唐書巻一百六十一
列伝第八十六
張薦 読 趙涓 博宣 李紓 鄭雲逵 徐岱 王仲舒 馮伉 庾敬休
【張薦伝】
張薦は、字は孝挙で、深州陸沢県の人である。祖父の
張鷟は、字は文成で、若くから他よりも優れた才能に恵まれた。幼い頃、夢に紫色の大きな鳥を見て、五色の模様があり、その庭に止った。祖父は「私は五色のうち、赤い模様は鳳、紫の模様は鸑鷟(鳳凰の一種とされる神鳥)だと聞いている。文章によって朝廷に幸運をもたらすのだろう」と言い、そこでこれによって命名した。調露年間(679-680)初頭、進士に及第した。考功員外郎の
騫味道がその答案を見て、天下に並ぶ者なしと称えた。
岐王府参軍に任じられた。八たび制書によって貢挙されていずれも優秀な成績を収め、再び長安県の尉に調任され、鴻臚県の丞に遷った。四度遷任し、
銓選の判断は最も優れた。員外郎の
員半千がしばしば公卿に「張鷟の文章は青銅の銭のようなもので、一万の中からどれを選んでも優れている」と称え、当時の人々は張鷟を「青銭学士」と号した。証聖年間(695)、天官侍郎の
劉奇は張鷟および
司馬鍠を御史とした。性格は奔放で、衝動的で身を引き締めず、まともな人とはめったに会わなかったから、
姚崇が特に嫌っていた。開元年間(713-741)初頭、御史の
李全交が、張鷟の減らず口が当時の政治を謗っていることを弾劾し、嶺南に貶されたが、刑部尚書の
李日知が非常に重んじているから訴えを退け、内地に遷されることができた。張鷟は文章をつくるのに、筆を下せばたちまち完成したが、華やかだが内容が乏しく、粗野で猥褻であるとしばしば批判された。しかし広く流行し、後世の人々に伝記が残された。
武后の時、宦官の馬仙童が黙啜に捕らえられていた。「文成はどうしている」と尋ねると、「最近御史から降格された」と答えたから、「国家はこの人がいるのに用いない。無能だ」と言った。新羅・日本使がやって来ると、必ず金宝を出してその文章を購入した。司門員外郎で終わった。
張薦は鋭敏で文章の才能があり、『周官(周礼)』・『春秋左氏伝』をよくした。それより以前、
顔真卿に称賛された。大暦年間(766-779)、浙西観察使の
李涵が上表して才能が史官とて堪えうると推薦し、詔によって左司禦率府兵曹参軍を授けられたが、母が老いたから辞退して就かなかった。喪があけると、礼部侍郎の
于邵の上奏によって、京師に召されて
史館修撰に任じられ、陽翟県の尉を兼ねた。顔真卿が
李希烈に捕らえられると、兄の子の顔峴および家僕を派遣して奏上し、五人はいずれも
内客省に留められて、出ることができなかった。張薦は以下のように上疏した。
「去る正月中、
顔真卿は使者として淮西に派遣されました。事前の通知もなく、何の準備もなく出発しました。命令を受けると、家に泊まらず、親族に別れを告げる暇もなく、副官に陳情させる暇さえありません。虚弱な僮僕を伴って単騎で、即日出発しました。臨汝を悪人に立ち向かい、許下の悪人を糾弾し、義のために身を捧げ、悪党を厳しくなじり、遂に脅迫した者は考え直し、忠勇な者は正しい心のままになりました。
周曾は外で奮闘し、
韋清は宮中に馳せ参じ、
李希烈は窮地に陥って、かつての本拠地に走ったのは、思いますに顔真卿の義が巻き起こしたものでした。顔真卿は四帝に仕え、国の元老となり、忠義・孝行を重んじ、王室の模範です。八十歳にして、老いや病に苦しみ、狭い部屋に捕らえられ、周りを見渡すと武器の下で、嘆き悲しみや怒りの中で、寝食を忘れたのです。悲しみを知らずして翁がどうしてこれを堪えられましょうか。
伏して聞くところによりますと、
李希烈の母は、
幼な子を恋しがり、目には涙が絶えず、李希烈に要求しているそうです。また李希烈の妻の祖母の郭氏および妻の妹の封氏は二人とも京師に逮捕されています。この三人はここに留めたところで無益です。何卒、境界上に捨て置いて
顔真卿の身代金とし、まず詔書を下して、このことを明らかになされますように。また李希烈は顔真卿の人望を知ったので、あえて危害を加えることはせず、すでに敵意はないのです。ただ古い方法などに従うばかりで改めないだけなのです。もし親愛に帰すのでしたら、賊もまた一人の使者を派遣することを惜しみましょうか。
臣はまた
顔真卿が兄の子の顔峴および家僮・従官を派遣して上表文を奉って来た五人は、いずれも宮中に留めていますが、その子の顔頵らがつつしんで一目会いたいを願っていると聞いています。何卒休暇をお許しになり、安否を告げられますように。」 上疏文が奏されたが、
盧𣏌が握りつぶし、返答はなかった。
朱泚が叛くと、姓名を偽って城中に隠れ、『史遁先生伝』を著した。京師が平定されると、左拾遺となった。詔して再び
盧𣏌を用いて刺史にしようとすると、張薦は
陳京・
趙需らと共に盧𣏌が奸悪で国家を傾けるから任用すべきではないと論じ、宮中に入って剛直に奏上したから、
徳宗はこれを受け入れた。
貞元元年(785)、
帝は親ら郊祀しようとした。当時、たびたび兵乱がおこり、礼物は衰え滅びたから、張薦を任用して太常博士とし、典礼儀式の編纂に参加し、ほぼ旧章の通りとした。刑部尚書の
関播が持節して
咸安公主を回紇に送ることになると、張薦を判官とした。帰還すると工部員外郎に遷った。しばらくして諌議大夫に遷り、再び
史館修撰となった。
裴延齢が政務に用いられるようになると、賢俊を中傷し、建白すると
帝の意にあたらなかったことはなかった。張薦はその奸悪ぶりを上疏しようとしたが、裴延齢はこのことを知って、そこで帝に向かって、「諌議は朝政の得失を論じ、史官は人君の善悪を記録します。この二職は兼任させるべきではありません」と言い、張薦を秘書少監に改めた。裴延齢は必ず張薦に罪を被せて排斥しようと思っていると、ちょうどその時、遣使して回鶻の毘伽懐信可汗を冊拝させることになり、張薦に回鶻に行かせた。帰還すると秘書監となった。吐蕃の賛普が死ぬと、張薦を工部侍郎に抜擢し、弔祭使とした。張薦は議論に長け、辺境の地へ三度派遣され、最初は侍御史・中丞を兼任し、後に大夫となった。赤嶺に行き、病に罹って卒した。年六十一歳で、吐蕃はその柩を伝送して帰させた。
順宗が即位すると、どうしているか尋ねられ、礼部尚書を追贈し、諡を憲という。
張薦は拾遺から侍郎になるまで、約二十年ほどであったが、常に
史館修撰を兼任した。それより以前、貞元年間(785-805)、京師が旱魃になると、
帝は正殿を避け、御膳を減らしたが、張薦は日を限って古制の通りにするよう申し上げた。
昭徳皇后の廟楽を定め、
献祖・
懿祖の二祖の神主を遷し、太儀(公主の母)の位号・大臣の祔廟・鼓吹法を定め、裁定に参加しなかったことはなく、儒者たちは該博であると思った。著された書は百篇以上であった。子の
張又新は、別に
伝がある。
【附、張読伝】
孫の
張読は、字は聖用で、幼くして優れた理解力と洞察力を持ち合わせた。大中年間(847-860)進士に及第し、
鄭薫に宣州の幕府に
辟署された。累進して礼部侍郎に遷った。中和年間(881-885)初頭、吏部侍郎に遷り、優れた人材を選抜した。任じられてからさらに二年間留任を願い、詔によって裁可され、そのことは曹門に掲げられた。後に
弘文館学士、判院事を兼任し、卒した。
【趙涓伝】
趙涓は、冀州の人である。幼くして文章に優れ、天宝年間(742-756)に進士に及第し、郾城県の尉に任じられ、しばらくして台省を歴任した。河南の
王縉に引き立てられて副元帥府判官に
辟署された。
徳宗の即位した当初、衢州刺史となった。それより以前の永泰年間(765-766)、禁中が火災となり、火元は東宮に近かったから、
代宗は東宮を疑った。趙涓は監察御史であったから巡使となり、捜査は明瞭で、火災の跡にやって来て、宦官の庁舎が火元であった。
帝は東宮であったから非常に恩義に感じた。衢州を統治しているとき、観察使の
韓滉と相容れず、免官を奏上された。帝は趙涓の名を見て、宰相に向かって、「これは永泰の時の御史ではないのか」と尋ねると、「そうです」と返答があったから、詔して尚書左丞を拝命した。趙涓がやって来ると、帝は労って、「卿が正直なことは、朕が知っている。罪があると上聞があったが、信じないぞ」と言い、命によって吏部の
銓選を司った。帝が梁に巡狩するのに従った。興元元年(784)卒し、戸部尚書を追贈された。
【附、趙博宣伝】
子の
趙博宣は、同じく進士に及第した。文章は豪邁で、酒に溺れ、傲慢でやや粗略であった。陳許の
曲環が幕府に
辟署したが、しばらくして耐えることができず、そこで「
呉少誠の金を受け取って反間していて、しばしば吉凶を言って多くの者を惑わしている」と誣告された。詔によって杖四十を受け、康州に流されたが、当時の人々は冤罪だと思った。
【李紓伝】
李紓は、字は仲舒である。始め仕えて校書郎となり、大暦年間(766-779)初頭、
李季卿の推薦によって左補闕となり、累進して中書舎人に遷った。
徳宗が奉天にいた時、礼部侍郎から選ばれて同州刺史となった。
帝が梁に行くと、李紓は城を委ねて行在に走り、兵部侍郎・高邑伯に抜擢された。
武成王廟を祭るのに文宣王(孔子)等と共にするのはよろしくないと建言し、制によって受け入れられた。李紓の性格はのんびりとしており、後進に接することを喜んだ。非常に華やかで快適な生活を送り、せせこましいことはしなかった。官が偉くなっても、気ままに遊ぶ様子はもとのままであった。詔を奉って『興元紀功述』及び『它郊廟楽章』をつくり、論じたり撰述したものは非常に多かった。吏部侍郎に昇進した。年六十二歳で卒し、礼部尚書を追贈された。
【
鄭雲逵伝】
鄭雲逵は、もとの系譜は滎陽出身である。父の
鄭昈は、郾城県の尉となり、州刺史が赴任してくると、民で凶暴傲慢な者が道を遮って留めたから、鄭昈は六・七人を誅殺した。采訪使は優れた人物だと思ったから、報告をあげ、北海県の尉に抜擢された。
安禄山が叛くと、県民の孫俊が市の人を駆使して内応したが、鄭昈は軍を率いて孫俊を撃ち殺した。登州司馬に改められた。
李光弼の上表によって武寧府判官となり、沂州刺史に遷り、賊の李浩率いる五千人を諭して降伏させた。滁州刺史で終わった。
鄭雲逵の人となりは、取り留めのない嘘をあえて言うような人物で、進士に及第したが、去って燕・朔をさまよい、
朱泚は優れた人物だと思い、上表して掌書記とし、
朱滔の娘を妻とした。朱泚が朝廷に行こうとし、鄭雲逵をして先に入奏させたが、同府の
蔡廷玉が朱泚に謗ったから、上奏して平州参軍に貶された。朱滔が朱泚に代わって将になると、再び鄭雲逵を
辟署して判官とした。蔡廷玉は要藉官の
朱体微と共に他日朱泚に共におもむろに「朱滔は長者ではないから、兵権を付与すべきではない」と言った。鄭雲逵はしばしばその語を漏らしたから朱滔を怒らせ、そのため朱滔は蔡廷玉らの罪を論じ、全員が死罪となった。朱滔は
田悦を助けると、鄭雲逵は諌めたが、従わず、遂に家を捨てて自ら朝廷に帰順した。
徳宗は喜び、諌議大夫に抜擢した。
帝が梁にいた時、鄭雲逵は
李晟を頼り、李晟は上表して礼部侍郎によって軍司馬とし、しばしば軍略の相談役を務めた。元和年間(806-820)初頭、京兆尹となり、卒した。
【附、
鄭方逵】
弟の
鄭方逵は、反抗的で横暴な人物で、徒党を組んで略奪を行ったから、
父は殺そうとしたができなかった。
鄭雲逵は自ら弾劾して、「教化することができず、臣の家を皆殺しとするのではないかと恐れています」と言った。詔して禁錮され黔州で死んだ。
【徐岱伝】
徐岱は、字は処仁で、蘇州嘉興県の人で、代々農家の子であった。学問においては通じないものはなく、弁論すれば明敏で、居合わせた人は常に屈せられた。大暦年間(766-779)、
劉晏が上表して校書郎となった。観察使の
李栖筠はその賢人ぶりを敬って、いる所を署して「復礼郷」とした。名声は朝廷にまで達し、偃師県の尉に抜擢された。礼儀使の
蒋鎮は推薦して太常博士とし、専ら礼の事を掌った。
徳宗に従って奉天を出て、膳部員外郎によって博士を兼任した。
貞元年間(785-805)初頭、太子・諸王侍読となり、給事中・
史館修撰に遷った。
帝は誕生日に毎年詔して仏・老の者に大いに
麟徳殿で議論させ、徐岱および
趙需・
許孟容・
韋渠牟を一緒に召寄せて講説させた。始め三家は矛楯しているようであったが、終わるとすべて同じく善に帰した。帝は大いに喜び、賜い物は序列によって与えられた。両宮(太子・諸王)の恩や待遇は比類なかった。性格は慎み深く、宮殿の中での語を今まで身内に打ち明けたことはなく、他人の短所を語ったことはなかった。宗族で孤児の者がいると全員結婚させた。しかし吝嗇で、自ら家の鍵を持っていたから、世間の人々に謗られたという。卒すると礼部尚書を追贈された。
【
王仲舒伝】
王仲舒は、字は弘中で、并州祁県の人である。幼くして江南をさまよい、
梁粛・
楊憑と遊び、文章の才能によって称えられた。貞元年間(785-805)、賢良方正科に優秀な成績で及第し、左拾遺を拝命した。
徳宗が
裴延齢を宰相にしたいと思ったが、
陽城と交互に上奏して不可を申し上げた。後に入閣すると、
帝は宰相を振り返って王仲舒を指さし、「これがあの王仲舒か」と言った。にわかに右補闕に遷り、礼部考功員外郎に遷った。奏議は詳細かつ優雅で、省中の官吏たちはその能力を称賛した。事件に連座して連州司戸参軍に貶されたが、再び荊南節度参謀に遷った。
元和年間(806-820)、京師に召されて吏部員外郎となり、しばらくもしないうちに知制誥となった。
楊憑が罪によって排斥されると、楊憑の家を訪れる者はいなくなったが、王仲舒はしばしば訪れた。楊憑の冤罪を雪ごうとしたが、峡州刺史に貶され、母の喪によって解官した。服喪があけると、婺州刺史となった。婺州は疫病・旱魃となり、人々を移したから死ぬものはほとんどいなかった。五年して、村々は復興し、金紫服を賜った。蘇州に遷った。松江(蘇州河)に堤防を築いて道をつくり、屋根を瓦に変え、火災をなくし、賦・調などの税は民と期限を決め、問題なく処理された。
穆宗が即位すると、たびたび王仲舒の文章が古風で、最も制誥に適していると言い、京師に召して中書舎人となった。着任後、同列の者を見てみると新進で年が若く、その場にいても楽しくなく、「どうしてまたこんなところで筆や硯をとるような仕事をしていられようか。私は長い間外地に棄てられてきたから、民衆の習俗や苦悩・利益をよく知っている。そこで仕事ができたら、恥じることはないのに」と言ったから、宰相はこれを聞いて、江西観察使に任じた。それより以前、江西では酒の専売により利益は他州の十八州におよび、民は酒を密造し、毎年死刑に相当する者が絶えず、穀物の数斛は一斗の酒に替えられた。王仲舒は酒の専売を廃止し、銭九十万を手放した。関与した官吏は官の利息銭五十万を失い、全財産でも返済不能となったから、王仲舒は簿書を焼却し、束縛から解き放って不問とした。洪水や旱魃で、民の賦税が入ってこなくなると、「私は酒宴や他の支出を減らさなければならないのか」と嘆いて、民のために銭二千万を出して代弁した。僧侶・道士や、寺院・祠屋を建立する者は、全員追放された。在官中に卒し、年六十二歳で、左散騎常侍を追贈され、諡を成という。
王仲舒は高い志があり、緊急に応じて、自ら規則をつくり、初めは煩雑のようであったが、しばらくして皆がその便利さを称えた。
【馮伉伝】
馮伉は、魏州元城県の人で、本貫を京兆府に遷した。五経科・博学宏辞科に及第し、長安県の尉に調任された。三度遷って膳部員外郎となり、
睦王らの侍読となった。
李抱真が卒すると、馮伉が天子の節を持って弔問に訪れたが、遺族から帛を送られようとしたが、受け取らず、また京師に送られようとしたが、馮伉は上表して強く拒絶した。ここに醴泉県令に欠員があり、宰相が選抜すると、
徳宗は、「以前、沢潞に使者となって幣を受け取らなかった者がいたが、その人は清廉であるから用いるべきだ」と言ったから、遂に馮伉に醴泉県令が授けられた。醴泉県には不実で狡猾な者が多く、しばしば法を犯したから、馮伉は『諭蒙書』十四篇を著し、主に農業に従事し、学問を修めて忠孝を教えた。村々に授けて、互いに教えあった。七年後、
韋渠牟の推薦で給事中・皇太子諸王侍読となった。宮中にて天子と対面し、金紫服を賜った。兵部侍郎に昇進し、京師から出されて同州刺史となった。散騎常侍によって京師に召され、国子祭酒に二度就任した。卒した時、年六十六歳で、礼部尚書を追贈された。
【
庾敬休伝】
庾敬休は、字は順之で、鄧州新野県の人である。祖父の庾光烈は、弟の
庾光先とともに
安禄山の偽官を受けず、逃げ去った。庾光烈は大理少卿で終わり、庾光先は吏部侍郎となった。父の
庾何は、
朱泚が叛くと、同じく弟の庾倬と共に山谷に逃れ、賊の臣とはならなかった。官は兵部郎中となった。
庾敬休は進士に及第し、また宏辞科に合格し、宣州幕府に
辟署された。京師に入って右補闕・起居舎人を拝命した。建言して「天子が朝廷を開かれるのに、宰相・群臣は順次相対し、発言で後世に伝えるべきものは、天子の意図によって宰相が左右に起居を示し、そこで載録され、季ごとに史官に送られます。故事のようになされますように」と述べ、詔によって裁可された。後に宰相が機密を明かさなかったから、取り止めとなった。京師に召されて翰林学士となった。
文宗が
魯王を皇太子に立てようとし、慎重に師傅を選定し、庾敬休を戸部侍郎兼魯王傅とした。
それより以前、剣南西川・山南道は毎年茶を徴収し、戸部は巡院を派遣して統轄し、商人を募って銭を京師に納入させていた。大和年間(827-835)初頭、
崔元略の奏上により、道の節度使は毎年四万緡を度支に納入すべきであったが、長い間、逗留して多くは到着しなかった。そこで庾敬休は始めて院を秭帰県に設置し、ここに度支の銭を納めるなら、横領は無くなるとした。また、「蜀の道の米価は高騰し、百姓は流浪しています。何卒、本道の欠官の職田を貧民に賑給されますように」と申し上げ、詔によって裁可された。再び尚書左丞となった。卒すると、吏部尚書を追贈された。
庾敬休は淡白かつ寛容な人物で、飲酒や食肉をせず、色欲を近づけなかった。弟の
庾簡休もまた官は工部侍郎となった。
最終更新:2025年12月30日 23:56