チャメド問題(淮:Anfilé tchamaidaut)とは、
チャンタ民主戦線共和国のシャンタラ地方とボスキヤ地方の境界にある町チャメドを中心とする暴力的紛争。数十年に渡って解決していない大宇宙の継続中の紛争の一つ。
概要
チャメドはシャンタラ地方とボスキヤ地方の境界にある町である。シャンタラ地方はチャンタ語を話すチャンタ人を中心とする地方自治体であり、ボスキヤ地方はファルファヤ語を話すファルファヤ人を中心とする地方自治体である。彼らは本来境界線であるチャメドで、お互いの文化を受け入れながら共存していた。しかしながら、18世紀の
管理主義政権においてタウンクゥユヮルーによって導入されたナショナリズムの概念によって言語や文化が異なるファルファヤ人とチャンタ人はお互いにネーションの違いを意識していくようになっていく。チャメドの民族問題は、些細な事象から拡大していき、ナショナリズム的な思想を先進的なものとして扇動する現地思想家や関係する国家の支援によって拡大していった。
結果的に本問題は深刻な人権侵害問題であるとともに
プルスティア含む平和を求める勢力だけでなく、戦争産業に関わる国家、それ以外の平和支援に関わる国家などの利権が複雑に関わる絶望的な紛争に至っている。
歴史
起源
いつから私達の歯車は狂っていったんだろう。皆、違っていて、皆、仲間で、子供の頃はそれが当然だったのに、大人になったら皆変わってしまった。私達の歯車は狂ってしまった。
――プレンディーア・ド・ホールフォーティエ(チャンタ革命を掲げて処刑されたクレオールの一人)
18世紀の管理主義政権においてタウンクゥユヮルーによって導入されたナショナリズムの概念によって言語や文化が異なるファルファヤ人とチャンタ人はお互いにネーションの違いを意識していくようになっていった。独立紛争において、国際社会に支援されたのは抵抗勢力の主力であったチャンタ人であった。チャンタ人の近隣民族として、ファルファヤ人は生きてきたがチャンタ人の優遇に対して独立戦争の時期から疑問が抱かれるようになっていく。
始まり
見なさい、ジエールを。国際的に影響力を持つ国々を。我々はどうです。バラバラに別れた人間の塊ではないですか。ナショナリズムは盲信ではない、方法なのですよ。
――ナム・ンアプッハ・パンチャ・チャンマ・タウンクゥユヮルー(チャンタ管理主義時代の指導者)
チャンタ人とファルファヤ人が混交しつつ暮らしていた小さな町チャメドは、シンテーア歴1810年に独立戦争の勝利によって成立した
チャンタ民主戦線共和国の地方行政整備に伴って南西世界のシャンタラ地方の管轄となった。
そもそも、南西世界はチャンタ語を話すチャンタ人の地方自治体とファルファヤ語を話すファルファヤ人の地方自治体が入り交ざった境界的な領域だった。その越境的な文化はお互いを認め合い、民族の差を肯定しつつお互いに共同体として生活してきた歴史に傍証されていた。
18世紀中盤、タウンクゥユヮルーがチャンタの管理主義時代に導入したナショナリズム概念はチャンタ人としての惑星全土の人類のナショナリズムを目的にしたものであった。しかしながら、
ファルトクノア共和国による植民地時代に行われた惑星間ナショナリズム(惑星を越えたリパラオネ・ナショナリズム)が短期間にタウンクゥユヮルーのチャンタ・ナショナリズムを上書きしようとしたことによって、ナショナリズムの道具的認識よりも個々の民族のナショナリズム意識が活性化されてしまったのであった。
特に惑星ハルトシェーガルでは、独自の文化を持つファルファヤ人のナショナリズム意識を準備することになり、それは独立戦争において国際社会の窓口となったチャンタ人への優遇によって更に亢進された。チャンタ人と我々は違うという認識と、ファルファヤ人の文化がチャンタ人に上書きされてしまうという危機感は度重なる外来の主義によって強く意識されるようになった。
その上で、チャメドのファルファヤ人達は過去チャメドの帰属などどうでも良かったにも関わらず、チャンタ語地方自治体であるシャンタラ地方に分類されたことにより、自らの文化や言語がチャンタ人に侵される危機感を強く抱いた。
破瓜
ファルトクノアに対する抵抗は一瞬で始まった。きっかけは前政権から引き継がれた鬱憤で十分に溜まっていた。それと同じことがチャメドでも行われていると看做すべきか?
私は違うと思う。これは薄明に薄らに見える虐殺の導火線だ。
――ナム・ンアプッハ・チャパンエ・ヅャダハノ・トッアムッチョ(RSC初代大統領)
高まった緊張の糸が途切れるのは一瞬で小さな出来事だった。
シンテーア歴1810年3月1日、チャメドの路上で営業していたチャンタ人の
アプアプオの屋台においてファルファヤ人が通常の相場以上の値段を要求された。それを民族の違いによるボッタクリと捕らえたファルファヤ人の過激派はチャンタ人の料理であればまだしも、自らの文化料理を売るチャンタ人がファルファヤ人に対してボッタクリをしたということにより、大激怒した。3月4日、ファルファヤ人の過激派は夜間にチャンタ人の屋台を襲撃、チャメド市警はこの襲撃の調査を行い、7人のチャンタ人が殺害され、6人のチャンタ人及び4人のファルファヤ人が負傷したと市政府に報告を行った。
3月12日、チャンタ人屋台の襲撃の実行犯とされる12人がチャメド市警によって逮捕される。3月15日、ファルファヤ人過激派はチャメド市警をチャンタ人支配の象徴と見做して、詰め所や本部を襲撃する。組織的に十分に計画された犯行でなかったため襲撃はほぼ成功しなかったが、6人の警官が死亡した。6人の警官のうち5名はファルファヤ人であった。
チャメド市長の戦い
誰もが責任を求める市長でも言う言葉がある。「助けてくれ」、その一言だ。しかし、誰も助けてはくれない。俺は問題を解決できない。罵倒と無能の烙印を押されてのうのうと生きて死ぬ
――シュトコン・プラージャム(第一代目チャメド市長)
3月15日、チャメド市長シュトコン・プラージャムは治安の悪化に従って、政府に対して軍の出動を依頼した。プラージャムはRSC――地域安定化会議時代の政治家であり、当時のRSCの軍事的抑圧が記憶に残っていた。しかし、その希望は新たなるチャンタ民主戦線共和国の政権に却下される。
アートルト政権は軍事的に抑圧するのを良しとせず、チャメドの問題を政治的交渉で解決しようとした。プラージャムはこれによって簡単に打てる手を弾かれたことになった。
3月20日、プラージャムはチャメド市のチャンタ人代表者とファルファヤ人過激派の代表者を呼び出して会談を行う。この会談(以下、三月会談)では、1)3月4日の襲撃が民族問題ではないこと、2)そうである以上民族過激派による追加の襲撃の予定を停止すること、3)民族派による強制性交を処罰すること、を合意した。
3月21日、チャンタ人過激派勢力がファルファヤ人の複数の家屋を襲撃。男は確実に殺戮され、女はレイプされ、子供は拉致された。三月会談に合意したファルファヤ人過激派は合意に反した逆襲として、チャンタ人32名を無差別に殺した。32名のうち、19名は未成年者であり、ファルファヤ人にいきなり家に押し入られて殺害された。
鉈で首を切断された子供、転がった首が虚のような目で中空を見つめる写真がファルトクノアの写真家によって撮られた。この写真は国際社会で拡散され、多くの非難を引き起こした。
この問題に「チャメド問題」という名前が付けられたのは、この頃であった。
同日末、シュトコン・プラージャムは市の庁舎で首吊り自殺していたのが発見された。
羸痩
国際社会はファルファヤの味方ではない。チャンタ人を殺せ、外国人を殺せ、それ以外に我々が生きる道はない。プルスティア人とヴァルエルク人はチャンタ人の味方だ。優先して殺せ。彼らの生命に意味はない。
――ズネーグ・イク(ファルファヤ民族主義者)
4月1日、プラージャムの自殺以降、市政の空白は続いていた。この間に、ファルファヤ人過激派は徒党を組んで、組織を構成した。特にズネーグ・イクが先導するプラチージュヌ(pračidžnu)は、ズネーグの資本を元手に
シャシュ系闇市場で流通していた
新天地事変で流れた武器などを違法取引で手に入れ、チャンタ人を虐殺する準備を整えた。
4月12日、プラチージュヌの襲撃によってチャンタ人の民間人12人が死亡。4月13日、チャンタ人過激派によって襲撃されたファルファヤ人の民間人14人が死亡。
4月14日、アートルト政権は4月末までに状況が改善しなければ軍によってチャメド市を封鎖することを決定。民族過激派に対して自制を呼びかけるが、以降も双方の殺戮は続く。
4月15日、チャンタ人の低所得者が密集するチャメド市のはずれにあるスラム街で
煙草の吸殻を原因とする大規模な火災が発生した。スラムは共和国政府が治安維持のために整備した市内部に続く三本の道とチャメド市側部を流れるオッチャクマ川に挟まれていた。まず、スラム住民が火災から逃げるために三本の道を通ってチャメド市内部になだれ込んだ。これを大規模襲撃と勘違いしたプラチージュヌのメンバーは猟銃や鉈、火炎瓶で武装して、避難するためになだれ込むチャンタ人スラム住民を虐殺した。逃げ惑うチャンタ人はプラチージュヌの殺戮と火に巻き込まれて焼死し、これを聞きつけた住民はオッチャクマ川側に飛び込んだが川は流れが早く、深かったために足を取られたりして溺れ死ぬ者が多かった。オッチャクマ川に望みを掛けて飛び込んだ老人、子供、妊婦、病人の多くは溺死し、下流では大量の死体が川の上に浮き、腐臭を放った。総計147人の死者となった。
4月17日、スラム火災の件を聞きつけたチャンタ系市民が火災をプラチージュヌの放火だと誤解して暴徒化。襲撃とは全く関係のないファルファヤ人が虐殺されることになる。翌朝までに襲撃で32人が死亡。
プルスティアによる介入
「アートルトさんを責めないでください。彼の苦しみを知ってください。そして、チャメドを……助けてください。これだけが私のお願いなんです。レーウス、スラーンの責任を負うべき者よ。私の声が聞こえていますか?」
――プルスティア(疑似個体の一人)
4月18日、
プルスティアはチャメドのスラム住民を人道支援していた疑似個体が死亡したことにより、チャメド問題への介入を宣言。チャメド市における和平プロセスの開始を宣言した。
4月19日、プルスティアの第一次介入派遣隊が首都チョマドゥの国際宇宙港内に設置された入国審査場で入国を拒否される。同時にアートルト政権はプルスティアによる介入を四月末の共和国軍の介入まで待つように水面下で交渉を行う。アートルト大統領自身はプルスティアによる介入を望んでいたが、様々な理由によってプルスティアを介入させることは出来なかった。これには以下の背景がある。
- 紛争はチャメド市内に限られており、国家全体的な勢力の内戦に発展しているわけではなかった。首都チョマドゥや大都市オウジュダリフ、更にファルファヤ人の中心地であるカーンですらこの紛争を他人事として見ていた。明確な対処をしなくても、首都圏の政治には関係のない話だった。
- チャンタの独立以降、海外勢力による介入は新植民地主義として市民から警戒されていた。プルスティアを弾くことは大いに外来の勢力に対する自立を示し、アートルトにとって十分に選挙対策となった。アートルトは個人的には凄惨な殺し合いを止めたいと思っていたが、一年後に総選挙を控えるここで選挙対策を怠っていては背後に迫るチャンタ・ナショナリズム極右政治家たちに大統領の席を奪われ、問題はチャメドに収まらなくなると考えており、プルスティアの拒否はアートルトにとって苦難の選択だった。
- 共和国軍はRSC政府や管理主義政権の反省のために強い法的制約のもとにあり、動かすのに大きな政治的努力が必要だった。また、独立戦争後に目立った紛争がなかったことにより、練度が低下していたことやチャンタ人が主要な軍人を構成していたことも紛争への介入に用いることを忌避させていた。
- アートルトは月末までに市政が安定化して、当事者による一定の合意が成されることを期待していた。最悪、それが不可能だったとしても共和国軍を動かしてチャメドを封鎖することで、武器の外国からの輸入などを停止することは最低でも可能だと考えていた。プルスティアの介入の優先度は彼の視点からは非常に低かった。
ズネーグの喚き
「憎しみは、乾燥して固くなってぶっ切れたチーズだ。それを温めて、再び一つに戻す手間を君たちは背負うのか? 普段思わないことを口に出さないほうが良い。身を滅ぼす」
――
グスタフ・ングワジャタ
4月20日、プラチージュヌのズネーグ・イクはプルスティアの介入を拒否したアートルト政権を「チャンタ人の犬」と宣言。これによって共和国政府に対してチャメドのファルファヤ人の憎悪が高まってゆく。4月24日、警察詰め所や本部が襲撃される。このとき、襲撃犯たちは3月15日の失敗を学習しており、計画的に警察官や警察幹部を殺害、建物を爆破して警察機能を麻痺させた。4月26日、プラチージュヌの実働部隊がチャメド市議会に乱入。予算委員会を行っていた議員を無差別に殺戮した。死亡した議員7名のうち、6名はファルファヤ人であった。
チャメドのチャンタ人は指を咥えて殺戮を見ているだけではなかった。RSCの亡命団体に由来する学術系スガイユン・プナフェウ社会学研究所の元留学生であり、クレオール系のゴーシア・ゲフィエ(Gauchia Gaifie)は、プラチージュヌなどのファルファヤ人の襲撃に対して自衛をするための組織の構築を初めて宣言した。ゲフィエは「ファルファヤ人の襲撃に対する自衛のみしかしてはならない」と公に宣言し、「選ばれた者の栄光」を意味する
ダン=ラ=ハン語"uijai"に由来する「ヴィジェイ」をその組織の名前として採用した。
ヴィジェイの成立によってプラチージュヌの襲撃はある程度抑え込むことに成功する。
共和国政府からの軍事介入の期限が迫るなか、プラチージュヌの幹部数名とヴィジェイのゴーシア・ゲフィエが会談を行った。プラヴィ合意と呼ばれるこの合意では、1)共和国政府の軍事介入を避けるため両者が民族的責任を負う、2)チャメド市内のチャンタ人領域とファルファヤ人領域を分割し、それぞれ市レベル自治体として独立する、ことを双方同意した。
同日、ズネーグ・イクはプラヴィ合意を自らの意思に反したものとして、幹部を手下に急襲させて殺害した。プラヴィ合意に関わった幹部の一人、シュタドーチュケ・シュラージョ(štadočke šladžo)は難を逃れて脱出した。シュラージョは自らに従う軍事勢力を糾合して、正午の昼飯の油断したときにズネーグ・イクを襲撃して暗殺した。同日夜、ゴーシア・ゲフィエは諸勢力の糾合に奔走するうちにゲフィエの穏健的なやり方に反感を抱くチャンタ人過激派に刺殺された。
プラチージュヌとヴィジェイはカリスマ的な指導者を失い混乱に至ることになる。
すれ違い
「焼きユグムにバターを乗せる。それを口に含むだけで幸せになれるのに何故分からない? この紛争が無意味なことを何故理解しない。憎しみは貧困を打ち消すサッコリャルか? 愚かすぎるんだ、私もお前らも、悲しみの中で無意味な言葉を吐き、死んでいく。
でも、それで良いのか?」
――シュタドーチュケ・シュラージョ(プラチージュヌ新リーダー)
4月21日、シュタドーチュケ・シュラージョはプラチージュヌの新リーダーとなった。これにはファルファヤ人のこれまでの紛争による疲弊も影響していた。同調圧力の鎖を解いたシュラージョの支持はズネーグ・イクのときの狂気とは反して、リアリティを持ったものとして存在していた。しかしながら、今度はチャンタ人の代表組織としてのヴィジェイが傾いたことによって逆転的な展開を見せることになる。
同日が共和国政府に課された軍事介入の期限であった。チャンタ人勢力は生前のズネーグ・イクの宣伝を真に受けて、政府が自分たちの立場にあるとして認知していた。しかし、アートルト政権はチャメド問題に関する全ての責任者を処罰すると宣言したために、主導者を失ったヴィジェイは混乱に陥った。責任者は既に死に、後続は牽制の仕合で決まっていなかったのである。処罰されるチャンタ人の責任者とは一体誰なのか――ヴィジェイの上層幹部はお互いに焦って指導者を擁立しようと焦り始めた。リーダーが居ない状況下で、ヴィジェイの配下にある戦闘員の管理はまともに進まなかった。
5月1日、アートルト大統領が共和国軍司令官に対してチャメド市封鎖を指示、同日中に市境が封鎖され、市民は市外に出られなくなった。深夜、巡回中のヴィジェイの戦闘員がけしかけた喧嘩にプラチージュヌの戦闘員が答える形で戦闘が起こった。プラチージュヌの戦闘員が4人のヴィジェイ戦闘員及び1名の民間人を殺害した。ヴィジェイの中間層は復讐を主張したが、上層部は交渉で解決するとして待機を命じた。交渉の場にはシュラージョ本人が出たが、議論はまとまらなかった。5月2日、一夜を回って会議を終え、シュラージョが帰ろうとするところをヴィジェイの戦闘員が襲撃して殺害した。
高みの見物
「チャメドの人間がどれだけ死んだところで、それは国政にさして関係のないことだ。数万人単位が紛争で死ぬこの大宇宙で、下らない数の死に驚くのはエリートの器に相応しくない。燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや、という言葉もある」
――国民民主戦線・人間実存保守同盟会派関係者
アートルト政権が軍事介入を行うと、国政は混乱の渦に巻き込まれることになる。アートルト政権のこの動きをRSC政権の再来と叫ぶマスコミに乗じて、国民民主戦線内の第二世代会派が一斉に政権批判を行った。
5月2日、国民民主戦線は会派による会議で不信任案提出を決定、湧き上がる第二世代会派に釣られた後継世代会派が様子見で決定を押し切った形となった。アートルトは不信任案が議会に提出されれば、可決されることが確実であったために第二世代会派の幹事である人間実存保守同盟会派と話し合いの場を持って、とりあえず次回の選挙で人間実存保守同盟会派の人間を大統領として自らが擁立することと引き換えに、一週間(5/9まで)の間不信任案提出を延期させた。
同日、中央政治が荒れる一方チャメドでは武器などの流入が出来なくなったプラチージュヌとヴィジェイは双方とも物資の温存のため戦闘を抑えていた。しかし、その代わりにプルスティアを中心とする国際社会の支援物資や民間的な流通も共和国軍に止められ、チャメド市は物資が不足していく。
5月5日、食品店の品薄が目立つようになる。5月7日、飢餓状態になった民衆が略奪を繰り返すようになる。プラチージュヌとヴィジェイは市民の略奪を対抗民族の襲撃と見做して攻撃、その結果死亡した民族がまちまちだったことからお互いにスパイが紛れ込んでいるのだと錯覚した。5月8日、プラチージュヌは構成員のうちスパイだと疑われた者を裁判無しで処刑、一方ヴィジェイは過去に無断で戦線を離脱したことがある者を拘禁した。
5月6日、市民集団が共和国旗を掲げて、「国際革命主義活動よ、連合せよ」の替え歌「さあ立ち上がろうぞ、チャメド市民よ」を合唱しながら市街地を練り歩いた。このデモではチャンタ系市民とファルファヤ系市民がお互いに肩を組んで街を行進し、民族問題の終結を訴えた。一瞬だけ民族間の団結と平和が果たされた。
5月7日、シュラージョとヴィジェイの双方で先日の行進に関わった人間の捜索が行われた。行進に関わった可能性のある者は家族も含め、必ず殺された。市街地でいきなり鉈で斬りつけられて殺害されたものも居た。肩を組んだことが確実とされたものは、その子供を脅して殺害させたうえで子供に生き埋めにさせ、子供は用済みになれば殺した。中には濃硫酸を掛けて、散々甚振った後に殺したケースもあった。
グライニアによる強制介入と問題の複雑化
「この地に本来あった調和を取り戻すための義務が我々にはあり、その目的のためであればどのような手段でも取る」
――グライニア派遣軍総司令・党幹部候補
5月10日、問題の大規模化を受け、グライニア臨時党幹部会が招集。この問題を解決し「調和」を取り戻すためにはプルスティアの「生温い」方法では足りないこと、どのような手段でも必要であればとらないといけないことを確認、強制介入が決議された。プルスティアはこの決定に反発して、エルミアなどの介入を要求したが動きはなかった。
グライニアは大型艦(巡洋艦相当)「○○」を旗艦とする艦隊を派遣し上陸し速やかに該当地帯を占領し
調和主義に基づく政治を行い混乱の解決を計るとした。
批判と終わらない抗争
「グライニア批判するプルス、どうなん? 自分だって介入したときに死人出してないって言えんの?」
――
グラメクの匿名ユーザー
5月12日、プルスティアはグライニアの強制介入に対して公式に批判声明を出す。これに対して匿名SNSサービス
グラメクでは、プルスティアを批判及び中傷する投稿が殺到した。世論に煽られた
調停者たちの加盟国達はプルスティアに威力介入を求めたが、プルスティアが派遣した外交官役の疑似個体は無言で首を振ったという。
5月13日、
ファルトクノア共和国が介入を宣言。平和主義陣営に激震が走るものの、数時間後にファルトクノア共和国は
旧619大隊がファルファヤ側に関わっている証拠を国際社会に提示した。「戦争犯罪の精算のため、前政権の残滓を抹殺する」として、艦隊を出動させた。これによって、グライニア艦隊は警戒による足止めを食らうことになった。ここでのファルトクノア共和国の真の目的は
リスヒューメ王国と対立関係にあるグライニアがチャンタに影響力を持つことによって、パワーバランスを破壊しないようにするためであった。
5月15日、共和国政府によるチャメドの完全封鎖期限が成立。これまでに入っていた国際的なジャーナリストは全員が撤退したために、チャメドの内情は分からなくなった。情報が出なくなってからも、双方の虐殺は続いていたと見られている。
最終更新:2022年01月25日 00:55