前田利家

登録日:2025/03/04 Tue 18:48:51
更新日:2025/04/17 Thu 19:02:33
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前田利家(1539~99)とは、戦国時代~桃山時代の武将の一人である。

生涯

少年期

尾張国荒子村荒子城の城主・前田利春の次男として生を受ける。幼名や当時の通称は「犬千代」といった。
少年時代は織田信長の小姓として仕え、ド派手な格好をし「うつけ」と呼ばれていた若き日の信長とともに城下を練り歩いていたという。
この頃はいわゆる「傾奇者」として知られ、豪奢な槍を肩に担いで派手な柄の衣装をまとい、短気で喧嘩っ早い性格もあいまって、周りからは「関わっちゃいけないやべーやつ」として避けられていたと言われる。
こうした気性によるものか、同じ傾奇者的行動をとる信長とは非常に馬が合い、いわゆる悪友同士のような関係であったようだ。


青年期

信長が織田家当主に就任すると、利家は足軽の一兵卒として数々の合戦に従軍。その槍働きにより、敵味方から「槍の又左」の異名で呼ばれていた。
羽柴秀吉とはこのころからの友人で、屋敷も垣根を跨いですぐ隣であったという。
後述する互いの正妻同士も気の置けない関係で、それはのちに利家が秀吉に仕官することになっても変わらなかった。
1558年には篠原家の女子・まつと結婚する。まつは当時数えで12歳であったが、その翌年には利家との間に長女・幸を設けている。
まつと結婚した当時、利家は20歳であったことから、現代の感覚からすると「ロリコン」の扱いを受けてしまうが、そもそも結婚に当人達の思惑の挟まる余地がご存知の通り。戦国時代とは、そういう時代である。
例を挙げると伊達政宗の正室「愛姫」も同じく数え12歳で嫁いでいる。
もっと早い例でいえば、徳川家康の長男・松平(岡崎)信康と信長の娘・五徳の8~9歳で結婚。
更に上には上が身内から出ており、利家嫡男の利長は19歳で、信長の娘・永姫7歳と結婚した。血は争えぬとはこの事か*1

……だがそれはあくまで婚姻の話で、妊活や出産となると話は別
婚姻はそういうもので片付いても、出産は生物の機能の問題なわけで、戦国基準でもさすがに10代半ばくらいまでは待つのが普通*2利長は子宝運がなく、おそらく永姫所産ではない夭折する娘1人きり。可哀想気味なセーフ。
そのため信長他周りの人達は普通にドン引きだったとか。特に信長は女の子達に相撲をさせて子作りの体力を作らせようと考えるほど、出産の苦しみを理解していた人物でもあったし……利長に永姫を妻合わす時、不安はなかったんだろうか。まあそこで、せめてもう3年、とか待ってたら本能寺が起こっていたので良し悪しだが。
それはさておき、そこからもまつとの間に何人もの子を儲けているため、仲が良かったのは事実なのだろう。母体への負担は相当アレな気がするが、結局まつはかなり長生きしている。また、まつの方も秀吉の正妻・ねねとも終生懇意の間柄であり、子宝に恵まれなかった秀吉とねねにのちに四女の豪(のちに宇喜多秀家の正室)を養女に出している。

一所懸命に武功を立てる利家を信長は非常に気に入っていたが、ある日、利家は信長から出仕禁止令を喰らってしまう。
きっかけは、利家が茶坊主・拾阿弥を殺害したことである。
拾阿弥は有能な働きぶりを信長から気に入られていたが、利家の大切な(こうがい)*3を盗んだことがあった。
なお、この笄はまつの父の形見で、利家もとても大切にしていた。当然、拾阿弥の行いに憤るが、
「気持ちはわかるけどさ、ここは俺に免じてこいつを許してやってくれよ」
と信長に頼まれ、主君の命とあらば――と利家も矛を収めるほかなかったのだった。
しかし、こうした問題を何度も起こし、そのたびに信長にとりなしてもらって許されていた拾阿弥はますます図に乗ってしまい、利家に対してとうとう
「へっ、物を盗まれる奴が『傾奇者』だって?笑かすんじゃねーよwwwww」
と悪態をつく。

当然それが利家の逆鱗に触れた!


ガマンの限界を迎えた利家はとうとう拾阿弥を斬り殺してしまった*4
これに当然といえば当然だが、信長は激怒。
「…お前さ、何してくれちゃってんの? …もういいわ。お前、現世とサヨウナラね」
この時、柴田勝家や森可成などほかの家臣が信長をとりなしてくれたお陰で斬首刑こそ免れたが、出仕停止処分を言い渡され、浪人同然の放浪生活を余儀なくされてしまった。

一時の感情に任せて凶行に及んでしまった利家は、このことを激しく後悔した。この時すでに妻子持ちの身であった利家だったが、彼らを食べさせていくのに非常に難儀した。
この頃にまだ武士身分の低かった秀吉と、より親交を深めたとされる。
まさに「苦しい時期に友でいてくれる者こそが~」といった間柄だったのだろう。
そうして、どうにか信長に許してもらうために、桶狭間の合戦に無断で参陣。3つの首級をあげるも、信長からは
「あんた誰?そんな『前田』なんて奴アうちにはいないよ!」
と相手にされなかった。
それでも信長に許してもらうため、幾度となく無断ながらも織田軍に従軍する。そうして、桶狭間合戦の翌年の森部の戦いでようやく
「おお犬千代クン!久しぶりじゃねえか!」
とようやっと帰参を許してもらったのであった。
この帰参に伴い、亡き父・利春に代わって家督を継ぐよう信長に命じられ、前田家当主に就任する。

壮年期~晩年

その後は信長の天下統一のために多くの戦で奮戦。
しばらくして、かつて自身の命を救ってくれた勝家の与力として北陸統制に参加し、一向一揆の鎮圧を任される。
この頃、上杉謙信との戦いでの軍の進退を巡り勝家と秀吉は軍議で対立することとなるが、利家は秀吉を「仮にも先輩なんだから」と窘めている(結局秀吉は独断で自軍を引き上げたため謹慎処分、勝家は手取川の戦いで大敗を喫している)。
かつて喧嘩沙汰で出仕停止処分を下された身として、友人の秀吉に同じ轍を踏んでほしくなかったためであろう。
一揆鎮圧後は北陸方面の統制に参戦、この功績により能登の二十万石以上を任され、大名へと出世した。

その後、信長が本能寺の変で倒れ、織田家の後継者を誰にするかをめぐって秀吉と勝家が対立すると、利家は与力という関係と、かつて自身の命を救ってくれた恩義から柴田勝家に味方する。
しかし賤ヶ岳の戦いでの羽柴軍との停戦交渉の席で、秀吉を説得するはずが逆に説得されてしまい、最終的には降伏して秀吉側に付く選択をする。
この報せが勝家にもたらされるが、勝家は裏切った利家に対して一切怒りを見せることはなく、静かにそれを受け入れたという。

以後は秀吉の下で北陸方面の平定に尽力。北陸の惣領と言うべき働きをなして活躍し、豊臣秀吉の天下統一に貢献した。
この頃に加賀の一部を領有し、のちの加賀百万石の礎ともなった。
その功績から五大老*5の一人に任命され、しかも、徳川家康と並ぶ筆頭の位置に並ぶという大出世を遂げる。

そうして豊臣家中では秀吉から絶大な信頼を寄せられ、利家も忠実に秀吉に仕えたが、天下人となって次第に厳しい沙汰を発する事の増えた秀吉に対して、友人として忠告するべき時にはしっかり忠告した。
1592年、秀吉は、一旦は跡継ぎに据える予定のもとに関白にまで就任させていた甥の豊臣秀次を、秀頼が生まれた途端冷遇し、無実の罪*6を着せて高野山に追放したのち、側室・駒姫*7やそのほか一族郎党にまで自害を言い渡した。世に言う『秀次事件』である。
この秀吉の所業に対し、利家は「もし関白殿が謀叛を計画したとしても、妻子は関係ない*8だろう!いくら何でもやりすぎだ!」と必死に窘めたが、もはやその声は秀吉には届いていなかった。
とはいえ、秀吉はこれ以降も利家に信頼を寄せ続け、利家も主君兼友人からの信頼に応えてきた。

1598年8月18日、豊太閤秀吉はいよいよ最期のときを迎えようとしていた。
床についたまま家康・利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝ら五大老を呼び、浅野長吉*9石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以ら五奉行とともに、秀頼が成人するまで合議制を運営することを誓わせた。そうして、家康と利家の手を握りしめて、「秀頼を、秀頼を何とぞ、よろしく頼みます」と涙をこぼした。
そうして、秀吉は後事をかつての友人に託してこの世を去った。
利家は秀吉の遺言通りにその一人息子である豊臣秀頼の後見人として豊臣家に尽くし、また天下を狙う家康への牽制に苦心した。秀吉没後から体調を崩して床に就くことが増えた利家であったが、そうした中でも、五大老筆頭としての責務を全うした。
それでも病には勝てず、1599年、利家は秀吉の後を追うようにこの世を去った。享年、数えで61歳。
利家というストッパーが亡くなったことで、豊臣家の内部分裂という事態は一層悪化することとなった。そうして、豊臣家は関ヶ原合戦、やがては大坂の陣と、下り坂を転がっていくのである。


逸話

  • 信長には当初小姓として仕えたが、一説に利家は信長と衆道の関係にあったという。このことは加賀藩の史料にちゃんと書かれているのだとか。

  • 柴田勝家とは、前述のように自身の命を救ってくれたことや、与力として従軍していたことで「親父殿」と慕っていたという。
    • 勝家も利家を可愛がっており、賤ケ岳の合戦の際に利家が秀吉に与した理由は、勝家が利家に「前田家とお前自身の今後のことを考えたら、今ここで秀吉に帰参するのがいいだろう。俺のことは気にしなくていいから、秀吉のところで頑張ってこい」と送り出したためであるという説がある。

  • 戦国時代の男性の平均身長は157cm程度であったが、利家は182~185㎝(6尺)とかなりの長身であったという*10。現代の感覚でいえば、平均170cmに対して197cmもの巨躯を誇っていたといえよう。

  • かなりの吝嗇家(りんしょくか)、要するにケチだった。
    あるときなど、人件費削減のため多くの兵をリストラ。そのせいで兵力不足で困っているところ、まつから「いつも大事にしているお金に槍を持たせたらいいじゃないの」と窘められたことがある。
    蓄財が趣味と揶揄される他の武将たちは金の使いどころをよくわかっているタイプだったため、やらかした利家は余計に目立つ。
    • とはいえ、これは利家が信長から出仕禁止令が下されたことで長期間浪人同然の生活を強いられており、そのことがトラウマになっていたためであるといえるだろう。
      しかし、この時のトラウマが必ずしも悪い方にばかり転んでいたというわけでもなく、前田家の決算は利家がほぼ1人で処理しており、戦場にも常に愛用のそろばんを持ち込んでいたらしい*11

  • 義理の甥(兄・前田利久の養子)・前田利益(慶次郎)とは不仲であった*12とされ、表面上は「これからはまじめに生きます」と反省したふりをした利益に、水風呂に入れられたという逸話がある。
    • しかし、「利家と利益が不仲だった」という逸話は、同時代における史料や文書、利家の回顧録には登場しないことから、創作であるとされる。
    • 余談だが、利益は義理の叔母にあたるまつから愛のあるお説教を頂いたときには、ちゃんと素直に聞いて反省したのだとか。
    • なお、諸説あるが叔父と甥と言っても両者にそこまで年の差はないとされる。

  • 鯰尾兜というひょろ長い兜を着用して戦っていたことでも知られる。
    長男・利長も合戦時に同タイプの兜を着用している。

  • 愛妻家の印象の強い利家だが実は6人ほどの側室を迎えている。
    それも全員10代前半で迎え入れられたいくら珍しくないとはいえそらロリコン呼ばわりされるわ
    • ちなみに、跡継ぎで加賀藩初代藩主になった利長はまつとの間の嫡男だが、二代目の鼻毛利常(利光)は利家56歳時の側室の子(継ぐ際、利長の養子になった)で、更にその後ろにも子がいる。当然と言えば当然だが、孕ませた歳の差で言ったらまつは一番マシな方。

  • 加賀百万石の祖として地元石川県では圧倒的な支持と人気を誇るが、上述の通り初代の藩主は利家ではなく息子の利長。利家ばかりが支持されて利長が不人気なのは二世武将あるあるだろう。
    • 大河ドラマの主人公となった地元の英雄という点では伊達政宗や毛利元就黒田官兵衛とも並びえるといえる。
    • ちなみに三代目の利常(利光)は大坂の陣にも参陣し、「常に鼻毛を伸ばしていた」「大名同士で諍いが起きた際におちんちんぴろ~んと言って下半身を露出することでその場を収める」といった奇行を数多く見せていることから知名度はある。本当に利長涙目。(真面目な利常を見たいなら戸部新十郎作品とか読もう。)

  • 幾度と主が変わったものの、その時々で全霊を持って仕えたため、「律義者」と評された。豊臣政権下でも諸大名や秀吉子飼いの武将達から一目置かれ、特に加藤清正からは尊敬の念を抱かれていたという。

  • 秀吉の死後に力を増していく徳川家康と対立関係にあったが、細川忠興に説得され和平を行った。
    • 娘の一人である千代姫は忠興の嫡男だった忠隆に嫁いだが、忠隆は「最愛の妻ガラシャが死んだのにてめえは嫁を取ったのか」と持ち前のヤンデレぶりを見せた忠興にいちゃもんをつけられて廃嫡され仏門に下ってしまったため離縁された。
    • しかしガラシャを失い忠隆を廃嫡する前の忠興は、とあることから前田家の侍たちに殴られまくってもやり返すことなく我慢していたほど冷静冷徹であった。なお利長が唯一この恐ろしい状況に気付いていたがあえて見て見ぬふりをした。

  • 死の間際、まつが「あなたは今まで多くの人を殺してきたから、地獄に落とされそうで怖いわよ…」と嘆いたところ、「今まで多くの人を殺めてきたが、それなりの理由があったんだから地獄に落とされる道理はない。もし地獄に落とされるようなら先に死んでいった者達と共に閻魔大王と一戦してやろう」と語ったとされている。




創作での前田利家

基本的に創作に出てくる場合でも豪胆で情に深い愛妻家の傾奇者になりがち。


2002年放送。夫婦で主役。利家は唐沢寿明が、まつは松嶋菜々子が演じた。
「戦国最強のホームドラマ」「二人から始まる加賀百万石ストーリー」と銘打たれ、トレンディドラマみたいなキャスティングも印象的。
ただ、一番目立ったのは反町隆史演じる信長だったが。
唐沢は4年後の『功名が辻』でも利家役でカメオ的に出演している。

なお他の大河作品では秀吉や信長が主人公の作品では精悍或いは親しみやすい印象の若手~中堅俳優、安土桃山時代~江戸初期が舞台の作品では五大老に相応しいベテラン俳優が演じる事が多い*13

とにかく小心な老人で、部下に命じてあの手この手で慶次を追い出そうと画策する。
豪胆な人物像が基本の利家が、めっちゃ小物となっていることで良く話題に上がる。
いざという時の「槍の又左」としての武勇は衰えていない、年老いて守るものが多大に増えた影響でこうならざるを得なかった、等と一応のフォローはされているが。
スピンアウト作品である『義風堂々 直江兼続』系列では、常に算盤を肌身離さず持ち歩く等本家とそこま大きな差はないが、病床を家康が訪れた際は健在の姿を見せつけるなど、多少なりともイメージが向上している。


  • 信長の野望シリーズ
織田家の家臣として登場。家臣システムが実装された3作目『戦国群雄伝』以来皆勤賞である。
顔グラフィックは肖像画に由来した面長の輪郭に口髭というイメージで一貫しているが、11作目『天下創世』以降の作品ではそれまでの平服姿から甲冑姿に変更されている。
全てにおいてバランスの高い良将。戦闘能力はもちろん、加賀藩祖、五大老としての名望やお金に関するエピソードも多いためか政治も高い。
槍の名手としての逸話や長篠の合戦で鉄砲隊を率いた実績から歩兵、鉄砲適正に優れ、近作では「槍の又左」由来の固有特性、戦法が実装されている事も多い。
しかし織田家には利家よりさらに優秀な武将も多く、内政&籠城要員としても有能というバランス型の能力がかえって災いし留守番要員にもなりやすい

本能寺の変後や賤ヶ岳合戦のシナリオが実装されている作品では柴田勝家配下又は能登の大名として登場する場合もある
柴田家臣として登場する場合は正に柱石と言って良い人材であり、特に脳筋揃いの柴田家においては内政、外交は利家が一手に受け持つ事になりがち。史実と異なり裏切る危険性も低いので過労死レベルで働いてもらう事になる。
一方、勝家陣営の大名として登場する場合は前線から離れているのですぐに攻められる事は無いが出口の加賀、越中を味方が塞いでいるので勢力拡大の為には確定で史実同様勝家を裏切る必要がある
勝家が秀吉に敗れ勢力が衰えたタイミングで後ろから刺すのがセオリーだが、そうなると強大化した羽柴家と対峙する事になり、早い段階で叛旗を翻せば国力で勝る柴田家との全面戦争が待っている。能登の国力はあまり高く無く、配下も前田慶次ら一部の戦闘力は高いがクセの強い武将と大半を占める大きな欠点は無いが特別秀でた所の無い中庸型の武将という構成でうかうかしているとジリ貧になり、難しい立ち回りを迫られる。
関ヶ原合戦のシナリオでも開始時点では前田家の当主を務めるが史実通りとは言えオープニングムービーか開始直後のイベントですぐに死亡するので実質は嫡子の利長でプレイする事になる。

なお、人間関係としては『花の慶次』を参考にしているためか慶次とは相互嫌悪であることが多い。


  • 太閤立志伝シリーズ
概ねの按配は野望シリーズに準ずるが、野望シリーズで数値のインフレ傾向が強まる以前のシリーズなので全能力中の上以上ではあるものの際立った取り柄に欠ける。
替わりに秀吉が主人公(チュートリアルキャラ)待遇なので、最下級身分から親友の利家も非常に好漢。太閤立志伝Ⅴのおすすめ藤吉郎プレイで即行ねね以外の女性と結婚すると、怒り狂った利家がボコボコにしに来て絶交されるのは有名。(むしろ慣れたプレイヤーが狙って動かなければ見れない隠しイベントポジション。)
「槍の又左」らしくデフォルトで「槍名人」だが、貴重品の刀を持っているのでそのまま刀を振るいがち。
1554年シナリオでは信勝の死亡後頃(大体1556年前後)、例のイベントが発生。闇討ちではなく堂々と信長の目の前でぶった斬って勘当され、浪人状態になる(一応我慢する選択肢もある)……が、余程変な真似をしていなければ1,2ヵ月で桶狭間が勃発して自動参戦、即、帰参する。利家プレイに限った話ではないが、大体他家の都合で死期が早まる今川義元が哀れ…。まあコーエーにはよくあること。
1560年シナリオで最初から織田家にいるのも首をかしげる所だけれど、上記のように秀吉関連人物扱いなので大目に見てあげたい。

本能寺直前の1582年シナリオでは能登七尾城主。しかし本能寺が発生すると秀吉・勝家・信雄・信孝のいずれにつくか選べ、機種によっては今が好機と独立さえできるので上述の野望のような難局はない*14
勝家につくと清須会議とか諸々→金ヶ崎城主に移される→賤ヶ岳~勝家死亡まで終始会話イベントのみ→秀吉配下になり金ヶ崎・七尾の2城持ち国主になる…と、いまいち蚊帳の外で歴史の波にもまれ、勝家を救うIF機会がろくに無いのが残念な所*15

また、関ケ原シナリオでは野望同様イベント死亡する流れが基本なのだが、シナリオ開始時には存命で利家もプレイヤー武将に選べるので
モブ「前田利家さまがお亡くなりになったとか」
利家(プレイヤー)「なんと!」
……と赤の他人に自分の訃報を教えられるという、シュールすぎる強制死亡でゲームオーバーしてしまうのがいっとき語り草になった。もちろん修正されたが。


  • 戦国無双シリーズ
無印~2Empiresまではモブ武将。
慶次は無印の頃から参戦していたが、そんな慶次とモブ利家の掛け合いは特になく、固有台詞もなかった。

2無印では賤ヶ岳の戦い(羽柴軍)にて出陣前に利家を(撃破という名の力尽くで)説得するミッションが発生。
暴力にて組み伏せる形で見事成功させると、モブ利家が「親父殿! わしはやはり友と…秀吉とは戦えぬ!」と口にし*16、前田軍全軍と共に戦線を離脱する。
時間経過で利家達が出陣した場合は説得できなくなり普通に倒す事になるが、シナリオが変化したり等はしないので特に問題ない。

2猛将伝で無双武将化。CV:小西克幸
武器は片手剣。「槍は?」と言いたくなるがそちらも武器として2本背負っており、
一部のチャージ攻撃時に使ったり、無双奥義の攻撃で乱れ突きを行うなどで活用している。

モブから無双武将化した事で一気に若返った。何なら慶次と見た目年齢がさほど変わらないのではないかと思う程である。
ヤンキーじみた口調で喋るが仁義を重んじる傾奇者で、甥の慶次同様長身の偉丈夫(さすがに並ぶと慶次の方がデカいが)。しかし、人情を重んじる自身の理想と乱世の不条理との間で板挟みになり苦悩することも多々ある。
勝家の事は「叔父貴」と呼んでおり、勝家が傍にいて彼と喋る時は何かと「叔父貴!」と呼ぶ。ある意味、犬っぽい
2猛将伝では勝家と秀吉に話の主軸が置かれているため、慶次との掛け合いはほぼ無かったが、3以降(無印で一度模擬演武専用となったが猛将伝でストーリーが復活)ではこちらの関係にもフィーチャーされ、慶次の自由な生き方に嫉妬しながらも必死に生きる姿に慶次も魁となって応えようとしており、当ナンバリングのシナリオでも特に評価が高い一編となっている。

戦国無双5でのリファインでは性格やCVはそのままに装いがヤンキー風になっている。

無双OROCHIシリーズでは無印の頃だと戦国無双2準拠だったので利家はモブ武将であった。
ただし出番が一つ用意されており、戦国2章『本能寺の戦い』では火刑で燃え盛る本能寺周辺をモブ利家に消火させるよう信長が命令するイベントがある(ただし利家側の台詞は無い)。
後に出された「無双OROCHI Z」では既に利家が無双武将化していたからか滝川一益(モブ)に差し替えられ、消火イベントの件も滝川一益が行うよう変更された。*17
OROCHI世界でも好き勝手生き生きした慶次に比べると、やはり落ち着いたというか沈鬱な面持ちが目立つ。
険悪な仲ではないのだが、信長や勝家が死なない都合上彼らの目下ポジションから変えられないので、格好は傾奇者寄りだが自由になれない男というイメージはOROCHIの方が強いかもしれない。

ちなみに、彼の妻であるまつは護衛武将になったり(戦国無双2)、Empires系列では一般武将として登場はしているものの今現在まで無双武将にはなっておらず、プレイアブル化を心待ちにしているプレイヤーも少なくない。
ただ、ねねとの会話イベントで「おまつちゃん」と彼女から呼ばれていたり、利家が病床で伏せている時、無言の来客に対し目を瞑ったまま「まつ…か…?」と口にするシーンもあるため、出て来ていないだけで存在はしているようだ。
また、例外としてソシャゲ版の『100万人の戦国無双』では固有グラフィックで登場。さっぱりした男勝りの姉御肌で、アイメイクとサラシに法被衣装など旦那や甥っ子同様傾いた出で立ちをしている。


  • 仁王シリーズ
仁王2から登場。CVは無双では伊達政宗や風魔小太郎役でお馴染みの檜山修之氏。
性格は血気盛んな若武者といった具合。史実に近い金ピカの甲冑を着ているが、兜の長さはだいぶナーフされている。
本編開始時点で既に出奔しており、帰参を果たすため勝手に桶狭間の戦いに参戦。利家に関するサブミッションには、手柄を立てて彼の帰参を手伝う内容のものも存在する。


前田利家(戦国BASARA)
1作目から登場。CVは坪井智浩氏。
大きな三又槍を担いだ豪放磊落な男性で、半裸で腹ペコキャラ。
溺愛する妻まつも同じく登場し、2人そろうと敵を置いてけぼりにしたバカップル空間が展開される。
なお、こちらでは非常に珍しく慶次との関係が良好で、シナリオによっては最終的に彼に加賀を譲って隠居している。


  • 婆裟羅2
シューティングゲームの方のバサラ。利家軍を束ねるボスとして登場。
傾奇者という一面が強調されており、紫髪のマッチョなオカマ」というあまりにも濃すぎるデザインをしている。
本作の登場人物はどいつもこいつもSFチックな戦闘メカに搭乗しているが、利家の乗機は蝶の羽を背負ったピンク色の人型ロボというこれまたインパクト抜群の物。
長男・利長と甥・慶次も同じステージの中ボスとして参戦しているが、こちらは獣の如きワイルドなイケメンとして描かれている。
3人とも槍を武器としている点は共通している。


  • 伊達政宗(山岡荘八)
小田原参陣に遅れた政宗に対する問責使…だが、政宗側からすると秀吉に相対する前に渡りをつけた秀吉政権の重鎮。
お人好しで政宗の口車を信じて政宗擁護派になるが、政宗は話す内にその人柄を死んだ父親に重ねて内心後悔する。
この対面エピソードはどちらかと言えば有名人の政宗を絡めて(印象が地味な)利家の出番を増やす目的に扱いやすいようで、別作者の小説作品や「へうげもの」などでも取り上げられている。
大河ドラマ「独眼竜政宗」では大木実が演じた。


小田原攻めからの出番のため、昭和こいるのような容貌の老人として登場。CV飛田展男
言葉を二度繰り返す癖があり、巧みに乱世を渡り歩いた強かな老将として描かれている。
ただその実態は風見鶏の適当男であり、伊達政宗に秀吉の自身に対する処遇について問われた際も、
  • 秀吉は自分を叩き斬るのではないかに対する回答「ありなんありなん」
  • しかし頭を下げる者に対しては寛大と聞くに対する回答「寛大寛大っ」
  • それにしては北条家を皆殺しにしているがに対する回答「皆殺し皆殺し」
と朝令暮改どころじゃない回答を連発し、政宗を(どっちだ!!?)と苛立たせている。
臨終の際も、息子の利長から徳川と石田のどちらにつくか問われてなお、どっちつかずの回答をしたため(わが父ながら殴りたい)と内心思われた。
一応、器の大きい人物としても描かれており、茶会で大谷吉継の膿が入った茶を回された時も「かまわんかまわん」と飲み出して、本来その役をやる筈だった石田三成(とその策を講じた古田織部)を焦らせている


糸目で筋骨隆々の巨漢で、馬廻りの一員として活躍する。CV森嶋秀太氏。
こちらもバカップル全開で、「愛する妻のために戦う」と公言し、信長が「ちょっとは主君のために戦えよ」と内心ツッコミを入れていたりする。
若かりし頃は前述のように短気であったが、復帰後は(槍の師匠である森可成の息子の)森長可の短慮な言動を叱責するなど、人格面も優れている。


若い頃は傾奇者だったがセンスが異常にダサく、悪い意味で周囲の目を引いていた。長可曰く「中途半端な変人」。
信長への敬愛は本物であり、慶次や細川忠興からぞんざいに扱われた際にはすぐマジギレしている。
忠興とは信長の寵愛に加え、妻への愛(向こうは行きすぎだが…)や短気すぎる所%も含めて完全に水と油。


猫なのに犬の扮装をしていた傾奇猫。
その為、本物の猿である秀吉とは最初こそ一方的に毛嫌いされていたが、正体が猫と判明してからは親友になる。
そろばんでローラースケートの如く滑る。


ボス敵に当たる「巨大兜」の一人として登場。旧版にも登場していたが、その時は金箔押熨斗烏帽子形兜(きんぱくおしのしえぼしなりかぶと)という長~い名前だった。
史実の前田利家と同じく長大な金箔押しの兜をかぶり、槍を得物とする。
後に美少女擬人化して味方ユニットとして運用可能な「兜娘・前田利家」も実装された。こちらでもトレードマークの槍と兜は変わらず。


デフォルトで自軍所属のベーシックな足軽・武士。
ロリコン枠は勝家に取られてしまった平凡なモブ武将……と見せかけて条件を満たすと前田慶次にクラスチェンジする。なんやそれ!
クリア登録もあるのでクビにせず育ててあげよう。1周目でとは言わないから。


「前田利家」は出ていないが、武士テーマの【六武衆】カテゴリに《六武衆-ヤリザ》という「槍の又左」がモチーフと思しき地属性戦士族のモンスターがいる。ヤリザが描かれているカードは他に5枚ほどある。
【六武衆】は初登場当時から大人気のデッキだったのだが、残念ながらヤリザ殿は最弱カテゴリ内のシナジーがいまいちで、ハブられる立場として不遇をかこつ時期が長かった。
その後サポートカードが増え、五大老格とまではいわないがそれなりに出世しており、ある意味モデル準拠かも。

そのヤリザ殿を遡ること3年前、《不意打ち又佐》というモンスターも出ている。両者の関係は不明だが、素直に考えれば同一人物だろう。闇属性で、闇討ち1分前みたいなイラストだが。
低レベルながら装備カード等で強化すれば勝負を決するアタッカーとしても働けて、どちらかと言えばそちらの方が実戦でも高名だった。



追記・修正は上司の信用を取り戻してからお願いします。

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最終更新:2025年04月17日 19:02

*1 流石に利長夫婦は歳の差の離れた部類だが、蒲生氏郷や丹羽長秀の嫡男の長重も、そんな年頃の信長の娘を嫁にもらっている。

*2 実際、先述の愛姫が最初の子・五郎八姫を産んだのは27歳の時。五徳姫が子・登久姫を産んだのですら18歳の時である

*3 髷を結うための道具。

*4 一説では信長の面前で唐竹割で真っ二つにしたとも言われている。

*5 徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・小早川隆景の5人からなる。1592年の文禄の役の最中に隆景が亡くなったので、以降は上杉景勝にメンバーチェンジ

*6 ただし秀吉個人のみの判断であったかは諸説ある。

*7 出羽の大名・最上義光の娘。正式に輿入れすらしていないにも関わらず粛清されたこの一件で、義光は豊臣家への恨みを持ち、関ヶ原合戦では東軍に与したとされる。

*8 ただしこの時代は「一族郎党皆厳罰」という沙汰自体はそれほどおかしいものではなかった。

*9 秀吉没後に「長政」と名乗る

*10 残された着物が大きかったのが根拠とされている。ただし、「実は兜を含めた大きさで、そこまで背が高くなかったのでは?」という異説もある。

*11 ちなみに当時そろばんはまだ日本に伝わったばかりであり、使いこなせる人は少なかった。利家が利発な面もあったという証拠の一つになっている。

*12 一説では利家が前田家に帰参後、信長の裁量で前田家を継ぐことになったため、図らずも家督を奪ってしまったのが理由とも言われる。

*13 前者の例は目黒祐樹(『国盗り物語』当時25歳)、滝田栄(『おんな太閤記』当時30歳)、渡辺徹(『秀吉』当時34歳)、後者の例は大木実(『独眼竜政宗』当時63歳)、北村和夫(『葵徳川三代』当時72歳)、小林勝也(『真田丸』当時72歳)等

*14 そもそも七尾城から春日山・宮津どころか、はるばる蝦夷や北九州へも大遠征できる仕様なので困らないのだが。

*15 特にDX版ではイベントが発生しやすく調整されたようで、何なら1582年内に小牧・長久手が終わり徳川臣従まで進む。

*16 それに対し勝家は「利家…よいのだ これまでのこと、感謝しておる!」と言い、利家は「親父殿…すまぬ…」と重ねて謝る掛け合いが展開される。なお、利家が無双武将化した2猛将伝では利家の台詞3つが差し替えられた。

*17 ご丁寧に信長の台詞内容(ボイスも含む)も差し替えられている。「利家」を「一益」に呼び変えただけではあるが。