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更新日:2026/08/25 Tue 12:04:05NEW!
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豊臣秀次とは、戦国時代~安土・桃山時代の武将の一人である。
豊臣秀吉の甥で、他家を転々とした上で秀吉の養子となり、一時は後継ぎ候補として関白という最高の地位に就任しながらも、悲劇的な最期を遂げた人物で有名。
【生没年】永禄11年(1568年)〜文禄4年7月15日(1595年8月20日)
【出身地】尾張国(
愛知県)
●目次
生涯
永禄11年(1568年)に生まれる。
出自に関してだが、秀吉の姉・とも(日秀尼)と弥助(後に三好吉房と名乗る)の子であり、幼名は万丸・治兵衛という。
幼少期は人質として扱われることが殆どで、秀吉が
織田信長に仕えていた頃には、近江の浅井長政との戦いの中で臣従させた元浅井家家臣・
宮部継潤の人質となり、
宮部吉継と名乗っていたが、暫くしてから宮部家を離れ、阿波の
三好康長が秀吉に接近してきた際には連携強化の養子として再び人質となり、
三好信吉と名乗っている。
合戦における初陣は、信長が本能寺の変において
明智光秀の裏切りによる戦死の知らせを受けてからの中国大返しで光秀を撃破した山崎の戦いを経た天正11年(1583年)に勃発した、織田家の後継者を決めるべく秀吉と
柴田勝家が争った賤ヶ岳の戦いだった。
この頃には三好家を離れていたと言われ、羽柴秀吉を名乗っていた秀吉に呼応する形で
羽柴信吉と名乗るようになっており、天正12年(1584年)の秀吉が
徳川家康・織田信雄連合軍と戦うことになった
小牧・長久手の戦いにも秀吉方で出陣。
この戦いでは信長時代にも活躍していた池田恒興と
森長可が三河国に攻める中入り作戦を提案、自身も総大将として出陣することになったが、実戦経験に乏しかったため、
徳川四天王に数えられる榊原康政の奇襲で失敗。
恒興も長可も戦死してしまい、
戦況を不利と見た信吉本人はあろうことか乗馬すらすることなく徒歩で落ち延びるという大敗を喫してしまう。
この戦いは秀吉と信雄が和睦・秀吉が母のなか(大政所)や妹の朝日姫を徳川家の人質・後者に関しては家康の正室とする形で一応終結したものの、
肝心の信吉は秀吉本人から叱責されるという大失態を犯している。
そんな失態を晴らすべく、天下統一に向けた秀吉の合戦では武功を挙げており、天正13年(1585年)の
紀州征伐における雑賀衆との戦いでは泉州の
千石堀城攻めにおける大将に抜擢されて見事雑賀衆を全滅に追い込み、
四国征伐における
長宗我部元親との戦いでは秀吉が病気だったため、弟である
羽柴秀長が大将の軍に同行し、阿波の岩倉城を落城させることに成功している。
また、この2年前に秀吉は近衛前久の猶子となる形で関白へと就任しており、今度は
羽柴秀次と改名。
四国平定後には蒲生郡に
八幡山城を築き、居城とした。
天正14年(1586年)に秀吉は朝廷から「豊臣」の苗字を賜り、自身もよく知られる
豊臣秀次と名乗るようになり、翌年の九州征伐では出番がなかったものの、天正18年(1590年)の
小田原征伐では秀長が病を患っていた(翌年死去してしまう)こともあり、副将として出陣。
秀吉からの信頼が厚かったと言われる家老の
一柳直末が戦死したものの、伊豆の山中城を陥落させることに成功し、秀吉も北条氏政・氏直父子を降伏させ、続く奥州仕置により東北の大名たちも恭順。
秀吉は信長が成し遂げられなかった天下統一を果たし、その翌年である天正19年(1591年)に勃発した
和賀・稗貫一揆や
九戸政実の乱に関しては、秀次総大将の軍が鎮圧に成功する。
一連の戦いの後、三河や遠江への移封を拒否したことで
改易となった織田信雄の領土である尾張や伊勢も与えられたため、秀次は
100万石の大大名にもなった。
同じく天正19年、天下統一を果たした後に国内では戦がなく、失業しかねない大名たちに与える領土を得るべく、朝鮮出兵にあたっての計画を立てていたとされる秀吉からその座を譲られる形で秀次は関白へと就任。
秀吉が竣工し、一時は邸宅としていた京の聚楽第も譲られ、実験を握っていたのは秀吉であるものの、秀次が政治に意見し、関白として活躍する場面も多々見られた。
ここまで読めば天下統一を果たし、天下人の座を射止めた秀吉の後継者としての地位を盤石とした秀次の今後は安泰、と思っていた人は多いだろう。
……だが、ある時を境に人生は下り坂となる。
文禄2年(1593年)に秀吉と淀殿の間で拾こと豊臣秀頼が生まれたことにより、運命は大きく変わってゆく……。
謀反の疑い、悲しき結末
まず、秀吉は実子に恵まれなかった上に、数少ない実子の秀勝や鶴松も早世していたほか、秀次を除く養子も悉く若くして病死していた…等で後継者不足に悩まされていた。
そのため、養子(といっても完全な赤の他人ではなく秀吉の姉の子で甥にあたるのだが)の1人である秀次に関白の座が譲られるなど、後継者として白羽の矢が立っており、誰もが秀吉の後継者は秀次で間違いない、と思っていただろう。
そんな中で生まれた実子の拾(秀頼)は自身の後継者としてこの上ない存在である一方、養子の秀次は次第に邪魔な存在になりつつあったのだ。
拾誕生に呼応するかの如く、秀次は喘息の症状が悪化し、精神的なストレス(現代で言ううつ病)も見せるようになっていたと言う。
この時は秀吉と秀次の関係も悪化していなかった…と言われており、秀吉は「日本を5つに分け、その内の4つは秀次に、残りの1つは秀頼に譲る」ように考えていたとされる資料も存在している。
同時期に秀吉は隠居地としていた京の伏見城の周囲に大名屋敷を多数建設していた…のだが、秀次視点で見ると隠居地にも関わらず大名邸を次々と建設するのはあからさまな自身の監視、と思わざるを得ない状況にまで発展していた。
そんな中、文禄4年(1595年)6月に事態は急展開を迎える。
所謂「天脈拝診怠業事件」だ。
これは時の天皇・後陽成天皇が体調を崩した際に、同じく秀次も体調を崩し、かかりつけの医師である曲直瀬玄朔が、天皇よりも先に秀次を診察したことが問題となった事件である。
天皇や朝廷を大切にしている秀吉は大激怒し、これ以降秀吉と秀次の関係は悪化。
さらに秀次が朝廷に多数の金銀を献上したことや毛利輝元と独自の誓約を結ぼうとしていたことから謀反の噂が立ち上がり、秀吉は伏見城への出頭を要請。
躊躇しながらも、人質だった頃の義父である宮部継潤や
山内一豊など5名に出頭を促されことで、秀次は伏見へと向かったのたが、肝心の秀吉が秀次に会おうとしないどころか、秀次は高野山に謹慎の処分が下されてしまう。
数日後に秀次の家老・重臣に切腹・処刑がの運命が待ち構えていたのは序の口で、秀次自身は福島正則ら3名から賜死が言い渡された。
そして文禄4年7月15日(1595年8月20日)、謹慎先の高野山にて切腹し、享年27歳という当時から見ても短い生涯を終えたのであった…。
秀次切腹で一連の事態は終わり…と思いきや、悲劇は続き、
今度は生まれたばかりの子や女性なども含んだ秀次の関係者39名も連座して処刑される、邸宅としていた聚楽第、かつて居城としていた八幡山城も取り壊されるなど、
秀次に関するものは徹底的にこの世から消し去るという形で秀次事件は幕を閉じることとなった。
この際「連座」で処刑された者の中には、
最上義光の娘、駒姫も含まれていた。
彼女は当時秀次の側室になったばかりで、秀次とまともに対面もしていなかったと言われるが、そんな彼女を処刑したこと、そしてその訃報を受けた母親も2週間後に心労から急死したことで、最上義光も豊臣家に恨みを募らせ、関ヶ原の戦いでは東軍に付くこととなる。
死後の影響
秀次の死は、市政の人々はもちろん、大名家や公家にも「現役の関白であろうが、身内であろうが、豊臣政権下においてはお構いなしにあっさり粛清されてしまう」という悪印象や不信感を植え付け、豊臣政権の運営のみならず、顛末にも大きく影響した。
秀次切腹から3年が経った慶長3年(1598年)、2度目となる朝鮮出兵
「慶長の役」の最中に秀吉が死去。
この時の秀頼は数えで5歳であり、実権を持つには程遠い存在だった。
時を同じくして、
石田三成・小西行長など文治派と福島正則・加藤清正など武断派が朝鮮出兵における不手際や、これまでの溜まりに溜まった不満により対立が表面化し、
前田利家の死去も重なったことにより、失敗に終わったものの、三成襲撃事件まで勃発するほどだった。
そして豊臣政権上層部の対立に乗じて最も勢力を拡大していたのが徳川家康である。
彼は、秀次切腹事件においては秀次と懇意にしていたこともあり、疑いをかけられた大名たち(最上義光、
細川忠興、
伊達政宗など)を擁護していて距離を縮めて人望を獲得。
やがて秀吉・利家亡き後の豊臣政権下で権力を握っていった。
紆余曲折を経て家康と三成が対立し、慶長5年(1600年)の
関ヶ原の戦いでは家康率いる東軍が三成率いる西軍との戦いで見事勝利、その3年後には朝廷から
征夷大将軍へと任じられ、江戸幕府を開府。
その後も徳川家と豊臣家は決定的な対立を避けていたが、方広寺鐘銘事件を機に勃発した1614年〜1615年の
大坂の陣にて秀頼と淀殿は自刃し、秀頼の実子も処刑や出家させられたことで、豊臣家は滅亡となった。
秀次や親族の切腹に限らず、秀長や大政所といった身内にして秀吉に対するストッパーの逝去、千利休の切腹、朝鮮出兵の失敗、五大老・五奉行や子飼いの家臣の統率不備、家康の勢力拡大、関ヶ原の戦いにおける三成の敗戦など、様々な負の要素が積み重なった末に天下統一を果たした豊臣家があっさり滅亡したと思うと、非常にやるせないものとなる。
本能寺の変における光秀の裏切りで信長と後継者の信忠が戦死したことで天下人の座から転落したものの、次男の信雄が苦難の末に大名へと返り咲いて生き残り、今に至るまで子孫を残し続けている織田家、
関ヶ原の戦いに勝利して天下を取り、征夷大将軍へと就任し、江戸幕府を約260年間運営し続けた徳川家に対し、
秀吉の判断ミス等も重なり、自滅に近い形で滅亡の運命を辿った豊臣家だが、秀吉が若かりし頃の人たらしと評されていたように穏やかな立ち回りを行いつつ、周囲の言葉に耳を傾け、秀頼と秀次の2人を上手く育成することが出来ていれば、歴史は違った…のかもしれない。
秀次事件は誰が黒幕だったのか?
秀次事件において今なお議論が交わされているのが、「一体誰が黒幕だったのか?」である。
秀吉が秀頼を確実な後継者にするため秀次を切腹させた…と言われがちだが、「秀吉はあくまで切腹を指示しただけで、三成・淀殿・家康などが黒幕なのでは?」という説であるほか、
後述の蔑称「殺生関白」や関白としてもあまりに多い側室の数等から、秀次自身もそんなレッテルを貼りたくなるくらい擁護しきれないレベルの素行不良があり、その悪評を耳にして看過出来なくなった秀吉の指示で切腹させられた…なんて説もある(『豊臣家の人々』ではこの説を採用)。
三成が黒幕なのであれば、秀吉から信頼を得た身を利用し、信頼を置かれている主君の後継の1人を殺害したことになる。
秀次の謀反疑惑を秀吉に対して告げ口したという説があり、秀次死後には遺領を受け継ぐ形になったものの、良くも悪くも豊臣家を第一に考えていた…と言われているため、主家を乗っ取るメリットは少ない。
更に秀吉死後には清正や正則らに襲撃されそうになった上に、関ヶ原の戦いでは家康に敗北し、処刑される結果を迎えたので、もし三成が黒幕なのであれば、その後の見通しが甘かった…としか言いようがないだろう。
淀殿が黒幕なのであれば、自身が出産した子をなんとしててでも確実に豊臣家の後継者へと擁立したかった…という動機があったのだろう。
また、秀吉の側室となる前は実父の浅井長政・義父の柴田勝家(と実母のお市の方)を秀吉との戦によって喪っているため、この時の恨みで秀次を切腹させたのでは?という説まである。
とはいえ、秀吉は秀頼誕生を大いに喜んだと言われており、淀殿が秀次切腹を指示するほどでもなく今後は秀頼が後継者になると読めていた…とも言われる。
家康が黒幕なのであれば、非常に綿密な長期の計画を立てた上で、
- 秀次と懇意で疑惑をかけられた武将を擁護し、親交を深めて味方につける→関ヶ原の戦いに勝利→征夷大将軍就任→江戸幕府開府→大坂の陣における豊臣家殲滅まで漕ぎ着けた
というのは、あまりにも家康に対して流れが味方しすぎている。
だが、大坂の陣で豊臣家を滅ぼすという選択を選んだのは息子にして二代将軍・秀忠という意見もあるため、豊臣政権弱体化の流れが家康に傾き、天下を取る絶好の機会において見事な立ち回りを見せただけ…とも言われており、疑惑でしかないのが現状。
また、秀次自身が自らの潔白を主張するために、自分から高尾山に出向いて切腹したという異説もある。
実のところ、当時の豊臣家の状況を考えると、秀吉には男児がまだ幼い秀頼しかいなかった一方で、秀次の方には既に跡継ぎの男児も沢山生まれており、切腹どころか絶対に生かしておくべき人材だったと言える。
人たらしの天才とまで呼ばれた秀吉ほどの男が、そんな単純なことに頭が向かないとは考え辛く、単に「秀頼を跡継ぎにしようと思い、秀次が邪魔になった」「秀吉の耄碌」とも言い難い。
当時の文面には、秀吉は高野山に食事を差し入れたり、秀次の身の回りの世話をする者や警備をつけたりなど、秀吉はあくまでも謹慎を命じただけで、秀次を殺す気までは無かったとも取れる内容が残っている。
ところが「現役の関白が自害」という醜聞が表向きになることを恐れた秀吉が、「秀次が謀反を起こした」とさせ、また親族までも処刑した件に関しては、秀次の側室の一人が父親と公金を横領していた証拠が見つかったことも上げられる。
以上から、秀吉や家康に限らず、
足利義昭や長宗我部元親も黒幕候補に挙げられている本能寺の変と並び、今でも謎を残している歴史の転換点となった事件の1つとして議論を交わされることは多い。
秀次が登場する作品(抜粋)
史実を元にした作品においては
晩年の秀吉が豹変するきっかけとなるエピソードにおいてほぼ確実に登場する一方、
フィクション作品においては
武将としての活躍よりも悲劇的な結末がクローズアップされやすい人物、あるいは『豊臣家の人々』のように
「殺生関白と言われてもしょうがないような『脆い』人間」として描かれる事もあるためか、優秀な補佐役と評される秀長共々、登場しないことが多く、教科書でも触れられない(触れられてもコラム程度止まり)ことが多々。
秀次が主役の作品は現状吉本洋城の『腕白関白』ぐらいしか存在しないものの、ひょっとすると今後増えていく未来がある…かもしれない。
ゲーム
小説
- 舟橋聖一『太閤秀吉』
- 司馬遼太郎『豊臣家の人々』
- 津本陽『夢のまた夢』
- 遠藤周作『男の一生』
- 吉本洋城 『腕白関白』
- 太閤記(1965年、演:田村正和)
- 春の坂道(1971年、演:伊藤孝雄)
- 黄金の日日(1978年、桜木健一)
- おんな太閤記(1981年、演:広岡瞬、松本秀人(青年期)、井浦秀智(少年期)、宮澤公栄(幼年期))
- 徳川家康(1983年、演:氏家修)
- 独眼竜政宗(1987年、演:陣内孝則)
- 秀吉(1996年、演:三国一夫)
- 利家とまつ 〜加賀百万石物語〜(2002年、演:池内万作)
- 功名が辻(2006年、演:成宮寛貴、柴井怜太(少年期))
- 天地人(2009年、演:眞島秀和)
- 江〜姫たちの戦国〜(2011年、演:北村有起哉)
- 軍師官兵衛(2014年、演:中尾明慶)
- 真田丸(2016年、演:新納慎也)
- どうする家康(2023年、演:山下真人)
- 豊臣兄弟!(2026年、演:山田涼介、藤田蒼央(幼年期)、小時田咲空(少年期))
余談
- 正親町天皇の喪中に鳥類狩りを楽しんでいたことから「殺しを楽しむ関白」という意味の殺生関白なる蔑称を持つが、これは秀次切腹・江戸幕府による豊臣家滅亡を正当化するためのイメージであると言われている点に注意。
また、首塚の石塔の碑銘には「秀次悪逆」なる文字が彫られており、人々はこれを畜生塚とも、秀次悪逆塚とも呼んでいた。この悪名ゆえに、江戸時代の怪奇小説集『雨月物語』「仏法僧」では一見穏やかに歌会を開いていた「秀次とその家臣群の霊」が、実は「修羅道」に堕ちていたとされている。
皮肉にも、事件の黒幕候補の1人で死後に遺領を受け継いだ三成然り。ネガキャンする意見が江戸幕府開府から多数存在する一方で、三成は豊臣家のために戦って命を散らした忠臣で家康が簒奪者である…という見方をする資料もあるし。
- ちなみに徳川方のみならず豊臣方の文書でも秀次の素行が悪かったという文章もあるが、こちらについても事の顛末の前後の統合性から秀次=悪辣な人物説はほぼ否定されており、秀次の切腹は秀吉あるいは豊臣政権下の難癖であるというのが現在の通説となっている。豊臣への悪感情や不信感の払拭に豊臣方も手を焼いていたというところだろうか。
晩年の秀吉の失策に対しての影響もありそうだが「叔父(秀吉)と異なり、万人から愛される性格の持ち主だった」「穏やかで思慮深い者である」と評する意見が多く見られる。
- 文化人としての一面も持ち、
秀吉から切腹を命じられた者繋がりの千利休から茶の湯についての指導を賜ることも多かったと言われている。
治めていた地域の政務にも真摯に取り組んでおり、八幡山城城主だった際には、桐原郷と迩保郷の間にある日野川の水脈を巡る争いをすぐに鎮圧させるなどしており、領民からの信頼は厚かったそうな。
- 母のとも(日秀尼)は、あろうことか実の弟に息子を切腹させられた無念から出家しており、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡したのを見届け、寛永2年(1625年)に当時としてはかなり長寿である92年の生涯を終えた。
- 秀次の子供の中で、生まれたばかりであった娘の「菊」は、秘かに匿われて母方の伯父に養育された。20歳頃、紀伊国代官の山口兵内に嫁いだ。しかし間もなく大坂の陣が勃発、山口家は豊臣方に与し、一族は討死あるいは刑死した。山口家に嫁いで間もなかったことなどから菊は助命される可能性もあったが、菊は共に処刑されることを望み、刑死した。
- また、他に「隆精院」という院号が伝わる娘も、理由は不明ながら生き延び、真田信繁の側室となり、1男1女を生んだ。大坂の陣の際には、祖母のとも(日秀尼)のもとに身を寄せて難を逃れている。
磯かげの 松のあらしや 友ちどり いきてなくねの すみにしの浦
追記・修正は最高の地位に就任した後に、死罪を言い渡された方がお願いいたします。
- 無双クロニクル2ndで宗矩の口から秀次事件が言及されていたね。その際の宗矩のコメントが凄く印象に残っているわ -- 名無しさん (2026-08-10 10:00:28)
- 秀頼に後継がせるのに邪魔だからでしょ?と思ったけどまだ5歳なら何起きるかわからないから殺しちゃまずいんだな… -- 名無しさん (2026-08-10 10:14:48)
- 「秀次が主役の作品は現状存在しない」秀次に転生した現代人が悲劇的な死を避けようと奮闘する『腕白関白』は? -- 名無しさん (2026-08-10 14:13:51)
- ↑いろいろ調べていたのですが、記入できていませんでした。ありがとうございました。 -- 名無しさん (2026-08-10 14:52:44)
- 秀次事件が典型的だけど、秀吉が急にキレてピンチになる→家康が間を取り持って命拾いする→それを機に豊臣に不信感を持って徳川に鞍替えする、のパターンで大名の心が豊臣から徳川に移ってったのが豊臣が力を失って逆に徳川が力を持った理由の一つだよな -- 名無しさん (2026-08-10 18:54:36)
- 鶴松がまず夭折しちゃってるから秀頼が無事大人になるという保障もないからねぇ 秀吉には普通の武士なら大体持ってるはずの、家の存続という感覚が乏しすぎて秀頼に天下人の座を譲りたいというのが第一で、豊臣家の存続は二の次 後は三法師絡みで自分はのし上がったからますます周りが信用できない(秀頼が大人になるまでこいつは待てるのか?) -- 名無しさん (2026-08-10 19:53:26)
- 三河中入りは近年では池田恒興らではなく、秀吉自身が立案し、命じたというのが有力になっているぞ。(敗北した秀次を秀吉が厳しく叱責したという逸話が事実なら、自分で命じておきながらブチギレる秀吉はどの口がほざくかという感じだな。 -- 名無しさん (2026-08-10 22:41:08)
- おじ甥の関係だったら秀次が秀頼を亡き者にする可能性もあるよな。明でも永楽帝が甥の建文帝を廃した靖難の変を起こしているし。 -- 名無しさん (2026-08-10 23:14:05)
- ↑↑『日輪のデマルカシオン』では秀吉が立案者になってたな。秀次(信吉)の敗走も秀吉の判断ミスのように描かれてた -- 名無しさん (2026-08-10 23:41:48)
- ↑ 秀次には男児が大勢いたって言うし、老い先短い秀吉と一人だけの秀頼だけが残るとなれば、秀次にとっちゃあ千載一遇の好機だもんな。
逆に言うと秀吉には将来の不安も物凄いわけで。源頼朝・義経兄弟とか足利尊氏・直義兄弟とかの話も当然知っていただろうし、武田信玄・信繁兄弟なんてのは奇跡的すぎる存在だと思えば、脅威に感じるのも正直、分かる。 -- 名無しさん (2026-08-10 23:45:50)
- 於次丸秀勝がもっと長生き出来てればまた違ってきたのかな、いや余計ややこしくなるだけか -- 名無しさん (2026-08-11 07:03:30)
- ↑どちらかと言うと秀長が長生きしていたらの方が秀次が生き残る可能性が出てくると思う。 -- 名無しさん (2026-08-11 07:27:04)
- 殺生関白が徳川のプロパガンダと言うソースはどこ? -- 名無しさん (2026-08-11 13:30:35)
- よくよく考えりゃ、秀頼を跡継ぎにするってまだ5つなのに、どう考えても愚策でしか無いんだよな。秀吉の耄碌と言ってしまえばそれまでだけど -- 名無しさん (2026-08-11 16:07:14)
- ↑ただ流石に耄碌しすぎじゃね?と思わなくもない。まぁ晩年の秀吉は重度の認知症説もなくはないが… -- 名無しさん (2026-08-11 17:37:10)
- ↑個人的には秀次が勝手に切腹した説が一番正しい気がする。秀吉が醜聞を恐れて秀次の謀反とし、秀次の親族もスケープゴートにした。しかし秀吉はそれが起因となって晩年の迷走に繋がった…という方が辻褄が合う気がする。 -- 名無しさん (2026-08-11 18:29:25)
- ただ秀次も大名・統治者としては微妙で、お膝元任されてる任地の尾張とか河内各地で百姓の逃亡騒ぎ起こしちゃってるからその辺で才能無しと捉えられてたのか秀次の裁定を覆すこともちょくちょくあったみたいだしな… 秀長の大和豊臣家もあっさり解体されちゃったしとことん身内には冷淡なんよなぁ -- 名無しさん (2026-08-11 19:03:10)
- ただ秀吉が死んだ時点で秀次が生きていた場合秀頼が生き残れるか?と言うと可能性はかなり低いとは思う。前当主の正統な嫡男なんて現在の当主にとっては邪魔でしかないし。豊臣家の存続を優先するなら秀次の殺害は悪手だけど秀頼の生存を優先するなら必ずしも悪手とは言えないと思う -- 名無しさん (2026-08-12 23:32:07)
- 名誉職じゃなく各大臣の統括って役目があった関白が急に死んでしかもその席ずっと空けとけよな!された朝廷も大変ですよ。そもそも秀吉が関白になったのも朝廷での関白の席の奪い合いが発端のひとつだし。 -- 名無しさん (2026-08-14 14:01:24)
- 権勢欲のために兄弟も粛清し、結果として本家が衰退してしまう……てのは秀吉が最初じゃなくて、源頼朝もそうだった。頼朝はさらに分家の甲斐武田家まで干渉していた。もちろんその結果は、源氏本家の絶滅になったわけだが、まあ秀吉だけがこの手の行動をとったわけではないのは確か。 -- 名無しさん (2026-08-24 23:08:08)
最終更新:2026年08月25日 12:04