七夕の悲劇(プロ野球)

登録日:2011/06/25 (土) 00:49:59
更新日:2024/12/21 Sat 17:22:55
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七夕の悲劇とは、1998年7月7日にグリーンスタジアム神戸で行われたオリックスブルーウェーブ対千葉ロッテマリーンズ第13回戦の通称。
この試合に敗戦したロッテはプロ野球新記録となる17連敗を喫した。そのあまりに劇的な試合展開から七夕の悲劇と呼ばれている。


○概要

この年のロッテは優勝候補にも挙げられるほど戦力が充実しており、今度こそ暗黒期脱出と言われていた。
その前評判通り、出だしは好調であり、4月終了時は首位。
その後徐々に順位を落として行くも、連敗が始まる前の借金はわずか2でありまだ上位をうかがえる位置にいた。

そして6月13日。小宮山が大崩れして黒星を喫してからプロ野球史上最も長い連敗が始まった。
要因としては、連敗するチームには大抵ある「投打の噛み合わなさ」。事実この期間中も福浦和也、フリオ・フランコ、初芝清らのクリーンナップは打っていたが勝てなかった。
後に福浦は「打ったら、もっと点を取られるし、投手が抑えたら向こうがもっと抑える。」と述懐している。

しかし、それ以上に大きかったのがストッパーの不在。
二年前のストッパー成本年秀、前年のストッパー河本育之が二人とも故障で離脱*1。緊急補強したスコット・デービソンも5月に怪我が発覚して解雇される*2
窮余の策として先発の柱の一角であった黒木知宏を抑えに抜擢するも、先発完投型の黒木を急造で適性の無いストッパーにしても上手くいくはずもなく*3
サヨナラ負けを含む3日連続の救援失敗により諦めざるを得なくなった。
本当に「何かに取りつかれたかのように」勝ちから見放されてしまった。

何時しか連敗は二桁に達し、普段ロッテにはほとんど目を向けないマスコミが注目し始めた。

そんな中、なんとか勝とうとなりふり構わぬ戦い(フランコが4番であるにもかかわらず自主的にバントする等)を仕掛け、ベンチをお祓いしてもらったりもした。
それでもトンネルの出口は見えなかった。
そして7月5日のダイエー戦に3対10で敗れ、とうとうプロ野球タイ記録の16連敗に達する。

その試合後。ファンが選手のバスを取り囲み、緊張した空気が流れた*4。しかし…




俺達の誇り千葉マリーンズ
どんな時も俺達がついてるぜ
突っ走れ勝利のために
さぁ行こうぜ千葉マリーンズ
ラーララーラーラーラー




そこでファンは選手のバスに向かって応援歌を歌い始めた。
この光景を監督室で見ていた近藤昭仁監督はを流しファンへ向けてマスコミを通じて感謝のメッセージを伝えた。

そしてもう一人、自宅からこの事を知った選手がいた。七夕の夜に先発が決まっていた黒木だった*5

信じてくれているファンの為にも絶対に自分で連敗を止める…黒木は誓った。

そして、7月7日を迎える。


○7月7日

オリックス対ロッテ、この試合はパ・リーグの5位と最下位の試合だったにもかかわらず、生中継で放映された。それほど世間の注目を集めていたのだ。

蒸し暑いグリーンスタジアム神戸で行われた試合は、黒木が序盤から飛ばし8回まで散発2安打。失点は4回の暴投の1点のみだった。
方やロッテは14安打で3点と拙攻が目立ったものの、この日の黒木の出来から3点は十分な援護のように思われた。
それに前述の通りのロッテの苦しい台所事情もあり、黒木が完投することとなった。

そして9回裏オリックスの攻撃。黒木は脱水症状を起こしていたものの、気迫によって球威が戻っている。
先頭バッターのイチローを空振り三振に斬って取り、続くニールにすっぽ抜けた球を外野に運ばれるも次の谷を三振に仕留める。
いよいよ後一人までこぎつけた。

最後のバッターであるプリアムも2ストライクまで追い込み後1球になったが、そこからプリアムがファールで粘る。
そこでキャッチャーの福沢洋一は、この打席初めてプリアムの弱点である内角に要求。黒木もそれに頷いた。

レフトスタンドで「俺たちがついてるぜ」と横断幕を掲げている横で「祝・連敗脱出」というカードを持ったファンが見守る中、
黒木はその日の139球目を投げ込んだ*6








次の瞬間
キャッチャーミットに
あるはずだったボールは
その遙か彼方
皮肉にも、ロッテファンが陣取っていた
レフトスタンドに飛び込んでいった。



同点ツーランホームラン


黒木は糸が切れたようにマウンドにうずくまり、動けない。
野手が黒木を囲むようにマウンドに集まる中、ベンチから来たコーチに抱えられるようにマウンドを降りた*7
試合は土壇場で振り出しに戻り、目の前まで見えていたトンネルの出口はまた消えてしまった。
しかし、その時マウンドを降りる黒木に向かってスタジアムのDJが「黒木投手、ナイスピッチ!」と発し*8、スタンドからは暖かい拍手が沸き起こった。

延長戦突入後、ロッテは勝ち越し点を奪うことができず、12回表を終えこの日の連敗脱出はなくなった。
しかし裏を抑えれば引き分けとなり、この日の新記録はひとまず阻止できる状況だった。

12回裏ロッテはノーアウト満塁と外野フライでもサヨナラ負けという大ピンチを迎えた。
そしてオリックスの代打広永益隆の打球はライトへのフライに。犠牲フライでとうとう連敗更新かと思われた。

しかし、打球は伸びてそのままスタンドイン。まさかの代打サヨナラ満塁ホームランで記録更新という壮絶な結末が待っていた*9


○その後

次の試合も負けて18連敗となったがその翌日、ついにトンネルの出口が見えた。
序盤から打線が繋がり大量リード、途中で先発の小宮山が捕まり6失点するも完投。ついに連敗は止まった。
小宮山がオリックスに打たれて始まった連敗は、小宮山がオリックスに打たれたものの打撃陣の奮起によって止まったのだった。


○余談

  • 七夕の悲劇から暫く経った時、小宮山は黒木に訊いた。「何故あの時、マウンドにうずくまった?」と。そしてこう続けた。



俺だったらうずくまらない
何故ならまだ同点だったから
最後まで諦めちゃいかんよ、クロちゃん



この言葉で黒木は自分の甘さを痛感したと語った。
といってもこの時の黒木は体が限界を迎えていて倒れそうになっており、勿論小宮山もその位分かっていたのだろう。
それでも敢えて窘めたのは黒木の立場を察した上での激励の意味だったのかもしれない。

  • 後日黒木がイチローに「9回裏の打席、わざと三振したろ?」と冗談めかして聞いた所、
    「何言ってんだ、お前相手にそんな失礼な事しないよ」と真顔で返したという。後にイチローは黒木について「彼ほど魂を感じるピッチャーはいない」と語っている。
    ちなみにこの日のイチローは6打数1安打で大きく打率を落としている。

  • この連敗が大きく響き最下位に沈んだ千葉ロッテだったが、
    実はこの年のデータを見ると、なんとチーム防御率はリーグ2位、チーム打率に至ってはリーグトップだった。
    なのでこの連敗さえなければ…という声も多かった*10


今でこそ人気球団となり、優勝争いにもそれなりに絡んでいる千葉ロッテだが、90年代*11は95年*12を除きとても厳しい時代だった。
だが、この厳しい時代があって今のロッテがあるのだろう。
個人的には強い千葉ロッテを見てファンになった人達にこそこの時代の事を知ってほしい。
なおテレビゲームとして、この試合は当時発売された実況パワフルプロ野球6のシナリオモードに「黒木の意地」として収録されている(いわゆる史実をひっくり返す系のシナリオ)。



ちなみに同日には、横浜ベイスターズの守護神・佐々木主浩が阪神タイガース・矢野輝弘にサヨナラヒットを打たれ敗戦(この年喫した唯一の敗戦)。自責点がつき防御率0.00が打ち砕かれた。なお、これもパワプロ6のシナリオに「防御率0.00神話崩れる」というタイトルで収録されている。
また、後に日本ハムファイターズの主力選手となっていく小笠原道大がプロ入り第1号ホームランを放っている。ちなみに黒木、イチロー、小笠原は同い年である。

○「七夕の悲劇」から「七夕の歓喜」へ


そして時は流れ、イチローも黒木もチームを去り、
オリックスは合併しブルーウェーブからバファローズになり、大阪にその本拠を移した。
かたやロッテは福浦が主力に成長、若手の台頭もあり2度の日本一を達成。

そんな2017年、両チームのゲームが七夕に神戸で再び組まれた。
先発はロッテがエース・涌井秀章、オリックスがルーキー・山岡泰輔。
ゲームは5回にオリックスが先制するも、7回にロッテが同点に追いつくと9回に勝ち越しに成功。3-1で勝利した。
そして、その得点を上げたのはこの時のロッテ選手唯一の生き残りである福浦(代打で勝ち越し犠牲フライ)、16連敗タイの試合でダイエーの選手としてホームランを放った井口資仁(押し出し四球)だった。
この試合のヒーローインタビューには福浦が選ばれ、またメディアの取材に対し当時のことを語っている(前述した述懐の話である)。
また、3-1は19年前にロッテが9回裏2アウトを迎えた時のスコアであった。
こうしてあの日から19年の時を越えて、「七夕の歓喜」を迎えたロッテファン。

しかしこの日の東京では、あるチームに新たな悲劇が降り掛かったという…


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最終更新:2024年12月21日 17:22

*1 成本は前年に怪我が発覚して手術。98年はリハビリ中。

*2 その後、ブライアン・ウォーレンを獲得していたが、この頃はまだ二軍で調整中であった。

*3 この時点で黒木は投手三冠も狙える位置にいたが、これが響き最優秀防御率で2位になってしまった。またこれが後年に怪我にあえぐ遠因となったとも言われる。

*4 あの「生卵事件」が起こったのがわずか2年前のことである

*5 ストッパーから先発に戻るために、二軍で調整をしていた

*6 146km/hインローの決して甘くない球であった

*7 脱水症状に加え極度の疲労によりマウンドを降りた後、ゲームセット直前に全身痙攣を起こしてしまう重症であった。

*8 前述の通り、この日はグリーンスタジアム神戸で行われるオリックス主催の試合である為、ロッテの選手である黒木選手に対してのエールは極めて稀な事である。

*9 打った広永は個人としてはプロ通算34本塁打ながら、パリーグ通算3万号、プロ野球通算6万号本塁打を記録するなどメモリアル男と知られ、この試合の本塁打も史上2人目のセパ両リーグで代打サヨナラ本塁打を記録している

*10 1998年のパリーグは大混戦となっており、優勝した西武と最下位のロッテとのゲーム差は9.5、3位とのゲーム差も4.5とそこまで離れておらず、もし18連敗していなければ優勝争いしていたかもしれないという声がある。

*11 1988年から1997年までは最下位と5位を行き来していた。

*12 2位でシーズン終了。