独白録
覚書 ――あるいは、主の告解
「下郎と呼んだ日」
あの男を初めて見た日のことを、忘れたことはない。
宇宙新暦1034年。管区の収容施設で、脳を改造されたばかりの肉塊が転がされてきた。銀行強盗の末に重傷を負い、応急処置として
不老のキメラに改造された。
―――という書類が添えられていた。名前はヴィニス・ベオトール。ロフィルナ人。劣等種族。犯罪歴多数。社会的価値なし。
私は二十二歳だった。
司法監視官としての任務は、こうした者たちを管理し、社会に再投入することだった。
再投入、というのは聞こえの良い言い方で、実態は使い潰すことだ。
星間機構の論理においては、劣等種族の肉体は消耗品だった。
修繕して動く限りは使い、動かなくなったら廃棄する。家畜以下の扱いだった。
家畜には少なくとも飼料を与える合理性がある。私たちには、それすらなかった。
あの男が床に這いつくばり、私の軍靴を見上げた時―――私が最初に感じたのは、軽蔑ではなかった。
既視感だ。
あの目を、私は知っていた。殺してくれと懇願しているのか、生かしてくれと乞うているのか、本人にすら分かっていない目。二年前の冬、私自身が鏡の中で見た目だった。
私は彼を「下郎」と呼んだ。
なぜそう呼んだのか。監視官としての立場が、それを要求した。
ツォルマリア人の上官が背後にいた。
劣等種族の同胞に対して情を見せれば、私自身が処分の対象になる。だから、声の温度を凍らせ、あの男の人間性を否定する言葉を吐いた。
だが、それだけではなかった。
あの男の惨めさが、私自身の惨めさを映していたことが、耐えられなかったのだ。
同じロフィルナ人。同じ被支配者。同じ劣等種族。あの男が這いつくばる姿を見て、私は――私自身を「下郎」と罵倒していたのかもしれない。
私も、忘れていない。
「売られた朝」
宇宙新暦1205年。ジェルビア山中を越え、レシェドルティに辿り着いた朝のことだ。
私と
ヴィニスは、共犯だった。管区の施設からあの男を連れ出し、追手を振り切り、山中を何日も歩いた。途中で一度、あの男の企みを見破り、脅して首輪を掛け直している。彼は私を利用し、私は彼を利用した。対等な取引だったと、少なくとも、私はそう信じていた。
レシェドルティで独立派と接触した時、ヴィニスは私を「手土産」として差し出した。
「地獄へようこそ」
あの言葉を聞いた時、私は怒鳴った。ええ、声を限りに怒鳴りもした。けれども、怒声の底にあったのは、ああ、やはり、という確認だった。
人を信じてはいけないという教訓を、私は二十歳で既に学んでいたはずだった。
それなのに、山中を共に歩く間に、ほんの僅かでも、この男を信じかけていた自分がいた。その甘さに対する自己嫌悪が、何よりも堪えた。
あの男を恨んだか、と問われるなら―――恨んだ。
けれども、私の恨みは、ヴィニスに対するものだけではなかった。あの状況を作り出した全てに向いていた。
星間文明統一機構。
ツォルマリアの支配。レジスタンスの内部抗争。弱者が弱者を売り渡すしかない構造そのもの。
飢えた犬が、自分より弱い犬を噛む。それを犬の悪意と呼ぶのは、正確ではない。
とはいえ―――あの朝の屈辱を忘れたことは、一度もない。忘れることと、赦すことは、別の話だ。
「最下層にて」
移民船団の最下層に放り込まれた時のことを、多くの人間は悲劇として語りたがる。私は、そう語るつもりはない。
確かに環境は劣悪だった。食料は僅か。衛生状態は最悪。荒くれ者たちが支配する無法地帯。だが、私にとって、あの場所は学校だった。
星間機構の支配下では、私は常に「監視される側」だった。
たとえ監視官という肩書きを与えられていても、ロフィルナ人であるという事実は変わらない。いつでも処分できる存在として、首輪をつけられていた。
最下層で、その首輪が外れた。
もちろん、別の種類のものがつけられた。弱者としての枷だ。だが、星間機構のそれと違い、これは自分の力で外せる。力さえあれば。知恵さえあれば。人の心を掴む術さえあれば。
私は、階層を一つずつ登った。
誰かに助けられたのではない。自分の足で。自分の言葉で。自分の目で人を見極め、取り込み、あるいは排除しながら。この過程で私が学んだのは、人間の本性ではなく―――人間の可塑性だった。
ヴィニスは船底で、人間の本性は獣だと学んだのだという。飢えれば同胞の肉を喰らう、と。
私の見解は異なる。
飢えた人間が同胞を喰らうのは、本性ではなく、環境の産物だ。環境を変えれば行動は変わる。仕組みを整えれば、人は獣にならずに済む。
彼は、人を信じないから仕組みを作った。
私は、人を信じたいから仕組みを作った。
「観察者の席」
ルドラスの寵愛を得て以降、私は権力の中枢に近い場所に座ることになった。
そこから、ヴァンス・フリートン―――ヴィニス・ベオトールという男を観察し続けた。
彼が初代大統領として出世していく過程を。宗教弾圧を断行する姿を。
ゾレイモスとの神経戦を。
財閥の利権に手を突っ込み、支持基盤を固めていく手腕を。全てを、私は見ていた。
見ていて思ったのは、あの男は有能だということだ。
これは皮肉ではない。純粋な評価として述べている。『
ヴァンス・フリートン』は、政治家として非凡な才能を持っていた。
情勢を読む目。人を動かす弁舌。危機を嗅ぎ取る嗅覚。追い詰められた時のしぶとさ。どれも一流だった。
だが、あの男には決定的に欠けているものがあった。自分が何のために権力を握っているのか、分かっていなかった。
口では「ロフィルナの解放」だの「苦役からの解放」だのと言っていたが、あれは全て後付けだ。
あの男が権力を求めた本当の理由は、二度と犬に戻りたくなかったから。二度と這いつくばりたくなかったから。二度と、あの留置所の少年に戻りたくなかったから。
それ自体は、理解できる。私自身も似た衝動を抱えていた。
だが、私はその衝動を目的に変えた。あの男は、衝動のまま走り続けた。走ることそのものが目的になった者は、壊す必要のないものまで壊す。
守るべきものを踏み潰す。
エルドラームの粛清が、そうだった。
メレザへの仕打ちが、そうだった。
私が彼を打倒しようと決めたのは、憎悪だけからではない。あの男を放置すれば、いずれ取り返しのつかないものを壊すと確信したからだ。
そして、その確信は正しかった。
「同じ罪の重さ」
けれども―――私の手も、清くはない。
イドゥニア戦域で、私は本国の命令に反して艦隊を撤収させた。反対派の将校を粛清した。あれは二正面作戦を避けるための冷徹な判断だった。
―――と、私自身を含む多くの人間がそう語る。だが、あの判断で死んだ者たちの名前を、私は全て覚えている。
粛清した将校の中に、私の幼馴染がいた。
彼は誠実な軍人だった。本国の命令に従うことが正しいと信じ、撤収を拒んだ。その判断は、彼の立場からすれば正当なものだった。
私には、説得する時間がなかった。……いや、時間ではない。説得しても翻意しないと分かっていたのだ。だから、排除した。
あの夜、私は泣かなかった。泣く権利がないと思ったからだ。自分の手で殺した人間のために涙を流すのは、自己憐憫であって悔恨ではない。
「冷血母公」の異名は、あの頃に生まれた。
私は、その名を受け入れた。自ら望んだわけではない。だが、否定もしなかった。冷血でなければ、あの戦争を生き延びることはできなかった。
冷血でなければ、より多くの部下を失っていた。
ヴァンス・フリートンと私の間に、罪の質的な差はない。人を切り捨て、数字として処理し、大局のために個を犠牲にする―――私もそうした。
差があるとすれば―――私は自分の手が血に塗れていることを直視し続けた。あの男は、長い間、目を逸らしていた。それだけの違いだ。
「冷血」
冷血、と呼ばれて久しい。半分は当たっている。半分は、当たっていないというより、見当違いだ。
当たっている部分―――私は、必要な時に感情を切り離すことができる。二十歳の冬に、その能力は完成した。
弱き少女が、自分の母親を含む一族の死刑執行書に署名する。あの瞬間に、私の中の何かが凍った。以来、解けていない。
見当違いの部分―――凍っているのと、存在しないのは違う。
私には感情がある。怒りも、悲しみも、喜びも。ただ、それらを表に出すことが、多くの場合、許されない立場にいただけだ。
旧世界では、公王の涙は国を揺るがし、女大公の怒りは人を殺した。だから、常に微笑んでいた。微笑みの裏で、何を考えているのかを悟らせなかった。それが、私に課された役割だった。
ヴァンスは私のことを「何を考えているのか解明できない」と言っていた。
当然だ。解明させるつもりがなかったのだから。
だが、一つだけ正直に書いておく。あの男の前でだけ、私の感情は少しだけ制御を外れることがあった。
ムチで叩く時の手応え。使い走りをさせる時の胸の高鳴り。焼きそばの種類を間違えられた時の、理不尽とも知りつつ収まらない苛立ち。
あれらは全て―――演技ではなかった。
あの男の前でだけ、私は自分の醜い部分を隠さずに済む。なぜなら、あの男は私の最も醜い姿を既に知っているからだ。
最下層に売り飛ばされ、這い上がり、政権を潰し、世界を巻き込んだ戦争の果てに停戦を命じた―――その全ての過程で、あの男は私の対面にいた。今更、取り繕う必要がない。
これを親密さと呼ぶのか、憎悪と呼ぶのか、私には分からない。おそらく、どちらでもある。
「帰還の日」
あの日のことを語る前に、一つ訂正しておかなければならない。
私があの戦争で「勝った」と言う者がいるが、それは事実ではない。勝者はいなかった。
メレザのPLコマンドは、全ての当事者を等しく叩き潰した。
私の艦隊も壊滅した。あのスイートクルーザーが行進広場に墜落していく時、私の視界は炎と黒煙に塗りつぶされていた。
満身創痍で降り立った時、私の身体は、ほとんど動かなかった。それでも全軍に停戦を命じたのは、あれ以上の死を許容できなかったからだ。
グラウストラ元帥を峰打ちで黙らせた時、私の腕はひどく震えていた。
帰還した時のことを覚えている。群衆が歓声を上げていた。英雄の帰還、と呼ばれた。私は英雄ではない。ただ、最後まで立っていただけだ。
そして、あの声明を出した。
「ロフィルナ政府の名のもとに実行された、すべての犯罪行為の責任は連邦共同体の長たるわたくしに帰属するものです」
あの言葉を、多くの人間が「寛大さ」として受け取った。ヴァンスの罪を肩代わりする崇高な行為だ、と。
違う。
あれは寛大さではない。支配だ。
私があの男の罪を引き受けることで、あの男は私に対して永遠の負債を負う。返済のしようのない負債を。
政治的にも、人間的にも、あの男は私から逃れられなくなる。自分の罪を自分で背負うほうが、遥かに楽だ。他人に背負われるほうが、遥かに重い。私は、それを知っていた。
知った上で、やった。
支配と呼ばれるのなら、甘んじて受けよう。
だが―――。
あの声明を読み上げている時、私の声が震えなかったと思うだろうか。原稿を握る手が汗ばんでいなかったと。
「何も心配する必要などないのですよ」という一文を口にした時、私の喉の奥で何かがつかえなかったと。
支配だった。同時に、それだけではなかった。
あの男を―――
ヴィニス・ベオトールを―――この世界から消したくなかった。消えてほしくなかった。
それが何故なのか、あの時の私自身にも分からなかった。憎んでいた。軽蔑していた。あの男のせいで、私は最下層に落とされた。娘を手放さざるを得なくなった。
あの男が今も口を閉ざしている、もう一つの件については、この覚書にも書かずにおく。
それなのに。
あの男がいなくなった世界を想像した時、私の胸の奥で、何かが拒否した。
「娘を差し出した母」
辛い、と私が口にすることは滅多にない。けれども、この覚書においてだけは、自分に嘘をつかないことに決めている。だから書く。
政略結婚だった。世俗主義を掲げる夫が決めた縁談で、私は反対した。だが、止められなかった。止められなかった以上、私が差し出したのと変わらない。差し出した、という言葉は正確だ。
贈ったのではない。託したのでもない。犠牲にしたのだ。
あの日、ヨバンナの目を見ることができなかった。
私は冷血母公と呼ばれる。人の弱みに付け込むことに長けていると言われる。政敵を引退に追い込む女だと言われる。
その私が、嫁ぐ日の娘の目を見ることができなかった。
ヨバンナは何も言わなかった。泣きもしなかった。ただ、静かに頷いた。その沈黙が、どんな罵倒よりも痛かった。
あの子は、私に似ていた。
自分の感情を殺して義務を受け入れる強さを持っていた。その強さを、私が強いた。
母親として、これ以上の罪があるだろうか。
数世紀の間、私はヨバンナに合わせる顔がなかった。逃げていた。人を追い詰める側に立ち続けた私が、自分の娘から逃げていた。
再会した時のことは―――書けない。あの瞬間のことは、私だけのものだ。
ただ、一つだけ書いておく。ヨバンナがイドルナートの一節を紡いだ時、私は―――
泣いた。
愛した者を自分の手で傷つけて流した涙としては、二度目だった。一度目は、二十歳の冬。二度目が、あの日。
三度目は……
冷血母公が、自分の手で傷つけた者のために泣いたのは、三度きりだ。そして、その三度とも、相手は自分が愛した人間だった。
「犬の飼い主として」
旧世界で、あの男を下僕として使い走りにしてきたことについて、世間は様々な解釈をした。復讐。嗜虐。権力の誇示。支配欲の発露。どれも間違いではない。だが、どれも正確ではない。
私があの男を手元に置いてきた理由は―――あの男を、見失いたくなかったからだ。
ヴァンス・フリートンは、放っておくと壊れる。自分自身を。周囲の人間を。国を。世界を。あの男の中には、管区学校で殴られていた少年がまだ生きている。船底で残飯を貪っていた男がまだ蹲っている。
その少年が、その男が、飢えと恐怖に駆られて暴走する。権力という道具を手に入れた分だけ、暴走の規模は途方もなく大きくなる。
だから、繋いだ。
使い走りも、茶会の招待状も、全てはそのための紐だった。あの男に「お前は私の目の届く場所にいるのだ」と思い知らせるための。
……そう書くと、いかにも合理的に聞こえるだろう。だが、嘘をつくつもりはない。
あの男を支配することに、私は快感を覚えてきた。最下層に売り飛ばされた恨みが、長い時を経てもなお燻っている部分が、あの男の狼狽える顔を見て満たされる。それは事実だ。
だが、それだけでもない。
あの男が
焼きそばパンを持って駆けてくる姿を見るたびに―――あの不器用な走り方。
必死に至高の一品を探し回った形跡。私の好みを分析しようとした努力の痕跡。
それらを目にすると、私の胸の奥で、凍っていた何かが僅かに緩んだ。あれが何なのか、私には名前をつけることができなかった。愛情と呼ぶには歪みすぎている。友情と呼ぶには血が流れすぎている。信頼と呼ぶには、互いに裏切りすぎている。
私の中にあの男が根を張っているように、おそらく、あの男の中にも私が巣食っている。引き抜こうとすれば、互いの一部が一緒に剥がれる。
だから、放っておいた。
「あの男が読んでいる本のこと」
ヴァンスが、今も哲学書を読み続けているという報告を受けた。
大統領の椅子に戻ってから読み始めたと最初に聞いた時、私は笑ったものだ。管区学校を中退し、船底で残飯を漁っていた男が、哲学書を。どうせ演説の飾りを探しているのだろうと思っていた。独裁を敷いていた頃のあの男は、哲学を弱者の逃避と信じ、言葉を権力の包装紙としか見ていなかったのだから。
読み方が変わったのは、レシェドルトで独裁を完成させ、自ら手放した後からだ。
以前は付箋を貼るばかりだった頁に、書き込みが増えたのだという。反論を書いては線で消し、消した上からまた書く。結論を記す余白だけが、いつまでも空いたままになっている。あの男が、答えを急がずに考え続けている。
ゆっくりと。ほんの少しずつ。砂浜の石が波に洗われるように。航海に出てから、その変化は加速した。食堂で顔を合わせた時に、会釈をするようになった。
それだけのことだが―――あの男にとって、それがどれほどの変化であるか、私には分かる。
かつて、あの男にとって私は「
歩く災害」だった。恐怖の対象。屈辱の根源。全てを奪った女。
今のあの男の目に、私はどう映っているのだろう。
空いたままの余白に、あの男は何を書こうとしているのか。黙々と頁を繰るあの姿を、私は―――知りたいと思う。知りたいと思ってしまう。
それは支配欲ではない。もっと脆い、もっと人間的な何かだ。
「解けたもの」
冷血の項に、私は書いた。二十歳の冬に凍ったものは、以来、解けていない、と。
訂正しなければならない。この覚書で自分に嘘をつかないと決めた以上、自分の書いた一行にも例外は認めない。
解けている。いつからかは、分からない。
分からないことが、私には何より堪える。最下層で、私は人間の可塑性を学んだと書いた。環境が変われば人は変わる。仕組みを整えれば、人は獣にならずに済む。そう説いてきた私が、自分だけは例外だと思っていた。凍ったものは凍ったまま、仕組みの外側に置いておけると。
逃げ場のない星に何世紀も閉じ込められれば、人は変わる。私も、変わった。自分の学説の正しさを、自分の身体で証明する羽目になるとは思わなかった。
発端を探して、記憶を何度も遡った。
焼きそばパンを抱えて駆けてくる姿か。帰還の日に、喉の奥でつかえた何かか。それとも、もっと前の、管区の床から私を見上げたあの目か。どれもそうだと思えるし、どれも違うと思える。法廷なら、証拠不十分で差し戻す案件だ。
一つだけ、確かなことがある。
私は長い間、あの男への判決を書かずにきた。書けば、刑は執行されなければならない。執行されれば、あの男はこの世界から消えるか、少なくとも私の目の届く場所から消える。だから書かなかった。公正を追い求めると言いながら、私は最も重い一件の判決を、自分の都合で手元に留めてきた。
裁く者が被告に情を移したなら、その者は審理から外れなければならない。裁きの初歩だ。私は、それを知っている。知っていながら、席を立たない。
これを恋と呼ぶのなら、私の恋は、法を曲げるところから芽を出している。
矛盾している。認める。公正を生涯の目的に掲げた女が、公正の最初の条文を破り続けている。けれども、矛盾を抱えたまま座り続けることにかけては、私は誰よりも年季が入っている。
あの男がレシェドルトの椅子を降りたと聞いた日、私は報告書を三度読み返した。なぜ三度だったのか、私はまだ説明できない。説明できないことを、ここに書き留めておく。いつか読み返した私が、答えを知っているかもしれないから。
「公正の在処」
最後に、一つだけ書き残す。私は、善い人間ではない。
善い人間であったことは一度もない。最下層から這い上がるために人を踏みつけた。戦場で将校を粛清した。
娘を政略結婚から守れなかった。
焼きそばの種類を間違えられただけで、政権を交代させた。あの男の罪を引き受けることで、永遠の負債を背負わせた。
それらの全てを、私は自覚してやった。やむを得なかったと弁解することもできる。だが、やむを得なかったからといって、傷つけた人間の痛みが消えるわけではない。
この思想の価値は、救われなかった側からしか測れない―――
共立主義の根幹にある、あの言葉を私は信じている。ならば、私の人生の価値もまた、私に傷つけられた者たちからしか測れない。
ヨバンナ。
メレザ。粛清した将校たち。最下層で踏み台にした者たち。ロフィルナの戦火に巻き込まれた民。
彼らの声を、私は聞かなければならない。聞いた上で、なお、この席に座り続けなければならない。それが、指導者たるものの重荷だ。
私は、聞いてほしいとは思わない。
だが、書き残しておかなければならないとは思う。なぜなら、私が沈黙を守れば、私の罪もまた沈黙の中に埋もれるからだ。冷血母公の微笑みの裏に何があったのか。誰も知らないまま、歴史の頁が閉じられる。
それは―――公正ではない。
私が生涯をかけて追い求めたのは、公正さだった。完全な公正など存在しないことは知っている。
だが、不完全であっても、公正であろうとする姿勢を放棄してはならない。
それが、私が
ヴァンスに―――あの不器用で、卑怯で、狡猾で、しぶとくて、どうしようもなく人間的な男に―――最も伝えたかったことだ。
あの男は自らを犬と称する。私はその犬の飼い主を自任してきた。
だが、本当のところは―――私たちは、互いの紐を握り合っているだけなのかもしれない。どちらが飼い主で、どちらが犬なのか。
その答えは、まだ出ていない。
共立公暦2300年代 冬 場所は伏せる。
アリウス
追記「お茶会の支度」
届いた頃には、あの男は例によって顔色を変え、逃げ出す算段を始めるだろう。公務の予定を捏造し、存在しない点検の立ち会いを急遽でっち上げ、公国の回廊という回廊に逃げ道を探すに違いない。
無駄なことを。
今回のクッキーは、あの男が昔―――まだヴィニス・ベオトールと名乗っていた頃―――管区学校の近くの露店で一度だけ口にしたことがあるという、安物の焼き菓子を再現させたものだ。レシピを突き止めるのに、ずいぶんと時間がかかった。
あの男が、どんな顔をするか。……ふふ。たのしみね。
最終更新:2026年04月24日 22:48