シンテーア暦:年 | 月 | 日 | 出来事 |
1710 | 1 | 2 | ヴァルエルク共和国の使節団が来訪、ナム人・ンアプッハ氏族の首長・チャパンエ家長ヅャダハノが大統領として認識されるが外交使節に対して小指を切り落とし投げつける。 「シマ同士の繋がりを持ちたいのであれば貴様らの首長を連れてこい」と警告する。 |
1 | 12 | 滞在調査を行っているヴァルエルク使節団がチャンタ全体に影響を与えてゆく。 ヴァルエルク使節団が持ち込んだ「アーティファクト」を巡って東西南北に世界が大きく四分割されることになった。 北東世界をマネ人・ダカトッア氏族の首長・チャチョ家長クッオヌが 北西世界をトゥルオ人・パハネ氏族の首長・ミジェ家長チュムノが 南東世界をパッ人・チャタン氏族の首長・タンアダネ家長アートルトが 南西世界をアプンァ人・クッアデチ氏族の首長・トホチャトル家長エットッアが 支配するようになる。 以上の支配者は「方角世界の支配者」と呼ばれるようになる。 | |
1 | 13 | プルスティアがヅャダハノと接触、侵略などの意図のないプルスをヅャダハノは客人として受け入れ、銀河について多くの知見を得る。 | |
1 | 15 | プルスティアが仲介して、ヅャダハノを中心に地域安定化会議(RSC)が設立される。 方角世界の支配者四人はお互いに大宇宙諸国への留学を通して情報収集することを同意する。 | |
1 | 16 | 南東世界での大規模反乱、RSCの決定に反対する者達が統治機構を破壊するなどして散発的暴動が続く。 | |
1 | 19 | RSCに方角世界の支配者が参画。近代化のための留学作戦の実行の為のシンクタンク組織を各方角世界に設置する事と反乱鎮圧のためのRSC軍の設置を南東支配者のアートルト以外合意。 RSC軍の設置にプルスティアが不快感を示す。 | |
1 | 20 | プルスティアは調停者たちの軍事介入を提案するがRSCは拒否。 RSC軍による南東世界の反乱軍制圧を開始。アートルトは停止を求めるもヅャダハノが拒否する。 | |
1 | 21 | アートルトはプルスティアに仲介を委託するがプルスがハルトシェーガルの正式な政府をRSCとみなしていた事で軍の設置への報復措置として武装勢力を撤退させていたことから要望に答えられなかった。 | |
1 | 24 | ヴァルエルク報道機関筋がRSC軍による南東人虐殺について報道、兵士達はまともな訓練を受けておらず兵站もまともでは無かったため、略奪も横行し、これに抵抗する形で更に治安が悪化した。 | |
1 | 26 | 無法状態の南東世界からアートルト率いる勢力は脱出する。アートルトはRSCから正式な方角世界の支配者としての権限を依然として持っていたが、反乱軍に対する名ばかりの物で実権は握っていなかった。 | |
1 | 27 | 南東反乱軍はゴホチャ・チャンタ民主政府(gʰot͡ʃa !aɳtʼa d͡ʒaɳe!a-ŋ o↓ɳ!ekʼbr̩tu)を自称し、独立を宣言した。他の方角世界に激震が走る。 | |
1 | 28 | ゴホチュ・チョマドゥ戦争開戦、RSCと南東反乱軍が全面対立する。プルスティアやヴァルエルクの支援を受けていたRSC軍がほぼ虐殺に近い形で抵抗を鎮圧する。 | |
5 | 2 | ゴホチュ・チョマドゥ戦争までの惨劇に絶望したアートルトは(忠誠の高い側近)に以後の政治を任せ、プルスティアに行く。 RSCはアートルトが亡命したと公表したがプルスティアはアートルトに確認した上でこれを否定した。 | |
? | ? | ギセヴトラ・ZHL条約を批准。 | |
1711 | 3 | 12 | 各地の近代化シンクタンク組織をRSCに統合する目的で諮問機関RSC学術シンクタンクが設立される。 |
? | ? | ニーネン=シャプチと国交を締結。 | |
1712 | 7 | 12 | 映画「カヴマーの夜明け」がニーネン・シャプチから輸入され、全国で大ヒット。 |
1713 | ? | ? | グライニア調和国の元一代目首席ユリーナ・アトルシェルト・フェル・エルナートがプルスティアから第三国移送。RSC学術シンクタンク政治局高等諮問官に就任。 |
1714 | 1 | ||
1715 | 1 | ||
1716 | 5 | 3 | 学術シンクタンク、ヴァルエルクがスモラク宙軍軍縮条約の規定を破っていたことから軍事増強の必要性を主張する。 ツャダハノはRSC宙軍の設立を検討。 |
1717 | 7 | 12 | チュムノ北西世界長官がディガイナのラジオ放送を「批判は公然になされるべき」と批判。RSCでもこれに同調する者が多かった。 |
8 | 15 | ヅャダハノは大統領を辞任する。後任は◯◯◯◯。 | |
X | X | 「アームド・ペレス エルミア帝国最後の日」が上映され、大ヒットを記録する。以降、ペレス映画はチャンタ人の一大映画ジャンルとして人気を得ることになる。 | |
1718 | 1 | ||
1719 | 1 |
1724 | 8 | 15 | 大統領の任期満了、後任は◯◯◯◯へ。 |
1729 | 1 | 2 | 留学作戦開始、マネ・ダカトッア・チャチョ・パンマ・クッオヌ・グルチャはアーフェン総合大学(ニーネン・シャプチ)、アプンァ・クッアデチ・トホチャトル・アプップッアチ・エットッア・チャクは大シャプチ大学ファウ分校(ニーネン・シャプチ)、トゥルオ・パハネ・ミジェ・ナマコ・チュムノ・グルチャはミティア中央大学(クレデリア共和国)へ留学を開始する。 |
1730 | 3 | 10 | 学術シンクタンクの留学団がジエール帝国連邦のレーオント・レイオン大学へ留学(通称、タウンクゥユヮルー・グループ) |
1731 | 8 | 15 | 大統領の任期満了、後任はフォールシートゥ・ベガートレ・アブラント・アーエプクホへ。 |
1733 | 11 | 5 | アクース内戦開戦 |
1735 | 3 | 20 | アクース内戦終結 |
4 | 1 | ジエール留学中のナム・ンアプッハ・パンチャ・チャンマ・タウンクゥユヮルーは博士課程へ進学、ゲルニア・ルーロイ・トロンプロースに師事する。博士論文の題名は「調和的管理主義の社会普遍的展開について」 | |
6 | 23 | シェフィーツ・シャラカ率いるシャシュ亡命艦隊がほぼ墜落の状態で、突っ込んでくる。彼らは亡命を希望したため、RSC政府は承認 | |
1736 | 3 | 5 | 留学作戦終了 |
1737 | 4 | 7 | 方角世界の支配者を中心に民主主義的政権の設立を求める声が高まる。RSCも大統領を中心に検討を開始。 |
1738 | 3 | 12 | 学術シンクタンクが管理主義独裁体制を敷くことを主張、RSCと議論が紛糾していく。 |
8 | 15 | 大統領の任期満了、後任はツャダハノが指名された。 | |
6 | 1 | 学術シンクタンクが管理主義民族解放運動(CHAU)に改組される。 | |
1739 | 9 | 7 | 第一次チャンタ内戦開戦、民主主義政権の樹立を目指すRSCと管理主義政権の樹立を目指すCHAUの紛争 |
1740 | 2 | 19 | CHAUがチャンタ管理主義革命を宣言。 惑星統一政府チャンタ管理主義学術領導独立国を樹立、RSC政権を廃止する。 |
2 | 20 | CHAUの指導者ナム・ンアプッハ・パンチャ・チャンマ・タウンクゥユヮルーが国家主席に就任。 演説にてチャンタ管理主義革命を永帝革命になぞらえて、「永伝革命」と初めて明言する。 | |
2 | 21 | 「拝金罪に対する大粛清」が宣言される。 RSC関係者とその支持者を手当たり次第に殺戮する大虐殺が公然に行われる。 旧大統領府が焼き討ちされるなか、方角世界の支配者とヅャダハノ大統領は逃亡を始める。 | |
2 | 22 | プルスティアが人道的理由による援助停止を宣言。 革命成就祭において大統領府がダイナマイトによって爆破される。 | |
2 | 23 | クッオヌ北東世界長官とエットッア南西世界長官の大学繋がりでニーネン=シャプチが方角世界の支配者とヅャダハノ大統領などの亡命を受け入れる。同時にCHAUの支配を認めないチャンタ人が国外へ脱出して難民となる。 | |
2 | 24 | 革命の人道的問題に対して国際的な批判が集まる中、惑星統一政府はジエール帝国連邦との国交を締結。以降、経済・軍事・教育などの幅広い面での協力を得る。 | |
2 | 25 | 公用暦としてシンテーア暦を用いることを定めた革命暦法、公用語としてエミュンス語を用いる革命公文書法が成立する。 | |
3 | 1 | 「国内の敵を排除し、準備が完了した」として、管理主義学者独裁体制への移行を宣言。国立学会を全国に設立した。 | |
14 | 8 | マーカス内戦開戦 | |
1741 | 7 | 2 | ニーネン=シャプチでヅャダハノ大統領が中心になってチャンタ地域安定化会議亡命政府(CRSCiE、学術系スガイユン「プナフェウ社会学研究所」としてニーネン政府に認定を受ける)が設立される。 |
1745 | X | X | アクースの画家ユラリッサ・ダプセフラマファルが移住、オプニミギに定住し、余生を過ごす。 |
1747 | 3 | 10 | マーカス内戦終結 |
1758 | 1 | 1 | タウンクゥユヮルーが終身国家最高指導者となる。 |
1768 | 8 | 11 | 第一次スラーン宙域戦争開戦 |
? | ? | 緊急事態とみたアートルトが帰国するも惑星統一政府によって拝金主義者として拘束される。 | |
1770 | 6 | 10 | CRSCiEはニーネン=シャプチにおける外国人在留禁止法の制定により、拠点を惑星チャグマ=ダプラのタルニ地方スレトマナンに移転する。スガイユン「スレトマナン社会学研究所」として再出発。 |
1771 | 2 | 8 | 第一次スラーン宙域戦争終結 敗戦した惑星統一政府はファルトクノア共和国によって解体される。 |
2 | 9 | タウンクゥユヮルーとその家族が人民裁判において有罪とされる。即日銃殺された。 | |
3 | 12 | 「ファルトクノア領チャンタ・チョマドゥ」としてファルトクノア共和国に併合される。 植民地政府による連邦化政策が進む。 | |
1772 | 6 | 3 | 植民地政府は旧惑星統一政府が拝金主義者として投獄した政治犯を開放し、政治的ポストに付ける。 アートルトも釈放を受ける。 |
1778年 | ? | ? | ニーネン=シャプチの元・枢密院議長エシュマ=ヴィデュマーが、ナプトーの権力闘争によってチャンタに亡命。 |
1780年 | 3 | 3 | サクトマンク主義とエフューラフトに関する市民協議・政治提案会議設立。 |
1781 | クレオール・ヴェフィス人の存在感が高まってくる。 | ||
X | X | ディヴォヌオス・ノスコス・ウィノスコスが妻と共に移住、余生を過ごす。 | |
1783 | カージオン・ブランダンドがアポラ星系国際連盟より移住。サバイバルや原始的技術を一から作る動画などを個人的なチャンネルに投稿し始める。 | ||
1785 | ? | ? | シャグマ=ラゴン戦争開戦 A&F Ssのワールズ・インクワイアリング Ch.で『銀河で生き抜くには』が放映開始、カージオン・ブランダンドが主役となり、大宇宙屈指の人気番組に。 |
1790 | ? | ? | シャグマ=ラゴン戦争終結 |
1798 | ? | ? | ファルトクノア内戦開戦 |
1803 | 映画「終端記号」がファルトクノア共和国から輸入され、ヒット | ||
1805 | 12 | 1 | プレンディーア・ド・ホールフォーティエが反革命罪の罪状で銃殺刑を受ける。 |
1806 | 3 | 21 | 「三本指のングヮチャタ」運動 |
1809 | ? | ? | ファルトクノア内戦終結 |
? | ? | アートルトを中心にレジスタンス組織「ゴブルーオ・ムブワ・ゴブルーア(GBG)」(gʰobr̩ːo ᵐbʷa gʰobr̩ːa)が設立される。 | |
? | ? | ヅャダハノを中心にチャンタ民主戦線共和国/国民民主戦線が設立される。 | |
? | ? | チャンタ独立戦争 |
1810 | ? | ? | チャンタ民主戦線共和国独立。アートルト政権成立。言語法成立。 |
1811 | 3 | 1 | チャメド問題 |