内川コピペ

登録日:2011/12/15(木) 17:59:23
更新日:2025/06/30 Mon 11:16:22
所要時間:約 11 分で読めます




内川コピペとは、プロ野球選手で当時横浜ベイスターズ所属の内川聖一を主人公として作られた、とあるショートストーリーである。

【コピペ本文】


本拠地、横浜スタジアムで迎えた中日戦
先発三浦が大量失点、打線も勢いを見せず惨敗だった
スタジアムに響くファンのため息、どこからか聞こえる「今年は100敗だな」の声
無言で帰り始める選手達の中、昨年の首位打者内川は独りベンチで泣いていた
WBCで手にした栄冠、喜び、感動、そして何より信頼できるチームメイト・・・
それを今の横浜で得ることは殆ど不可能と言ってよかった
「どうすりゃいいんだ……」
内川は悔し涙を流し続けた
どれくらい経ったろうか、内川ははっと目覚めた
どうやら泣き疲れて眠ってしまったようだ、冷たいベンチの感覚が現実に引き戻した
「やれやれ、帰ってトレーニングをしなくちゃな」内川は苦笑しながら呟いた
立ち上がって伸びをした時、内川はふと気付いた

「あれ……?お客さんがいる……?」
ベンチから飛び出した内川が目にしたのは、外野席まで埋めつくさんばかりの観客だった
千切れそうなほどに旗が振られ、地鳴りのようにベイスターズの応援歌が響いていた
どういうことか分からずに呆然とする内川の背中に、聞き覚えのある声が聞こえてきた
「セイイチ、守備練習だ、早く行くぞ」

声の方に振り返った内川は目を疑った
「す……鈴木さん?」
「なんだアゴ、居眠りでもしてたのか?」
「こ……駒田コーチ?」
「なんだ内川、かってに駒田さんを引退させやがって」
「石井さん……」
内川は半分パニックになりながらスコアボードを見上げた

1番:石井琢
2番:波留
3番:鈴木尚
4番:ローズ
5番:駒田
6番:内川
7番:進藤
8番:谷繁
9番:斎藤隆

暫時、唖然としていた内川だったが、全てを理解した時、もはや彼の心には雲ひとつ無かった

「勝てる・・・勝てるんだ!」
中根からグラブを受け取り、グラウンドへ全力疾走する内川、その目に光る涙は悔しさとは無縁のものだった・・・

翌日、ベンチで冷たくなっている内川が発見され、吉村と村田は病院内で静かに息を引き取った




……切なすぎる。

【解説】

ストーリー

舞台は2009年、まず内川聖一が所属していた横浜ベイスターズが大敗を喫する場面からコピペは始まる。
このマイナスムードの中、ファンの「100敗か…」の一言により、横浜という球場全体のドンヨリ感を肌身に感じることが出来る。
野球を知らない人でも、どうやらこのチームがどん底にあるらしいというのはわかるだろうか。*1
そして選手一団も無言で立ち去る。この淡々とした風景から分かることは、球団自体が既に諦めムードに侵されていることである。

そのようなチームに所属しているのが主人公の内川。当時のメンバーの中では数少ない、リーグ全体に目を通してもトップレベルに入る選手である。
彼の葛藤と涙の描写が入り、そのまま永遠に目覚めることのない夢の中へ誘われる。

夢の中で内川は黄金期の横浜を彩る選手たちと出会う。
個人の結果だけでは勝利を得られない。首位打者だからこそ分かる、勝てる事への喜びに酔いしれるシーンでは、読み手である我らも涙に誘われる。
本来なら内川の打順にいるはずの中根からグラブを受け取るという小粋な演出も、ベイスターズ全盛期を知る者なら感慨に浸れるであろう。しかしそれは彼が死の間際に見た幸せな幻想にすぎないと言う展開がまた深く突き刺さる。

コピペとして

このコピペのミソなのが最後の「吉村と村田は病院内で静かに息を引き取った」の部分。
野球のみならず様々な分野の改変版が存在するが、いずれにおいてもこの部分だけは改変してはならないお約束となっている。

吉村は吉村裕基、村田は村田修一を指す。
他の分野に改変した時、「吉村と村田って誰だよ」とツッコまれるのを待つのが通の楽しみ方とか。
コピペが広まった結果「ここでも息を引き取る吉村と村田」などとイジられることも増えたが。

因みになぜ吉村と村田なのかというと、吉村は怪我、村田は病気によって戦線から離れていた事が理由とされる……らしい。
あるいは吉村と村田と内川の三人が2009年当時の野手の主力であり、彼らが亡くなることで悲壮感を演出しているという説もある。
そもそもこの記述がただ単に「(内川の死を)看取った」の間違いだという説もある。
何を間違えたかについては言葉の意味の覚え違いや推敲段階での変更ミスなど諸説あるが、結局のところ理由は不明である。

実はオリジナルでは「多村と村田」になっていたが、多村仁志は既にホークスに移籍した後だったために、多村を吉村に置き換えたバージョンが普及した。


【背景】

このコピペを理解するために必要なこととして、このコピペが作られた2009年前後の横浜ベイスターズ、及び内川聖一の置かれた状況がある。
ベイスターズは2001年の3位から3年連続最下位。2005年の3位を挟んで良くて4位、だいたい最下位という超暗黒時代であった。
特に2008年には内川自身が首位打者、主砲の村田修一が本塁打王を取るもチームは48勝94敗2分の成績でダントツ最下位。5位ヤクルトとは19ゲーム差をつけられ、内川の打率(.378)がチームの勝率(.338)を上回る事態になるほどの負けっぷりであった。

チームは低迷しているが自身の能力が認められ、内川は野球の世界大会であるWBC2009の日本代表メンバーに選出。コピペの通り世界一の美酒を味わう。
そのわずか数日後コピペの基となったオープン戦があり、この試合では当時チーム内では貴重な一流選手であり開幕投手と目されていたエース三浦大輔が4回10失点と大炎上してしまう。
試合後建てられた2chのスレで「三浦大量失点」「今年こそ100敗」というキーワードが飛び交う中投下されたのがこのコピペ(の原型)である。

作中で内川が目にする黄金時代のベイスターズのメンバーは、当時ベイスターズが最後にリーグ優勝・日本一を果たした1998年のもの。このうち本来6番におさまるはずだった人物は中根仁or佐伯貴弘*2であり、内川にグラブを渡す人物が中根となっているあたりも芸の細かさが窺える。
内川は2000年ドラフトでプロ入りしたので、自身はベイスターズの一員としての栄光を味わったことはない。
また、コピペの中で内川と言葉を交わす人物はいずれも現役選手としては2009年時点で横浜から去っており(「鈴木さん」と呼ばれている鈴木尚典は2008年現役引退、駒田徳広コーチは2009年にコーチ就任、「石井さん」こと石井琢朗は2008年オフに広島へ移籍)、作中の内川が驚くのも無理のない人選となっている。*3

【その後】

登場人物のその後

基本的にNPB引退までを扱う。
  • 内川聖一
2010年、一定年数以上1軍にいると取得でき、NPBのどの球団とも契約ができるフリーエージェント(FA)の権利を取得し、オフに行使してソフトバンクに移籍。
古巣へのコメントが話題になり揶揄されることもあったが、主力として複数回のシーズン優勝・日本一に貢献。
2020年オフにヤクルトに移籍。2022年にNPB引退。

  • 村田修一
2010年にFA権を取得し、翌2011年オフに行使して巨人に移籍。怪我や不振もあったが主力として活躍。
2017年オフに戦力外通告を受け退団。独立リーグでNPB復帰を目指したが、2018年に引退。

  • 吉村裕基
2012年オフ、トレードでソフトバンクに移籍。
2018年オフ、戦力外通告を受け退団。

  • 多村仁志
上述の通り、2006年オフにソフトバンクにトレードで移籍しており、コピペ当時の2009年は既にベイスターズにいない。
2012年オフ、上述の吉村と同じトレードによりこちらは横浜に復帰。
2015年オフに戦力外通告を受けて退団し、翌2016年1月に中日に育成選手として移籍したが、同年限りで引退。

チームのその後

コピペが誕生した2009年以降もチーム状況はなかなか好転せず、成績も
  • 2009年 51勝93敗0分(.354)
  • 2010年 48勝95敗1分(.336)
  • 2011年 47勝86敗11分*4(.353)
と、コピペで言及されている100敗こそ回避したものの、いずれのシーズンもダントツの最下位に終わっていた。

しかし、4年連続最下位となった2011年オフに親会社が変わり、横浜DeNAベイスターズとして再出発。
慣れない球団経営やとんでもないチーム状況に会社も首脳陣も苦労するが、最終的に何年もかけて「暗黒時代」から抜け出した。
その後は下記の通り、リーグ優勝こそ成していないが、日本一を達成するなど強い姿を見せている。

2012年以降のチーム成績(2024年終了時点)
  • 最下位脱出-2013年
  • 初Aクラス入り(リーグ6球団中3位以上)-2016年
  • 初の日本シリーズ進出-2017年(対ソフトバンク、2勝4敗)
  • 初リーグ優勝-未達成
  • 初交流戦優勝-2023年(18戦11勝7敗)
  • 初日本シリーズ優勝-2024年(対ソフトバンク、4勝2敗)


【もうひとつのコピペ(?)】

上記のコピペから数年が経ち、DeNA時代になって成長した横浜。
これはそんなチームに対する内川の心持ちをねつ造したコピペであり、2015年初出とされる。

+ コピペ本文
内川「なんて球だ…あんなやつが居て筒香や梶谷を中心に上手くまとまってる…」
内川「俺があの打線にいれば…いやいなくても軽く優勝出来るチームになったな」
内川「…戻りたいなぁ」

内川コピペは知っててもこっちは知らないって?
それもそのはずで、こちらは内川コピペと比べるとほとんど広がらなかったものである。
なぜかというと、面白いかどうかは個人の意見なので別にしても、当時の内川の状況を考えるとリアリティが皆無だから。
そもそも2015年頃も内川の所属するホークスは優勝もしくは優勝争いを繰り広げているので、戻りたくなる理由が(古巣への未練以外に)存在しない。

コピペ中の「あんなやつ」とは2014年ドラフトでDeNAに入団し活躍していたルーキーの山﨑康晃投手のことであり、このコピペは2015年6月2日の交流戦、SB対DeNA戦(結果は5-6でベイスターズ勝利)の後に誕生した。
このコピペが内川の2015年当時の現状とは全く異なるのは上述の通りだが、ベイスターズの状況に関してはそんなに間違っていない。
なんせこの年のベイスターズは絶好調で、リーグ首位で交流戦に突入していたのである。

…だがしかし、交流戦では18戦中わずか3勝という歴代ワースト記録を更新し、一気に転げ落ちる。
山﨑康晃が新人王獲得といった活躍はあったのだが、最終的にはシーズン最下位フィニッシュとなった。


【改変の一例】


魏国、五丈原で迎えた第五次北伐
司馬懿を追い詰めるが廖化が冠に騙される痛恨のミス、またも討ち取れずにいた
陣中に響く将兵のため息、どこからか聞こえる「なぜ子午谷から攻めぬのだ」の声
無言で戦支度をする兵卒達の中、蜀の丞相諸葛孔明は独り渭水のほとりで泣いていた
先帝の下で手にした栄冠、喜び、感動、そして何より信頼できる武将達・・・
それを今の蜀漢で得ることは殆ど不可能と言ってよかった
「どうすりゃいいんだ…」孔明は悔し涙を流し続けた
どれくらい経ったろうか、孔明ははっと目覚めた
どうやら泣き疲れて眠ってしまったようだ、冷たい渭水の流れが現実に引き戻した
「やれやれ、泣いて馬謖を斬らなくちゃな」孔明は苦笑しながら呟いた
立ち上がって伸びをした時、孔明はふと気付いた

「あれ…?陣中が騒がしい…?」
慌てて自陣へ戻った孔明が目にしたのは、五丈原を埋めつくさんばかりの兵達だった
千切れそうなほどに軍旗が振られ、地鳴りのように鬨の声、銅鑼の音が響いていた
どういうことか分からずに呆然とする孔明の背中に、聞き覚えのある声が聞こえてきた
「軍師殿、軍議の時間です、早く参りましょう」声の方に振り返った孔明は目を疑った
「し…子龍?」  「どうした孔明、居眠りでもしていたのか?」
関羽…」  孔明は半分パニックになりながら作戦図に目を通した
1番:趙雲 2番:法正 3番:関羽 4番:張飛 5番:馬超 6番:諸葛亮 7番:黄忠 8番:関平 9番:龐統 暫時、唖然としていた孔明だったが、全てを理解した時、もはや彼の心には雲ひとつ無かった
「勝てる・・・勝てるんだ!」
馬良から羽扇を受け取り、戦場へ全力疾走する孔明、その目に光る涙は悔しさとは無縁のものだった…

翌日、五丈原で生ける仲達を走らす孔明(木製)が発見され、吉村と村田は静かに剣閣の露と消えた


この他にも色々あるが、どの版でも最後は必ず吉村と村田が息を引き取る点だけは改変されない。
この改変例のように言い回しを変えている場合や、作中人物の巻き添えというパターンもあるが、ここだけは変えないのがお約束である。
たとえ吉村と村田が生まれる時代だろうが本物の吉村と村田が死んだ後だろうがおそらくこの定型が改変されることはないだろう。
なんなら本物の吉村と村田の訃報が発せられたときに大量投稿されるかもしれない...
え?不謹慎だって?コピペ内で死なせまくってる時点で今更......


【余談】

野球ゲームで当時のチームを再現しシーズンを戦い抜くという企画がある。
ゲーム中では最下位常連のチームが再現されているため自ら操作しない限り好成績を残すのは至難の業であり、Aクラスが取れずとも最下位回避だけで上等と評されるとかなんとか。
パワプロの場合、2009年当時の選手が登場するのはPS2の『2009』とWiiの『NEXT』。
それらを持っていなくても、当時のステータスを参考にして他の作品で再現することも可能である。



「出来る……追記修正出来るんだ!」
中根から携帯電話を受け取り、アニヲタWikiで全力追記修正する内川、その目に光る涙は悔しさとは無縁のものだった……

翌日、携帯電話を握りながら冷たくなっている内川が発見され、吉村と村田は病院内で静かに息を引き取った

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最終更新:2025年06月30日 11:16

*1 ちなみに本当に100敗した場合、当時の年間試合数が144試合なので、引き分けが0とすると勝率はわずか.306となる。

*2 相手投手の利き腕によって併用されていた。

*3 2009年時点で横浜に残っていたマシンガン打線のメンバーは、本来の6番・左翼のポジションである佐伯貴弘ただ一人。その佐伯も、翌2010年に退団し中日へ移籍している。

*4 同年に発生した東日本大震災の影響で節電が呼びかけられていたため、試合時間が3時間30分を超えた時点でそれ以上の延長回を行わず引き分けとする規定(いわゆる3時間半ルール)が取られていた。