄銃からの法螺貝、陣太鼓、旗指し物とか戦国時代の仮装行列ですか?それは宴会の余興でやって下さいよ!これ、実戦ですよ、分かってます?」
とダメ出しされると、
「これが我らの本気です、この想い、天子様に届け!!」
と返答されてしまい、太政官は
「だめだこりゃ」
とさじを投げた。
佐竹家は財政難で西洋式軍備に金を支払う事が出来なかったので、旧式の武装しか準備されていなかった。
ひとまず春の戦いは幕を閉じた。

この間の出来事を玄蕃は父親に宛てた手紙にしるしているが、
「米沢の人物は千坂(ちさか)高雅(たかまさ)(通称は太郎左衛門(たろうざえもん))など特に優秀です。鶴ヶ岡の軍事掛とは頭の出来が違う、とバッサリ。
新庄戸沢家や天童織田家など奥羽の小大名は自分達がヤラれなければ今日は庄内、明日は薩長と打算と保身の二枚舌から手のひら返しは日常茶飯事。
敵としては大した事はないが、味方としては足手まといだから、敵に回すとどうなるか?を奴らに教えて於かないと、禍根を残す事になる、と勤皇・佐幕は建て前、本音は我が身可愛さとバッサリ。
もう一つの大国・仙台伊達家に辛辣で、伊達家の内情を調べたら、伊達四十八館と呼ばれる48の領主が34万石の領地や家臣を分割支配。
殿様は28万石の領地を治めて、直属の家臣を養っている。
統一された軍事制度がなく、殿様含め49通りの軍隊による連合軍で構成され、武器も規格も編成もバラバラの烏合の衆でしかなく*14、仙台伊達家は戦争では役に立たない」
と記している。

太政官側が新庄から退いたのを見て、庄内・米沢連合軍は解散、同年5月14日、玄蕃ら庄内酒井家は軍を鶴ヶ岡城に引き上げた。

玄蕃はそのまま米沢城下に派遣され、約1ヶ月程、奥羽諸大名の動向を調査、後に鶴ヶ岡城に戻り、同年6月には中老職に任じられた。


秋田戦争


庄内酒井家は最終的に出羽内陸部の新庄から院内、湯沢、横手、大曲、角館、神宮寺を侵攻した一番、二番大隊と吹浦口から仁賀保、本荘、亀田、新屋と侵攻した三番大隊、鳥海山と升田から矢島、神ヶ村を経て椿台(現在の秋田空港付近)に侵攻した四番大隊、その増援に加わった酒田大隊と既に越後に出兵している1個大隊を入れると、全戦力を投入した。

玄蕃は二番大隊大隊長として、北斗七星をあしらった旗印を軍旗に用いて進軍、最終的に不敗神話を残した。
金箔(きんぱく)で北斗七星を配した縦約180センチ、横約120センチの旗で、玄蕃は破軍星旗(はぐんせいき)と名付け、この旗を見ると敵軍は戦わずして逃げた、と伝わる。「およそ十余戦。皆ことごとく賊軍を撃破した。その時に用いた旗、これを子孫に遺す」と玄蕃が記した漢文の由緒書きがある旗袋がある。



慶応4年(1868)7月14日の新庄城攻防戦では、一番大隊が太政官側の主力を引き付けた隙を突いて、玄蕃指揮の二番大隊が抜け道を通り新庄城を攻略、この時、新庄戸沢家の決死隊が奇襲を仕掛け、小隊長・服部正蔵(はっとりせいぞう)、分隊長・大島武助(おおしまぶすけ)らが戦死、奇襲が成功したかに思えたが、玄蕃が「退くな……退くなと言っておろうが……退く奴は構わん、オレが叩き斬ってやる!」と脳筋プレイな台詞を吐き、大隊を叱咤激励、勢いを取り戻して新庄城を占領。

新庄戸沢家当主の戸沢正実(とざわまさざね)自ら陣頭指揮に出たが、城を捨てて久保田方面に逃走した。

残りの太政官側も新庄城が落城したのを見て、退却した。

玄蕃は松平大隊長や占領地代官の新徴組頭取の田辺(たなべ)儀兵衛(ぎへい)(諱は柔嘉(じゅうか))が来るまで城下町の消火作業を行い、城下各所に有る土蔵を封鎖し、略奪を固く戒めた。

翌日、以下の様な布告を発した。
  • お隣さんに兵を出すのはイヤなんだけど、戸沢家が二枚舌の手のひら返しをしながら攻撃をした為、やむを得ず自衛の為に平定した。自衛の為ですよ!
  • 兵火に焼かれて困窮する者は官有林から材木を伐採したり、酒井家に名乗り出れば、手厚く保護します。
  • 敵対した者でも主君の為に戦死したなら、墓碑を建てるから、名乗り出なさい。
  • 領民一同非常の困窮に鑑みて、今年の年貢は半減する。
  • 庄内軍には迷惑にならない様に厳しく申し渡しているが、不心得者があったら、少しも遠慮せず訴え出ること。
とある。

中には武士の子供を捕虜にして突き出し、報酬を受け取る民衆もいたくらいだが、子供を保護して、その子は後に弁護士になった。

陣中でも弁当は自分で作り、冷や飯に生味噌でも不足も言わず、常に兵と同じモノを食し、行軍が終わり、宿舎が決まると玄蕃は皆を先に入れ、外で異常無しの報告を聞くまで休む事をしなかった。

その後、連戦連勝を重ね、同年8月11日には佐竹家重臣・戸村(とむら)大学(だいがく)(諱は義得(よしえ))が指揮する横手城を陥落させたが、佐竹家側の戦死者が地元民により身ぐるみ剥がされて裸で放置。
これを見た松平大隊長は玄蕃と相談して、庄内軍名義で葬儀を行い、遺体を埋葬し、「佐竹家名臣戸村家忠士之墓」の墓碑を建てた。

同年8月13日、角間川の戦いでは先鋒として出陣した仙台軍が敗退、退却して来るのを囮として利用し、両翼を延ばした半包囲隊形からの十字砲火で殲滅に成功する。
島津義弘「オレの技だ!」
この時も、太政官側の戦死者が地元民により身ぐるみ剥がされて裸で放置されたので埋葬して、墓碑を建てた。
玄蕃「俺たち、葬儀屋じゃねーから」

連戦連勝を重ね、久保田城下に18kmの距離まで迫った為、太政官側は玄蕃の旗印である北斗七星の旗を見ると「鬼玄蕃が来た!」と参謀から兵卒まで震えて眠り、悪夢にうなされる日々を過ごした。

当時の俗謡に「花は白河、難儀は越後、物の哀れは秋田口」と言われていた。(意味は、白河口の戦争は容易であったが、越後口は難儀を極めた。秋田口は連戦連敗で太政官的に黒歴史にしたい、と。)

太政官側の沢副総督や久保田佐竹家当主・佐竹義尭(さたけよしたか)がこの体たらくにブチ切れ、沢に対して太政官の参謀や各隊の隊長が「一致団結して鬼玄蕃を始めとする庄内軍を殲滅します!出来ない時は、我らの生殺与奪は思いのままに!」と誓約書を提出。
義尭は家臣団に対して「祖宗以来の土地は半分が庄内軍に占領された。源平以来の名家が滅亡寸前。汝らはいつになったら御恩に報いるの?今でしょ~」と訓示を与えて発破を掛けた。

同年8月9日には盛岡南部家が同盟側として参戦、大館方面から侵攻し、同月26日には鷹巣の北、米代川の対岸に位置する今泉まで侵出したが、太政官側の反撃に会い、同年9月中旬には南部領内に押し込まれたが、佐竹家は領地の75%が戦場となった。


秋田方面も色々変わった。

同年9月4日には三番大隊長・酒井兵部と四番大隊長・水野藤弥が罷免され、後任には三番大隊副将・水野(みずの)弥兵衛(やへいえ)が就任し、四番大隊は松宮(まつみや)源太夫(げんだゆう)(諱は長貴(ながたか))が鶴ヶ岡城から赴任し、水野藤弥は副将に降格となった。

太政官側は主力を務める佐竹家が戦国時代の武者人形から、エンフィールド銃3000挺が支給され、出で立ちも西洋式の戦いのそれに相応しいモノに変更された。
ここに派遣された佐賀鍋島家はアームストロング砲を所持しておらず、アメリカ製やイギリス製の鋼鉄製先込め式施条砲とスペンサー銃で武装しイギリス式軍制で組織された庄内酒井家の上位互換だが、武者人形の佐竹家と武器の規格が合わず、手持ちの弾薬を使い切ると、補給が出来ない。
太政官側は対外貿易港である箱館の外国人商人・オールトに連絡を取り、手持ちの銃砲の現物と弾薬、蒸気船などを発注した。
オールトは上海へ赴き、在庫を抑えて発送したが、補給物資が届くまで時間が掛かると言われ、それまで佐賀鍋島家は決戦時の予備戦力扱いとして戦力を温存した。
海岸線を侵攻する庄内軍の三番大隊が久保田城下に8kmの距離まで迫ったので、兵力の再編成を行い、ついに補給も届き、活気が出て来た佐賀軍を海岸線に配置し、野戦陣地を構築。同年8月18日、29日、9月12日と侵攻した庄内軍を撃退した。
佐賀鍋島家は『佐賀藩銃砲沿革史』の中で
「庄内軍は地の利を活かし、エンフィールド銃と四斤山砲で俺たちと互角に渡り合ったのは、敵ながら見事。しかし、俺たちの方が武器は上だから勝つのが当たり前、当たり前、当たり前www」
と記している。*19
それまでの庄内軍が佐竹家と他の軍との武装や戦い方のミスマッチを突いて連戦連勝を重ねて来たが、太政官側は京都に手紙を送り、増援をお願いして*20、最終的に7千の兵*21を佐竹家支援に差し向けた。
四番大隊・酒田大隊は椿台付近に構築された太政官側の野戦陣地に同年9月10日、11日と攻撃を仕掛けたが撃退された。
内陸部に布陣する一番、二番大隊と仙台軍は後方を仙台軍が守備し、前線を庄内軍が攻める形を取り、侵攻したが、太政官側の装備が向上し、数が増えて、以前ほど圧倒的に勝てなくなってきた。

庄内側もそれまでの進撃を支えた訓練十分の指揮官や兵士が戦傷死し、今まで損害が出ても国元から指揮官や兵士を送り穴埋めをしたが、上述の様に国元に敵が現れたので補充が出来なくなった。

同年9月14日、両大隊長はじめ幹部で会議を開催し、総攻撃を仕掛け、久保田城攻略を決定し、その準備をしている最中に上山松平家の使者・玉造権左衛門(たまつくりごんざえもん)が訪れ、「米沢が降参、仙台も降参しようというので、当家も降参すると決めました」と伝えた。
この話を聞いて再び両大隊長はじめ幹部で会議を開催し、大軍が国境に迫る以上、酒井家は主力が佐竹家領内にいるのは得策では無い。たとえ主君の命令が無くとも、速やかに引き揚げるべきだと全会一致で採択された。
この時点で奥羽には雪が降り、朝には葉に雪が積もる寒さである。

しかし、迂闊に撤退すると敵に追撃されるので、前面の敵に攻撃を仕掛けて、戦意を挫いてから撤退する作戦を採用した。

翌15日、庄内軍二個大隊は出撃、両大隊は激戦を繰り広げた。二番大隊では参謀の神戸(かんべ)善十郎(ぜんじゅうろう)(諱は義方(よしかた))から弾薬が尽きたと報告を受け、玄蕃が「こういう時、庄内男子ならどうすると思う?最後まで醜く足掻くんだ」として、「腹を括れ。男だろうが」と刀を準備する玄蕃をみると神戸は「ま、まさか•••••」と声を洩らし、玄蕃は「殴り込みじゃぁぁぁぁッ!!!!」全軍突撃のノーガード戦法を繰り出して勝利を収めた。
一番大隊は太政官側と遭遇戦となり大混戦になったが、夜になり意図は達成したとして、引き上げた。

翌日の内に撤退準備を完了し、翌日出発。途中、今まで一緒に戦ってきた仙台軍とその分家筋の一ノ関田村家(3万石)(彼らは国元の降伏を聞かされておらず、庄内軍の退却を聞いて、撤退を開始し、翌18日に仙台から使者が派遣されて降伏を知った。)に別れの挨拶をした。
一番大隊、二番大隊共に退却時、追撃はなく、庄内への撤退を完了した。
玄蕃は庄内に帰着後、同年9月22日に鶴ヶ岡城へ登城、戦功により300石加増され1000石となる。

海岸線から侵攻した三番、四番、酒田大隊は一番、二番両大隊の撤退の連絡を受けて三番大隊が最後尾を守り、四番大隊は同年9月17日、酒田大隊はその翌日に撤退を行い、途中でこの両者は合流し、同月20日、庄内に到着。
同月18日には鶴ヶ岡城の軍事掛から正式に撤退命令が下された。
三番大隊は前述の二個大隊が安全圏に入ったのを確認してから、撤退を開始した。

慶応4年8月17日以降、越後を平定した太政官が4万の軍を占領地警備、会津松平家、米沢上杉家、庄内酒井家の4つに分けて進軍。庄内との国境で戦いが始まった。

海岸線側の鼠ヶ関と山間部の関川の両方で戦闘が行われた。

越後から帰国する大隊の内、半分を米沢から来る太政官側を守備する為に左沢(あてらざわ)に割いたので*24、実際は5個小隊と砲兵を含めた350名に新徴組3個小隊150名と領内警備の歩兵5個小隊250名、計750名を二手に分けて配置し、防戦に当たらせた。

鼠ヶ関側は、地形を活用した野戦築城と火力の集中的な使用、何より敵方の指揮系統のチグハグさに助けられ、鼠ヶ関を守りきった。

関川側は庄内軍のチグハグな兵力運用と敵方の兵力の集中使用により明治元年(1868)9月11日に関川村を占領された。その後は庄内軍が再攻勢に出たくとも兵力不足に陥り、野戦陣地を構築して侵攻を食い止めた。

ここに来て、庄内酒井家は戦力の枯渇に陥った。

降伏と敗戦処理

先に太政官に降伏した米沢上杉家は庄内討伐の先鋒を命じられ、世継ぎの上杉茂憲(うえすぎもちのり)が自ら兵を率いて庄内との国境、大網口に向かった。
昨日までの友軍と戦うのも士気が上がらない事もあり、明治元年(1868)9月14日、千坂高雅が「今、太政官に降伏して帰順するならその旨を斡旋する」と越後で一緒に戦った石原多門に手紙を送ってきた。
その2日後、鶴ヶ岡城城内で当主・酒井忠篤は重臣・軍事掛を招集し、米沢からの降伏勧告を受け入れるかの会議を開き、菅実秀が「ここに来ての降伏とは何か?一度開戦に判断を定めたら城を枕に討死と定め、領内を焦土にするべし」と周りが降伏に傾いている中、一人徹底抗戦を主張。
玄蕃が徹底抗戦論者として危険分子扱いされていたり、庄内酒井家に武器を納品していたエドゥアルト・シュネルが鶴ヶ岡城に登城、会議に参加し「私にいい考えがある*25と発言したなど、会議は混沌とし、軍事掛の山口三郎兵衛が老公・忠発様のご意見を聞きましょうと提案、忠発は
「もう、充分じゃな。」
と発言して、ここに庄内酒井家は降伏勧告を受諾した。
降伏を受け入れたら、次は手続きである。
庄内酒井家は中世古才蔵(なかせこさいぞう)武藤半蔵(むとうはんぞう)吉野遊平(よしのゆうへい)の3名を上杉茂憲の陣中に急行させた。米沢側の気遣いで米沢城下では太政官の警戒が厳しく、入国出来ないからとの判断だった。
千坂からの提案で庄内酒井家は奥羽鎮撫総督府、会津征討越後口総督府、東北遊撃軍将府*26の3つに降伏文書を提出した方が印象が良くなるとの助言で中世古と武藤は鶴ヶ岡に戻った。
同年9月23日、吉野は越後口総督府参謀・黒田(くろだ)清隆(きよたか)と対面し、以下の条件を吉野に約束させた。
  • 同年9月26日までに庄内酒井家は国境の守備兵をすべて引き上げる。(但し、遠境で即日に通達出来ない場合、1日の猶予は認める。諸部隊に布告が行き渡らず、行き違いで交戦しても、これは咎めない事にする。)
  • 鶴ヶ岡城は27日に開城する。当主は総督府参謀に面会の後、城を出て禅龍寺に退去して謹慎する。
  • 武器は全て所定の場所に集めて、総督府参謀が点検した後、しばらくは家老の屋敷で保管、後に輸送する。
  • 東京の大総督府では、追って当主を呼び出すが、その際のお供は50人で参上し、改めて謝罪する。
  • 家臣団は自宅に於いて謹慎する。重役や役人の公務による出張は遠近に関わらず、自由に出向いて構わない。
  • 領内にいる他の大名家の家臣や旧幕臣は武器を差し出した上で僻地にて深く謹慎する。混乱が収まり次第、旧幕臣は静岡、他の大名家の家臣はそれぞれの地に帰すので、名簿を作成しておくこと。
吉野はこの文面を鶴ヶ岡城に持ち帰り、報告。
同年9月26日、庄内酒井家と出羽松山酒井家の戊辰戦争での降伏日になる。
同じ日に久保田城下で悪戦苦闘していた大山参謀は庄内軍撤退の報告を受けて軍を南下、新庄南方の清水で薩摩島津家総差引(総司令官)・西郷隆盛や黒田参謀、東北遊撃軍将府参謀・船越(ふなこし)洋之助(ようのすけ)(諱は(まもる))*27たちと合流。後に黒田参謀が鶴ヶ岡城下に入り、その日の夜に当主・酒井忠篤と会見し、約束通り禅龍寺で謹慎生活に入った。
翌27日、続々と太政官側の主力が鶴ヶ岡城に入城、西郷が黒田・大山の両参謀を従え、城内を視察し、銃器を点検し、これを越後新発田城内にある会津征討越後口総督府本営に輸送させた。庄内に滞在していた会津松平家の南摩綱紀の手記には送られた銃器は4900挺、大砲30門とある。*28
この手記では太政官側の進駐人数を15156人としている。その際、鶴ヶ岡城下が平穏無事で家臣団は原則自宅で謹慎しているが、刀を差しての外出を認めていた。町中は普通に商売しているし、敵軍の略奪暴行はなかったと記している。
また、庄内酒井家家臣の安倍惟親(あべこれちか)の手記によると、入国した太政官側の進駐人数は44850人、新発田城下に送られた銃器はミニエー銃8000挺と記されている。

庄内酒井家では、三番大隊が吹浦口の守備に当たっていた。帰還した各大隊は、鶴ヶ岡城へ撤収したが、水野大隊長は撤収指令を受けていない為、吹浦口の野戦築城に兵を配置した。
同日、太政官側は吹浦口へ侵攻、庄内軍の応戦に太政官側は「やるな!、実に良いトコロに攻撃してくる」とすると、庄内軍も
「ここが踏ん張り処じゃ!打ち負かされるなよ!」
と覚悟を見せる。
しかし、この日、戦闘中の三番大隊に鶴ヶ岡城から降伏・停戦を伝える使者が到着。同月28日、三番大隊は鶴ヶ岡城に撤収した。

戊辰戦争における庄内酒井家の戦死者は322名、負傷者412名と言われる。

次の29日には西郷隆盛と薩摩軍が鶴ヶ岡城下から去った。黒田に対して、
「大軍が1日滞在するだけで庄内酒井家に大迷惑だから帰るね。そうしないと、他の大名家の軍隊が軍規を乱したりする可能性がある」と一番に去った。
この時、黒田や同じ薩摩島津家家臣の高島(たかしま)鞆之助(とものすけ)が敗者に対して激甘なんですけどと口にすると、
「(前提として島津家から庄内酒井家への厳罰は釘を差されているが黒田・高島はこれを知らない。)戦争も終わったし、これからは兄弟として仲良し過ごそう。まぁ、反逆したら、塵一つ残さず、消滅させてやる…!」と返答し、黒田・高島共に「西郷さん、顔は笑っているが、目が笑ってないよ」と恐怖を憶えた。

庄内酒井家の領地は占領下とされ、船越洋之助が責任者として残り、酒田に軍務局出張所と民政局が開設された。

禅龍寺で謹慎中の酒井忠篤は他の朝敵となった大名家当主と共に東京での謹慎・待命を命ぜれたので、明治元年(1868)10月9日、太政官通達により鶴ヶ岡を出発し、東京の芝・清光寺に入り、謹慎した。*29

戦後処理

庄内酒井家の戦後処理は素早かった。
上述の新発田城下に銃器を引き渡しに赴いた際、明治元年(1868)10月7日に黒田や越後口の参謀・吉井(よしい)友実(ともざね)に献金の嘆願書を提出している。

同年11月には太政官に宛てて、箱館に割拠する榎本武揚の軍に対して追討軍に参加したい、献金もしますよ、と申し出ている。

太政官内部では朝敵藩の処分が話し合われていて、長州系の木戸孝允が会津松平家や庄内酒井家に厳しい処置を、仙台伊達家や米沢上杉家は寛大な処置と主張。
大村益次郎は会津は成り行きであの位置にいるから処分は緩くても良いが、仙台は会津討伐を申し出て、手のひら返しで参謀を殺して太政官と戦争をするから許せん、米沢もその同類と見なしていた。
大村は当初、庄内は余力があるから厳罰で解体論だったが、庄内側が太政官に対して積極的に協力を申し出ている姿勢を見て態度が軟化。
岩倉具視(いわくらともみ)大久保利通(おおくぼとしみち)大隈(おおくま)重信(しげのぶ)らは厳罰で石高を大幅に減らしても、浪人を大量発生させて社会不安*30を起こしては身も蓋も無い。太政官内部で厳罰解体論が勢いを失い、藩治職制*31により後に「大泉藩」と名乗る。
本来ならば斬首すると宣言した松平容保や酒井忠篤の命を救うという寛大な措置に留めた。
明治元年(1868)12月7日、24日、25日と3度の通達により、当主・忠篤は謹慎、弟の忠宝(ただみち)が家督相続、12万石に減封し、会津若松に移封させるという趣旨。
形の上では庄内の支配権を失っており、酒田民政局の支配下に置かれていた。しかし、実際は会津若松には赴かず、今まで通りの支配を行っていた。

朝敵藩には叛逆首謀者を調べて届け出る様に下令された。この場合、当主の身代わりに責任を取る為、処刑されるのだが、庄内酒井家でも、誰を出すかで問題になった。
一番最初に「みんなで考えて実行したから、いませーん」と答えたら「ふざけんな!誰か出せ!」と却下された。
本来なら権十郎や菅が対象になるのだが、酒井家は苦肉の策として前述の石原倉右衛門が戦死したのを利用し叛逆首謀者として全ての責任を背負わせた。
太政官、特に長州系は第一次長州征伐の毛利家が3人の家老、4人の重臣を処刑されたみたいに血の清算をしたいと考えた。特に木戸孝允はそれをする事で時代は変わったんだ!とアピールしたい訳である。
新選組近藤(こんどう)(いさみ)が首を刎ねられ、三条河原にさらし首になったのは、そうした意図がある。
ただ、近藤程度じゃインパクトが弱いので、松平容保の首を刎ねたいと木戸は駄々をこねたが、薩摩系の大久保利通、伊地知(いじち)正治(まさはる)、黒田清隆らに、「やり過ぎは良くないと思うぞ」と反対され、長州系でも大村益次郎や広沢(ひろさわ)真臣(さねおみ)はそこまで血の報復に賛同しなかったので木戸が折れて、その下の重臣でガマンした。

尚、この措置により石原家は一旦断絶となるが、倉右衛門の弟・孝五郎(こうごろう)に酒井の性を与え、家を再興した。

庄内酒井家が会津若松を調べると、戊辰戦争の激戦地だけあり、土地は焼け野原で収入が前年比で75%ダウンとなり、民衆の心は荒んで、我々の実力では無理なので、治めるのは止めましょう、と言うのである。

庄内残留委員会(仮)を設置、松平権十郎、菅実秀、山口将順を頂点に戸田総十郎(とだそうじゅうろう)(諱は直温(なおはる)。後に松本十郎(まつもとじゅうろう)と改名する。)や犬塚勝弥(いぬつかかつや)(諱は盛巍(もりたか))、田辺儀兵衛、俣野市郎右衛門らと共に手分けして庄内残留を交渉した。

京都へ戸田、犬塚、俣野らが派遣されて、小浜藩*36にお願いして岩倉具視や三条実美(さんじょうさねとみ)に掛け合い、政治献金を重ねた結果、「国替えすること無く、庄内12万石で残留」を記した嘆願書を受け取らせた。

東京には菅、田辺、玄蕃が派遣された。明治2年(1869)1月9日、太政官から昌平橋*37にある丹波篠山藩(青山家・5万石)の上屋敷を拝領し、翌月9日には浅草に有った下屋敷が返還されて活動拠点とした。主な活動は黒田清隆に贈り物を受け取らせ*38、他の薩摩系政治家にも政治献金を重ねて嘆願書を受け取らせた。

明治2年(1869)2月には、西蝦夷地の再開拓を願い出る願書を提出、幕末の蝦夷地開拓の経験を活かして開拓を行い、天皇の為に働きたいと願い出て、転封阻止の材料とした。

酒井家は農村部から「寸資金」を集め、農民達は東京に出て来てグループに分かれ、太政官に天保義民事件みたく、「百姓といえど二君に仕えず」をスローガンに請願活動を行った。
酒井家の株主とも言うべき本間家は、太政官と天秤に計り、酒井家を選び、3万両の活動資金を提供し、人も派遣して酒井家を支援した。

太政官内部で薩摩系政治家(これには鹿児島にいる島津家や西郷隆盛が寛大論一択と圧力を掛けている。)が主張する庄内への寛大論が多数を占め、明治2年(1869)5月4日、太政官より会津若松への転封は中止になった。
同年5月20日、太政官は酒田にいる本間外衛(ほんまがいえ)(諱は光美(こうび)。本間家第6代当主。)を東京に呼び出し、同年6月8日に5万両献金を命じ、鉱山判事に任じて太政官に取り込もうとした*39

同年6月12日の時点で献金による解決が強くなると情報を掴み、14日には酒井家と本間家で50万両まではなんとか工面出来ます、という相談をしている。

同年6月15日、太政官は庄内酒井家に磐城平への転封を命じ、期限を8月までと定めた。大隈情報だと酒井家の磐城平への転封案は大村益次郎が言い出しっぺとしている。

2日後の同月17日に版籍奉還(はんせきほうかん)*40が布告され、藩主を改めて藩知事に任命し、翌18日、忠宝を磐城藩知事とした。

庄内酒井家が磐城平を調べると、戊辰戦争で土地は焼け野原、民衆の心は荒み、昨年が凶作で前年比で90%ダウンとなり我々の実力では無理なので、治めるのは止めましょう、と言うのである。

酒井家としても酒田民政局の支配下にいるので、そろそろ出ていかなければならず、明治2年(1869)7月末までに藩士714人が出発したが、酒井家は再び転封阻止の裏工作を始めた。

玄蕃はそれまで東京で折衝の仕事をしていたが、同年6月庄内へ報告に戻り、同月19日学校御用掛として教育を担当する。

少し戻ると明治2年(1869)5月18日、箱館に立て籠もる榎本武揚が降伏して戊辰戦争は終結。太政官や鹿児島、高知、広島、久留米、福岡、旧会津、秋田、宇和島、金沢などの諸藩が財政難から戊辰戦争の戦費を賄う為に、公式基準に満たない劣悪なお金(=贋金)を大量に発行して取引に使用、その総額が3000万両と規模が大きく、外国公使から損害賠償を求められた。
太政官は少しでも正金獲得の一つの選択肢として、献金という形で損害賠償用にお金を準備する為、酒井家ともう一つ盛岡藩から献金を得る形を取った。
もう一つ説があり、それは大隈情報だと大村が庄内からの献金を使い、軍の教育施設を設立する為に求めたというのがある。

酒井家としては大蔵大輔としてこの問題に取り組む大隈に狙いを付け、外国人への損害賠償に献金を使い、その見返りに庄内残留を勝ち取れるのでは?と考え、大隈と接触をはかった。本間外衛が12回門前払いを受け、同年7月10日、13回目に初めて面会することが出来たと日記に記している。本間は感触は悪くないと見た為、14日、次は菅が大隈と面会し、50万両準備出来ますと伝えると18日、21日、22日と太政官に呼び出されて、70万両の献金で手を打つ代わりに酒井家の庄内復帰を認めるという通達が出された。

この70万両、米1石が4両6分という当時の相場から言って、石数にすると15万2千石になる。
庄内酒井家の年収に相当する金額が消える。
庄内酒井家は大隈に対して「無理無理」と難色を示したが、意外にも大隈は「ともかく承知するが良い。どうしても金が出来ない時は、出さなければ良いではないか」と助言した。

しかし、庄内復帰と言っても明治2年(1869)7月20日、酒田を中心とした庄内地方の北側に酒田県が設置され、津田山三郎(つだやまさぶろう)(諱は信弘(のぶひろ)。熊本藩出身。)が権知事に任命されていた。

磐城藩知事の酒井忠宝は明治2年(1869)7月22日、庄内復帰を認められ、同月24日、庄内藩知事に任命され、庄内地方の南側を統治する事になった。庄内藩という名前も宜しくないので改名しろと指示され、大泉藩か鶴岡藩の何れかにしたいと伺いをたてたら、同年9月29日、大泉藩に改称する様に通達が出た。(同時に前当主・忠篤は謹慎を解かれた。)

同年8月14日、太政官から30万両献金の催促が来たので、本間家が音頭を取り「寸資金」という名の下に農民、藩士、町人へ献金を募った。
献金は町や村に割り当てられ、農民の中には田畑を担保に借金して献金した者もいた。
同年8月23日、太政官に3万両の献金を行ったのを皮切りに10月15日頃まで上納した。

残金40万両について太政官と交渉し、分割払いや減額を狙った結果、明治3年(1870)4月20日、太政官内の会議で大久保利通が大泉藩の献金免除を提議した。大隈重信や伊藤博文(いとうひろぶみ)らは反対したが、賛成多数により同月28日、大泉藩に対し、「残金40万両は献金に及ばず」と通達した。
上述の贋金騒動の損害賠償に充てがわれる筈の金が、贋金騒動も治まり、予想より被害額が少ないのと、各藩の債務整理に目途が付き、献金の価値が下ったから、残金は支払わない事になった。
献金で、軍の教育施設を設立すると求めた大村が明治2年(1869)9月4日、同じ長州系攘夷派に襲われ11月5日に死亡したのも大きかった。

献金した30万両は大泉藩に戻されたが、大泉藩は黙っていた。これはある騒動の火種となった。

一連の降伏から庄内残留に至るまでの中で、庄内人は戊辰戦争でバチバチに殴り合った薩摩人との親交を深めている。薩摩閥の二大巨頭、西郷隆盛と大久保利通を始め、伊地知正治、黒田清隆、大山綱良らは庄内酒井家首脳部を高く評価し、叛逆首謀者の件、減封処分の下げ幅、庄内転封の撤回、献金の差し戻しなどで便宜を図った。
東京で残留交渉をしていた菅実秀らが「大義名分の無い戦争をしてゴメンナサイ」と戊辰戦争を謝ると、薩摩閥を代表して大山綱良が「庄内酒井家は徳川譜代筆頭の家柄。譜代大名が徳川300年の恩顧に報いる為、御家を賭けて戦うのは、当然の事。卑屈になり、下を向いて生きるのは止めなさい。堂々と胸を張って歩こう」と返した。
このやり取りは庄内に広まり、特に武士階級はこれで誇りを少し取り戻した。
玄蕃も東京滞在中、黒田や川村と顔なじみになり、大山綱良とこの時は会えなかったが、後に明治5年(1872)4月22日に東京で会見し、大山は「『鬼玄蕃』の勇名をほしいままにした足下が、実は容貌かくも温和で、婦人に見間違うくらいの美少年とは」と驚いた、と記されている。
玄蕃も同日付で致道館時代の恩師・遠藤厚夫(えんどうあつお)に宛てた書簡で「あの大山に初めて会いました。陰謀の卸問屋と聞いていましたが、見た目は善人でした」と記されている。

藩から県へ、そして海外へ

戊辰戦争後、太政官は官制改革や地方行政の改革を行い、それを各藩に求めた。重点は身分格式や職制の簡素化、給与の圧縮である。*45多くの藩は戊辰戦争で財政が逼迫し、問題解決の為、こうした改革と向き合わなければならなかった。


府県の行政は太政官が任命した県令が担当するのだが、大泉藩の場合、大泉県となったが県令は空席で大参事が松平親懐(権十郎改め)、権大参事は菅実秀、酒井玄蕃らが務めていた。

ここから玄蕃と忠篤・忠宝は大泉藩を離れていく。先ず、忠篤が同年8月12日に兵部省7等出仕、玄蕃が17日に同じく兵部省7等出仕として任官、これに伴い、大泉県権大参事を免職になった。忠宝はドイツ語習得の為ボルツの屋敷に寄宿した。

廃藩置県に伴い同年8月20日、藩兵の解体と4鎮台*53が設置された。この時の鎮台兵は徴兵制度施行前なので、御親兵からの移籍組と士族の志願者による壮兵(そうへい)によって構成。常備兵への編成替えが布達された。東京鎮台は近衛兵との兼ね合いがあり、分営を新発田に設置した*54。新発田分営に送る為、旧大泉藩から200人を派遣する事になり、募集と引率を玄蕃が担当する事になった。


まず10月に庄内に赴き、人選をした後、同年12月9日に庄内を出発して、新発田の分営に人を届け、東京へ帰り報告した。この頃から体調不良による発熱が出て来る。

玄蕃は明治5年(1872)1月18日、兵部省を退職した。同年3月16日付で同郷の陸軍大尉・北楯利盛(きただてとしもり)に宛てた手紙に「肺の病気で退職しました。療養に専念しろと医師の指示です。東京は薬も医師も良いから、その内、回復しますよ」と肺の病気が理由と記している。

その後、熱海で湯治をしながら、その合間に同年4月19日、横浜に赴き、西郷隆盛から「この人は本当に国を支える人物に相応しい」と認められ、推薦によりドイツへの官費留学で軍事学を学ぶ酒井忠篤と長沢顕郎を見送る。前述の大山綱良と対面したのがこの後、22日には熱海に戻り湯治をしながら、6月3日に東京へ赴きドイツ人医師から「完治には時間が掛かるから薬を飲んで気長に養生して下さい」と診察結果を言い渡された。
再度、明治6年(1873)2月17日、西郷の推薦によりドイツへの官費留学で法律を学ぶ酒井忠宝と神戸善十郎を見送り、故郷庄内に5月28日に戻り、しばらく療養生活に入る。

療養生活中の玄蕃宛てにドイツで留学中の忠篤から近況報告の手紙が届く。
大略は「ヨーロッパやアメリカの、その空気を吸うだけで僕は高く飛べると思っていたのかなぁ…」と海外留学すれば成長出来ると思うのは大間違いだ!予め、基礎がないとどんな応用も身に付かない、基礎は大事とか、日本人がいても、勉強するのはあなた自身と、後からくる弟に良く釘を差しておいてくれ、と頼んでいる。それとは別にドイツ軍、ロシア軍、オーストリア軍の軍事訓練を目の当たりにしたが、庄内、薩摩、日本陸軍と参加したり見学したが、ヨーロッパは軍事の本場だけあり、レベルが段違いだ、これに追いつくのは大変だが、頑張ってみせるとか、士官学校の勉強が大変、日常会話は普通に出来るが、軍事知識、特に欧州の歴史に対する積み重ねが無いのがキツい。せめてフランス、イギリス、オランダの軍事史があったら送って欲しい、とお願いしている。
忠篤は7年間、忠宝は6年間、ドイツに留学していた。

同年11月13日に庄内を出発し、東京を経由して12月15日、横浜で乗船、熊本経由で30日鹿児島に到着。この時、酒田県の役人として栗田元輔(くりたもとすけ)伊藤孝継(いとうたかつぐ)の2人が一緒だった。
明治6年(1873)10月の政変*55で下野した西郷隆盛の本音を確かめるべく、派遣された。
明治7年(1874)1月9日、この時初めて西郷隆盛と会見。この会見を玄蕃は手記に記しており『近世日本国民史』第87巻によると、西郷が朝鮮との国交樹立を熱望したのは、ロシアの南下政策に対抗、清朝と日本と朝鮮でこれに備える為の一つだとしている。
同月25日まで鹿児島に滞在しており、篠原国幹(しのはらくにもと)ら私学校党の士族と意見交換をし、後に庄内から留学生を送る話を決めて、明治8年(1875)12月、伴兼之(ばんかねゆき)榊原政治(さかきばらまさはる)が私学校に留学する。

同年2月9日東京に、24日に庄内に戻り、酒田県首脳部に復命報告をした。
この後、3月に東京に赴き湯島にある酒井忠宝の屋敷の一室を借りて生活。外務省に出入りし、清国の事情を聞きながら、北海道開拓使長官*56に就任していた黒田清隆から個人的に「清国の事情、地理、軍事力の実態を探索し、万が一、開戦になった際の戦略を具申せよ」と特別任務が与えられた。
反面、体調は悪くなる一方で、同年9月30日、父親に宛てた手紙には「咳き込むと痰に血が混ざったモノが出て来る」と記していて、肺結核の初期症状が出ていた。
合間をみて、庄内出身で陸軍に在籍している士官、下士官の為に湯島の屋敷で兵学教室を開いている。


故郷庄内が大荒れの時期、玄蕃は太政官の密命で清国に渡っていた。

清国へ

明治7年(1874)10月3日、北海道開拓使専用船・玄武丸(げんぶまる)は横浜港を出港し、天津へ向かった。
太政官、しかも薩摩閥のやらかした台湾出兵の後始末をするべく、清国の首都・北京に派遣された。
幸い、交渉決裂とはならず、李鴻章と大久保の間で話はまとまり、戦争にはならなかった。
この時に締結された日清両国間互換条款(にっしんりょうこくかんごかんじょうかん)によると
  • 清国が日本の出兵を認め、賠償金10万(テール)を支払う。
  • 40万(テール)は台湾国内の設備投資に使う。
で台湾は清国のモノ、琉球からの漂流民は日本人として扱う=琉球は日本の領土という事などが決まった。
玄蕃も結果として清国内を旅する事になり、この旅を日記に記している。
中には廬山、泰山、黄鶴楼といった漢詩の舞台になった場所を訪ねた話も。天秤座の黄金聖闘士はいなかったのかな?

明治7年(1874)12月4日、帰国。黒田清隆宛てに現時点で日清戦争をしたら、という意味の報告書『直隷経略論』を提出している。
蒸気船が足りないから大量の兵を運べない、食料の現地調達は厳しい、河が広く橋が無いため、渡るのが困難、黄砂に慣れないと肺をヤラれる、都市は城壁が高く街そのものが城である、住民と言葉が交わせないから情報が取れない、土地が広く、兵が足りなくなるとし、これらを解消しないと、戦争は金の面でも兵の面でも無理です、と報告書をまとめている。

晩年

帰国後、玄蕃は再び療養生活に入った。
東京にいた時は遠藤厚夫と手紙のやり取りを行い、体調悪化を記している。
明治8年(1875)5月28日、庄内に帰郷したが、その顔は「やつれて黄色を含んだどす黒い色」と言われ、昔日の美男子の面影は無くなりつつあったと、黒崎馨が日記に記している。
少し体調が良くなると、家族、兄弟、親と外出して湯治や釣りをして、水入らずの日々を過ごしていた。
それでも、晩年の玄蕃は「君、寡言沈黙、一家団欒の中でも笑うこと無く、終日座り、読書に耽り、その容貌は温和にして婦人のようであった」と後年、回想されていた。
同年10月5日、東京に向けて旅立つ。
先月、朝鮮半島にて江華島事件が勃発。
同年12月9日、黒田清隆が全権弁理大臣に任命されると、玄蕃は死に場所を朝鮮に求めて黒田へ随員に入れてくれるように頼んだが、黒田の返答は「あ、玄蕃はダメ。これ3人用だから」
と断られ、落胆を露わにした。
この時、太政官の李氏朝鮮に対する外交方針を
「金銭を取るのでもなく領土を広げるのでもなく、ただ開国させることだけが目的」と日本がペリー艦隊から受けた「砲艦外交」に重ねた。
明治9年(1876)1月29日、精神的落胆が大きかったのか、更に体調を崩し、呼吸不全に陥る。
その間、寿命を感じたのが1月27日に遺書を作成して、家族、兄弟に宛てている。
大略は昔を懐かしむのは止めて、刀など家宝も売り払い、農業を営みながら、一家団欒する喜びを噛み締めよう、というモノ。
同月30日、主治医が手に負えず、東京の医者に診てもらうようにとの事で、無理を押して東京湯島の酒井邸に移る。
明治9年(1876)2月5日、満33歳3ヶ月で死去。
法号は寂静院殿玄誉湛然義勇居士。
墓は谷中霊園にある。

家族、親族のその後。

後妻の玉浦との間に1男2女を設ける。
玉浦は義経流長刀免許皆伝の腕前を持つ才色兼備の婦人であった。
明治40年(1907)5月15日死去とあり、60歳で没した。
長男・了敏(のりとし)は慶応4年(1867)4月13日に生まれ、明治11年(1878)6月25日、10歳で病死。この為、玄蕃の酒井家の家督は、弟の調良(ちょうりょう)が相続する。彼は柿の品種改良に励み、新種の種無し柿の栽培に成功し、これが皇室にも献上された。
長女・梅岡(うめおか)は明治3年(1870)年生まれ、次女・お三は明治7年(1874)生まれ。
父親・了明は明治16年(1883)に亡くなっている。66歳であった。

後世の評価

戦前は優秀な指揮官として、反太政官陣営の中では河井継之助土方歳三(ひじかたとしぞう)立見尚文(たつみなおふみ)と同列に扱われていた。
太政官側の優秀な指揮官は大村益次郎、板垣退助(いたがきたいすけ)、伊地知正治、山田顕義(やまだあきよし)、山県有朋あたり。

メディア

NHK大河ドラマ『八重の桜』や映画『峠 最後のサムライ』、『十一人の賊軍』など、奥羽越列藩同盟が主題となるような作品は多くあるが、大体が敗者をクローズアップしている作品だからか、列藩同盟の貴重な勝者である玄蕃が登場することはない。
歴史特集番組であれば、NHK『歴史への招待』や『歴史秘話ヒストリア』、『英雄たちの選択』で取り上げられたこともあり、知る人ぞ知る人物であると言えよう。

玄蕃が鹿児島県に留学生として送り出した伴兼之、榊原政治の話は日本テレビ系年末時代劇スペシャル『田原坂』で放送されている。
フランス留学の話を断り、篠原国幹へ西郷軍に志願する場面や2人が戦死する下り、伴には12歳年の離れた鱸成信(すずきしげのぶ)という兄がいるのだが、そちらは太政官に与し、兄弟に分かれて争い、鱸成信も戦死している場面も放送されている。
何故か、玄蕃はカットされているが•••••
今後のメディア展開が期待される。

ゲームでも取り扱われたことはないが、漫画『氷室の天地 Fate/school life』の作中ゲーム『英雄史大戦』で偉人カードとして登場。作中プレイヤーである木下の「マイナー日本偉人デッキ」の一人。「ぼくの考えた最強偉人募集」という読者投稿企画で採用されたキャラクターで、能力(宝具)は使用していた軍旗「破軍星旗」で自陣営にバフ、敵陣営にデバフを与える地味だが堅実な効果。木下の試合の後も美綴綾子に託されて使用されるなど長く活躍した。

参考文献

酒井玄蕃の明治−坂本守正【荘内人物史研究会】 
幕末維新戊辰戦争事典−太田俊穂【新人物往来社】
明治維新資料−幕末期【荘内資料集】
明治維新資料−明治期【荘内資料集】
庄内藩−斎藤正一【吉川弘文館】
戊辰戦争の資料集−箱石大【勉誠出版】
新編庄内人名辞典
出羽松山藩の戊辰戦争【松山町史−史料集】
補定戊辰役戦史・下巻−大山柏【時事通信社】
異形の人・厚司判官松本十郎伝−井黒弥太郎【北海道新聞社】
佐賀藩銃砲沿革史−秀島成忠編【原書房】


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最終更新:2025年04月25日 22:16
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*1 出羽庄内酒井家初代・忠勝の弟が初代当主。

*2 孝経、論語、詩経、書経、礼記、大学、中庸、周易

*3 庄内酒井家領内清川郷の出身。郷士の出で致道館に入学出来ない。

*4 稲作に失敗して、漁業や畑作が主な収入。

*5 先住民族のアイヌ人との摩擦を抑える為、蝦夷地のやり方に詳しい商人に丸投げしたが、それでも摩擦が絶えなかった。

*6 真田帆之助、岩名昌之進

*7 家系図上は祖父だか、血縁的に父の兄にあたる。右京の後、了明が家督を相続した結果、こうなっている

*8 今の愛知県豊橋市

*9 忠発が文句を付けたら、山口が宥めるのである。猫の首に鈴を付ける役割。

*10 通説では天保12年(1841)頃で農民は収入の30〜40%が税金で徴収。明治6年(1873)の地租改正で収入の60%が税金で徴収される為、最大30%アップに農民がブチ切れ、地租改正反対一揆が発生した地域がある。

*11 庄内酒井家の農民は収入の75%が税金で徴収。ただし、地主・本間家が困った時に低金利融資で助けてくれる

*12 庄内酒井家は無礼討ちが許されているので、その周辺にある直轄地の民衆は過去に移管反対一揆を起こしている。

*13 下総佐倉堀田家(11万石)、常陸土浦土屋家(9万5千石)、蝦夷松前家(3万石)、上野館林秋元家(6万石

*14 肥前佐賀鍋島家はフェートン号事件、薩摩島津家は薩英戦争、長州毛利家は攘夷戦争や禁門の変で痛い目に遭い、内ゲバで反対派を粛清して軍制の統一を果たした。

*15 コンラートはプロイセン箱館副領事の肩書きを持つ。

*16 同盟の盟主である米沢上杉家の家老・千坂高雅が総司令官だが、千坂は政治的な調整役、軍事面は河井に任せていた。

*17 有名な上杉鷹山はここから養子に入っている

*18 慶応4年(1868)は9月8日に改元となり明治元年となった。

*19 この本の中で再三、補給ガーと連呼され、次に地の利を活かして火力を封じてくる戦い方が嫌らしい、火力のゴリ押しが出来ない事に苛立ちを隠しきれていない。

*20 7月に3回、8月、9月に5回づつと合計13回、海路で差し向けた。

*21 主に佐賀鍋島家、薩摩・日向佐土原両島津家、肥前大村大村家(3万石)、肥前平戸松平家(6万石)、因幡鳥取池田家(32万石)など

*22 2千石と千石の旗本領に分かれる。交代寄合(交代寄合は参勤交代をする旗本の事。約30家ある。

*23 8000石の交代寄合

*24 江戸から越後・会津・米沢と転戦してきた伊勢桑名松平家の抗戦派200名がここに参加している。

*25 シュネルは過去にサイゴンにいる外人部隊を雇い、戊辰戦争に参戦させようと提案した前科がある。

*26 軍将・久我通久を筆頭に組織された。奥羽鎮撫総督府に対するテコ入れである。

*27 安芸広島浅野家(42万6千石)出身

*28 武器は戊辰戦争後に太政官に提出したのは別に個人で隠匿していた分があり、油紙に包んで木箱に入れ、木箱に蝋で封印して畑や田圃の中に埋めて隠した模様。

*29 太政官は慶応4年(1868)7月17日、江戸を東京と改称し、明治2年(1869)3月28日、都を京都から東京へ遷した。

*30 当時は新政反対一揆が多発し、大名家を解雇された家臣が浪人となり、一揆に加担して武装蜂起されたら直轄の軍事力が無く、金が乏しい太政官は危うかった

*31 明治元年(1868) 10月28日に布達された太政官令。大名家を藩という呼び名で統一し、各大名家でまちまちな職制を,藩主,執政,参政,公議人などの職制に統一。収入の使い方や兵隊の上限などが定められた布達

*32 後に釈放され、文部官僚、警察官僚、軍人、初代憲兵司令官、石川県知事と内政、軍事の両面で活躍した

*33 実際には切腹させている。

*34 大槻の思想は天皇は君臨すれど統治せず、世俗の権力は臣下の者に任せるのが原則の立憲政体。徳川宗家が政権運営に行き詰まったなら、大政を返上して臣下の中で一番の者に大政を委任させ、その者の名前で責任を負わせ、議会政治なり共和政体を運営すれば宜しいというモノ。これはこれで誰が責任者になっても反発は必至だから、薩摩・長州が天皇の名前を持ち出して押し切ったと見るべきだが、大槻はそれが天皇の政治利用だと批判している。

*35 これは建て前で楢山に故郷の土を踏ませたいと考えた、盛岡藩なりの配慮である

*36 旧若狭小浜酒井家11万石

*37 東京の秋葉原辺り

*38 田辺は明治2年(1869)2月24に面会し、刀や金100両を渡したと日記に記している。

*39 慶応2年(1866)に薩摩島津家が本間家の金に目を付け、取り込もうと本間郡兵衛(本間の分家筋出身)を工作員に派遣したが、空振りに終わり、郡兵衛は逮捕、投獄され、慶応4年(1868)7月19日毒殺という形で死去した。元々、注目されていた。

*40 大名家が土地(版)と人民(籍)を天皇に返上して、改めて天皇の代理人として藩という形で支配すること。しかし、どの大名も経済的に維持するのがヤッとなので、早くなんとかしろ!と思っている。

*41 多額の献金で士分になっている。

*42 実は首脳陣が奥羽同盟派から太政官派に入れ替わっている

*43 明治元年(1868)12月17日、白石13万石に転封

*44 旧盛岡藩士

*45 当時の与論であった公平・公正の原則から。門閥だとどうにもならない時代になっていた。

*46 明治3年(1870)10月、財政難で辞退を申し出た。

*47 戊辰戦争後、伊予松山、備中松山、出羽松山と松山が3つもあるのは面倒と、伊予松山だけ残し、備中は高梁(たかはし)、出羽は松嶺(まつみね)と改めた。

*48 二人は豪勢な生活をしているのもあり、西郷とは価値観が合わなかった

*49 西郷は個人的に大隈の前言撤回、手のひら返しが嫌いで、対話する際は書記を立てて筆記を取り、一対一の対話を拒んだ

*50 江戸時代中期頃から各藩ともに深刻な財政難を抱えており、大坂などの有力商人からいわゆる「大名貸」を受けたり領民から御用金を徴収するなどして辛うじてしのいでいた。各藩とも藩政改革を推進してその打開を図ったが、黒船来航以来の政治的緊張と戊辰戦争への出兵によって多額の財政出費を余儀なくされて、廃藩置県を前に自ら領土の返上を申し出る自主廃業的な藩も出ていた。

*51 明治3年(1871)11月13日、山県の構想のもと、徴兵規則が制定され、各府藩県より士族・卒族・庶人にかかわらず1万石につき5人を徴兵することを定めた

*52 当初は270円、1879年に400円へ引き上げた

*53 東北=仙台、東京、大阪、鎮西=熊本

*54 残りの分営は弘前(東北鎮台)、彦根、高松(共に大阪鎮台)、広島、鹿児島(共に鎮西鎮台

*55 李氏朝鮮との外交問題や太政官で参議の比率で肥前が多数を占め、長州が政治と金で失脚寸前(山城屋和助事件、三谷屋事件、尾去沢銅山事件)、木戸孝允が危機感を抱いて大久保利通らと巻き返しを謀っていた。

*56 閣僚扱いのポスト

*57 天狗騒動と呼ばれた。明治2年(1869)が庄内地方も含め全国的に凶作で、戊辰戦争で金銭的出費がかさみ生活苦な農民側が減税や供出した物資の損失補填を求めた。第一次酒田県はこれを拒否し、農民側が組織的な蜂起を起こした。

*58 旧公卿・大名

*59 武士階級。当初、卒族があったが壬申戸籍の制定により廃止。世襲の卒族は士族に、一代限りの卒族は平民に編入された。

*60 これも元ネタは和歌山藩の藩政改革。家禄を10分の1に削減し、役職に就く者だけ役職手当を支給。他の者は生活の為に他の仕事に就業する事を認め、居住の自由を認め、刀を差す事も自由にしたモノ。

*61 金井、栗原、本多の3人は兄弟。栗原、本多は養子先の名字。

*62 黒崎家に養子に行った玄蕃の弟。

*63 現在の岡山県西部と広島県東部

*64 明治7年(1874)1月14日に発生した岩倉具視暗殺未遂事件(赤坂喰違の変)や、明治7年(1874)2月1日〜3月1日に発生した前司法卿・江藤新平による佐賀の乱

*65 海軍のNo.2

*66 海軍のトップ