ユラリッサ・ダプセフラマファル
マユィ語: Julalissa Dapseflamafal
生誕 1718年11月12日
アクース連邦
惑星アクース
タリエ
死没 1750年11月12日
チャンタ民主戦線共和国
惑星ハルトシェーガル
ファルファヤ地方
オプニミギ
教育 プナキェーン芸術大学
著名な実績 絵画(油彩画)
代表作 『労働者ら』
『1733年11月5日、ダンルッソー』
『フニユト』
運動・動向 超理性芸術
主な概念 超理性主義
影響を受けた人物
影響を与えた人物 デリヤ・シュカーシュ
フニユト・ナドルト

 ユラリッサ・ダプセフラマファル(マユィ語: Julalissa Dapseflamafal)は、アクース連邦及びアクース連合の画家。代表作に『労働者ら』・連作。アクース連合画家協会会長(1741〜1743)。サッコリャルのヘビーユーザーとして知られる。


生涯

幼少期

 ダプセフラマファルは1718年11月12日に惑星アクースの都市タリエで生まれた。タリエは文化・芸術ともにアクースの最大の都市とも言える場所であり、中流階級であったダプセフラマファルは、絵画鑑賞を共通の趣味としていた父と母の影響もあって、しだいに絵画に興味を持つようになる。また、両親の惜しみない援助により、絵画の知識もめきめきとつけていった。1728年には、アクース連邦最大の美術学校であるプナキェーン芸術大学に合格した。

プナキェーン芸術大学

 大学時代では、大学に入って遊ぶ生徒を尻目に、腕が腱鞘炎になるまで絵を描きまくった。デジタル絵画も人気のあるところではあったが、絵画においては絶対に手描きが優れているという極めて保守的で頑迷な性格であった。それが災いし、友達は少なかった。
 大学内に自分と同じような考えを持つ人が少なくて孤独感に苛まれたダプセフラマファルは、プナキェーン芸術大学手描き絵画研究会を設立する。そこでは少数ながら人が集まり、身内感覚の研究会としてダプセフラマファルは楽しんだが、ある時友人が持ち寄ったサッコリャルを摂取して絵画を描いた時に、強烈なエクスタシーを体験し、「自分が描いたようではないような、しかしそれは間違いなく大学生活の最高傑作と呼べる」画を描いたことで、ある種の理性における限界を覚え、サッコリャルにはまり始める。また、サッコレのシャーマンの暮らしに並々ならぬ憧れを抱くようになる。

サッコレへの移住

 1731年に大学を卒業したダプセフラマファルは、サッコレのシャーマンへの師事を望み、すぐさま移住する。しかし一般にそのようなことは認められていないため、無鉄砲に移住し、住処のことも特に考えていなかったダプセフラマファルは深く落ち込み、絵を描いては売って適当に足しにし、渡り歩く生活を始める。この頃に描いた絵が『労働者ら・第一』である。
 同地で長く絵を描くうちに、サッコレを摂取してインスピレーションを得てどんどん絵を描いていったダプセフラマファルは、速筆の油彩画家としてそれなりに認められ、現地での生活に苦労しなくなっていった。

アクース内戦

 1734年にアクース内戦が発生すると、ダプセフラマファルはその動向を機敏に察知し、サッコレでの暮らしで格差社会にそれなりに思うところがあったダプセフラマファルは、首都星アクースに飛び戻った。新政府側の絵師として絵を描き、支援した。また、同じく新政府側を支援する芸術家の協会である革命芸術家協会の創立メンバーとなった。この頃の代表作が『1733年11月5日、ダンルッソー』である。

革命後

 内戦終結後はサッコレには戻らず、プナキェーンから革命芸術家協会所属の画家として革命勢力を支持し続け、第二次革命の時には、セツ・エメルダと面会した。しかしこの地下活動期間について、サッコリャルの転売で得た金で協会を存続させていたのではないかという指摘がある。
 1738年には革命芸術家協会が解散し、アクース連合画家協会に再編されると、同協会の創立メンバーに名を連ね、1741年には2代目会長に就任した。

画家協会の会長として

 会長時代には、超理性芸術を提唱し、自身もサッコリャルの摂取を行って絵画の創作を推進した。周囲の期待と会長という称号に見合った仕事をしなければならないという脅迫感から、絵画の質・量を高めるため、サッコリャルの摂取量は増えていった。
 しかし1743年に、サッコリャルの摂取が露呈し、逮捕。金は持っていたので、保証金を支払うことで懲役は回避したが、画家協会を追放される。

協会追放後・チャンタでの暮らし

 画家協会追放後、行き場を失ったダプセフラマファルは、サッコレへ戻る。革命後初めてサッコレを訪れたダプセフラマファルだが、革命を通してサッコレの労働環境が改善していないことに落胆し、アクース連合内での最後の作品『労働者ら・第二』を残す。
 革命が成功しても何も変わっていないやるせなさから自堕落に過ごしていたダプセフラマファルだが、ある時仲の良いサッコリャル業者がチャンタ民主戦線共和国を紹介する。そこに桃源郷が残っているという一縷の希望に縋ったダプセフラマファルは、1745年にチャンタへの渡航を決意する。
 チャンタに渡ったダプセフラマファルは、半年ほどはマスコミや人間の目を避けるように放浪の旅を続けていたが、やがてファルファヤ地方の離島の小都市であるオプニミギに落ち着く。晩年はここに居を構え、サッコリャルを摂取しながら、近所の子供達に、完全無償の青空学校として絵の教授をしていた。この頃に残した最晩年の作品に、『フニユト』がある。これは、アクース連合でナドルトが総議長に就任して一般宗教倫理的産業労働主義を提唱したことに希望するような内容であった。また、チャメド問題以前のナショナリズムが伝播する前の、チャンタ人とファルファヤ人が悠然と暮らすさまが描かれている作品もあり、融和派に度々引用された。
 1750年11月12日に、サッコリャルの長期摂取にわたる呼吸器障害のために、誤嚥性肺炎により死去。青空教室は、現地の有志によって存続した。

エピソード

  • 大学以来サッコリャルを愛し、「理性は敗北した」というほどだった。
  • ヅャダハノはダプセフラマファルの絵を好み、飾っていた。タウンクゥユヮルーからは、ヅャダハノを通じてその超理性性を批判されていたが、ダプセフラマファルは知る由もなかった。
  • オプニミギに生まれたデリヤ・シュカーシュは、幼少期にダプセフラマファルの運動に由来する青空教室に参加し、超理性主義を学んでいた。デリヤは、ダプセフラマファルから見れば孫弟子に当たる。

関連項目

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最終更新:2023年09月02日 19:05