登録日:2012/03/07 Wed 11:29:07
更新日:2025/09/10 Wed 00:11:30
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性能
概要
ソ連のゲオルギー・セミョーノヴィチ・シュパーギン技師が開発し1940年に制式採用された
短機関銃である。
名称はPistolet-Pulemjot Shpagina1941(Пистолет-пулемёт Шпагина/シュパーギン式短機関銃1941年型)からPPShと略され「ペーペーシャ」と呼ばれていた。
PPD-1940を簡略化し大量生産向きの改修を施している。
シュパーギン技師(1897~1952)
ロシア帝国生まれ。第一次大戦の徴兵時に右人差し指を負傷したことから後送され、
トゥーラ造兵廠にて銃砲技師の資格を獲得。
ソ連設立後の1920年にコヴロフ工場(のちのデグチャレフ工場)に移り、ヴァシリー・アレクセーヴィチ・デグチャレフのもとでフェドロフM1916の弾倉の改修やデグチャレフ機関銃を近代化したDShK重機関銃の開発に携わった。
同時期にPPD-1940(デグチャレフ短機関銃)を改修して本銃を開発した。
1940年に生産設備などを整備したヴャツコ・ポリャンスキー機械製造工場を設立。直後の疎開などがありつつも他工場と合わせて600万丁以上の本銃を製造した。
本銃の功績により1946年~1950年の間ソビエト連邦最高会議副議長を務めるなどの栄誉を得たものの、胃癌により逝去。
ヴャツコ・ポリャンスキー機械製造工場は現在に至るまでモロト(VPO)のブランドで民間向けの銃器を多数販売している。
前史
独ソ不可侵条約を締結しポーランドを手中に収めたソ連は1939年末よりフィンランドと冬戦争に突入。
小国に3倍の兵力をもって攻め込み、雪解け前までの短期決戦により領土をもぎ取った…ものの、フィンランド軍7万に対し40万人近い死傷者を出し大苦戦の様相を呈した。
継続戦争でも(ソ連が戦勝国、フィンランドが枢軸国と認識され外交面で勝利したものの)ほぼ同じ損害を出し、フルシチョフが累計100万の戦力を失ったと懐古するほどであった。
どうしてこうなったかと振り返ってみると、(ソ連側が大粛清や大祖国戦争で全力を出し切れなかったという面があるものの)フィンランド軍のゲリラ戦やスキー部隊による一撃離脱戦法、そしてそれらを実現した
シモ・ヘイヘら高度な技術を持つ兵士達の存在が大きいだろう。
彼らが装備していたのがモシン小銃の自国改修型、そしてスオミ KP/-31短機関銃。KP/-31は重い旧来的な短機関銃でこそあるものの、堅実かつ近距離戦での製圧力に秀でていた。
加えてフィンランドは国土のほとんどが森林。生い茂る木々に阻まれて遠距離射撃が難しく、交戦距離を狭めるとKP/-31の得意な間合いに持ち込まれてしまう。
一方当時のソ連軍は9か月前に短機関銃を前線兵士から引き上げていて、個人の瞬間火力では到底敵わない。
機関銃や自動小銃では木々に阻まれて取り回しが最悪、軽量な機関銃はまだ前線には届かない時期であった。
この戦いで短機関銃の重要性を再確認したソ連軍は一旦は引き上げたPPD-34/38の前線への再配備を急ぎ、改良型であるPPD-1940を開発し生産を開始する。
しかしPPDはデグチャレフによる改修を経ても高コストで信頼性に問題がある点は抜けきれなかった為、より安く大量生産可能な短機関銃を要求。
それに応じてシュパーギン技師が開発した試作品が1940年12月に制式採用され、1941年より置き換わっていった。
PPDの構成
おおもととなったデグチャレフ短機関銃から見ていこう。
1926年に短機関銃に関する要求が出され、それに応じる形で短機関銃に関する研究が開始された。しかし当初トカレフ氏などが設計していたものはナガンリボルバー用の7.62x38mmRを用いていたため上手くいかず。
その為ちょうど
トカレフ TT-33と並行して統一されようとしていた7.62x25mmトカレフ弾を用いるように方針変更。自動式の工藤に最適な弾が選定できたことで研究は進み、29年にデグチャレフ軽機関銃(所謂DP-27)をダウンサイジングした試作型が制作された。
30年にコンペが開催され、それまでの試作銃をもとに要求を修正し確定。
33年までの間に14種類の詩作がなされ、洗練されていった。またこの際に前述のスオミ KP/-31の図面も入手していたが、この段階ではそこまで参考にはされなかった。
洗練時にDPから継承していたロッキングブロック式の閉鎖機構は取り払われ、シンプルブローバックに変更された。
この段階までは大まかに言えばマガジンが下部に移動したMP-18のような形状をしている。ライフル同様のフォアエンドまで伸びた木銃床に放熱穴を備えたバレルジャケット、円形のレシーバーと25連ボックスマガジンが特徴。
トリガーメカはユニットとなっておりセミオート射撃にも対応する。安全装置はボルトハンドルにより固定するものとボルトを後退位置でロックするもので
H&K G3のコッキングハンドル最後部のように引っ掛ける溝がある。
こうして34年にPPD-34が完成。5000丁程度が後方向けに試験配備された。
現場で欠点を洗い出したことで38年までにかけて改修を実施しPPD-34/38となるのだが、それでも根治には至らず。39年2月に一旦の生産停止が命じられた…その後は上記のとおりである。
冬戦争中の40年1月から再生産と大量生産向けの簡素化が行われ、そこでKP/-31のを意識した大容量ドラムマガジンについても検証が始まった。とりあえずPPD-34/38に合う73連ドラムマガジンを作成したがマガジン構造の都合延長部が必要となりかなり信頼性に難が生まれてしまった。
そこでKP/-31の大きく開口部をあけた方式を参考に改良し、互換性喪失と引き換えにドラムマガジンを何とか実用的に用いられるようにしたのがPPD-1940となる(ついでに信頼性向上のために71連に減らしてある)。
なんとか実用的な範疇となったものの、金属部はほぼ削り出し加工で高くつき、工程も多く大量生産に向かない構造であった。
(ただし銃器工による手作業であればむしろプレス加工機などがないと生産しづらい等の問題がある為、レニングラードの包囲下やパルチザンのような製造設備が用意できない工廠にて手作業で生産され武器不足を補った。)
構造
本銃ではPPDにて達成しきれなかった各種簡略化による工数削減が行われている。
- ボルトにファイアリングピンが括り付けにされる
- ボルトのみ精度を要求されない程度のフライス盤と旋盤による加工で作成、それ以外の金属部品はプレス加工で製造可能。
- 上部機関部とバレルジャケットが一体加工。接合もリベットによるもので簡易。
- 照準器は当初距離に応じた調整ノブ付きとなっていたが、100と200mの選択式に簡略化された。
機関部は上下に二分割されており、メンテナンス時にはテイクダウンできるので整備がしやすい。
前方が傾斜したバレルジャケットは前方までおおわれており、発射時のガスを受けて反動を抑えるマズルブレーキと跳ね上がりを抑えるコンペンセイターの役割を兼ねている。
ドラム式弾倉はゼンマイを巻いてから弾薬を装填する形式ゆえ、途中でゼンマイの固定が外れ弾薬が飛び出す、指を切るなど事故が多発。
元々構造が複雑なので簡易な35連ボックスマガジンに切り替えた。その後弾倉の歪み防止に材料の鉄板を0.5mm厚から1mmに変更している。
マガジン挿入口に関してはPPDの頃からだがかなり挿入にコツがいる。そして拳銃と同じシングルフィードなのでマガジンへの装弾もかなり力を要した。
汚れていない場合はかなり信頼性が高かったものの、ボルトに泥などが付くと不発が起こりやすかったためあまり泥にさらさないように気を遣っていたといわれる。
また、ファイバー製のショックアブソーバーが摩耗するとボルトが激しくレシーバー後端に当たり破損の可能性もあった。
またストックが曲銃床だったため長時間連射した際の反動制御が難しいという欠点もあった。
重さと帯行性の問題は解決しきれなかった。
配備
前線部隊は勿論、海軍歩兵部隊や偵察部隊、空挺部隊にも配備されることとなった。
50~500mを想定され、至近距離でのみ連射、200mまではバースト、それ以遠は単発射撃と教育することにより十分に効果を発揮したとされる。
しかし、後方部隊には現代の
突撃銃並みなサイズ感の短機関銃はかなり邪魔という批判もあったそうな。
軍部も「あれ、作りすぎたんじゃね」と気付き、よりコンパクトな短機関銃を要求した。
同時期にレニングラードの包囲下でアレクセイ・イワノビッチ・スダエフ氏がPPS-42を完成させ包囲下で配備、運用された。開放宣言後に改修したものが後継たるPPS-43である。
シュパーギンンも改良試作型のPPsh-42で独立ピストルグリップ化や部品点数をより削減するなどの改善を施したしたもののPPS-43に敗れた。しかし生産数で圧倒的であったPPSh-41はそのまま使用が継続された。
AK-47の採用後はPPS-43共々東側諸国に流されて活躍。
中国では50式衝鋒槍、北朝鮮では49式衝鋒槍としてライセンス生産され、50式衝鋒槍の改良型K-50Mが北ベトナム軍で使用されている。
第二次世界大戦から朝鮮戦争や
ベトナム戦争までを戦い抜いたとてもタフな短機関銃である。
フィクション
余談
- ドイツ軍ではバラライカ、日本軍ではマンドリンと呼ばれていた。
- おそらくバレルとレシーバーをネックに、木製の曲銃床を胴体に見立てたのだろう。実際脇に抱えるようにして持っていると弦楽器のように見えなくもない。
- 前述の通りPPDから大分改善されたとはいえまだまだ取り回しの面で課題が多く、前線の兵からの評判は今一つだった。そのため軽量で取り回しが良く精度が高いドイツ軍のMP40を鹵獲して使う兵士が多かった、
一方PPSh-41を鹵獲した当のドイツ兵からは弾の互換も聞いて装弾数も多いことで人気を博し、MP717、MP41(r)として愛用された。隣の芝は青いってはっきりわかんだね
「ふう…項目立てるののも楽じゃない…休憩だ」
「休む前に追記・修正はソ連の為にお願いします」
- デス・レースの無印・2では4挺のMG34と共にビュイックに2挺搭載されて登場。かつて持ち主が殺し合ってた銃が仲良く並んでる光景は感慨深いものがある。 -- 名無しさん (2013-11-11 21:22:01)
- 「ペーペーシャー」は「殺せ、殺せ、シャー銃よ」という意味らしい… -- 名無しさん (2013-12-30 09:03:44)
- 日本みたいに島嶼戦を戦う国なら役に立つと思うんだがどうだろう? -- 名無しさん (2015-06-06 19:24:30)
- 連合軍の数倍以上の圧倒的砲兵火力で数十キロ単位で制圧し、大量のT-34にこいつを装備した兵士を乗せて突撃。この赤い津波を止めれるわけがない -- 名無しさん (2017-02-13 20:37:59)
- 銃の項目も充実してきたなぁ。誰か、ガンスミスキャッツで有名(?)なCZ-75の項目作ってほしひ。 -- 名無しさん (2017-02-19 20:08:58)
- ベトコンっていう名作FPSで鹵獲して使ってたわ ジャングルの接近戦で装弾数とレートは正義ですわ 特にm16系統が初期の20連だから尚更 -- 名無しさん (2025-02-13 12:10:47)
最終更新:2025年09月10日 00:11