総帥
ラーメン二郎の創業者である山田拓美氏の事。
1943年3月17日、佃島に生まれる。
2歳で父親と死別。
高校卒業後、和食の道に入る。
銀座で働いている頃に人気の仲居と喧嘩になり、解雇される。
1968年、もともと独立を考えていたこともあり、たまたま見つけた都立大学の家賃15000円の空き店舗でラーメン店を創業する。1.5坪、カウンター5席。屋号は当時あった即席麵「ラーメン太郎」にちなんだ「ラーメン次郎」だった。
ただしもともとラーメンの作り方を習ったわけでもないため、大変不味かった。あまりに売れず店を畳もうとしていたところ、たまたま来店した雪印乳業の社員にアドバイスを受けて濃厚なスープと極太麺に変更したところ、大盛況となった。当時はラーメンが一杯100円だった。
(wikipediaに掲載されている中華料理店での修行のくだりは、2022年3月に放送されたテレビ番組「ラーメン二郎という奇跡」のインタビューでは一切触れていない)
2歳で父親と死別。
高校卒業後、和食の道に入る。
銀座で働いている頃に人気の仲居と喧嘩になり、解雇される。
1968年、もともと独立を考えていたこともあり、たまたま見つけた都立大学の家賃15000円の空き店舗でラーメン店を創業する。1.5坪、カウンター5席。屋号は当時あった即席麵「ラーメン太郎」にちなんだ「ラーメン次郎」だった。
ただしもともとラーメンの作り方を習ったわけでもないため、大変不味かった。あまりに売れず店を畳もうとしていたところ、たまたま来店した雪印乳業の社員にアドバイスを受けて濃厚なスープと極太麺に変更したところ、大盛況となった。当時はラーメンが一杯100円だった。
(wikipediaに掲載されている中華料理店での修行のくだりは、2022年3月に放送されたテレビ番組「ラーメン二郎という奇跡」のインタビューでは一切触れていない)
1972年、都立大学の店舗の立ち退きに伴い転業を考えるが、慶応生の紹介で三田の家賃35000円の店舗に移転する。その際に看板屋に口頭で伝えたところ「ラーメン二郎」で出来上がってしまい、「「じろう」は「じろう」だ」と修正せずに使う。
三田移転に伴い、都立大学時代に比べヤサイを三倍に、ブタを一枚から二枚に増量した。
三田移転に伴い、都立大学時代に比べヤサイを三倍に、ブタを一枚から二枚に増量した。
2020年2月15日に喜寿祝賀会兼生前葬が催行される。
その場で発表された戒名は「弐郎院野菜辛目大蒜脂増居士」。
戒名(法名)は釈迦の弟子である事を表す「あの世での名前」なので金銭で売買するものではないが、「院」「居士」号であれば宗派や寺院ごとに違いはあるが大体20~70万円程度の戒名料(寄付)で付けて貰える比較的安い戒名である。
(もっとも、各宗派とも本山などで生前に戒名・法名を受ける場合は数万円で済む。ただし大抵は死後戒名よりもシンプルなものとなる)
その場で発表された戒名は「弐郎院野菜辛目大蒜脂増居士」。
戒名(法名)は釈迦の弟子である事を表す「あの世での名前」なので金銭で売買するものではないが、「院」「居士」号であれば宗派や寺院ごとに違いはあるが大体20~70万円程度の戒名料(寄付)で付けて貰える比較的安い戒名である。
(もっとも、各宗派とも本山などで生前に戒名・法名を受ける場合は数万円で済む。ただし大抵は死後戒名よりもシンプルなものとなる)
実際に慶応大学を卒業したわけではないが、同学の特選塾員に選出されたため平成31年度での卒業生として扱われる事となった。