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更新日:2026/08/24 Mon 18:22:49
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大坂の陣とは、1614年から1615年にかけて
徳川家康(大御所)・秀忠(2代将軍)が率いる
江戸幕府と、豊臣秀頼と彼を擁する茶々(淀殿)が率いる豊臣家の間に起こった、二度にわたる合戦の総称である。
日本史の年表においては、この合戦をもって
「戦国時代の終焉」として理解される。
ちなみに、現在は「大阪」だが、これは明治以降のことで、当時は「大坂」と表記されていたため、「大坂の陣」で正式な記載である。
経緯
豊臣vs徳川の火種
慶長3年(1598年)、
豊臣秀吉が死去。
秀吉が亡くなった直後も豊臣家は日本全土の支配者として君臨していたが、その跡を継いだ秀頼は当時数えで5歳と幼く、幼君に代わって「
五奉行」(石田三成・浅野長政・前田玄以・増田長盛・長束正家)と「
五大老」(徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)を代表とする家臣団が豊臣家を運営していた。
しかし、豊臣家内部では二度に渡る朝鮮出兵の疲弊による戦後処理の不手際等もあり、
石田三成・小西行長らが代表の「文治派」と加藤清正・福島正則らが代表の「武断派」の二派に分かれて対立していた。
そうして、1600年(慶長5年)、当時五大老の筆頭であった
徳川家康が「武断派」の総大将として、石田三成率いる西軍と関ヶ原にて干戈を交える(
関ヶ原の戦い)。
この戦いに勝利した徳川家康は、急速に天下人としての地位を固めていく。
一方で、西軍に属した大名家は、
戦国史に残る撤退で見事に生還した
島津義弘、西軍に所属しながらも特例で大名へと復帰した
立花宗茂、丹羽長重などを除き、毛利家や上杉家、長宗我部家などは次々と
改易・減封され、豊臣家の直轄領も大幅に削減。
さらに豊臣家臣の中で、家康と対立した首脳部の三成や行長、
安国寺恵瓊らのように死罪となった者もいれば、
大谷吉継や
蒲生頼郷のように戦死した者、そして
宇喜多秀家のように領地を没収され追放となってしまった者もいた。
当主・豊臣秀頼はまだ幼少であり、豊臣家の実権はその母・淀殿(茶々)へ集中することとなる。
一方の家康は1603年(慶長8年)、朝廷から
征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開府。
ここに「江戸時代」が始まった。
もっとも、当主が幼いとはいえ、この時点では豊臣家も依然として巨大な勢力であり、徳川と豊臣のどちらが真の天下人なのかは、未だ曖昧な部分もあった。
淀殿からすれば、秀頼は当時の大名家の息子としては珍しく自分の手元で、自分の乳で育てた最愛の我が子であったために、
「私の息子こそ天下人よ」
という思いが強かったのだ。
それに、家康が将軍に就任したことについても
「秀頼を補佐するために将軍職についてくれた」
としか考えていなかったようである。
家康は豊臣家との対立を回避するため、孫娘・千姫を秀頼へ嫁がせるなどの懐柔策を進める。
しかしその一方で、幕府政治の整備は着実に進行しており、豊臣家の権威は徐々に相対化されていった。
わかりやすく言うと、豊臣家は徳川政権においては、
「天下人」の地位から転落して一つの「大名家」になっていったのである。
特に1605年(慶長10年)、家康が将軍職を嫡男・徳川秀忠へ譲ったことは大きい。
これは単なる隠居ではなく、
「徳川将軍家による世襲支配」を天下へ示した出来事であり、
「豊臣家へ政権を返還する意思がない」ということを明確にしたのである。
当然、豊臣側はこれに強く反発したが、この時はまだ行動を起こさなかった。
その翌年には家康が新しい城「駿府城」の大改修を開始。豊臣家もこの改修への参加を要請され、やむなくこれに応じる。
更に翌年には駿府城が完成し、家康は江戸城からそこに移るが、なおも政治に関与し、将軍・秀忠の政治に対して様々な助言をした。いわゆる「大御所政治」の体制である。
この体制も、豊臣家への「あなたたちには政権をお返ししません」というメッセージを決定的なものにしたといえる。
後水尾天皇が即位したことをきっかけとして、家康は秀頼へ、新将軍・秀忠への挨拶と自身との会見を求めたが、淀殿はこれを拒否。
「無理に従わせるなら、私は秀頼と共に死ぬわ」
とまで語ったとされる。
諸国に緊張が走り、京や大坂では「近く戦が起こる」との噂が流れ、人々が避難する騒ぎにまで発展した。
もっとも、淀殿が加藤清正や福島正則、秀吉の正室・高台院(北政所/ねね)の説得を受けて一旦は折れたため、この段階ではまだ全面衝突には至らなかった。
家康も豊臣家の即時滅亡を望んでいたわけではなく、豊臣家もまた、徳川との決定的対立は避けたいという思惑を持っていたためである。
その後も両者の交渉は続き、1611年(慶長16年)にはついに家康と秀頼の直接会見が実現する。
この会見には加藤清正や福島正則、高台院ら豊臣恩顧の面々が尽力した。
会見自体は和やかな空気で終わったとされる。
しかし家康は、若武者として成長した秀頼を見て「親離れを期待した」とも。また自身の年齢も重なって「その存在に危機感を持った」とも言われている。
1605年に淀殿が徳川幕府に臣従しない姿勢を明確にしてから、家康と秀頼が会見を行うまで、6年も間があることがミソである。
そして、この会見の後、加藤清正と浅野長政が病で急逝する。
1613年(慶長18年)には池田輝政と浅野幸長が若くして病で亡くなり、1614年(慶長19年)に前田利長が病死した。
特に、清正と長政の死亡した時期が、会見が行われてからそれほど時間が経過していなかったため、暗殺説まで流れたほどであった。
このようにして、恩顧の大名が相次いで鬼籍に入ったことで、豊臣家は次第に孤立を深めていった。
そうして、この会見を境に豊臣家と徳川幕府との関係は急速に悪化していく。
この急速な関係の悪化は、「家康が立派な若者に成長していた秀頼を見て危機感を抱いたから」と説明されることも多いが、豊臣家の実権は相変わらず淀殿が握っていたため、「豊臣家を臣従させるための最後の手段であった会見も、淀殿の存在や考えを変えさせるという目的を果たすまでには至らなかったから」とも考えられる。
加えて言うと、この会見でも「家康への敬意」は見せたものの、豊臣方は秀忠に関しては無視である。
後水尾天皇即位式の際に秀頼も上洛して、秀忠を舅として立てる、千姫との夫婦円満ぶりをアピールすれば、徳川方も次期将軍・家光の義兄として秀頼に配慮せざるを得ないが、豊臣方は秀忠への敬意や家光への協力の意思と言った徳川家の未来に対する友好の意思を一切示していない。
当初は、秀忠も妻・小督(江/崇源院)の第一子で秀吉と淀殿が後見していた完子を五摂家の近衛家に嫁がせて、徳川、豊臣、近衛の三家で天皇家を監視する体制を準備していたが、秀頼に舅としての面子を散々潰されて我慢の限界に近づいていた一面も存在する。
近年は、家康や豊臣家との親交が有った者も多い家康付きの古参家臣が秀忠やその重臣達を宥めていたのが限界に達したのではないか?と言う意見まで出ている。
この会見以降、豊臣家も動き始める。
幕府の統制を無視して朝廷へ官位を申請したほか、浪人の召し抱えや兵糧の備蓄を積極的に進めるなど、明らかに来たる徳川幕府との戦を意識した動きを見せ始めるのである。
対する幕府側もまた、諸大名へ忠誠を誓わせる一方で、武器調達など軍備拡張を進めていた。
豊臣家のこうした動きに対して、「豊臣家が焦り始めた」と説明されることが多い。
その焦り始めた詳しい理由までは不明ながらも、この頃の「豊臣家寄りの立場をとる有力大名が高齢化したり相次いで鬼籍に入っていったり、徳川幕府の体制が年々強固になっていったりした」という状況を考えれば、そうした状況が豊臣家の焦りの理由となっていたことは否めないだろう。
こうして両者は、表面上こそ和平を装いながらも、水面下では徐々に決戦への道を歩み始めていたのである。
方広寺鐘銘事件
そして1614年(慶長19年)、両者の対立を決定的なものにした事件が発生する。世にいう「方広寺鐘銘事件」である。
かねてより家康が豊臣家の財力を削るために再建させた方広寺というお寺に収めた鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」という文言が刻まれていたのだが、この文言を本多正純や儒者・林羅山、「黒衣の宰相」こと金地院(以心)崇伝が問題視し、それをうけた徳川幕府が
「『国家安康』の文言は、『家康』の字を引き裂いて呪うものである。さらに『君臣豊楽』の文言は、『豊臣が主君になることを楽しみとする』という意味だ!」
という言いがかりを付け、豊臣家に釈明を求めたのである。
これらの主張は現在の感覚では言い掛かりに聞こえなくもないし、実際のところ、従来は「徳川幕府が豊臣家潰しのためにひねり出した言いがかり」とされてきたが、近年は豊臣家の悪意か、非難されて当然の不注意によるものと説明されている。
まず、「家康」という名は「諱」であり、主君や近親者など、ごく限られた人物しか直接呼ぶことを許されない極めて重要な名前であった。
当時の価値観では、親しくもない相手の諱を勝手に使うこと自体が非常に無礼な行為であり、通常は通称や官職名で呼ぶのが礼儀とされていた。
実際、家康も当時は「内府」などと呼ばれることが一般的であり、諱を公の場で露骨に使用することはまず避けられていた。
そのため、「国家安康」の中に「家康」の二文字が分割された形で含まれていたことは、われわれ現代人が想像する以上に強い違和感を持たれても不思議ではなかったのである。
さらに問題視されたのが、鐘銘序文の「外施仁政」という文言である。
当時の天皇であった後水尾天皇の諱は「政仁」であり、こちらも本来であれば避けるべき文字であった。
つまりこの鐘銘は、徳川家康のみならず、朝廷に対しても配慮を欠いていると受け止められかねない内容だったのである。
実際、この点に関しては当時の学者や僧侶などの有識者が「前代未聞の無礼」と批判している。
かつて関ヶ原の戦いの発端となった、上杉家臣・
直江兼続が挑発的な文章を送って家康を激怒させたことで知られる、いわゆる「直江状」においてさえ、家康の事を「内府殿」と指していた。
「直江状」ですら守っていた最低限の礼儀を、この鐘銘は踏み越えてしまっていたのである。
鐘銘としてこのような内容となった背景には、文面を作成した僧・
文英清韓が豊臣家寄りの人物であったことも影響していると考えられている。また、豊臣家側は姓である「豊臣」は使用している一方で、諱である「秀頼」は避けている。
こうした点を踏まえると、
豊臣側が「家康」の諱を意識していなかったとは考えにくいという見方も存在する。
片桐且元、失脚
これに対し、豊臣家は弁明のため、家臣の片桐且元と、淀殿の乳母で大野治長・治房・治胤・治純兄弟の母親である大蔵卿局を駿府の家康の元へ派遣した。
且元は、豊臣家の重臣でありながら徳川家との融和を重視する現実派であり、この時点でもなお和平成立を模索していた人物であった。
しかし、ここで家康は極めて巧妙な対応を見せる。
まず大蔵卿局に対しては直接対面し、丁重に扱い、穏便かつ友好的な態度を見せた。
ところがその一方で、片桐且元に対しては本多正純と金地院崇伝を通じ、
- 秀頼が徳川へ臣従する
- 淀殿を江戸へ人質として送る
- 豊臣家が他国へ移封される
という、豊臣家にとって到底受け入れがたい条件を突き付けたのである。
当然ながら、豊臣側は混乱した。
大蔵卿局が家康から友好的な態度を取られ、丁重に扱われたことを真に受けて楽観的な報告をしたことに対し、且元が条件を受け入れて家康に臣従することを主張したためである。
この食い違いによって、豊臣家内部では「且元は徳川と内通しているのではないか?」という疑惑が急速に広がっていく。
とはいえ、上記の三つは「徳川に臣従し将軍家に敷いた封建体制に組み込まれる姿勢を示すための当然の行為であり、他の大名は従っている以上豊臣だけ例外というわけにはいかない」条項であり、「いい加減自分たちだけ大名家として特別扱いされるのはやめろ」という意思表示でもある。現に、関ケ原の戦い前夜では、前田家が当主・利長の母であるお松の方(芳春院)が自ら人質として赴いて謀反の意思がないことを示し、事なきを得ている。
秀頼やその側近である大野治長は且元の意見に賛同しつつあったのだが、淀殿や大野治長の弟・治房、渡辺糺(内蔵助)、織田頼長などの主戦派は且元への不信感を強め、ついには且元の暗殺計画まで持ち上がる。
暗殺される寸前まで追い詰められた且元は、自邸周辺に堀を巡らせるなど警戒を強めた後、大坂城を脱出。
ついでに且元に暗殺計画を伝えたとされる織田信雄も総大将に推挙されるという噂がありながらも退去した。
こうして、豊臣家における最後の有力和平派は完全に失脚した。
そして且元が豊臣家を出奔したことを、家康は「豊臣家が家臣を殺そうとした暴挙」として強く非難。
さらに豊臣側も、「もはや徳川との和平は不可能」と判断し、全国の浪人を大坂城へ招集して徹底抗戦の構えを見せる。
これを受けた徳川家康は、ついに豊臣討伐を決断。
戦国時代最後の大戦───「大坂の陣」───が幕を開けるのであった。
大坂冬の陣
浪人たちの集結
1614年(慶長19年)11月、ついに徳川家と豊臣家は全面戦争の準備を開始する。
徳川家康は全国の大名へ出陣命令を下し、諸大名の軍勢が続々と集結。
その総兵力は、およそ20万とも言われる圧倒的大軍であった。
一方の豊臣家もまた、諸大名へ味方するように働きかけた結果、福島正則は大坂城内にある福島家の蔵屋敷の米の使用を黙認したり、毛利輝元と加藤忠広は家臣を大坂城に送り込んだりと裏で豊臣家の支援をおこなう者達もおり、中には蜂須賀家政のように大坂城に入城しようとしたところを息子に制止されたり、田中忠政のように家臣達の間で豊臣家に味方すべきという理由で一揆が起きたりと諸大名の動きは様々だったが結局は大坂城に入城した大名は一人も現れなかった。
毛利輝元は徳川方として出陣しながらも、母方の従兄弟にあたる重臣・内藤元盛に「佐野道可」という偽名を名乗らせ、彼を大坂城へ送り込んでいる。
この時、元盛には軍資金や兵糧を持たせ、徳川軍の内情の報告も行わせていたとされている。
夏の陣において、元盛は炎上する大坂城から脱出し、京都に潜伏していた。
戦後になって元盛を逮捕した幕府は、元盛が毛利一門であることを知っていたため、毛利氏の豊臣方への内通を追及したが、元盛は「あくまでも私の意志によるものです」と主張し続け、毛利家に累が及ばないよう切腹して果てた。
幕府もそれ以上追及できなかったため、毛利家は取り潰しを免れた。
一方で、輝元はその後、元盛の嫡男・元珍と次男・粟屋元豊を切腹させ、孫を幽閉して、いったん内藤家は断絶となった。
これがいわゆる「佐野道可事件」である。
なお、一旦断絶した内藤家だが、元盛の曾孫の代になって毛利家の家臣として復活を許されている。
また、加藤忠広の父・加藤清正は豊臣秀吉の親戚(母親同士がいとこであった)にあたり、忠広自身も豊臣秀頼に武器や兵糧の援助をしていた過去があった。
しかし、忠広はすでに徳川家との縁戚関係(家康の養女を正妻として迎えていた)を結んでおり、幕府側として戦う選択をしていた。
しかし、それにもかかわらず、大坂城には約10万もの兵が集結する。
これは大坂の陣という戦いが、
通常の「大名同士の戦争」ではなかったことを示している。
豊臣家は以前から莫大な資金を投じ、全国から浪人を召し抱えていた。
関ヶ原の戦いで西軍に属して没落した大名家、その旧臣たち、主家再興を望む武士たち、さらには戦乱の世を忘れられない者たち、そして徳川家に恨みを持つ者たち───
そうした人々が大坂城へ集っていたのである。
真田信繁(幸村)、
長宗我部盛親、
明石掃部頭、
後藤又兵衛(
正親)、
毛利吉政、
大谷吉治、
仙石秀範、
福島正守、
小幡景憲、
塙直之(団右衛門)などそうそうたる顔ぶれが集結した。
また、老将・
和久宗是のように、自らの死に場所を求めて参陣した者も少なくなかったという。
関ヶ原の戦いの後に八丈島へ流刑となるも、泳いで大坂城まで駆けつけた宇喜多秀家…は参戦しておらず、ネタの範疇。
尤も、その実態は決して統率された軍隊ではなかった。
豊臣軍には傭兵や素性不明の浪人、さらには「傾奇者」と呼ばれる過激な風俗の若者たちまで大量に含まれていたのである。
当時は太平の世へ移行しつつあり、戦働きによって立身出世する時代は終わりつつあった。
だが、親や年長の者からそうした話を聞かされてきた若者たちにとって「戦国の世」は未だ憧れの世界であり、大坂の陣はそんな憧れが実現できる一世一代の晴れ舞台でもあった。
そのため、「派手すぎる甲冑で馬が疲弊する」「巨大な旗に風を取られて転倒する」「無意味に奇抜な格好で現れる」など、後世に語り草となる珍騒動も少なくなかったという。
なにより、当時はまだ関ヶ原の合戦から15年程度で、戦国時代の戦場での経験を武器に食いつなぐ浪人や傭兵たち、さらには取り潰された元大名やその家臣などが大量に残っていた。
しかし、幕府が成立したことで戦乱は一区切り付き、彼らは行き先を失い、仕官も出来ず食い扶持すら怪しい状態になっていた。
彼らにとって、大坂の陣は平和になりつつある社会情勢の中で名を上げ仕官先を得るための絶好の舞台でもあった。
「勝つ方につく」のが戦の常道ではあるが、「負けそうな方について勝つ方が名が上がる」というのもまた戦の常道である。
こうして豊臣家は10万近い大軍を揃えることに成功する。だがその実態は、あくまで寄せ集めの浪人軍でしかなかった。
豊臣家の正規軍も大野三兄弟や七手組などが存在していたのだが大坂の陣を通じて豊臣正規軍で存在感を示したのは木村重成くらいであった。
対する徳川軍は、全国の大名による組織化された正規軍であった。彼らも関ヶ原や各地の戦乱を生き抜いてきた者も相当数おり、浪人たちと比べて練度が劣っていたとは言い難い。
大坂城という巨大要塞を擁してなお、豊臣側の勝機は決して大きくなかった。
そのため、大坂方は
籠城戦を選択したのであった。
後述するとおり、野戦を主張した真田信繁(幸村)が奮戦したこと、元々援軍がある戦いではなかったために籠城戦は失策であったと語られがちである。
しかし、前記したとおり寄せ集めの浪人軍に過ぎない大坂方は幕府方の正規軍に太刀打ちするほどの組織だった兵運用が望めなかった。
籠城していれば幕府方が大軍であることも付けいる隙となる。
長期間の軍動員は領地経営を傾かせかねず、長引けば動員された諸大名が「領地に帰らせろ」と騒ぎ出すのは目に見えているからだ。
このため、籠城戦の選択そのものは合理的なものであったと考えられている。
鴫野・今福の戦い
冬の陣は大坂城を中心とした籠城戦となったが、その周辺ではいくつかの野戦も発生した。
中でも大規模だったのが、城東で行われた「鴫野・今福の戦い」である。
ここでは、上杉景勝率いる上杉軍が活躍した。
上杉軍は巧みに部隊を展開し、敵を引き込んだところへ鉄砲の一斉射撃を浴びせる戦法で豊臣軍を圧倒。
さらに援軍として現れた徳川軍と連携し、豊臣側を押し返している(鴫野の戦い)。
また北方では、木村重成や後藤又兵衛が佐竹義宣の軍勢を追い詰める活躍を見せたものの、上杉軍の増援到着によって形勢が逆転。豊臣軍は撤退を余儀なくされた(今福の戦い)。
この戦いで家康は、上杉軍へ「別の部隊と交替して休め」と命令を出したが、上杉景勝は
「武士として生まれた私には、先陣を争い、身を粉にして戦って奪った土地をみすみす他人へ渡すことなどできませぬ」
としてこれを拒否したとも伝わる。
この戦いの後、木村重成は大坂城において評価が高まり、佐竹義宣は将軍・徳川秀忠からその奮戦ぶりを認められ、感状を贈られている。
その他に秀忠から感状を送られた上杉家臣の水原親憲は「こんなガキの石合戦みたいな戦いで、感状を賜ることになるとは」と言い残したとされる。
なお、同じく活躍した直江兼続は「関ヶ原の時はあんなに勝気だったのに今は徳川に媚び売るのに必死だ」と家中でdisられていて、上記の水原の言葉もそうした兼続をdisったものだとされている。
真田丸
冬の陣最大の激戦となったのが、真田信繁(幸村)が築いた出城・「真田丸」の攻防である。
大坂城は天然の河川に守られた巨大要塞であったが、南側は比較的守りが薄かった。
信繁はそこへ独立した防衛拠点として真田丸を築き、それを前線の防衛拠点として徳川軍の侵攻を阻み、これを迎え撃ったのである。
もっとも、そこには戦術的理由だけでなく、
「豊臣首脳部の指揮下では思うように戦えない」
という信繁自身の事情もあったとされる。
実際、信繁は当初、
「籠城ではなく積極的な野戦を行うべき」
と積極策を主張していたが、大野治長や淀殿らに却下されていた。
豊臣家に招かれて入城した立場であった信繁は、自身の作戦が採用されにくく、豊臣首脳部の方針に逆らうことが出来なかったのである。
そのため、本隊からやや離れた真田丸へ拠点を置き、真田家家臣団を中心に独立して防衛を行う形を取ったのである。
とはいえ、徳川軍の主攻方向が南側である以上、そこへ防衛拠点を築くこと自体は極めて合理的な判断であった。
もっとも、徳川軍も大坂城を正面から攻めれば甚大な損害が出ることは理解していた。
そのため家康は当初は慎重な姿勢を取っていた。
しかし、信繁はそんな徳川軍を巧みに挑発する。
真田丸前面の「篠山」に伏兵を潜ませ、前田軍へたびたび鉄砲を撃ちかけては撤退するという嫌がらせを繰り返したのである。
当然、前田軍は激怒。
数日後、篠山へ総攻撃を仕掛けるが、そこには既に誰もいなかった。
しかも、退却した真田兵たちは遠くからその様子を見て大笑いしていたという。
これに前田軍先鋒の一部が完全に頭へ血を上らせ、独断で真田丸へ突撃を開始。
すると周囲の井伊直孝、松平忠直、藤堂高虎らの部隊も「前田軍が抜け駆けした!」と勘違いし、次々と攻撃へ加わってしまう。
しかしそれこそが、信繁の狙いであった。
徳川軍が十分引き付けられたところで、真田軍は一斉反撃を開始。
鉄砲隊による集中射撃、事前に準備されていた罠、柵、防壁を駆使し、突撃してきた徳川軍を容赦なく撃ち倒していく。
特に真田軍の鉄砲運用は極めて優秀であったと言われる。
信繁は大坂入城前、鉄砲生産地として知られる紀州へ滞在していた時期があり、そのため配下には鉄砲の扱いに長けた者が多かったのである。
こうして徳川軍は真田丸の前で大混乱に陥る。
だがその最中、予想外の事態が起きた。
真田丸後方の大坂城内部で火薬庫の爆発事故が発生し、櫓の一部が炎上したのである。
実は徳川側は事前に、豊臣方武将・南条元忠へ調略を仕掛けていた。
そのため徳川軍は、「南条元忠が寝返った」と誤解してしまった。
しかも後藤又兵衛が、元忠の筆跡を真似て偽書まで送っていたため、徳川側は完全に騙されてしまった。
しかし実際には、元忠は既に内通発覚によって処刑された後であり、爆発も単なる事故に過ぎなかった。
それを知らない徳川軍は、「今こそ城門が開く」と信じて猛攻を開始。
だが当然ながら門は開かず、逆に城壁から激しい反撃を浴びることとなる。
真田丸前面でも鉄砲隊の猛射によって徳川軍は次々倒れ、ついに撤退を開始。
その瞬間、真田軍と豊臣軍は一斉に打って出た。
もはや戦いは「攻防戦」というより掃討戦に近い状態となり、徳川軍は多数の死傷者を出して潰走したのである。
この被害を見た家康は、「大坂城の力攻めは困難」と判断。
また名前の通り、行われた時期が冬で、しかも寒波も押し寄せていたため士気の低下も出始めていた。
落城の見通しが立たないまま長期化すれば参陣した大名たちが「領地に帰らせろ」とゴネ始めかねない。
以後、豊臣方との和平交渉へ傾いていくこととなる。
束の間の和平
尤も、疲弊していたのは徳川側だけではなかった。
徳川軍は連日、大坂城へ大砲(イングランドより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門やオランダ製の4・5貫目の大砲12門)を撃ち込んでおり、城内では昼夜を問わず砲撃が続いていた。
砲弾そのものはあまり城に届かなかったようであるが、夜にも響き渡る凄まじい爆音は籠城者の精神を削っていく。
特に珍しく本丸に着弾した砲弾は、淀殿の目の前で侍女が死亡する事件を起こし、彼女へ大きな衝撃を与えたと言われる。
当初は強硬姿勢を崩さなかった淀殿も次第に弱気となり、家康が提示した和平交渉への受け入れへ傾いていった。
豊臣家では、この時点でもなお淀殿の発言力が極めて強かった。
一方彼女自身だが、決して戦場慣れした人物ではなく、小さい頃に2度の落城の経験もあり、トラウマもあったとされる。
連日の砲撃による恐怖と疲労は、豊臣方首脳部の戦意を確実に削っていたのである。
こうして「大坂冬の陣」は1ヶ月ほどの交戦の末に終結した。
色々とぐだぐだした部分はあったものの、「長期化すれば攻城側は帰るしかなくなる」という籠城戦に関する見通しは、
少なくともここまでは的中していたのである。
だがそれは、豊臣家滅亡への序章に過ぎなかった。
そして翌年には、より苛烈で、より悲惨な「大坂夏の陣」が始まることとなる。
大坂夏の陣
大坂城、丸裸にされる
1614年末、「大坂冬の陣」はひとまず講和という形で終結した。
当初の大坂方は、講和の条件として「淀殿を人質にするので、浪人に与える領土を増やして欲しい」と申し入れていた。
だが、当然徳川方としては飲めるはずのない要求であった。
とは言え、浪人たちを武装解除させることは徳川方としても必要だったためか、お互い相応に譲歩した。
交渉役として徳川方は家康の側室の阿茶局、豊臣方は故・京極高次の妻で淀殿の妹でもある常高院が当たった。
最終的な講和条件として、
- 大坂城の外堀を埋めること
- 二の丸や三の丸など外郭部分を破却すること
- 豊臣秀頼と淀殿の身の安全を保障すること。淀殿は人質に出なくてもよい
- 豊臣家の領地を安堵すること
- 城内の浪人たちの罪を問わないこと
などが定められた。また、大野治長の息子は、講和の際に徳川方に人質に出された。
ところが、工事を担当した徳川方の本多正純は、外堀だけでなく内堀にまで手を付け始める。
さらに二の丸や三の丸のみならず、その周辺の砦や真田丸を含め防衛設備までも徹底的に破壊され、大坂城は次第に防御能力を失っていった。
この「内堀埋め立て」については、現在でも議論がある。
従来は「徳川側による露骨な条約違反」と説明されることが多かったが、一方で、豊臣側の抵抗が弱かったことから「交渉段階である程度黙認していたのではないか」という見方も存在する。
とはいえ、結果として大坂城は「天然の要害」としての機能をほぼ失い、巨大な裸城と化した。
これに対し、豊臣家もまた不穏な動きを続けていた。
冬の陣後も浪人衆を解散させず、そのまま城内へ留め置いていたのである。
徳川方は「浪人不問」はあくまで穏便に武装解除をさせるための助命措置であり、その後の武装解除と解雇が前提だと考えていた。
だが、豊臣方は武装解除をさせていなかったどころか、豊臣方の浪人たちが京都で略奪を起こす事態までが報告されたのである。
豊臣側は「罪を問わない以上、そのまま召し抱えても問題ない」と解釈していたという見方がある。
または、一部の主戦派首脳部や浪人の統制が効かなくなり、もはや浪人を召し抱えて扶持を与えなければ略奪が激化したり、最悪豊臣方に矛を向けかねなかったという見方もある。
豊臣方の内情がどうであれ、徳川方としてはこのような豊臣方の動きを放置することは出来ない。
ただでさえ、明確に軍事衝突した豊臣家に対し、曲がりなりにも所領を安堵するという例のない寛大な対応を取っている状況下である。
盟約違反まで許すことは、幕藩体制が固まってない状況において外の大名たちにとっても悪しき先例として残ることになる。
これを受け、翌1615年(慶長20年)3月、家康は豊臣家へ最後通告を突き付ける。
「浪人を解雇するか、国替えに応じるか、どちらかを選べ」
事実上の降伏勧告であった。
これに対し、豊臣家中でも和平派と主戦派が再び激しく対立する。
淀殿・秀頼母子の側近であった大野治長は、織田有楽斎らと共に講和を模索する側に回っていた。
しかしその最中、強硬派であった弟の治房に襲撃され負傷する。有楽斎も強硬派の妨害を受けて
「誰も私の言うことを聞こうとしない」
と怒って大坂城を去り、和平案は完全に消滅する。
こうして豊臣家は徳川方の要求を拒否。
徳川方も再び全国の諸大名へ出陣を命じ、両軍は再戦へ向けて動き始めた。
もっとも、この時点で豊臣側の状況は極めて厳しかった。
大坂城が弱体化したため、流石に勝機が乏しすぎると判断したためか、多くの浪人が離脱してしまっていた。
それでも残るのは、よほどの豊臣恩顧か、寝返ったところで行き先のない者たちだけであった。
さらに大坂城は堀も防衛設備も失っており、籠城戦はもはや不可能に近い状況であった。
そのため家康は、
「兵糧は三日分あれば十分」
と語ったとも伝わる。
ただ、豊臣方とて、このまま籠城していては勝ち目がないことを理解していた。
そのため夏の陣では、冬の陣とは対照的に、積極的に野戦へ打って出る方針を採ることとなる。
こうして1615年(慶長20年)4月末、戦国時代最後の大戦、「大坂夏の陣」が始まった。
道明寺の戦い
夏の陣における兵力は、豊臣方がおよそ7万であった。
対する徳川方は15万以上とも言われ、依然として倍近い兵力差が存在していた。
まず豊臣軍は、大野治房を総大将として奈良・堺方面へ進軍。
徳川方に協力的だった地域を攻撃し、さらに紀伊方面で一揆を誘発して、徳川軍の後方を混乱させようと試みる。
しかし先鋒部隊は浅野軍に撃退され、一揆工作も失敗。豊臣軍は十分な成果を得られないまま撤退し、塙直之は戦死してしまった(樫井の戦い)。
その後、徳川軍主力は大和方面から進軍を開始。
豊臣側は、大坂城へ通じる要衝・道明寺付近で迎撃を行おうとする。
ここには真田信繁(幸村)、毛利吉政、明石掃部頭、後藤又兵衛などの豊臣軍でも屈指の実戦派武将が集結していた。
しかし、この日は濃霧であった。
視界不良により、各部隊は互いの位置を見失い、連携が完全に崩壊。
特に寄せ集め色の強かった豊臣軍は、統率面で大きな弱点を露呈することとなる。
そして最初に戦場へ到着したのが、後藤又兵衛率いる約2800の部隊であった。
だが、他の豊臣軍はまだ到着していない。
その一方で、徳川軍はすでに目前まで迫っていた。
後藤又兵衛は小松山へ布陣し、単独で敵を食い止めようとする。
しかし相手は伊達政宗、
本多忠勝の次男である本多忠政、
水野勝成などの2万以上の猛将ぞろいの軍勢であった。
圧倒的兵力差の前に、後藤軍は奮戦虚しく壊滅した。
続いて到着した
薄田兼相も冬の陣での汚名を濯ぐべく僅か数百の手勢で特攻を敢行し討ち死にを遂げる。
そこへ霧を抜けて明石掃部頭らが到着するが、各部隊はバラバラに戦場へ突入してしまう。
結果として、この戦いで豊臣軍は徳川軍に各個撃破される形となり、多数の武将を失うこととなった。
この敗北は、単なる戦術的失敗ではない。
豊臣軍が抱えていた「寄せ集め軍隊としての脆さ」が、一気に表面化した戦いでもあった。
その授業料はあまりに高く、主力級の武将の多数喪失は、元々統率の難しい浪人たちの指揮がほとんど不可能になったことも意味していた。
もっとも、その後到着した信繁と吉政は奮戦する。
特に真田勢は伊達軍へ猛攻を加え、大きな損害を与えた(誉田の戦い)。
だが、他戦線の崩壊によって戦況は隠しようもなく既に悪化していた。
八尾・若江方面では、木村重成・長宗我部盛親らが藤堂高虎軍を押し返していたものの、その後到着した井伊直孝軍との戦闘で木村重成が戦死。
これにより豊臣軍全体の戦線維持は困難となり、真田信繁も急ぎ大坂城方面へ撤退せざるを得なくなる。
こうして夏の陣は、いよいよ最終局面の大坂城南方での決戦へと向かっていく。
天王寺・岡山の戦い
1615年(慶長20年)5月7日。
豊臣軍と徳川軍は、大坂城南方の天王寺・岡山一帯で激突する。
豊臣軍は約3万弱。対する徳川軍は10万以上。
兵力差はもはや絶望的であった。
戦いの前、真田信繁は
「総大将自らが戦場に姿を見せなければ、兵の士気は保てない」
と危惧していた。そのため、
「最後の決戦に勝つために、何としても殿(秀頼)自らお起ち下さいませ」
と秀頼や秀頼の側近たち、淀殿を説得した。
しかし、淀殿や側近たちはこれを拒否。
一説には秀頼は一度城門付近まで出たとも言われるが、結局本丸へ戻ってしまう。
こうして、総大将不在のまま決戦が始まった。
豊臣軍に残された勝機はただ一つ。「徳川家康の首を取ること」。ただそれだけであった。
そのため、この日の豊臣軍は凄まじい攻撃を見せた。
跡が無い豊臣勢の猛攻により大名クラスにも被害が出ており、小笠原秀政と忠脩親子や酒を飲んで余裕ぶっこいていた本多忠朝などが討ち死にを遂げている。
中でも真田信繁の突撃は伝説的であり、徳川軍の諸隊を次々撃破。
ついには家康本陣へ突入する。
本陣の旗印が倒れ、徳川軍は大混乱に陥った。
別働隊の大野治房も秀忠本陣へ迫り、一時は徳川軍全体が崩壊寸前にまで追い込まれている。
あと、徳川方の神保相茂がどさくさの中で伊達政宗に射殺され、神保隊は壊滅した。
戦後、神保隊の生き残りが水野家を通じて訴え出るも、政宗は
「確かに俺たちは神保殿の隊が味方とわかってて撃ったよ。けどよ、前線の味方が崩れて俺たちの陣まで後退してきたら、敵の陣と一緒に撃たなきゃこっちが負けちまうだろ?そうなったら最悪、徳川軍全体が崩壊するかもしれねえ。だから、仕方なく撃ったんだ。それに、うちの軍法には敵味方の区別なんざありゃしねえのさ」
と言い張った。小大名の神保家と大大名の伊達家では争いにもならず、幕府としても、ようやく乱世が終息した中での大名同士での大きな内輪もめはイヤだったため、わずか4名ほどの生き残りしかいない神保家の訴えをもみ消し、伊達家はお咎めなしとなった。こ れ は ひ ど い。
この時、家康が切腹を覚悟したという逸話や、「家康討死」の噂が流れたという話まで残るほどであった。
その後3度にわたって突撃されたが、この時点で豊臣軍には最後の一押しとなるべき兵力も継戦能力も残されていなかった。
激戦もむなしく、信繁は家康を討ち取るまでには至らず、一時撤退して休息していた所を、越前松平家鉄砲組頭・
西尾宗次に発見され、
「この首を手柄にされよ」
との最後の言葉を残して討ち取られた。
その最期とそれに至るまでの神懸かり的な凄まじい奮戦ぶりに、徳川方の将の一人である
島津忠恒から贈られたのがあの有名な
「日ノ本一の兵」の呼び名である。
彼の死によっていよいよ指揮官がいなくなった豊臣軍は急速に崩れ始め、徳川軍は態勢を立て直して反撃を開始した。
残された指揮官である毛利吉政は全軍へ大坂城への撤退を命じる。
しかしその頃には、すでに城内から火の手が上がっていた。豊臣家に仕えていた料理人が、火をつけていたのである。
炎上する大坂城。崩壊する豊臣軍。
その夜、京都からも大坂の空が赤く染まるのが見えたという。
豊臣家滅ぶ
落城直前、淀殿は秀頼の正室・千姫を城外へ脱出させる。
千姫は家康の孫娘であり、秀忠の娘でもあった。
淀殿は彼女に、
「秀頼だけでもいいから命を助けてほしい」
と託したのである。
千姫は豊臣方の武将・堀内氏久に護衛され、徳川方の
坂崎直盛(石見国津和野藩主)へ引き渡された後、父・秀忠の元へ到着。到着するや否や、秀頼助命を願い出た。
しかし、もはや徳川方にそれを受け入れる余地はなかった。
特に秀忠は強硬であり、豊臣家存続を許そうとはしなかったとされる。
それは、武士の世界において「多くの家臣や兵士達を犠牲にして落城寸前まで抵抗した者が助命嘆願をするのは恥」とされていたからである。
実際、淀殿・秀頼母子は、幾度にも及ぶ臣従要求や降伏勧告の全てを拒絶し続けており、家臣や兵士達、浪人達、更には民衆達まで巻き添えにしたため、いくら千姫が助命嘆願をしたところで、もう遅かった。
更に、助命の対象が、
城兵や領民ではなく倉庫に残された秀頼のみであるという何とも身勝手な要求であったため、秀忠は一層頑なにこの要求を突っぱねた。
関ヶ原の戦いの際、結果的に岐阜城主・織田秀信は助命されているが、
「自分を守る為に最後まで戦ってくれた兵士達に再就職切符になる感状を書き終えるまで待って欲しい。それを書き終えたら自分の首で兵士達を助けて欲しい。」と攻め手の福島正則に懇願した結果、「此れほど高潔な貴人を殺すのは惜しい」と正則が助命嘆願を行い、他の攻め手の武将達も正則の嘆願に賛同する、と秀頼のケースと真逆の結果だった。
一方その頃、淀殿と秀頼は城内の蔵へ身を潜めていた。
これは、千姫の嘆願による返答を待っていたためとも言われる。
だが、返事は来なかった。それどころか、返答代わりに井伊直孝に銃弾を倉庫に撃ち込まれた。
助命が叶わぬことを悟った淀殿は、秀頼と共に自害を決意する。
1615年5月8日。淀殿・豊臣秀頼母子は自害。
介錯は毛利吉政が務め、その後吉政も燃え盛る大坂城の中で自害した。
更に、真田信繁の嫡男・真田大助や大野治長、大蔵卿局も主君の後を追い、同じく燃え盛る大坂城の中で自害する。
こうして、豊臣家は滅亡した。
戦後
大坂夏の陣によって豊臣家は滅亡したが、その戦後処理は極めて苛烈なものであった。
特に大坂城落城後、市中では徳川方の雑兵による略奪・放火・暴行が横行したと伝えられている。
夏の陣では、それまで江戸留守居役であった黒田長政も出陣しており、戦後、長政は絵師たちに命じて「大坂夏の陣図屏風」(画像上)を制作させている。
この屏風には、戦場で戦う武士だけでなく、敗走する民衆や、略奪・暴行を働く雑兵たちの姿まで克明に描かれている。
その凄惨さから、現代では「戦国のゲルニカ」と呼ばれることもある。
当時の記録によれば、大坂周辺では多数の民衆が殺害され、さらに「偽首」も横行したという。
これは、本来なら武士の首級でなければ戦功として認められないにもかかわらず、雑兵たちが少しでも恩賞を得るため、民衆の首を「敵兵の首」と偽って提出したものである。
また、戦乱に紛れて女性や子供を拉致し、人身売買を行う「奴隷狩り」も多数発生したとされる。
こうした惨状は絵画資料だけでなく、当時を生きた人々の記録からも知ることができる。
平野の豪商・末吉太郎兵衛増重は、豊臣方による平野焼き討ちで全焼した平野と大坂城下町・平野町を目の当たりにし、避難先の吉野にて『見しかよの物かたり(見たままの物語の意)』を書き残している。以下に、その内容を引用する。
増重は、老若男女の区別なく人々が殺害され、親子や夫婦が引き裂かれていく様子を目撃していた。
『大坂夏の陣図屏風』が視覚的に戦乱の惨禍を伝える史料であるのに対し、『見しかよの物かたり』は当時の民衆が体験した恐怖や悲嘆を直接伝える貴重な証言といえる。
尤も、こうした行為は大坂の陣に限った特殊なものではない。
戦国時代の合戦では、敵地での略奪や乱暴狼藉は半ば黙認されることが多く、雑兵にとっては「戦場での略奪そのものが報酬の一部」という側面も存在していた。
また、最後まで開城・降伏を拒み続けた豊臣側にも一定の責任があったと考えられている。
もし早期に降伏していれば、市街戦や落城時の混乱はある程度避けられた可能性もあるし、城内に残っていた財宝類を供出できれば兵たちに分け与え、略奪を抑えることもできたためである。
秀頼には側室との間に二人の子がいたが、落城後、彼らにも過酷な運命が待っていた。
息子・国松は落城後に逃亡したものの、後に捕縛され処刑。
一方で「真田信繁とともに薩摩へ落ち延び、その後は秀吉の正室・高台院の甥である木下延俊が治める豊後国日出藩(現在の大分県杵築市・日出町周辺)に匿われ、『木下延吉』と名を変えて立石領の領主(5,000石)になった」という伝承も残されている。
一方で当時から秀頼が実は大坂城から落ち延びて生き延びたという噂が立っており、詳しくは後述。
娘の奈阿姫は徳川軍に捕らえられるが、千姫の嘆願によって助命され、出家することで命を繋いだ。こちらは後に「天秀尼」として1645年まで生きていたが、仏門に入っていたため子はなく、秀吉の血筋は絶えている。
しかし、秀吉の養子である豊臣秀勝には娘として前述した完子がおり、完子の子孫が女系という形ではあるが豊臣家の血筋を現在に至るまで受け継いでいる。
また、高台院には養子として羽柴利次がおり、後に秀忠によって豊臣宗家の社稷を相続する事が許された。
なお、千姫はその後、本多忠刻へ再嫁。1626年に夫が死ぬと出家、徳川家綱の代まで生きていた。
また、「彼女を護送した坂崎直盛が、千姫奪還を企てる騒動を起こした」という逸話も伝わっている。
そんな直盛がどのような末路を辿ったのかは、
直盛の項目を参照。
戦後の落ち武者狩りは苛烈を極め、幕府から各地の大名に幕府から落ち武者狩りが命ぜられ、関係者として殺された者は少なからずいた。
大野治長の弟の一人で水軍を率いていた
治胤は、堺を焼き討ちにしたことで町民に恨まれ、火炙りの刑にされた。
長宗我部盛親は、夏の陣後に燃え盛る大坂城から逃亡するも捕縛され、京都を引き回しの上で頸を撥ねられて処刑されている。
盛親は、関ヶ原の戦いの後に改易されたことで京都での暮らしを余儀なくされ、その最中口に糊するため子供たちに学問を教えていた。
引き回しの最中、その姿を見たかつての教え子が、「あの優しい大男の先生が、大坂方の大将だったなんて……」と驚いたり、
雨中に二条城門前に晒し物にされていたところを通りがかった島津忠恒に「一国の大将だったお人にご無体な」と憐れまれ、下馬して自分の笠を外し盛親殿に差し上げろと警護の者に渡したという。
その一方で、最後まで行方が分からなかった者たちも存在する。
キリシタン武将として知られる明石掃部頭は、大坂城落城後に消息を絶った。
徳川幕府は「明石狩り」と呼ばれる大規模な捜索を行い、将軍・徳川家光の代に至るまで各地を探索させたが、ついに発見されることはなかった。
戦死説、大坂城脱出から3年後に病死した説、九州ないしは海外逃亡説など様々な伝承が存在しており、彼は「大坂の陣最大の失踪者」の一人として知られている。
また、大野治長の弟であり豊臣方主戦派の中心人物だった大野治房も落城後に行方をくらませている。
生存説も根強く、大坂の陣から34年後には「大野治房の一族が討幕を企てている」という噂が流れ、幕府が警戒する騒動まで起きている。
それほどまでに、大坂の陣は幕府にとって「豊臣家やその関係者の残党」が長く不安要素であり続けたことを示している。
徳川軍に所属した武将でも、死罪を言い渡されたり、改易となったりした者が存在する。
例えば、古田織部(重然)は秀頼の息子・国松の処刑に対して反対の意を表明していたため、豊臣家への内通を疑われる原因となり、自刃させられている。
なお、織部は文英清韓と仲が良く、方広寺鐘銘事件後に南禅寺を追放された清韓を慰めるために茶席に招いたのが幕府にバレて叱責されたりもしている。
また、長崎代官の村山等安は息子の1人に浪人を添えて大坂城に石火矢や玉薬を運び込ませたことと、キリシタンでドミニコ会系の司祭であった三男・フランシスコ等安が流罪になったのを、密かに長崎港外の高鉾島で下船させ、豊臣方として加勢に送りこんだことについての嫌疑がかけられ、1619年に江戸で斬首となった。
関ヶ原合戦後は改易されて高野山に入り、その後高野山を出て岩槻城主・高力清長の預かりとなって蟄居生活を送っていた増田長盛は、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の盛次が大坂夏の陣で尾張家を出奔して豊臣氏に与したことで、その責任を取らされる形で切腹の沙汰が下されている。
さらに、「秀頼に内通した」として、福島正則の弟で大和国宇陀松山藩主の福島高晴が改易となった。蝦夷松前藩では、松前由広が豊臣家への内通の疑いで父・松前慶広の命令で斬られている。
豊臣家と徳川家の融和を勧めながらも、大坂城を退去することになり、大坂の陣では渋々徳川方として出陣することになった片桐且元はこの戦いが終結してから数ヶ月後の慶長20年5月28日(1615年6月24日)に死去しており、現在のところは病死説が定説となっているが、これは滅んだ豊臣家を憂いての自殺という説もある。
一方で、大名によって落ち武者狩りへの熱意には差があったようで、豊臣方に属した大名や武将の関係者の中で生き延びた者たちも存在した。
上述の通り
小幡景憲は幕府の了承を得て豊臣側に潜り込んでスパイ活動にいそしんでいたため、全くおとがめなしで徳川家に旗本として召し抱えられる。景憲は甲州流軍学の創始者としても知られている。
長宗我部元親の外孫であり、父・佐竹親直と共に豊臣方へ加わっていた
柴田朝意(幼名は佐竹輪丸)は、落城後に仙台藩の捕虜となる。
後年には伊達家に仕官し、政宗・忠宗・綱宗・綱村の4代の藩主にわたって仕え、
伊達騒動の頃には奉行(家老相当)にまで出世したが、このお家騒動に巻き込まれて命を落としている。
偽名の項に詳しいが
長曾我部康豊も逃げおおせ、身分を隠していたところ露呈したが、酒井忠利が前述の「落武者狩りへの熱意が無い」立場だった為に家臣に加えられたという逸話もある。
架空の人物ではないかとも言われているが、どちらにせよ「モデル」は存在するであろう。
また、真田信繁の妻と娘も難を逃れ、娘は後に岩城宣隆の継室となった。
冬の陣の前に大坂城から退去した織田信雄(常真)もスパイとして徳川軍に情報を提供していたことからその功績が認められ、大名として復帰を果たした。
一旦逃げたものの出頭した者が助命されたり、徳川方の縁のある大名の嘆願に応じて赦免された例も複数ある。
例えば、そろって出頭・投降した
山川賢信・北川宣勝や、かつて同僚であった細川忠興のとりなしを受けた
真木島昭光、旧主・藤堂高虎の家康への嘆願により除名された
織田昌澄が知られている。
こうした事例を見ると、徳川政権は単純に「豊臣家及びその関係者の殲滅」を目的としていたのではなく、
利用価値のある人材や血筋については一定程度取り込みも行っていたことが分かる。
実際に、宿敵であったはずの今川家や武田家の武将を取り込んだり、石田三成の家族も助命したりもしている為、家康は最後の最後までその流儀を貫いたのだろう。
大坂方は、主戦力として抱えた浪人たちで構成された傭兵のために、巷間語られる天下人としてのプライドに関係なく、穏健な講和が出来なくなってしまったのではないかという見方がある。
大坂の陣において、真田信繁ら一部の浪人が決死の奮戦を見せていたのは確かである。
しかし、大半の傭兵たちはと言えば軍紀も守らない、俸給目当てでやってきて劣勢になれば逃げ出す、俸給に不満なら略奪をするといった悩みのタネになってしまうのは、日本に限らず世界的な傾向ですらある。
浪人たちは、関ヶ原の戦い以降急速に失業し、大坂の陣以前から大坂に集まっていた。
徳川家との戦争目的というよりも、当時日本最大級の大都市である大坂に仕事を求めていたのである。
豊臣家は、徳川との関係悪化に伴い、大坂の陣でそんな彼らを戦力として組み込んだ。もちろん大坂の陣を聞きつけてやってきた浪人も多かったであろう。
だが、こうして集まった浪人の多くは、戦争に伴う俸給や、場合によっては名を上げて働き口を見つけることが目当てで、豊臣家への忠誠を理由に集まった者は決して多くはなかったと見られている。真田信繁さえ、忠誠心と言うよりは名を上げることが目的だったという説も有力なほどだ。
働き口を探し、名を挙げる絶好の機会として戦争を求める大半の浪人たちにとって、豊臣家存続のため講和を目指す穏健派は邪魔でしかなく、実際に片桐をはじめとする講和派は度々襲撃され、多くが逃げ出すことになった。
そして、そんな爆弾でしかない浪人たちも武器を持つ軍人である以上、反逆されると取り返しがつかないことになる。
豊臣家の正規軍だけで彼らを抑えられるなら、浪人を大量に召し抱えたりしない。
冬の陣の講和交渉に際して当初の大坂方は淀殿を人質にする代わりに浪人に分け与えるための土地を要求していた。
戦争が起きていない間はともかく、冬の陣で実際に戦争が起きてしまった以上、もはや俸給要求の激化は避けられない。
「浪人たちに俸給を出すのは、淀殿を人質にすることを申し出るほどの重大事だった」と言うことである。
結果として大坂方は浪人の武装解除がしたくてもできないまま「浪人を解雇せず俸給を出す」という対応を取るほかなく、それは徳川から敵対行為ととられてしまった。
「国替えか浪人を追い出す」という、夏の陣前の徳川方の最後通牒も「浪人が敵意あってのことでないことを示すなら徳川で武装解除を引き受けてやろう」という最後の温情だったが、国替えに応じたところでそれまでに浪人に反逆されかねず、応じるに応じられなかったという見方もある。
このように、豊臣家にとって浪人の手懐けは、「徳川と戦うための準備」ではなく「抱え込んでしまった猛獣をなだめる行為」「止めれば豊臣家が浪人に噛みつかれて滅びかねない」という状態になってしまった。
浪人たちが本気で豊臣家を内側から潰しに来たなら、どれだけ大坂城が堅城でも役には立たない。
大坂の陣、特に夏の陣の自滅的とも言える戦いは、「前門の徳川・後門の浪人」に追い込まれた豊臣家の後がない選択だった…という考察も囁かれている。
高台院は大坂の陣前後は木下利房に護衛名目で監視されていたが、特に戦の前後に動きは見せなかった。動こうにも動けなかったのか、諦めていたのか、既に無関係と決め込んでいたのかは定かではない。
また、家康とはかつて政治的協力をしたことや、秀忠とかなり懇意であったことで、戦後も特にお咎めはなく、1624年に76歳で天寿を全うするまで徳川家との関係は良好なままであった。
そして大坂の陣終結後、元号は「慶長」から「元和」へ改められた。
この大坂の陣を最後に、
戦国時代以来続いてきた全国規模の大戦は終焉を迎える。
また幕府から全国の大名を統制する『武家諸法度』が発布され、幕藩体制が確立されていく。
以後、日本は長期の平和な時代、いわゆる「パクス・トクガワーナ」へ入っていくこととなり、この転換は後に、
「元和偃武」、すなわち「戦国乱世の終結」を意味する言葉で呼ばれるようになった。
そして、1616年6月1日(元和2年4月17日)。
徳川家康は駿府城で病に倒れ、全てをやり遂げ、まるで乱世の終わりを見届けるかのようにこの世を去った。享年75。
とはいえ、問題の全てが解決していたかと言えばそうではない。
大坂方の主戦力である浪人たちは、大坂の陣の終結によって失業必至の時勢になってしまった。
彼らは野盗の類に落ちぶれたり、島原の乱のような百姓一揆や幕府転覆計画に加担したりと、治安を乱す要因となっていった。
大坂の陣の大坂方も、雇い入れた浪人たちの扱いに常に苦慮しながら戦っていたが、その浪人たちに対する苦慮を今度は幕藩体制が抱え込むこととなったのである。
これが幾分改善されるのは、4代将軍家綱の時代に発生した「慶安の変」をきっかけとして、浪人を出さないための制度(「末期養子の禁」の緩和など)が出来るまでとなる。
無論、再び戦乱の世の中になることと比べれば、これは些細な問題にすぎなかったかも知れないが。
この戦いで失われた大坂城の天守と、戦火で荒廃した大坂の町は、家康の外孫・
松平忠明が復興にあたった。
大坂城は西国を監視する拠点として修復され、復興が一段落すると忠明は大和郡山に移封され、以降、大坂は将軍家直轄となった。
やがて大坂は「天下の台所」として発展するも、天守は落雷等による火事や戊辰戦争、終戦前日に襲来した
B-29、
ゴモラ、味皇などによって複数回炎上・破壊され、現存する天守は1997年に大改修を施された姿となっている。
淀殿悪玉論
大坂の陣を通じて
「天下人豊臣の幻影に縋って現実を見ないまま徳川との対立路線を進めた」
「真田信繁のような軍事専門家の意見を聞かずに個人の感情で主戦論を推し進めた」
「戦いを始めたかと思えば、砲弾が命中したことで講和させるなど豊臣方を振り回した」
などなど、槍玉に挙げられがちなのが淀殿である。
日野富子、北条政子と並んで日本三大悪女とまで評されることもある。
確かに、大坂方において淀殿が秀頼の母として、大坂城首脳部の中で一定の発言権があった可能性は高い。
淀殿を人質に出すというのが講和交渉で材料になるなど、徳川方からも大坂城首脳部における重要人物とみられていた事もほぼ間違いない。
しかし、豊臣家が滅亡してしまったため、特に大坂の陣前後についての淀殿については、残っている史料の多くが徳川方による伝聞史料である。
大坂の陣の時点では、秀頼も既に成人しており、代行者が必要な年齢というわけでもない。
「家康が元主君である豊臣家を滅亡させることを正当化するため、スケープゴートにされてしまった立場なのではないか?」
「城内の主戦派に担ぎ上げられたら、乗るしかない立場だったのではないか?」
という見方もあり、その意味で大坂の陣と淀殿の関係は断言することが難しい状態である。
生存説
豊臣秀頼と真田信繁
先述のように秀頼と淀殿は城内の蔵内で自害したとされるが、落城後に徳川兵が彼の遺体を探索するも、男女の見分けがつかない状態となっており、当時から秀頼らが燃えさかる大坂城から脱出したという噂が飛び交っていた。実際大坂城にはいくつかの抜け穴が存在したとされており、その節から九州まで落ち延びたと噂が広がっていた。また真田信繁も天王寺の戦いで討ち取られるも、彼の首が家康のもとにいくつか届けられたことから、実は影武者だったのではないかと噂された。そんな秀頼と信繁の伝承に興味ある童歌が存在する。
それが「
花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたり鹿児島へ」というわらべ歌が歌われたという。
このことから若くして亡くなった秀頼を哀れんだ法官贔屓といった伝承がある。
実際現代でも、鹿児島市に秀頼の墓ともされるものが存在する。
また、「
島原の乱」を起こしたとされる天草四郎時貞は、秀頼の落胤であったという噂もあった。
伝承の中には、「九州に落ち延びた秀頼は日々飲んだくれて寝てばかりいた」というなんともいえない説もある
もう一人の生き残り
通説では大坂の陣で秀頼が自害して豊臣家が滅亡。そして大坂城から落ち延びた奈阿姫が尼となり、1645年に死去したことで公式に豊臣家の血が潰えたとされているが、実はもう一人生き残りがいたとされている。それが求厭という浄土宗の僧である。
彼は1688年、臨終の際に、弟子に「自分は豊臣秀頼の子である」と告白。彼は大坂夏の陣の際、江戸に身を隠したために難を逃れたと明かした。なぜ突然告白したかは不明であるが、すでに出家していて子孫のいるはずがない身であったため、これが事実なら豊臣家の血筋は1688年に彼の死をもって途絶えたということになる。
死亡説
「大坂夏の陣」の「天王寺・岡山の戦い」の項でも軽く触れたが、「家康が大坂夏の陣で戦死していた」という説がある。
大阪府堺市にある南宗寺には、その歴史を伝える『南宗寺史』という書物が残されており、それによれば
「大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れた徳川家康は、駕籠で逃げる途中で後藤又兵衛の槍に突かれ、辛くも堺まで落ち延びるも、駕籠を開けると既に事切れていた。ひとまず遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した。家康の死が広く伝わると、徳川方から続々と豊臣方に寝返る大名が出ると予想された。そこで、家康の側近の大久保彦左衛門は、家康とよく似ていた古河城主の小笠原秀政を影武者にした」
という旨の記述がみられる。
これ以外にも、同寺には
「元和3年(1617年)3月に家康の遺体が久能山(静岡市)から日光東照宮(栃木県日光市)に移葬されたことになっているが、実は久能山からではなく、南宗寺から改葬された」
という言い伝えが残されている。この言い伝えは、明らかに家康が大坂夏の陣で戦死したことを前提としたものである。
実際、同地には現在でも「徳川家康の墓」と伝えられる墓所が残されている。
この地にはかつて東照宮があり、元和9年(1623年)の将軍宣下の折には秀忠・家光父子が相次いで参詣している。
もし家康が本当に南宗寺に葬られていたのだとすれば、彼らが参詣した理由も「亡き家康への墓参」であったと考えることができる。このため、この出来事は南宗寺に伝わる家康戦死説を裏付けるものとして語られることがある。
もちろん、現在の歴史学では家康が大坂夏の陣で戦死したことを裏付ける一次史料は確認されておらず、通説では元和2年(1616年)に駿府城で病没したとされている。
しかし、大坂夏の陣における真田幸村(信繁)の突撃が、家康に死を覚悟させるほど凄まじいものであったことは、当時の諸記録からもうかがえる。
「家康が切腹を覚悟した」「家康は討ち取られたとの噂が流れた」といった逸話が数多く残され、こうした伝説が生まれた背景には、それほどまでに天王寺・岡山の戦いが徳川家にとって危機的な局面であったといえよう。
武士以外の立場で豊臣方に加わった人物たち
豊臣方に属して戦った人物の一人に、「コミチャ」という変わった名前の人物がいる。
彼は根来衆の僧兵であり、冬の陣では豊臣方として足軽100人を連れて田村輪蔵院とともに大坂城に籠城したほか、夏の陣での大坂城落城時には同じく根来衆の僧兵である正徳院、山口智徳院らと共に城を出た。
その後の彼の動静は不明だが、この時の年齢は60歳近くであったといわれている。
南方熊楠が大正の末頃に書いた文の一節に「根来のコミチャは秀吉公根来攻めの時もっとも勇戦対捍し悪僧とまで聞いたが誰と闘いどんな働きあったかを詳らかにせず」とあり、同書において熊楠は、「コミチャ」に「護密者」か「小密者」などの字を当て、密教に何らかの関係がある呼び名ではないかと推測している。
- 成安道頓(生年未詳~1615)
現在の大阪市中心部を流れる「道頓堀」の名の由来となった人物。
もともとは豊臣秀吉に仕えた商人・土木事業者であり、慶長17年(1612年)から私財を投じて大阪城南方の運河開削工事を開始した。しかし工事の途中で大坂の陣が勃発すると、道頓は豊臣方に属して参戦する。
夏の陣では豊臣方として戦ったが戦死し、完成を見ぬまま生涯を終えた。
その後、平野藤次・安井九兵衛により工事が続けられ、元和元年(1615年)11月に運河が完成。徳川幕府は道頓の功績を認め、この運河を「道頓堀」と名付けた。
現在では道頓堀は大阪を代表する繁華街として知られるが、その名が豊臣方として戦死した一人の商人に由来していることはあまり知られていない。
織田信長の小姓であった伊藤祐広の子。祐道も父同様、小姓として信長に仕えていた。
慶長16年(1611年)、清須越により名古屋に移り、「源左衛門」と改名してから本町に店を構えて呉服小間物商を始めた。
源左衛門は夏の陣で戦死したため、この呉服小間物商の店は閉店を余儀なくされた。
しかし、源左衛門の遺児に次郎衛門祐基という人物がいて、万治2年(1659年)、彼は亡き父の店を、呉服小間物問屋「いとう呉服店」として名古屋・茶屋街に改装した。
この店が現在の百貨店・松坂屋の前身である。
余談
「大阪〇の陣」
このような大規模な戦乱の歴史に由来して、大阪における選挙(特に
大阪府知事選や大阪市長選)を「大阪〇(○は選挙の季節)の陣」と例えることがある。
二つの『ろうにん』
よく主君を持たない武士を浪人と呼ばれ、現代でも前者をよく見るが、この時代の「ろうにん」は同じ言葉でも次の『浪人』と『牢人』意味は二つに分かれる。
よく見るこちらの浪人の当時の意味は…主君は持たずにただ諸国を浮浪している武士を指す。
一方でこちらの牢人は…主君を失ってしまい秩禄がない武士のことを指す。
参考文献
阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年)
小和田哲夫監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)
片桐昭彦・峰岸純夫編『戦国武将合戦事典』(吉川弘文館、2005年)
曽根勇二『敗者の日本史13 大坂の陣と豊臣秀頼』(吉川弘文館、2013年)
追記・修正は長きにわたる平和をもたらしてからお願いします。
- 通してみると家康側はしつこいくらい降伏勧告してるんだよね。それを全部突っぱねてしまった以上滅ぼされるのは已む無しか。 -- 名無しさん (2026-05-20 00:48:06)
- 参戦者の名前見てるとひときわ印象に残るコミチャという僧 -- 名無しさん (2026-05-20 02:15:22)
- 秀吉が行った攻城戦だと「主君が自害するので家来や領民の命助けてください」と嘆願してるのに、それと真逆のことしちゃあなあ…これで判官びいき的なことが起きてるのが不思議なぐらいだわ -- 名無しさん (2026-05-20 07:10:19)
- 国家安康ってスゲー問題だったんだな -- 名無しさん (2026-05-20 08:08:28)
- 日本史の授業聞いていた当時だと国家安康って良い言葉(教師もそう言ってた)だけどそれに言いがかりつけて滅ぼした徳川ってひでーよな…とか思っていたけど近年はそういう事情とかが明らかになったんだね。信長の延暦寺焼き討ちなんかも酷い話って言われていたけど、信長も別に最初から焼き討ちするつもりなくてひたすら譲歩して勧告を再三促してたのに坊主達が全く聞かなかったせいで結局起こったという風に近年ではなってるし、十数年で中身が結構変わってることも多いし興味深いね。 -- 名無しさん (2026-05-20 08:45:32)
- 方広寺の鐘は現存してる。問題の銘は印が付けてあるが、印なしだと相当良く探さないとわからない。 -- 名無しさん (2026-05-20 08:50:12)
- 坊さんが勝手にやったとしたらいい迷惑だな -- 名無しさん (2026-05-20 09:46:34)
- なんか凄い読みやすかった -- 名無しさん (2026-05-20 09:55:50)
- 作成お疲れ様でした。味皇に草w 壊したってか、確か衣装にしたんだっけかな -- 名無しさん (2026-05-20 10:40:45)
- 風雲児たちでは戦いを見開き計4ページで終わらせ結果だけにするギャグ演出をした。(しかもあらかじめ戦いは描かないと予告する) -- 名無しさん (2026-05-20 11:00:21)
- 大抵はトップがハラキリで和睦というのが多かった中で助命と大幅な譲歩してただけにって感じか… -- 名無しさん (2026-05-20 11:04:13)
- 淀殿はそれほど対徳川開戦派でもないしそもそも発言権もそこまでないという説も近年結構出てるね -- 名無しさん (2026-05-20 12:29:54)
- 不思議なのは、そんな銘が残っている鐘が今の今まで残っていることだなあ。家康にとって失礼な銘文入った鐘とか処分してもおかしくないのに -- 名無しさん (2026-05-20 12:57:04)
- 知れば知るほど淀殿の無能ぶりが際立つ -- 名無しさん (2026-05-20 13:48:54)
- 淀殿はスケープゴートにされてる側面もあるとは思う(どこまでかは分からんが)。本当に軍事経験のない女がしゃしゃり出て方針ぐちゃぐちゃにしてるなら曲がりなりにも最後まで戦うことすら出来ないだろうし。 -- 名無しさん (2026-05-20 14:28:19)
- 浪人たちを追い出そうとすれば浪人に反逆されて豊臣家はもたない可能性が高い。と言って追い出さずに抱え込めば徳川方から戦争準備だと言われる。そうすると、夏の陣の前は「もう徳川方に従うという道すら残っていなかった」のかもしれない。 -- 名無しさん (2026-05-20 14:48:25)
- 方広寺の国家安康が致命的だったね。ここでやらかしてなければもっと穏便に落ち着けたかもしれないのに。鐘文作った坊主が最大の戦犯だね -- 名無しさん (2026-05-20 15:26:40)
- 大坂城には信徒を見捨てられないキリシタンも何人かいたらしいね -- 名無しさん (2026-05-20 15:38:10)
- 淀殿に関しては創作でも色々別れるけど、大蔵卿がアレなのは一貫してるイメージ -- 名無しさん (2026-05-20 16:14:46)
- 土壇場の助命嘆願見るにつけ、秀頼を含めた豊臣家首脳部がもう「武家」じゃなくなってたんだなと。 -- 名無しさん (2026-05-20 17:46:36)
- 淀はむしろなんとか穏便に済まそう派だったという話もあるね 秀頼やそのそばにいた連中こそが秀吉の威光に縋って強い豊臣に執着したとかなんとか -- 名無しさん (2026-05-20 17:56:52)
- ↑19 豊臣側の擁護は単なる判官贔屓だけじゃなくて江戸時代に幕府に不満のある人らが徳川sageの一環でやってたと思われる。有名な天下餅の歌みたく。 -- 名無しさん (2026-05-20 18:31:38)
- どうする家康の夏の陣の回セリフ「やめろ!こんなの戦ではない!」「…これが戦じゃ。この世で最も醜い、人の業じゃ。」ってセリフが印象に残ってる。ムロ秀吉はすごく狡猾で嫌な奴だったけど、あんだけ好き放題して謳歌した分、大砲を打ち込まれて燃え盛りながら崩れていく大阪城が、豊臣は滅びたんだなって… -- 名無しさん (2026-05-20 19:14:17)
- 確かに吉政も信繁の少し後で徳川本陣へ突入したっけ。で、信繫勢が先に突入したことで集中攻撃を受けて撤退し、吉政勢も撤退せざるを得なくなった。まぁ両方とも凄いなのは間違いない。でも最近信繁下げのために吉政上げなのは頂けない。 -- 名無しさん (2026-05-20 19:44:53)
- あと大河の真田丸も演じたが、豊臣家の馬印を大野治長が勘違いして総崩れとなったのをいまだに覚えてるけど、今ウ〇キの大坂の陣を見ると、そういう描写がなくなった。結局あの件は発生してなかったってこと? -- 名無しさん (2026-05-20 19:51:58)
- ↑入力ミス。豊臣家の馬印を大野治長が城に持ち帰ったことで兵たちが敗退と勘違いして総崩れとなった -- 名無しさん (2026-05-20 19:53:05)
- ある意味大戦犯の文英清韓はWikipedia調べだと鐘事件の後にきっちり制裁喰らって大坂の陣にも巻き込まれたそうな(何とか生き延びてよりによって鐘の銘文の内容を批判した側に助けられた模様) -- 名無しさん (2026-05-20 20:21:27)
- 司馬懿「降伏するべき時に降伏しなかった者には死あるのみ」 -- 名無しさん (2026-05-20 21:55:06)
- 国家安康はともかく君臣豊楽にケチ付けるのは「豊臣が主君で何が悪いんだよ」って言い返せないのか -- 名無しさん (2026-05-20 22:53:42)
- 高台院と家康が懇意というのは後世の創作(というより徳川幕府による情報操作というか)で実際の動きを見ていると明確な政敵なんだよなぁ…。一方、人質時代に世話になっていた秀忠の方がむしろ高台院を尊重している。 -- 名無しさん (2026-05-21 00:13:17)
- ↑2その「国家安康」が記事にもある通りとんでもない無礼だったからそうやって言い返す余地すら無かったのかもしれん -- 名無しさん (2026-05-21 12:26:56)
- ↑×2 秀忠は上洛するたびに必ず高台院に会いに行っていたらしいし、家康が拒絶した木下利次との養子縁組を家康死後にアッサリと認めているし。これだけでも、すごい親密だったことがわかります。 -- 名無しさん (2026-05-21 19:36:28)
- 後藤又兵衛の本名(諱)は基次ではなく、正親だぞ。(基次は当時の史料では確認できず、全てに正親と署名しているらしい。 -- 名無しさん (2026-05-21 20:12:23)
- 秀次が生きてたら秀次と秀頼で関ヶ原が起きて勝った方が勝たせてもらえた後見人に頭が上がらなくなって生き残ったかもしれないなあ -- 名無しさん (2026-05-22 09:48:53)
- 乏しい知識で色々考えたが、「天下人気分こじらせた豊臣の暴走」というよりも「関ヶ原後の大量発生した浪人という社会問題が結実したのがこの戦争」と思うようになった。明治維新後失業した武士が西南戦争などの士族反乱を起こしたのと構図は似ているのかも知れない。 -- 名無しさん (2026-05-22 11:17:40)
- ゲームとかで舞台となるのは戦国無双くらいしかないのかな?信長の野望では信長とっくに亡くなってる時代だしシナリオは流石に無いよね? -- 名無しさん (2026-05-22 14:25:04)
- ↑ノブヤボだと戦国立志伝・大志PK・新生PKでシナリオあり。太閤立志伝だと4,5でイベントがあるね。勢力争いは終わってるから武将個人プレーの太閤立志伝と戦国立志伝のほうが組み込みやすいテーマなんだろうな。 -- 名無しさん (2026-05-22 15:25:19)
- 作者自身は「諱をわざと入れたのは事実だけど、呪詛とか悪意とかじゃなくて名を称えるためなんだ。豊臣家ではよくあることなんだ」って弁明したとか。その場しのぎの言い訳なのか、始祖たる秀吉が上流階級の一般感覚に疎かった故かは分からんが。 -- 名無しさん (2026-05-22 16:14:41)
- ゲームだとだいたい秀吉没後のシナリオがひとまとめにされているので、関ヶ原からそんなに間を置かずに発生するね。そのせいで史実だと亡くなってる武将が出陣してきたり、加藤清正とか豊臣家恩顧の武将が蚊帳の外のまま陣が終わったり色々とカオス -- 名無しさん (2026-05-22 20:37:31)
- 花のようなる秀頼様を って仮にも武家の頭で子供もいるような奴にいう言葉じゃないよね -- 名無しさん (2026-05-22 21:33:55)
- まず、方広寺の大仏供養(式典)が突然堂供養(落成式)と開眼供養(目入れ)を同日にしたい!!と豊臣が言い出して、それだと真言宗天台宗で片方がずっと上座になってしまうで片方怒らせかねないってのが問題で、後は再建に携わった大工さんへの棟札(感状)末発給=給料未払い問題が出て、マジかよってなってたところに「国家安康」って感じ。 あくまで式典を別日にしようとした幕府と同日に拘った豊臣という揉めもあった -- 名無しさん (2026-05-22 21:39:08)
- 小牧長久手では三介(信雄)の家老3人斬ったのを宣戦布告事由にした豊臣が同じことやっちゃうというね…→家康・豊臣の窓口になってた片桐追放事件 そして信雄を『総大将』にしようとして失敗するグダグダ この時代になると万単位軍隊動かした経験ある人間がマジで少ないのもあるけど -- 名無しさん (2026-05-22 21:44:18)
- ↑6嵐世記PKがあるだルルォ! -- 名無しさん (2026-05-22 22:04:12)
- 乗り気だったのは秀忠で家康は出来る限り戦いたくなかったとか -- 名無しさん (2026-05-22 23:14:38)
- 大河では割とあっけない描写で終わることも多いね 予算が尽きる終盤になるのが通例だし割と一方的な戦いだからかな -- 名無しさん (2026-05-23 07:34:28)
- 血縁者が多数豊臣に入るわ大坂の蔵に合ったコメの強奪を黙認するわ(というか弟が運び入れてた)やれば、そりゃぁ秀忠から白い眼で見られて改易されますよ福島正則 -- 名無しさん (2026-05-23 08:18:50)
- ↑2 真田や勝永辺りの活躍ばかり目がいきがちだけど基本それ以外はじり貧だからな…(木津川口とか鴫野、橙武者がやらかした博労淵とか) -- 名無しさん (2026-05-23 11:46:55)
- 家康は秀吉が生きてる時に「さすがの城攻めの名手の殿下でもこの大坂城だけは落とせますまい」とお世辞言ったらおだてられて上機嫌の秀吉が「確かに正攻法では落ちんがわしなら講和に持ち込んだ後堀を埋めてしまうな」と口を滑らせたのをしっかり覚えてたらしい -- 名無しさん (2026-05-23 17:04:41)
- どうする家康終盤の"乱世の亡霊"云々は強ち無理矢理な話ではないのか -- 名無しさん (2026-05-23 17:20:38)
- 諱は無礼って考え方自体がこのころにはもう過去の文化で、秀吉のころにはむしろ諱のほうが敬意を示すって風潮も出始めてたんだけどな -- 名無しさん (2026-05-24 03:15:44)
- 東国では諱使うのはくっそ無礼、西国では「TPOを弁えていれば」タブーではなかった(信長は毛利家との手紙で元就を諱呼びする手紙もある フォーマルな文書では毛利陸奥守と呼んでるけど)ことは真田丸の考証してた丸島さんが指摘してるんよね -- 名無しさん (2026-05-24 06:20:13)
- 淀殿がそれこそウン百年単位でボコボコに言われてた反動か最近は秀頼本体に責任を問う声が増えてきてるのは歴史研究って逆張りの連続だなぁと改めて実感させてくれる -- 名無しさん (2026-05-24 17:37:18)
- 大坂の浪人たちって、徳川と戦うために集めたんじゃなくて、関ヶ原以降の失業者が自分から大都市大坂に集まってただけじゃないかなぁ。豊臣家も、「召し抱えてた」というよりも「とりあえず生活保障してた」だけで、寺社の造営とかも見栄と言うより「浪人に仕事を与える公共事業だったんじゃないか」とも思う。徳川家からは軍備拡張とみられてしまったけど。 -- 名無しさん (2026-05-25 09:45:59)
- どこの時代でもおこる「戦乱後の余剰兵力の問題」の弊害がもろに噴き出た戦って感じだ 徳川もこの後しばらく悩むことになるが -- 名無しさん (2026-05-25 12:56:58)
- この戦以前の問題だけど、ねねが嫡子生んでたら何もかも変わったのかな? -- 名無しさん (2026-05-25 13:59:47)
- 大野家,治長はともかく大蔵局や治胤や治房がやらかしまくってない? -- 名無しさん (2026-05-26 21:46:58)
- ドラマやゲームでがっつり扱おうとすると豊臣方の武将が新キャラばかりになりがちなのもネック -- 名無しさん (2026-05-28 22:26:27)
- なんつーかまさしく戦国時代の最後の後始末として最終的にどこが貧乏くじ引くかを決めた結果ってのが見えてくるよねコレ -- 名無しさん (2026-05-30 13:25:06)
- 令和の世にこの記事を見ていてもカタルシスを感じずにはいられない。…尤も令和だからこそ国家単位までスケールアップしているような気がしないでもないが(特に前門の徳川、後門の浪人の件が特に…)。 -- 名無しさん (2026-06-04 20:16:50)
- 「国家安康」「君臣豊楽」がそこまで問題なら何で方広寺の鐘が現存しているんだろ?普通は鐘を鋳潰すか最低でも文字は削って消すと思うんだが -- 名無しさん (2026-06-04 20:19:33)
- ↑豊臣方のせいという証拠を残したかったとか -- 名無しさん (2026-06-05 07:19:23)
- ↑でも荒らしコメントを荒らし報告して相手がアク禁されてるのにコメント自体はそのままって変じゃないかな?まあ確かにコメントを削除する義務はないけどそのコメントが問題だと感じたなら普通は削除すると思うんだが -- 名無しさん (2026-06-05 12:51:56)
- 個人的には今で言うWEB魚拓みたいなもんだと思ってる。徳川側としては「豊臣ってこんなことするレベルの礼儀知らずの非常識なゴミ集団なんすよwww」みたいな証拠を残したかったというか -- 名無しさん (2026-06-11 01:41:40)
- ↑個人的には方広寺の鐘の時点では家康自身はもう豊臣家を滅ぼすのを決めていて方広寺の鐘はその口実に使われたと言う方がしっくりくるかな。 -- 名無しさん (2026-06-11 05:47:22)
- わざわざその文章入れる豊臣側の態度が問題なのであって、文章自体はそこまでおかしくないからな。んでもってそれが発端の冬の陣は引き分けで終わったんで、なんか削除させるタイミングを逸したみたいな(失礼であって呪い効果までは信じてなかったんだろう) -- 名無しさん (2026-06-11 06:30:27)
- 現代的な感覚からすると、(わざと入れたとして)君臣豊楽の方がどうかと思わなくもない……主家を逆さ吊りにしてないか、これ? -- 名無しさん (2026-06-11 06:33:02)
- そもそも「鐘の文面が非礼である」と言う事と「豊臣家を滅ぼすほどの罪か」と言うのは別の問題だからな。「万引きは犯罪である」からと言って裁判で「万引きの罪で死刑」とか言う判決が出たら流石におかしいと思うし他に裏の理由があるんじゃないか?と思うのは普通の事じゃないかな -- 名無しさん (2026-06-11 19:06:01)
- ↑いや、問答無用で滅ぼしたわけじゃないよ?実際国替とか人質を飲めば家康が存命中ははなんとか大名として存続できたはずだし、大坂夏の陣でさえ助命のチャンスはあった -- 名無しさん (2026-06-11 20:20:06)
- 鐘はあくまでトドメの一因で、問題の発端は中井正清(父の正吉が大坂城と方広寺造った親っさん)って大工さんが棟札に自分の名前が無い事への告発でそれを調べたら古例、慣例無視がワラワラ出てきて問題になったって感じ -- 名無しさん (2026-06-11 22:21:07)
- 記号の○だと大阪♡の陣に空目したのでゼロの〇にしました -- 名無しさん (2026-06-11 22:39:12)
- ↑3つまり家康本人は豊臣家を滅ぼすつもりは無かったけど何となく成り行きで滅ぼしちゃいましたって事か? -- 名無しさん (2026-06-11 23:24:18)
- 薄田兼相のリンク先が柑橘類でワロタ。橙武者ネタをめっちゃ擦ってるww -- 名無しさん (2026-06-16 15:02:21)
- 秀吉・利家が相次いで亡くなったし、家康もそう長くはないだろうと淡い期待はあったのかもしれない -- 名無しさん (2026-06-17 21:53:47)
- 家康は秀吉の亡くなった時点でもう50代ですし、秀吉に臣従した少し後には命に係わるほどの病気になったという記録もありますからね。 -- 名無しさん (2026-06-19 11:56:34)
- 改めて見ると、家康は本気で秀頼を徳川家に迎え入れるつもりだったんだな… -- 名無しさん (2026-06-27 01:31:46)
- 無理に攻め滅ぼせば簒奪扱いだし、豊臣も織田家に一定の配慮はしてたしね -- 名無しさん (2026-06-27 08:51:36)
- 「秀頼様を大坂から引き離さなければ謀反人に担がれて切腹することになる危険性がある」と関ヶ原の翌年に伊達政宗が進言してたらしいね 少し歴史を変えた程度では避けられない合戦だったのかな -- 名無しさん (2026-06-28 17:37:33)
- 古河公方の足利家のように豊臣も小大名で生き残れた可能性はあったよな。 -- 名無しさん (2026-07-06 12:19:45)
- 臣従していれば、65万石とまでは行かずとも20万石程度の大名として存続できていたはず。まぁ秀忠の治世が本格化すればさらに領土を減らされる可能性はあるけど、完全に改易ということはないはず -- 名無しさん (2026-07-06 20:39:21)
- 豊臣恩顧の大名が相次いで死去しており加藤清正や浅野幸長や結城秀康あたりが生きていたらまた違ったのかも。 -- 名無しさん (2026-07-06 23:04:35)
- ↑2、3 というか徳川も(一部の豊臣側の人間も)それがベストだろと思ってた節は十分ある -- 名無しさん (2026-07-06 23:51:24)
- 片桐且元は豊臣と徳川の板挟みになって大坂城から脱出したが小牧・長久手で双方の板挟みになって秀吉に走った石川数正ポジションになったな。 -- 名無しさん (2026-07-06 23:58:48)
最終更新:2026年08月24日 18:22