詩百篇第1巻6番


原文

L’oeil1 de Rauenne sera destitué2,
Quand à3 ses pieds les4 aesles5 falliront6,
Les deux de Bresse7 auront constitué
Turin8, Verseil9 que10 Gauloys11 fouleront.

異文

(1) L’oeil : Loeil 1589Me
(2) destitué : distitué 1605sn
(3) à : a 1588Rf
(4) les (vers2) : des 1611B
(5) aesles 1555 1557U 1568 1588-89 1589PV 1590SJ 1840 : aelles 1557B, aeles 1590Ro, aisles T.A.Eds.
(6) falliront 1555 : failliront T.A.Eds. (sauf : failleront 1612Me)
(7) Bresse : Bresle 1981EB
(8) Turin : Tnrin 1627Di
(9) Verseil : Derseil 1568A 1568B 1568C, Versel 1605sn 1628dR 1649Xa, versel 1653AB 1665Ba, Verceil 1672Ga
(10) que : qui 1981EB
(11) Gauloys : Gonsors 1668P

(注記)1597Br は比較できず


校訂

 2行目の falliront は failliront のことだが、ピエール・ブランダムールは特に注記していない。ブリューノ・プテ=ジラールリチャード・シーバースは何の注記もせずに failliront に直している。
 ラテン語の fallere が語源なので、そちらの綴りに引き摺られた揺れなのかもしれないし、単なる誤植なのかもしれない。どちらが正しいのかは分からないが、いずれにしても failliront と同じ意味である点は、諸論者が一致している。

日本語訳

ラヴェンナの眼は奪われるだろう、
その足元へと翼が萎えるであろう時に。
ブレッシャの二人は明らかにするだろう、
トリノヴェルチェッリをガリア人たちが打ちのめすことになると。

訳について

 前半はあまり問題ないものと思われる。なお、2行目 faillir (衰える、弱まる)という意味からして、高田勇伊藤進訳の「翼が足元に垂れんときには」*1にしても、ラヴェンナ自身の翼が力を失ってだらんと垂れ下がるというニュアンスなのは明らかである。インターネット上には、救いの象徴として第三者の翼がラヴェンナ(に象徴される存在)に差し伸べられるというようなニュアンスで理解する者もいるようだが*2、単語本来の意味を完全に無視した読み方と言うほかない。

 後半の訳は難しい。3行目が直説法前未来で書かれていることから、4行目の出来事よりも前に起こる未来を描いているのは確実だが、ピエール・ブランダムールの釈義でも二通りの読み方が示されている。当「大事典」で上に示したもの以外の読みは「ブレッシャの二人が建設するであろう、/ガリア人たちが打ちのめすことになるトリノとヴェルチェッリを」である。
 なお、3行目 Bresse をイタリアのブレッシャとしたのは、リチャード・シーバースの英訳やジャン=ポール・クレベールの解説を踏まえたものだが、高田勇伊藤進も指摘するように、南仏にもブレス地方があり、そちらを指している可能性も否定できない。

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳について。
 1行目 「ラブニナの目は欠けている」*3は、固有名詞の読み方を棚上げにするとしても、受動態であり、かつ destituer にかつて priver (奪う、取り上げる)などの意味があったことからすれば*4、そのあたりのニュアンスが出ていないように思われる。
 2行目 「翼が足もとから飛び立とうとしているときに」は falliront (failliront>faillir に同じ) が saillir になっているテクストに基づいた訳としては誤っていないが、そのような異文は仏文学者らからまったく支持されていない。
 3行目 「ブレワスの二つはチュリンとベニスを建て」の「ブレワス」はおそらく「ブレッス」か何かの誤植だろう。なお、大乗訳で「チュリン」(Turin) に「現在のチューリヒか?」と注記しているのはちょっとひどいのではなかろうか。

 山根訳について。
 1行目 「ラヴェンナの眼は棄てられよう」*5は、destituer に「棄てる」という意味合いがあるか疑問。
 3行目 「ブレッスの三人がトリノとヴェルチェルリに骨格を与える」の「三人」は単純な誤植だろう。

信奉者側の解釈

 テオフィル・ド・ガランシエールは、教皇クレメンス7世 (在位1523年 - 1534年) と解釈した。「ラヴェンナの眼」 は(ラヴェンナが教皇領であったことから)ラヴェンナの支配者である教皇のこととした。ブレッシャの2人はヴェネツィアから派遣された執政官と地方監督官のことで、彼らがトリノやヴェルチェッリを奪取しようとするものの、フランスに阻まれたことと解釈した*6
 このガランシエールの解釈は、言うまでもなくノストラダムスがこの詩を書いた時期(1550年代前半)以前にモデルを求めたものだが、ガランシエールはこの点について何もコメントしていない。

 その後、20世紀以前にはこの詩を解釈した者はいないようである。少なくとも、ジャック・ド・ジャンバルタザール・ギノーD.D.テオドール・ブーイフランシス・ジローウジェーヌ・バレストアナトール・ル・ペルチエチャールズ・ウォードの著書には載っていない。

 マックス・ド・フォンブリュヌ(未作成)は、ナポレオン3世の時代のイタリア統一運動についてと解釈した*7。この解釈は息子のジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌによって引き継がれた*8

 アンドレ・ラモン(1943年)は近未来のイタリア情勢と解釈していた*9

 セルジュ・ユタンはナポレオン(1世)による教皇領侵入などと結びつけた*10

同時代的な視点

 1行目の 「眼」 は、おそらくラヴェンナの支配者を指しているのであろう。
 ピエール・ブランダムールが指摘し、高田勇伊藤進ジャン=ポール・クレベールピーター・ラメジャラーリチャード・シーバースらが追認しているように、ノストラダムスが韻文訳した『オルス・アポロ』においても 「眼」 は君主や王の象徴として扱われており、アンリ2世への手紙ではアンリ2世のことが「世界第一の君主である至上の目」と表現されているからである。
 ここで意味しているのが町の執政官ということなのか、当時ラヴェンナを含んでいた教皇領の支配者、つまりローマ教皇を指しているのかは、後述するように有力なモデルが特定されていないだけに断言が難しい。
 なお、詩篇によっては 「眼」 が港町を指す場合もある。詩百篇第4巻15番参照。

 また、2行目の「翼が萎える」は敗北や挫折を被ることを意味するノストラダムスの常用表現とされる。ブランダムールは同様の表現の登場箇所として、翼を下ろす詩百篇第5巻79番第10巻95番、翼を滅ぼす第8巻52番、翼を切り落とす第8巻96番を挙げ、さらに『1566年向けの暦』に登場する「饒舌家たちが翼を下ろす」(Les babil. baisseront les ailes)という句を引き合いに出している*11

 ピーター・ラメジャラーは2003年の時点では『ミラビリス・リベル』の主要モチーフであるアラブ軍によるヨーロッパ侵攻がモデルになっている可能性を一応指摘していたが、2010年には出典不明とだけした。

 ルイ・シュロッセ(未作成)は、少なくとも前半2行については、ラヴェンナの戦い(1512年)が投影されているのではないかとした*12
 この戦いはイタリア戦争の一齣であり、対フランスの「神聖同盟」を結成した教皇ユリウス2世とフランス軍が衝突したものである。この戦いではフランスが教皇とスペインの連合軍を撃破したが、国王ルイ12世の甥で目覚しい武功を挙げていたガストン・ド・フォワが戦死した*13。他方、教皇軍司令官の座にあったメディチ家のジョヴァンニ (のちの教皇レオ10世) はラヴェンナで捕虜となったが、ほどなくして脱走している*14
 ジャン=ポール・クレベールはこの戦いをモデルにしていると解釈したわけではないが、3行目の Bresse はイタリアの地名ブレッシャであろうとした上で、その町が上記のラヴェンナの戦いの折に、ガストンの軍勢によって掠奪されたことを指摘した*15

 イタリア戦争の直接的な描写ではないかもしれないが、当時のイタリア、サヴォワ辺りの不安定さに触発された可能性はあるのではなかろうか。
 なお、トリノやヴェルチェッリを含むサヴォワ・ピエモンテ地方は1536年にフランスが占領し、以降1559年のカトー=カンブレジ条約で放棄するまで (つまりこの詩をノストラダムスが書いた時期には) フランス領だった。

【画像】関連地図(ブール=カン=ブレスは仏ブレス地方の中心都市)


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詩百篇第1巻
最終更新:2018年06月20日 00:01

*1 高田・伊藤 [1999] p.16

*2 ノストラダムス 第6章26番 ややましな人間のために四年間座が確保される その3(web魚拓)

*3 大乗 [1975] p.46。以下、この詩と注の引用は同じページから。

*4 DMF

*5 山根 [1988] p.39。以下、この詩の引用は同じページから。

*6 Garencieres [1672]

*7 Fontbrune (1938)[1939] p.34

*8 Fontbrune (1980)[1982], Fontbrune [2006] p.273

*9 Lamont [1943] p.274

*10 Hutin [1978], Hutin (2002)[2003]

*11 Brind'Amour [1996]

*12 Schlosser [1985] pp.26-27

*13 柴田・樺山・福井『フランス史2』p.78, 同巻末p.44

*14 バンソン『ローマ教皇事典』

*15 Clebert [2003]