| 生年月日 |
宇宙新暦1012年8月19日 |
| 年齢 |
74アストラ歳(星年齢) 共立公暦3500年時点. |
| 出生地 |
星間文明統一機構 ロフィルナ行政管理区 |
| 人種 |
ハーフロフィルナ |
| 所属組織 |
フォレニア公国 |
| 主な階級 |
フェルフィア公爵 法務卿 スカラフィア統治代行 |
| 称号(新世界) |
名誉元首
中央公爵
先代公王格 |
| 異名 |
蒼潮華公(新世界) 海の貴婦人(公国内) 冷血母公(旧世界) |
概要
自己紹介
あら、お客さん?いいところにいらしたわね。私は、アリウス・グラン・フェルフィア。海の向こうに広がるスカラフィアを預かっている者よ。……ああ、堅苦しい話はやめましょう。ここでは公爵も法務卿も関係ないの。波の音と潮風があれば、それだけで十分。私は貴方とお喋りがしたいだけなんだから。昔はね、わたくしの名を聞いただけで逃げ出す人が山ほどいたのよ?信じられる?……ふふ、信じなくていいわ。今の私は、ただの海辺好きのおばさんみたいなものだもの。お茶でもいかが?ミルズニアの運河沿いに、とびっきりの茶葉を仕入れてくれる船乗りがいてね。彼の淹れ方がまた絶品なの。……警戒しないで。毒なんて入ってないわよ。多分。ふふっ。ねぇ、貴方の話を聞かせて?来た理由でも、好きな食べ物の話でも、何でもいい。私ね、昔は人の弱みに付け込むのが得意だったんだけど、今はね、人の話を聞くのが好きになったの。……弱みが見つかったら?さあ、どうかしら。試してみる?
来歴
旧世界の玉座を退いたアリウスは、四百年を超える航海を経て、新天地の大洋惑星を預かる公爵となった。
移住の決断
アリウスは、
ロフィルナ連邦共同体の公王として長く玉座を守り続けた。
第三次ロフィルナ革命が共同体の枠組みを崩した後も、四散した国々の間に立って秩序の繋ぎ直しに奔走し、共立公暦1045年に
ジェルビア連邦共同体が発足した折には、公王位に
リティーアを推挙している。旧友の
トローネは、
後期連合帝国の内政が移行期を迎えた頃に統治の第一線を退き、
宮殿惑星へ移り住んだ。旧友から届いた招きに応じた顔ぶれは少数に限られ、アリウスも、その一人として新天地への移住を決めている。旧世界の公的地位を正式に手放したのは、旅立ちに際してロフィルナ圏の指導的地位をリティーアに委ねた時であった。同1850年、一行を乗せた宮殿惑星はCP3星団を目指して旧世界を離れる。数千年分の公務から解き放たれて旅立つアリウスの荷物は、半分を茶器が占めていたという。
長き航海
宮殿惑星がCP3星団に辿り着くまでの航行は、約450年に及んだ。逃げ場のない一つの惑星で暮らす歳月は、旧世界で刃を交えた者同士の距離を、本人たちの意向と無関係に詰めていく。アリウスにとっても事情は同じで、かつて政権ごと吹き飛ばした
男と朝の廊下ですれ違う日々が、何世紀も続いた。航路の途上では、遠隔の器に宿った新しい人格が自我に目覚める出来事も起きており、
フランを名乗った同行者を、アリウスは早くから茶の席に招いている。恋心の芽生えた時期について、本人の証言は聞くたびに変わる。航海の半ばであったと語る日もあれば、旧世界の頃から決まっていたと言い張る日もあり、側近の記録は複数の説を併記したまま閉じられた。最初に異変を察したのは、本人に先んじて、宮殿惑星の給仕係であったとされる。あの男の茶にだけ砂糖が一つ多く添えられ始めた日付が、給仕長の日誌に赤字で記されている。
水都の礎
アリウスが大洋の惑星スカラフィアの開発を任されたのは、一行が新天地へ到達した同2300年である。唯一の大陸に行政首都ミルズニアを築き、運河を巡らせた水の都の設計図に、自ら何度も筆を入れた。同2310年の建国宣言とともにフェルフィア家を興し、法務卿として公国の法体系の起草を主導している。旧世界で
ロフィルナ王国の司法人事を握り、
連邦共同体の法制度を隅々まで見てきたアリウスにとって、白紙から法を組む作業は久方ぶりの大仕事であった。起草の過程では、婚姻と家族に関わる章の下書きだけが、他の章の三倍に膨らんだと伝えられる。担当官が削った分は、本人の手で毎晩書き足された。鎖国の続いた500年の間には、島嶼を結ぶ海運の整備と沿岸の都市建設を一手に引き受けている。建国当初から惑星に置かれた
共立銀河連邦の平和維持軍とは、フェルフィア家を窓口として連絡を取り合い、同2810年の開国を迎えた後も同じ務めを続けてきた。
人物
公国のアリウスを旧世界の頃の姿で思い描いて訪ねた客は、たいてい最初の五分で予想を裏切られる。
気性の変化
人の弱みを見抜く眼力と、場を掌握したがる支配欲は、公国でも健在である。変わったのは、力の使い道と動き出す速さであった。旧世界では計算を尽くした末に人を転がしていた女が、今では思い立った瞬間に海を渡り、用件を片付けてから理由を考える。本、人いわく「元気になっただけ」とのことだが、側近の見解は「尖った」の一語に集約される。品の良さは変わらず備えており、公式の場では物腰穏やかな振る舞いを保っている。ところが、くだけた口調が顔を出す瞬間は以前に増して頻繁に、しかも唐突に訪れるようになり、旧世界から仕える側近たちは、公爵の語尾が崩れるたびに胸を押さえている。なお、美意識への執着は旧世界時代を遥かに上回る水準に達しており、スカラフィアの海洋性気候が肌に良いという理由だけで統治代行の任を喜んで引き受けた疑惑がある。本人は否定している。側近は信じていない。()
狂おしき恋
公国に移ったアリウスの情熱は、その大半が一人の男に注がれている。相手は聖貴族会の
議長であり、旧世界で散々に転がした元下僕であり、実の娘の夫でもある。続柄を並べただけで周囲が頭を抱える恋を、本人は誰にも気づかれていないと信じ切っている。実際には、公国の誰もが知っている。恋の作法は旧世界で磨いた支配の技と地続きで、議長の公務日程はなぜか法務卿の机にも写しが届き、議長の好物は、議長自身が自覚する前に公爵の厨房へ伝わっている。議事録の誤字に毎回苦言を呈する一方で、誤字の入った頁だけを抜き取り、暗号の恋文として私室の箱に収めている一件は、側近の間でも扱いに困る秘密とされた。箱は既に七つ目に入っている。娘の夫を好きになってはならぬという条文は、少なくとも公国の法には見当たらない。法を作った当人が、そう言い張っているのである。
未決の判決
亡き夫
ルドラス・エルクの謀殺について、アリウスは数千年にわたり、判決を宣告の手前で留め置いてきた。下手人の名を胸に伏せた
男の見当は、旧世界の頃から付いていたらしい。筆頭公爵の座に就いた時点で、公爵の手元には男を裁く手立てが揃っていた。それでも選び取ったのは、刑の執行を無期限に猶予し、男を下僕として生かし続ける道である。罰は相手が息をしている間に限って続き、猶予が延びた分だけ、二人の縁も長く伸びていった。法務卿となった今、公爵は古い事件に新しい法理を当てている。夫の席を空けた者は、空いた席を埋める責めを負う。
焼きそばパンも首輪も利息の取り立てにあたり、利息を払い終えた男に残る債務は元本、つまり夫の席そのものだという。債務者が実の娘の夫を兼ねるため、回収は家庭の内側で片付く。宿敵の
第一夫人の知る範囲の外にある真相を、握っているのは男一人である。生前は常に第一夫人と分け合ってきた夫が、持ち主ごと手に入れれば、初めて余さず自分のものになる。判決文の余白には、本人の自覚の外にある一行も残っている。退く機会を奪われた夫に代わり、自ら椅子を降りてみせた男を、公爵は航海の甲板から長い間眺めていた。
沸点の行方
怒りの沸点の読めなさは、旧世界の頃のまま引き継がれた。スカラフィアの漁師に塩水を浴びせられて大笑いしたかと思えば、公国の式典で議長の隣席に別の女性が座っただけで、聖貴族会の空気が一斉に凍りつく。恋が絡むと、怒りの表れ方まで変わった。旧世界の頃は無言と無表情で相手を追い詰めていた女が、公国では上目遣いの「お気持ち」を常用するようになり、潤んだ瞳で詰め寄られた者は、叱責を受けた時の三倍は消耗するという。もはや天災の一種であり、家の当主たちも長い付き合いの中で、慣れ半分、諦め半分の境地に達しつつある。議長に向かう怒りだけは甘い香りを帯びて届くため、受け止める側の対処法は今も手探りの段階にある。もっとも、矛先が議長以外の誰かに向く場面は、近年めっきり減った。四家の当主が胸を撫で下ろす傍らで、議長の胃だけは、旧世界の頃とは別の理由で焼かれ続けている。
人間関係
公国に移ったアリウスの縁は、星団の向こうから届く家族の便りと、聖貴族会の同輩たちとの騒がしい付き合いに大きく分かれる。
家族
実の娘にして、想い人の妻。続柄を二つ並べただけで修羅場が完成する間柄を、娘の側は笑い一つで受け流してきた。旧暦に政略の名のもとで嫁がせた負い目を抱えたまま、アリウスは長い歳月をかけて娘との距離を縮めており、公国での母娘は穏やかな部類に落ち着いている。もっとも、母が娘婿に恋をした今となっては、穏やかさの中身がだいぶ変わった。スヴェリナを訪ねるたびに母は娘の家の食卓へ招かれ、娘は
夫の隣の席を毎回きちんと母に譲る。譲られた席で母が頬を染め、夫が硬直する光景を、娘は自分で淹れた茶を啜りながら眺めているという。夫の胃を鍛えるのにちょうどよい、とは、困惑する侍女たちへ向けた娘の説明である。母の側も、娘の度量にだけは頭が上がらない。夫を返す刻限を夕食の前に定めたのは娘であり、刻限を一度破った母は、翌月の招待状を一通減らされて海辺で一週間ほど拗ねていた。
宿敵の娘として書類に記された公王を、アリウスは書類の外側で自分の娘と決めている。二つの答えを抱えたまま、母を名乗る側の態度は一貫している。旅立ちに際して
ロフィルナ圏の行く末を託した相手であり、星団をまたぐ距離が開いた今も、長距離通信の書簡は月ごとに行き来している。近年の書簡は、半分以上が恋の報告で埋まっている。議長が自分の淹れた茶を何口で飲み干したか、今朝の寝癖が何本跳ねていたかといった報告が、便箋の裏まで細字で続く。受け取る公王は、統治の合間に一枚ずつ目を通し、返書の末尾に「お身体を大切に」とだけ書き添えて送り返す。母はこの一行を、娘からの声援と受け取って小躍りした。公王の側近の見立ては、心配の表明である。それでも、公女の頃から失点を拭ってもらった恩を、公王は今も胸に刻んでいる。届いた書簡の束は年ごとに綴じて保管され、綴じた束の厚みは、ここ数世紀で三倍に増えた。
父と継母の間に生まれた異母妹との縁は、最初から書簡の上に結ばれてきた。誕生の報せが届いたのは、宮殿惑星が旧世界から遠ざかる航路の途上であったとされ、姉は返信の便箋に十数枚を費やして祝いの言葉を書き連ねている。以来、姉妹の交流は長距離通信の往復に限られてきた。妹の便りは几帳面な書式で整えられ、用件を先に置き、近況を後に回す順序を毎回きっちり守る。姉の便りには、書式の欄を飛び越えて
議長への恋文の下書きが紛れ込む。妹は紛れ込んだ下書きを丁寧に清書し直し、誤記の指摘を添えて送り返してくる。姉は清書を恋文の手本として額に入れた。呼び方を巡る攻防も続いており、姉は「お姉様」の四文字を求める旨を毎回の追伸に記す。妹の返書は「姉上様」の宛名で揃えられ、文面は最後まで丁寧語で貫かれている。この距離感を、姉は照れの表れと解釈して押し通している。
公務を退いた父に宛てて、アリウスは航海の頃から季節ごとに便りを送り続けている。便りの用件は、近年ほぼ一つに絞られた。古文書の収集に余生を傾ける父へ、旧い王家に伝わる求愛の作法を調べてほしいという依頼である。父は娘の頼みに律儀に応じ、写本の抜き書きを添えた報告書を星団の向こうへ送り届けてきた。抜き書きの中身は、花を贈る季節の決まりに始まり、恋文に用いる紙の厚みにまで及ぶ。娘は報告書を残らず実地で試し、
議長の執務室には、時代も流儀も異なる求愛の品が層をなして積み上がった。孫娘の夫に向けた恋であることを、父は承知のうえで手を貸している。手を貸す理由を尋ねた侍従に、父は茶を一口含んでから、古文書が実地で役に立つ機会は貴重だと答えたという。報告書の最終頁には、毎回、娘の体調を案じる一行が小さな字で添えられている。
継母の筆跡は、星団の向こうから届く書簡の中でもひときわ角張っている。槍の稽古で鍛えた指が書く文字は、紙を突き破りかねない勢いで連なり、アリウスは封を切る前から差出人を言い当てられるという。娘が恋の相談を持ちかけた際、継母が寄越した返書は、男を落とす策の代わりに
議長の鍛錬計画を三十頁にわたって記したものであった。冒頭には、添うなら足腰の据わった男にせよ、との一文が掲げられている。アリウスは計画書を恭しく押し戴き、翌朝から議長の公務の合間に槍の素振りを組み込ませた。議長が逃げ回る経路まで計画書の付録に図示されていた点には、継母の旧い経験が生かされていると見られる。異母妹の母でもある継母とは、妹の近況を巡る情報交換も続けている。二人の書簡で妹の話題が占める割合は、議長の話題を一度も上回ったことがない。
保護を求めて近づき、寵愛を勝ち取って第二夫人に収まった日々から、公爵と亡き夫との縁は数千年の時を隔てている。夫の好んだ銘柄の茶葉を詰めた缶は、荷の半分を占めた茶器に紛れて新天地に渡り、今はミルズニアの公爵邸で書斎の窓辺に据えられている。旧世界の茶会で卓に並べ続けた頃と同じく、蓋は長らく閉じられたままであった。命日を平日の公務で埋める習いも、航海を経て持ち込まれている。変わったのは、夫の思い出の扱い方である。旧世界では胸の奥深くに仕舞い込んでいた記憶を、公爵は近頃、侍女に髪を梳かせる朝に限って少しずつ語るようになった。語られる夫は決まって茶を淹れる場面に現れ、淹れ方の癖が一つ明かされるたびに、侍女の手は櫛を止める。もっとも、語りの結びは毎回、
議長の淹れる茶の拙さへの愚痴に流れていく。蓋が初めて開けられた日、窓辺の埃を払った侍女は、缶の正面がスヴェリナの方角へ少しだけ回されていることに気づいた。
亡き夫を巡って長く睨み合った第一夫人は、星団を隔てた今もアリウスの便りの宛先に名を連ねている。旧世界を離れる前の二人は、罵声の応酬を挨拶代わりにする間柄であった。公国に移ったアリウスは便りの中で、新しい恋の顛末を事細かに書き綴る。亡き夫を同じく愛した宿敵に、別の男への恋心を報告する行為の意味については、側近の解釈が今も割れたままである。本人に言わせれば、宿敵には近況を正直に伝えるのが礼儀なのだという。返書の有無について、公爵邸の侍従は固く口を閉ざしている。ただ、旧世界からの便りが届いた日に限り、アリウスは海辺で一人、珍しく長い時間をかけて手紙を読み返す。読み終えた顔は、怒りとも喜びともつかない微妙な色を帯びている。手紙を畳む指先が折り目を三度なぞる癖も、旧暦の頃のまま残っている。決まって翌日の聖貴族会では、公爵の発言が二割ほど辛辣になるらしい。
旧世界で共同大権を分け合った同輩は、今やアリウスにとって最も頼れる条文の添削係である。法務卿として公国の法体系を預かる身でありながら、アリウスは恋に関わる条文に限り、自分の筆を信用していない。そこで、立法の領分を長く務めた同輩へ、起草した条文の写しを長距離通信で送り付ける習慣が定着した。条文の題目は毎回微妙に変わり、中身は毎回ほぼ同じである。
議長の私的な時間の一部を法務卿の監督下に置くという骨子が、表現を替えて繰り返し送られてくる。同輩の返送は几帳面で、条文の欠陥を一つずつ朱で指摘したうえ、法としての体裁を整えた修正案まで添えられている。修正案が整っているほどアリウスは喜んで聖貴族会に持ち込み、全会一致の原則のもと、議長の一票で否決される。否決の報せを受けた同輩が次の添削に取りかかるまでの間隔は、回を追うごとに短くなっているという。
旧暦の戦場で刃を交え、和解の後は家族の列に加わった相手が、今では恋敵の筆頭に座っている。
議長が旧世界の頃から最も気に入っていた愛人であることは、アリウスも昔から承知していた。承知していた事実が、恋心の芽生えとともに急に重みを増した。重みに気づいた日の夜、公爵邸の書斎では便箋が一冊まるごと消費された。以来、星団をまたぐ嫉妬の書簡が続いている。文面は終始丁寧な敬語で綴られ、議長の好物から寝起きの癖、靴下を履く順序まで、相手の知識の深さを探る問いが延々と並ぶ。好色を堂々と公言する女大公の返書は軽やかで、問いの半分に正直に答え、残る半分には意味深な空白を残して送り返してくる。空白を読んだ日に限り、アリウスがスカラフィアの沖で泳ぐ距離は倍に伸びる。それでも、恋敵である前に家族であるという一線を、二人とも律儀に守ってきた。相手の健康を祈る一行が、どの書簡でも結びの位置を占めている。
想い人
かつては政敵、長らく下僕、そして公国に移ってからは想い人。アリウスがこの男へ向ける呼び名は、時代ごとに一段ずつ甘く傾いてきた。旧世界の頃に積み上げた仕打ちの数々を、本人は恋の前振りであったと解釈し直しており、聞かされた側は反論の糸口を探すうちに日が暮れる。恋の引き金について、アリウスは問われるたびに違う答えを返す。茶を淹れる手つきを挙げる日もあれば、逃げ足の速さを挙げる日もあり、答えの候補は今では二十を超えた。恋の表現は支配の延長線上に組み立てられ、会議の休憩時間には、上目遣いの「お気持ち」が男の耳元に囁かれる。旧世界の頃と違うのは、囁かれる中身が叱責から愛の告白に変わった点である。中身が変わっても、男の胃が焼ける速さは昔のままだった。男の側は、とぼけ通すことで身を守ってきた。とぼけている事実まで見抜かれていることも承知しており、両者の駆け引きは数世紀にわたって膠着している。妻であるヨバンナの微笑みを背に、男は今日もリムグラフトの執務室の扉に鍵を二つ掛ける。合鍵の一本は、なぜか既にミルズニアにある。
交友
公国の玉座に就く公王は、アリウスが幼い皇女の頃から見守ってきた相手である。宮廷で通用する主従の肩書きと二人だけの呼び名が、この関係には今も重なって置かれている。アリウスは公の場で主君への礼を完璧に守り、
宮殿惑星の私室に入った途端に「トロちゃん」と呼び方を切り替える。切り替えの瞬間を目撃した新任の侍従は、例外なく二度見する。公王の側も、恋に狂った臣下の扱いには慣れたもので、相談を持ちかけられるたびにクッションへ沈みながら最後まで聞き届ける。聞き届けた末に下される裁定は、たいてい面白い方へ転ぶ。公国の行事で
議長の席をアリウスの隣に据える采配も、公王の発案とされる。席次表を受け取った議長の顔色を報告させ、報告書を枕元で読み返すのが、近年の公王の楽しみの一つらしい。それでも、臣下が祝福として預けた力の重さを、公王は誰より重く受け止めてきた。恋の勅命を求められた日にだけ、公王は寝返りを打って背を向ける。
カルヴァーチの山小屋に、アリウスは季節ごとに海の幸を担いで登ってくる。迎える隠居は、旧世界の交渉の卓で向かい合った頃から、この年長者の前に出ると肩に力が入る癖を抱えたままである。もっとも、公国での緊張には別の理由が一つ加わった。
議長に育てられた過去を持つ隠居を、アリウスは「将来の義理の娘」と呼び始めた。呼ばれた側は、湯呑みを持つ手を止めたまま、続柄の計算に暫く沈み込む。古い記憶を少しずつ手放していく身の上にありながら、山小屋で聞かされる恋の話だけは、なぜか鮮明に頭に残るのだという。忘れたい話ほど覚えている、と隠居は弟子に零したことがある。アリウスの側は、隠居の記憶が薄れゆく事情を承知のうえで、昔話を語る日には必ず同じ菓子を持参している。毎回の菓子が同じであることに、隠居が気づいているかどうかは本人の胸の内にある。山小屋の戸棚には、包み紙だけが一枚ずつ丁寧に畳まれて積み重なっていく。
山岳の惑星で実務を切り回す働き者と、アリウスは開拓の時代から言葉を交わしてきた。遠慮のない物言いを早くから気に入り、聖貴族会の席上でも折に触れて働きぶりを褒めている。均衡が崩れたのは、首相が幼い日に
議長の言葉に憧れて政治を志した過去を、アリウスが知った日である。以来、アリウスは首相を恋敵の候補に数え、茶会のたびに議長への感情を遠回しに探るようになった。探られた側は、叱られる気配を嗅ぎ取って目を輝かせる。叱られるほど元気になる質の持ち主にとって、嫉妬に燃える公爵の眼差しは、待ち望んだ極上の娯楽にほかならない。わざと議長の話題を振り、わざと褒め言葉を並べ、ついに上目遣いの「お気持ち」を引き出した日、首相は帰りの船の中で同じ話を何度も繰り返したという。公爵の側も首相の嗜好を見抜いており、近頃は嫉妬を顔に出す回数を意識して絞り始めた。絞られた分だけ首相の挑発は過激になり、聖貴族会の書記は議事録の行間に頭を抱えている。
航海の途上、遠隔の器の内側で目覚めた新しい人格に、最初の茶を淹れた一人がアリウスであった。旧世界で茶会を重ねた相手の分身という縁はあったものの、二人の付き合いは、そこから改めて積み上げられている。早口で喋り続ける技術卿と、言葉の途中で次の注文を差し込む法務卿の会話は、傍で聞く者の耳を二方向から同時に塞ぐ。注文の中身は、近年ほぼ恋の道具に限られた。
議長の居場所を海の上からでも割り出す装置もあれば、議長が茶を飲み干した瞬間に知らせる茶器もある。技術卿は注文を受けるたびに目を輝かせ、試作品を三日で仕上げては研究棟の階段を駆け下りてくる。完成品の多くは議長の側の妨害装置によって封じられ、技術卿は妨害装置の発注元もスヴェリナであることを、楽しそうに打ち明けた。双方から注文を受けて開発費を二重に取る構図について、技術卿本人は終始上機嫌である。法務卿の側は、二重取りの事実を知ったうえで、次の注文書に追加の予算を書き添えている。
公王の傍らに控える騎士団長は、アリウスにとって主君を共に支える古い同志である。主君の前で砕けた口調を使う公爵と、微動だにせず控える騎士団長の取り合わせは、宮殿惑星の私室で見慣れた光景となっている。言葉数の少ない間柄ながら、主君の安寧を第一に置く一点で、二人の判断は常に同じ方角を向いてきた。その騎士団長が、ただ一度だけ眉を動かしたと伝えられるのが、公爵の恋の相手を知らされた瞬間である。旧世界の謁見の場で散々に煽られた記憶を持つ騎士団長にとって、
議長は今も下郎の棚に分類されたままらしい。公爵が議長の美点を語り始めると、騎士団長は槍の柄に手を添え、表情を固めたまま最後まで聞き届ける。語り終えた公爵が感想を求めても、返ってくるのは主君の予定の確認だけである。公爵は、この沈黙を消極的な応援と受け取ってきた。主君を巻き込む恋の策謀が持ち込まれた場合に限り、騎士団長は無言で宮殿の扉を閉ざす。
旧暦の戦場で、二人は敵将同士として密約を交わした。本国の命令に背いた艦隊の司令と、攻め寄せられた側の総督が戦っているふりを続けた日々を知る者は、今では公国にも数えるほどに減った。かつての共謀相手は、公国でアリウスの騎士団を預かる身となった。志願兵だけで編まれた騎士団の規律は団長の手で保たれ、公爵は団の運営を団長に委ねている。公爵が口を挟むのは、恋に関わる場面に限られる。古い詩歌を愛読する団長の素養を見込み、公爵は
議長に宛てる恋文の推敲を毎月のように持ち込んできた。団長は韻律を整え、語の重複を削り、品位を三段ほど引き上げた清書を返す。清書を読んだ議長が、差出人を疑って騎士団に照会を寄越した一件は、団の内部で今も語り草になっている。スヴェリナへの突撃めいた訪問に護衛として同行する任務も、団長の悩みの種である。旧暦の戦場で培った指揮の腕を恋の行軍の段取りに費やす現状について、団長は詩の一行に託して胸の内を書き留めたという。その一行の中身を、公爵は今も知らされていない。
旧世界の頃、
議長を手錠で連れ戻す役目をアリウスから請け負っていたのが、この騎士団長である。依頼主と請負人の間柄は、公国に移って一転した。スヴェリナの守りを預かる騎士団長にとって、今や最大の警戒対象は、海の惑星から訪ねてくる公爵に変わった。議長の側近として長く仕え、私的な寵愛も受けてきた騎士団長は、アリウスから見れば恋敵の一人に数えられる。リムグラフトの宇宙港で二人が鉢合わせると、互いに穏やかな挨拶を交わしたまま、議長の居場所を巡る情報戦が静かに始まる。騎士団長が執務室の扉を守り、公爵が窓から回り込む構図は、雪の惑星の定番の風物となった。もっとも、二人が手を組む場面も多い。議長が職務を放り出して逃げた日には、旧世界の頃と同じく公爵の依頼で手錠が用意され、追跡の手順は一瞬で共有される。捕まえた議長の取り分を巡って、二人の協定は毎回その場で破棄される。
クライヴァーチの騎士団長の研究室には、海の惑星から定期的に小包が届く。差出人のアリウスが詰めてくるのは
議長が使い古した筆記具や、議長の飲み残しが乾いた茶器といった品々で、添え状には毎回、年代測定の依頼が丁寧な字で記されている。遺物の揺らぎを読む学者肌の騎士団長にとって、使用者の健在が明らかな品の測定依頼は前代未聞であった。初回、騎士団長は依頼の趣旨を三度読み返し、それから測定に取りかかったという。返送される報告書は学術の書式を完全に守っており、品に残された痕跡から使用された季節まで割り出してある。公爵は報告書を恋の年表の資料に加え、騎士団長の几帳面な仕事ぶりを聖貴族会で褒め称えた。議長の名が記された資料を前にした騎士団長の手が、時折、測定とは別の理由で止まる。公爵が、その手の止まり方に気づいているかどうかは、測定の対象外とされている。騎士団長の側は、測定済みの品を返送する際、梱包に必ず二重の封を施している。
旧世界で一度だけ契約を取り交わした謎の親友は、新天地にも気まぐれに姿を見せる。ミルズニアの茶店で向かい合う二人を目にした店主は、相手の顔立ちが毎回わずかに違う気がすると首を捻っている。公国に移ってから、アリウスが親友に持ちかける話題は一つに収束した。
議長の心を自分に向けるための新しい契約を、どのような代償で結べるかという相談である。親友は相談のたびに茶を一口含み、代償の見積もりを伏せたまま話題を逸らす。逸らされた話題を三手で恋の話に引き戻すのが、アリウスの近年の得意技となった。もっとも、公爵の本音は別の所にあるらしい。相談の狙いは、人ならざる親友が困り顔を見せる瞬間を眺めることにあり、公爵は困り顔の回数を手帳に記録している。親友の側も記録の存在を承知しており、近頃は困り顔を見せる前に茶菓子の追加を注文して時間を稼ぐようになった。追加の茶菓子の代金は、毎回きちんと公爵の側に回される。
星団をまたぐ距離を隔てながら、アリウスと
玄羅の元首は、互いの秘密を預け合う間柄にある。始まりは
湧羅戦争の戦後処理の場で耳にした名であり、捕虜を礼をもって送り返した元首の判断に、アリウスは早くから関心を寄せていた。書簡を重ねるうちに、二人は長い歳月を生きる者だけが抱える痛みを打ち明け合うようになる。見送った者の数を数える夜の話も、元首が人目から隠し続ける持病の話も、この往復書簡の中では包み隠さず綴られてきた。公国に移ってからの書簡には、恋の相談が加わった。元首の返書は丁寧で、相手の心が開くまで待つことの大切さを穏やかに説く。説かれた側は、返書を読み終えた翌朝に
議長の執務室へ押しかける。この顛末を報告された元首が、湯気の消えていく茶碗を長い間眺めていたという話が、玄羅の側近の手記に残る。それでも、書簡の筆致から元首の発作の兆しを読み取れる数少ない相手として、アリウスは季節の変わり目に必ず見舞いの品を送っている。
旧世界に残る
ユピトル建国の英雄のもとには、星団の向こうから今も時候の書簡が届く。書き手のアリウスと英雄は、旧世界の頃、個人としての礼節と、政治の場での測り合いが同居する間柄であった。英雄の側は、底の見えない年長者の真意を最後まで測りかねたまま、新天地へ旅立つ背中を見送っている。旅立ちから長い歳月を経て、英雄のもとに届く書簡の調子は大きく変わった。かつて言外の含みを読み解くのに苦労した便りが、今では
議長への恋の報告で隙間なく埋まっている。含みを探る癖の抜けない英雄は、恋の報告の裏に政治的な暗号が仕込まれている可能性を疑い、側近とともに一字ずつ検めたという。検めた結果、文面からは恋の報告だけが出てきた。英雄は暫く机に突っ伏した後、公国の今後を案じる一文を返書に書き添えている。返書を受け取ったアリウスは、案じられたのは自分の恋の行方であると解釈し、礼状を三通送った。
戦闘能力
公国でのアリウスは、旧世界で鍛え上げた戦闘力の大半を契約に預けたまま、剣と重力の技巧だけを手元に残している。
封じた力
旧世界時代のアリウスは、ファラネヴェ
駆動剣術を極めた達人として、また
グラヴィス調律器による重力操作の使い手として、単身で戦線を押し返すほどの戦闘力を誇った。公国に移った今も技巧と経験は手元に残っているものの、平時に発揮できる力は旧世界の頃と比べて大きく目減りした状態にある。能力の大半を
トローネ公王への祝福に充てており、
令咏術の召属性を重ねた契約を通じて、膨大な晶気を恒常的に譲り渡しているためである。反応速度と重力制御の精度は、平時には燃え残りの熾火程度まで抑えられ、攻撃の射程と威力も同じ割合で絞られた。かつてレベル100の精鋭と謳われた戦士が、レベル1の状態で日常を過ごしているに等しい。契約の縛りを解けば本来の力は戻るが、公王に捧げた祝福を引き剥がすことを意味する以上、軽々しく踏み切れる手段とは言い難い。公国の存亡に関わる危機が訪れた場合には、解放の度合いに応じて旧世界の戦闘力が層を成すように回復していくと見込まれている。もっとも、
議長の身に危険が及んだ場合に限り、解放の判断が異様に早まるのではないかと、公王は寝台の上で密かに疑っている。
フェルス・ファラネヴェ
刀身の構造
第2世代のファラネヴェにあたる一振りは、先代の刃渡り約1.2mの細身の長剣を下敷きに、刀身へやや幅を持たせた設計で仕上げられた。刃の中央から切先にかけては薄紫の光を帯びる意匠が施され、柄と刀身の接合部には円形の晶気制御機構が左右一対で組み込まれている。制御機構は
令咏術のホログラムシートを展開し、術式の書き込みを補助する役割を受け持つ。刀身の基盤には先代と同じく
イドゥニス晶鋼が用いられ、内部に
液状半導体と小型晶化炉を組み込む構造も、そのまま受け継がれた。鍛造の技術監修を務めたのは
フランであり、ドラグシアの研究施設群で積み上げられた工学の知見が、刀身の各所に反映されている。打ち合わせの席では、柄の意匠に
議長の頭文字を彫り込むよう法務卿が求め、技術卿が三晩をかけて説得した末に取り下げさせた経緯がある。取り下げの条件として、柄頭の内側にだけ小さな刻印が許されたとの噂もあるが、分解して確かめた者は今のところ現れていない。
出力の連動
先代との最大の差異は、アリウスの契約状態と連動する出力の制御機構にある。公王への祝福に能力の大半を捧げている平時には、炉が休眠に近い低出力で駆動し、晶気の放射も微弱な水準に抑えられる。刀身の光も淡く、持ち主が腰に下げて歩く限り、剣は海辺の散歩道に溶け込む静けさを保っている。契約の拘束が段階的に緩められると、休眠していた炉が目を覚まし、半導体の循環が加速するにつれて刀身の光も濃さを増していく。完全な解放に至れば先代を凌ぐ出力を発揮し、重力操作との同期も旧世界の頃の水準を取り戻す設計である。刀身の色の濃さは、契約の緩み具合を外から読み取る目安として、騎士団の点検記録にも項目が設けられた。点検の記録には、刀身の色が規定の範囲を外れて濃くなった日が年に数度だけ残っている。いずれも議長がスカラフィアを訪れた日と重なっている事実について、技術卿は計器の誤差であると説明を続けている。
語録
「ふりーとんさん?聖貴族会の議事録にまた誤字があったわよ。三箇所。……ああ、別に怒ってないわ。怒ってないけど、ミルズニアの運河にね、とっても冷たい水が流れてるの。知ってた?」
聖貴族会の事務処理を巡って。笑顔で。
フリートン議長の胃が軋む音が聞こえたとか聞こえなかったとか。
「ねえ、ふりーとんさん。今日の議事、三回も私と目が合ったわね。……一回目は偶然、二回目は運命、三回目は求婚よ。法務卿のわたくしが言うんだから間違いないわ」
聖貴族会の散会後、廊下で議長の袖を捕まえて。議長は翌日から、議場で手元の資料だけを見つめて発言するようになった。
「海の色をね、旧世界では見たことがなかったの。こんなに澄んだ青は、戦場の空にも、宮殿の庭園にもなかった。……ふふ、だから私、スカラフィアが好きなのよ」
海岸にて。誰に言うでもなく。
「トロちゃん、また寝てたでしょう。クッションの跡が頬についてるわよ。……いいのよ、公王様だって休む権利はあるんだから。でもね、聖貴族会の前には、ちゃんと顔を洗ってちょうだいね」
「祝福の契約で力のほとんどを差し上げたのに、胸の鼓動だけは誰にもあげられないのよね。……あら、議長がいらしたわ。ほら、触ってみて。こんなに速いの」
宮殿惑星での会議の合間、公王の手を取って自分の胸に当てさせながら。公王はクッションに顔を埋めて、議長が退室するまで笑い転げていた。
「メレザさん、あなたが作ったあの山の薬草茶、とても美味しかったわ。……それで、カルヴァーチの山小屋の周りに生えてる例のキノコ、あれは本当に食べられるのかしら。エレイナさんが心配していたわよ」
メレザとの茶会にて。心からの関心と、一匙の悪戯心を込めて。
「スカラフィアに来て一番驚いたのはね、誰も私の名前を聞いて逃げないこと。嬉しいような、寂しいような……いえ、嬉しいのよ。本当に。多分」
漁村にて。地元の漁師との会話のなかで。
「沖まで泳げば、スヴェリナがほんの少しだけ近くなる気がするの。……計算上は誤差よ。でもね、誤差を積み重ねるのが恋ってものでしょう?」
夜明けの波打ち際で、濡れた髪を絞りながら。付き添いの侍女は、雪の惑星までの距離を口に出すのを諦めた。
「フランさんとのお茶会の中身?ふふ……内緒。知りたい?知りたいなら、まず貴方がスカラフィアの海を泳いで渡ってきてちょうだい。それくらいの根性がないと、あの話にはついてこれないわよ」
「ねえ、セルブラーナさん。トロちゃんのこと、いつもありがとうね。……あなたがいるから、私は安心して海で遊んでいられるの。感謝しているわ。本当よ」
「昔の私なら、この程度の不手際で重役を三人くらい更迭していたわね。……冗談よ?冗談に決まってるじゃない。……ねえ、なんでそんな顔するの」
スカラフィアの行政報告を受けて。後貴族会の官僚が蒼白になった。()
「議長の半径十歩以内に近づく女性は、全員お名前を控えておいて。……違うわよ、嫉妬じゃないの。お礼状を書くためよ。ええ、とびきり丁寧な、ね」
公王主催の式典の前夜、フェルフィア騎士団の団員を集めて。翌日、式典の受付に並んだ女性たちは、名乗る前に一斉に議長から距離を取った。
「ヨバンナ。母さんね、あなたの旦那様の淹れるお茶が実は嫌いなの。でもね、あの人が一生懸命淹れてる姿を見るのは……まぁ、悪くないわ」
スヴェリナ訪問時に、
娘に。フリートンが背後で固まった。
「わたくしの頭の中が知りたいの?……ふふ。旧世界では、それを読もうとして百人の政治家が眠れなくなったものよ。でもね、今は本当にただ……お腹が空いてるだけなの。ミルズニアの市場に行きましょう」
同行する側近に。安堵の溜息が三つほど聞こえた。
「恋のコツ?簡単よ。相手の予定を先に知って、相手より先に着いて、相手が来たら偶然を装うの。……三千年くらい続ければ、たいてい上手くいくわ」
スカラフィアの神識府で、結婚を控えた若い書記官に相談されて。書記官は翌月、婚約者に向けて予定表の共有を申し出たところ、三日ほど口を利いてもらえなかったという。
「あのね、法務卿に就いてから気づいたことがあるの。法律って、作るのは楽しいけど、守らせるのは面倒なのよ。……特にね、守らせたい相手が、逃げ足の速い殿方だとね」
フェルフィア公爵邸にて。来客に向けた雑談のなかで。
「旧世界ではね、私が動けば法を超えるなんて言われたものよ。……ここでは法を作る側だから、超える必要がないの。便利な世の中になったわ」
法務卿としての職責について問われて。冗談なのか本気なのか判別がつかない微笑とともに。
「逃げるのはいいの。逃げる背中も素敵だから。でもね、ふりーとんさん、逃げた先の宿の予約、わたくしの名義で取ってあるわよ」
リムグラフトの宇宙港で、出航間際の議長の船室を訪ねて。議長は船を降り、その日の外遊を延期した。
「わたくし、怒ってないわ。……ほんとよ?ただ、昨日の晩餐会でどなたの隣にお座りだったのか、聞いてるだけ。……ねえ、目を逸らさないで?」
議長の外套の裾を指先でつまみ、下から覗き込むように見上げながら。議長の答えが出るまでに、窓の外の運河を小舟が四艘通り過ぎた。
「この貝ね、ふりーとん貝っていうの。名付け親はわたくし。……だから、これを召し上がったら、あなたは実質わたくしの」
議長の食卓に、
スカラフィア産の貝の酒蒸しを差し入れて。議長は匙を置いたまま、皿を見つめて動かなくなった。
「あの剣?ああ、フェルス・ファラネヴェのこと?今はね、ほとんど飾りみたいなものよ。大事な力は、もっと大事な人のために使っているから。……何に使ってるかって?野暮なことを聞くのね」
フェルス・ファラネヴェについて尋ねられて。柔らかく、しかし有無を言わさぬ口調で。
「あら、ふりーとんさん。随分と素直な感想をお持ちのようね。……ええ、旧世界の頃とは違うわよ。1世紀かけて余分なものを全部落としたの。筋肉も、脂肪も、ついでに貴方への遠慮もね。……で?もしかして、前の方が良かったなんて仰るつもり?わたくし、聞こえなかったことにして差し上げてもよくってよ。今なら、まだ間に合うわ。さあ、もう一度だけチャンスを上げるから、最初から言い直してちょうだい?」
スヴェリナの港でアリウスを出迎えたフリートンが、久方ぶりに見る彼女の姿に「最近お痩せになられて……」と口を滑らせた直後に。旧世界時代の腹筋が割れるほどの鋼の肉体を知る男の、率直な驚きではあったのだろう。しかし、女性の体型変化に関する言及が、どれほどの地雷であるか。数千年を生きた男の学習は、今回も間に合わなかったらしい。アリウスは微笑んだまま一歩踏み込み、低く、静かに、鈍器並みの精度で言葉を連ねた。港湾施設の気温が3度ほど下がったと、居合わせたフェルフィア騎士団の団員が証言している。フリートンは以後、アリウスの外見に関する一切の所感を封印したとのこと。痩せた理由は褒めてほしかったからだと、公爵が侍女に打ち明けて枕を濡らしたのは、その夜のことである。()
エピソード
公国での公爵の日々は、海と恋と聖貴族会を行き来しながら、周囲の胃袋を順番に削っていく。
求愛録
- フリートンがスヴェリナから届けた工業製品の梱包に「取扱注意」と書いてあったのを見て、「あら、あなた自身のことかしら」と返信した。フリートンが次の手紙を寄越したのは、三日後のことであった。
- 鎖国期間中、スカラフィアの沿岸部で発見された未知の海洋生物に名前を付ける権利を主張し、「ふりーとん貝」と命名した。抗議は握り潰された。
- 法務卿の公文書の書式で求婚状を作成し、議長の決裁箱に忍び込ませたことがある。議長は書類の山に紛れた一枚に決裁印を押しかけ、寸前で秘書官に手首を掴まれて事なきを得た。以来、議長の決裁箱は二重底になり、底板の間に何が挟まっているかは秘書官しか知らされていない。
- 雪の惑星へ通う道中で冷えた心を温めるため、議長の官邸の向かいに勝手に温室を建て、旧世界の花を植え込んだ。リムグラフトのボイラーから余熱を引いた温室は、今では市民の憩いの場として親しまれている。前を通らずに出勤する経路を開拓したのは、議長ただ一人である。
- 議長の肖像画を描かせた画家が、三人続けて職を辞した。原因は睫毛の本数から外套の皺の向きにまで及ぶ公爵の修正指示で、四人目の画家は議長本人を写生する許可が下りないまま、法務卿の記憶を頼りに筆を進めている。
- 公王主催の舞踏会で、統治代行は念願だった議長との一曲を勝ち取った。曲の途中で議長の足がもつれると、アリウスは相手を両腕で抱え上げたまま残りの旋律を踊り切り、会場の拍手は議長の悲鳴にかき消された。
- 議長の誕生日に、ミルズニアの運河の一本へ議長の名を冠する案を聖貴族会に諮り、否決された。公爵は設置済みの名札を外さずに裏返して掛けており、運河を巡る観光船の案内係は、裏側に刻まれた名を毎回小声で紹介している。
- 議長が過労で倒れたとの報せを受け、統治代行は自ら船を操ってスヴェリナまで不眠で駆けつけた。到着してみると議長は昼寝をしていただけで、アリウスは枕元に座って三時間ほど寝顔を見守り、目を覚ました議長は公爵の顔を確かめて再び意識を手放した。
- 水上祭儀の役割を割り振る際、公爵は海神の花婿役に議長を指名した。議長は祭儀の前夜にスヴェリナへ引き揚げたものの、当日の祭壇には議長の外套を着せた案山子が立ち、公爵は案山子に花を捧げて満足げに一礼した。
- 開国後にスカラフィアを訪れた共立銀河連邦の役人が、アリウスを地元の貴族令嬢と勘違いして口説きにかかった事件がある。フェルフィア騎士団が即座に取り囲んだものの、当のアリウスは上機嫌で役人を許し、翌日この件を議長に三度報告したが、議長の反応は三度とも茶を啜る音だけであった。その役人は後日、相手の正体を知って半月寝込んだという。
- 書斎の窓辺に置いてきた茶缶の蓋を、公爵はある朝、初めて開けた。亡き夫ルドラス・エルクの好んだ茶葉で淹れる最初の一杯のため、アリウスは茶器ごと担いでスヴェリナへ渡り、官邸の客間で手ずから湯を注いでいる。議長は湯気の立つ茶碗を前に一時間ほど固まり、冷めきってから一息に飲み干したものの、飲み干した後に何を呟いたのかは、胃薬の瓶を差し出す侍従の手の震えに紛れて記録に残っていない。
公爵の日常
- スカラフィアの海で泳ぐのが日課。遺伝子強化された肉体で沖合まで往復する姿を漁師たちは当初畏怖していたが、いつしか「海のお姉さん」と呼ばれるようになった。74アストラ歳である。()
- 美意識の向上に伴い、スカラフィアの海洋性気候が肌に与える効果について独自の研究を続けている。研究の進捗は議長と会う前日にだけ跳ね上がり、成果は論文の代わりに、本人の肌の上でのみ公表されてきた。
- ミルズニアの運河を小舟で巡るのが趣味で、水先案内人を置かずに自ら操舵する。運河の管理官は、公爵閣下の操舵が正確すぎて逆に怖いとの所見を、毎年の点検報告書に書き添えている。
- トローネ公王の宮殿惑星を訪れる度に、手土産としてスカラフィア産の海産物を持参する。公王は喜ぶが、セルブラーナが検品に半日を要するため、到着から食卓に並ぶまでに相当の時間がかかる。
- カルヴァーチのエレイナを訪ねた際、山岳地帯の急斜面を涼しい顔で登り切り、息を切らすエレイナに「体力が足りないわね。メレザさんに鍛えてもらいなさい」と微笑んだ。エレイナ(変態)は官能的な表情()を浮かべた。
- スカラフィアの水上祭儀において自ら祭壇に花を供える慣習を始め、島嶼の住民たちから「海の貴婦人」と呼ばれるようになった。旧世界の「冷血母公」を知る者は、変貌に目を疑ったという。
- 旧世界時代からの訓練習慣は今も続いており、海岸で駆動剣術の型を演じる姿がたまに目撃される。漁師たちは「朝の体操」だと思っている。フェルス・ファラネヴェの刀身がうっすら光るのを見ても、「今朝は綺麗ですね」で済まされている。
- ミルズニアの市場で値切り交渉を行い、店主を圧倒した。公爵は威光を邸に置いてきたと主張したものの、店主は組合の会報に、あの笑顔こそ最大の威光であったと寄稿している。
- フェルス・ファラネヴェを携えたまま市場で買い物をする姿が目撃されているが、スカラフィアの住民にとっては「公爵様のお洒落な杖」くらいの認識らしい。かつてイドゥニア星域で何を成した剣なのか、市場の人々が知る日は、まだ当分先になりそうである。
議場の騒乱
- 聖貴族会の合議中に突然「今日の海が綺麗だったの」と発言し、議事が一時停止した。フリートン議長が「議題に戻ってください」と言うまでの沈黙は、メレザの手で「公国の平和を象徴する一分間」として議事録の余白に書き留められている。
- スカラフィアの神識府には、なぜか容姿端麗な官僚が集中している。人事権の濫用を疑う声が上がった後、新規採用者の顔立ちが年を追うごとに議長の面影へ寄り始め、疑う声は別の種類の困惑に変わった。
- 聖貴族会の休憩時間に議長と札遊びをするのが恒例で、統治代行の勝率は九割を超える。負けた際には素直に褒めるが、議長が勝った日の翌日には必ず聖貴族会で厄介な議題が持ち上がるため、「勝つと怖い」という噂が絶えない。
- 議長の発言中に法務卿が熱心に筆を走らせる姿は、聖貴族会の名物となっている。ある日、書記官が回収した覚え書きを議事録の下書きと取り違えたところ、記されていたのは発言の要旨に代わる議長の声色の変化の記録であり、議事録の差し替えに丸一日を要した。
- スカラフィアの防衛予算の内訳に「議長護衛費」の項目が計上され、聖貴族会で削除された。公爵は翌月から私費で護衛を雇い入れ、議長は自分を守るはずの護衛に一日中見張られて暮らす羽目になった。
- 議長が外遊で不在の合議で、アリウスは議長席に座ろうとして公王に止められた。公爵は議長席の隣に自分の椅子を寄せて腰を下ろし、その日の議事録には、議長席が一時的に二人掛けとなった旨が記されている。
- 後貴族会の官僚登用試験の監修を引き受けた年、法務卿は出題の三割を議長に関する設問で埋めた。その年の合格者は、議長の靴の寸法から茶の好みまで正確に答えられる顔ぶれとなり、スヴェリナの議長室は新任官僚の配属を固辞している。
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最終更新:2026年04月24日 22:51