伊園家の崩壊(小説)

登録日:2016/10/04 (Tue) 22:09:00
更新日:2020/12/20 Sun 06:43:40
所要時間:約 11 分で読めます






明るく平和なはずのあの一家に不幸が訪れ、
悲劇的な結末に言葉を失う


『伊園家の崩壊』とは、『』シリーズや『Another』などで知られる綾辻行人の短編小説である。
短編集『どんどん橋、落ちた』に収録。

綾辻氏の詳細については該当項目を見ていただくとして、ここでは氏の得意とする叙述トリックについて少し述べたいと思う。

本格ミステリーには読者が推理するにあたってアンフェアにならないよう、幾つかの約束事が決められている。
一つは地の文においての記述をしてはならないということ。
誰かの一人称で進行する場合も同じで、ありのままを記述すること。
もう一つが真犯人以外は作中で故意に嘘の証言をしてはいけないということ。
叙述トリックとはこれらのお約束を厳守したうえで意図的に特定の情報を隠し、読者の先入観を利用して勘違いを引き起こすことで最後にどんでん返しを持ってくる技法のことである。

この短編集に収録されている作品群にも叙述トリックが用いられているのだが、いずれも異常なまでに尖った内容になっている。
中でもこの『伊園家の崩壊』は、ミステリとしてはおそらく一番マトモだが別の意味で一番ヤバい作品である。
もうタイトルの時点で嫌な予感がしている人もいることだろう。だが安心してほしい。想像より遥かに酷いから。

【あらすじ】

ミステリ作家の綾辻行人は、業界の先輩に当たる井坂南哲からある事件についての相談を持ちかけられた。
それは、井坂の隣人であり“戦後日本における明るく平和な家族の一つの見本”として知られる伊園家で殺害事件が起きたというものだった。
急ぎ井坂の住む東京都世田谷区へと飛んだ綾辻は、そこで井坂が独自に取材した内容を小説風に纏めたものを渡され、意見を求められる。
事件が起きたのは伊園家の敷地内。密室で長女の笹枝が首から大量の血を流して死んでいたというのだ。
伊園家に一体何があったというのか。そして密室で起きた事件の真相は……?


【登場人物】

☆探偵役

  • 綾辻行人(アヤツジ ユキト)
作者。短編集に収録されている5つの短編全てにおいて、探偵役として登場する。
この時期、あの一部では有名なゲームナイトメア・プロジェクト YAKATA』関係の仕事で心身ともに疲弊し、半ばノイローゼ気味になっている。

  • 井坂南哲(イサカ ナンテツ)
綾辻の同業者であり恋愛小説の大家。
通常とは時間の流れが異なる町に住んでいる。
だがここ5年の間に時間が正常に流れるようになり*1、その結果隣家で異常な事件が発生し胸を痛めている。

☆伊園家

かつては平屋に住んでいたが、時が進み始めたことで発生した老朽化を機に大規模なリフォームを敢行。
現在は2階建ての家に住んでいる*2。庭にはいずれ鯉を飼うために池も造った。

  • 伊園常(イゾノ ツネ)
伊園家の母。
3年前、いつものように商店街で買い物をしている最中、突然意味不明の言葉を叫びながら店主や買い物客を次々と出刃包丁で殺傷。
最後は警官隊の目の前で奇声をあげながら自殺した。享年50歳。
彼女の凶行の原因は今もって不明。この事件が一家崩壊の引き金となる。

  • 伊園民平(イゾノ タミヘイ)
伊園家の父、常の夫。製薬会社に勤務するごく平凡なサラリーマン。
常が凶行に走った挙句死んだことで精神に変調をきたし、酒とギャンブルに溺れるようになった。
常の死から1年半後、真冬の公園で野垂れ死ぬ。享年58歳。
伊園家には民平がこさえた莫大な借金が残ることとなった。

生前、会社から何故か粉末状の薬物が入った小瓶を持ち帰っていた。

  • 福田笹枝(フクダ ササエ)
民平と常の長女で松夫の妻、そして樽夫の母でもある。
常が狂死してから心身ともにボロボロで、両手には湿疹を隠すため常に薄いゴム手袋を嵌めるようになった。
今までのイメージを守るためヒロポン的な物を使って無理に笑顔を作っているが、お日さまも仔犬も、みんなの笑いが全て自身に対する嘲笑に聞こえるようになってしまっている。*3
趣味は読書で主に推理小説を読んでいたが、最近は読んでいない。
春先に高額の生命保険に加入していたらしい。

増築した2階の和室で血を流して死んでいた。死因は刃物による頸動脈切断。
しかし現場に凶器は残されておらず、唯一施錠されていなかった窓から誰かが持ち出したと思われていたが……。

  • 福田松夫(フクダ マツオ)
笹枝の夫で樽夫の父。
民平亡き後、一家に見切りをつけたのか15歳年下の女と不倫をするようになった。
笹枝の死体の第一発見者となる。
事件の前日にはシロアリ退治の薬と称して小さな小瓶を持って帰ってきており、物置部屋の天袋に隠していた。
なお、笹枝の死亡推定時刻のアリバイはない。

  • 伊園和男(イゾノ カズオ)
民平と常の長男。笹枝の弟で高校2年生。
中学の担任に落ちこぼれのレッテルを貼られてへこんでいたところへ両親の死が重なり、とうとう自暴自棄になってグレてしまった。
今ではタバコ、万引き、シンナー、恐喝を当たり前のようにやり、暴走族とも付き合い始めた。家族もとっくに見捨てている。
自分のバイクが欲しくて仕方がない。
松夫同様、笹枝の死亡推定時刻のアリバイを証明してくれる者は誰もいない。

  • 伊園若菜(イゾノ ワカナ)
民平と常の二女で笹枝の妹。
1年前に仔猫を助けようと道路に飛び出したところを大型トラックに轢かれ、両脚を失ってしまった。
以来家に引きこもっており、笹枝の介護を受けて暮らしている。
リフォームした実家はバリアフリーには対応していないため、2階には上がれない。
2階で異変が起きたことに最初に気付いたのは彼女で、その間ずっとリビングでテレビを見ており、笹枝以外に誰も2階には上がって行かなかったと証言している。

綾辻が井坂宅を訪れた当夜、毒入りの飲み物を飲んで死んでしまう。

  • 福田樽夫(フクダ タルオ)
笹枝と松夫の長男。民平と常から見て孫。小学3年生。
常の凶行が原因で学校で酷いイジメに遭っており、今では無口で陰気な性格になってしまった。
あと、名前もイジメの原因になっている。何せタルちゃんだもんなあ……。
笹枝の死亡推定時刻は1階の部屋に引きこもってゲームをしていたため、これまたアリバイがない。

  • タケマル
伊園家の飼い。茶トラの雄。
かつて飼っていた猫のタマが老衰で亡くなった後、井坂が伊園家にプレゼントした。名付け親は若菜。
水浴びが好きだったり餌は飼い主の合図がない限り食べなかったりと、明らかに猫とは思えない習性を持っている。つーか犬だよね。
事件が発覚する直前、頭を叩き割られて死んでいるところを発見されたが、警察の捜査の結果直接の死因は若菜と同じ毒物による中毒死であることが判明した。
また、タケマルが死んだのは笹枝の死よりも後だということも判明している。

☆その他

  • 浪尾盛介(ナミオ モリスケ)
伊園家とは親戚関係にあり、笹枝・和男・若菜と盛介がいとこ同士にあたる。
息子の育也が問題を起こすようになってから、伊園家への出入りは減っている様子。

  • 浪尾妙子(ナミオ タエコ)
盛介の妻。
事件発生当時、一人で伊園家へ遊びに行っていた育也を迎えに来ていた。
やはり彼女も笹枝の死亡推定時刻のアリバイはない。

  • 浪尾育也(ナミオ イクヤ)
盛介、妙子夫婦の子供。
知能の発達が遅れているらしく、幼稚園に上がる年齢なのに未だまともに喋れない。
加えて加虐嗜好の持ち主で、伊園家を訪れてはタケマルを虐待して遊んでいる。
実際、近所の野良犬を殺害して遊んでいたこともあるらしい。
事件発覚直前、タケマルの亡骸の傍に返り血を浴びて立っていた。

  • 中島田太郎(ナカジマダ タロウ)
和男の小学校時代からの友人。
昔は眼鏡をかけたおとなしい少年だったそうだが、何があったのか今では趣味の悪いバイクに乗った暴走族となっている。
笹枝の死亡推定時刻の直前まで和男とニケツして駅前を走り回っていた。
「おーい伊園!暴走しようぜ」とは言わない。さすがに。

  • 井坂軽子(イサカ ケイコ)
南哲の妻。常とは女学校の同級生だった。
最近、趣味で油絵を始めており、事件当日は自宅の2階にあるバルコニーで外の風景をスケッチしていた。
警察の聞き込みに対し、笹枝が死んだ部屋の窓は開いていたが怪しい人物は誰も出入りしなかったと証言している。


【以下、事件の真相と顛末。ネタバレ注意】






































「もうお分かりでしょう? 福田さん」
「残された可能性は一つしかありません。すなわち、笹枝さんは自殺したのです」


笹枝の死は自殺だった。
殺人事件に見せかけることで保険金を家族に残し、借金返済の足しにさせようとしたのだ。

凶器となったカミソリの刃は、あらかじめタケマルの首輪に糸とこよりを使って結んであった。
笹枝が自ら首を掻っ切って噴き出した血を見て驚いたタケマルは、そのまま開けてあった窓からベランダに出て庭へと逃げたのだ。
軽子は警察の聞き込みに対し、先入観もあってわざわざ猫が飛び出てきたことまでは言わなかったのである。
その後タケマルは日課と化している水浴びを池で行い、その際に凶器は首輪から落ちて池の底へと沈んでしまった。
このトリックは推理小説好きだった笹枝が自ら考えだしたもの。
しかし上述の通り、軽子の証言のせいで現場が密室となってしまったため、少々ややこしい事態になってしまった。

毒殺されたタケマルに関してだが、この犯人は若菜。
彼女が物置にあった民平の持ち込んだ小瓶から必要量のを取り出して、タケマルのミルクに盛ったのである。
毒を飲んだタケマルは庭に出た後に死んでしまい、その死体の頭を育也がかち割って遊んでいたというのが真相。

では何故若菜がそんなことをしたのかと言うと、自分が自殺するための予行演習だった。
松夫が持ち帰ってきたシロアリ駆除の薬を飲めば確実に死ねる。だが、両脚が義足で車椅子生活の若菜は物置の天袋まで手が届かない。
そこで、民平が持ち帰ってきていた中身が何か不明の薬物を使うことにしたのである。
タケマルが死んだことで小瓶の中身が毒物だと確信した若菜は、自分もそれを飲んで自殺を果たした。

2階で起きた異変から姉の死を察した若菜は、それでタガが外れて死を選んでしまった。
タケマルを実験台に選んだのは、家族の中で1匹だけ自由気ままな様子に嫉妬を覚えたからではないかと綾辻は推理している。


井坂を介して綾辻の推理を聞かされた松夫は、真実を警察に告げるという決断を下した。
当然ながら保険金は支払われなかった。仮に支払われたとしても焼け石に水でしかなかったらしい。


樽夫はとうとうキレてイジメっ子に逆襲したが、返り討ちに遭い死んでしまった。
死因は脳内出血だった。

和男は中島田から借りたバイクで暴走中、不運(ハードラック)(ダンス)っちまって即死。
首が180度折れ曲がっていたという。

最後に残った松夫もまた、駅のホームから転落して轢死という末路を迎えた。
目撃者の証言から死の直前に意味不明の言葉を呟いていたことが判明しているが、事故か自殺かまでは分からない。

伊園家の土地は人手に渡り、建物は取り壊されることとなった。
井坂夫婦も思うところがあったらしく、綾辻に事の顛末を報告した際に海外への移住計画を打ち明けている。


かつて長らくの間、
戦後日本における“明るく平和な家族”の一つの見本でありつづけてきたとでも云うべき伊園家は、
かくして完全な崩壊を遂げたのであった。



【余談】

全ての始まりとなった常の凶行の理由に関しては、作中では一切明らかにされていない。
松夫が死の直前に呟いていたという言葉の意味についても同様である。

ただ、作中での人物描写(主に笹枝)から、「時が正常に流れ始めても同じようにあり続けることを期待する民衆の無言の圧力に耐えきれなくなったのではないか」と解釈することができる。

また、この作品そのものについての解釈だが、
  • 綾辻が自分の住む場所と井坂の住む場所は本来ならば異なる世界であると認識している点
  • ラストシーンで井坂に関する痕跡が綾辻の手元から全て消え去った点
  • 何より舞台となった1997年当時、綾辻が前述の『ナイトメア・プロジェクト YAKATA』のせいでマジでノイローゼ状態にあったという事情
から、「実は全て綾辻の妄想だった」と解釈することも可能になっている。

……まあ、この作者のことだから普通にオカルト系の話だと解釈するのが正しいような気もするが。


本作が雑誌に掲載された時は、ホラー漫画家の児嶋都による色々とぶっ飛んだ挿絵が一緒に掲載されていた。
単行本化の際に大人の事情で収録は見送られたが、扉絵だけは検索すれば今でも見ることが可能。
退廃的と言うか、世紀末的と言うか……とにかくヤバい。
みんな目が死んでるけどそれすら些細なことに見える。
本作の挿絵の原画は2019年に開催された『綾辻行人の世界展』にて展示され、実に20数年ぶりに読者の前にその姿を現している。


『どんどん橋、落ちた』は2017年に新装改訂版が発売されている。
それで知名度を上げたせいもあってか、2019年に某ドラマが放送された際は、Twitter上にて本作を連想してしまった人もそれなりにいた模様。


※この作品はフィクションであり、既存のいかなる人物・団体ともいっさい関係がない。
仮に読者が何らかの人物・団体を連想するようなことがあったとしても、
それはまったくの誤解というものである。(作者)


追記・修正は日曜夜の家族団らんの時間にお願いします。

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最終更新:2020年12月20日 06:43

*1 作中の台詞によると、時間が正常に流れ始めたのは「1992年5月27日」が境だったとのこと。この日付は現実世界で言うと「とある女流漫画家の命日」だが、本作との関係は当然ながら不明。

*2 ちなみに、伊園家と似て非なるご家族が登場するとあるアニメのエンディングは、「一家は平屋住まいなのに1番の歌い出しが『2階の窓を開けたら』だった」という理由で2番の歌詞を使用している。なお、原作漫画では連載後期、一家の家は実際に2階建てに増築されている(アニメでは反映されていない)。

*3 くどいようだが、とあるアニメに登場する似て非なる家族がヒロポンを服用していたという事実はない。ヒロポン禁止前に書かれた同作者の別作品には井坂家と似て非なる家族が引っ越す前の話として服用した人が登場しているが。マンガに関する都市伝説参照。