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大坂の陣

登録日:2026/05/20 Wed 00:43:10
更新日:2026/08/24 Mon 18:22:49
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大坂の陣とは、1614年から1615年にかけて徳川家康(大御所)・秀忠(2代将軍)が率いる江戸幕府と、豊臣秀頼と彼を擁する茶々(淀殿)が率いる豊臣家の間に起こった、二度にわたる合戦の総称である。
日本史の年表においては、この合戦をもって戦国時代の終焉」として理解される。

ちなみに、現在は「大」だが、これは明治以降のことで、当時は「大」と表記されていたため、「大坂の陣」で正式な記載である。


経緯

豊臣vs徳川の火種

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が死去。
秀吉が亡くなった直後も豊臣家は日本全土の支配者として君臨していたが、その跡を継いだ秀頼は当時数えで5歳と幼く、幼君に代わって「五奉行」(石田三成・浅野長政・前田玄以・増田長盛・長束正家)と「五大老」(徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家*1・上杉景勝)を代表とする家臣団が豊臣家を運営していた。

しかし、豊臣家内部では二度に渡る朝鮮出兵の疲弊による戦後処理の不手際等もあり、石田三成・小西行長らが代表の「文治派」と加藤清正・福島正則らが代表の「武断派」の二派に分かれて対立していた。

そうして、1600年(慶長5年)、当時五大老の筆頭であった徳川家康が「武断派」の総大将として、石田三成率いる*2西軍と関ヶ原にて干戈を交える(関ヶ原の戦い)。
この戦いに勝利した徳川家康は、急速に天下人としての地位を固めていく。

一方で、西軍に属した大名家は、戦国史に残る撤退で見事に生還した島津義弘*3、西軍に所属しながらも特例で大名へと復帰した立花宗茂、丹羽長重などを除き、毛利家や上杉家、長宗我部家などは次々と改易・減封され、豊臣家の直轄領も大幅に削減。
さらに豊臣家臣の中で、家康と対立した首脳部の三成や行長、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らのように死罪となった者もいれば、大谷吉継蒲生頼郷(がもうよりさと)のように戦死した者、そして宇喜多秀家のように領地を没収され追放となってしまった者もいた。


当主・豊臣秀頼はまだ幼少であり、豊臣家の実権はその母・淀殿(茶々)へ集中することとなる。
一方の家康は1603年(慶長8年)、朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開府。
ここに「江戸時代」が始まった。
もっとも、当主が幼いとはいえ、この時点では豊臣家も依然として巨大な勢力であり、徳川と豊臣のどちらが真の天下人なのかは、未だ曖昧な部分もあった。
淀殿からすれば、秀頼は当時の大名家の息子としては珍しく自分の手元で、自分の乳で育てた最愛の我が子であったために、
「私の息子こそ天下人よ」
という思いが強かったのだ。
それに、家康が将軍に就任したことについても
「秀頼を補佐するために将軍職についてくれた」
としか考えていなかったようである。

家康は豊臣家との対立を回避するため、孫娘*4・千姫を秀頼へ嫁がせるなどの懐柔策を進める*5
しかしその一方で、幕府政治の整備は着実に進行しており、豊臣家の権威は徐々に相対化されていった。
わかりやすく言うと、豊臣家は徳川政権においては、「天下人」の地位から転落して一つの「大名家」になっていったのである。
特に1605年(慶長10年)、家康が将軍職を嫡男・徳川秀忠へ譲ったことは大きい。
これは単なる隠居ではなく、徳川将軍家による世襲支配を天下へ示した出来事であり、「豊臣家へ政権を返還する意思がない」ということを明確にしたのである。
当然、豊臣側はこれに強く反発したが、この時はまだ行動を起こさなかった。
その翌年には家康が新しい城「駿府城」の大改修を開始。豊臣家もこの改修への参加を要請され、やむなくこれに応じる。
更に翌年には駿府城が完成し、家康は江戸城からそこに移るが、なおも政治に関与し、将軍・秀忠の政治に対して様々な助言をした。いわゆる「大御所政治」の体制である。
この体制も、豊臣家への「あなたたちには政権をお返ししません」というメッセージを決定的なものにしたといえる。


後水尾天皇が即位したことをきっかけとして、家康は秀頼へ、新将軍・秀忠への挨拶と自身との会見を求めたが、淀殿はこれを拒否。
「無理に従わせるなら、私は秀頼と共に死ぬわ」
とまで語ったとされる。
諸国に緊張が走り、京や大坂では「近く戦が起こる」との噂が流れ、人々が避難する騒ぎにまで発展した。
もっとも、淀殿が加藤清正や福島正則、秀吉の正室・高台院(北政所/ねね)の説得を受けて一旦は折れたため、この段階ではまだ全面衝突には至らなかった。


家康も豊臣家の即時滅亡を望んでいたわけではなく、豊臣家もまた、徳川との決定的対立は避けたいという思惑を持っていたためである。
その後も両者の交渉は続き、1611年(慶長16年)にはついに家康と秀頼の直接会見が実現する。
この会見には加藤清正や福島正則、高台院ら豊臣恩顧の面々が尽力した。
会見自体は和やかな空気で終わったとされる。
しかし家康は、若武者として成長した秀頼を見て*6「親離れを期待した」とも。また自身の年齢も重なって*7「その存在に危機感を持った」とも言われている。


1605年に淀殿が徳川幕府に臣従しない姿勢を明確にしてから、家康と秀頼が会見を行うまで、6年も間があることがミソである。
そして、この会見の後、加藤清正と浅野長政(あさのながまさ)が病で急逝する。
1613年(慶長18年)には池田輝政(いけだてるまさ)*8浅野幸長(あさのよしなが)*9が若くして病で亡くなり、1614年(慶長19年)*10前田利長(まえだとしなが)*11が病死した。
特に、清正と長政の死亡した時期が、会見が行われてからそれほど時間が経過していなかったため、暗殺説まで流れたほどであった。
このようにして、恩顧の大名*12が相次いで鬼籍に入ったことで、豊臣家は次第に孤立を深めていった。
そうして、この会見を境に豊臣家と徳川幕府との関係は急速に悪化していく。
この急速な関係の悪化は、「家康が立派な若者に成長していた秀頼を見て危機感を抱いたから」と説明されることも多いが、豊臣家の実権は相変わらず淀殿が握っていたため、「豊臣家を臣従させるための最後の手段であった会見も、淀殿の存在や考えを変えさせるという目的を果たすまでには至らなかったから」とも考えられる。

加えて言うと、この会見でも「家康への敬意」は見せたものの、豊臣方は秀忠に関しては無視である
後水尾天皇即位式の際に秀頼も上洛して、秀忠を舅として立てる、千姫との夫婦円満ぶりをアピールすれば、徳川方も次期将軍・家光の義兄として秀頼に配慮せざるを得ないが、豊臣方は秀忠への敬意や家光への協力の意思と言った徳川家の未来に対する友好の意思を一切示していない。
当初は、秀忠も妻・小督(おごう)(江/崇源院)の第一子で秀吉と淀殿が後見していた完子(さだこ)を五摂家の近衛家に嫁がせて、徳川、豊臣、近衛の三家で天皇家を監視する体制を準備していたが、秀頼に舅としての面子を散々潰されて我慢の限界に近づいていた一面も存在する。
近年は、家康や豊臣家との親交が有った者も多い家康付きの古参家臣が秀忠やその重臣達を宥めていたのが限界に達したのではないか?と言う意見まで出ている。


この会見以降、豊臣家も動き始める。
幕府の統制を無視して朝廷へ官位を申請したほか、浪人の召し抱えや兵糧の備蓄を積極的に進めるなど、明らかに来たる徳川幕府との戦を意識した動きを見せ始めるのである。
対する幕府側もまた、諸大名へ忠誠を誓わせる一方で、武器調達など軍備拡張を進めていた。
豊臣家のこうした動きに対して、「豊臣家が焦り始めた」と説明されることが多い。
その焦り始めた詳しい理由までは不明ながらも、この頃の「豊臣家寄りの立場をとる有力大名が高齢化したり相次いで鬼籍に入っていったり、徳川幕府の体制が年々強固になっていったりした」という状況を考えれば、そうした状況が豊臣家の焦りの理由となっていたことは否めないだろう。
こうして両者は、表面上こそ和平を装いながらも、水面下では徐々に決戦への道を歩み始めていたのである。

方広寺鐘銘事件

そして1614年(慶長19年)、両者の対立を決定的なものにした事件が発生する。世にいう「方広寺鐘銘事件」である。
かねてより家康が豊臣家の財力を削るために再建させた方広寺*13というお寺に収めた鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」という文言が刻まれていた*14のだが、この文言を本多正純や儒者・林羅山、「黒衣の宰相」こと金地院(以心)崇伝が問題視し、それをうけた徳川幕府が
「『国家安康』の文言は、『家康』の字を引き裂いて呪うものである。さらに『君臣豊楽』の文言は、『豊臣が主君になることを楽しみとする』という意味だ!」
という言いがかりを付け、豊臣家に釈明を求めたのである。
これらの主張は現在の感覚では言い掛かりに聞こえなくもないし、実際のところ、従来は「徳川幕府が豊臣家潰しのためにひねり出した言いがかり」とされてきたが、近年は豊臣家の悪意か、非難されて当然の不注意によるものと説明されている。


まず、「家康」という名は「諱」であり、主君や近親者など、ごく限られた人物しか直接呼ぶことを許されない極めて重要な名前であった。
当時の価値観では、親しくもない相手の諱を勝手に使うこと自体が非常に無礼な行為であり、通常は通称や官職名で呼ぶのが礼儀とされていた。
実際、家康も当時は「内府」などと呼ばれることが一般的であり、諱を公の場で露骨に使用することはまず避けられていた。
そのため、「国家安康」の中に「家康」の二文字が分割された形で含まれていたことは、われわれ現代人が想像する以上に強い違和感を持たれても不思議ではなかったのである。
さらに問題視されたのが、鐘銘序文の「外施仁政」という文言である。
当時の天皇であった後水尾天皇の諱は「政仁」であり、こちらも本来であれば避けるべき文字であった。
つまりこの鐘銘は、徳川家康のみならず、朝廷に対しても配慮を欠いていると受け止められかねない内容だったのである。
実際、この点に関しては当時の学者や僧侶などの有識者が「前代未聞の無礼」と批判している。


かつて関ヶ原の戦いの発端となった、上杉家臣・直江兼続が挑発的な文章を送って家康を激怒させたことで知られる、いわゆる「直江状」においてさえ、家康の事を「内府殿」と指していた。
「直江状」ですら守っていた最低限の礼儀を、この鐘銘は踏み越えてしまっていたのである。
鐘銘としてこのような内容となった背景には、文面を作成した僧・文英清韓(ぶんえいせいかん)*15が豊臣家寄りの人物であったことも影響していると考えられている。また、豊臣家側は姓である「豊臣」は使用している一方で、諱である「秀頼」は避けている。
こうした点を踏まえると、豊臣側が「家康」の諱を意識していなかったとは考えにくいという見方も存在する。



片桐且元、失脚

これに対し、豊臣家は弁明のため、家臣の片桐且元(かたぎりかつもと)と、淀殿の乳母で大野治長・治房・治胤・治純兄弟の母親である大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)を駿府の家康の元へ派遣した。
且元は、豊臣家の重臣でありながら徳川家との融和を重視する現実派であり、この時点でもなお和平成立を模索していた人物であった。

しかし、ここで家康は極めて巧妙な対応を見せる。
まず大蔵卿局に対しては直接対面し、丁重に扱い、穏便かつ友好的な態度を見せた。
ところがその一方で、片桐且元に対しては本多正純と金地院崇伝を通じ、
  • 秀頼が徳川へ臣従する
  • 淀殿を江戸へ人質として送る
  • 豊臣家が他国へ移封される
という、豊臣家にとって到底受け入れがたい条件を突き付けたのである。*16


当然ながら、豊臣側は混乱した。
大蔵卿局が家康から友好的な態度を取られ、丁重に扱われたことを真に受けて楽観的な報告をしたことに対し、且元が条件を受け入れて家康に臣従することを主張したためである。
この食い違いによって、豊臣家内部では「且元は徳川と内通しているのではないか?」という疑惑が急速に広がっていく。
とはいえ、上記の三つは「徳川に臣従し将軍家に敷いた封建体制に組み込まれる姿勢を示すための当然の行為であり、他の大名は従っている以上豊臣だけ例外というわけにはいかない*17」条項であり、「いい加減自分たちだけ大名家として特別扱いされるのはやめろ」という意思表示でもある。現に、関ケ原の戦い前夜では、前田家が当主・利長の母であるお松の方(芳春院)が自ら人質として赴いて謀反の意思がないことを示し、事なきを得ている。
秀頼やその側近である大野治長は且元の意見に賛同しつつあったのだが、淀殿や大野治長の弟・治房、渡辺糺(わたなべのただす)(内蔵助)、織田頼長(おだよりなが)*18などの主戦派は且元への不信感を強め、ついには且元の暗殺計画まで持ち上がる。
暗殺される寸前まで追い詰められた且元は、自邸周辺に堀を巡らせるなど警戒を強めた後、大坂城を脱出。
ついでに且元に暗殺計画を伝えたとされる織田信雄(おだのぶかつ)*19も総大将に推挙されるという噂がありながらも退去した。

こうして、豊臣家における最後の有力和平派は完全に失脚した。
そして且元が豊臣家を出奔したことを、家康は「豊臣家が家臣を殺そうとした暴挙」として強く非難。
さらに豊臣側も、「もはや徳川との和平は不可能」と判断し、全国の浪人を大坂城へ招集して徹底抗戦の構えを見せる。
これを受けた徳川家康は、ついに豊臣討伐を決断。
戦国時代最後の大戦───「大坂の陣」───が幕を開けるのであった。




大坂冬の陣


「大坂冬の陣」の布陣の図。画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3 ウィキペディア日本語版『大坂の陣』のページから。著作者:Jmho(CC0)

浪人たちの集結

1614年(慶長19年)11月、ついに徳川家と豊臣家は全面戦争の準備を開始する。
徳川家康は全国の大名へ出陣命令を下し、諸大名の軍勢が続々と集結。
その総兵力は、およそ20万とも言われる圧倒的大軍であった。
一方の豊臣家もまた、諸大名へ味方するように働きかけた結果、福島正則は大坂城内にある福島家の蔵屋敷の米の使用を黙認したり、毛利輝元(もうりてるもと)加藤忠広(かとうただひろ)は家臣を大坂城に送り込んだりと裏で豊臣家の支援をおこなう者達もおり、中には蜂須賀家政(はちすかいえまさ)のように大坂城に入城しようとしたところを息子に制止されたり、田中忠政(たなかただまさ)のように家臣達の間で豊臣家に味方すべきという理由で一揆が起きたりと諸大名の動きは様々だったが結局は大坂城に入城した大名は一人も現れなかった。


しかし、それにもかかわらず、大坂城には約10万もの兵が集結する。
これは大坂の陣という戦いが、通常の「大名同士の戦争」ではなかったことを示している。
豊臣家は以前から莫大な資金を投じ、全国から浪人を召し抱えていた。
関ヶ原の戦いで西軍に属して没落した大名家、その旧臣たち、主家再興を望む武士たち、さらには戦乱の世を忘れられない者たち、そして徳川家に恨みを持つ者たち───
そうした人々が大坂城へ集っていたのである。
真田信繁(幸村)長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)明石掃部頭(あかしかもんのかみ)*20後藤又兵衛(ごとうまたべえ)(正親(まさちか))*21毛利吉政(もうりよしまさ)*22大谷吉治(おおたによしはる)*23仙石秀範(せんごくひでのり)*24福島正守(ふくしままさもり)*25小幡景憲(おばたかげのり)*26塙直之(ばんなおゆき)(団右衛門)*27などそうそうたる顔ぶれが集結した。
また、老将・和久宗是(わくそうぜ)*28のように、自らの死に場所を求めて参陣した者も少なくなかったという。
関ヶ原の戦いの後に八丈島へ流刑となるも、泳いで大坂城まで駆けつけた宇喜多秀家…は参戦しておらず、ネタの範疇。

尤も、その実態は決して統率された軍隊ではなかった。
豊臣軍には傭兵や素性不明の浪人、さらには「傾奇者」と呼ばれる過激な風俗の若者たちまで大量に含まれていたのである。
当時は太平の世へ移行しつつあり、戦働きによって立身出世する時代は終わりつつあった。
だが、親や年長の者からそうした話を聞かされてきた若者たちにとって「戦国の世」は未だ憧れの世界であり、大坂の陣はそんな憧れが実現できる一世一代の晴れ舞台でもあった。
そのため、「派手すぎる甲冑で馬が疲弊する」「巨大な旗に風を取られて転倒する」「無意味に奇抜な格好で現れる」など、後世に語り草となる珍騒動も少なくなかったという。

なにより、当時はまだ関ヶ原の合戦から15年程度で、戦国時代の戦場での経験を武器に食いつなぐ浪人や傭兵たち、さらには取り潰された元大名やその家臣などが大量に残っていた。
しかし、幕府が成立したことで戦乱は一区切り付き、彼らは行き先を失い、仕官も出来ず食い扶持すら怪しい状態になっていた。
彼らにとって、大坂の陣は平和になりつつある社会情勢の中で名を上げ仕官先を得るための絶好の舞台でもあった*29
「勝つ方につく」のが戦の常道ではあるが、「負けそうな方について勝つ方が名が上がる」というのもまた戦の常道である。

こうして豊臣家は10万近い大軍を揃えることに成功する。だがその実態は、あくまで寄せ集めの浪人軍でしかなかった。
豊臣家の正規軍も大野三兄弟や七手組*30などが存在していたのだが大坂の陣を通じて豊臣正規軍で存在感を示したのは木村重成くらいであった。
対する徳川軍は、全国の大名による組織化された正規軍であった*31。彼らも関ヶ原や各地の戦乱を生き抜いてきた者も相当数おり、浪人たちと比べて練度が劣っていたとは言い難い。
大坂城という巨大要塞を擁してなお、豊臣側の勝機は決して大きくなかった。
そのため、大坂方は籠城戦を選択したのであった。

後述するとおり、野戦を主張した真田信繁(幸村)が奮戦したこと、元々援軍がある戦いではなかったために籠城戦は失策であったと語られがちである。
しかし、前記したとおり寄せ集めの浪人軍に過ぎない大坂方は幕府方の正規軍に太刀打ちするほどの組織だった兵運用が望めなかった。
籠城していれば幕府方が大軍であることも付けいる隙となる。
長期間の軍動員は領地経営を傾かせかねず、長引けば動員された諸大名が「領地に帰らせろ」と騒ぎ出すのは目に見えているからだ。
このため、籠城戦の選択そのものは合理的なものであったと考えられている。


鴫野(しぎの)今福(いまふく)の戦い

冬の陣は大坂城を中心とした籠城戦となったが、その周辺ではいくつかの野戦も発生した。
中でも大規模だったのが、城東で行われた「鴫野・今福の戦い」である。

ここでは、上杉景勝率いる上杉軍が活躍した。
上杉軍は巧みに部隊を展開し、敵を引き込んだところへ鉄砲の一斉射撃を浴びせる戦法で豊臣軍を圧倒。
さらに援軍として現れた徳川軍と連携し、豊臣側を押し返している(鴫野の戦い)。
また北方では、木村重成や後藤又兵衛が佐竹義宣(さたけよしのぶ)の軍勢を追い詰める活躍を見せたものの、上杉軍の増援到着によって形勢が逆転。豊臣軍は撤退を余儀なくされた(今福の戦い)。
この戦いで家康は、上杉軍へ「別の部隊と交替して休め」と命令を出したが、上杉景勝は
「武士として生まれた私には、先陣を争い、身を粉にして戦って奪った土地をみすみす他人へ渡すことなどできませぬ」
としてこれを拒否したとも伝わる。
この戦いの後、木村重成は大坂城において評価が高まり、佐竹義宣は将軍・徳川秀忠からその奮戦ぶりを認められ、感状を贈られている。
その他に秀忠から感状を送られた上杉家臣の水原親憲(すいばらちかのり)は「こんなガキの石合戦みたいな戦いで、感状を賜ることになるとは」と言い残したとされる。
なお、同じく活躍した直江兼続は「関ヶ原の時はあんなに勝気だったのに今は徳川に媚び売るのに必死だ」と家中でdisられていて、上記の水原の言葉もそうした兼続をdisったものだとされている。

真田丸

冬の陣最大の激戦となったのが、真田信繁(幸村)が築いた出城*32・「真田丸」の攻防である。
大坂城は天然の河川に守られた巨大要塞であったが、南側は比較的守りが薄かった。
信繁はそこへ独立した防衛拠点として真田丸を築き、それを前線の防衛拠点として徳川軍の侵攻を阻み、これを迎え撃ったのである。

もっとも、そこには戦術的理由だけでなく、
「豊臣首脳部の指揮下では思うように戦えない」
という信繁自身の事情もあったとされる。
実際、信繁は当初、
「籠城ではなく積極的な野戦を行うべき」
と積極策を主張していたが、大野治長や淀殿らに却下されていた。
豊臣家に招かれて入城した立場であった信繁は、自身の作戦が採用されにくく、豊臣首脳部の方針に逆らうことが出来なかったのである。
そのため、本隊からやや離れた真田丸へ拠点を置き、真田家家臣団を中心に独立して防衛を行う形を取ったのである。
とはいえ、徳川軍の主攻方向が南側である以上、そこへ防衛拠点を築くこと自体は極めて合理的な判断であった。

もっとも、徳川軍も大坂城を正面から攻めれば甚大な損害が出ることは理解していた。
そのため家康は当初は慎重な姿勢を取っていた。
しかし、信繁はそんな徳川軍を巧みに挑発する。
真田丸前面の「篠山」に伏兵を潜ませ、前田軍へたびたび鉄砲を撃ちかけては撤退するという嫌がらせを繰り返したのである。
当然、前田軍は激怒。
数日後、篠山へ総攻撃を仕掛けるが、そこには既に誰もいなかった。
しかも、退却した真田兵たちは遠くからその様子を見て大笑いしていたという。
これに前田軍先鋒の一部が完全に頭へ血を上らせ、独断で真田丸へ突撃を開始。
すると周囲の井伊直孝、松平忠直、藤堂高虎らの部隊も「前田軍が抜け駆けした!」と勘違いし、次々と攻撃へ加わってしまう。


しかしそれこそが、信繁の狙いであった。
徳川軍が十分引き付けられたところで、真田軍は一斉反撃を開始。
鉄砲隊による集中射撃、事前に準備されていた罠、柵、防壁を駆使し、突撃してきた徳川軍を容赦なく撃ち倒していく。
特に真田軍の鉄砲運用は極めて優秀であったと言われる。
信繁は大坂入城前、鉄砲生産地として知られる紀州へ滞在していた時期があり、そのため配下には鉄砲の扱いに長けた者が多かったのである。
こうして徳川軍は真田丸の前で大混乱に陥る。


だがその最中、予想外の事態が起きた。
真田丸後方の大坂城内部で火薬庫の爆発事故が発生し、櫓の一部が炎上したのである。
実は徳川側は事前に、豊臣方武将・南条元忠(なんじょうもとただ)へ調略を仕掛けていた。
そのため徳川軍は、「南条元忠が寝返った」と誤解してしまった。
しかも後藤又兵衛が、元忠の筆跡を真似て偽書まで送っていたため、徳川側は完全に騙されてしまった。
しかし実際には、元忠は既に内通発覚によって処刑された後であり、爆発も単なる事故に過ぎなかった。
それを知らない徳川軍は、「今こそ城門が開く」と信じて猛攻を開始。
だが当然ながら門は開かず、逆に城壁から激しい反撃を浴びることとなる。
真田丸前面でも鉄砲隊の猛射によって徳川軍は次々倒れ、ついに撤退を開始。
その瞬間、真田軍と豊臣軍は一斉に打って出た。
もはや戦いは「攻防戦」というより掃討戦に近い状態となり、徳川軍は多数の死傷者を出して潰走したのである。

この被害を見た家康は、「大坂城の力攻めは困難」と判断。
また名前の通り、行われた時期が冬で、しかも寒波も押し寄せていたため士気の低下も出始めていた。
落城の見通しが立たないまま長期化すれば参陣した大名たちが「領地に帰らせろ」とゴネ始めかねない。
以後、豊臣方との和平交渉へ傾いていくこととなる。


束の間の和平

尤も、疲弊していたのは徳川側だけではなかった。
徳川軍は連日、大坂城へ大砲(イングランドより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門やオランダ製の4・5貫目の大砲12門)を撃ち込んでおり、城内では昼夜を問わず砲撃が続いていた。
砲弾そのものはあまり城に届かなかったようであるが、夜にも響き渡る凄まじい爆音は籠城者の精神を削っていく。*33
特に珍しく本丸に着弾した砲弾は、淀殿の目の前で侍女が死亡する事件を起こし、彼女へ大きな衝撃を与えたと言われる*34
当初は強硬姿勢を崩さなかった*35淀殿も次第に弱気となり、家康が提示した和平交渉への受け入れへ傾いていった。
豊臣家では、この時点でもなお淀殿の発言力が極めて強かった。
一方彼女自身だが、決して戦場慣れした人物ではなく、小さい頃に2度の落城の経験*36もあり、トラウマもあったとされる。
連日の砲撃による恐怖と疲労は、豊臣方首脳部の戦意を確実に削っていたのである。
こうして「大坂冬の陣」は1ヶ月ほどの交戦の末に終結した。

色々とぐだぐだした部分はあったものの、「長期化すれば攻城側は帰るしかなくなる」という籠城戦に関する見通しは、
少なくともここまでは的中していたのである。

だがそれは、豊臣家滅亡への序章に過ぎなかった。
そして翌年には、より苛烈で、より悲惨な「大坂夏の陣」が始まることとなる。



大坂夏の陣


「大坂夏の陣」の布陣の図。画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3 ウィキペディア日本語版『大坂の陣』のページから。著作者:Jmho(CC0)

大坂城、丸裸にされる

1614年末、「大坂冬の陣」はひとまず講和という形で終結した。

当初の大坂方は、講和の条件として「淀殿を人質にするので、浪人に与える領土を増やして欲しい」と申し入れていた。
だが、当然徳川方としては飲めるはずのない要求であった。
とは言え、浪人たちを武装解除させることは徳川方としても必要だったためか、お互い相応に譲歩した。
交渉役として徳川方は家康の側室の阿茶局、豊臣方は故・京極高次の妻で淀殿の妹でもある常高院*37が当たった。

最終的な講和条件として、
  • 大坂城の外堀を埋めること
  • 二の丸や三の丸など外郭部分を破却すること
  • 豊臣秀頼と淀殿の身の安全を保障すること。淀殿は人質に出なくてもよい
  • 豊臣家の領地を安堵すること
  • 城内の浪人たちの罪を問わないこと
などが定められた。また、大野治長の息子は、講和の際に徳川方に人質に出された。*38

ところが、工事を担当した徳川方の本多正純は、外堀だけでなく内堀にまで手を付け始める。
さらに二の丸や三の丸のみならず、その周辺の砦や真田丸を含め防衛設備までも徹底的に破壊され、大坂城は次第に防御能力を失っていった。
この「内堀埋め立て」については、現在でも議論がある。
従来は「徳川側による露骨な条約違反」と説明されることが多かったが、一方で、豊臣側の抵抗が弱かったことから「交渉段階である程度黙認していたのではないか」という見方も存在する。
とはいえ、結果として大坂城は「天然の要害」としての機能をほぼ失い、巨大な裸城と化した。


これに対し、豊臣家もまた不穏な動きを続けていた。
冬の陣後も浪人衆を解散させず、そのまま城内へ留め置いていたのである。

徳川方は「浪人不問」はあくまで穏便に武装解除をさせるための助命措置であり、その後の武装解除と解雇が前提だと考えていた。
だが、豊臣方は武装解除をさせていなかったどころか、豊臣方の浪人たちが京都で略奪を起こす事態までが報告されたのである。

豊臣側は「罪を問わない以上、そのまま召し抱えても問題ない」と解釈していたという見方がある。
または、一部の主戦派首脳部や浪人の統制が効かなくなり、もはや浪人を召し抱えて扶持を与えなければ略奪が激化したり、最悪豊臣方に矛を向けかねなかったという見方もある。*39

豊臣方の内情がどうであれ、徳川方としてはこのような豊臣方の動きを放置することは出来ない。
ただでさえ、明確に軍事衝突した豊臣家に対し、曲がりなりにも所領を安堵するという例のない寛大な対応を取っている状況下である。*40
盟約違反まで許すことは、幕藩体制が固まってない状況において外の大名たちにとっても悪しき先例として残ることになる。

これを受け、翌1615年(慶長20年)3月、家康は豊臣家へ最後通告を突き付ける。
「浪人を解雇するか、国替えに応じるか、どちらかを選べ」
事実上の降伏勧告であった。
これに対し、豊臣家中でも和平派と主戦派が再び激しく対立する。


淀殿・秀頼母子の側近であった大野治長は、織田有楽斎らと共に講和を模索する側に回っていた。
しかしその最中、強硬派であった弟の治房に襲撃され負傷する。有楽斎も強硬派の妨害を受けて
「誰も私の言うことを聞こうとしない」
と怒って大坂城を去り*41、和平案は完全に消滅する。
こうして豊臣家は徳川方の要求を拒否。
徳川方も再び全国の諸大名へ出陣を命じ、両軍は再戦へ向けて動き始めた。


もっとも、この時点で豊臣側の状況は極めて厳しかった。
大坂城が弱体化したため、流石に勝機が乏しすぎると判断したためか、多くの浪人が離脱してしまっていた。
それでも残るのは、よほどの豊臣恩顧か、寝返ったところで行き先のない*42者たちだけであった。
さらに大坂城は堀も防衛設備も失っており、籠城戦はもはや不可能に近い状況であった。
そのため家康は、
「兵糧は三日分あれば十分」
と語ったとも伝わる。
ただ、豊臣方とて、このまま籠城していては勝ち目がないことを理解していた。
そのため夏の陣では、冬の陣とは対照的に、積極的に野戦へ打って出る方針を採ることとなる。
こうして1615年(慶長20年)4月末、戦国時代最後の大戦、「大坂夏の陣」が始まった。

道明寺の戦い

夏の陣における兵力は、豊臣方がおよそ7万であった。
対する徳川方は15万以上とも言われ、依然として倍近い兵力差が存在していた。
まず豊臣軍は、大野治房を総大将として奈良・堺方面へ進軍。
徳川方に協力的だった地域を攻撃し、さらに紀伊方面で一揆を誘発して、徳川軍の後方を混乱させようと試みる。
しかし先鋒部隊は浅野軍に撃退され、一揆工作も失敗。豊臣軍は十分な成果を得られないまま撤退し、塙直之は戦死してしまった(樫井の戦い)。


その後、徳川軍主力は大和方面から進軍を開始。
豊臣側は、大坂城へ通じる要衝・道明寺付近で迎撃を行おうとする。
ここには真田信繁(幸村)、毛利吉政、明石掃部頭、後藤又兵衛などの豊臣軍でも屈指の実戦派武将が集結していた。
しかし、この日は濃霧であった。
視界不良により、各部隊は互いの位置を見失い、連携が完全に崩壊。
特に寄せ集め色の強かった豊臣軍は、統率面で大きな弱点を露呈することとなる。
そして最初に戦場へ到着したのが、後藤又兵衛率いる約2800の部隊であった。
だが、他の豊臣軍はまだ到着していない。
その一方で、徳川軍はすでに目前まで迫っていた。
後藤又兵衛は小松山へ布陣し、単独で敵を食い止めようとする。
しかし相手は伊達政宗、本多忠勝の次男である本多忠政、水野勝成などの2万以上の猛将ぞろいの軍勢であった。
圧倒的兵力差の前に、後藤軍は奮戦虚しく壊滅した。
続いて到着した薄田兼相も冬の陣での汚名を濯ぐべく僅か数百の手勢で特攻を敢行し討ち死にを遂げる。
そこへ霧を抜けて明石掃部頭らが到着するが、各部隊はバラバラに戦場へ突入してしまう。

結果として、この戦いで豊臣軍は徳川軍に各個撃破される形となり、多数の武将を失うこととなった。
この敗北は、単なる戦術的失敗ではない。
豊臣軍が抱えていた「寄せ集め軍隊としての脆さ」が、一気に表面化した戦いでもあった。
その授業料はあまりに高く、主力級の武将の多数喪失は、元々統率の難しい浪人たちの指揮がほとんど不可能になったことも意味していた。
もっとも、その後到着した信繁と吉政は奮戦する。
特に真田勢は伊達軍へ猛攻を加え、大きな損害を与えた(誉田の戦い)。
だが、他戦線の崩壊によって戦況は隠しようもなく既に悪化していた。

八尾・若江方面では、木村重成・長宗我部盛親らが藤堂高虎軍を押し返していたものの、その後到着した井伊直孝軍との戦闘で木村重成が戦死。
これにより豊臣軍全体の戦線維持は困難となり、真田信繁も急ぎ大坂城方面へ撤退せざるを得なくなる。
こうして夏の陣は、いよいよ最終局面の大坂城南方での決戦へと向かっていく。


天王寺・岡山の戦い

1615年(慶長20年)5月7日。
豊臣軍と徳川軍は、大坂城南方の天王寺・岡山一帯で激突する。
豊臣軍は約3万弱。対する徳川軍は10万以上。
兵力差はもはや絶望的であった。
戦いの前、真田信繁は
「総大将自らが戦場に姿を見せなければ、兵の士気は保てない」
と危惧していた。そのため、
「最後の決戦に勝つために、何としても殿(秀頼)自らお()ち下さいませ」
と秀頼や秀頼の側近たち、淀殿を説得した。
しかし、淀殿や側近たちはこれを拒否。
一説には秀頼は一度城門付近まで出たとも言われるが、結局本丸へ戻ってしまう。
こうして、総大将不在のまま決戦が始まった。


豊臣軍に残された勝機はただ一つ。「徳川家康の首を取ること」。ただそれだけであった。
そのため、この日の豊臣軍は凄まじい攻撃を見せた。
跡が無い豊臣勢の猛攻により大名クラスにも被害が出ており、小笠原秀政*43と忠脩親子や酒を飲んで余裕ぶっこいていた本多忠朝*44などが討ち死にを遂げている。*45

中でも真田信繁の突撃は伝説的であり、徳川軍の諸隊を次々撃破。
ついには家康本陣へ突入する。
本陣の旗印が倒れ*46、徳川軍は大混乱に陥った。
別働隊の大野治房も秀忠本陣へ迫り、一時は徳川軍全体が崩壊寸前にまで追い込まれている。
あと、徳川方の神保相茂がどさくさの中で伊達政宗に射殺され、神保隊は壊滅した。*47

この時、家康が切腹を覚悟したという逸話や、「家康討死」の噂が流れたという話まで残るほどであった。
その後3度にわたって突撃されたが、この時点で豊臣軍には最後の一押しとなるべき兵力も継戦能力も残されていなかった。
激戦もむなしく、信繁は家康を討ち取るまでには至らず、一時撤退して休息していた所を、越前松平家鉄砲組頭・西尾宗次(にしおむねつぐ)に発見され、
「この首を手柄にされよ」
との最後の言葉を残して討ち取られた。
その最期とそれに至るまでの神懸かり的な凄まじい奮戦ぶりに、徳川方の将の一人である島津忠恒から贈られたのがあの有名な「日ノ本一の兵」の呼び名である。*49

彼の死によっていよいよ指揮官がいなくなった豊臣軍は急速に崩れ始め、徳川軍は態勢を立て直して反撃を開始した。


残された指揮官である毛利吉政は全軍へ大坂城への撤退を命じる。
しかしその頃には、すでに城内から火の手が上がっていた。豊臣家に仕えていた料理人が、火をつけていたのである。*50
炎上する大坂城。崩壊する豊臣軍。
その夜、京都からも大坂の空が赤く染まるのが見えたという。

豊臣家滅ぶ

落城直前、淀殿は秀頼の正室・千姫を城外へ脱出させる。
千姫は家康の孫娘であり、秀忠の娘でもあった。
淀殿は彼女に、
「秀頼だけでもいいから命を助けてほしい」
と託したのである。

千姫は豊臣方の武将・堀内氏久*51に護衛され、徳川方の坂崎直盛(石見国津和野藩主)へ引き渡された後、父・秀忠の元へ到着。到着するや否や、秀頼助命を願い出た。
しかし、もはや徳川方にそれを受け入れる余地はなかった。
特に秀忠は強硬であり、豊臣家存続を許そうとはしなかったとされる。*52
それは、武士の世界において「多くの家臣や兵士達を犠牲にして落城寸前まで抵抗した者が助命嘆願をするのは恥」とされていたからである。
実際、淀殿・秀頼母子は、幾度にも及ぶ臣従要求や降伏勧告の全てを拒絶し続けており、家臣や兵士達、浪人達、更には民衆達まで巻き添えにしたため、いくら千姫が助命嘆願をしたところで、もう遅かった。
更に、助命の対象が、城兵や領民ではなく倉庫に残された秀頼のみであるという何とも身勝手な要求であったため、秀忠は一層頑なにこの要求を突っぱねた。
関ヶ原の戦いの際、結果的に岐阜城主・織田秀信は助命されているが、「自分を守る為に最後まで戦ってくれた兵士達に再就職切符になる感状を書き終えるまで待って欲しい。それを書き終えたら自分の首で兵士達を助けて欲しい。」と攻め手の福島正則に懇願した結果、「此れほど高潔な貴人を殺すのは惜しい」と正則が助命嘆願を行い、他の攻め手の武将達も正則の嘆願に賛同する、と秀頼のケースと真逆の結果だった。
一方その頃、淀殿と秀頼は城内の蔵へ身を潜めていた。
これは、千姫の嘆願による返答を待っていたためとも言われる。
だが、返事は来なかった。それどころか、返答代わりに井伊直孝に銃弾を倉庫に撃ち込まれた。
助命が叶わぬことを悟った淀殿は、秀頼と共に自害を決意する。
1615年5月8日。淀殿・豊臣秀頼母子は自害。
介錯は毛利吉政が務め、その後吉政も燃え盛る大坂城の中で自害した。*53
更に、真田信繁の嫡男・真田大助*54や大野治長、大蔵卿局も主君の後を追い、同じく燃え盛る大坂城の中で自害する。
こうして、豊臣家は滅亡した。

戦後


「大坂夏の陣図屏風」。画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3 ウィキペディア日本語版『大坂の陣』のページから。

大坂夏の陣によって豊臣家は滅亡したが、その戦後処理は極めて苛烈なものであった。
特に大坂城落城後、市中では徳川方の雑兵による略奪・放火・暴行が横行したと伝えられている。
夏の陣では、それまで江戸留守居役であった黒田長政も出陣しており、戦後、長政は絵師たちに命じて「大坂夏の陣図屏風」(画像上)を制作させている。
この屏風には、戦場で戦う武士だけでなく、敗走する民衆や、略奪・暴行を働く雑兵たちの姿まで克明に描かれている。
その凄惨さから、現代では「戦国のゲルニカ」と呼ばれることもある。
当時の記録によれば、大坂周辺では多数の民衆が殺害され、さらに「偽首」も横行したという。
これは、本来なら武士の首級でなければ戦功として認められないにもかかわらず、雑兵たちが少しでも恩賞を得るため、民衆の首を「敵兵の首」と偽って提出したものである。
また、戦乱に紛れて女性や子供を拉致し、人身売買を行う「奴隷狩り」も多数発生したとされる。

こうした惨状は絵画資料だけでなく、当時を生きた人々の記録からも知ることができる。
平野の豪商・末吉太郎兵衛増重(すえよしたろべえますしげ)は、豊臣方による平野焼き討ちで全焼した平野と大坂城下町・平野町を目の当たりにし、避難先の吉野にて『見しかよの物かたり(見たままの物語の意)』を書き残している。以下に、その内容を引用する。

男、女のへだてなく
老ひたるも、みどりごも
目の当たりにて刺し殺し
あるいは親を失ひ子を捕られ
夫婦の中も離ればなれに
なりゆくことの哀れさ
その数を知らず

増重は、老若男女の区別なく人々が殺害され、親子や夫婦が引き裂かれていく様子を目撃していた。
『大坂夏の陣図屏風』が視覚的に戦乱の惨禍を伝える史料であるのに対し、『見しかよの物かたり』は当時の民衆が体験した恐怖や悲嘆を直接伝える貴重な証言といえる。

尤も、こうした行為は大坂の陣に限った特殊なものではない。
戦国時代の合戦では、敵地での略奪や乱暴狼藉は半ば黙認されることが多く、雑兵にとっては「戦場での略奪そのものが報酬の一部」という側面も存在していた。*55
また、最後まで開城・降伏を拒み続けた豊臣側にも一定の責任があったと考えられている。
もし早期に降伏していれば、市街戦や落城時の混乱はある程度避けられた可能性もあるし、城内に残っていた財宝類を供出できれば兵たちに分け与え、略奪を抑えることもできたためである*56


秀頼には側室との間に二人の子がいたが、落城後、彼らにも過酷な運命が待っていた。
息子・国松は落城後に逃亡したものの、後に捕縛され処刑。
一方で「真田信繁とともに薩摩へ落ち延び、その後は秀吉の正室・高台院の甥である木下延俊が治める豊後国日出藩(現在の大分県杵築市・日出町周辺)に匿われ、『木下延吉』と名を変えて立石領の領主(5,000石)になった」という伝承も残されている。
一方で当時から秀頼が実は大坂城から落ち延びて生き延びたという噂が立っており、詳しくは後述。
娘の奈阿姫*57は徳川軍に捕らえられるが、千姫の嘆願によって助命され、出家することで命を繋いだ。こちらは後に「天秀尼(てんしゅうに)」として1645年まで生きていたが、仏門に入っていたため子はなく、秀吉の血筋は絶えている。

しかし、秀吉の養子である豊臣秀勝には娘として前述した完子がおり、完子の子孫が女系という形ではあるが豊臣家の血筋を現在に至るまで受け継いでいる。
また、高台院には養子として羽柴利次がおり、後に秀忠によって豊臣宗家の社稷を相続する事が許された。


なお、千姫はその後、本多忠刻*58へ再嫁。1626年に夫が死ぬと出家、徳川家綱の代まで生きていた。
また、「彼女を護送した坂崎直盛が、千姫奪還を企てる騒動を起こした」*59という逸話も伝わっている。
そんな直盛がどのような末路を辿ったのかは、直盛の項目を参照。


戦後の落ち武者狩りは苛烈を極め、幕府から各地の大名に幕府から落ち武者狩りが命ぜられ、関係者として殺された者は少なからずいた。

大野治長の弟の一人で水軍を率いていた治胤は、堺を焼き討ちにしたことで町民*60に恨まれ、火炙りの刑にされた。*61

長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、夏の陣後に燃え盛る大坂城から逃亡するも捕縛され、京都を引き回しの上で頸を撥ねられて処刑されている。
盛親は、関ヶ原の戦いの後に改易されたことで京都での暮らしを余儀なくされ、その最中口に糊するため子供たちに学問を教えていた。
引き回しの最中、その姿を見たかつての教え子が、「あの優しい大男の先生が、大坂方の大将だったなんて……」と驚いたり、
雨中に二条城門前に晒し物にされていたところを通りがかった島津忠恒に「一国の大将だったお人にご無体な」と憐れまれ、下馬して自分の笠を外し盛親殿に差し上げろと警護の者に渡したという。


その一方で、最後まで行方が分からなかった者たちも存在する。*62
キリシタン武将として知られる明石掃部頭(あかしかもんのかみ)は、大坂城落城後に消息を絶った。
徳川幕府は「明石狩り」と呼ばれる大規模な捜索を行い、将軍・徳川家光の代に至るまで各地を探索させたが、ついに発見されることはなかった*63
戦死説、大坂城脱出から3年後に病死した説、九州ないしは海外逃亡説など様々な伝承が存在しており、彼は「大坂の陣最大の失踪者」の一人として知られている。

また、大野治長の弟であり豊臣方主戦派の中心人物だった大野治房(おおのはるふさ)も落城後に行方をくらませている。
生存説も根強く、大坂の陣から34年後には「大野治房の一族が討幕を企てている」という噂が流れ、幕府が警戒する騒動*64まで起きている。
それほどまでに、大坂の陣は幕府にとって「豊臣家やその関係者の残党」が長く不安要素であり続けたことを示している。

徳川軍に所属した武将でも、死罪を言い渡されたり、改易となったりした者が存在する。
例えば、古田織部(重然(しげなり))は秀頼の息子・国松の処刑に対して反対の意を表明していたため、豊臣家への内通を疑われる原因となり、自刃させられている*65
なお、織部は文英清韓と仲が良く、方広寺鐘銘事件後に南禅寺を追放された清韓を慰めるために茶席に招いたのが幕府にバレて叱責されたりもしている。
また、長崎代官の村山等安(むらやまとうあん)は息子の1人に浪人を添えて大坂城に石火矢や玉薬を運び込ませたことと、キリシタンでドミニコ会系の司祭であった三男・フランシスコ等安が流罪になったのを、密かに長崎港外の高鉾島で下船させ、豊臣方として加勢に送りこんだことについての嫌疑がかけられ、1619年に江戸で斬首となった*66
関ヶ原合戦後は改易されて高野山に入り、その後高野山を出て岩槻城主・高力清長の預かりとなって蟄居生活を送っていた増田長盛(ましたながもり)は、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の盛次が大坂夏の陣で尾張家を出奔して豊臣氏に与したことで、その責任を取らされる形で切腹の沙汰が下されている。
さらに、「秀頼に内通した」として、福島正則の弟で大和国宇陀松山藩主の福島高晴(ふくしまたかはる)が改易となった。蝦夷松前藩では、松前由広(まつまえよしひろ)が豊臣家への内通の疑いで父・松前慶広の命令で斬られている。

豊臣家と徳川家の融和を勧めながらも、大坂城を退去することになり、大坂の陣では渋々徳川方として出陣することになった片桐且元はこの戦いが終結してから数ヶ月後の慶長20年5月28日(1615年6月24日)に死去しており、現在のところは病死説が定説となっているが、これは滅んだ豊臣家を憂いての自殺という説もある。

一方で、大名によって落ち武者狩りへの熱意には差があったようで*67、豊臣方に属した大名や武将の関係者の中で生き延びた者たちも存在した。

上述の通り小幡景憲は幕府の了承を得て豊臣側に潜り込んでスパイ活動にいそしんでいたため、全くおとがめなしで徳川家に旗本として召し抱えられる。景憲は甲州流軍学の創始者としても知られている。
長宗我部元親の外孫であり、父・佐竹親直と共に豊臣方へ加わっていた柴田朝意(しばたとももと)(幼名は佐竹輪丸)は、落城後に仙台藩の捕虜となる。
後年には伊達家に仕官し、政宗・忠宗・綱宗・綱村の4代の藩主にわたって仕え、伊達騒動の頃には奉行(家老相当)にまで出世したが、このお家騒動に巻き込まれて命を落としている。
偽名の項に詳しいが長曾我部康豊も逃げおおせ、身分を隠していたところ露呈したが、酒井忠利が前述の「落武者狩りへの熱意が無い」立場だった為に家臣に加えられたという逸話もある。
架空の人物ではないかとも言われているが、どちらにせよ「モデル」は存在するであろう。
また、真田信繁の妻と娘も難を逃れ、娘は後に岩城宣隆の継室となった*68
冬の陣の前に大坂城から退去した織田信雄(常真)もスパイとして徳川軍に情報を提供していたことからその功績が認められ、大名として復帰を果たした*69
一旦逃げたものの出頭した者が助命されたり、徳川方の縁のある大名の嘆願に応じて赦免された例も複数ある。
例えば、そろって出頭・投降した山川賢信(やまかわかねのぶ)北川宣勝(きたがわのぶかつ)*70や、かつて同僚であった細川忠興のとりなしを受けた真木島昭光(まきしまあきみつ)*71、旧主・藤堂高虎の家康への嘆願により除名された織田昌澄(おだまさずみ)*72が知られている。
こうした事例を見ると、徳川政権は単純に「豊臣家及びその関係者の殲滅」を目的としていたのではなく、利用価値のある人材や血筋については一定程度取り込みも行っていたことが分かる。
実際に、宿敵であったはずの今川家や武田家の武将*73を取り込んだり、石田三成の家族も助命したりもしている為、家康は最後の最後までその流儀を貫いたのだろう。



高台院は大坂の陣前後は木下利房*76に護衛名目で監視されていたが、特に戦の前後に動きは見せなかった。動こうにも動けなかったのか、諦めていたのか、既に無関係と決め込んでいたのかは定かではない。
また、家康とはかつて政治的協力をしたことや、秀忠とかなり懇意であった*77ことで、戦後も特にお咎めはなく、1624年に76歳で天寿を全うするまで徳川家との関係は良好なままであった。

そして大坂の陣終結後、元号は「慶長」から「元和」へ改められた。
この大坂の陣を最後に、戦国時代以来続いてきた全国規模の大戦*78は終焉を迎える。
また幕府から全国の大名を統制する『武家諸法度』が発布され、幕藩体制が確立されていく。
以後、日本は長期の平和な時代、いわゆる「パクス・トクガワーナ」へ入っていくこととなり、この転換は後に、元和偃武(げんなえんぶ)、すなわち「戦国乱世の終結」を意味する言葉で呼ばれるようになった。

そして、1616年6月1日(元和2年4月17日)。
徳川家康は駿府城で病に倒れ、全てをやり遂げ、まるで乱世の終わりを見届けるかのようにこの世を去った。享年75。

とはいえ、問題の全てが解決していたかと言えばそうではない。
大坂方の主戦力である浪人たちは、大坂の陣の終結によって失業必至の時勢になってしまった。
彼らは野盗の類に落ちぶれたり、島原の乱のような百姓一揆や幕府転覆計画に加担したりと、治安を乱す要因となっていった。
大坂の陣の大坂方も、雇い入れた浪人たちの扱いに常に苦慮しながら戦っていたが、その浪人たちに対する苦慮を今度は幕藩体制が抱え込むこととなったのである。
これが幾分改善されるのは、4代将軍家綱の時代に発生した「慶安の変*79」をきっかけとして、浪人を出さないための制度(「末期養子の禁」の緩和など)が出来るまでとなる。
無論、再び戦乱の世の中になることと比べれば、これは些細な問題にすぎなかったかも知れないが。


この戦いで失われた大坂城の天守と、戦火で荒廃した大坂の町は、家康の外孫*80松平忠明(まつだいらただあき)が復興にあたった。
大坂城は西国を監視する拠点として修復され、復興が一段落すると忠明は大和郡山に移封され、以降、大坂は将軍家直轄となった。
やがて大坂は「天下の台所」として発展するも、天守は落雷等による火事や戊辰戦争、終戦前日に襲来したB-29ゴモラ味皇などによって複数回炎上・破壊され*81、現存する天守は1997年に大改修を施された姿となっている。


淀殿悪玉論

大坂の陣を通じて
「天下人豊臣の幻影に縋って現実を見ないまま徳川との対立路線を進めた」
「真田信繁のような軍事専門家の意見を聞かずに個人の感情で主戦論を推し進めた」
「戦いを始めたかと思えば、砲弾が命中したことで講和させるなど豊臣方を振り回した」

などなど、槍玉に挙げられがちなのが淀殿である。
日野富子、北条政子と並んで日本三大悪女とまで評されることもある*82

確かに、大坂方において淀殿が秀頼の母として、大坂城首脳部の中で一定の発言権があった可能性は高い。
淀殿を人質に出すというのが講和交渉で材料になるなど、徳川方からも大坂城首脳部における重要人物とみられていた事もほぼ間違いない。

しかし、豊臣家が滅亡してしまったため、特に大坂の陣前後についての淀殿については、残っている史料の多くが徳川方による伝聞史料である。
大坂の陣の時点では、秀頼も既に成人しており、代行者が必要な年齢というわけでもない。
「家康が元主君である豊臣家を滅亡させることを正当化するため、スケープゴートにされてしまった立場なのではないか?」
「城内の主戦派に担ぎ上げられたら、乗るしかない立場だったのではないか?」
という見方もあり、その意味で大坂の陣と淀殿の関係は断言することが難しい状態である。



生存説

豊臣秀頼と真田信繁

先述のように秀頼と淀殿は城内の蔵内で自害したとされるが、落城後に徳川兵が彼の遺体を探索するも、男女の見分けがつかない状態となっており、当時から秀頼らが燃えさかる大坂城から脱出したという噂が飛び交っていた。実際大坂城にはいくつかの抜け穴が存在したとされており、その節から九州まで落ち延びたと噂が広がっていた。また真田信繁も天王寺の戦いで討ち取られるも、彼の首が家康のもとにいくつか届けられたことから、実は影武者だったのではないかと噂された。そんな秀頼と信繁の伝承に興味ある童歌が存在する。
それが「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたり鹿児島へ」というわらべ歌が歌われたという。
このことから若くして亡くなった秀頼を哀れんだ法官贔屓といった伝承がある。
実際現代でも、鹿児島市に秀頼の墓ともされるものが存在する。
また、「島原の乱」を起こしたとされる天草四郎時貞は、秀頼の落胤であったという噂もあった*83
伝承の中には、「九州に落ち延びた秀頼は日々飲んだくれて寝てばかりいた」というなんともいえない説もある

もう一人の生き残り

通説では大坂の陣で秀頼が自害して豊臣家が滅亡。そして大坂城から落ち延びた奈阿姫が尼となり、1645年に死去したことで公式に豊臣家の血が潰えたとされているが、実はもう一人生き残りがいたとされている。それが求厭(ぐえん)という浄土宗の僧である。
彼は1688年、臨終の際に、弟子に「自分は豊臣秀頼の子である」と告白。彼は大坂夏の陣の際、江戸に身を隠したために難を逃れたと明かした。なぜ突然告白したかは不明であるが、すでに出家していて子孫のいるはずがない身であったため、これが事実なら豊臣家の血筋は1688年に彼の死をもって途絶えたということになる。


死亡説

「大坂夏の陣」の「天王寺・岡山の戦い」の項でも軽く触れたが、「家康が大坂夏の陣で戦死していた」という説がある。
大阪府堺市にある南宗寺には、その歴史を伝える『南宗寺史』という書物が残されており、それによれば
「大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れた徳川家康は、駕籠で逃げる途中で後藤又兵衛の槍に突かれ、辛くも堺まで落ち延びるも、駕籠を開けると既に事切れていた。ひとまず遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した。家康の死が広く伝わると、徳川方から続々と豊臣方に寝返る大名が出ると予想された。そこで、家康の側近の大久保彦左衛門は、家康とよく似ていた古河城主の小笠原秀政を影武者にした」
という旨の記述がみられる。
これ以外にも、同寺には
「元和3年(1617年)3月に家康の遺体が久能山(静岡市)から日光東照宮(栃木県日光市)に移葬されたことになっているが、実は久能山からではなく、南宗寺から改葬された」
という言い伝えが残されている。この言い伝えは、明らかに家康が大坂夏の陣で戦死したことを前提としたものである。
実際、同地には現在でも「徳川家康の墓」と伝えられる墓所が残されている。
この地にはかつて東照宮があり、元和9年(1623年)の将軍宣下の折には秀忠・家光父子が相次いで参詣している。
もし家康が本当に南宗寺に葬られていたのだとすれば、彼らが参詣した理由も「亡き家康への墓参」であったと考えることができる。このため、この出来事は南宗寺に伝わる家康戦死説を裏付けるものとして語られることがある。
もちろん、現在の歴史学では家康が大坂夏の陣で戦死したことを裏付ける一次史料は確認されておらず、通説では元和2年(1616年)に駿府城で病没したとされている。
しかし、大坂夏の陣における真田幸村(信繁)の突撃が、家康に死を覚悟させるほど凄まじいものであったことは、当時の諸記録からもうかがえる。
「家康が切腹を覚悟した」「家康は討ち取られたとの噂が流れた」といった逸話が数多く残され、こうした伝説が生まれた背景には、それほどまでに天王寺・岡山の戦いが徳川家にとって危機的な局面であったといえよう。


武士以外の立場で豊臣方に加わった人物たち

  • コミチャ(生没年不詳)
豊臣方に属して戦った人物の一人に、「コミチャ」という変わった名前の人物がいる。
彼は根来衆の僧兵であり、冬の陣では豊臣方として足軽100人を連れて田村輪蔵院とともに大坂城に籠城したほか、夏の陣での大坂城落城時には同じく根来衆の僧兵である正徳院、山口智徳院らと共に城を出た。
その後の彼の動静は不明だが、この時の年齢は60歳近くであったといわれている。
南方熊楠が大正の末頃に書いた文の一節に「根来のコミチャは秀吉公根来攻めの時もっとも勇戦対捍し悪僧とまで聞いたが誰と闘いどんな働きあったかを詳らかにせず」とあり、同書において熊楠は、「コミチャ」に「護密者」か「小密者」などの字を当て、密教に何らかの関係がある呼び名ではないかと推測している。

  • 成安道頓(なりやすどうとん)(生年未詳*84~1615)
現在の大阪市中心部を流れる「道頓堀」の名の由来となった人物。
もともとは豊臣秀吉に仕えた商人・土木事業者であり、慶長17年(1612年)から私財を投じて大阪城南方の運河開削工事を開始した。しかし工事の途中で大坂の陣が勃発すると、道頓は豊臣方に属して参戦する。
夏の陣では豊臣方として戦ったが戦死し、完成を見ぬまま生涯を終えた。
その後、平野藤次・安井九兵衛により工事が続けられ、元和元年(1615年)11月に運河が完成。徳川幕府は道頓の功績を認め、この運河を「道頓堀」と名付けた*85
現在では道頓堀は大阪を代表する繁華街として知られるが、その名が豊臣方として戦死した一人の商人に由来していることはあまり知られていない。

  • 伊藤祐道(いとうすけみち)(1563~1615)
織田信長の小姓であった伊藤祐広の子。祐道も父同様、小姓として信長に仕えていた。
慶長16年(1611年)、清須越*86により名古屋に移り、「源左衛門」と改名してから本町に店を構えて呉服小間物商を始めた。
源左衛門は夏の陣で戦死したため、この呉服小間物商の店は閉店を余儀なくされた。
しかし、源左衛門の遺児に次郎衛門祐基(じろうえもんすけもと)という人物がいて、万治2年(1659年)、彼は亡き父の店を、呉服小間物問屋「いとう呉服店」として名古屋・茶屋街に改装した。
この店が現在の百貨店・松坂屋の前身である。



余談

「大阪〇の陣」

このような大規模な戦乱の歴史に由来して、大阪における選挙(特に大阪府知事選や大阪市長選)を「大阪〇(○は選挙の季節)の陣」と例えることがある。

二つの『ろうにん』

よく主君を持たない武士を浪人と呼ばれ、現代でも前者をよく見るが、この時代の「ろうにん」は同じ言葉でも次の『浪人』と『牢人』意味は二つに分かれる。
よく見るこちらの浪人の当時の意味は…主君は持たずにただ諸国を浮浪している武士を指す。
一方でこちらの牢人は…主君を失ってしまい秩禄がない武士のことを指す。


参考文献

阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年)
小和田哲夫監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)
片桐昭彦・峰岸純夫編『戦国武将合戦事典』(吉川弘文館、2005年)
曽根勇二『敗者の日本史13 大坂の陣と豊臣秀頼』(吉川弘文館、2013年)



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最終更新:2026年08月24日 18:22

*1 秀家の前任は小早川秀秋の義父、小早川隆景であるが、秀吉の逝去より早い時期に病死

*2 ただし、西軍の実際の総大将は毛利輝元

*3 当主は義弘ではなく、義弘の兄である島津義久

*4 秀忠とその妻の小督(江/崇源院)のあいだの子

*5 これは秀吉が生前に決めていたともされる

*6 この時の秀頼の身長は6尺5寸、約197センチと現代でもかなりの長身であったとされる

*7 この時の家康の年齢は数えで70歳と当時ではかなりの長寿であるのに対して、秀頼はこの時17歳であった

*8 池田恒興の次男で家康の娘婿。小牧長久手の戦いで豊臣方として参戦した父恒興が徳川軍によって戦死した過去を持つ。もっとも輝政自身は武家の習いと割り切っていた一面があり、父を戦死させた武将の禄が少ないことに苦言を呈したり、家康の娘督姫との間の息子忠継に28万石を与えるなど、徳川家と親しかった

*9 浅野長政の子

*10 時期でいうと後述する「方広寺鐘銘事件」より少し前

*11 前田利家の長男

*12 恩顧の大名以外でも、家康に2度も苦汁を舐めさせた真田昌幸も流刑先の九度山で1611年に病で亡くなっている

*13 元は秀吉が焼き討ちで焼損した東大寺の大仏代替として建設したものだったが、建立直後の地震で倒壊した状態となっていた。

*14 なお、この鐘は現存し、問題となった文言の部分は白い枠で囲われている

*15 俗名は中尾重忠。大坂の陣の最中には、南禅寺を追放されて他に居場所がなく、やむなく大坂城にこもっていた。戦後は燃え盛る大坂城から逃亡するも逮捕され、駿府にて拘禁される。拘禁生活を送る中で林羅山と知り合い、更に羅山や本多正信のとりなしにより許された

*16 近年は大蔵卿局と且元は共に同じ場所で、徳川方から同じ内容を聞いていたとする説が出されており、このことから、徳川方による分断工作は行われていなかったとする見方も出ている

*17 徳川秀忠に気に入られていた仙石秀久が存命時の仙石家は免除されていたが秀久没後は従っている

*18 織田有楽斎の子で、信長から見て甥にあたる。1609年に発生した左近衛少将・猪熊教利(いのくまのりとし)が中心となって起こした、多数の公家や女官を巻き込んだ乱交という一大不祥事、いわゆる「猪熊事件」の際に、懇意であった主犯の猪熊の逃走を手助けしたため、父親と徳川家康に処分され、遠方に流罪となっていた。なお、逃亡した猪熊は逮捕され、京で斬首された

*19 信長の次男。信長死後の小牧・長久手の戦いでは、家康と連合軍を結成して秀吉に対抗したが、戦いの後は秀吉と和解して秀吉に臣従する。そして小田原征伐の後、徳川家康の関東移封が決まったことで、秀吉から尾張の代わりに家康の領土である隣国、三河・遠江への転封を指示されるも、これを断ったために秀吉の怒りを買い、改易される。そのさなか、剃髪して「常真(じょうしん)」と名乗る。文禄の役の頃に、家康の執り成しで大和国にて1万8千石をもらい小大名に復帰する。秀吉死後の関ヶ原合戦においては中立の立場を取っていたが、息子の秀雄が西軍に与したことで、それに連座して再び改易された

*20 一般には「明石全登(あかしてるずみ/あかしたけのり)」の名で知られる。宇喜多秀家の旧臣。主君が八丈島に流されたことで御家が消滅し、浪人となっていた。それ以来キリスト教徒として活動していたが、徳川幕府の発令した禁教令に反発していた

*21 諱を「基次」とすることもあるが、一次史料では確認されていない。黒田長政と方針を巡って仲違いし、黒田家を出奔していた。長政が奉公構を出していたため、どこの大名家にも仕官することができずに浪人になっていた

*22 一般に「毛利勝永」の名乗りで知られるが、一次史料では確認できないため、本稿では「毛利吉政」名義で解説する。なお、本姓は「森」で、いわゆる毛利家の縁者ではない

*23 大谷吉継の子。幸村こと信繫の義理の弟でもある

*24 仙石秀久の子。関ヶ原の戦いで西軍についたため父・秀久に勘当・廃嫡されていた

*25 福島正則の親族。正則の子であるとも甥であるともされる。史料によっては「正森」と表記されることもある。一方の正則は関ヶ原合戦で東軍についたものの、秀吉の子飼いであったために警戒されており、江戸で監視下に置かれていた

*26 真田信繁と同じく元は武田家の家臣の一族で、祖父・虎盛は五名臣の一人。但し、実は豊臣側の情報を江戸幕府京都所司代の板倉勝重に伝達するべく、スパイとして潜り込んでいた。甲州流軍学の創始者としても知られ、山鹿素行や毛利秀元、徳川頼宣が彼に教えを乞うている

*27 元々は加藤嘉明に仕えていたが、関ヶ原合戦後に対立し、出奔。怒った嘉明が奉公構を出したものの、嘉明より格上であった小早川秀秋に召し抱えられる。しかし、慶長7年(1602年)に秀秋が亡くなって小早川家が無嗣改易となり、小笠原吉光の知遇を得て、徳川家康の子息である松平忠吉に仕えたが、忠吉も慶長12年(1607年)に死去したため、福島正則に馬廻として仕えた。しかし、このことを知った嘉明が正則に抗議したため、福島家を追放された。その後は出家して「鉄牛」を名乗っていたが、大坂冬の陣が始まる直前に還俗した

*28 三好家や将軍家、織田信長や豊臣秀吉に仕える。関ヶ原合戦後は伊達政宗に仕えるが、「豊臣家のために死にたい」と言って伊達家を出奔した。この時なんと80歳である

*29 例えば、塙直之は、夜襲に成功した後「夜討ちの大将は塙直之」と書いた木札を置いて去ったが、これも単なる自己顕示欲ではなく、手柄を示して名を上げる行為だったとみられている。

*30 速水守久、青木一重(※夏の陣には不参加で、代わりに青木正重が兵を指揮した)、伊東長実、堀田盛重、中島氏種、真野頼包、野々村吉安、杉善右衛門の計七名。冬の陣の後に徳川方に人質を取られ勾留された青木一重と徳川氏に内通していた伊東長実以外は、全員豊臣家に殉じた

*31 徳川側も二刀流こと宮本武蔵や先の関ヶ原で敗れて領地を失った立花宗茂といった牢人が一部参加している。なお立花宗茂は夏の陣から5年後に旧領であった柳川を与えられ、関ヶ原の戦いで改易された大名で唯一の復帰大名となった

*32 城の外壁などの部分に、出っ張るように築かれた小型の城や砦

*33 包囲側は、爆音の届かないところまで立ち去ることができる。

*34 城に直撃した砲弾は偶然にもこの一発のみ

*35 淀殿自ら武装して城内を見回っていたとも言う。

*36 数えで5歳の時に父親・浅井長政と祖父・浅井久政、養兄の万福丸が命を落とした「小谷城の戦い」と、数えで15歳の時に母・お市の方と義父・柴田勝家が命を落とした「賤ケ岳の戦い」のそれぞれにおいて落城を見届けている

*37 俗名は「初(はつ)」。大坂の陣後は江戸に住み、天寿を全うした。

*38 後に処刑されている。

*39 これはどちらが悪いというわけではなく立場による違いであり、豊臣家からすれば家の存続が第一であるものの浪人たちからすれば恩賞や召し抱えがなければ生活が成り立たなくなるため

*40 関ヶ原の合戦の西軍で所領安堵を得たのは、寝返り組を除けば島津のみであり、琉球貿易の担い手であったことや、関ヶ原における奮戦、僻地故の討伐困難、幕府の未確立と言った条件が合わさらなければ、彼らも安堵は得られなかったと思われる。

*41 一説には、息子の頼長が片桐且元の殺害計画を練ったり、冬の陣では病と称して攻撃に参加しなかったり、はたまた夏の陣前に「おれを司令官にしろ」と主張するも、諸将に反対されて出奔したりするなどの行動に出たことで、父親として手に負えなくなったことも一つの原因とされる。なお、頼長は元和6年(1620年)9月20日、父親に先立って京都で亡くなっている。享年39歳。有楽斎は退去後は京都で隠居し、1622年に天寿を全うした。生前、頼長の弟の長政と尚長には領地を分与したが、頼長には何も与えていない。また、頼長の子の長好を嫡孫とし、長益の隠居料(味舌藩1万石)を相続させようとしていたが、こちらは幕府により没収されている。

*42 名望のある傭兵にとって、寝返り行為は重要な資産である信頼を失う行為に他ならないため、正規軍より必死に戦うこともあった。逆に言えば、特に名望のない者は金払いの悪さで簡単に離脱してしまった。

*43 遺言は「信濃は・・・」だった。武田信玄に旧領を奪われた父貞慶の無念を一身に受けていたのだろう。信濃は与えられなかったが、この奮戦のおかげで江戸時代を通し度々小笠原家を救うこととなった

*44 遺言は「酒のために身を誤る者を救おう」だった。やっちまったなあ

*45 この時、真田信之の子である真田信政・信吉兄弟も布陣していたが、叔父にあたる忠朝を眼前で討ち取られた挙句、本多勢の潰走に巻き込まれる形で敗走するという散々な目に遭っている。結果的に信繁と直接戦うことは避けられたが。

*46 家康の旗印が倒されたのは、三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れて以来

*47 前日の道明寺の戦いで射殺されたという異説あり

*48 一説に、神保家と縁戚関係にあったとされる

*49 なお、島津忠恒は冬の陣では準備不足、夏の陣では早期決着のため、いずれも本戦には全く間に合っていない。要するにこれは、話を聞かされた忠恒が「真田信繁・・・スゲーなあ・・・」的なことを口にしたということである。とはいえ、忠恒は大野治長から豊臣方としての出陣の要請があった際には「私は豊臣家への奉公はすでに終えており、大御所様や公方様に歯向かうことは思いも寄らない」と回答し、かつて豊臣方から贈られた刀を返却してまでこの要請を拒否しているし、恭順の意を示すために将軍・徳川秀忠に対して、「豊臣方へ加担する事はありません」という旨の起請文まで提出している。島津家の不参加は一時「島津謀反」の噂を引き起こし、小倉藩の監視を受ける羽目となったものの、前述の徳川家への恭順を示す行動が功を奏してか、忠恒は家康没後の元和3年(1617年)に秀忠から「松平」の名字を与えられ、薩摩守に任官されている。なお、薩摩の連歌師・如玄と茶人・木村宗喜が豊臣方に内通して京の放火を企てたとして、幕府に捕らえられて処刑されたが、この件についても島津家はお咎めなしであった

*50 この料理人は放火を手土産に徳川に仕えたいと申し入れたが、答えが返ってくる前に病死したという。ただし、彼の行動を聞いた家康は「豊臣家から大きな恩を受けておきながら恩知らずにもほどがある。生きていたら処刑してやったのに」と言ったと伝わる。

*51 紀伊半島の三つの大社「熊野三山」のひとつ「熊野速玉大社(熊野新宮)」の宮司の家柄「堀内家」の一族。豊臣方に属して戦ったにもかかわらず、戦後は千姫を護衛したことにより下総国内に500石を与えられ、徳川秀忠の旗本として召し抱えられた

*52 秀忠は千姫に対しても、「秀頼と一緒に死ぬべきだったのに見苦しい」とまで言い放ったとされている。

*53 後に吉政の10歳の男子は見つかって処刑されたが、他の親族は助命された。

*54 父親に秀頼の側にお仕えするよう厳命されていた。毛利吉政には脱出を勧められたが、父親の言葉を守り、秀頼に殉じた。弱冠十四歳。

*55 駆り出した兵たちに俸給を与えるのは領土の財政を大幅に傾かせかねない一方、俸給を出さないと兵たちに反逆される可能性もあった。「略奪をしない、しても厳罰に処す規律ある軍隊」を持てるのは財政的に自分たちの財布から俸給をきっちり出す財政的な余裕が前提である場合が多い。

*56 実際、大坂城は焼け落ちたが、その後徳川方が検証して大量の金銀が押収されている。

*57 名を「泰姫」とする史料もある

*58 本多忠勝の孫

*59 家康の「千姫を救い出した者を千姫の婿にする」という約束が徳川家によって一方的に反故にされ、面目をつぶされる形となって直盛が激怒したため…というのは誇張であり、実際のところ直盛は千姫の婿を探し公家との婚約にまでこぎつけていただけとされる。とはいえ一方的に反故にされ面目が潰れされていることに変わりはない

*60 彼らは、かつて平安時代末期、すなわち源平の争乱期において、南都(奈良)を焼き討ちした平重衡は南都衆に引き渡されたとする例を挙げ、京都所司代・板倉勝重に告訴した。勝重はこの訴えを受理したが、町民が治胤に火あぶりの私刑を加えたことに対しては平重衡の例を再び持ち出し、「当時の南都衆は重衡に私刑を加えなかったはずだ」と苦言を呈したという

*61 しかしそれでも死ねなかったらしく、治胤の死を確認しに来た一人の兵士から刀を抜いて突き刺し道連れにしたという逸話が『葉隠』に収録されている

*62 当時は人相の特定が難しい上、大坂城が落城で燃え、当然遺体も黒焦げになってしまったため、実際は死んでいるが遺体が確認できなかった例も数多く含まれる可能性が高い。

*63 なお、掃部頭の長男の小三郎は薩摩に潜伏していたが、のちに逮捕され処刑されている

*64 この騒動の発端は、近江国箕浦の誓願寺の末寺・豊宝寺の僧が自らの落ち度で追放された後、逆恨みから高槻藩主・永井直清に「誓願寺の僧・智空は治房の娘婿であり、義兄弟の百助(治房の嫡子)に庇護を与え、討幕を企てている」と事実無根の内容を訴え出たことであった。これにより、百助は捕らえられ、板倉重宗による尋問を受けた後、幕府の命により処刑された。この事件と同じ頃に、「長崎奉行・馬場利重が治房の子であるという永井勘兵衛を捕らえて京に送り、尋問の後に処刑した」という記録が残されている

*65 嫡男の古田重広も連座して死罪に処せられた

*66 なお、生き残った妻子も1622年の「元和の大殉教」で処刑された

*67 そもそも落ち武者狩り自体農民が金品などを目当てに行うようなものだったが、賤ヶ岳の戦いで秀吉がとある落ち武者を捕らえた村を滅ぼしたという行為が知れ渡って以来、全国の農民が消極的になった

*68 真田信繁は、兄の信之が大名(松代藩)として存続し、家康からも評価された立場であった。そもそも信繁(及び父の昌幸)が大坂の陣の前に流刑で済んでいたのも信之らの取りなしが原因である。

*69 江戸時代以降で大名家として織田家が残ったのは彼の家系のみであり、その流れは現代まで繋がっており、その1人がバンクーバーオリンピックのフィギュアスケート選手として出場した織田信成である。

*70 いずれも伊達政宗旧臣。こののち、賢信は平戸藩に仕官し、宣勝は大村藩に仕官している。なお、賢信にはかつて夏の陣の道明寺の戦いで戦死したという説があったが、道明寺の戦いの翌日の戦闘にも参加したという記録が残っているので、現在は戦死説は否定されている。さらに、実は両名とも政宗の命を受けて大坂城に入っていた、いわゆる「スパイ」であったとする説もある。

*71 室町幕府の旧幕臣で、足利義昭の側近。室町幕府政権が瓦解し、やがて信長が死去し豊臣政権が台頭した後も義昭が死去するまで近臣として仕え、その一方で豊臣秀吉と誼を通じた。秀吉亡き後は秀頼に仕えていた。大坂の陣での合戦を生き残り、京都で出家して云庵と名乗っていた。自身の命を救ってくれた細川忠興に仕え、1,000石を与えられて元和9年(1623年)から中津城の留守居役を勤めた。正保3年(1646年)1月20日に死去。享年は110余歳と伝わる。なお、苗字は史料によって「槙島」「槇嶋」などの表記ゆれがある。

*72 織田信長の甥である津田信澄の嫡男。かつて父親が藤堂高虎を召し抱えていた縁がもとで、高虎の家臣となる。しかし、大坂の陣の際に出奔し、高虎軍と戦うこととなった。高虎に許された後は将軍・徳川秀忠に旗本として召し出され、武士身分に復帰。そして2,000石取りになり、徳川家光の治世まで生きた。

*73 例を挙げれば今川氏真や岡部正綱、穴山信君(梅雪)や大久保長安など

*74 鐘銘事件の方広寺を含め、豊臣家が実施した寺社の建立は、家康が秀吉が残した莫大な軍資金を無駄遣いさせるために指示したという説明がされることが多いが、こうして流れ着いた浪人たちに仕事や生活の糧を与える治安対策・公共事業であったという見方もある。

*75 冬の陣における真田信繁の積極出陣策も、目に見える手柄を立てやすい野戦にすることで浪人たちの戦意高揚を期待したという見方もある。

*76 高台院自身の甥で、秀吉との血縁はない。元々改易された大名であったが、監視役の功績もあり後に大名に復帰している。

*77 秀吉の死後、高台院は豊臣家の内紛を避けるために大坂城の西の丸を家康に明け渡し、自身は京へ移り住んだほか、関ヶ原の戦いにおいて甥の小早川秀秋を東軍につかせるための工作を行うなどの動きを見せている。また、家康が高台院の存在を尊重し、秀吉の菩提を弔うための京都・高台寺の創建を経済的・人的に支援していたことや、秀忠が12歳の頃に人質として秀吉のもとに送られた際に、高台院に世話になったことを感謝しており、親密な関係を築いていたことも大きかった。秀忠は大坂の陣後に高台院を訪問したりもしている。

*78 1637年には「島原の乱」という内戦が発生しており、それはあくまでも百姓一揆としては大規模なものではあるが、戦国時代の戦闘とは性格が異なることに留意されたい

*79 首謀者の名前にちなんで「由比正雪の乱」とも呼ばれる。軍学者・由比正雪が幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、丸橋忠弥ら同志とともに幕府転覆を計画するも、同志の中から裏切者が出て未遂に終わったという事件。余談だが、もう一人の首謀者である丸橋の出自には、「長宗我部盛親の庶子・盛澄として生まれ、母方の苗字である丸橋を名乗った」という説がある

*80 家康の家臣・奥平信昌と家康の娘・亀寿姫の子

*81 その前の1931年に市民の寄付で再建はされ、空襲では天守の倒壊は免れるも、周辺の櫓は炎上したほか石垣は破壊され、土台にズレが生じた

*82 いずれも、女性でありながら政治に大いに口を出し権力を持った存在と伝わることから、「そういう存在」が悪女として扱われる傾向があった可能性が高い。また、「悪」という言葉自体、「強い」という意味もある(例:源義平→「悪源太」、阿野全成→「悪禅師」)。実際日野富子はともかく、北条政子は現代では悪くは扱われていない。

*83 実際、秀頼と四郎のそれぞれ年齢の面で考えたとしても、両者が親子であるとすることにそれほど矛盾は見られないという。また、四郎の馬印が、豊臣秀吉のものと同じくヒョウタンであったことが、「秀頼鹿児島逃亡説」を補強することになっているといえる。ただし、四郎の馬印がヒョウタンであったのは、四郎の父が小西行長の家臣であり、小西行長が豊臣秀吉の家臣であったためと考える方が自然とも言われている。さらに、農民とキリシタンが起こした一揆の討伐にしては、徳川軍の態度はあまりに執拗であったため、「四郎を絶命させておかなければならない理由があったのではないか?」という主張もある。また、「島原の乱」当時の鹿児島の書物に「豊臣秀剛」なる名前がみられ、これが天草四郎の別名ではないかとする声もある。いずれにしても「天草四郎時貞=豊臣秀頼の落胤」という説は歴史ロマンとしては面白いが、信ぴょう性の高い学説としては見られていないのが現状である

*84 1533年生誕説あり

*85 この時できた川は当初は新川と呼ばれ、後に南堀川、その後、道頓堀川と呼ばれるようになった

*86 慶長17年(1612年)から元和2年(1616年)までに行われた、名古屋城の築城に伴う清洲から名古屋への都市の移転。これにより、現在の愛知県名古屋市の基礎が生まれた