三浦大輔

登録日:2024/11/04 Mon 01:00:00
更新日:2025/03/25 Tue 13:59:41
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これからも三浦大輔はずっと横浜です!ヨロシク!


三浦(みうら) 大輔(だいすけ)とは、元プロ野球選手及びプロ野球指導者。


2021年から横浜DeNAベイスターズ一軍監督に就任している。



【プロフィール】


生年月日:1973年12月25日
出身地:奈良県橿原市
身長:183cm
体重:88kg
投打:右投右打
ポジジョン:投手
血液型:B型
プロ入り:1991年ドラフト6位
選手歴:高田商業高等学校→横浜大洋ホエールズ/横浜ベイスターズ/横浜DeNAベイスターズ(1992~2016)
一軍監督歴:横浜DeNAベイスターズ(2021~)
コーチ歴:2014年~2016年選手兼一軍投手コーチ、2020年(二軍監督)
主な獲得タイトル:最優秀防御率(2005)、最多奪三振(2005)
現役時代成績:実働25年、535登板、172勝184敗、投球回3276、奪三振2481、通算防御率3、60
背番号:46(1992~1997)、18(1998~2016、2019-2020)、81(2021~)
愛称:『ハマの番長』『番長

【概要】


現役時代は先発投手として活躍した。
横浜大洋ホエールズ→横浜ベイスターズ横浜DeNAベイスターズと、チーム自体は同じながら、三名称の球団に選手として所属した唯一の選手である。
リーゼントがトレードマークで愛称は『ハマの番長』。
決して同じ大洋OBである山下大輔先輩と比べてはいけない



【来歴】

プロ入り前

1973年生まれ。奈良県橿原市にて花屋を経営する家庭に誕生。

幼少期は大阪市で過ごしており、実家の花屋の手伝いで当時阪神タイガースの主力選手だった岡田彰布の自宅を訪ねたこともあり、また父が岡田の後援会に所属していたことから、幼少期から岡田とは顔見知りであった。その縁もあって少年時代は阪神ファンであり、岡田も少年野球でプレーしている三浦を見てその素質を認めていた。

高校時代は奈良の高田商業に所属。野球部では『エースで4番』としてチームを引っ張るが、後に巨人にドラフト1位指名される谷口功一擁する天理高校に春夏共に奈良県大会決勝で敗れ甲子園出場はならなかった。甲子園出場こそ叶わなかったが、三浦の素質を高く評価した横浜大洋に1991年オフのドラフト会議で6位指名され入団する。ちなみに同期入団のドラフト1位は斎藤隆


選手時代

高卒下位指名ながら首脳陣の三浦に対する評価は高く、高卒1年目の1992年から一軍での登板機会を与えられ、2年目、3年目になると一軍先発登板も増えていく。そして4年目の1995年に初めて規定投球回に到達したことでこれ以降チームの主力投手としての地位を確立する。

1997年にはプロ初の二桁勝利を達成。リーグ最高勝率(.769)を記録するがこの年は表彰対象ではなかった。*1
1998年には先発ローテ投手として12勝を挙げチームのリーグ優勝、日本一に大きく貢献した。初の開幕投手を務めた1999年こそやや成績を落としたが、2000年には当時主戦投手だった斎藤隆、川村丈夫、野村弘樹らの怪我や成績不振がある中、三浦は安定した成績を残したため、この年からチームのエース投手の地位を不動の物とする。

2001年も11勝を挙げエースとして安定した活躍を見せるが、2002年からチームは長きに渡る暗黒時代に突入していくことになる。2004年はアテネ五輪にも日本代表の一員として出場。

2005年は28登板で10完投、リーグトップの214.2イニングを投げる大車輪の働きでTBS時代唯一のAクラス入りに貢献。キャリアハイの成績を残し最優秀防御率、最多奪三振のタイトルを受賞する。2006年は8勝12敗と負け越すが、9完投3完封に加え2年連続リーグ最多の投球回を投げるなどチームが最下位に沈む中、エースとして気を吐いた。この年に通算100勝を達成している。

2007年も先発投手として安定した活躍を見せるが、2008年オフにFA権を行使。
阪神が獲得に名乗りを上げるが、悩み抜いた末に『強豪チームを倒して優勝したい』との思いから横浜残留を表明した。
事実上の『生涯横浜宣言』であった。

2009年もチームが当時指定席の最下位に沈む中、11勝11敗で規定投球回到達、防御率3点台前半と唯一計算できる絶対的エースして孤軍奮闘の活躍を見せる。ちなみにこの年がキャリア最後の二桁勝利であった。2010年~2011年前半は不振であり、当時30代後半であったこともあり引退も囁かれたが、2011年後半から復活し先発投手としてまだまだ健在を証明しそんな声を一蹴。高崎健太郎と並びチーム最多の5勝を挙げた。*2

翌2012年から親会社がDeNAに変わり、監督には中畑清が就任したことで、長かった暗黒時代の終焉が遂に見えることになる。中畑は三浦に全幅の信頼を置いており、当時のチームの投手層が薄かったこともあるが40歳近い年齢ながら2012年は6完投を記録している。2012年には巨人戦で通算150勝を達成し、達成した際の『横浜に残ってよかった』の一言はチームが低迷にあえぐなか横浜ファンの感動を呼んだ。
長い暗黒時代からの脱出を予感させられる出来事の一つだったとも言える。

2013年も9勝13敗と負け越したが投球回はチーム最多の175回を投げるなど、まだまだチームの大黒柱として奮闘する。この年が三浦のキャリア最後の規定投球回到達であった。

2014年は、阪神からFAで獲得した久保康友や、当時若手だった山口俊、井納翔一、新外国人のモスコーソの奮闘など、三浦以外にも先発ローテーションを守れる投手が急増したことから負担も以前より減り投球回数も落ち着いていった。それでも先発ローテーションの一員として十分活躍しており当時40歳ながら8月の月間MVPにも選ばれている。またこの年から投手コーチを兼任している。

2015年に1993年から23年連続で投手として勝利を記録。これは山本昌、工藤公康に並びプロ野球タイ記録である。この年のオフに数少ない自身より年上の現役選手であった山本昌らが引退したことで2016年からは現役最年長選手となった。

そして2016年、2試合に先発登板するもいずれも4回しか投げられず防御率8点台で未勝利に終わり、ついに三浦も限界を迎えてしまった。最終的にチームの11年ぶりAクラス入りが決まった翌日となる9月20日に今季限りでの引退を発表。同年3試合目の登板となった引退試合では6.1回10失点とボロボロになりながらも力投。試合後の引退セレモニーで満員の観衆の中、背番号と同じ18回胴上げされ現役を退いた。

横浜大洋ホエールズに所属した経験のあるプロ野球選手では最後の現役選手だった。


指導者時代

2017年~2018年は評論家として活動していたが、2019年から一軍投手コーチとして現場に復帰し、2020年には二軍監督に就任した。そして2020年限りで監督退任するアレックス・ラミレスの後任として2021年から監督に就任する。

2021年は就任一年目ということもあったのか最下位に沈むが、2022年はシーズン2位と奮闘し球団の生え抜き監督としては初のAクラスを達成する。しかしCSではシーズン3位の阪神にファーストステージで敗れ下剋上を許す。2023年はレギュラーシーズン3位でCSに駒を進めるが、2位の広島とのファーストステージで連敗してシーズンを終えた。

2024年はシーズン3位でCSに進出し、敵地の甲子園球場で阪神を圧倒して2連勝でファーストステージを突破する。巨人とのファイナルステージでは初戦から3連勝とリーグ覇者の巨人を追い詰めるが、巨人もこのままでは終わらず意地を見せ決着は最終戦までもつれることになる。
最終戦では3-2で巨人を下し、シーズン3位ながら日本シリーズへの切符を勝ち取りパ王者のソフトバンクが待つ日本シリーズへと駒を進める。

ソフトバンクとの日本シリーズ。ホームで始まった初戦から2連敗を喫するも、福岡ドームに移動してのビジターでは3連勝を決めて一気に形勢逆転。日本一へ王手をかけて再び横浜へ戻ることができた。
そして2024年11月3日、運命の日本シリーズ第6戦でも勢いそのままソフトバンクに11-2と圧勝。レギュラーシーズン3位ながら2010年の千葉ロッテ以来の『史上最大の下剋上』を成し遂げ、三浦監督は横浜スタジアムに宙を舞い、チームは1998年以来26年ぶりに日本シリーズを制した。
かつてFA残留を決断した時に発した言葉を16年かけて有言実行したのである。


【選手としての特徴】

オーバースローの投手で、最高球速は約148Kḿとプロの超一流投手としては特段速い部類ではない。しかし球速こそ出ないがそれなりに空振りが取れる程度には質の良い直球であり、緩急や投球術と合わせて威力を発揮した。
最大の武器は「精密機械」と呼ばれてもおかしくない程の制球力*3と、規定投球回は当然のように投げ、年間200イニング前後投げるシーズンも多い豊富なスタミナ。キャンプでも物凄い数を投げ込んで体を作ることで有名であり、現役時代は「三浦の投げ込み球数」といえば横浜キャンプの風物詩の一つであった。
またフィールディング(守備)も非常に上手く、通算3000回以上投げた上で失策は僅か9個と驚異的な数字を残しており、ゴールデングラブの受賞経験がないのがおかしいぐらい。

大きな変化をする絶対的な球こそ持っていないものの球種は豊富で、カットボール、スライダー、スローカーブ、フォーク、シュート等様々に投げ分けられる。安定してストライクが取れる器用な面も持ち合わせており、投手としての総合力は非常に高い。
スローカーブはかなり遅く星野伸之と同様の名手として知られ、他の球と組み合わせた緩急で相手打者を苦しめた。また現役時代は全然着目されていなかったが実はカットボールもかなり優秀な球種であり、空振りやゴロなどを稼いでいた。
奪三振能力も高く、奪三振数2481はNPB歴代9位で、上述の通り最多奪三振のタイトル経験もある。
高い制球力やスローカーブの存在から技巧派の軟投投手と思われがちだが全盛期はむしろ「本格派」と言っても差し支えなかった。

2段モーションのピッチャーとして有名だったが、2006年のルール改定(ボーク判定基準が厳しくなった)により投球モーションを変えなければならなくなり、試行錯誤して苦しんだ。
しかしその後も一定以上の成績を残しており、修正能力の高さも多くの野球人が認めるところとなっている。

阪神戦は通算46勝32敗と阪神キラーと呼ばれる成績を残している。一方巨人戦とは相性が悪く、2005年8月に勝利を挙げてから、2012年7月で通算150勝を達成するまで7年近くも要するなど苦戦した。

長らくチームのエースとして活躍しており開幕投手も7度も経験しているが、ともにセ・リーグ開幕戦では史上初となるサヨナラ満塁本塁打(2005年・対中日)や初球先頭打者本塁打(2007年・対巨人)を被弾するなど7戦全敗であり、現役時代に開幕戦で勝ち星を挙げることは出来なかった。ただし開幕二、三戦目での先発登板は非常に相性が良く6戦全勝と両極端であった。

実は投手としては打撃も良いほうで、ホームランこそ1本のみだが、24シーズン連続安打(1993年~2016年)という記録を持っている。
これはNPBの投手の中では歴代1位、野手を含めても歴代4位タイのすごい記録である。

【監督としての特徴】

投手出身の監督であるが、チームとしては攻撃力を重視する傾向が強い。本拠地が狭く本塁打が出やすい横浜スタジアムであることもあってか『一点でも多く取る野球』を目指し機動力で相手をかき乱す事も重視している。
野手起用に関しては相手先発との相性を重視した起用が目立つ。一例として、阪神の青柳晃洋と対戦する際にはスタメンの大半を左打者で並べてまで相性が悪い宮﨑敏郎、ネフタリ・ソトといったレギュラーを外し、リリーフ投手に変わったタイミングで代打起用するといった試合があった。
その風貌とは裏腹に普段は温厚な性格で、選手とのコミュニケーションやベンチの雰囲気も重視し、投手降板時には労いの言葉をかけることも多い。

ただし優しい一面だけではない。2024年8月27日の阪神戦では無死から二つの四球と安打で満塁のピンチを作るなど乱調と言える投球内容の助っ人ローワン・ウィックを降板させようとしたところ、ウィックが降板拒否の反抗的な態度を露骨に示した。これには珍しく公然と大激怒しウィックを一喝*4。毅然とした態度で接した。
後にウィックとは投手コーチを交えた三者面談を行ったため、この一件に対する蟠りはない模様。ちなみにこの件が功を奏したのか、ウィックはこの一喝以降は好リリーフを連発することになった。
この一件はチームが引き締まったターニングポイントだと考える野球解説者、ファンも少なくなく、選手側も主将の牧秀悟は『監督が感情を露わにして激高しているのを初めて見た』と語っており、選手に与えた影響も大きかったと言える。
その他若手に対しても「チャンスはつかむものです」と叱咤激励し、あくまで結果にこだわるシビアな一面も見せた。

【人物・趣味・余談】

趣味はロック鑑賞、プロレス観戦、競馬など。ロックは特に矢沢永吉とエルヴィス・プレスリーの大ファンで、トレードマークのリーゼント頭も彼らをリスペクトしたことがきっかけである。そのリーゼント頭からか『ハマの番長』という愛称をつけられるが、本人は番長とは対照的に温厚な性格である。

若手のころ横浜のコーチ陣にリーゼント頭を咎められ、「罰金を払うか、その髪を切れ」とたびたび通告されたそうだが、ずっと罰金を払い続け、リーゼントを切ることは頑として拒否したという。
同時に「リーゼント頭でも文句を言われないぐらい、野球をちゃんとやって成績を残してやる」と決意、若いころから練習に必死で取り組むことで有名であり、チームの手本であったという。

現役時代からファンサービスにも積極的に力を入れており、自身のサインが転売されるという問題に見舞われても「もっと書こうと思うよ。売るのも買うのもバカらしくなるぐらい書こうと思う。 『えっ?三浦のサイン買った?アホやなぁ…球場行ったらナンボでももらえるのに』みたいな」という名言を残している。

趣味がプロレス観戦であるからか、蝶野正洋橋本真也天山広吉などプロレスラーとの交流も深い。

球界でも屈指の競馬ファンでもあり、2011年に馬主登録し『リーゼントロック』『リーゼントブルース』など「リーゼント」の冠名で競走馬を走らせている。ちなみに三浦の娘もサンケイスポーツの競馬担当記者として勤務している。

1994年に原因不明の肝機能障害を患ってしまい、苦労しながら治療を続けている*5。現在もその病は完全には治っていないそうである。

ブログ(現在はインスタ)のためにセルフィを撮る際、必ず同じ角度で映り込むことで有名。おかげでこの構図は「ばんてふフレーム」などとファンに親しまれている。
なおこの写真は利き手である右手ではなく左手で撮影される。というのも右手は長年の登板もあり、腕が伸び切らないのでピントが合わないという職業病があるため。
この腕が伸び切らない症状は同じく長期に渡り現役だった山本昌も抱えている持病でもある。

その実力から、現役時代後期からたびたび「あの(・・)横浜ベイスターズ以外のチームだったらもっといい成績が残せるのではないか」「他球団だったら200勝を達成できたのではないか」と言われ続けているが、この話題になるたびに三浦は「他球団だったらもっと早く引退していたかもしれない」とその可能性を否定している。
特に2012年の取材で、同様の質問を否定する際に語った「俺は横浜の三浦大輔だから」という発言は有名である。


追記・修正、ヨ・ロ・シ・ク!!


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  • 1973年生まれ
  • リーゼント
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  • ピッチャー
  • 三浦大輔
  • 18
  • 81
  • エース
  • 26年間耐え忍んだ漢
  • 何故かなかなか立たなかった項目
  • 先発投手
  • 横浜の誇り
  • 高田商業高校
  • ササキ様に願いを
  • 馬主
  • イチロー世代
最終更新:2025年03月25日 13:59

*1 最高勝率が表彰されるのは1972年以前と2013年以降。ただし表彰されていなかった期間も記録自体は取られている。

*2 5勝でチーム最多勝というのを疑問に思うかもしれないが、まぎれもない事実でありいかに当時の横浜が暗黒時代だったかを如実に表す数字とも言える。

*3 特に四球が少ない投手で知られており、現役通算のBB/9(この選手が9回投げた時に四球を出す確率、数値は「与四球数÷投球回数×9」で算出される。)は2.42。つまり「1試合で平均すると、3回四球を出すことがほぼない」ということである。いわゆる『無四球完投』も16回記録している。

*4 ウイック本人や三浦本人の弁によると『Change!(交代だ!)』と言ったとのこと。

*5 肝機能障害は遺伝が関与するものもあるなど、一概に飲酒が原因とは言えない病である。三浦自身も元々酒は「全く飲めない」と公言している。