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+ 天真なる薔薇の剣聖ローズ
「Don't let your guard down」
(くれぐれも油断するなよ)

 彼女の師である父は、試合に向かうローズの背に向かい言葉を投げかける。
 ローズは振り返ると、心配する父に対して余裕の表情を見せた。

「No worries Daddy. I have no equal」
(大丈夫よパパ。私にライバルなんていないんだから)

 幼い頃から剣の稽古をつけてくれた実の父が、この街ポートレアの剣聖と呼ばれているからこそ、その強気な発言が出て来る。
 聞いた話によれば父は息子を欲しがっていたようだが、母との間に生まれてきたのは女の子。
 最初は気を落としていたらしいが、女であれど最強の剣を振ることは出来ると考え直したらしい父は、英才教育とも言える稽古をローズがまだ3歳の頃から始めた。
 その教育法が実を結んだのか、それとも剣聖の血のおかげかは分らないが、ローズは7歳という幼さで大の大人にも負けない程の剣を振るうまでに成長している。

「Well I'm going now!」
(それじゃ、いってくるね!)

 控室から勢い良く飛び出たローズは、大歓声に包まれる舞台へと駆け上がった。
 360度、満員の観客で埋め尽くされたコロシアムの中心に立つと、目の前にいる男に視線を向ける。
 ローズよりも随分年上の男は、眉間にシワを寄せて彼女を睨みつけていた。
 体格も良く、その身体の殆どが筋肉で埋め尽くされているような大男は、観客の声援が目の前の少女に送られている事が面白くないらしい。
 その苛立ちを表すかのように、競技用の剣を力強く握りしめる。

「Get set――」
(位置について――)

 審判の男が両者を舞台の中央へと案内する。
 上方を見上げると、いつも通り綺麗な海に数え切れない魚が泳いでいた。
 遥か上空から光を射す太陽が、この海の底の街に幾度も光を屈折させながら青い光を届けている。
 外界とは一切の交流を持たない海中都市、ポートレアでしか見ることが出来ない光景だ。

 ローズはこの何百もの生き物が泳ぐ空が好きだった。
 剣の稽古が辛い時、いつもこの空を見上げて過ごした。
 あの辛さを乗り越えたのは、今この瞬間の為だったのかもしれないと考えながら、目線を対戦相手に戻す。

 男は今にも飛びついてきそうなくらい、鼻息を荒くして前に進んでくる。
 ローズは落ち着いてひとつ深呼吸をしてから、男とは対象的に静かに白線につま先を合わせた。

「Ready――」
(用意――)

 あれだけ慌ただしかった会場がしんと静まり返る。
 審判が右手を宙に上げ、ピタリと止まった。

 剣の切っ先を男に向けたローズは、ジッと相手を観察する。

(右足に体重が乗っている。ならば左から攻めてくる……)

「――Go!!」
(始め!!)


 審判の腕が振り下ろされた瞬間に大きな鐘が鳴らされる。
 戦いの火蓋が切って落とされた瞬間だった。

「Stop!Stop!Stop!!」
(止め止め止め!!)

 一瞬の出来事だった。
 バタリと音を立てて倒れた男を横目に、ローズはゆっくりと白線へと戻る。

「It's all over」
(終わりよ)

 審判が男へ駆け寄り様子を見ると、口から泡を吹きながら白目をむいていた。
 恐らく、ローズに突っ込んだ男が腕を上げた瞬間、鳩尾(みぞおち)に一撃を入れられて呼吸が止まったのだろう。
 あまりにも一瞬で勝敗がついてしまった事に観客は動揺を隠せないが、倒れ込んだ男はそれ以上戦える状態ではなかった。
 審判は救護班を呼ぶように手で合図すると、ローズの元に寄り右腕を掴む。

「Winner …… Rose!!」
(勝者は……ローズ!!)

 その声を聞いて、どよめいていた会場が一斉に湧いた。
 体格も年齢も性別ももろともせず、大の大男を一撃で沈めたのだから歓声が大きくなるのは仕方がない。
 観衆の期待に答えたローズは、剣を腰に収めると足早に舞台を後にした。

 観客の声援がまだ聞こえる控室の廊下に、父が腕を組んで待っている。
 いつも通りすました笑顔で父に向かって手の平を差し出す。
 父も手の平を出して、パシンと音が響いた。

「That's better」
(よくやったな)

 父は満足気な顔をしながら腕を広げる。

「It's so easy」
(余裕余裕!)

 ローズはそれに答えるように父の大きな胸の中に飛び込んだ。
 人から見れば剣技大会で突如現れた新星。
 しかし、その正体はまだ歳7つの少女。
 先程舞台に立っていた時の表情からは想像が出来ない無邪気な笑顔を、父の肩に目一杯押し付けた。


 明日は決勝。
 ローズの話題で溢れた街中を歩くのは気持ちが良い。
 そこかしこで少女の顔を見ては手を振る人々。
 右手を預ける父は、その空気が少し恥ずかしいようだった。

「Daddy! Hold your head high」
(パパ!もっと胸を張って歩いたら?)

 その声に苦笑いで返す父の気持ちはローズには良くわからない。
 折角自慢出来る事なのに……とローズは頬を膨らませた。
 父が剣聖となった時もこうして恥ずかしがっていたのだろうかと想像する。
 彼が両手を上げて喜ぶ姿は人目のつかない所だと決まっていた。
 ローズには見慣れたものだからこそ、それを見せない父に何かモヤモヤとしながら歩き続ける。

 日も落ちかけた頃、煙突から暖かそうな湯気が立ち昇る屋根が見えた。
 きっと母が明日に向けて腕によりをかけたご馳走を作っているのだろう。
 丁度、お腹からも食べ物を催促するような音が聞こえている。
 しかし、父から聞こえてきた言葉は、ローズに取って厳しいものだった。

「We'll go to offer up prayer first,
 and then we'll go to dinner」
(先にお祈りを済ませてきなさい。晩御飯はその後だ)

 祈り。
 父から剣を習い始めてから欠かしていない日課の一つ。
 なんでも、剣の上達には精神の安定が必要だとか。
 剣を始めたばかりの頃の、まだ幼いローズにはその意味が分からなかったが、今ではなんとなく解るような気がする。
 いや、解ったような気になっているだけかもしれない。
 なんにせよ、修行中の身である以上、父の言葉を信じて実行する以外に選択肢はなかった。

 家のすぐ横にある断崖には、石畳の階段が伸びている。
 その階段を一段一段登っていくと、断崖の頂上へと辿り着く。
 ポートレアの街を一望できるこの場所は、ローズのお気に入りの場所だった。

 少し丘のようになった頂上の真ん中には、大きなセチの木が堂々と根を張っている。
 その下で目を閉じ、頭の中で自分の未来をイメージする。
 これが父から教えられたお祈り。

 ローズはいつもの様に祈りを始める。
 もちろん、明日の大会で頂点にいる自分を頭いっぱいにイメージした。

 溢れんばかりの大歓声。
 この街の栄誉である剣技大会を制する自分。
 横には自分の事のように喜ぶ父の姿。

 無事に祈りを終えたローズは、セチの木の幹を背に街を眺めた。
 空にはいつも通り、数え切れない魚が自由に泳いでいる。

 ローズの夢。
 この街を飛び出して世界を見たい。
 いつか、そんな事を考えるようになった。
 もちろん、父の元で剣の修業をする毎日も悪くない。
 この街の剣聖として父の跡を継ぐ事が出来たなら、それは最高にハッピーな事だろう。
 しかし、この広い海の外には、この街の何十倍、いや何百倍もの広大な世界が広がっているらしい。
 そこには、自分より、もちろん父よりも強い剣術の使い手がいるだろう。
 そんな相手と戦いたい。
 そして、この名を世界中に轟かせたい。

 しかし、それは叶わぬ夢。
 ポートレアの街には昔から定められた掟がある。

一・決して街から出てはならない
一・外の世界の人間と会話をしてはならない

 この掟にポートレアの住人は生涯縛られている。
 掟を破れば、どんな未来が待っているかなんて想像が出来ない。
 それでも、いつかは街の外に出てみたい。
 もっと自分の知らないものを見てみたい。
 大きな世界へ。

 いつの間にか、辺りはすっかり暗くなっていた。
 空は昼間とは全く違う装いを見せ、夜行性の魚が少し不気味に泳ぎ始めている。

 あれだけお腹が空いていた筈なのに、その日は何故かその空から目が離せない。
 もしかしたら明日の大会への緊張なのだろうか……もしくは今日の戦果の興奮がまだ残っているからだろうか。
 何故か、いつまでもその空を見ていたいような、そんな気持ちが足をこの場に留めている。

 その時、何かがローズの目に止まった。

「what!?」
(えっ!?)

 海の中に浮かんだそれは海洋生物ではなく、明らかに“人”の形をしていた。
 生まれてからポートレアで暮らした7年間で、こんな光景は見たことがない。

 誰かが外に出てしまったのだろうか……それとも外の世界の人なのだろうか……。
 その人影に目を奪われる。

「……!!」

 ローズからは小さく見えるその影を追っていると、ある事に気が付いた。
 人影は、海を泳いでいるようには見えない。
 力なく、ただ波に流されている。

「holy caw!!」
(なんなのよ!!)

 ローズは走り出す。
 その影を目で追いながら、石畳の階段を駆け下り、街中を一直線に走っていく。
 あのままではあの人は死んでしまうかもしれない。
 いや、もう既に死んでしまっているかもしれないが……。

 いつの間にか、ポートレアの街の端へ辿り着いていた。
 目の前には、街と海を隔てる透明な壁。
 壁の向こう側には、ローズの追っていた人影の背が先程よりも大きく見えている。
 この壁の向こう側は、全く空気のない海なのだから、本当にもう死んでいるかもしれない。
 それでも、放っておく事は出来ない。

 しかし、この壁を越えれば街の掟に反する事になる。
 罪人となる覚悟が7歳の少女に出来る訳もなかった。
 誰か人を呼べないだろうか。
 そう思い立ちあたりを見渡すが、ポートレアではこの壁に近付く人はあまりいない。
 頻繁ではないにしろ、外から大きな魚が街の中に入り込んでくる事もあるこの壁は、基本的に近付く事すらも禁じられていたのだ。

 ローズの視線の先に浮かぶ人影は、殆ど動いていない。
 きっと、あの人は困っている。
 もし意識があるとしたら、ローズを見ながら何故助けてくれないのだろうと考えるだろう。
 その期待に答えないという事が、ローズには耐えられなかった。

 もし、このまま見なかった事にして――
 そんな事が出来る訳ない――

「I don't care anymore!!」
(もう、どうにでもなっちゃえ!!)

 意を決して壁に剣を振りかぶったローズ。
 この先に何が待っているかなんて考える余裕はなかった。
 今はただ、目の前の人を救いたい。
 その気持ちがローズを支配している。

 剣の先が壁を捉える。
 すると、そこに何もないように、スルっと壁の中に入り込んだ。

「what!?」
(えっ!?)

 ローズの想像とは全く違う感触に、一瞬何が起こったのか分からなくなる。
 そして次の瞬間、ローズの身体が壁に吸い込まれた。

「Nooo!!!」
(いやぁああ!!)


 そのまま彼女は海へと投げ出された。


 自分に何が起こっているのかは分からないが、壁の外に出た。
 という事は、あの人に手が届くかもしれない。

 ローズは後ろを振り向かず、顔を前に向けた。
 先程まであれだけ小さかった影だが、気がつけば随分と近くにある。
 その人物が少年だと認識できる程に。

「whatever happens, I will help you!!」
(絶対助けるから!!)

 水中で声は出せないが、心の中で叫ぶ。
 必死に泳ぐローズ。

 彼との距離が縮まっていく。


 10m――


 5m――


 1m――


「Just a little more ……!!」
(あとちょっと……!!)

 波に揺られる男に必死に手を伸ばす。
 もう息も限界に近い。
 それでも、諦める訳にはいかない。
 必ず彼を助ける。

 そして、ローズの手に布の感触が届く。

 身体を引き寄せて、少年の肩を掴む。
 まだ体温がある。

 必死に肩を揺らして意識を確かめる。
 黒髪の少年は、ローズと同じ歳か、少し上ぐらいに見える。
 その顔に見覚えがない事と、ポートレアの人々とは顔立ちが違う事から、外の世界から来たのだと確信した。
 つまり、これは掟に抵触する問題をもう一つ抱えてしまうかもしれない。
 外の世界の人間に触れてしまった訳だから。
 そんな不安を覚えた瞬間、ほんの少し、彼の目が開いたように見えた。

「still alive……」
(まだ生きてる……)

 そのまま少年の腕を肩に回し、引き返そうと身体を反転させる。
 ポートレアに戻るまで、息が持つかどうかの戦い。

 力を入れて泳ぎ始めるが、一人の時と意識のない人間を引っ張るのは訳が違う。
 上手く進むことが出来ず、傍から見ればかなり不格好な泳ぎ方をしていそうだ。
 だが、今はそんな事を気にしている余裕はない。
 死に物狂いで壁の中に戻らなければ、このまま2人共死んでしまう。

 もう肺に空気がある気がしない。
 歯を食いしばり、足を動かす。

 あと数メートル。
 僅かな希望が、もうすぐ現実となる。
 もう少しで……。


 その時――


 ローズの身体が急に方向を変える。
 彼女の意志ではない。
 それが、突然やってきた潮の流れだという事に気付く事が出来なかった。

「――!!!」

 荒波に飲み込まれながら、ローズの意識は途切れていく。
 最後に見えたのは、彼女から離れていく少年の姿だった。



 ――――――

 ――――

 ――



「お嬢ちゃん!お嬢ちゃん!!」

 声が聞こえる。
 誰の声だろうか。
 聞き覚えのない声。

「おい!しっかりしろって!!」

 何を言っているかは分からない。
 まるで魔法の呪文のように聞こえる。
 もしかしたら自分は何か悪い魔女に捕まって、呪いを掛けられているのではないだろうか。

「おい!!ちょっと目が開いたぞ!?」

 一体自分の身の回りで何が起きているのだろうか。
 もしかしたら、街の誰かに助けられて、外に出た罪で呪いを掛けられているのかもしれない。
 そうだ、私は街の外に出てしまったんだ。
 あの少年を助ける為に……。

「本当か!?おい!!水もってこい!!」

 剣技大会はどうなったのだろうか……。
 きっと自分はもう戦うことが出来ない。
 父の残念そうな顔が浮かんでくる。
 父は……母は……どうしているのだろうか……。

「おい!名前は!?大丈夫か!?」

 確か、母が夕飯の準備をしていた。
 そうだ……家に戻らないと。
 早く、起きないと……。

「おい!まだ起きちゃだめだ!意識はあるのか?水を飲んで!お嬢ちゃん名前は?」

 混濁する意識が徐々に覚醒していく。
 ローズの視界に入ってきたのは――

(なにこれ……?ここはどこ?空に海がない……異世界……?)

 一度ぎゅっと目を瞑った後、もう一度ゆっくりと瞼を上げる。
 ローズの頭上に広がる空は、ポートレアで見慣れた青い海では無く、吸い込まれそうな青空だった。

「お嬢ちゃん!?まだ頭がこんがらがってるのか?海に浮かんでる所を俺達が引き上げたんだ。どこから来たんだ?」

(嘘……!?何これ!?っていうか、誰!?何を言ってるの!?)

 ローズを心配そうに見つめる複数の男達。
 しかし、その言葉がローズには分からない。

「とりあえず水飲んどけ!落ち着くと思うぞ」

 差し出されたコップのような物には、水だろうか、液体が入っている。
 ポートレアのガラスは全て赤みがかっているのに対し、男が差し出して来たコップは無色透明。
 ローズは、不安を感じつつも、差し出されたものを受け取った。

 恐る恐る匂いを嗅いでみる。
 ただの水のように見えるが、ほんの少し香りが違う。
 しかし、カラカラの喉を潤す事ができるのであればと、少量を口に含んだ。

「おぉ……飲んだぞ。そうだ、ゆっくり飲め……」

 男達は尚も心配そうに少女を見守っている。

(何これ……全然味が違う……美味しい……!!)

 確かにそれは水なのだが、ローズの記憶の中にある水とは随分と違った。
 あまりもの口当たりの良さに、一気に飲み干す。

「おいおい!ゆっくりって言ったのに……」

 空になったコップを手に持ち改めて周りを見渡すと、心の中でモヤモヤしていたものがハッキリとしてくる。

(この人達は絶対にポートレアの人じゃない。全然言葉が分からないし、身につけている物も全然違う。一回落ち着いて……)

 すぐ横には、木と鉄で作られた大きな物が大量の水の上に浮かんでいる。
 それが船であるという事が、見たことのないローズには分からない。
 どこまでも無限に続いているような水平線を眺めながら、やはりここが外の世界なのだと確信する。

 反対側を見る。
 沢山の人が闊歩する街が見える。
 やはり見た事がない建物。

(外の世界……私、ポートレアの外に来ちゃったんだ……えっ……それって……)

 段々とハッキリ思考できるようになってきた。
 自分が今置かれている状況。
 それはポートレアの掟を破ってしまっている。


一・決して街から出てはならない
一・外の世界の人間と会話をしてはならない


(いや、待って、まだこの人達とは喋ってない……!喋っちゃいけない!ここから逃げないと……。逃げないと……!!!!)

 ローズは立ち上がった。
 どこに逃げるかは分からない。
 海の中に潜ればポートレアに着くのだろうか……。
 いや、まずはこの異世界人から逃げる事が先決。
 きっと……何か策はある。
 だから今は……。

「おい!お嬢ちゃん!?どこ行くんだ!?」

 ローズは走り出した。
 男達を背に、全力で足を動かす。

(これ以上罪を犯しちゃいけない!!ポートレアに戻る方法を一人で探さないと……!)

「待てって!!おい!!」

 後ろから聞こえる男の声が、段々と遠くなっていく。
 父に鍛えられた足腰がこんな所で役に立つとはと、ローズは不思議な高揚感を覚えた。
 地理なんて全く分からないが、男達の視界から逃れる為に街中へと入っていく。

 細い路地を右へ左へ。
 迷路のような路地を小さな少女が駆け回る。

「おーい!お嬢ちゃん!どこ行った!?」

 男達の声は聞こえるが、もう大分離れたようだ。
 一度呼吸を整える為に体勢を低くしながら様子を伺う。
 ふと横を見ると、大きな木箱が乱雑に置かれた倉庫のような場所があった。

(ここに隠れればやり過ごせそう……)

 ローズは倉庫の中に入ると、フタの開いた大きな木箱の中に身を隠す。

「くそっ!見失った……。おい!お前はあっちを探せ!俺は向こうを探す!」

 バタバタと男のものであろう足音が近くを通ったが、すぐにそれも聞こえなくなった。

 ローズは荒くなった息を整える。

 ここはどこなのだろうか。
 ポートレアには戻る事が出来るのだろうか。
 両親は今頃自分の事を心配して探し回っているだろうか。

 色々な疑問、不安、これからの事を考えていると、倉庫の中に誰かが入ってくる足音が聞こえた。

(見つかる……!)

 出来るだけ体勢を低くして、木箱の下に敷かれていた藁の中に潜り込むように身を隠す。
 藁の中から、本が数冊出て来る。
 ただ、今はそんな事を気にしている場合ではない。
 木の板と板の隙間から外の様子を伺うと、先程追われていた男達とは別の男達が数人、倉庫の中に入ってきていた。

「よーし、さっさと済ましちまおう!片っ端から馬車に詰むぞ!」

 男の一人が何かを言うと、周りの木箱が次々と運ばれていく。

(まずい……!見つかる……!!)

 男達に聞こえてしまうのではないかと思うほど心臓の音がやけに大きく感じながら、ローズは出来るだけ姿勢を低くし、藁で身体を覆った。

 その瞬間に、木箱が傾いたかと思うと男の声が聞こえる。

「なんだこれ!?重てぇなちくしょう……。おい!手ぇ貸せ!」

(見つかった!?この状態じゃ逃げようがない……。飛び出したとして勝てるのかな……?)

 腰の剣に手をかけて、その瞬間に備える。
 しかし、事態はローズの思わぬ方向へと進んでしまう。

 ガンッ……ガンッ……ガンッ……

 木箱全体が大きく揺れる。
 何が起こっているのだろうかと思い、出来るだけ動かないように藁の隙間から上を見てみると、開いていた筈の木箱に蓋がされている。

(えっ!?)

 ガンッ……ガンッ……ガンッ……

(閉じ込められた!?)


 どうやら木箱の蓋を釘で打ち付けているようだ。
 完全に退路を失ったローズは何をする事もなく、呆然とそこにいる事しか出来なかった。

「よっしゃ!行くぞ?せーのっ!」

 木箱全体が大きく傾く。
 そして、人の手によって運ばれていく揺れが始まる。

「No……!」
(いやっ……!)

 思わず声が漏れた。
 はっと気が付いて急いで口を両手で塞ぐ。

「なんだ?何か聞こえなかったか?」

「馬鹿野郎!中身がなんだって俺達が知ったこっちゃねぇ!変な事に首突っ込むと明日の飯が食えなくなんぞ!」

 男達の声が聞こえているが、やはり何を言っているのか分からない。
 揺れる木箱の中、身を縮めている事しかできない。

 ゴトン……。

 乱暴に木箱はどこかに運ばれたようだ。
 ローズは息を潜めて、木箱の隙間から外の様子を見てみる。
 先程走り回った街並みと、複数の男達が何か作業をしているように見えた。

「よーし、これで最後だ。さっさと出発するぞ!」

 髭面の男が何か声を発すると、周りに居た男達がこちらに向かってくる。
 ローズはとっさに姿勢を低くして、息を殺す。

 やがて、馬の鳴き声が聞こえると、木箱は静かに揺れ始める。
 馬車だろうか、車輪が路面を転がるような振動が伝わってきた。

(このまま……私……どうなるの……)

 もしかしたらこの木箱に閉じ込められたまま二度と外には出られないかもしれない。
 そんな不安を共に膝を抱え込み、ローズはただ成り行きに身を任せる他なかった。

 木箱の中の本を開いて見ると、全く読めない文字が並んでいる。
 言葉は違っても文字は同じかもしれないというローズの淡い期待は、泡のように消えていった。


 やがて、馬車の車輪が小石を踏むようになった。
 整備された石畳から、あぜ道に入ったような、そんな感じだ。

 もう何時間経っただろうか。
 うっすらと木箱の中に入ってくる日の光りがオレンジ色に染まっていく。

 グゥ――。

 ローズの腹部から食べ物を要求するような音が響いてくる。
 そう言えば、あの剣技大会の前から何も食べていない。

(お父さん……お母さん……)

 家族の顔が頭に浮かんでくる。
 自然と涙が溢れてきた。

(助けて……私が悪かったから……)

 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、膝を抱えて故郷を思い出す。
 そのまま、いつの間にか眠ってしまった。


 ――――――

 ――――

 ――


 目を開けると、ポートレアの街が眼下に広がっている。
 自分は海の中にいるのだろうか……ふわふわと浮いているような感覚。
 その街中に、見覚えのある少女が一人。

(私!?)

 少女は街の壁へと向かい走っていく。
 目線の先は……壁の外に浮いている少年。

(だめ!そっちに行っちゃだめ!!)

 ローズの声は少女に届いているだろうか。
 水の中でうまく声が出ていないのか。
 それともそもそも声を出せていないのか。

 少女は壁の前に立つと、剣を壁に向けて振った。

(ダメ――!!)



 ガタッ――


 突然、木箱に衝撃が走る。
 驚いて目を開くローズ。
 どうやら、夢を見ていたようだ。
 何か動きがあったのだろうか。
 兎に角、今は自分の状況を確かめなくてはならない。

 急いで木箱の隙間に顔を近づける。
 目に飛び込んできたのは広い室内。
 赤い絨毯が広げられた、居間のような場所。
 壁には何かの動物の剥製だろうか、頭から威厳のある角が天井に向かい伸びている。

 室内には人影が2つ。
 小太りの男と、木箱に閉じ込められた時に見た髭面の男が何やら話をしているようだ。

「思ったよりも早かったな。マリーヴィアはきっちり仕事をする人間が多くて助かるよ」

「ははは!たまたま他の仕事がなかっただけだよ!まぁ、それでも特急便で来たけどな!」

「わかった。これが報酬だ。足りるかね?」

「どれ、おぉ!ありがてぇ!」

「いい仕事には相応の報酬があるべきだ」

 小太りの男が重たそうな袋を渡すと、中身を確認した髭面の男は笑顔で振り返る。

「おめぇら!帰るぞ!」


 やがて、髭面の男はいなくなり、外から馬車が動き出す音が聞こえてきた。
 小太りの男は、ローズの閉じ込められている木箱の方へ近付いてくる。

 そして、鉄の棒を持ち出すと、すぐ横の木箱を開封していく。

(もう……無理だよ……見つかっちゃう……)

 見つかればどうなるのだろうか。
 あの鉄の棒で殴られるのだろうか。


 心臓が飛び出しそうな程、バクバクと音を立てている。
 想像はどんどん悪い方向に進んでいき、ここで人生が終わるのではないかと嫌な汗が流れた。

 そしてついに、ローズの入った箱に男が手を掛けた。

 ガッ……ガッ……ガッ……

 上部から明かりが漏れてきた。
 木のクズがパラパラとローズの上に振ってくる。

(もう……ダメ……!!)

 ガコンッ――


 最後の砦であった釘が抜かれた音がしたかと思うと、木箱を塞いでいた蓋が一気に開かれた。
 ローズはここまでかと目をぎゅっと瞑り、これから起こるであろう何かに覚悟をする。

「うぉおおおおお!!!」

 部屋の中に響く男性の声。
 ローズに気が付いたのは間違いない。

「だだだだ……誰だお前……!!」

 あまりにも驚いたのか、男性は後方に倒れ込み尻もちを付いていた。
 木箱から少し離れた場所から声が聞こえる。

 ローズはガタガタと震えながら身体を小さく丸める。
 これまで感じた事のないような恐怖が彼女を支配する。


 どれくらいの時間が経っただろうか。
 ほんの数秒のような……数時間のような……。
 ローズには途方もなく長い時間に思えた。


 足音が聞こえる。
 男のものだろう。
 まだローズは動けずにいる。


 足音が止まった。
 それもローズの頭のすぐ近くで。


「お、女の子……?」


(殺すなら早く殺せばいいのに……!!)

 恐怖から頭がおかしくなりそうだった。


「お嬢ちゃん……何をしているんだい……?」


 男が発した言葉の意味は分からない。
 それでも、どこか、優しさがあるような、そんな声だった。

 父の声が重なる。
 時に厳しくも、優しかった、父の顔が浮かぶ。

「どうしたんだい……?なんでこんな所に……」

 ローズはゆっくりと目を開く。
 不思議と、その男は悪い人間ではないと直感できた。
 もしかしたら、この男なら、助けてくれるかもしれない。
 そんな気持ちになれる、不思議な声。

「出ておいで。ほら、大丈夫だから……」

 男は手に持っていた鉄の棒を地面に置いて、両手の平をローズに見せて敵意のない事を伝えようとしているようだ。
 ローズはゆっくりと起き上がる。

(もしかしたら……)

「I have lost our way ……」
(私……迷ってしまって……)

 その声を聞いた男は驚いた様子だった。

「どこの言葉だ?君はどこから来た?」

「I'm in trouble Please help me! I want to go Portrea」
(助けて下さい!私はポートレアに帰りたいんです!)

 必死に伝えようとするが、やはり言葉は伝わっていないようだ。
 男は困惑した表情を見せる。

「うーむ……どうしたものか……」

「I'm …… I'm …… 」
(私……私……)

 身振り手振りで必死に何か伝えようとしてみるが、何をどうすればいいのかが分からない。
 そうしている内に、涙が溢れてくる。

「お嬢ちゃん!泣かないでおくれ!おじさんは何もしないから!大丈夫だよ!」

 男はポケットからハンカチを出してローズの涙を拭き取る。
 ローズは、その手から、また不思議な優しさを感じる。

 そして、何かが途切れたように、一気に感情が吹き出した。

「UUUuuWAAAAAAAAAAA!!!!」
(うわぁあああああ!!!!)

 男の胸に飛びついて、大声を出して泣きわめくローズ。
 ここまでずっと我慢していた感情が、津波のように押し寄せる。

「おぉ……どうしたんだい?まったく、怖い思いをしたのかい?」

 男は困った表情を浮かべたが、目の前で泣きじゃくる少女は言葉こそ通じないものの、一人の少女には変わりないと考えた。
 そのまま背中をさすり、落ち着くのを待つことにする。


 流せるだけの涙を流した。
 出せるだけの声も出した。

 何も見えない暗い洞窟の中で見つけた一筋の光のような。
 凍える夜を温める小さな焚き火のような。

 ローズにとって、その男の存在はとても大きなものに感じた。


「もう落ち着いたかい?」

 どのくらいそうしていただろう。
 鼻をぐしゅぐしゅと言わせているが、涙は止まった。
 あれほどバクバクしていた心臓も、今は穏やかに動いている。


 グゥ――。

 その時、ローズのお腹から音が鳴る。

「はっは!腹減ってるのか?分かった!ご飯にしよう!こっちにおいで!」

 男に手を引かれるままに、ローズは歩いて行く。
 ドアをひとつ、ふたつ潜ると、大きな暖炉のある部屋に付いた。

「ここに座って。さぁ」

 男が部屋の真ん中にあるテーブルの椅子をひとつ引くと、手で少女を招く仕草をする。
 ローズはそこにちょこんと座った。

 やがて、男が料理を持ってやってきた。
 テーブルに並べられたものは見たこともないものばかり。
 しかし、そこから漂ってくるとても良い匂いは、ローズの空腹を刺激する。

「どうぞ。食べなさい」

 男は笑顔でフォークを渡す。
 ローズは少し躊躇するが、それを受け取ると久しぶりの食事にありついた。


 男は部屋を与えてくれた。
 倉庫のような場所だったが、長年使っていないであろうベッドがあり、ローズはそこで生活をするようになる。
 昼間、男は仕事に出ていた。
 その間、ローズは広い家の中の掃除、洗濯をしながら男の帰りを待つ。
 そして夜には、テーブルに座り、男に言葉を教えて貰った。

 紙に絵を描き、男が声で発音をする。
 それを真似する事で、徐々に言葉を覚えていった。
 もちろん、ローズがどうしてここに来てしまったのかという事も絵で説明しようと努力をした。
 長い時間が掛かったが、男はローズの事を理解していく。

 その中で、名前を教えて欲しいと男は言った。
 何を聞かれているのかを理解するのに時間が掛かったが、身振り手振りでなんとかその意味を理解する。

「Rose …… My name is Rose …… 」
(ローズ…… 名前はローズ……)

 しかし、それを伝えた瞬間、男の顔が曇った。

「ローズ……か……。そいつは困ったな……」

 この時ローズには、男が何を考え、何を思っているのかが分からなかった。




 ――そして4年の月日が流れた




「オジサン!おはようございます!」

 朝食の準備を終えた所で、男がキッチンへと入ってくる。
 ローズは、男が根気よく教えた言葉を大分使えるようになっていた。
 手慣れた様子で焼いた卵を皿に乗せ、男へと差し出す。

「これをdining table(ダイニングテーブル)に
持っていってくれマスカ?ワタシはスープを用意シマス!」

 ここの生活にも大分慣れていた。
 ローズの仕事は掃除、洗濯、炊事。
 男もローズの働きに満足しているようで、まるで我が子のように可愛がって育てている。

「ありがとうローズ。この奇妙な料理はなんて言ったか……スクランベル……?」

「Scrambled eggs(スクランブルエッグ)デス!
なんでこんなに美味しいものがないのかワカリマセン!」

 ポートレアで当たり前のように食べていたものが、この大陸には存在しないものだと知った時は、大きな衝撃を受けた。
 この大陸の文化も学びながら、ポートレアにあった文化を教えるようになり、こうして料理を振る舞ったりもしている。

「ローズ。今日はちょっと話があるんだ」

 食事を終えた後、男はおもむろに話し始めた。

「アタラマッテどうしたんデスカ?」

「“改まって”だよ。うん、それで本題なんだが……」

 いつになく真剣な表情になった男に、ローズにもこれから話される事が重要な事だと理解する。

「その、名前なんだがな、この街には決まりがあって、12歳で仮名から正式な名前が与えられるんだ」

「名前……?それって……」

「もうすぐ、『花授式』がある。そこで今年12歳になる子どもが花を授けられるんだ。その花の名が自分の名となる。お前はもう殆ど私の子のようなものだ。この街で生きていく上でも、花授式に出てもらおうと思ってな」

 『花授式』。
 この街、花園の都ラキラで毎年行われる由緒ある式典。
 その年に満十二歳を迎える子供達は、皆この式典に出席し、それぞれ花を冠した名前を授けられる。
 遥か昔、ラキラという名の太陽の力を持つ魔女がこの地を蘇らせた時から始まったと言われる伝統だ。
 その花は、この街で生まれ、成人を迎えた証であり、生涯を通し自身の名とする。
 そして、名となった花を一輪、身に着けて生きていくという掟。
 拒めば、神聖なる教えに背いたとされ罰せられるという厳しいものではあるが、街の人間は誰しもが神に賜る大切なものとして感謝している。

「名前が変わる……?でもワタシはローズという名前デス!」

 父と母に貰った大切な名前。
 その名を変えるなんて、考える事が出来ない。

「確かに、お前がそう言いたい気持ちも分かるが……街の掟なんだよ。それにローズという花がない事もないのだが……」

 男の歯切れが悪い。

「何が言いたいデスカ!?」

「その、ローズという名は、代々ラキラの剣聖が受け継いでいる名でな、その家の者しか受け取れないのだよ」

「What did you say!?」
(どういう事!?)

「掟に習って、名を付けて貰えばいいじゃないか。もちろん、この大陸にいる間その名を名乗ればいい。故郷のポートレアに戻ったらローズの名に戻せばそれで……」

「そんなのイヤ!!」

 2人の話は平行線を辿る事になる。
 両親がくれた名前を変えるなんて絶対に出来ない。
 もし、それをしてしまったら、ポートレアを本当に捨てた事になるようなそんな気がした。

「ダメだ!花授式には出て貰う!これは絶対だ!」

「もう!オジサン嫌いデス!!」

 ローズは頬を膨らませたまま、部屋に閉じ篭もる。

「名前を変えるなんて絶対無理デス!!」

 一人、枕に顔を埋めたまま、足をバタバタとさせる。
 やりどころのない何かへの怒りを必死に静めようとした。


 それから数日間、男とローズの間には深い深い溝ができていた。
 必要以上の会話はなく、笑顔を見せる事もない。
 どことなく気まずいのは両者共なのだろうが、ローズからすれば自分が我儘を言ってしまった事が原因であると考え、謝るきっかけを探していた。
 しかし、自分の名をどうするのかという問題は、まだ整理できずにいる。
 名前が変わったとしても人が変わる訳でもなく、そもそも名前というのは単なる識別記号なのだから、それが変わろうと何も問題はないと考える反面、名前が変われば自分が自分でなくなってしまうような、そんな気がするのだ。

 ローズは屋敷の庭にある大きなセチの木の下にやってきた。
 少し種類は違うような気もするが、この木が実らせる果実はポートレアのものと同じ味わい。
 そして、あの日のポートレアとこの木が繋がっているような気がした。
 だから、毎日のように、ここで祈りを続けている。

 この数日、木の下で瞳を閉じるものの、自分の未来がぼやけていた。
 どのようになりたいのか……。
 名を変えてラキラの街で過ごす未来なのか、それとも街を飛び出すのか。
 しかし飛び出してしまえば、この4年間、実の娘のように育ててくれたおじさんに申し訳が立たない。
 それは恩知らずにも程があるだろう。

 父の顔が浮かんでくる。
 あの父ならなんというだろうか。

 何時間、そこに居ただろうか。
 ふと、耳におじさんの声が届く。

「ローズ!こんな所で何やってるんだ!?ずぶ濡れじゃないか!」

 強い雨が降ってきていた事に気が付かなかった。
 服の袖から雨水が滴り落ちる程の豪雨。

「早く家に入りなさい!」

 少し怒っているような男の声。
 ローズはぼーっとしていた。

「ワタシ、ちょっと疲れてシマイマシタ。今日はもう寝マス……」

 そのまま自分の部屋へとふらふら歩いていくローズ。
 部屋へ入るとベッドに倒れ込み、そのまま眠りについた。


 次の日――

 ズキズキとした頭の痛みで目を覚ました。
 何がどうなって今に至るのか、ハッキリと思い出せない。

「朝ゴハン……作らないとデス……」

 起き上がると、ふらふらとキッチンへ向かう。
 ドアを開けるとおじさんが机の上で何かを食べていた。

「あれ……ごめんなサイ……今……何時デスカ……」

 ぼーっとする頭を起こすために額に手をやる。

「もう昼過ぎだ。一体どうしたって言う……おい!どうした!?お前大丈夫か……?」

 ローズの顔を見た男は、顔色を変えて椅子から立ち上がるとズカズカと近付いてくる。

「どうしたンデスカ?」

「顔が真っ赤じゃないか……っ!!ひどい熱だ……お前、昨日濡れたままで寝ただろう?」

「え……あぁ……はい……」

「いいから休め!全く……」


 ローズは高熱を出していた。
 そのままその日はベッドの上で過ごす事になる。
 久しぶりにおじさんの作った食事を食べた。
 あの、暖かい味。

「こっちです!……ローズ大丈夫か?術士の先生を呼んできたから診て貰え」

 やはり、暖かい声。
 涙が溢れてくる。

(おじさんにこんなに良くして貰っているのに、私は何で反抗するような事をしていたの?本当にバカ……)



 数日後――


「おはよう!おじさん!ご飯は出来てマスから、早く席について下サイ!」

 寝込んでいたのが嘘かのように、すっかり元気を取り戻したローズの姿があった。
 男はその声のトーンにびっくりした様子だったが、すぐに安心したような笑顔を見せて言われた通りに席に着く。

「ワタシ、花授式に行きマス!」

 満面の笑みで詰め寄るように言い放つローズ。

「そうか……わかった!では申請をしておくよ。ありがとう。辛い決断だっただろう」

「良いんデス!意地を張ってマシタ……ごめんなサイ……」

「いや、良いんだ。さぁ、早くご飯を食べないと冷めてしまうよ」

 屋敷の空気が数日振りに暖かさを取り戻す。
 ローズも上機嫌で食卓へと着いた。


 花授式当日――


「緊張してるのか?」

 男の隣を歩くローズは、何か少しぎこちない足取りだった。

「No、No……そんな事ないデスヨ」

 笑顔を見せるローズだが、その表情もどこか不自然だった。

 花授式に参加する事を決心したローズだったが、やはり自分の名が変わるという事には両親への後ろめたさがある。
 どうにかこの気持ちに折り合いをつけようと数日間努力してみたが、やはりどうする事もできなかった。
 そして、そのまま当日を迎えてしまったのだから、足が重いのは致し方ない。

 ローズの心は晴れる事のないまま、街のシンボルでもある聖花教会までやってきた。
 花授式が行われる神聖な場所であり、代々最高権威者の一族として街を収めるラキラ家の敷地。
 教会へと上がる階段には兵士が両側に列を作り、重々しい雰囲気が立ち込めていた。

 中へ入ると、ローズと歳の変わらなそうな少年少女が数十人。
 皆、席に座り式典の開催を待っている。

「さぁ、もう始まってしまう。あの子の隣に座りなさい」

 促されるままに席に着くローズ。
 この雰囲気が落ち着かないというのもあるが、それ以上に心の葛藤が煩くて周りを見る余裕もなかった。


「では、ただいまより花授式を始めます。皆様、ご起立を」


 大司教であろう、偉そうな帽子を被った男が宣言すると、一斉に心地よいパイプオルガンが会場に鳴り響く。
 子ども達の前に兵士が並び、一人ずつ手を取り最奥部の祭壇に座る大司教の元へと連れて行かれる。
 何やら少し話した後、花を手渡され、席へと戻っていく。

 そんな中、他の子達を見ている余裕がないローズ。
 頬に汗が流れ、まるで生きた心地がしない。
 大切な物を、もうすぐ失ってしまう……そんな感覚が心を支配する。

「大丈夫ですか?」

 ふと、隣に座っていた少女が声を掛けてきて、はっと我に帰ったローズ。
 よほどひどい顔をしていたのだろうか、隣の少女は心配そうに見つめている。

「うん……大丈夫……デス……」

「あまり大丈夫そうに見えませんけど……そうだ、ちょっと手を貸して下さい」

 ローズは言われるがまま手を出すと、少女は不思議な光をローズの手に放つ。

「これで大丈夫ですよ」

 光が収まると、不思議と身体が軽くなっていく。
 身体の奥が暖まるような、不思議な感覚。

「一体、何をしたんデスカ?」

「私、少し薬草の知識があるんです」

 緑の長い髪を揺らしながら、少女は微笑む。
 その笑顔から、何故か、同じ歳の筈の少女に母の顔が重なった。

「ありがとう……デス……」

(やっぱり……私は……)

 気がつけば、先程まで感じていた不安がどこかにいってしまっていた。
 その変わりに、強い気持ちが胸の中に湧いていた。

「君の番だ。付いてきなさい」

 隣の緑髪の少女が兵士の手を取り歩いて行く。
 それまで全く式典に集中出来ていなかったローズだが、どのように名前が決められるのか、見ておかなくてはいけないと考えて少女を目で追った。

 祭壇まで歩いた少女は、兵士に誘導されて一人で大司教の前に立つ。
 祭壇の横には、数人の偉そうな人達が祭壇の様子を見守っているようだ。

 大司教の前に緑髪の少女が立つと、大司教は少女の頭の上に手を置いた。

「ふむ……なるほど……」

 大司教が、何をしているのかは分からないが、何かを感じ取ったように手を離すと、横に置かれた大きな机の前に歩いて行く。
 机の上に大量に置かれた花の中から、一輪の花を選ぶと、再び少女の前にゆっくりと歩いてきた。
 そして、一呼吸置くと……。

「そなたの名は……アマナ。この花を生涯、大切に身につけるように」

 そう言い渡すと、少女に花を手渡した。
 緑髪の少女は花を受け取ると一礼し、踵を返して祭壇に背を向ける。
 横にいる数人が疎らな拍手を送ると、兵士に誘導されて元の席へと戻ってくるようだ。

「付いてきなさい」

 ローズの元に、違う兵士が手を差し伸べてきた。
 立ち上がったローズはその手を取り、緑髪の少女に習って兵士の横を歩く。
 祭壇の前にやってくると、大司教の顔を一瞥すると目が合ったので、軽くお辞儀をした。

「さぁ、大司教様の前へ」

 兵士が小声で伝えてくる。
 言われた通り、祭壇へとゆっくり歩いて行く。

(覚悟は出来た。おじさんには少し迷惑かけるかもしれないけど、やっぱり私は……!)

 大司教がローズの頭の上に手を置くと、静かに目を閉じた。
 十数秒……大司教は目を開いてローズの目を直視する。

「ふむ……なるほど……」

 先程と同じように、花が並べられた机へと向かい、一輪の花を手に戻ってくる大司教。
 その花は、複雑な形の紫がかった青の花びらをつけた、幻想的な花。

「そなたの名は……アヤメ。この花を生涯、大切に身につけるように」

 大司教がアヤメの花を手渡そうとした時、ローズは声を上げた。

(おじさん、ごめんね!)

「待って下サイ!!ワタシはローズの名前が欲しいデス!」

 会場は騒然とした空気に包まれる。
 こんな事は前代未聞なのだろう。
 それでも、ローズは負けない。

「ローズが花の剣聖の名だという事は知っていマス!それでも、ワタシはローズの名前が欲しいデス!」

 一人の兵士が、ローズの肩を掴む。

「何を言ってるんだ君は!大司教様が与えてくれた名の何が不満だと……」

 そこまで言うと、甲高い声が会場に響き渡る。
 それは、とても幼い少女の声だった。

「面白いじゃない!ずっとつまらない式だったけど、我慢してて良かったわ!」

 声の出処を探ると、祭壇の横に並んだ偉そうな人達の中から、小さな子どもがひょいと姿を現した。

「リリア様!いけません!」

 近くにいた兵士がすぐに少女を止めに入る。

「うるさいわね!黙ってなさい!この姫の言うことが聞けないのかしら!」

「しかし……!!」

 兵士は大の大人だというのに、この小さな少女に圧倒されているように見える。
 少女はグイグイと祭壇の前に歩いてきた。
 近くに来ると、ローズよりも随分と小さい。
 まだ4、5歳くらいに見えるリリアと呼ばれた少女は、大司教に向かい大きな声を上げる。


「お父様!この女とラキラの剣聖、どちらがその名を取るに相応しいか決闘をさせましょう!!」

「リリア……何を言っているそんな事は……」

 大司教は少女の突然の打診にうろたえているようだ。

「ワタシは構いまセンヨ!」

 ローズは強気に大司教へ詰め寄る。
 剣の腕には自信があった。
 あの父に教えこまれた剣が、負けるわけがない。

「しかし……」

「面白いじゃないですか。構いません。その勝負、受けましょう」

 また、違う所から声が飛んできた。
 横の偉そうな人達の中から、腰に剣を差した女性。

「ローズ!!いけません!そんな事は……!」

 大司教はまだ納得していない。

「そのチビちゃんが私に勝てたら名をあげる。私に負けたらその花の名になる。それのどこが悪いというの?それとも何?私が負けるとでも?」

「それは……」

 リリアが間髪入れずに大きな声をあげる。

「決まりね!さぁ、皆の者、準備をなさい!闘技大会を開いている会場を使うのよ!今すぐよ!」

 兵士は顔を見合わせていた。
 大司教は、深い溜め息を吐いたあと、頭を上げて宣言をする。

「皆様、聞いての通りです。式典は一度中断させて頂きます」



 ――闘技大会場


 年に数度、闘技の大会が行われているこの場所に、二つの影が並ぶ。
 花の香りが吹き抜ける中、ラキラの歴史でも類を見ない決闘が始まろうとしていた。

 審判を務めるのは大司教の家に仕えるリリアの指南役。
 決闘をひと目見ようと集まった野次馬が2人を囲んでいた。

 ローズがポートレアでの大会を思い出すのは必然の環境。
 あの時と違うのは、空を見上げても海がない事。
 今ではすっかり慣れてしまった雲の浮かぶ空を眺めていた。

(私は、私だから……お父さん……)

 剣を教えてくれた父の顔が浮かぶ。
 ラキラの街で暮らすようになってからも、一人剣の鍛錬は積んでいた。
 負ける訳にはいかない。

「真剣で戦わせる訳にはいかない。両者ともこれを……」

 審判が手渡してきたのは木で作られた剣。
 さすがに血を流す訳にはいかないのだろう。
 しかし、木剣を受け取ったローズはその感触に違和感を覚えた。
 いつも使っている剣よりも、随分重いのだ。

(こんな剣じゃ……戦えないよ……)

 焦るローズ。
 手に持った剣は、刃の部分が太く作られていた。
 ローズが扱い慣れた剣は、刺突をメインとする細剣。
 扱い方が明らかに違う木剣を手に、使いこなせる自信がない。

「ちょっとだけ待って貰えマスカ!?」

 ローズは審判に剣を渡して周りを見渡す。

「どうした?早く剣を持ちなさい」

「これじゃ……これじゃダメなんデス!」

 花の剣聖は、ローズを見下しながら笑みを浮かべる。

「お嬢さん、さっきまでの威勢はどこへいったの?まさか、怖気づいた訳じゃないわよね?」

「ワタシはベストを尽くしたいデス!」

 ふと、ローズの視界にある物が飛び込んできた。
 野次馬の一人である老人が持っていた片手杖。
 足が悪い人の歩行を補助する為の物だろう。
 その杖は、太さといい、長さといい、ローズの使い慣れた剣によく似ていた。

「おじいさん!これ貸してくだサイ!」

 走ってきたローズに、老人は面を食らったようだ。
 しかし、周りの目線が一挙に老人に向けられている事に気がつくと、杖をローズに渡す。

「わかった。その代わり、勝ってくるんじゃよ」

 老人から杖を受け取ると、その感触を確かめる。

(軽い。それにいい長さ。これならいける!)

 審判と剣聖の女が待つ演台へと戻ったローズは、杖を腰に持ち一礼をした。

「お待たせしマシタ」

「あんた……それで戦うっていうの……?」

 ローズの持ってきた杖を見て、剣聖の女は嫌悪感を全身で表す。

「ワタシはこれがいいデス。文句ありマスカ?」

 審判の男は苦い顔をしていたが、一つ頷くと両手を前に出した。

「2人共準備は良いな?俺が1本を取ったとみなした方を勝者とする。問題なければ両者前へ」

 ローズは引かれた白線まで進む。
 気が乗らなそうに剣聖の女も前に出た。

 そして、両者が武器を構える。

「何?その変な構え……。あんたやる気あるの?」

 ローズの構えを馬鹿にするように鼻で笑う剣聖。
 見た目は24,5歳に見えるが、若作りをしているだけで本当はもっと上かもしれない。
 経験がローズよりもあるのは間違いないだろう。
 体格差もかなりあり、特に手の長さからリーチは剣聖の女の方がありそうだ。

 しかし、どれだけ分が悪い試合でも、ポートレアでは幾度となく下馬評を覆してきた。
 この心の底から湧き上がる自信の正体は、父の教えだ。

「Bring it on!!」
(かかってきなさい!!)

 自然と口からポートレアの言葉が出ていた。
 集中しきったローズの目には、最早対戦相手の女しか映らない。

「よし、始め!!」

 審判の男が手を上げる。
 その直後に、剣聖の女が一気に踏み出してきた。

(早いっ……!!)

 振り抜かれる剣の切っ先をギリギリの所で後ろにかわし、バク転をして体勢を立て直すローズ。

「へぇ……。思ったより見てるじゃない」

 口元に笑みを浮かべながら、尚も剣聖は踏み込んでくる。
 重たい木刀を軽々と振り回しながら、全く隙を見せない剣聖の立ち回りは、“剣聖”と呼ばれるに相応しいものだった。

(まずい……!!)

 ローズの目の前で重心を移動させてフェイントをかける剣聖。
 あり得ない体勢から放たれる一撃を、当たるギリギリの所で防ぐローズ。

 カンッ――

 乾いた音が会場に響く。
 それを追いかけるように歓声が飛んでいる。

「中々いい目をしてるわね。でも、逃げてるだけじゃ私には勝てないわよ!!」

 間髪入れずに連撃を叩き込もうとする剣聖。
 しかし、そこに、一筋の隙を見つけるローズ。


「Step light, strike hard……」
(ステップは軽く、攻撃は激しく……)


 自然と父の言葉を小声で出していた。

「沈みなさい!!」

 次の瞬間、頭の上から振り抜かれた剣線を避けると、女の胸に向けて杖の先端を突き抜く。

「あぁっ!!」

 剣聖の女の身体が宙に舞う。
 手には確かな感触があった。
 しかしローズはまだ踏み込む。

 ドサッ――

 背中を地面につけて倒れた剣聖。
 立ち上がろうとする顔の目の前に、杖の先端が突きつけられた。

「I must not fall」
(私は決して沈まないわ……)

 それを見た審判がローズの手を掴み上げる。

「そこまで!!勝者は挑戦者!!」

『うぉおおおおおおおおおお!!』

 大歓声がローズの耳に届くまでに数秒が必要だった。
 こんなにも集中したのはいつ以来だろうか。

「嘘でしょ……こんなガキに……」

 剣聖の女は顔に腕を当てて息を切らしている。
 誰から見ても、ローズの圧勝だった。

 ハッと我に帰ったローズは、杖を借りた老人の元に走っていく。

「ありがとうデス!お陰で勝つことができマシタ!」

 老人は興奮した様子でローズの肩をバシバシと叩く。

「よくやった!素晴らしい戦いじゃった!!」

 老人の肩越しに、ローズの良く知る顔があった。
 ラキラのおじさん。
 彼には随分と迷惑を掛けてしまった。
 反省はしている。
 謝らなければならない。

「ごめんナサイ……ワタシ……どうしても我慢が出来ナクテ……」

 うつむきながら、気まずそうにその顔を確かめる。
 彼は怒っていなかった。
 それどころか、少し泣いているようだ。

「よくやったな!!ローズ!!」

 少し腰を低くして、両手を広げる男。
 その姿から自然と次の言葉が出てしまう。

「Daddy!!」
(お父さん!!)

 抱きつくと、腕を回してその胸に顔を埋める。
 あの日、自宅の横の崖を登ったセチの木の下で、想像した未来の自分にやっと追いつけたような気がした。


 ――――――

 ――――

 ――


 こうして、正式にラキラの街でローズの名を手に入れた少女だったが、思いもよらないものまで一緒に手に入れてしまう。

「それでは、本日からこの少女にはラキラの花の剣聖として、ローズの名を授ける」

「ちょっと待ってクダサイ!剣聖はいりマセン!名前だけで大丈夫デス!」

 慌てて拒否しようとするローズ。
 しかし、大司教はその申し出を却下する。

「代々、ローズの名を持つのは花の剣聖。それを覆す事は出来ないのだ。それを分かっていて名を欲したのではないのか?」

「えぇ……!?そ、そういう訳デハ……!」

 聖花教会で言い渡された事は、花の剣聖になるという事だった。
 花の剣聖は、ラキラの一つの象徴であり、有事の際に剣を取る役職だというのだが、ローズが欲しかったのはあくまでも名だけであり、そんな大それた名誉までを奪うつもりはない。

「しかし、その剣の腕を認めない訳にもいかない。現に、その歳であの剣聖を倒してしまったのだからな」

 とんでもない事をしてしまった。
 ローズの背に冷たい汗が伝う。

「ワタシは……ワタシは……」

 どうしていいか分からずに、おどおどとしていると大司教の娘であるリリアがまた甲高い声をあげる。

「素晴らしい戦いだったわ!私程じゃないにしろ、花の剣聖を名乗るには十分な腕だわ!この姫が認めてあげるんだから、貴女は今日からラキラの花の剣聖よ!」

 腕を組み、えっへんという態度の少女。
 自分よりも随分幼い子どもなのに、何故こんなに偉そうな態度なのかと呆れるばかりだが、今はそれよりも重要な事がある。

「もし、ワタシが剣聖の名を継いだら、今までの剣聖さんは……どうなるのデスカ?」

「心配せずとも、街から追い出すなんていう事はしない。お主に負けた事で、己の慢心に気が付き、また剣の道を一から歩みたいと兵団への志願をしてきた。お主が気に病むこともないだろう」

「そう……デスカ……」

「ラキラの街に危険が訪れた時、その力を貸して欲しい。この街の剣聖を継いで貰えるか?」

 パチパチパチ――

 周りから疎らな拍手が聞こえてくる。
 しかし、その音はどんどんと重なり、大喝采となる。

 ローズはもう引けなくなっていた。
 自分の我儘でここまで来てしまったのだとしたら、最後まで責任を持つべきだろう。
 そう、心に決めた。

「わかりました。ワタシ、花の剣聖になりマス!」

「では、そなたの名は……ローズ。この街の花の剣聖とする。この花を生涯、大切に身につけるように」


 ――――――

 ――――

 ――


 拍手はまだローズの耳に届いている。
 一輪の薔薇を持ち、育ての親であるおじさんの隣を歩きながら、これからの事を考えていた。
 やるからには全力でやらなければならない。
 顔を一度叩き、気を引き締める。

「一時はどうなる事かと思ったが、良かったな」

 男はローズに笑顔を向ける。

「ハイ!ワタシこれからも頑張りマス!」

 その時、後ろから叫ぶような男の声が聞こえてきた。


「おーーーーーい!!!」


 振り返る2人。
 走ってきた少年は、胸にタンポポの綿毛のアクセサリーを付けている。
 このアクセサリーは、ラキラの街の外からやってきた人である証だ。
 生涯身につける花のない客人に渡されるものだが、何故そんな人間がローズに声を掛けてきているのだろうか。

 黒髪でメガネを掛けた少年は、ゼェゼェと息を切らしながら目の前までやってきた。
 どこか……その顔に見覚えがあるような……。

「変な事を聞くかもしれないけど……君はもしかして、海中都市を知っているんじゃないか!?」

 海中都市。
 それはポートレアの事だろうか。
 その言葉を聞いて、ローズはハッと気が付いた。
 この男は……。

「アナタ!!あの時、溺れてた人デスカ!?」

 ポートレアから外に出る事になってしまったきっかけ。
 あの時の少年が成長したら、目の前の彼になってもおかしくはない。
 それに、この話を急にしてくる人なんて、当の本人以外にあり得ないだろう。

「やっぱり!!君が……僕を助けてくれた――」

 そこまで言うと、少年は髪をぐしゃぐしゃと掻いて、苦しそうにし始めた。

「アナタ……大丈夫デスカ……?」

「ごめん……えっと、その、あぁそうだ!まずは、その……自己紹介をしよう。僕はレイルス。マリーヴィアの護衛艦隊に勤めているんだ。えっと君の名前は……ローズになったんだよね?さっきの試合を見させて貰ったんだ!感動したよ!おめでとう!!」

「えっと……ありがとう……じゃなくてデスネ……エェ!?!?」


 この時の彼女はまだ知らない。
 近い未来、目の前に現れた少年がローズをある事件に巻き込んでいく事も――
 そして、ポートレアの街に戻るための道標となる事――
 ローズは知る由もない。

+ 高尚なる水都の主公オリヴィア
「い、行きますぞ!お嬢様!!」

「あはは!爺やってば、そればっかり!!」

 流水の都『ラグーエル』を一望するラークリウス家の屋敷。
 その庭先に見える二つの人影。

「もう……ずっと爺やが鬼のままじゃない!」

 一つは、ラークリウス家の長女オリヴィア。
 まだ十三歳の少女ではあるが、さりげない仕草や振舞いの端々には、優雅さや、高貴さといった、淑女が身に纏う要素を既に持ち合わせている。

「まだまだ……ですぞ……はぁ……はぁ……!!」

 もう一つは、この屋敷に四十年近くに渡り仕え続ける、現在の執事長ノーマン。
 オリヴィアが生まれた時から彼女を見守り続け、傍で身の回りの世話を務めてきた。

 これは日課。
 昼下がりに訪れるノーマンの休憩時間。
 それは彼にとって、休憩室で過ごす安らぎのひと時ではなく、遊び相手を欲しがるオリヴィアに尽くすための時間。
 彼女が物心ついて以来、ずっと続けてきた日課。
 それをノーマンが苦痛と感じたことはない。
 むしろ、その時間こそが彼にとって何より大切で、愛しい時間であった。

「はぁ……はぁ……はぁ…………はぁ…………!」

「爺や?鬼が止まっちゃったら、鬼ごっこにならないでしょう?」

 寄る年波に軋む体。
 もはや戯れの相手一つ満足にこなせぬことは、誰よりも本人が一番理解している。
 事実、自分の役目ももう長くはないのかもしれないと、毎夜毎夜想いを募らせる日々。

「爺や……大丈夫?」

 なんと心優しく、純粋な眼差し。
 息を切らし、少し立ち止まっただけの自分に対し、こんなにも心配そうに声をかけてくれる。
 ノーマンにはそれがこの上なく嬉しく、そして悲しい。

「ど、どうかご心配なさいませぬよう!老体とはいえ、この目が黒いうちはいつまでも現役ですぞ!」

「あははは!頑張って!!」

 ノーマンの胸に溢れる想い。
 たとえ自身の体が完全に壊れようとも、この時だけは弱音など決して許されない。
 彼女が笑顔でいられる時間だけは。
 今、この時だけは――

「ノーマン!休憩時間も間も無く終わりだろう?そろそろ仕事に戻るように」

 オリヴィアとノーマンを包んでいた温かな空気を引き裂く怒声。
 庭に響き渡ったその声により、オリヴィアの心がゆっくりと冷たく沈んでいくのをノーマンは感じ取った。

「お父様……」

 オリヴィアが見上げるテラスに立つ声の主。
 彼こそはオリヴィアの実父にして、ラークリウス家の現当主。
 そして、この街ラグーエルを中心とする周辺一帯を治める領主である。

「お前が休憩時間に何をしようとも構わん。だが、体を休めるべき時に体力を浪費した挙句、その結果仕事に支障をきたすようであれば、執事長であろうとも厳罰は覚悟してもらうぞ?」

「心得ております。旦那様」

 彼はそれだけを告げると、すぐにテラスから書斎へ身を翻す。
 最後までその視線がオリヴィアに向けられることはなかった。

「申し訳ございません。お嬢様。そろそろ仕事に戻らねばなりません。また明日、お相手して頂けますかな?」

「うん……爺やも、お仕事頑張ってね」

 気丈に振る舞わんとする彼女の笑顔に、ノーマンの心はギュッと締め上げられた。



 ラークリウス家における父と娘の関係は、初めからこうだったわけではない。

 父はかつて街人たちから『名君』と謳われた立派な領主だった。
 領主とは、元々レミエール王国から庇護下の各街や村などに派遣される貴族や爵位持ちの騎士の家系で、交通網の整備、魔物の討伐といった、個人や小集団の手に余る仕事を代表して取り締まり、他にも民の生活に絡む様々な問題の解決、それに伴う街の発展など、任された土地を守ることを使命とする者たちを指す。
 父は日々を懸命に生きた。
 領主としての誇りを重んじ、その役目をまっとうし続けた。
 ここラグーエルが、大陸を代表する美しい都の一つとして数えられるようになったのも、その貢献あってのものである。

 しかし、妻との間に娘が生まれて間も無く、妻が亡くなった。
 以来、彼は変わる。
 最愛の妻を失った寂しさを埋めるが如く酒に溺れ、女に溺れ、金を欲した。
 成長する娘に妻の面影を見るのか、彼女にも辛く当たった。
 教育と称して途方もない量の雑務をこなさせたり、罰を与えるかのように勉学に励まさせたり。
 だが、それはあくまでも屋敷内での話。
 娘にとっては鬼のような父親であっても、彼の心の中には領主としての誇りが相も変わらず残っていたのだろう。
 外面は依然、立派な領主としての役目をこなし続けている。

 娘は父の声に必死に応えようとした。
 八つ当たりとも言えるような数々の所業も、自分への愛の鞭や、期待などであると信じ、受け止めようとしたからである。
 だが、まだ幼かった彼女の心はそれに応え続けられるほどまだ強くはなかった。
 性格はどんどん気弱になり、涙をよく流すように。
 ノーマンはその度に彼女を慰めた。
 ただ、彼女の父を止めることだけはできなかった。
 執事の身分で主に歯向かうことなどもっての外。
 何より、彼女の父もまた、大きな悲しみを抱えた一人の人間であることを知っていたから。





「……ひっく……ひっく…………」

「おや?お嬢様……?お嬢様!?」

 ある日の夕食後、月明かりに照らされた庭で、一人膝を抱え泣いているオリヴィアを見つけたノーマン。

「爺や……?うえぇええええええん!!」

「もう大丈夫ですぞ。こんな時間に如何なさいました?」

「……夕食のスープを……ひっくり返しちゃったの……それで、お父様に叱られて……朝まで庭で反省していなさいって……」

「そ、そんなことを……!?」

 近頃は、深夜から朝方にかけての冷え込みが厳しくなってきている。
 だというのに、オリヴィアは寝間着姿で、靴すら履いていない。
 こんな姿で朝までここに居続けては風邪を引いてしまうことなど目に見えている。

「旦那様は私が説得いたします。早くお部屋に戻りましょう」

「でも……ひっく……お父様は……絶対に許してくれない…………ぐ……ひっく……うわぁあああああん!」

「お嬢様……どうか泣き止んでくださいませ。ひとまず屋敷の中へ入りましょう?」

 泣きじゃくるオリヴィアを抱きかかえ、ノーマンが立ち上がろうとした時だった。

「うるさいぞ!何時だと思っている!?」

「ひっ……!!」

 屋敷の二階に位置する書斎の窓を開け、庭を見下ろしていたのはオリヴィアの父。

「旦那様。お騒がせしてしまい申し訳ございません」

「ノーマンか。そこで何をしている?オリヴィアは私の命で罰を受けているだけだ」

「ですが、これ以上はオリヴィアお嬢様のお体が……」

「私が命じたのだ!これは然るべき罰だ!」

「ですが……では、別の形で、ということにはなりませんでしょうか?旦那様の手伝いでも何でも構いません。このままではどちらにせよ何も残りません……!」

「…………そこまで言うならいいだろう。オリヴィアを連れてここへ来なさい」

「かしこまりました」

 少し考え込んだ後、踵を返した主人を見て胸を撫で下ろすノーマンは、寒さと恐怖から、プルプルと体を震わせるオリヴィアを抱えたまま屋敷へと戻る。

「爺や……ありがとう」

「私めは当然のことを申し上げたまでです。だからこそ、旦那様も考えを改めてくださった。それだけのことですよ」

 オリヴィアの足裏は泥だらけになっていた。
 胸元から取り出したポケットチーフでそれを優しく拭きながら、ノーマンがオリヴィアを慰める。

「ううん。わたし、お仕事の手伝い頑張るね!せっかく爺やがお父様に頼んでくれたんだもん!」

「誠にお優しいですな、お嬢様は。ですが、どうかこの老体のためではなく、ご自身のために努力してくだされ。それがいずれ領主となるお嬢様のためにもなるのです」

「……わかった」

「では、参りましょうか。難しいものでしたら、及ばずながら私めもお手伝いさせていただきますゆえ」

「うん!」


 領主の家に生まれたからには、いずれその跡を継ぐことになる。
 生まれながらにして定められた運命。
 彼女はまだそれがどれだけのことなのかを理解してはいない。
 領主という人間が、その地に住む人々にとってどれだけの意味を持つのかを。

――コンコンッ

「失礼いたします。旦那様。オリヴィアお嬢様をお連れしました」

「失礼いたします。お父様」

「遅いぞ……何をグズグズしていたのだ……?」

 書斎に立ち入った途端に鼻を突くアルコール臭。
 床に転がる酒の空き瓶が二本。
 夕方にノーマンが呼びつけられたときには無かったものだ。

「申し訳ございません。途中で侍女衆に呼び止められまして、少し仕事の指示をしておりました」

「ふん……まぁよい。で、オリヴィアへの罰の件だったな」

 書斎机には中身が半分ほどになった別の酒瓶。
 夕食後からずっと飲んだくれていた模様。

「はい。罰として、わたし何でも頑張ります」

「……よし。では、これを街外れの孤児院に届けてくるように」

 そう言って主人が小さな封筒をオリヴィアの足元に放り投げた。
 家紋どころか、差し出し名義さえも記されていない極めて質素な封筒に、妙な違和感を覚えるノーマン。

「これを……ですか?」

「中身を見ることは決して許さん……経営主の男に『遣いで来た』と言って手渡せば理解するはずだ……それ以外、余計な口を開くことも許さん……朝までには戻るように……」

「まさか……今からですか?旦那様!それは危険かと!」

「何でもするとオリヴィアは言ったぞ……?」

「しかし、こんな時間に子供一人では危険です!いくら治安の良い街とはいえ、良からぬ連中も少なからず存在します!それに、お嬢様は孤児院の場所を知りません!」

「地図なら持たせてやる……子供とはいえ、我がラークリウス家の娘。街を這いずっているネズミの一匹や二匹、どうということもあるまい……」

「それは稽古場での話です!お嬢様にはまだ早すぎるかと――」

「いいの、爺や!お父様はわたしならできると思って、このお仕事を任せてくれたの……わたしなら平気よ」

「お、お嬢様……」

「そういうことだ……では、早く行ってこい」

「はい。失礼いたします。お父様」

 地図と封筒を手に、一人書斎を後にするオリヴィア。
 部屋の扉を閉める直前、ノーマンは閉じ行く扉の隙間から覗く彼女の表情を捉えた。
 歯を食いしばりながら、必死に涙を堪える悲痛なそれを。

「……っ!旦那様。お嬢様に付いていくことをお許し頂けませんでしょうか?」

「許さぬ……」

「ならば、お嬢様に姿を見られぬよう、隠れて後を追いかけることを――」

「くどいぞ、ノーマン!」

「しかし……!」

 赤らんだ顔にやや虚ろな目。
 明らかに主人は酔っていた。
 そんな状態で、まともな判断がくだせるわけがない。

「……あれは……あの封筒は一体何でございましょう?」

「お前には関係のないものだ……気にするな」

「いいえ!旦那様には旦那様のお考えがあるものと、私めは常々そう考えておりました。ですが、この件に関しては理解し難いものがあります。もしも話して頂けないのであれば、こちらにも考えが御座います」

「……屋敷を去るか?」

「既に覚悟はできております」

「……お前が私に逆らったのは初めてだな」

 先代の頃より見習いとして屋敷に仕えていたノーマン。
 今となっては、主人と共に過ごした時間は、彼の実父よりも長いかもしれない。
 数十年来の旧友とも呼べる男が初めて牙を剥く。
 そんな感慨深さからくるものなのか、酒の酔いからくるものなのか、ノーマンの目の前の男の口元が微かに緩んだ気がした。

「私には……娘が二人いる」

「は……?」

「オリヴィアには腹違いの姉妹がいる。正確には、いるかもしれぬのだ」

 領主は語る。



――同日、正午頃

「約束も取り付けぬまま、急な来訪、誠に申し訳ありません」

 突如としてラークリウス家を訪れた来客。
 それは、どこかみすぼらしい印象を受ける痩せ型の男だった。

「私の耳に入れておきたい事があると訪ねてきたそうだが……?」

「領主殿もお忙しい事かと思いますので、手短にお話しします。貴方にお子さんは何人いらっしゃいますでしょうか?」

「…………娘が一人いるが……それがどうした?」

 予期せぬ問い。
 急な来訪自体は珍しい話ではない。
 ただ、そのほとんどは金の無心や政治的な用件であることが多い上、それを抜きにしても、あまりに突拍子もない話。

「私は現在、街外れで小さな孤児院を運営しておりまして、預かっている子供の中に、古い写真を持っている少女がいたのです。そこには、貴方と思われる人物が写っておりました」


「写真……いつのものだ?」

「十数年程前のものではないかと。今よりもかなりお若く見えましたので」

 領主は記憶を辿ろうとするが、家柄もあり、写真を撮られたことなど日常茶飯事。
 そもそもそんな昔の話がたったそれだけのヒントで思い出せるはずはなかった。

「その子に聞きました。この人は誰なのか、と。すると、彼女は『知らない』と答えました。ただ、その写真を『お母さんとのたった一つの繋がり』と言っています」

「その母親というのは?」

「わかりません。彼女は生まれながら孤児でしたので、母親の記憶がないのです。ただ、気が付けばその写真を持っていたそうです。我々も方々探してはみましたが、手がかり一つ掴めませんでした」

 ここへきて、領主はこの男がどういった目的で自分の元を訪れたのかを察した。

「ただ、領主殿と彼女の母親の間には、何らかの関係があった可能性が極めて高い。そこで、領主殿にお願いがあります。彼女を引き取っていただくことはできませんか?もしかしたら、娘さんの腹違いの姉妹ということも……」

 その出所は終ぞ判らなかった。
 遠い昔、自分に寄添ってきた女が身籠っていたのか。
 それとも女遊びの最中にできた子なのか。
 どれにせよ、オリヴィアには年近い姉妹がいる可能性がある。
 男はそれを告げにきたのだった――――



 ノーマンは固唾を飲んでその話に聞き入るばかりだった。

「そ、それで……?」

「無論、断った……ラークリウス家に隠し子がいたなど噂でも流れれば、面白がる連中も少なからずいるだろう。最悪の場合、家が失墜することさえあり得る」

「ですが……もし、その少女が本当に――」

「そんな事実はない!男に金を渡すと言ったら、すんなりと折れたよ。所詮は金欲しさに口を突いた戯言だったのだろう」

「では……あの封筒は……」

「……中身は小切手だ。あんなものを渡して、帰る途中で道に落とされでもすればそれで終わりだ。孤児院と我が家に繋がりがあることは隠さねばならん」

「それこそ私めにお任せ下されば……」

「お前は長年我が家に仕えている執事。屋敷の外にも顔を知る者は多い。かといって、新米の執事やメイドに任せて、中身を見られでもすれば面倒なことになる」

 理屈は理解できたが、ノーマンにはどうしてもわからないことがあった。
 自分の娘かもしれない子供の存在。
 それを知ったのならば、何を置いてもその子を引き取りに行く。
 それこそが人情。
 彼がその気になれば、子供の一人くらい世間から隠し通すことは不可能ではない。
 だというのに、彼はその子供を抱き寄せるどころか、煙たがるように突き放した。

 オリヴィアに辛く当たることも、一種の愛の形なのではないかと思っていた。
 心の奥底には、きっとオリヴィアを慈しむ温もりがあるはずだと信じていた。
 だが、この男にしてそんなものは存在しない。

 ノーマンはようやく悟った。

 彼が何より重んじるのは領主としての誇りと、家の名。
 では、その次に重んじるものは何か。
 それ以外には何もないのだ。
 強いて挙げるとすれば酒か、女か、金か。

 最愛の人に旅立たれた時点で、この男は完全に壊れていた。

「オリヴィアなら私の言いつけは絶対に守るだろう。中身を見ることはまずあるまい。仮に、何かの拍子に中身を見る様なことがあっても、小切手など見たこともなかろう。まぁ、理解したところで、慈善活動とでも勘違いするのが関の山だ……」

「元よりお嬢様を遣わせるおつもりだったので?」

「丁度良かったのでな。罰と思えば楽なものだろう?」

「…………お嬢様に……その少女のことは?」

「報せたところでどうなる……知らぬものは、存在せぬことと同義だ。っち……長話のせいで酔いが醒めた……下がって良いぞ」

「…………はい……失礼いたします」

 忘れよう。
 忘れねばならぬ。
 ノーマンは、頭の中で繰り返し続けた。

 もし、自分が口を滑らせた結果、主人の言う様に家が失墜してしまえば何もかもが終わる。
 それはダメだ。

 だが、お嬢様はどうなのだろうか。
 彼女にとって、家族と呼べる人間は父のみ。
 そんな父は、彼女に向ける愛をこれっぽっちも持ち合わせてはいない。
 彼女は、今までも、そしてこれからも、ずっと家族の愛を知らぬまま生きていくことになるのではないか。
 あまりにも不憫だ。

 ノーマンの葛藤の夜は続いた。
 そして、彼が数週間悩み抜いたあげく、答えを出す。
 忘れはしない。
 だが、語ることはしまいと。

 その晩から、葛藤の夜は、懺悔の夜に変わった。
 ノーマンはただただ、心の中でオリヴィアに謝り続けた。





 一年が過ぎ、オリヴィアは十四歳を迎えた。
 その間も体はすくすくと成長していたが、心はというと……

「違うと言っているだろう!何度言えばわかる!!」

「も、申し訳ございません、お父様!」

「もう一度だ!!」

「は、はい…………ひっく……ひっく…………」

 相変わらず内向的で、それも近頃拍車がかかってきている。
 というのも、父自らがオリヴィアの教育を監督し始めたからだ。
 ラークリウス家の人間は代々、水属性の魔素を操る資質が備わっており、その資質を活かした一つの武芸として、秘伝の技を継承してきた。
 こればかりは外部の者の力を借りるわけにはいかず、領主家の一員たる者が身につける当然の責務として、現領主であるオリヴィアの父が教鞭を振るうのである。

「いちいち泣くな!!それでも本当に私の娘か!!」

「……はい……えっぐ……ひっぐ……」

 オリヴィアの魔術の才は、決して低いものではない。
 むしろ、代々の術者の中でも高い水準にあるといえる。
 だが、これまでの教育の中で、彼女は魔術の基礎知識をほとんど身につけていない。
 そんな彼女がいきなり秘術とされる高位の術式を押し付けられたところで、功を成すはずもないのである。

「……今日はこれまでだ。教えたことを復習しておけ。明日、できなければ罰を与える」

「旦那様。オリヴィア様のことで、一つご相談したいことが」

「何だ。言ってみろ」

「恐れながら申し上げます。これは私めの私見ですが、お嬢様が魔術を身につけることは今の方針では難しいかと存じます」

「ほぅ……では、どのようにしろと?」

「例えば、マーニル魔法学校に通わせてみてはいかがでしょうか?当家の秘術を身につけるには旦那様の教えが不可欠ですが、お嬢様にはそれを学び取るだけの基礎がまだ出来上がっていないように見受けられます。それを学ぶためにも」

「それならば家庭教師でも付ければ済む話だ」

「他にも御座います。学校には年若い生徒も多く、きっとオリヴィア様の良きご学友となるでしょう。そんな友人たちとの日々は、お嬢様の精神面の成長を促すことができるのではないかと」

「毎度毎度泣かれて鬱陶しい思いをしているのは私だ。そんなことはわかっている。だがな、こんな状態の娘をラークリウス家の者として送り出せと!?冗談ではない!!自ら家名に泥を投げつけろと言うのか!?」

「し、しかしながら……」

 これまでの人生を思えば、それも無理からぬこと。
 彼女に最も寄添うべき人間を、彼女が誰よりも恐れているのだから。
 この男はそれをわかっていない。
 それともわかった上で言っているのか。
 だが、これは口にはできない。
 執事がそれを口に出すことは、これ以上ない主への侮辱。

「話は終わりだ。だが、他ならぬお前の進言だ。家庭教師の件は私が相応しい人物に依頼しておこう」

「はい……ありがとうございます」

 ノーマンは疑心暗鬼になりつつあった。
 自分の発言により、オリヴィアを取り巻く環境が変わり、今よりも不幸な環境に置かれることもある。
 少しでも笑顔を増やし、悲しみを減らしたい。
 その想いに偽りはない。
 だが、彼女の父はもはや制御も予測もできぬ域にある。
 何が彼女の顔を曇らせ、新たな涙を生むきっかけになるかわからない。

 今回の話にしてもそうだ。
 父の目が届かぬところで伸び伸びと生きて欲しい。
 それがほんのひと時でも、傷んだ彼女の心を癒してくれる。
 そんな気持ちで発した言葉により、新たに迎えることになった家庭教師。
 この人物が、誠に良き御仁ならば吉。
 だが、その反対もあり得る。

「爺や……少しだけ一人にしてくれる?」

「かしこまりました。ですが、ご夕食の席には……」

「わかってるわ。またお父様に叱られてしまうもの」

「失礼いたしました。では、これにて」

 変えることが正しいのか。
 変えぬことこそが正しいのか。

 だが、そんなノーマンの次なる葛藤は、彼の思惑の遥か外から打ち砕かれる。





 オリヴィアの父が病に伏した。
 大陸西部で突如発症した流行り病。
 症状が風邪に近いことから、事態を軽んじた者が多かったことも影響した。
 初期段階であれば回復が見込めるも、対応が遅れ、症状が進行してしまえばやがて死に至るという恐ろしい病。
 ラグーエルの街でも数人の死亡者の名が報告されているが、次は領主の名がそこに書き加えられようとしていた。

「無理です。僕には治すことはできません」

「我々の癒術は傷の治療には秀でておるが、病気の治療には向いてはおらぬのじゃ」

「病気の場合、患者の免疫力を強化して対処することが多いのだけど、今回の例は進行し過ぎているわ……」

 大陸各地から呼び寄せた名高き癒術士たちは、皆同じことを口にした。

 余命三カ月。
 それが領主に残された時間だった。

「お父様ぁああああああ!!」

 オリヴィアは立ち入り禁止となった父の寝室の前で泣き続けた。
 これまでの人生の中で築いた父との思い出は、決して良いものではないはず。
 それは傍らで見続けてきたノーマンがこれ以上なく知っている。
 それでもオリヴィアは涙した。
 どんな人であっても、彼女の父親。
 残された唯一の家族なのだ。

 ノーマンは速やかに領主継承手続きの準備に取り掛かった。
 早すぎるとはいえ、彼女も立派な跡目。
 こうなってしまった以上、オリヴィアが領主として誇らしく立つ姿こそが、父にとっても何よりの喜びになるだろうと確信していたから。

「執事長。旦那様がお呼びです」

「私を……?承知した」

 既にベッドに寝たきりとなっている主人。
 身の回りの世話は専属のメイドたちに任せてある。
 その状態にあって自分を呼びつける理由。
 ノーマンは微かな不安を抱えながら、主人の寝室へと向かう。

「旦那様。ノーマン執事長が参りました」

「う……む……ノーマンか?」

「お呼びでしょうか。旦那様」

「あぁ……すまんな。こんなところに」

「いえ。お気遣いは無用です」

「他の者は下がってくれ……ノーマンと二人で話がしたい」

 主人はメイドと医者を部屋から出し、一呼吸おいて話始める。
 そして、その言葉にノーマンは耳を疑った。

「オリヴィアに……縁談の話がきている」

「何ですと!?」

「当家の婿養子になっても良いと話している」

「馬鹿な!それでは継承権がオリヴィア様からその男に移ってしまいます!!」

「その通りだ。それで良い」

「ご冗談はおやめください!あれ程までに厳しくお嬢様に秘伝をご指導しておられたではありませんか!?それも、オリヴィアお嬢様を領主にするための教えだったはず!それが何故です!?」

「事態は変わったのだ……お前ならわかるだろう?ノーマン」

 ノーマンはギクリとした。

 目の前の男は、娘の内向的な性格を酷く懸念していた。
 このままでは人前に出せる人間にはならないと。
 直接、娘を教育することで、改めてそれを痛感した。
 だからこそ、以前よりもさらに厳しく躾け、矯正しようとした。
 時間がかかっても構わない。
 ラークリウス家に相応しい淑女になるのであれば。

 だが、時間が無くなったのである。
 既に余命は二カ月余り。
 このままでは、間も無くオリヴィアが領主になってしまう。
 ラークリウス家の主が、あんな不出来な娘になってしまう。
 それがこの男には耐えられなかったのだ。

 ならばいっそ、婿養子を迎え、その者に領主を継承させてラークリウス家の体面を保つ。
 常日頃からこの男とオリヴィアを見続けてきたノーマンだからこそ分かってしまったこと。

「安心しろ……信頼できる知り合いの息子だ。心配ない」

「し、しかし、お嬢様はまだたったの十四歳!子供ですぞ!?」

「貴族の間では珍しい話でもない。成人前に結婚することなど、我々の時代においては至極普通のことだった」

 オリヴィアと結婚する相手は、昔からラークリウス家と付き合いのあった貴族、スタンリー家の長男。
 やや奔放ではあるが、学業に秀で、現在は貿易関連の組合をいくつも取り仕切っているという。
 歳は三十五。
 明らかな政略結婚だった。
 そんな説明を淡々とされた挙句、次に発せられた言葉にノーマンは愕然とする。

「オリヴィアにはお前から伝えておくように。あれはお前のことを信頼している。その方がまだ受け入れやすいだろう……」

「もう……決まったことだというわけですか……?」

「式の日取りも近いうちにな……」

「そう……ですか……」

 ラークリウス家の問題に対して葛藤し、苦悩してきたノーマン。
 主のためだけにあらず。
 子のためだけにもあらず。
 全ては、若かりし頃に生涯仕え続けると誓った、ラークリウス家のため。

 私情など挟むべきではなかったのだ。
 仕える家が決めたことこそが正。
 それだけを信じていれば良かった。

 寝室を出て、廊下を歩き、階段を下り、玄関の扉を開く。
 庭の中心にある噴水の片隅に、オリヴィアの姿はあった。

「爺や。お父様のご様子はどうだった……?」

 オリヴィアは、ノーマンの姿に気が付いた途端に駆け寄り、父の容体を確認する。
 相変わらずである。

「……オリヴィアお嬢様。大切なお話が御座います」

 もうノーマンは考えることを諦めた。






 それから数日の後のことである。
 オリヴィアは自分の夫となる男と初めて対面。
 そこは正式に式の日程を決めるために設けられた場だった。

「本日は私め、執事長ノーマンが主の代理を務めさせて頂きます」

「領主殿のご容体は相変わらずというわけですね……なんとお労しい……!!さぞかし大変なことでしょう……!」

「ご心配をおかけしております。ですが、此度のご縁は主の望みでもあります。それが叶うともなれば、いくらか気も晴れようというものです」

「そうでしょう!領主殿たっての申し出……我々も喜んでお受けする所存。早速、式の手配を済ませましょう!!」

「はい。それでは、まず日程についてお話させていただきます」

 テーブルを囲むのは領主代理を務めるノーマンとオリヴィア。
 体面に相手方の当主と妻、その息子が続く。
 一時間ほどで話はまとまり、他愛のない雑談へと入ったが、その間、オリヴィアはうつむいたままスカートの裾をずっと握り締めていた。

「本日はわざわざ足をお運びいただき、誠にありがとうございました」

「いえいえ。領主殿の事情を鑑みれば仕方のないこと。オリヴィア様もどうかご自愛ください?今日は御気分が優れなかったようですので……それとも気恥ずかしかっただけでしょうか?」

「わ、わたしは…………はい……ご心配くださり、ありがとうございます…………」

「ふふ……それでは、当日を楽しみにしております!」

 馬車に乗り込み、窓からオリヴィアを見下ろす男の口元が、卑しく歪んだ一瞬をノーマンは見逃さなかった。
 だが、それを今さら気にかけたところで何が変わるでもない。
 オリヴィアは終始うつむいたままだった。
 数日前にこの件をノーマンの口から告げられて以降、ずっとこの調子。
 否。
 考えたところで仕方がない。
 もう考えることはやめると決めたのだから。



 その夜。
 オリヴィアが窓から身を投げた。



「なんというタイミングで……いいか?外に漏らすことはならん。絶対にだ……!」

「承知しております。旦那様」

 それは今朝方に起こった。
 いつも決まった時間に目覚めていたオリヴィアだが、その日は朝食の時間になってもまだ姿を見せない。
 これを不審に思ったメイドが、彼女の寝室を訪れ、ドアをノックするも返事はない。
 何かあったのかとドアを開けたところ、そこにはもぬけの殻となった部屋と、開きっぱなし窓。
 恐る恐る窓の下を覗き込むと、数メートル下の植込みにオリヴィアが横たわっていたという。

 幸い命に別状はなく、かすり傷程度で済んだようで、オリヴィア自身もすぐに意識を取り戻した。

「お嬢様。なぜこのような真似を……」

「…………」

 再び寝室のベッドに戻されたオリヴィアは、意識を取り戻してからも呆然と天井を見上げるばかり。
 ベッドサイドからノーマンが声をかけても反応を示さない。

「聞くまでもありませんでしたな……ですが、これもラークリウス家のためなのです……お嬢様のお気持ち全てを察することができるとは申しません。ですが……どうか……」

「…………」

「お嬢様?大丈夫ですか?どこか体に違和感でも……?」

「…………?」

 再三の呼び掛けに、ようやくオリヴィアが微かに反応した。

「……えっと……貴方、名前は?」

「…………は?」

 ノーマンの思考が一瞬停止する。
 五年、十年の付き合いではない。
 彼女がこの手の冗談を言わないことも知っている。

「何をおっしゃっているのですか……?」

「え?だから……貴方の名前を教えてくれる?」

 飛び降りた際のショック。
 追い詰められた精神。
 原因はさておき、オリヴィアの身に起きている明らかな異常。

「少し席を外させていただきます。このままで暫しの間お待ちください」

 ノーマンは走った。
 彼女の父の元へ。

「旦那様!一大事に御座います!!」

「今度は何事か……ノックもせずに……」

「お嬢様が……オリヴィアお嬢様が……!!」

 報告を受けた領主は、ノーマンにオリヴィアの状態をできるだけ詳細に把握するように指示した。
 その結果、オリヴィアは記憶の大部分を欠落しているという結論に至る。
 それが一時的なものかどうかはわからないが、自身の名以外のことをほとんど覚えていなかったのだ。

「……いかがいたしましょう?」

「…………」

「やはり、縁談の話は――」

「ならん!それだけは!!」

「ですが、あのご様子ではすぐに回復されるとも思えません。そもそも元に戻るかどうかさえも……」

「いや……むしろこれで良い……!」

「どういう意味でしょう……?」

「記憶の件は隠し通す……幸い、相手はオリヴィアのことをほとんど知らぬ」

「馬鹿な!!それではラークリウス家を丸々明け渡すようなものですぞ!!」

「元より承知の上だ……だからこそ私が選んだ相手だ。オリヴィアに任せたところで、家の名に恥を重ねるだけだからな」

「そ……そこまでお嬢様のことを……」

 この家は間も無く終わる。
 わかっていたことだ。
 父を失ったオリヴィアが毅然とした態度で夫を迎え、ラークリウス家が築いてきた誇りを守っていけるか。
 答えは否だ。
 それは記憶があろうとなかろうと同じこと。
 やがて相手方の家に取り込まれ、塗り替えられ、変わり果てる。

 それならばいっそ、オリヴィアにとっても記憶を失ったままの方が幸せなのかもしれない。
 より深い絶望の中で、孤独に耐え続けるよりは。

「娘は自身をオリヴィアだと自覚しているのだろう?ならば問題はない」

「……はい」

「最低限の知識は叩き込んでおけ?式で醜態をさらして、破談になりでもすればそれこそ我が家の最期となる」

「……はい。かしこまりました」



 それから結婚式までの間、ノーマンはつきっきりでオリヴィアの再教育に努めた。

 貴族としての最低限の知識。
 行儀作法や相応しい立ち振舞い。
 ダンス、裁縫などのレッスン。

 その間、わずか二週間ばかりではあったが、ノーマンは日に日に困惑していった。

 記憶を失う以前のオリヴィアは、体を動かすことよりも勉学や裁縫などを好んでいたが、目の前のオリヴィアはダンスや武芸に夢中になった。

「爺や。剣をここへ持て。杖はどうにも性に合わぬ……」

「剣……で御座いますか?」

「片手で扱える細身のものが望ましい」

 あれほど嫌がっていたはずの魔術の修練中、突然、杖を剣に持ち変えると言い出すオリヴィア。
 首を傾げながら、ノーマンは言われた通りの得物を用意し、それを彼女へ手渡す。

「……ふむ。悪くない」

 数度軽く素振りをした後、オリヴィアは軽く腰を落として剣を構える。
 そして……

「はぁっ!ふんっ!!やぁああああ!!」

 オリヴィアは、動きを一つ一つ確かめながら、試すかのように技を披露してみせた。
 当然、丁寧に教えを受けたものではないため、動きのぎこちなさや粗さが見て取れる。
 だが、その姿に溢れる力強さや優雅さは、その適正の高さを素人目にも感じさせた。

「ふぅ……わらわにはこちらの方が合っておるようだ」

「お見事です……」

 ノーマンは目を丸くした。
 かつてのオリヴィアとは口調も好みも、それどころか性格さえも大きく違う。
 まるで、『オリヴィア』という名を騙る悪魔に、彼女の体が乗っ取られたかのような錯覚にさえ陥る。





 胸の奥底に得も言われぬ不安を抱えつつ、その日はやってくる。

 衝撃の縁談話から半月余り。
 オリヴィアの結婚式が執り行われた。

「続きまして、新婦の入場です!」

 扉の奥から聞こえてくる声。
 その向こう側は式場。
 花嫁にとっては幸せを誓いあう聖域。
 されど、オリヴィアにとってはその限りではない。
 さしずめ、目の前の扉は地獄の入口といったところだろうか。
 新婦オリヴィアの父に代わり、彼女と共に入場することになったノーマンが、徐々に開かれていく扉の前で息を呑む。

――ダンッ!

 扉が開ききった途端に鳴り響いた靴の音。
 揺れる会場。
 そこには、ヴァージンロードを挟んで両側に並ぶ騎士たちの姿。
 否、正確には、騎士に扮した来賓たちの姿である。

「ふん……」

 オリヴィアは不機嫌そうに鼻を鳴らし、歩みを進める。
 ノーマンもこのような演出が用意されていることは知らせていなかったが、オリヴィアに少し腕を引かれる形となったことで、ハッと我に返ることができた。

 会場に集まっているのは両家が懇意にする家々の面々。
 そして、ラグーエルを代表する有力者たちである。
 そんな彼らが、演出のためとはいえ、剣を掲げて道を作り、オリヴィアを称えている。
 道の先に待つのは、例の卑しい笑みを浮かべた新郎。

 そう。
 これは彼がプロデュースしたであろう演出。
 来賓を、領主という絶対権力者に仕える騎士に例えることで、その上下関係を印象付けた上、すぐにその力の全てを奪い去ってやろうという皮肉。

 此度の縁談が両家にとってどういった意味を持っているかを皆は知らない。
 この演出の意図を理解できるのも当の親族たちだけ。

「「おぉ…………!」」

 そんなことは露とも知らぬ面々は、入場してきたオリヴィアの姿に小さく唸る。
 豪勢で華々しい純白のドレス。
 整った目鼻立ちに凛とした雰囲気。
 会場内の全ての視線がオリヴィアの花嫁姿へと注がれていた。

 ノーマンたちはそのまま祭壇の前で待つ新郎の元へと歩み寄り、組んだ腕を離す。
 オリヴィアの夫となる目の前の男に、他の紳士諸君から嫉妬の眼差しが向けられているのがひしひしと伝わってくるが、本人はそれに気付いていながら至って涼し気。
 それどころか自慢気にさえ見える。

 新郎新婦が揃ったところで、二人がゆっくりと祭壇上で待つ神官の元へ向かうが、その直前で歩みを止め、来賓の方へと振り返ったのは新郎。

「本日は御多忙の中、私たちのためにお集まりいただきましてありがとうございます!多くの方々に祝福していただける喜び……まさに感激の至り!」

 舞い上がりすぎたのか、式典の進行を勝手に変更してまで挨拶を述べ出した。
 これにはオリヴィアを含め、会場にいる全員が唖然となり、進行係を兼任する神官がいち早く事態の収拾に乗り出す。

「お待ちください……!予定にない行動を取られますと進行に差し障ります……!」

「これ以上のタイミングはあるまい?ただ順序が前後するだけであろう?」

「で、ですが……こちらは段取りに従ってご用意をしておりますので……!」

 耳元で囁く神官の言葉に納得のいかない様子。
 その後のやり取りによって、なんとか言葉に耳を傾ける気になったのか、改めて面々に向かい合う新郎。

「これはこれは大変失礼を……喜びのあまり少々取り乱してしまいました。さぁ!式を再開いたしま――」

「全員!その場を動くなぁあああああああ!!」

 突如響き渡る怒声により、遮られた新郎の声。
 お次は何だと来賓たちが振り返ると、そこには武器を手にした男たちがズラリと並んでいた。

「きゃぁああああああああああああ!!」

「な、何だ、お前たちは!?」

 騒然とする会場。

「騒ぐな!!死にたくはないだろう!?」

 まさに鶴の一声。
 瞬く間に場内は静寂に包まれる。

「それでいい……ここは俺たちが既に包囲してある。逃げようなんて考えるなよ?」

 賊のリーダーらしき男の声に促され、出入り口へ目を向けると、その前には武器を構えた男が数人ずつ張り付いている。

「全員、金目の物を全て出して、そこに集めろ。隠そうなんて思うなよ?てめぇの命よりも大事だって言うなら話は別だがな……!」

 素性は不明。
 だが、目的は集まった来賓たちが持つ金品のようだ。
 こうした場には警備兵も当然配備されているが、姿を見せないところをみると、あちらもあちらで手が離せない状況にある模様。
 マニュアル化されている屋敷の警備と違い、こうした式典などの警備は場当たり的なものも多い。
 その隙を突いて、賊が警備に紛れ込んでいたのだ。

「君ぃ……悪くない趣向だが、おふざけが過ぎるというモノだ」

「……あぁん?」

 賊に声をかけたのはまたしても新郎。
 サプライズ演目と勘違いしたのか、状況が呑み込めていないことは明らかだった。

「見たまえ?客人の方々が怖がっているではないか。そろそろネタ晴らしでいいんじゃないかな?」

「流石は貴族様……頭の中にまで立派な花園をこしらえているらしい。いいぜ?だったら見せしめだ……お前の頭に真っ赤な花でも咲かせりゃ、全員が状況を理解してくれるだろう……」

 無論、間も無く命を落とすであろうその男以外は皆が理解していた。
 しかし、動くことも、声を発することもできない。
 賊が手にしている剣の切っ先が、自身に向けられることなど誰も望むはずが無いのだから。

「え……?いやいや、だからもうお開きに……」

「おうよ……パックリ頭開いてやるからよ……安心しなぁ!!」

「ひっ……!?」

――キィイイイイン!!

 激しい金属の衝突音。
 賊の男が剣を振り下ろした瞬間だった。

「はぁ?何だてめぇ!!」

「下らぬ……余興にしても程度が低すぎよう?」

 新郎を庇い、剣を撃ち払った人物。
 入場演出の際に来賓が使用していた剣を手にしたオリヴィアである。

「夫の窮地を救うのは嫁の仕事ってか?まぁいいぜ。見せしめは誰でもな!」

「ひ……ひぃいいいいいいいいい!!」

 命が救われたことを悟り、ここにきてようやく事態を理解した新郎は不格好な悲鳴を上げつつ、来賓たちの後ろへと逃げ果せる。
 それでも来賓たちは動かない。
 これは恐怖によるものではなかった。
 たった一人、脅威の眼前に身を晒す、美しいドレスを身に纏った少女の姿に見惚れてしまっていたからである。

「つまらぬ戯言を。あれが死ぬことで路頭に迷う者も多い。わらわはその者たちを救ったに過ぎぬ」

「よくわかんねぇが、随分と威勢がいいじゃねぇか……ところで、お前さんには白じゃなく赤のドレスの方が似合うと思うぜ?せっかくだから俺が染め直してやろうと思うんだが、どうだい?」

「ふふ……先程からの滑稽な言い回し。よもや、わらわを笑い死にさせることが目的であったか?」

「この…………くそがぁああああああああ!!」

 振り抜かれる剛剣。
 固唾を飲んで現場を見ていたノーマンの脳裏によぎったのは、オリヴィアの無残な死。

「お嬢様ぁああああ!!」

「心配するでない……かような下衆に遅れを取るとでも!?」

 紙一重のところで剣戟を躱し、踏み込みざまに一閃。
 見事に賊に一撃を見舞ったオリヴィア。

「がぁあああ……!!」

 呻き声を上げる男だったが、倒れ伏すことはない。
 それどころか、オリヴィアの一撃は男の薄皮一枚を削り取ったばかりで、せいぜい赤く腫れ上がらせた程度のダメージしか与えていなかった。

「ボスぅうううう!!」

「来るなぁ!!コイツは俺の獲物だぁああああ!!」

 そんな賊たちを余所目に、オリヴィアは憮然とした表情で手にする剣を観察している。
 彼女が手にした剣は演出用のイミテーションだったのだ。
 見た目とは裏腹に武器としての性能は備わっておらず、真剣のような刃も持っていない。
 真剣でさえあれば、間違いなく軍配はオリヴィアに上がっていた勝負だったが、その絶好の機を逸した。

「残念だったな。俺に勝てる唯一のチャンスを不意にしたぜ?」

「刃の確認を怠ったことは認めてやろう……だが、斬れぬのであれば、刺してしまえば良いだけの話であろう?」

「違ぇよ……今の一発でわかった。お前の剣はまだ粗い。センスは褒めてやるが、マジになった俺はそれじゃ倒せねぇって言ってんだよ」

「どうであろうなぁ?それが分かる程の使い手には見えぬが?」

「潜った修羅場の数が違う……すぐに証明してやるよ……!」

 これはオリヴィアのハッタリ。
 その場にいる人間の中で、ノーマンだけが唯一それを察した。
 油断していた上に、怒りに身を任せた甘い一撃。
 その隙を以てして倒し切ってしまいたかった。
 オリヴィアはそう考えているはずだと。

 その後の展開は一方的だった。
 相手を強者だと見据えた男の剣は、オリヴィアに付け入る隙を与えてはくれなかった。
 回避のみに専念することで、何とか凌いではいる彼女だったが、重たいドレスは彼女の動きを制限し、体力をどんどん奪い去る。
 元々、体格も違えば体力にも差がある戦い。
 過ぎゆく時間は一方的にオリヴィアを不利に追いやっていく。

「……くっ!!」

 遂に剣先がオリヴィアを捉え始め、そのドレスの裾を斬り裂く。

「なかなか楽しかったぜ?余興としても満足してくれただろ?」

「はぁ…………はぁ…………!」

 見守る者たちの中には貴族の子息も多い。
 恐らく、剣の覚えがある者もいたことだろう。
 だが、彼らは動けない。
 生半可な腕では、返り討ちに遭うことは目に見えていたから。
 男の剣閃は皆にそう思わせるに足り得るものだった。

「流石だぜボス!!」

「早いとこやっちまってくれぇ!!」

 手下の声を受け、さらに気迫を増す男。

「声援には応えねぇとなぁ……終わりにするぜ?」

 まさに男がとどめの一撃を振り下ろそうとした時、状況が一変する。

「や、やべぇ!ボス!警備兵の連中だ!!」

「何ぃ!?足止めのヤツらはどうしたぁ!?」

 会場の出入り口の外から聞こえてくる声。
 警備隊が事態を察知して駆け付けたようだ。

「ふふ……ようやく来おったか。ネズミの侵入を許した挙句、この体たらく。つくづく無能ではあるが、間に合わせたことだけは褒めてやろう」

「てめぇ……どういうことだ!?」

「外の警備兵を貴様らが抑え込んだところで所詮は烏合の衆。数もたかが知れておる。加えて、ここに集められた者らは貴族他ラグーエルの有力者たち。そこへ賊が押し入ったことが知れれば、たちまちラグーエル中の警備兵がここへ駆けつけてくることは明白であろう?」

 その後の展開は誰しもが容易に想像できた。
 押し寄せる警備兵の群れに太刀打ちできないと察した賊が取る行動は投降か逃走。
 そのまま会場内に流れ込み、今まさに賊と扉を挟んでの鍔迫り合い中。

「わらわが時間稼ぎに切り替えた時点で、配下と共に討ち取ってしまえば良かったものの……わざわざダンスに付き合ってもらえるとは、なかなか紳士であったな」

「く、くそっ……!!」

 途端に踵を返し、逃走を図ろうとした賊のボスだが、駆け出すには至らない。

「無駄と悟ったか?扉の外には殺気立った夥しい数の兵士たち。そこは貴様らにとって既に出口ではない。逃げ場など存在せぬ」

「う……くぅ…………!!」

「何をしておる!呆然と立ち尽くす暇があるなら、扉の前の賊を排除せぬか!!」

 目の前でガクッと肩を落とす賊の頭を見て、オリヴィアが周囲に号令を発する。

「お任せください!お嬢様!!」

 誰よりも早くその声に応えたのはノーマンである。

「お……おぉおおおおおおお!!」

「俺も行くぜぇええええええええ!!」

 続いて、己を奮い立たせた若者たちが次々と動き出す。

「ボ、ボスぅううううう!?」

 警備兵と勇んだ有志たちに挟まれる形となった賊たちに、もはや抵抗する手立てはなかった。





 事態は警備兵たちの手で速やかに処理され、その後、結婚式は再開された。
 かのように思われたが、有無を言わせぬままに開始されたのは新郎によるスピーチ。
 面々は皆一様顔をしかめている。

「一時は大変な騒ぎとなりました……ですが!我々に刃を向けた不届き者は、ラグーエルの守護者たちの手により一掃されました!!こうして一人も欠けることなく式を再開できるのも、彼らの活躍があったからこそ!その勇気と誇りに、皆で感謝を!」

 既に半刻は経過しただろうか。
 延々と言葉を並び立てる目の前の男が、つい先ほどまで人影で泣きながら震えていた男と同一人物であると、誰が信じられよう。
 本人の家族たちが我先に会場から姿を消した気持ちが、容易に想像できてしまう道化ぶりである。

「さらに!忘れてはならない騎士がもう一人……彼女はか弱い女性の身でありながら……私を守り……たった一人凶剣の前に立ち……戦い抜いた!そんな彼女が今日!私の妻となって――」

「おい……そこを退くがよい」

 いずれは誰かが遮ったであろう言葉を断ったのは、彼の背後に控えていたオリヴィアであった。

「おぉ……オリヴィア嬢!君からも話があるのかな?でも、もう暫らく待っておくれ。手短に締めくくるさ」

「そこを退けと言ったのだぞ……?」

「……え?」

 壇上の先端に立つ夫となるはずの男。
 オリヴィアがその背を指先でトンッと優しく押すと、彼はバランスを崩し、壇上から転落した。

「ぐぇえ!?」

 無様な恰好のまま床に打ち付けられ、轢き殺されるカエルのような声をあげた男に、会場のあちこちからは小さな笑い声が聞こえてくる。

「皆の時間を僅かばかり頂戴したい。わらわはこの場を借りて皆に言わねばならぬことがある」

 場内を駆け抜けたオリヴィアの声。
 その瞬間、笑い声が止み、皆がその音に耳を傾けた。

「足を運ばせてしまった中、誠に心苦しく思うばかりだが……此度の婚姻、わらわは承諾しかねる!」

「な、何だと!?」

 思わぬ発言に誰もが唖然とする中、一人慌てふためいたのが婿養子となるはずだった男。

「そもそも此度の一件は、ラークリウス家の、延いてはラグーエルの今後の繁栄を憂いたためだと現当主である我が父から聞かされている。それが誠の意であるならば、一考の余地もあろうが、蓋を開けてみれば茶番も茶番。民の未来を、己が欲を満たさんがために穢すとあらば、黙って見過ごすわけにもいくまい?」

「そ、そそ、そんなことがお前一人に決められるわけがない!」

「貴様の言う通りだ。今の時点ではな。だからこそ、わらわは宣言せねばならん。ラークリウ家が嫡女オリヴィア・ラークリウスは、今この瞬間を以て、父よりラークリウス家の家督を相続!さらに、領主の任を継承することを誓おう!!」

「な……じ、自分が何を言っているのか――」

「有事において!民の背中に隠れ、震えるだけの恥知らずに領主が務まるわけがあるまいっ!!」

「ひっ……!?」

「剣になれぬのならば、盾となれ!民の血が流れる前に己が血を流せ!それでこその領主であろうがっ!戯け!!」

 皆、その言葉に聞き入っていた。

「わらわは未だ若輩も若輩。力も知恵も及ばぬが故、暫らくは皆に苦労もかけよう……だが、民の幸せを願う強さだけは何人にも譲らぬ!人が享受すべき愛を、自由を、希望を守るために戦おう!伏して頼む!わらわを信じてはくれぬだろうか?わらわを欲してはくれぬだろうか?わらわは其方らの声の全てに耳を傾け、誰も涙で頬を濡らすことのない世界のため、この身、この魂の全てを捧げるとここに誓おう!!」

 直後、湧き上がる喝采の拍手は、会場の屋根を易々と突き抜け、ラグーエルの空にいつまでも響き続けた。







 会場の庭に植えられた大きな木の陰に、一人の少女が座り込んでいた。
 目にいっぱいの涙を溜めながら、少女は笑う。

「ありがとう……ぐすっ……本当にありがとう……リーネ……」


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最終更新:2017年07月28日 16:52