相互等価の鉄拳
─テオトーラ都市警察・ゴルザード刑事の受難─
◆ ◆ ◆
■序章 腐敗の楽園にて
ネレイス・ベルカパークでは観光客がアイスクリームを舐め、クリエラ・マーラドックの埠頭ではヨットがゆらゆらと波に揺られている。
第三次ロフィルナ革命の終結から三年。数百万の命が散った戦禍の記憶など、観光客の脳味噌には一ミリグラムも残っちゃいない。結構なことだ。人間は忘れる生き物である。そうでなければ、この星団で正気を保つことなど不可能だろう。
だが、この街の地下には別の世界が広がっている。そして、その地下世界を誰よりも愛している男がいた。
テオトーラ都市警察・組織犯罪対策班。レオント・ゴルザード。
身長二メートル十五センチ。体重百二十キロ。体脂肪率八パーセント。剃り上げた頭は砲弾のように滑らかで、首から上は人間というより、筋肉で出来た凶器だった。
同僚たちは彼を「テオトーラの恒星」と呼ぶ。悪党どもは彼を「歩く死刑執行装置」と恐れる。署長は彼に「頼むから書類仕事だけしててくれ」と嘆く。
彼の「悪行」は署内で伝説と化していた。
三年前、麻薬密売組織のアジトに単身で突入し、十七人を再起不能にした。
うち五人は二度と歩けなくなった。うち二人は植物状態になった。うち一人は——「過度の損傷により情報採取不能」と検死報告書に記載された。
つまり、顔面が原形を留めていなかったため、身元確認に三週間かかったということである。
二年前、人身売買組織のボスを「取り調べ」た。ボスは三時間後に全てを自白した。
自白の内容は、組織の全容、資金源、政治家との癒着、そして「二度と犯罪に手を染めない」という誓いだった。ボスは現在、修道院で敬虔な信者として暮らしている。
何があったかは誰も知らない。ボスは「神の啓示を受けた」と言い張っているが、彼の両手の指は十本とも不自然な角度に曲がったままである。
一年前、連続殺人犯を追跡中に「やむを得ず」容疑者の片足を「無力化」した。
具体的には、膝から下を素手で逆方向に曲げた。容疑者は気絶する前に「悪魔」と叫んだという。ゴルザードは後に「自白を聞き出すため必要な措置だった」と報告書に記載した。
容疑者の足が二度と元に戻らないことについては「遺憾である」とも付け加えた。
要するに、レオント・ゴルザードという男は、正義の味方というより、正義の皮を被った
災厄に近い存在だった。
法の番人というより、「社会」という名の狂気を拳に巻きつけた狂犬だった。彼にとって犯罪者とは、更生すべき人間ではなく、肉と骨と臓物で出来た「情報の容器」である。
容器は壊れるまで振ればいい。中身が出てくるまで。
だが、そんな彼も今は机の前で書類と睨み合うだけの日々を送っていた。
「クソッタレが」
ゴルザードは煙草を灰皿に押し付けた。いや、押し付けたというより、灰皿ごと机に叩きつけた。
灰皿が砕け散り、破片が床に飛び散った。隣の席の同僚が椅子ごと三メートル後退した。
「三か月だぞ。三か月」
彼は机の上に積まれた捜査中止命令書の山を睨んだ。
ヴァルトレク・シンジケートの資金洗浄ルートを追跡し、ようやく末端の送金業者を特定したところで、上からの「待った」がかかったのである。
理由は「国際情勢への配慮」
ゴルザードは命令書を手に取り、ゆっくりと、丁寧に、四つに折り畳んだ。そして、それを口に入れ、咀嚼し、飲み込んだ。
隣の同僚が、さらに二メートル後退した。
「国際情勢への配慮、だと?」
ゴルザードは立ち上がった。椅子が後ろに吹っ飛び、壁に激突して大破した。
「革命後のロフィルナから流入した難民を食い物にし、不老薬の闇取引で莫大な利益を上げ、その金が政治家の懐に流れ込む。そして、その政治家が『国際情勢への配慮』を理由に捜査を止める。——なあ、これを何と呼ぶか知ってるか?」
糞が糞を生み、糞が糞を守る。この街の下水道は、比喩ではなく文字通り、虹色に輝いているに違いない。
彼は同僚の方を向いた。同僚は既に机の下に隠れていた。
「『民主主義』って呼ぶんだとよ。笑えるだろ?」
ゴルザードは窓に歩み寄った。
窓の外では、アヴェラリス・リゾートの白い建物が陽光を浴びて眩しく輝いている。
あの豪華ホテルのVIPルームで、どれだけの汚い金が動いているか。何度内偵を申請しても却下された。リゾートのオーナーが市議会の有力者と懇意だから。
その有力者の名は、エドゥアルド・カルヴァン。慈善事業家を自称する、脂ぎった笑顔の持ち主だ。
ゴルザードは彼の笑顔を思い浮かべた。
そして、その笑顔を構成する歯を一本一本数えた。三十二本。上顎十六本、下顎十六本。全部へし折って、喉の奥まで押し込んでやりたい。
いや、それじゃ足りない。へし折った歯を、奴の肛門から挿入して、消化管を逆流させて口から出させてやりたい。そうすれば、奴も少しは謙虚になるだろう。
だが、今は我慢だ。証拠がなければ動けない。それが法治国家のルールだ。
——ルール……
ゴルザードは窓ガラスに拳を叩きつけた。ガラスにヒビが入った。
ルールを守る奴が損をする。ルールを破る奴が得をする。ルールを作る奴が一番得をする。——これが民主主義だ。これが法治国家だ。これが……
その時、無線が甲高い音を立てた。
『こちら本部。ネレイス・ベルカパーク南側で暴行事件発生。犯人は外国人と思われる男性一名、武装の可能性あり。民間人三名が負傷。至急応援求む』
ゴルザードは振り向いた。
口元に、笑みが浮かんでいた。
獰猛な、残忍な、そして——心底嬉しそうな笑みが。
「俺が行く」
彼は机の引き出しから、特注の革手袋を取り出した。掌の部分に鉛板が仕込んである。公式には「証拠品保護用」と登録されているが、実際の用途は——まあ、言うまでもないだろう。
「ゴルザード刑事」
机の下から、同僚の震える声が聞こえた。
「何だ」
「あの……できれば……生かしておいてください……」
ゴルザードは、ニヤリと笑った。
「善処する」
■第一章 常怒の国から来た狂犬
現場に到着すると、ネレイス・ベルカパークの芝生広場は阿鼻叫喚の地獄と化していた。
野次馬が五十人ほど。制服警官が七人。そして、その中央に——
金髪の若い男が仁王立ちしていた。
周囲には、椅子の残骸、テーブルの破片、そして血塗れで転がっている観光客が三人。男の手には折れた金属パイプが握られ、その目には——
ゴルザードは、思わず足を止めた。
あの目。
あの、底が抜けたような、虚無の目。
ゴルザードは、その目を知っていた。鏡で、毎朝見ているからだ。
「——面白え」
ゴルザードは車から降りた。
制服警官たちが振り向いた。そして、ゴルザードの顔を見た瞬間、全員の顔から血の気が引いた。
「ゴ、ゴルザード刑事……」
「よう、クソ虫ども。何をボサッとしてやがる」
ゴルザードは警官たちを押しのけながら進んだ。
「あのガキ一人制圧できねえのか。お前らの股間についてるのは、飾りか? それとも、生まれた時から付いてなかったか? どっちだ?」
「だから何だ。ティラストだろうが、ソルキア星人だろうが、生き物は生き物だ。殴れば痛がる。折れば壊れる。潰せば死ぬ。——何か問題があるか?」
「で、でも、近づいた同僚が二人、病院送りに……」
「そいつらの名前は?」
「え?」
「名前を聞いてんだ。病院送りにされた二人の名前」
「え、えーと……カレンス巡査とボルドー巡査です……」
「そうか」
ゴルザードは、メモ帳を取り出した。
「カレンスとボルドーな。覚えておく。——あとで『再教育』が必要だ。チンピラ一人に負けるような奴は、俺の縄張りにはいらねえ」
警官たちは、顔を見合わせた。「再教育」という言葉の意味を、彼らは知っていた。先月「再教育」を受けた同僚は、今も松葉杖で出勤している。
ゴルザードは、野次馬を掻き分けて前に進んだ。
野次馬たちは、彼の姿を見て、悲鳴を上げて道を開けた。
無理もない。身長二メートル十五センチ、体重百二十キロの筋肉の塊が、殺意を剥き出しにして歩いてくるのだ。
小便を漏らさなかっただけでも、彼らは褒められるべきだろう。
ゴルザードは、金髪の男の前に立った。
男は、ゴルザードを見上げた。
そして——笑った。
「おお、来たか」
男は金属パイプをくるりと回した。
「デカい禿げ頭が来たぞ。セトルラームの犬どもは、よほど脳味噌の代わりにクソが詰まってるらしいな。いや、クソに失礼か。クソの方がまだ使い道がある。肥料になるからな。——お前は何の役に立つ? 禿げ頭を磨いて、鏡の代わりにでもなるか?」
野次馬から、引きつった笑い声が漏れた。
ゴルザードは、表情を変えなかった。
「名前は」
「俺か?」
男は芝居がかった仕草で胸に手を当てた。
「ヴェルガン・クレイス。革命記念デスパレードで七人殺した。グロノヴェイルの決戦で十二人殺した。平和維持軍のクソ野郎を三人、生きたまま川に沈めた。腸が浮いてくるまで見届けてやったぜ。——お前は? 何人殺した、ピカピカ頭?」
ゴルザードは、一歩前に出た。
「数えてねえ」
「……何?」
「数えてねえって言ったんだ」
ゴルザードは、革手袋を嵌め直した。
「いちいち数えてたら、仕事にならねえ。便所でクソする時に、何回拭いたか数えるか? 数えねえだろ。それと同じだ。——お前らは、俺にとっちゃケツについたクソと同じなんだよ。拭いて、流して、はい終わり。名前なんか覚える価値もねえ」
ヴェルガンの目が、見開かれた。
そして——
彼は、声を上げて笑い始めた。
「ハハハハハハハ! 最高だ! 最高だよ、禿げ頭! てめえ、本当に警官か? 警官にしちゃ、目がイカれてる! 脳味噌がクソまみれだ! ——気に入った! てめえとは、少し遊んでやってもいいぜ!」
「遊ぶ?」
ゴルザードは、首を鳴らした。ゴキゴキという音が、広場に響いた。
「いいぜ。遊んでやる。——ただし、俺の遊び方だ」
「へえ? どんな遊び方だ?」
「簡単だ」
ゴルザードは、ニヤリと笑った。
「俺がお前を殴る。お前が倒れる。お前が立ち上がる。俺がまた殴る。——お前が立ち上がれなくなるまで、これを繰り返す。どうだ、シンプルだろ?」
ヴェルガンは、金属パイプを構えた。
「いいねえ。いいねえ! ロフィルナでも、ここまでイカれた奴はそういねえ! ——来いよ、禿げ頭! ロフィルナ流の挨拶をしてやる!」
彼が金属パイプを振り上げた瞬間——
ゴルザードは、既に目の前にいた。
一歩で間合いを詰め、男の手首を掴む。
グシャッ。
骨が砕ける音ではなかった。骨が粉砕される音だった。
「ぐっ——」
ヴェルガンが声を上げる前に、ゴルザードの膝が腹に突き刺さった。
ドゴッ。
男の身体が、くの字に折れ曲がった。
だが——
「ハッ……!」
ヴェルガンは、血を吐きながら笑った。
「いい……蹴りだ……! 久しぶりに……内臓に響いた……!」
彼は折れ曲がったまま、ゴルザードの腹に頭突きを叩き込んだ。
「ほう」
ゴルザードは、微動だにしなかった。
「根性はあるな」
彼は、ヴェルガンの髪を掴み、顔を上げさせた。
「だが、根性だけじゃ足りねえんだよ」
ゴルザードの額が、ヴェルガンの顔面に叩きつけられた。
ベキッ。
鼻骨が砕ける音。血が噴き出す。
だが、ヴェルガンはまだ笑っていた。
「ハハッ……最高だ……!」
「笑ってられるのも今のうちだ」
ゴルザードは、男を地面に叩きつけた。そして、その背中に膝を乗せ、腕を背中で極めた。
ゴキッ。
肩関節が外れる音。
「ぐああっ!」
「まだまだ」
ゴルザードは、もう片方の腕も極めた。
ゴキッ。
「がはっ……!」
「さて」
ゴルザードは、男の髪を掴んで顔を上げさせた。
「お喋りの時間だ。——お前、誰に雇われてここで暴れてた?」
「知らねえな」
「そうか」
ゴルザードは、男の顔を地面に叩きつけた。
ゴッ。
そして、また持ち上げた。
「思い出したか?」
「ハッ……」
ヴェルガンは、血塗れの顔で笑った。歯が三本、折れていた。
「禿げ頭。てめえ、ロフィルナに来たことあるか?」
「ねえな」
「だろうな。来てたら分かるはずだ。——こんなもんじゃ、俺は喋らねえ」
彼は血を吐き出しながら、続けた。
「俺はな、革命記念デスパレードで七人殺す前に、三日間拷問された。爪を全部剥がされた。歯を五本折られた。左目を潰されかけた。チ■ポに電極を繋がれて、三時間焼かれた。——それでも、仲間の名前は吐かなかった」
「……」
「てめえの国じゃ、これくらいで喋る奴がいるのかもしれねえ。だがな、ロフィルナじゃ、こんなもんは『おはよう』の挨拶だ。——もっとやれよ、禿げ頭。もっと俺を楽しませてくれ」
ゴルザードは、男を見下ろした。
周囲の野次馬は、全員、顔面蒼白になっていた。何人かは嘔吐していた。何人かは震えていた。制服警官たちは、誰一人として近づこうとしなかった。
ゴルザードは、口元を歪めた。
「——面白え」
彼は、ヴェルガンの耳元に顔を近づけた。
「いいぜ、ロフィルナの犬ころ。お前の流儀に付き合ってやる。——ただし、ここじゃねえ。ギャラリーが多すぎる」
彼は立ち上がり、制服警官の一人に向かって顎をしゃくった。
「おい、そこのクソ袋。車を回せ。こいつを署に連れてく」
「は、はい……」
「あと、お前ら全員、今見たことは忘れろ。いいな? ——忘れられねえ奴は、俺が『忘れさせて』やる」
警官たちは、全員、激しく頷いた。
ゴルザードは、ヴェルガンを引きずり起こした。
「さあ、行くぞ、犬ころ。——これから、本当の『遊び』が始まる」
■第二章 相互等価の原則
テオトーラ都市警察の取調室は、窓のない灰色の箱だった。
正式名称は「第七取調室」。非公式名称は「ゴルザードの遊び場」。過去五年間で、この部屋に入った容疑者の九十七パーセントが自白している。残りの三パーセントは——まあ、自白できる状態ではなくなったということである。
蛍光灯の無機質な光の下、ヴェルガン・クレイスは椅子に手錠で繋がれていた。
両肩は外れたまま。鼻は完全に潰れている。歯は五本折れている。顔面は腫れ上がり、両目は塞がりかけている。
だが、その口元には、まだ笑みが浮かんでいた。
ゴルザードは、テーブルの上に男の所持品を並べた。
財布。偽造身分証。小型ナイフ。携帯端末。そして——白地に青い渦巻き模様が刺繍された布切れ。
「これは何だ」
「お守りだ。お袋の形見だよ」
「嘘をつくな。ヴァルトレク・シンジケートの紋章だ」
「知らねえな。道で拾った。綺麗だったから、持っておこうと思ってな」
ゴルザードは、椅子に座った。
「お前、面白え奴だな」
「そうか? お前ほどじゃねえよ」
「俺か?」
ゴルザードは、煙草に火をつけた。
「俺は普通の刑事だ。法と秩序を守る、善良な公僕だ」
「ハッ」
ヴェルガンは、血塗れの顔で笑った。
「善良な公僕が、容疑者の肩を外すか? 鼻を潰すか? 歯を折るか?」
「正当防衛だ。お前が先に襲いかかってきた」
「両肩を外されたのも、正当防衛か?」
「お前が抵抗したからな。——いいか、犬ころ。俺は今から、お前に『相互等価の原則』ってのを教えてやる」
「何だそりゃ」
「簡単な話だ」
ゴルザードは、煙を吐き出した。
「お前の国は、法もクソもねえ無法地帯だ。警察は賄賂で動く。軍閥が違法捜査をやり放題。市民は重武装して、決闘で揉め事を解決する。異端審問官が気に入らねえ奴を火炙りにする。朝に暴動、昼に暴動、夜に暴動。年に一度は国会議事堂を爆破する。——世界一の蛮族国家だ」
「褒め言葉だな」
「だから、お前みたいな奴には、相応の態度で接するのが道理ってもんだ」
ゴルザードは立ち上がり、布切れを手に取った。
「お前、これを大事にしてるんだろう? 組織への忠誠の証だ。お袋の形見だっけ?」
「……」
「だったら、喜んで飲み込めるはずだよな? お袋の形見なんだから」
ゴルザードは、ヴェルガンの顎を掴んだ。
そして、無理やり口を開かせ、布切れを押し込んだ。
「んぐっ——!」
奥まで。喉の入り口まで。
「んぐぐぐっ!」
ヴェルガンは目を剥いてもがいた。嘔吐反射で身体が痙攣する。
だが——
彼は、笑っていた。
目から涙を流し、顔を紫色に変えながら、それでも笑っていた。
「んふっ……んふふふっ……」
ゴルザードは、さらに奥まで押し込んだ。
「どうだ、犬ころ。お袋の形見の味は」
「んぐぅぅぅっ!」
「ロフィルナじゃ、『炎の宣誓』とかいう儀式があるんだろう? 火に焼かれながら誓いを立てる。死人が続出しても、誰も文句を言わねえ。——これくらい、どうってことねえよな?」
三十秒。
四十秒。
五十秒。
ヴェルガンの顔が、紫から青に変わっていく。
ゴルザードは、ようやく手を離した。
ヴェルガンは激しく咳き込み、血と涎と胃液を撒き散らしながら、布切れを吐き出した。
そして——顔を上げて、満面の笑みを浮かべた。
「ハァ……ハァ……最高だ……てめえ、マジで最高だよ……」
「まだ笑ってられるか。大した根性だ」
「当たり前だ。俺を誰だと思ってる」
ヴェルガンは、血を吐きながら言った。
「てめえ、本当に警官か? 俺らの仲間にならねえか? いい稼ぎになるぜ」
「断る」
「残念だ。——で、次は何だ? 爪を剥がすか? 歯を折るか? チン■に電極を繋ぐか? どれでも好きなのを選べよ」
ゴルザードは、男を見つめた。
この男は、本当に折れない。
痛みを与えれば与えるほど、喜んでいる。
拷問で情報を引き出すのは、不可能だ。
——だが。
ゴルザードは、口元を歪めた。
不可能? そんな言葉は、俺の辞書にはねえ。
「犬ころ」
「何だ」
「お前、俺を舐めてるだろ」
「舐めてなんかいねえよ。むしろ、尊敬してる。てめえは俺が会った中で、二番目にイカれた奴だ」
「二番目? 一番は誰だ」
「俺自身だ」
ゴルザードは、フッと笑った。
「いい度胸だ。——だがな、犬ころ。お前は一つ、勘違いしてる」
「何を」
「お前は、俺がお前を『拷問』してると思ってるだろう」
「違うのか?」
「違う」
ゴルザードは、立ち上がった。
「俺は、お前と『遊んで』るだけだ。——本気の拷問は、まだ始まってねえ」
彼は、部屋の隅に歩み寄った。
そこには、金属製のキャビネットがあった。
ゴルザードは、キャビネットを開けた。
中には——
ヴェルガンの目が、わずかに見開かれた。
「……何だ、そりゃ」
「俺の『道具箱』だ」
キャビネットの中には、様々な器具が整然と並んでいた。
ペンチ。ニッパー。ハンマー。ドリル。半田ごて。注射器。そして——用途不明の、奇妙な形をした金属器具がいくつか。
「お前、ロフィルナで三日間拷問されたって言ったよな」
「ああ」
「爪を剥がされた。歯を折られた。目を潰されかけた。■ンポに電極を繋がれた」
「そうだ」
「——甘いな」
ゴルザードは、キャビネットから一つの器具を取り出した。
それは、先端が二股に分かれた金属製の棒だった。
「これが何か分かるか」
「……分からねえ」
「『舌抜き』だ。古代の拷問器具を、俺が改良した。——こいつを口に突っ込んで、レバーを引くと、舌が根元から引き抜かれる」
ヴェルガンの顔から、初めて笑みが消えた。
「……」
「お前、さっきから随分と饒舌だよな。その舌、いらねえんじゃねえか?」
「……」
「安心しろ。舌がなくても、頷くことはできる。俺の質問に、イエスかノーで答えればいい。——簡単だろ?」
ゴルザードは、器具を手の中で弄んだ。
「さて、犬ころ。もう一度聞く。——お前は、誰に雇われて、ここで暴れてた?」
ヴェルガンは、しばらく黙っていた。
そして——
彼は、再び笑い始めた。
「ハハハハハ……」
「何がおかしい」
「いや……てめえ、マジでイカれてるな……」
彼は、血塗れの顔でゴルザードを見上げた。
「いいぜ。やってみろよ。舌を抜いてみろ。——だがな、俺は喋らねえ。舌を抜かれても、喋らねえ。腕を切り落とされても、喋らねえ。脚を切り落とされても、喋らねえ。——俺の誇りは、そんな安もんじゃねえんだよ」
ゴルザードは、男を見下ろした。
この男は——本物だ。
拷問で折れるタイプではない。殺しても、喋らないだろう。
——面白え。
ゴルザードは、器具をキャビネットに戻した。
「……いいだろう。お前の根性は認めてやる」
「……何?」
「お前は痛みじゃ折れねえ。それは分かった」
ゴルザードは椅子に座り直し、煙草に火をつけた。
「——だがな、犬ころ。俺は別に、お前を折りたいわけじゃねえんだよ」
「……どういう意味だ」
「お前みたいな奴は、自分の誇りのためなら喜んで死ぬ。それは分かる。立派なもんだ。——だが、他人の誇りはどうだ?」
「……」
「お前、自分が何のために戦ってるか、本当に分かってるか?」
ヴェルガンの目が、わずかに揺れた。
「何が言いてえ」
「お前、ロフィルナ人だよな。革命で国を追われた。仲間を殺された。だから、シンジケートに入った。——違うか?」
「……だから何だ」
「シンジケートは、お前みたいな奴らの受け皿だ。国を追われた難民、居場所をなくした兵士、社会から弾かれた落伍者。そういう連中を拾って、仕事を与える。——お前は、それを『救い』だと思ってるんだろう?」
ヴェルガンは答えなかった。しかし、その沈黙が、答えだった。
ゴルザードは、煙を吐き出した。
「いい話だよな。——だが、お前、シンジケートがこの街で何をやってるか、知ってるか?」
「……知らねえ。俺は下っ端だ。命令されたことをやるだけだ」
「そうか。じゃあ、教えてやる」
ゴルザードは、机の引き出しからファイルを取り出した。
「これは、俺がこの三か月で集めた資料だ。シンジケートがテオトーラでやってる『事業』の記録だ」
彼はファイルを開き、写真を一枚、テーブルに置いた。
「見ろ」
ヴェルガンは、写真を見た。
そして——その顔が、わずかに強張った。
「……何だ、これは」
「ロフィルナ難民の収容施設だ。——いや、『収容施設』ってのは建前だな。実態は、人身売買の供給源だ」
写真には、薄暗い倉庫のような場所が映っていた。そこに、数十人の人間が詰め込まれている。痩せ細った身体。虚ろな目。鎖で繋がれた足首。
「革命後、この国には大量のロフィルナ難民が流れ込んだ。お前も知ってるだろう。——そいつらの多くは、『仕事を紹介する』って言われて、この施設に連れてこられる。そして、二度と出てこねえ」
「……」
「売られるんだよ。動物として。——女は売春宿に。男は強制労働に。子供は……言わなくても分かるだろう」
ゴルザードは、次の写真を置いた。
「これは、先月摘発した売春宿だ。そこにいた女の一人だ」
写真の女は、明らかにロフィルナ人だった。金髪。緑の目。——そして、全身に殴打の痕がある。顔は腫れ上がり、目は虚ろで、もはや人間の表情をしていなかった。
「この女、元は教師だったそうだ。革命で学校が焼かれて、家族も殺されて、この国に逃げてきた。——そして、『仕事を紹介する』って言われて、この店に売られた。三か月間、毎日十人以上の客を取らされた。逃げようとしたら、こうなった」
ヴェルガンの顔から、完全に笑みが消えていた。
「……」
「お前、さっき言ったよな。『俺の誇りは安もんじゃねえ』って。——立派な台詞だ。だがな、お前の『誇り』を支えてる組織は、お前の同胞をこうやって食い物にしてんだよ」
「……黙れ」
「黙らねえよ。——お前、革命で何のために戦った? 仲間を守るためだろう? 同胞を守るためだろう? ——その同胞が、お前の組織に売られてんだ。お前が『誇り』だと思ってるものは、同胞の血と涙で出来てんだよ」
「黙れっ!」
ヴェルガンが叫んだ。椅子ごと身体を揺らし、手錠が金属音を立てた。
「てめえに何が分かる! 俺は——俺たちは——」
「何も分からねえよ。お前らの事情なんか、知ったことじゃねえ」
ゴルザードは、冷たく言い放った。
「だがな、事実は事実だ。お前が守ろうとしてるものは、お前の同胞を踏みにじってる。——それでも、お前は『誇り』とやらを守るか?」
ヴェルガンは黙り込んだ。
その顔には、もはや笑みはなかった。怒りでもなかった。
——困惑だった。
自分が信じてきたものが、根底から揺らいでいる。その動揺が、はっきりと見て取れた。
ゴルザードは、その隙を見逃さなかった。
「なあ、犬ころ。一つ聞いていいか」
「……何だ」
「お前、この街に来て何日だ?」
「……四日だ」
「四日か。——その四日間、お前はどこに泊まってた?」
「……」
「答えろ」
「……安宿だ。港の近くの」
「名前は?」
「……覚えてねえ」
「嘘をつくな。お前みたいな奴が、自分の寝床の名前を覚えてねえわけがねえ」
ヴェルガンは答えなかった。
ゴルザードは、煙草を灰皿に押し付けた。
「いいか、犬ころ。俺は別に、お前から組織の秘密を聞き出そうとしてるわけじゃねえ。お前みたいな下っ端が、大した情報を持ってねえことくらい分かってる」
「……」
「俺が知りたいのは、お前がこの街で『誰と会ったか』だ。——お前に命令を出した奴。お前に金を渡した奴。お前に『ここで暴れろ』と言った奴。——そいつの名前か、顔か、場所か。何でもいい。一つでも教えろ」
ヴェルガンは、しばらく黙っていた。
その目は、テーブルの上の写真に向けられていた。同胞の女の、虚ろな目。
「……俺が喋ったら、どうなる」
「お前は本国に送還される。——ロフィルナ政府への引き渡しだ」
「殺されるな」
「だろうな。組織に口封じされるか、政府に処刑されるか。どっちにしろ、ロクな死に方はしねえ」
「……」
「だが、お前が喋れば、俺はこの街のシンジケートを潰せる。——お前の同胞を売り飛ばしてる連中を、叩き潰せる」
ヴェルガンは、ゆっくりと顔を上げた。
その目には、もはや迷いはなかった。
「……一つだけ、条件がある」
「言え」
「俺は、何も喋らなかった。——そういうことにしろ」
「……何?」
「俺の口からは、何も出てねえ。お前が別のルートで情報を手に入れた。——そういうことにしろ。俺の誇りは、守らせてもらう」
ゴルザードは、男を見つめた。
血塗れで、ボロボロで、両肩は外れたままで。——それでも、最後の一線だけは譲らない。
「……分かった」
ゴルザードは、頷いた。
「お前の端末から情報が漏れた。メッセージを消し忘れてた。——そういうことにする」
「……いいだろう」
ヴェルガンは、深く息を吐いた。
「アヴェラリス・リゾート。——そこの地下に、連中の拠点がある」
■第三章 狂犬の誇り
——二時間後。
ゴルザードは、技術班から報告を受けていた。
「ヴェルガン・クレイスの端末を解析しました。暗号化されたメッセージがいくつかありましたが、一つだけ、平文で残っているものがありました」
『明日の件、Aリゾート地下で確認しろ』
「これで、公式の記録上は端末から情報が漏れたことになります」
「ああ。ご苦労だった」
ゴルザードは、取調室に戻った。
ヴェルガンは相変わらず、椅子に繋がれたままだった。しかし、もはや笑ってはいなかった。疲れ切った顔で、天井を見上げていた。
「おう、禿げ頭」
「お前の端末から、メッセージが見つかった。——お前が消し忘れてたやつだ」
「……そうか。俺のミスだな」
「ああ。お前は何も喋らなかった。——覚えておけ」
ヴェルガンは、わずかに口元を歪めた。笑みというより、自嘲に近い表情だった。
「なあ、禿げ頭」
「何だ」
「一つ教えてやる」
彼は、血塗れの唇を歪めた。
「俺みたいな下っ端が、てめえ一人に負けたからって、何も変わらねえ。あそこには、俺より強え奴がゴロゴロいる。俺の十倍は強え奴が、二十人以上いる。——てめえがいくら化け物でも、数には勝てねえ」
「心配してくれてんのか?」
「バカ言え」
ヴェルガンは、ニヤリと笑った。
「てめえが死んだら、俺を楽しませてくれる奴がいなくなる。——それだけだ。てめえみたいなイカれた奴は、貴重なんだよ。死なせるのは勿体ねえ」
ゴルザードは、フッと笑った。
「お前、意外といい奴だな」
「うるせえ。殺すぞ」
「もう試しただろ。——結果はどうだった?」
ヴェルガンは、しばらく黙っていた。
やがて、彼は天井を見上げたまま、呟いた。
「……俺は、間違ってたのかもな」
「何が」
「全部だ。——革命も、組織も、戦いも。全部、間違ってたのかもしれねえ」
「……」
「俺は、仲間を守るために戦ってきたつもりだった。同胞を守るために、血を流してきたつもりだった。——だが、結局、俺がやってきたことは、同胞を売り飛ばす手伝いだった。笑えるだろ?」
ゴルザードは、煙草に火をつけた。
「笑えねえよ」
「……何?」
「お前は、騙されてたんだ。——騙した奴が悪い。お前は悪くねえ」
ヴェルガンは、ゴルザードを見た。
「……てめえ、マジで警官か? 警官がそんなこと言うか?」
「俺は普通の警官じゃねえからな」
ゴルザードは、立ち上がった。
「お前の肩、嵌めてやる。——このまま本国送還されたら、飛行機の中で死ぬぞ」
「……今更、優しくすんなよ。気持ち悪い」
「優しくしてねえよ。お前が死んだら、証人がいなくなる。——ただの業務だ」
ゴルザードは、ヴェルガンの背後に回った。
そして、外れた肩を、一気に押し込んだ。
ゴキッ。
「ぐっ——!」
「もう片方もやるぞ」
ゴキッ。
「がはっ……! ——てめえ、加減ってもんを知らねえのか……!」
「知らねえ。——さて、俺は行く。お前は、しばらくここで寝てろ」
「どこに行く」
「決まってるだろ」
ゴルザードは、ドアに手をかけた。
「アヴェラリス・リゾートだ。——お前の『仲間』に、挨拶してくる」
■第四章 青い渦の巣窟
アヴェラリス・リゾートの地下二階。
ゴルザードは深夜、単身でリゾートに乗り込んだ。正規の捜査令状はない。上司への報告もしていない。完全な独断専行である。
もし失敗すれば、懲戒免職どころでは済まないだろう。殺人罪で起訴される可能性すらある。
だが、そんなことは、どうでもよかった。
正規のルートで動けば、また「国際情勢への配慮」で止められる。カルヴァン市議が圧力をかけ、署長が折れ、捜査は中止になる。
クソ食らえだ。
ゴルザードは、従業員用の通用口から侵入した。
警備員が一人、立っていた。
「おい、お前、何を——」
ゴルザードの拳が、警備員の顔面に叩き込まれた。
ベキッ。
警備員は、声を上げる間もなく、崩れ落ちた。
「邪魔だ」
ゴルザードは、警備員を跨いで先に進んだ。
階段を下りる。地下一階は倉庫。地下二階は、本来なら機械室のはずだ。
だが、階段の先には、重厚な鉄扉があった。
ゴルザードは扉の前に立ち、耳を澄ませた。
中から、かすかに声が聞こえる。複数の人間が話している。
彼は深呼吸をした。
そして——扉を蹴破った。
ドガァン!
扉が吹っ飛び、部屋の中に倒れ込んだ。
「テオトーラ都市警察だ! 全員、クソを漏らす準備はいいか!」
部屋の中には、五人の男がいた。
デスクには端末が並び、壁には世界地図が貼られている。地図には無数の赤い印が付けられ、密輸ルートを示しているようだった。
男たちは一斉に振り向いた。
その中の一人、白いスーツを着た中年の男が、ゴルザードの注意を引いた。胸元には、あの青い渦巻きのピンバッジが光っている。
「……何者だ」
白いスーツの男が、冷静な声で言った。
「名乗っただろう。テオトーラ都市警察のゴルザードだ。——お前らの悪夢が、やっと届いたぞ」
「令状は?」
「持ってねえ」
「……ほう」
白いスーツの男は、薄く笑った。
「令状もなしに私有地に不法侵入。これは犯罪だぞ、刑事さん」
「知ってる」
「知っていて、なぜ来た」
「お前らを潰すためだ」
ゴルザードは、革手袋を嵌め直した。
「ヴァルトレク・シンジケート。国際犯罪組織。人身売買、麻薬密輸、不老薬の闘取引。——お前らの悪行は、山ほど知ってる」
「証拠は?」
「これから集める。——お前らの臓物の中からな」
白いスーツの男の目が、わずかに見開かれた。
「……面白い男だ。久しぶりに、本物の狂人を見た」
彼は指を鳴らした。
部屋の奥から、武装した男たちが現れた。十人。いや、十五人。全員が自動小銃を構えている。
「だが、残念だな、刑事さん」
白いスーツの男は、椅子から立ち上がった。
「お前は、触れてはいけない場所に触れてしまった。ここから生きて出られると思うな」
ゴルザードは、周囲を見回した。
十五対一。全員が武装している。
——上等じゃねえか。
「なあ」
彼は、白いスーツの男に言った。
「お前、名前は何だ」
「……名乗る必要があるか?」
「死ぬ前に、名前くらい知っておきたいだろう?」
白いスーツの男は、眉をひそめた。
「誰が死ぬって?」
「お前らだ」
ゴルザードは、笑った。
歯を剥き出しにした、獣のような笑みだった。
「さっき、面白え奴と遊んできたんだ。ロフィルナ人の狂犬だ。あいつは強かった。拷問しても笑ってやがった。爪を剥がされても歯を折られても目を潰されても喋らねえって豪語してた。——あいつに比べれば、お前らなんか、クソ塗れのガキと同じだ」
白いスーツの男の顔が、怒りで歪んだ。
「……殺せ。ただし、苦しませろ。手足を撃って、這いずり回らせてから、頭を潰せ」
銃声が響いた。
——だが、ゴルザードはもう、そこにいなかった。
■第五章 鉄拳乱舞
彼は、銃声が響く前に動いていた。
最初の男の喉に、掌底を叩き込んだ。
グシャッ。
気管が潰れる音。男は声を上げることもできず、血を噴き出しながら崩れ落ちた。
ゴルザードは、落ちた銃を拾い——拾わなかった。
銃なんか、いらねえ。
二人目の男が、銃を構えた。
ゴルザードは、銃身を掴み、捻り上げた。男の指が、引き金ごと折れ曲がった。
「ぎゃっ——」
悲鳴を上げる前に、ゴルザードの頭突きが、男の顔面を粉砕した。
三人目。四人目。五人目。
弾丸が飛び交う中、ゴルザードは踊るように敵を薙ぎ倒していく。
六人目の腕を掴み、肘を逆方向に曲げた。
ベキベキベキッ。
白い骨が、皮膚を突き破って飛び出した。
「ぎゃあああああっ!」
「うるせえ」
その男の頭を掴み、七人目の顔面に叩きつけた。
グシャッ。
二つの頭蓋骨が、同時に砕けた。
八人目が、銃を構えた。
引き金を引く前に、ゴルザードの指が、男の目に突き刺さった。
ブチュッ。
眼球が潰れる音。男は絶叫しながら、顔を押さえて転がった。
「目がっ! 目がああああっ!」
「まだ片方残ってるだろ。贅沢言うな」
九人目。十人目。十一人目。
弾丸が身体を掠める。肩に一発。腹に一発。血が流れる。
だが、ゴルザードは止まらなかった。
痛みは、彼の燃料だった。
十二人目の首を両手で掴み、力任せに捻った。
ゴキゴキゴキッ。
首が百八十度回転した。男の顔が、背中側を向いた。
十三人目は、銃を捨てて逃げようとした。
ゴルザードは、彼の背中に飛びかかり、床に押し倒し、後頭部を床に叩きつけた。
ゴッ。ゴッ。ゴッ。ゴッ。ゴッ。
五回目で、頭蓋骨が砕けた。脳漿が床に飛び散った。
十四人目。十五人目。
最後の一人は、壁際で震えていた。銃を構えているが、引き金を引く指が震えて動かない。
「た、助けてくれ……」
「助ける?」
ゴルザードは、ゆっくりと近づいた。
「お前ら、人身売買をやってたよな。何人の女を売った? 何人の子供を売った?」
「お、俺は……俺は、ただの下っ端で……」
「下っ端だろうが、上っ端だろうが、関係ねえ」
ゴルザードは、男の銃を掴み、取り上げた。
「罪は罪だ。——で、お前は今から、その罪を償う」
「ど、どうやって……」
「簡単だ」
ゴルザードは、男の口をこじ開け、銃身を突っ込んだ。
「んぐっ——!」
「お前が売った女や子供も、こうやって口を塞がれたんだろうな。——どんな気分だ?」
「んぐぐぐっ!」
ゴルザードは、銃身をさらに奥まで押し込んだ。男の喉が、銃身の形に膨らんだ。
「安心しろ。殺しはしねえ。——まだ、お前には聞くことがある」
彼は銃身を引き抜いた。男は激しく咳き込み、血と涎を撒き散らした。
「げほっ……げほっ……」
「さて」
ゴルザードは、振り向いた。
白いスーツの男——今は血で赤く染まっているが——は、壁に背を押し付けて震えていた。
股間が、濡れていた。
「……ば、化け物……」
「化け物?」
ゴルザードは、ゆっくりと近づいた。足元で、まだ生きている男が呻いていた。ゴルザードは、無造作にその頭を踏み潰した。
グチャッ。
「俺は化け物じゃねえ。ただの刑事だ。——さて、お前の番だ。お前は『青い渦』だな? シンジケートの幹部だ」
「は、はい……」
「よし、いい子だ。——まず、お前の上は誰だ。この街のシンジケートを仕切ってるのは誰だ」
■第六章 亡霊の名
「青い渦」は、全てを吐いた。
拷問の必要すらなかった。ゴルザードの「遊び」を見ただけで、彼の精神は完全に崩壊していた。
「『再建計画』……?」
「そ、そうです……」
青い渦は、涙と鼻水と小便で汚れた顔で、必死に頷いた。
「シンジケートは、ただの犯罪組織じゃないんです……もっと大きな目的がある……セトルラームの政治を、内部から腐らせる計画なんです……」
「誰の計画だ」
「わ、分かりません……私は末端ですから……ただ、指示が来るんです……帝国経由で……」
「は、はい……帝国の誰かが、この計画の黒幕だって噂を……」
「そいつの名前を聞いたことは?」
「な、名前は……直接は聞いてません……ただ、連絡係が一度だけ言ってたんです……『閣下』って……」
「閣下?」
「は、はい……『閣下のご意向だ』って……『閣下は、この国に失望しておられる。だから、根本から作り変えるのだ』って……」
ゴルザードの脳裏に、ある名前が浮かんだ。
三年前に失脚した、元セトルラーム共立連邦大統領。「ポリティカルスピナー」「偽リベラル」「独裁者」「売国奴」「ピエロ大統領」と呼ばれた男。目的のためなら手段を選ばず、汚職も厭わない、酷薄非道の権化……
革命で自滅し、帝国に亡命した男。今は帝国の「名誉大公」として、トローネ皇帝の庇護の下で暮らしているという。
「……クソが」
ゴルザードは、血塗れの手で顔を覆った。
あの男か。あの腐れ政治家が、まだ糸を引いてやがるのか。
「おい」
「は、はいっ!」
「他に知ってることは」
「そ、それだけです……本当に、それだけなんです……お願いします、殺さないでください……」
「殺さねえよ」
ゴルザードは、立ち上がった。
「お前は、俺の証人だ。法廷で証言してもらう。——逃げたら、殺す。嘘をついたら、殺す。分かったな?」
「は、はい! 分かりました! 何でも言います! 何でもしますから!」
その時——
廊下から、足音が響いた。
大勢の足音だ。
■第七章 蛇の頭
ゴルザードが廊下に出ると、二十人以上の武装した男たちが待ち構えていた。
そして、その先頭に立つ男は——
「……カルヴァン市議」
エドゥアルド・カルヴァン。テオトーラ市議会の有力議員。慈善事業家を自称する、脂ぎった笑顔の持ち主。
だが、今、その顔に笑みはなかった。
「ゴルザード刑事」
カルヴァンは、冷たい声で言った。
「君の熱心さには感心するよ。だが、少々やりすぎだ」
「お前がここにいるってことは、やっぱり繋がってたわけだな。——クソ野郎め。慈善事業家の皮を被った、蛆虫が」
「蛆虫?」
カルヴァンは、肩をすくめた。
「私はただの仲介者だよ。ビジネスマンだ。需要があるところに、供給を届ける。それだけのことだ」
「人身売買で儲けて、『需要と供給』か。——反吐が出る」
「反吐が出ようが、下痢が出ようが、世の中はそういうもんだ。金が全てだ。金があれば、何でもできる。警察も買える。政治家も買える。法律も買える。——君も買えるぞ。いくら欲しい?」
「……」
「十億か? 百億か? 言い値で出そう。——君のような男は、組織にとって貴重だ。あの十五人を、素手で皆殺しにできる人間なんて、滅多にいない」
「断る」
「そうか。残念だ」
カルヴァンは、溜息をついた。
「じゃあ、死んでもらうしかないな。——君がここで死ねば、全ては闇の中だ。青い渦も黙らせる。証拠も消す。何も残らない」
「お前の上は誰だ」
「……何?」
「お前に指示を出してるのは誰だ。帝国の『閣下』か」
カルヴァンの顔が、一瞬だけ強張った。
「……どこで、その名を」
「青い渦が吐いた。——ヴァンス・フリートン。元大統領だな。あのクソ野郎が、まだ糸を引いてやがる」
カルヴァンは、しばらく黙っていた。
やがて、彼は低い声で笑い始めた。
「……ハハハハハ。なるほど。君は思ったより優秀らしい。——だが、それが分かったところで、何になる? フリートン閣下は帝国にいる。君の手は届かない。君の法律は、帝国じゃ便所紙以下だ」
「お前を逮捕すれば、奴に繋がる糸が手に入る」
「証拠は?」
「お前の部下の証言がある」
「死人に口なしだ」
カルヴァンは、武装した男たちを見回した。
「君がここで死ねば、青い渦も黙らせる。私も喋らない。全ては闇の中だ。——そして、フリートン閣下の計画は続く」
「そうはいかねえ」
「なぜ?」
「俺は死なねえからだ」
カルヴァンは、目を見開いた。
「……二十人以上の武装した男を相手に? しかも、既に撃たれて、血を流している状態で?」
「ああ」
ゴルザードは、口元を歪めた。
「さっき、十五人殺した。——あと二十人くらい、誤差の範囲だ」
「……狂ってる」
「お互い様だろ」
カルヴァンは、手を上げた。
「殺せ。——ただし、顔だけは残せ。晒し者にしてやる」
■第八章 血の洗礼
二十対一。全員が重武装。
どう考えても、死ぬ状況だった。
——最高だ。
ゴルザードは、笑った。
ヴェルガンの言葉が、頭に浮かんだ。
『俺より強え奴がゴロゴロいる』
『てめえがいくら化け物でも、数には勝てねえ』
——見てろ、犬ころ。
——俺は、数にも勝つ。
彼は、走った。
銃声が轟いた。弾丸が飛び交った。
ゴルザードは、最も近い男に飛びかかった。その男の身体を盾にし、他の男たちの銃弾を浴びせた。
弾丸が、男の身体に食い込んでいく。血飛沫が上がる。男が絶叫する。
その男が絶命する前に、ゴルザードは次の男に飛びかかった。
首を掴み、捻り上げ、へし折った。
ゴキッ。
三人目。四人目。五人目。
弾丸が身体を掠める。腕に一発。脚に一発。腹にもう一発。
血が流れる。視界が霞む。
だが、ゴルザードは止まらなかった。
六人目の目を潰し、七人目の喉を潰し、八人目の睾丸を握り潰した。
「ぎゃああああっ!」
悲鳴を上げる八人目の頭を掴み、九人目の顔面に叩きつけた。
グシャッ。
十人目。十一人目。十二人目。
十三人目の腕を掴み、肘を逆方向に曲げた。骨が皮膚を突き破って飛び出した。その骨を引き抜き、十四人目の目に突き刺した。
「ぐああっ!」
十五人目。十六人目。十七人目。
十八人目の頭を両手で掴み、親指で両目を押し潰しながら、力任せに握り潰した。
グシャッ。
頭蓋骨が砕けた。脳漿が飛び散った。
十九人目。二十人目。
最後の一人は、銃を捨てて逃げようとした。
ゴルザードは、彼の足首を掴み、引き倒し、馬乗りになって、顔面を殴り続けた。
何度も。何度も。何度も。
顔が原形を留めなくなっても、まだ殴り続けた。
ようやく手を止めた時、彼の拳は、骨が見えるほど皮膚が裂けていた。
——静寂。
廊下は、地獄絵図だった。
血と肉片と骨と臓物が、床一面に散乱していた。壁も天井も、赤く染まっていた。
その中央に、ゴルザードは立っていた。
全身に銃創を負い、血を流しながら。
だが、立っていた。
カルヴァンは、壁際で震えていた。
顔面蒼白。失禁。脱糞。全身が痙攣している。
「ば……ば……」
「何だ、カルヴァン。言いたいことがあるなら、はっきり言え」
「ば……化け物……」
「化け物じゃねえって、何度言わせる」
ゴルザードは、ゆっくりとカルヴァンに近づいた。
「俺は、ただの刑事だ。法と秩序を守る、善良な公僕だ。——さて、カルヴァン。お前の番だ。フリートンとの繋がり、全部吐け」
「は、はい……何でも喋ります……何でも……」
「よし、いい子だ」
■第九章 灰色の夜明け
翌朝。
アヴェラリス・リゾートの地下で、五十人以上の死傷者が発見された。
カルヴァン市議を含む複数の人物が逮捕され、シンジケートとの繋がりが明るみに出た。
ニュースは、星団中を駆け巡った。
『テオトーラの大虐殺』——メディアは、そう呼んだ。
ゴルザードは、病院のベッドで目を覚ました。
全身に包帯が巻かれている。点滴が繋がれている。心電図が、ピッ、ピッ、と音を立てている。
ベッドの横には、上司のテルマン警部が座っていた。
「……お前、まだ生きてたのか」
テルマンは、溜息をついた。
「医者が言ってたぞ。『普通の人間なら、とっくに死んでる』って。弾丸を七発も食らって、骨が五本折れて、内臓に三か所穴が開いて——それでも生きてる。お前、本当に人間か?」
「人間だ。——で、俺はどうなる」
「……英雄だとさ」
テルマンは、苦笑した。
「カルヴァンの証言と、現場から押収した証拠のおかげで、シンジケートとの繋がりが明るみに出た。市議会は大騒ぎだ。カルヴァンを含め、五人の議員が逮捕された。内務省警察庁も動き出して、連邦レベルの捜査が始まる」
「そうか」
「お前のやり方は、滅茶苦茶だ。いや、滅茶苦茶を通り越して、狂気だ。——だが、結果を出した。それだけは認めてやる」
ゴルザードは、天井を見上げた。
「……テルマン」
「何だ」
「この事件の黒幕、分かるか」
「黒幕? カルヴァンじゃないのか」
「カルヴァンは末端だ。もっと上がいる」
「……誰だ」
「ヴァンス・フリートン。元大統領だ」
テルマンの顔が、凍りついた。
「……何だと」
「カルヴァンが吐いた。帝国経由で指示が来てたって。『閣下のご意向だ』って言われたそうだ」
「……証拠は」
「ねえよ。伝聞だけだ。裁判じゃ使えねえ」
「じゃあ、どうする」
「どうもしねえ」
ゴルザードは、静かに言った。
「俺には、フリートンを捕まえる力はねえ。帝国にいる奴に、俺の手は届かねえ。——だが、奴の計画は潰した。この街のシンジケートは壊滅した」
「それで、いいのか」
「いいわけねえだろ」
ゴルザードは、拳を握りしめた。
「だが、俺にできることは、これが限界だ。政治の世界は、俺の拳じゃ届かねえ。——悔しいが、認めるしかねえ」
テルマンは、窓辺に立った。
「内務省警察庁への出向命令が出てる。連邦レベルの組織犯罪対策班だ」
「……そうか」
フリートンには手が届かなくても、シンジケートの本体には手が届くかもしれない。
ゴルザードは、窓の外を見た。
朝日が、海面を照らしていた。
■終章 二つの孤独
豪華な屋敷の書斎で、一人の男がワイングラスを傾けていた。
ヴァンス・フリートン―――元セトルラーム共立連邦大統領。現在は帝国の「名誉大公」。
彼の前には、端末が置かれていた。画面には、テオトーラでの騒動のニュースが映し出されている。
「……ほう」
フリートンは、ワインを一口飲んだ。
「テオトーラの拠点が潰されたか。カルヴァンも逮捕された。——まあ、想定の範囲内だな。あいつは所詮、金でしか動かない糞虫野郎だ。いずれボロを出すと思っていた」
彼は、窓の外を見た。
「あの禿げ頭の刑事、なかなかやるじゃないか。ゴルザードとかいったか。五十人以上を素手で殺した? 化け物だな……」
彼は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
帝都の夜景が、宝石のように輝いていた。
「だが、所詮は末端だ。テオトーラなど、駒の一つに過ぎない。他にも拠点はいくらでもある。計画は、何も変わらない」
彼は、ワイングラスを掲げた。
「セトルラームよ。私を追放したこと、後悔させてやる」
——愛しのアリウス陛下。あなたには勝てなかった。それは認めよう。——だが、あなたの国を、内側から腐らせてやることはできる。ゆっくりと、確実に、誰にも気づかれないように。
彼は、ワインを飲み干した。
そして、窓の外を見ながら、呟いた。
「……まあ、それはそれとして。明日のトローネ陛下との晩餐会、何を着ていこうかね。あの腹黒皇帝のことだ、また何か企んでるに違いない」
かつて「独裁者」と呼ばれた男は、一人で愚痴を呟きながら、二杯目のワインを注いだ。
哀愁というより、もはや滑稽だった。
◆ ◆ ◆
テオトーラの港。
夕暮れの海を眺めながら、ゴルザードは煙草に火をつけた。
彼の背後、五メートルほど離れた場所に、松葉杖をついたヴェルガン・クレイスが立っていた。取り調べを終え、本国送還を待つ身である。
両肩は、一応は嵌め直されている。顔の腫れも、少しは引いていた。
二人は、互いに背を向けたままだった。
「……なあ、禿げ頭」
「何だ」
「リゾート、行ったんだってな」
「ああ」
「何人殺した」
「数えてねえ」
ヴェルガンは、鼻で笑った。
「やるじゃねえか。——俺の忠告、聞かなかったな」
「忠告通りだったぞ。お前より強え奴がゴロゴロいた」
「で、どうなった」
「全員殺した」
沈黙が落ちた。
波の音だけが、二人の間を流れていく。
「……なあ、禿げ頭」
「何だ」
「俺は、てめえに負けた」
ヴェルガンの声には、もはや笑いはなかった。
「拷問じゃ折れなかった。痛みじゃ折れなかった。舌を抜かれそうになっても、折れなかった。——だが、てめえの話を聞いて、折れた」
「……」
「俺の同胞が、俺の組織に売られてた。俺が守ろうとしてたものが、俺の同胞を踏みにじってた。——それを聞いた時、俺の中の何かが、音を立てて壊れた」
ヴェルガンは、夕焼けの海を見つめた。
「俺は、口を割った。てめえの記録上じゃ『端末から漏れた』ことになってるが、俺は知ってる。俺が、喋ったんだ。——俺の誇りは、守られてねえ」
「……そうか」
「そうだ」
ヴェルガンの声が、低く響いた。
「だから、覚えておけ、禿げ頭。——俺は、てめえを許さねえ」
「……」
「てめえは、俺の誇りを砕いた。俺が二十年かけて積み上げてきたものを、たった数時間で粉々にしやがった。——その借りは、必ず返す」
ゴルザードは、煙を吐き出した。
「お前、本国に送還されたら、どうなるんだっけ?」
「殺されるだろうな。組織に口封じされるか、政府に処刑されるか」
「死んだら、借りは返せねえぞ」
「ああ。だから、死なねえ」
ヴェルガンの声に、初めて力がこもった。
「俺は、生き延びる。何があっても、生き延びる。——そして、いつか必ず、てめえの前に現れる」
「……」
「その時は、覚悟しとけ。俺は、てめえを殺す。——今日の借りを、利子をつけて返してやる」
ゴルザードは、振り向かなかった。
ただ、口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「……楽しみにしてる」
「あ?」
「お前が生き延びて、俺の前に現れるのを、楽しみにしてる。——その時は、また『遊んで』やるよ」
ヴェルガンは、しばらく黙っていた。
やがて、彼は低く笑った。
「……てめえ、マジでイカれてるな」
「お互い様だろ」
沈黙。
波の音。
カモメの鳴き声。
「……なあ、禿げ頭」
「何だ」
「一つだけ、聞いていいか」
「言え」
「てめえ、なんであんな写真を持ってた。俺の同胞が売られてる写真を」
「……」
「あれは、俺を折るためだけに用意したもんじゃねえだろう。てめえ、前から調べてたんだな。シンジケートが、難民を食い物にしてることを」
ゴルザードは、煙草を海に投げ捨てた。
「……三か月前から、調べてた」
「なぜだ」
「……」
ゴルザードは、しばらく黙っていた。
やがて、彼は低い声で言った。
「……俺の妹が、ロフィルナ人と結婚してた」
「……何?」
「十年前の話だ。妹は、ロフィルナからの留学生と恋に落ちて、向こうに嫁いでいった。——そして、
五年前の戦闘で、夫と一緒に殺された」
ヴェルガンは、何も言わなかった。
「妹の旦那は、いい奴だった。優しくて、真面目で、妹を大事にしてた。——そいつが、革命の混乱の中で、どこかの部隊に殺された。妹も一緒に」
「……」
「俺は、ロフィルナって国が嫌いだ。法もクソもねえ無法地帯だ。——だが、そこから逃げてきた難民を食い物にする連中は、もっと嫌いだ」
ゴルザードは、空を見上げた。
「だから、調べてた。シンジケートが何をやってるか。誰が被害に遭ってるか。——いつか、あいつらを叩き潰すために」
沈黙が落ちた。
長い、長い沈黙だった。
やがて、ヴェルガンが口を開いた。
「……てめえの妹の名前は」
「関係ねえだろ」
「教えろ」
「……エレナだ。エレナ・ゴルザード。——向こうじゃ、エレナ・ヴォルクスって名乗ってた」
ヴェルガンは、しばらく黙っていた。
そして、低い声で言った。
「……ヴォルクスか。——聞いたことがある名前だ」
「……何?」
「革命の時、
ザールタラスの近くに、ヴォルクスって名前の医者がいた。外国人の嫁さんと一緒に、野戦病院を開いてた。敵も味方も関係なく、怪我人を治療してた」
「……」
「俺は、そこで治療を受けたことがある。肩を撃たれた時だ。——あの医者は、俺の命を救った。俺が敵側の人間だと分かってても、治療してくれた」
ゴルザードは、振り向かなかった。
だが、その背中が、わずかに震えていた。
「……その医者は、どうなった」
「知らねえ。——俺が回復した後、すぐに戦線が動いた。野戦病院は、砲撃で吹っ飛んだって聞いた」
「……そうか」
「……」
沈黙。
波の音だけが、二人の間を流れていく。
「……なあ、禿げ頭」
「何だ」
「さっき言ったこと、撤回する」
「どれだ」
「てめえを殺すってやつだ」
「……」
「俺は、てめえを殺さねえ。——その代わり、てめえと決着をつける。命を懸けて、正面から、てめえと戦う。——それで、借りを返す」
ゴルザードは、煙草に火をつけた。
「……勝手にしろ」
「勝手にする」
ヴェルガンは、松葉杖をついて歩き出した。
ゴルザードには、背を向けたままだった。
「……じゃあな、おっさん。死ぬんじゃねえぞ。——俺が倒すまで、死ぬんじゃねえ」
「お前こそ」
ヴェルガンの足音が、遠ざかっていく。
ゴルザードは、振り向かなかった。
ただ、夕焼けの海を見つめていた。
◆ ◆ ◆
フリートン。
今日は見逃してやる。だが、いつか必ず、お前の首に手が届く日が来る。——その時は、覚悟しとけ。お前の歯を全部へし折って、喉に突っ込んでやる。
夕陽が、彼の頭を赤く染めていた。
テオトーラの恒星は、より大きな獲物を求めて飛び立とうとしていた。
そして、帝都の亡霊は、より深い闇を織り続けている。
二人の男の戦いは、まだ始まったばかりだった。
——だが、それは別の話だ。
血塗れの一日が、ようやく終わろうとしていた。
─了─