「ラーメン二郎」を580回食べたコラムニストが、はじめて二郎で「屈辱」を感じたワケ
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ラーメン二郎を食べ続けていると、ときに、調子の悪い状態で食べることもある。
東京圏内の店だと調子悪いときは行かなければいいのだが、地方店の場合、わざわざラーメン二郎を食べるためだけに北海道や宮城や新潟や会津や京都に行っているので、本当に「ラーメン二郎を食べることだけが目的」で飛行機乗ったり新幹線に乗ったりして向かっているので、調子悪いってだけで中止にするわけにはいかない。
とりあえず食べに行く。
もちろん、その日、ラーメン二郎に行くまではほぼ何も食べず、腹をおもいっきり減らした状態で向かい、なるべく勢い良く食べられる準備はしている。
いつも食べ終わるまでの時間を計測しているので、だいたい同じコンディションになるように、可能なかぎり自分の身体を他者的に(機械的)に扱うようにしているだけである。
ただ、それでも万全ではないときがある。不調になる原因のひとつは寝不足である。
寝足りていないと、内蔵が起きてない感じがして、なかなか調子よく進まない。
また、移動時間が長いのもあまりよくなくて、移動してそのまま店に直行すると、ちょっと調子が上がらなかったりする。
そして地方のラーメン二郎のほうが(すべてではないけれど)、かなり「しっかりした量」を提供する傾向にあるとおもう。
旅をして、遠路はるばる地方の二郎へ行くと、想像を越えて多い、というのが何度も経験したことである。
先だって、まさにそういう瞬間があった。
ラーメン二郎を、時間を計りながら食べるようになって、580回余りになるのだが初めて15分を越えてしまったのだ。
15分は、ラーメン二郎のひとつの基準である。
「ラーメンが提供されてから15分以内に席を空けて欲しい」というのが店側が共通でおもっていることらしいのだ。荻窪店は明記しています。荻窪店は昼いくのと夜いくのとで量が全然ちがっていて、ちょっとおもしろいです。
15分で「席を空ける」こと。これが書かれてないけど二郎の掟。
「食べきる」ではないのが大事です。
食べきろうが食べきれまいが15分経ったら、席を空けて、客を回転させて欲しいというのが行列店としてのお店の願いってことですね。大盛頼んでもいちおう15分以内って感じですねえ。15分で食べきる自信のない量を頼んではいけないってことでもある。
計測して580余回、初めて15分を越えてしまったのだ。15分12秒。汁は飲まないがそれ以外を完食するのにそれだけかかってしまった。自分としてかなり衝撃の(屈辱的な)数値である。
ひたすら苦しかった。
この日はかつてないくらいの体調の悪さで15分であったが、でもかなりの量で、もし絶好調でむかってトップスピードで食べきっても8分切れるかどうかの量だっただろう。
ブタ2つがあまりに巨大であった。
ひさしぶりに「ラーメン二郎に負けた」とおもった瞬間である。
途中からはひたすらに苦しいだけだ。
いったい何をやっているんだという「初めてラーメン二郎に挑む心情」をリアルにおもいだしていた。
こんなに苦しんでんだから、あとでおもいだして書こうとおもって必死で心情を覚えておいた。人間、苦しくて死にそうなときの記憶は飛んでしまうことが多いので、記憶すると強くおもわないと、覚えていられないのだ。
ラーメン二郎を無理して食べて、どんどん苦しくなっていくときの心理変化をちょっと再現してみたい。
どーんと大きな丼が出される。
初めてラーメン二郎に向かったとき、これを見てまず驚く。
驚いてどうおもうかは性格の差が出るだろうけど「すごい!」とふつうに喜んで、そのまま食べ出すタイプと、いや、これは食べきれるのだろうかと不安が先に立つタイプがあって、私は後者である。
「これ、食べきれるのか」が、私個人のラーメン二郎初見のときの印象であり、いまでも、ときどきそうおもってしまうことがある。
麺とスープを口にしたとき、ここで「うまい!」とおもうかどうかも分かれる。
私は、心配性だからか(もともとかなり楽観的な性格ではあるのだが、こと二郎に向かうときはかなり慎重派になる)、うまいかどうかはあまり気にしていない。そもそも基本として、食事でうまいかどうかはあまり大きなポイントにおいていないってことでもある。
二郎はそういう人向けだとおもっている。
ラーメン二郎ってうまいんですかと聞かれることがあるが、うまいよと即答できない。
べつにそこが二郎を食べている理由ではないからだ。うまいとおもうことが多いが、いつもすべてそうだとはいえない。
はっきりいえば、ちょっとまずいとおもってることさえもある。でもそれは大した問題じゃないだろう。そうおもっている。
問題は、「これ、全部、食べきれるのか」ということである。それに比べると、うまいかどうかなんて問題ではない。
食べきれるかどうかは、人として(ないしはオスとして)の矜持の問題である。
自分で多いと知っていて頼んだものを、まさか残すわけにはいくまい、というプライドである。約束を守る人間かどうかの問題だ。
「約束」というのは、この、「二郎の小なるもの」を全部食べきるからおれに提供してくれないか、と店の人に頼んで、全部たべると約束するなら提供しようと言ってくれて、約束する、と力強く答えた。
というような気分のことである。
そんな少年漫画なやりとりは実際にはしない。
でもそういう約束をした気分になっているのだ。
書いていてバカじゃないかとおもうのだが、そのとおりだからどうしようもない。そしてそういうタイプの人間が(圧倒的にオスが多い)二郎に集いやすい。
いまでも初めて連れていった連れが「あ、うまい」と最初に言ったりすることがあるが、その瞬間「そんなこと言ってる手間で食べ進めろ」とおもってしまうし、私は私のを食べ進めるので手一杯なので声にしないことが多いが、あまりにあまりなときは(手を止めて広げて味の感想をいってるやつがいたりする)実際に小声で忠告することはある。
うまいかどうか感じているより、もっと大事なことがあるはずだ、というニュアンスで言っているのだが、まあ、うまい、と即座に口にできる軽やかな若者には、あまりそういう言葉は届かない。
ただ、「うまい」を保持するには、急がないとダメだ。
最初、うまいとおもったものを最後まで記憶するには、だいたい5分で目処をつけないとむずかしい。
7分越え、10分越え、まだ食べ続けていると、最初のひとくちめの「うまい」という記憶は薄れていく。42歳厄年サラリーマンが2歳のときの記憶をたぐっているようなもので、そんなことをおもったことがあったかもしれないなあ、と遠い風景になってしまう。
ひとつの境目は食べ始めの5分にあり、次に7分、そして10分の壁があるようにおもう。
5分は、まず息を継がずにひたすら前に進める限度である。
何も考えずに5分たべて、ああ、スープってこんな色だったんだ、と見えてきていれば、これは大丈夫だ。
ただ、ほとんどの場合(店によりますが、三田本店を基本として、それよりも量の多い店設定です)、5分だと、何も減ってないように見えることがある。
「ずっと食べてすごく時間が経っているのに、全然、減っていない!」ということにショックを受けてしまう。もちろん減ってはいるのだけれど、食べ方がヘタだと(最初に上のヤサイを食べるのに2分かけたりしていると)、5分ではまったく減ったように見えない。ちょっとやられてるときは「増えてないか」とおもったりする。それは麺を動かしてるからそう見えるだけなのだけど、おかしな精神状態だから、増えてるように見えてしまう。
ここでくじける。
「これ、終わるのか?」という絶望にも似た気分に襲われる。
終わるのかという疑問形は、これ、食べ終わらないのじゃないか、という恐れを直接言わないようにしているだけで、すでに腹一杯なのに、いままでに倍するような量を食さねばならないかとおもうと、自分の未来がまったく見えなくなる。
「うまいとおもったはずなのに、うまいかどうかはどうでもいい状態になる」ポイントがまず5分。
これは逆にいうと「ラーメン二郎がうまいとおもった記憶は5分しか続かない」とも言える。
その時点で「食べきれない恐怖」を感じてしまうと、初期記憶が飛んでしまう。
5分を過ぎて、どうみてもまだ半分いっていない、四合目あたりだとおもったら、ひたすら作業に専念するしかない。
目の前にあるものを口に運んで、咀嚼していくばかりとなる。
その作業の連続になってしまう。
その作業は楽しいのか、口に入れたものはどういう味なのかって、そんなことに一切興味がなくなってしまうのが7分を過ぎたところから起こる。
そこから先は、「苦しいなかで息絶え絶えになって続けている作業」となっていく。
7分より先やっているのは、ただの「苦しい作業」でしかない。
「作業」が「苦しい作業」になってしまうのだ。
ラーメン二郎のラーメンはすごく熱い。アツアツで出してくれる。
だから、時間が経つとどんどん変わっていく。
溶けてアツアツでうまうまだった脂分が固まり始める。アブラは熱いほうがうまい。
時間がたって固まり始めたアブラは、いろんなものを巻き込んで同時に変質させていく。
最初たべていたラーメンとは違うものが目の前に出始める。
なんだろう、このドロドロした汁に、いろいろなものが入っているのは、なんだろう、と変なものに見えてくる。
こうなると最悪だ。
食べているのはラーメンには見えないし、うまいと感じられるわけがない。
煮込んだ濃い味のものをひたすら食べて苦しいだけだ。
作業だけは続けながら、頭はぼんやりしてきて、「おれは何をしているんだ」と考えてしまう。
これが顕著になるのが10分を過ぎたあたりだろう。10分も休まずものを食っていると、そろそろもう何も口にいれたくなくなる。
でもまだ終わらない。5分ころにくらべれば、いちおう進んでいるのはわかるし、目に見えて量は減っているのだが、でも、もう苦しくて、終わりそうにおもえない。
何をしてるんだと考える力もなくなっていき、ただ作業を繰り返す。
10分を越えたあたりだと、さすがに残りはかなり減っているはずだが、なかなかここで踏ん張れない。
逃げたくなる。
逃げたらだめだ。逃げたらだめだ。
スープを飲んでいるのが楽だから、麺をおいたままどんどんスープだけ飲んだり、まわりにあるコショウや七味などをかけてみたりするが、あまり効果はない。私は「味変によって再び食欲を出す」という効果をまったく信じてないので(私にはまったく効果はない。みんなも本当はないやつが多いんじゃないか)、苦しくなってから絶対にかけないようにしている。
手を動かす労力が無駄だ。逃げちゃだめだ。
終盤は、このまま吐くんじゃないかという恐怖を抱きつつ、手をとめずに食い続けるしかない。休むとダメなのだ。とにかくずっと動いてないと死ぬ。休んだら、もうそこで諦めてギブアップしたほうがいい。
うまいかどうかはもちろん、何をたべてるのかわからず、何のために苦しんでいるかもわからず、それでも食べきると、「ああ、食べきった」というものだけを得られる。
意味不明。
何の得にもなっていない。
勝ち負けでいえば、とても勝ったとは言えない。
わかりやすく負けなかっただけであり、挫けなかったというだけのことである。
でも「食べきると決めた矜持」は守った。
中学二年生男子がいちばん大事にしてそうなものを、でもそれを一人ひそかに守り切ったことに自分で満足して、ふらふら帰るしかない。
ブタの塊がまとまって残っていると、かなりの地獄を見るなあとぼんやり考えながら、クルマや人にぶつからないよう気をつけながら、帰るばかりだ。
やはり、うまいという記憶を保持したいなら、急いで食べたほうがいい。
ラーメン二郎はそういう食べ物だ。
もしそんな量をいけないとおもったら、「麺を三分の一で」か「麺を四分の一で」と頼んだほうがいい。「麺少なめ」って頼んでもまあ、まず何も少なくないから。
苦しいけど、そこを抜けると気持ち良くなる。そういう世界でもある。
苦しんで苦しんで食べ終わったところで、いっさい何も整わず、とっちらかった状態になるばかり、というのが、私はとても好きだ。
整えてどうする。
さてひさしぶりに群馬にでも向かうか。
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