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江戸幕府

登録日:2026/01/17 Sun 15:42:12
更新日:2026/03/25 Wed 09:02:28
所要時間:約 15 分で読めます







本記事では『江戸幕府』およびそれに関連する内容について記載する。



【江戸幕府とは】

徳川家康が1603年に征夷大将軍に任命されて江戸を本拠として創立され、1867年の大政奉還王政復古の大号令により終焉を迎えるまで、約265年間続いた日本の武家政権。

代々徳川家が将軍職を世襲していたため『徳川幕府』とも呼ばれる。
また日本の歴史上平氏政権・鎌倉幕府室町幕府・織田政権・豊臣政権に続く5番目にして最後の武家政権でもある。

この260年余りの江戸幕府の支配時代を『江戸時代』と呼ぶ。


【支配体制・統治機構】

徳川家の当主が従一位右大臣に叙任され、征夷大将軍に任命されて約260余りの武家大名・旗本・御家人と主従関係を結び、彼らを統制するという制度を執っていた*1
その将軍の政府を「幕府」、臣従している大名家を「藩」、両者が複合した権力の体制を「幕藩体制」と一般に呼んでいるが、「幕府」「藩」の語は江戸時代を通じて使用されていたわけではなく、当時は将軍の政府は「公儀」・「公辺」などと呼ばれていた。

発足当初は厳しい年貢取立てやキリシタン弾圧、大名取潰しを頻繁に行う武断的政権だったが、寛永14年(1637年)に領主の圧政に耐えかねた農民が島原(長崎)・天草(熊本)で一揆が起こると、それにキリシタンや大名取潰しであぶれた浪人が呼応(島原の乱)、幕府は鎮圧までに半年を要し、双方共に多くの死傷者を出すこととなった。
慶安4年(1651年)には3代将軍・家光死去の間隙を縫う形で軍学者・由井正雪ら浪人による討幕謀議が発覚・鎮圧する事件(慶安の変)が起こった。
これらの事件を受けて無理な年貢取立てを辞め、「寺請制度」を整備して戸籍と宗教を管理を行い、大名取り潰しを極力避けるなど、次第に文治的な政権に移行していった。
そして、改易に替わる大名統制策として参勤交代*2や幕府が対妙に命ずる手伝普請による財政負担による牽制が主流となる。

幕藩体制

そんな「幕藩体制」は将軍は大名に対して朱印状を与えてその知行を保障し、大名は与えられた領地内において独自に統治を行う権限を一定程度有していた。
幕府は「公儀」として国内全体の統治を行うとともに、自らも一人の大名として領分(天領・御領)を支配し、京都所司代、大坂城代、遠国奉行、郡代・代官などの地方官を設置した。
また各藩大名に対しては将軍との主従関係を確認するための軍役として参勤交代や築城・治水工事などの手伝普請が課せられた。

この体制では日本に存在するほぼ全ての武士が直接・間接問わずに将軍の臣下としてその命令を受ける立場にあるという超中央集権的政権だったが、幕末に至るまでの約260年間で大名同士の内乱は全く起こらなかった
但し決して徳川家による独裁政権ではなく、古くからの腹心の直属臣下である大名が老中・若年寄といった幕閣の要職に就いて主要政策を協議し、細部は隷下の巨大な官僚制度が実施する集団指導体制であった。

とはいえ基本的な仕組みは明治以降の政権に比べると地方分権的であり、幕府が直接支配する天領は石高にして全体の10%強に過ぎず、幕府の直臣である旗本や御家人もそれぞれの私領で一定の自治権を有していた。
それ以外の諸大名が統治する藩に対して幕府が直接立法、行政や司法を行うことはなかったが、決して任せっきりというわけでもなく、規制を行う法律として『武家諸法度』が定められ、各藩を監視する要職として大目付が置かれた。

統治機構

江戸幕府では権力の集中を避けるため主要役職は複数名が配置され、一か月交代で政務を担当する月番制を導入し、重要な決定は合議を原則とした
幕府の政策決定は将軍をトップに
  • 譜代大名から選任された常置の最高職である老中、及び臨時に置かれる大老
  • 老中や大老の補佐役である若年寄
  • 譜代あるいは旗本から選出された大目付三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)
  • 取次・補佐を行う将軍の側近である御側用人御側衆
などにより運営された。

政策決定の基本的な流れとしては実務吏僚から挙げられた議案を幕閣が審議した上で、側近を介して将軍が決裁を行っていたが、親政や側用人政治の場合は幕閣を経ずに直接議案が側近に持ち込まれ、将軍が決裁するため幕閣の役割は形骸化していた。
これとは別に将軍が直接意見を聞くため、実務吏僚を呼び出して直接諮問する事もあった。

とはいえ一つの要職に複数名を配置していれば当然起こるのが派閥争い(江戸時代で言うところのお家騒動)であり、水戸黄門暴れん坊将軍のような時代劇でたまにある筆頭家老と次席家老の争いのような幕府・藩内の騒動もこうした状況が根底にある。
またただでさえ全国規模の巨大な組織な上に将軍が代わったりする度に制度の新設・廃止が起こるため、江戸時代後期には幕府の全貌の把握が困難であるほど巨大化・複雑化したため、幕末の慶応の改革では老中の月番制が廃止され、国内事務・会計・外国・陸軍・海軍の各総裁を専務する等の改革が行われた。

また官僚制度の整備と共に公文書の形式も享保の改革を境として整備され、政策決定に際しては下級職が起草した書案を政策決定に関わる者達が承認・差し戻しする稟議書の体裁が取られた。
この際に書案を記した文書には付箋の形で承認・差し戻しとその理由・修正案等が添付され、意思決定と修正の過程が確認できた。

軍事面

軍事面では将軍が江戸在住の旗本及び各地の譜代大名や外様大名を指揮・統率し、平時編制の直轄部隊「番方」として五番方(書院番・小姓組・大番・新番・小十人組)や、徒組・百人組・先手組・持組を有し、大番・書院番は単独の備として運用され、その他は将軍や大御所らの旗本備を形成して有事の際には軍役として諸大名・旗本を動員して数十万の軍勢を揃えた。

幕府直轄の軍事施設としては江戸城以外に大坂城・駿府城・甲府城等があり、譜代大名や旗本による城代・定番・在番・加番・勤番が置かれた。

有事の際には該当地域に10万石前後の譜代大名がいる場合は周辺の外様大名を指揮下に置くが、いない場合は江戸から上使として指揮官が派遣された。
ちなみに外様大名の石高が譜代大名より大きい場合は、その統制に困難を生じることがあった。
前記の場合は何れも幕府の裁可を必要としたが、大坂城代は有事の際には独断での行動が特に許されていた。

島原の乱前後までは大砲の導入等の軍事改革が行われたが、そもそも平和な世の中だったために軍事改革の必要性も減少した結果、江戸幕府開闢頃の軍制を200年経った幕末まで維持し続けていた明治時代の警察・軍隊制度を令和までずっと使い続けてるようなものである…
しかし幕末にかけて外国勢力の来航により軍事危機に直面し、それまでの戦力の骨幹を成した侍の弛緩・疲弊、財政悪化や社会の変化・疲弊による従来の動員制度の破綻、制度・武器・教育といったありとあらゆる面での遅れから西洋式軍隊の導入が唱えられ、新たに幕府海軍・幕府陸軍が創設されたが、慶応の改革までは新たな軍隊と旧来の番方は併存した状態が続いていた


【各種政策】

代表的な制度

  • 武家諸法度
全国各地の大名の行動を制限することで幕府への反乱を防ぐ目的に制定された。
将軍の代替わりごとに改訂され、時代や将軍の政治方針に合わせて内容が変化し、違反した大名には改易(領地没収)、減封(領地削減)、転封(国替え)などの厳しい処分が下された。

  • 参勤交代
大名が1年おきに江戸と自身の領地を往復し、江戸に滞在することを義務付けたもの。
主な目的は将軍家に対する軍役奉仕と幕府による大名統制で、大名の妻子を江戸に住まわせることで実質幕府への人質とし、反乱を抑止する狙いもあった。
江戸藩邸の維持や毎年の自領と江戸との往復は藩にとって多大な経済的負担となり財政が圧迫され、結果として幕府に反抗する力が削がれたとされる*3

  • 公家諸法度
1615年(元和元年)に江戸幕府が天皇や公家を規制するために制定した法令。
全17条からなり、天皇の役割、公家の官位や席次、改元など、朝廷の様々な事柄を規定した。
江戸幕府が天皇や公家を管理下に置き、その権力と権威を安定させることを目的とし、天皇には学問や和歌の修業を勧め、政治への関与をさせないようにしたとされる。

石高(こくだか)

江戸幕府は豊臣秀吉が行った検地をもとにした「石高制」を引き継いでいたが、幕府財政は米の収穫量を基本としていたため、8代将軍・徳川吉宗の時代になると農業技術の発達により米の収穫量が増えるとともに値崩れし、江戸時代後期には逆に凶作が続いたことにより収入が激減して幕府や各藩は慢性的な財政難に悩まされ続けた。
吉宗は米の価格統制を行ったのだが、吉宗の死後に実権を握った老中・田沼意次は失脚するまで商人から課税を強化する政策に力を入れることとなった。
また、財源に窮した藩は米の収穫量を担保にして借金を続け、中には数年先の収穫量まで担保にして雪だるま式に借金が増える例も少なくなかった。

そんな石高制で行われた検地だがあくまで机上の計算であり、実態とかけ離れた例も少なからずあった。
早い話が現代で現地での測量や調査を行わずにパソコン上での計算だけで済ませるようなものである。

一例として熊本藩は加藤清正が河川改修を、仙台藩は伊達政宗が開墾を行うことで石高以上の収穫が得ることができたが、薩摩藩は土地が火山灰に覆われていることが原因で土地がやせており、西国雄藩の面目を保つため年貢の取り立てが他藩よりもさらに峻烈を極めたとされ、薩摩藩は琉球王国を通じて清と密貿易を行って不足を補填した。
また基本的に「稲作」一辺倒であったため、東北の盛岡藩・八戸藩のような、もともと稲作ができない土地では表向きの石高相応の収入を得られず、それでも国持大名としての格を維持しようとした結果、76回の飢饉と132回の百姓一揆に見舞われた。

貨幣

泰平の世の中になると五街道を始めとする道路・太平洋・日本海・瀬戸内海を周遊する海路が整備され、それぞれに流通経済が発達することとなり、貨幣による流通経済が飛躍的に発達したことでも知られる。
幕府は
  • 金貨を鋳造する「金座」
  • 銀貨を鋳造する「銀座*4
  • 銅貨を鋳造する「銅座(銭座)」
を設置し、日本全国で流通することとなった。
しかしすべての通貨が均等に流通していたわけではなく、江戸では金貨(小判)が、大阪では銀貨(丁銀など)が主に流通していた。ため、江戸・大阪間交易用に両替専門業者(両替商)が誕生し、次第に貨幣貸付も請け負うようになった(現代における銀行の始まり)。

そんな通貨だが、鋳造するには鉱山からの産出が必要で、当然無限に湧いて出てくるわけもなく材料が底を付くと当然新たな貨幣の発行はできなくなるため、幕府は常に材料の貯蔵量を気にしながら鋳造を行い、貯蔵量回復のために市中経済や貿易の抑制が行われることとなった*5

やがて江戸時代後期になるとほぼ全国民が貨幣経済の影響下に置かれたが、これは武士も例外ではなかった。
だが武士は給与が米で支払われたため、市中で物を買うには1度米を貨幣に変換する必要があり、米価が下がると取り分が減少することになった。
このため特に下級武士は豊作であればある程手に入る貨幣が少なく、かといって凶作ではそもそも禄が少ないという厳しい暮らしを余儀なくされた。

幕府とは別に各藩は「藩札」というものを独自に発行していた。


【大名政策】

江戸幕府の大名は
  • 徳川一族からなる親藩
  • 幕府設立以前から徳川一族に仕えていた譜代大名
  • 関ヶ原の戦い以降に徳川一族に仕えるようになった外様大名
に分類されていた。

鎌倉幕府室町幕府と異なり、江戸幕府では譜代大名が幕府の要職を独占していたのが大きな特徴でもある。
というのも徳川家康は豊臣政権時代までは一大名に過ぎなかったため、譜代大名はさほど有力ではない小大名が中心であり、地方を統治する外様大名として中央政権の要職に就くことが無くなった。
このため江戸幕府は将軍の独裁体制ではないものの、徳川家という枠組で一種の独裁体制を敷いており、あまり政治に関与しなかった将軍でも幕閣の完全な傀儡になることはなく、政権の簒奪も未然に防止することが可能となった。
しかしこれは親藩や有力外様大名が幕閣よりも目上の立場になる事を意味し*6、幕末期において問題点として噴出する事となった。

また、改易の項目に詳しいが、初期は幕府の権威を示して戦乱の時代に戻ることを防ぐためか譜代でも些細とも言える落ち度でかなりバシバシと改易されていた。
しかし、幕閣の安定に伴いそちらの必要性は下がり、逆に改易に伴う浪人の発生などの社会問題や幕府の改易に伴う対応の手間が無視できなくなったためか、改易は減っていき家名存続目的の不正行為が黙認されていたケースも見られた。

親藩

徳川氏の一族、一門の大名。
家格としては家康の9〜11男を祖とする御三家*7、家康の次男・結城秀康を祖とする越前松平家、秀忠の4男・保科正之を祖とする会津松平家と続き、将軍の庶子などを祖とする大名がそれに続いた。

  • 尾張徳川家
家康の9男・徳川義直を祖とする御三家筆頭。
尾張62万石を領し、代々大納言に任じられた。
分家として美濃高須藩3万石がある。

  • 紀伊徳川家
家康の10男・徳川頼宣を祖とする後三家序列第2位。
紀伊55万石を領し、代々大納言に任じられた。
8代将軍・徳川吉宗、14代将軍・徳川家茂を輩出し、分家として伊予西条藩3万石がある。

  • 水戸徳川家
家康の11男・徳川頼房を祖とする御三家序列第3位。
常陸35万石を領し、代々中納言に任じられた。
家格は尾張・紀伊に譲るが江戸常府を認められていた。
「水戸黄門」の黄門様でお馴染みの徳川光圀や15代将軍・徳川慶喜を輩出したが、慶喜は一橋家へ養子に出ているため、形式上は一橋家出身将軍となる。
分家として讃岐高松藩12万石などがある。

  • 越前松平家
家康の次男・結城秀康を祖とする御三家に次ぐ第4位の家。
越前福井75万石を領していたが、秀康の嫡男・忠直は不行跡のために配流され、直ぐに秀康の次男・忠昌が50万石を領し存続を許されたが、少しずつ減封され幕末には35万石を領することとなった。
分家として美作津山藩10万石、出雲松江藩18万石、上野前橋藩17万石、播磨明石藩8万石、越後糸魚川藩1万石がある。

  • 会津松平家
秀忠の四男・保科正之を祖とする御三家、越前藩に次ぐ第5位の家。
正之は秀忠の庶子であったため、信濃高遠藩主・保科正光の養嗣子となる。秀忠は当初認知を渋ったが、秀忠の死後、長兄・徳川家光に引き立てられ出羽山形藩20万石を領していたが、陸奥会津藩主・加藤明成が圧政を行ったことにより領地を返上し、正之が23万石で会津に入った。
正之の死後、松平に復姓、そのまま幕末に至る。
2022年年末まで第18代徳川家当主だった徳川恒孝氏は会津松平家からの養子である。

  • 越智松平家
6代将軍・徳川家宣の弟である松平清武を祖とする家。
上野舘林藩2万4000石から最終的に石見浜田藩6万1000石を領した。
親藩ではあるものの、3代・武元が老中を務めるなど歴代当主で幕府の役職に就く者が多く、事実上譜代大名として扱われていた。

  • 御三卿
「暴れん坊将軍」こと8代将軍・徳川吉宗の次男・宗武(田安家)、3男・宗尹(一橋家)、9代将軍・徳川家重の次男・重好(清水家)にそれぞれ10万石を与え、将軍に男子がいない場合、御三家だけでなくこの三家からも次期将軍を選ぶことを期待して創設された。
この施策により後に幕府は一橋家から11代将軍・徳川家斉、15代将軍・徳川慶喜を選ぶこととなる。
正確には大名ではなく、将軍家の家族として扱われており、家臣団も幕臣が出向して編成されていた。そのため跡継ぎがいなくとも取り潰しは無く、将軍の庶子などが新たに当主を継ぐまでそのままだった。

  • 久松松平家
家康の異父弟・松平定勝を祖とする家。
そのうち次男・定行の伊予松山藩15万石と三男・定綱の伊勢・桑名藩11万石がそれぞれ田安宗武の子を養子としたことで親藩となっている。

  • 鷹司松平家
家光の正室・鷹司孝子の弟である松平信平を祖とする家。
上野吉井藩1万石を領した。
なお信平の正室が徳川頼宣の娘であることから紀伊徳川家の分家にカウントされることもある。

譜代大名

徳川家に古くから仕えて来た大名。柳沢吉保・大岡忠相・田沼意次等、江戸時代の途中で旗本から大名に格上げとなった一部家も含んでいる。
与えられた知行は少なく10万石前後のものが多いが*8、特別に任じられる大老、常設の老中、若年寄ら幕閣は外様大名から選ばれることはなく親藩・譜代の大名から選ばれていた。
また譜代大名の多くは徳川氏の本拠である江戸や大坂など幕府の要地を中心に多く配された。

外様大名

関ヶ原の戦いを前後に家康に臣従・味方した豊臣家恩顧の大名や家康と対峙して敗れた同格の大名達。
多くは江戸から遠隔地に配され、幕府から監視されるとともに幕命により土木事業を命じられることが多く、財政的にも破綻寸前に追い込まれていた。


【主要な役職】

老中、若年寄、京都所司代、大坂城代は将軍直属の職務とされた。

大名役

  • 将軍
幕府最高権力者。
権力の大きさはその時の将軍でかなり異なり、側用人等の側近を用いて将軍が実権を握っていた場合と、老中達が実権を握っていた場合がある。
歴代将軍と将軍についてはこちら

  • 大老
老中より上に置かれる臨時職。
他の要職と異なり複数人置かれることはなく、重要政策の決定を1人の人物が行い、老中、若年寄さえも指揮下に置いた。

  • 老中
いわゆる「御家老」
幕府の日常的な重要政策の意思決定は老中の合議で決定されていた。
将軍の信任により特定の老中*9がほぼ幕府の全権を握っていた場合も多い。
隷下には大目付や勘定奉行、江戸町奉行等多数の役職を置いており、幕府内でも巨大な官僚制度を成す。

  • 若年寄
老中に次ぐ要職で主に幕府の直臣である旗本・御家人の支配を担当していた。
隷下には旗本・御家人の監視役である目付等これも多くの役職があり、こちらもまた官僚制度を成していた。

  • 京都所司代
老中に次ぐ要職。
京都の二条城に常駐し、京都における将軍の代理人として朝廷の監視と西国大名の監視を任務としていた。

  • 寺社奉行
月番で全国の寺社と寺社領管理及び宗教統制を行う。
楽人や検校・連歌師・陰陽師・碁将棋所など諸職の者も統括し、京都所司代から老中へと進む出世コースがあったとされる。

  • 大坂城代
大坂城の警護担当。非常事態や有事の際、西国大名への指揮・命令をする権限が与えられているか、やがて幕府統治が安定すると形だけとなった。

旗本役

  • 大目付
元々は幕府にとって脅威になる可能性のある諸藩を監視する要職だったが、やがて幕府統治が安定し諸藩が謀反する可能性がほとんど無くなってくると、儀礼等を司る閑職もとい名誉職になった。

  • 勘定奉行
財政・天領の最高責任者。
幕府の会計以外にも全国各地に散らばる天領の行政や訴訟も各地に置いた代官を通じて管轄していた。

  • 町奉行
江戸の行政・司法を任された江戸町奉行。
現在での市長・警察署長・裁判所長に当たる要職だが、その3種全てを兼任していたような状態のため在職中に亡くなるほど多忙であったという。
その権限は町人の住む町方に限られめており、大名や旗本の住む武家地は彼らの自治と大目付・目付監察に任されていた。


  • 遠国奉行
天領の重要拠点を担当する責任者。
京都町奉行・大坂町奉行・長崎奉行のような重要都市・港湾責任者や日光東照宮を管轄する日光奉行、伊勢神宮を管轄する山田奉行などの総称。
京都所司代や大坂城代などではなく老中指揮下にあった。

  • 高家
公家様式の儀式・儀礼を担当し、朝廷からの使者(勅使)が京より下向した際には、接待役を任された大名に接待法の作法を教える非常勤講師のような役職。
石高は500〜1500石と多くはないが、その中でも5000石の吉良氏は格別の家格を有しており、足利氏末裔(喜連川氏)や今川氏末裔(品川氏)などが世襲し家格は高い。


【駿府政権】

初代将軍・徳川家康は1605年(慶長10年)に将軍職を息子の徳川秀忠に譲ると自身は大御所となり、駿府城に隠居城を構えた。
その後も家康は現役将軍の権威に配慮しつつも政治を主導し大御所政治を行った。

江戸幕府が東国(主に東日本)に対する政策を行っていたのに対し、家康の駿府政権は主に西国(朝廷や豊臣家、西国大名との対応)を中心に、外交・内政への指示、法令起草など江戸幕府と連携した政策を行っていた。

家康生前から新参譜代の一部が付家老になる等、段階的に解体され、1616年(元和2年)の家康の死去により政権は江戸(将軍 秀忠)に統一された。
家康の死後にはいきなり秀忠直臣として重要な役職に就いた者もいるが、既に派閥など組めないほどに解体されていたのでさほど支障は来さなかった。


【諸外国との関係】

江戸幕府と言えば外国との交流をしなかった「鎖国」政策で知られるが、清・朝鮮王朝・オランダとの交易を行うため長崎を開いたことが有名。
2代将軍・秀忠は対馬の宗氏を介して豊臣秀吉による朝鮮出兵のため断交していた朝鮮王朝との国交の修復に成功し、幕末まで良好な関係を保ちつづけた。
この他に支配下にあった琉球,蝦夷地とも使節団を通じて交易を行った。
また、オランダを通じて欧米諸国の情報を入手、ペリーの来航も予期していたため幕末の外交に一定の役割を果たしたとされる。

一方でキリスト教布教を禁止した上でオランダ以外の欧州諸国との貿易も禁止して*10、且つ日本人の海外渡航と帰国をも禁止し、オランダ人居住は長崎の出島に限り、清国人も長崎以外での貿易は禁止した。
他方、キリスト教自体は踏み絵などで禁止をタテマエとする一方、踏み絵など体制秩序に従う分には内心の信仰そのものは見逃す傾向であったとも言われている。*11

【創作など】

戦国時代のクライマックスである都合上、江戸時代初期から天草の乱辺りまでと、陰謀と策略渦巻き争乱の多かった幕末と呼ばれる末期は多数の創作、物語のモデルとなっている。
一方で江戸時代中期の作品は比較的「日常」ないし「活劇」系が多めで、敢えて言うなら『水戸黄門』『忠臣蔵』のモデル事案があった5代将軍徳川綱吉の治世(元禄時代)や、幕府中興の祖と名高い8代将軍徳川吉宗の治世(享保時代)、文化が爛熟傾向にあった11代将軍家斉の治世(化政時代)が舞台となっている作品が多いか。

むしろこの時代を扱った創作は「時代劇」として、歴史ものからは独立したジャンルとして扱われる傾向にある。
『水戸黄門』『鬼平犯科帳』『暴れん坊将軍』『大岡越前』『遠山の金さん』『必殺仕事人』などが代表格。
これらは実在の人物を題材にしていることも多いが、基本的に歴史的事実とは距離をとった創作物語である。

NHK大河ドラマでは、忠臣蔵ものと幕末ものを除くと、江戸時代のみを舞台とした作品は『八代将軍吉宗』『葵・徳川三代』『べらぼう』の3作のみと意外と少ない。
ここからも、この時代は歴史劇より時代劇の時代だといえるだろう。
なお、忠臣蔵はかつては国民的人気のある物語だったが、近年は人気が低下しているようである。*12

逆に言うなら260年も続いていながらもこれらの時期の作品以外がそれほど多くない頃から、やはりというか非常に平和な時期=物語としてはメリハリの無い時代であった証拠と言えようか。
近年では親近感を覚えやすい金銭面などでの苦労についてクローズアップした、映画『超高速!参勤交代』『殿、利息でござる!』『引っ越し大名!』『決算!忠臣蔵』といった作品も登場している。
ある意味では現代日本と同じく「日常系」が作りやすい時代と言える。

ちなみに江戸時代と言っても初期と末期とでは生活や科学力も色々違うはずなのだが、マニアックな考察になるのか無視されがちである。
『水戸黄門』などその典型で、時代設定は元禄期なのだが、作中の風俗は天保期あたりのものになっている。
イマジナリー江戸時代。江戸っ子大虐殺とかね。




追記・修正は江戸幕府の仕組みを学んでからお願いします。


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最終更新:2026年03月25日 09:02

*1 幕府設立当初からこの制度だったわけではなく、制度としては1600年代後半までに確立された。

*2 ただし財政削ぎは副次効果で本来は忠誠心を確認するための野乃であったらしい

*3 幕府には藩の財政を圧迫しようとする意図は無かったようで、行列が運ぶ荷物などに上限を設けるなどして負担の軽減に努めている。

*4 現在の東京・銀座はその名残りとされる。

*5 このような形の財政再建は明治新政府でも行われた。

*6 一例として井伊家は譜代大名筆頭であるが、外様大名筆頭の前田家や、御三家・御三卿よりは下の席次であった。

*7 尾張・紀伊・水戸

*8 最大でも彦根・井伊家の35万石。

*9 松平定信、水野忠邦、阿部正弘など。

*10 オランダがナポレオンの第一次フランス帝国に併呑されたときにはイギリスにフランスの友好国と見做されてフェートン号事件を起こされているので、ヨーロッパ目線では一時的にフランスとも通商を結んでいる

*11 信者が見つかっても素直に棄教すれば命は取られない場合が大半であった。また明治期に禁教が解除された際にもさしたる混乱は見られなかった。

*12 世界的にテロリストが各国政府を悩ませている状況下で、犯罪行為を美談として扱うのは抵抗が大きいことや、史実がネットで広まり、浅野の問題点や吉良の評価が広まったことから、美談調に扱う忠臣蔵のストーリーはかえって白けてしまうことなどが考えられる。