宋(北宋/南宋)

登録日:2020/03/10 Tue 19:35:00
更新日:2024/03/21 Thu 22:00:02
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天地有正氣(天地には正気(せいき)があり)
雜然賦流形(混然として形を持たず(この世界に)ある)
下則為河嶽(下に行けば河や山岳に為り)
上則為日星(上に行けば日星に為る)
於人曰浩然(人に於いて(正気が発揮される場合は)浩然の気と言う)
沛乎塞蒼冥(大いに天地に満ちている)
皇路當清夷(大いなる道が清らかで太平な時は)
含和吐明庭(和やかに明るい朝廷に吐き出される)
時窮節乃見(動乱の時代になれば、(正気を元とした)節義が顕れ)
一一垂丹青(一つ一つ、歴史に残る)

文天祥「正気の歌」より


宋(960年~1279年)とは、五代十国の地獄をようやく取りまとめた久々の統一王朝である。
しかし、色々あって歴代最弱の誹りを…いや晋よりはマシだけど…みたいな王朝でもある。
一方で文化の爛熟っぷりは特筆に値し、新たなる階級「士大夫」の出現により唐以前とは政治・思想面でも大きな変革のあった王朝でもあった。


歴史

北宋

宋の成立

序盤戦はサラッと五代十国時代でも触れたのであまり多くは触れないが、後周の二代で早逝した世宗の重臣だった将軍・趙匡胤(宋太祖)
周囲の勧めで無血クーデター*1陳橋の変により幼帝の恭帝(柴宗訓)から禅譲を受けたのが始まりである。

その後は残った十国を丹念に潰しながら制度を整え、節度使から力を奪い、中央の禁軍の強化を行う、つまりは後周世宗の政策を引き継いだ基本政策に則ったものであった。
さらには科挙の拡充・及び皇帝自らが面接する最終試験「殿試」の導入も行った*2

しかし統一まで呉越と北漢を残すまでとなったところで太祖は急死。弟の趙匡義(太宗)が後を継ぐが、この過程には不自然な点が多い。
特に後に兄の子である燕王趙徳昭を賜死という形で排除する、改元も太祖崩御後すぐに行う*3など、自身の血統に皇位を簒奪する意志が透けて見えている、というのは多くの歴史家の指摘するところ。
しかし、宋書にも当然のごとく明記されておらず「千載不決の議(千年議論しても結論が出ない議題)」として1000年以上が経った今でも全くの謎である。

しかし簒奪が取り沙汰されるほど怪しい継承を経た太宗であったが、基本政策自体は後周・兄の太祖が行ってきた政治の延長線上にあり、
呉越からは国土を献上させ、北漢は契丹の援軍を物ともせずに滅ぼして統一事業を完遂。内政面でも兄の文治主義を推し進め、強大な皇帝権の確立することに腐心した。

太宗の崩御後は太宗の子である真宗が即位。科挙はさらに拡充され、一度に数百人が新規雇用され文治主義は完成を見た。
しかしその一方で軍事面では弱体化が進んでいた
太宗こそ統一事業を完遂後に燕雲十六州の奪回を目指して北伐軍を興したが、戦術ミスで敗退して奪回を果たせなかった。
その後は軍事行動を控え、皇帝及び皇帝自らが任命する故に簒奪がありえない存在である官僚に軍事の全権を集める政策をさらに進めた。
結果、軍閥の卵ともいえる有力な将軍の権限は少なく、兵は北伐軍の数少ない生き残り以外は実戦経験に乏しいという状況になっていった。
こんな中で、五代十国の騒乱から少し離れたところで見ていたタングート族の李継遷*4が宋の文治主義に伴う軍閥弱体化政策、及び交易品の塩を巡る軋轢から対立。
遊牧帝国・遼と同盟し宋に反旗を翻す事態になった。とはいえ当初は遼が内紛解決優先で本格参戦せず、タングート族との小競り合いくらいだった。
が、遼皇帝聖宗が内紛を鎮め体制を整えると大軍を発し親征する事態となる。

これが宋にとっての最初の大きな蹉跌となるのであった。

澶淵の盟・慶暦の和約

聖宗自らの親征軍に動揺した宋朝廷は当初は「開封より南!南に遷都して逃げましょう!太宗様の治世でも勝てなかったのですぞ!」という弱気の意見も出るくらいであったが、
対契丹最強硬派の寇準が「北狄に屈して逃げるなんていうのはあってはなりませんぞ!こちらも総力を結集の上親征し、我が国の力を見せつけるのです!」と強硬に主張。
真宗は後者を受け入れ、親征したものの黄河を挟んで延々睨み合いとなり膠着し和平交渉が持たれることになる。

軍事面では向こうが遥かに上ということもあり、交渉は遼が優位で進行。領土を望む遼と燕雲十六州もあるのにこれ以上防衛面で負担を増やすわけにはいかない宋ですり合わせに苦慮するが、
結局宋が毎年絹20万疋・銀10万両などを歳幣*5として送り、宋皇帝を兄、遼皇帝を弟とする形で和議が成立した。これを澶淵の盟と呼ぶ。
なお遼との交渉にあたった曹利用は
  • 真宗からは「100万両までは妥協しても良い」
  • 寇準からは「30万両以上まで譲歩したらお前を殺す」
といわれていたという。
真宗と重臣からこう言われたものの、見事に命を守りつつ落とすべきところに落としてみせた。
交渉が妥結し朝廷に報告に上がった際に、真宗のいくらで妥結した?との諮問に曹利用が指を三本出した際に、
真宗は300万両と勘違いしてそんなに払えないぞ!?と大慌てになったが、実際はその1/10で済んでいたことが報告され安堵したということがあった、という逸話も残っている。

一方、遼と組んでいたタングート族はまた宋に臣従先を変えてしばらく大人しくしていたが、40年ほど後に英雄李元昊が出現し西夏として完全に独立。
西域への出入り口になる部分を塞ぎ、軍事力で宋を圧迫。その結果遼ほどの好条件ではないが歳幣を送らせる形で和議(慶暦の和約)を結び、これで北部と西部国境線は条約で確定。屈辱的ではあるにしろ、外交的には安定期を迎えることになった。

さて、燕雲十六州奪回どころかカネで平和を買うという事態になったわけであるが、夷狄と上下関係が縮まったというのは事実であり、この点から後世批判の対象になることは多い。
今でこそ現代の外交に近い条約による和平・国境線確定など、ウエストファリア条約を遥かに先取りしたかのような外交ともいえ
そういう点から11世紀であるにも関わらず、外交による妥協で作る秩序が出来上がりつつあった、ということを評価する向きもあることはある。
しかし朱子学の大義名分論やその元になった司馬光の華夷の別といった考えが浸透していた時代には相当にやり玉に挙がっていた。
また「遼皇帝を弟とする」という取り決めも、「天下を治める皇帝は、世界に唯一人」という建前を破壊し、天下に2人の皇帝が並び立つという状況を生み出した。これも批判される点である。

幾ばくかの屈辱感はありつつ毎年のように大量の物資を供与する形になった宋だったが、経済規模が遼や西夏とは桁が違ったためそこまで大きな負担にはならなかった。
むしろ茶や絹などを送りつけた結果、遼・西夏の皇族や貴族層が贅沢を覚えていき、歳幣以外にも別枠で宋から贅沢品を大量輸入するようになったので、総合的には宋の経済発展に貢献するようになっていった。
そのためむしろ宋経済の規模が大きく膨らみ、経済力で見れば周辺国を圧倒しつつあった。真宗が占城稲を江南各地に広めたことで、農業生産を飛躍的に高めたことも大きい。

しかし、西夏との和議を結んだ後の第四代皇帝仁宗後期には、辺境警備強化のための軍拡費用と増やし続けた官僚への給与支払いの負担が大きくなっていき、歳幣の出費もあり政府の赤字は膨らみ始めていたのである…

不毛なる党争

仁宗は男子が夭折した三人しかいないまま崩御。
そのためその甥にあたる英宗が即位したのだが、即位四年前に亡くなっていた英宗の父である濮安懿王・趙允譲の祭祀上の扱いをどうするか、という問題が浮上した。
実務に携わっていた先代からの重鎮官僚は「子が尊ければ父も尊いのが礼の基本である。だから濮安懿王は皇帝の父であるし祭祀上は先代皇帝として扱い、「皇考」と呼んだら良い」と主張。
対して若き日の司馬光ら新鋭官僚は「英宗の父は養子になった時点で仁宗その人であり、濮安懿王ではない。皇帝の伯父「皇伯」でよい」と主張。
それぞれ前者が実務者に、後者が実務者をチェックする立場の「言職」に支持されて党争となった。
もっと大事なことはあるし至極どうでもいい事のような気はする*6*7のだが、言職側は実務側を弾劾し、実務側は言職側を人事権発動で左遷に追い込むなど深刻な対立となってしまった。
これが「濮議」と呼ばれる事件である。この時は皇太后が介入し、英宗も4年で早逝したため、実務側の重鎮が代替わりで一旦職を辞して自然消滅の形になった。
宋代は後述の太祖の遺訓もあって言動を理由に死刑ということがほぼなかったため、士大夫の批判精神が高く議論は非常に活発というのが特徴だった。
しかし、この事件や先代仁宗の廃后を巡る慶暦の党議などを機に、政敵の政策を舌鋒鋭く攻撃して政争を起こし、世論の支持を得て名声を獲得するという方向に振れていった。
身も蓋もない話をすると、しょーーーーーもないレスバでマウント取って鼻高々、というのが政治の中枢で巻き起こることさえあるようになっていくのであった。まあそのネタが政策なのが、より問題を大きくするのだが。

英宗は早逝してしまったため神宗が後を継ぐことになったが、即位時20歳の青年皇帝は覇気に満ち、宋を改革してやろうという意欲に燃えるなどやる気充分な男であった。
仁宗末期に政治改革を求める上奏を送り、地方官としても大きな成果を挙げ神宗が幼い頃から敬愛していたという王安石を一気に皇帝側近の翰林学士、その後副宰相に抜擢して大改革に着手。
全部やっていくとそれだけで項目が出来るのでざっくりと言えば「格差是正」「行政の無駄の排除」が主眼であったといえる。
政治機構が行き詰まるとだいたいこの辺が問題になるのは洋の東西・時期を問わないのだろう。
新法の詳しい内容については後述する。

しか、中小商人や小作農に優しい政策は、士大夫層の多くが大商人・大地主の一族出身ということとぶつかることになった。
例えば青苗法は商人がやっている貸付と間違いなくバッティングするし、大商人が握っていた物流に切り込んだり物価改定に介入する均輸法・市易法は財布の中に無造作に手を突っ込まれてカネを持っていかれるようなものなのでたまったもんじゃないわけである。

そこで呂誨*8、欧陽脩、司馬光に代表されるような「持てるもの」の代弁者となる官僚が立ち上がった。
ここに宋を死に至らせた病である、王安石ら改革をしかしかなり急進的に志す新法派と、既得権益の代表であり漸進派でもある旧法派の不毛な戦いの幕が切って落とされてしまったのである…

新法派の領袖たる王安石は神宗の信任を背に粛々と改革を実行した。旧法派が讒訴しようとも皇帝が聞かなければほぼ罷免はありえないからである。
結果、旧法派に近い重臣や気鋭の官僚は左遷や辞職で次々に去り王安石は宰相に昇格し、政治のトップとして更に強権的に改革を断行した。
しかしながら市易法の運用を任せた呂嘉問が、強引すぎる運用で無理な押し貸し実態にそぐわない物価改定をやって大不況を招来するというとんでもない大失態をやらかす。
すると新法派内部で亀裂が発生。新法派からも呂嘉問の罷免を求める声が相次ぐ事態となった。
神宗も旧法派の乱発される上奏、職務拒否や、新法派からも前述の件で上奏が飛んでくるなどすると流石に迷いが生じ始めた。
更に悪いことには、本格施行から4年ほどが経った1074年には大旱魃となり飢饉状態となってしまう。これは「徳」が大事である当時の政治としては結構致命的なことであった。
案の定旧法派から「この旱魃は天から道理に外れた悪法であると天より新法が弾劾されたも同然!直ちに廃止し道理に合った政策を実行するべき!」という上奏があるとついに神宗は王安石を地方に転出させてしまう。

しかし神宗は後任に新法派をつけて改革を続けることを選択した。とりあえず王安石を一旦クビにして執政から外せば批判も止むだろうという考えから、やむを得ず外しただけで新法での財政再建・行政改革には希望をもっていた。
そして王安石に育成された後継者たちならばちゃんと運用してくれるだろう、という期待を込めての人事であった。
が、後継者と頼む韓絳の腹心で新法設計の中心人物呂恵卿が新法派を自らの与党として固めるべく新法派でも意見の合わないものを排除して自らのシンパで固める、新法を無為にする法を施行するなどして国政を壟断し始めるというとんでもないことをやり始める。
神宗を大慌てで王安石を再び国政の場に復帰させる動きを見せると、宮廷に王安石の悪口をばら撒く始末であった。

しかし神宗は王安石を100%、いや1000%信任していたので、これは悪手となり呂恵卿は左遷され王安石が復帰。呂恵卿の制定した悪法を廃止するなど、自らの政策を実行する。
ただ、この頃になると神宗も自分の考えで運営したいという思いが生まれており、宰相の王安石に全権委任するのをやや好まなくなっていた。
そこを突いて呂恵卿は二人に隙間風を吹かせるべく有る事無い事を吹き込んで政権内部を揺るがせる。
これで折れるほどヤワな信頼関係ではなかったが、王安石の長男が病死してしまうと王安石の気持ちがついにぶっつり切れて引退する事になってしまった。

神宗はこの後旧法派に振れかけるが、最終的には王珪・蔡確*9を腹心として親政を行い、新法の実行に力を注ぐ。
更には官僚機構の改革にも着手。冗官と呼ばれる無駄な人材の整理整頓を行い、行政機構も現状に合うように再編しスリム化に成功した。
年号から取って元豊の改革と呼ばれる諸政策によって財政再建は果たされ外征を行う*10ことが出来るようになるまでなり、開封を中心に大いなる経済発展を見て国力が最も充実するという形で結実した。

神宗の手により更なる発展が続く…かに思われたが神宗は38歳で崩御。皇太子哲宗が即位する。即位時10歳であった。
年少だったため英宗の皇后であった宣仁大后が摂政となり垂簾聴政が行われたのだが、彼女は実家が新法により既得権益を失っていたため新法を憎んでいた。
そのため旧法派に属する司馬光らを呼び戻し、新法派を追い出すという挙に出た。新法は次々に廃止され、王安石は嘆いたという。
しかし、旧法派内部でも「新法は正しくないものも多いが(枕詞)、これは正しいのでは?」という法律があったにもかかわらず官の筆頭に据えられた司馬光はとにかく新法を白紙にすることを優先。
そしてまっさらにした後、自身の構想を実現する前にあっさり死去してしまう。

この後、リーダーの司馬光を失い旧法派は統制が取れなくなり、新法全廃が正しいとする過激派と、新法にも見るべきところはあり使えるものは使うべきという穏健派で対立が発生。
これに出身地域による派閥対立も合わさって政治どころではなくなりつつあった。
唐代の牛李の党争しかり、政治闘争により実務が滞るのは当時では致命的であった。

その後、哲宗の親政が始まると父の信奉者であった哲宗は新法派を呼び戻し新法を復活させることになる。
当然政策は180°転換され新法派の時代となり、旧法派は駆逐された。
この時期になるとどちらの派閥も内部でも抗争を繰り広げ、さらに対立派を追い落とすために疑獄事件を起こすなど政治改革のスタンスを巡る戦いではなく、ただ相手を蹴落としたいがための抗争に堕していた。
しかし一方では互いの派閥の急進派は浮き上がって排除される傾向にもあり、若干ながら安定の兆しも見せていた。
そんな中、悪いことに哲宗が24歳で崩御してしまう。

終焉の時

哲宗の後を継いだのは弟の徽宗であった。道楽者なので皇帝向きではない、という反対意見を押しのけての擁立であった。
当初は神宗の后であった欽聖皇后が摂政となり垂簾聴政を行い、旧法派と新法派のボスを官のトップに据えて漸進的な政策を行うが、その欽聖皇后が摂政を退くと徽宗が親政に取り掛かる。
しかし欽聖皇后が退いた後はバランスが崩れてしまい、新法旧法の不毛な争いで急速に政情が悪化。
嫌気が差し政務を放り出しそうになっていたときに急進的新法派…に一応分類できる蔡京*11が徽宗に取り入って政権を握ることになる。
徽宗も当初は側近の言を聞き蔡京は警戒しており排斥したこともあったが、蔡京がシンパの官僚を多く持っていたことや、徽宗とは芸術的センスが近いこともあり結局は復職させている。
良いのか悪いのかわからないが、蔡京の経済政策がバカ当たりして開封を中心に一種のバブルともいえる超好景気が到来し、財政難にあえぐことも一時的にはなくなったこともあり
徽宗はすっかり蔡京を信任するようになっていった。

そのうちに徽宗は真面目に政務に取り組むことを放棄し、蔡京や宦官の軍人童貫*12らと結託して芸術に明け暮れるための資金稼ぎとして新法を悪用し重税を課すというとんでもないことをやり始める。
さらには珍しい石、名木(花石綱)を全国から開封に集めさせるため、石や木の通り道の邪魔なら家や橋も叩き壊し運河を専有する、もちろん運ばせるのは民に労役として課すなど暴虐を繰り返した。
その結果民が宋に背き反乱を起こし始め、方臘*13の乱という大乱まで発生する始末であった。水滸伝の元ネタとなった将軍宋江の名はこの時期の史書にも見えている*14
しかし蔡京の栄華もそう長くは続かず、徽宗が乱発した直筆の詔による直接統治に引きずり回された挙げ句、権力を息子や宦官ら徽宗近臣に奪われている。

さて、その頃北方では遼が宋に先んじて腐れ果てていた。
宋の贅沢品を好むようになり歳幣*15以外にも大量に買い付けたりした結果、宋に経済面でいいようにされて財政が傾くと、周辺の従えている異民族に重税を課すような皇帝すら出る始末で政治が混乱。
結果として満州付近に割拠していた女真族が完顔阿骨打(金太祖)*16に率いられて蜂起。あっという間に惰弱化していた遼軍を打ち破り、金という新たな国を打ち立てるに至っていたのである。

これを聞いた宋はすかさず歳幣の送り先を変えて金と同盟し、長年の懸案であった燕雲十六州の奪回を図ることにした。これを海上の盟*17という。
しかし、さあ金と挟撃するぞと北伐に向かう軍を派遣するタイミングで方臘の乱が発生していたため、徽宗の寵愛を受け軍事の全権を握り北伐軍総司令官となっていた童貫は北伐軍から平定軍を選抜して鎮定に当たった。

その結果、約束通りの時期に出陣し遼軍を散々に打ち破っていた金との約束に遅刻。その上遼から分裂した北遼が籠もる燕京*18で頑強な抵抗に遭い攻撃を失敗し続けてしまった。
惰弱となった遼軍だが、それでも遥かに宋軍を凌ぐ強さであったのだ。
宋軍が信じられないくらい弱い可能性の方が当時の遼軍が意外と強いより可能性として高いが、方臘の乱鎮定に主力を引き抜いてご丁寧に略奪を入念に行った後に急遽出陣した結果疲弊していたという話もある。
または夷を以て夷を制すの原則に基づいての行動で、金を弱めるためにある程度意図していたという説もある。

ともかく燕京攻略に失敗し続けたため、政敵が多く最悪讒言されて誅殺される危険を感じた童貫は、海上の盟で万里の長城以北に軍を留める約束であった金軍に援軍を要請。
それを受けた金軍は鮮やかな手際で燕京を落とし、他の宋が担当する領土もあっという間に落とした上で約束通りの内容で宋に領土を引き渡した。
なお、領民や財貨などはまるっと略奪されており、取り戻した地域はしばらくは統治するだけで大赤字の土地とされていた。
その上で童貫の要請で戦った分、かかった軍費として法外な要求をして支払わせるという形で実利はばっちり奪うのであった。実にスマート。
なお、遼・北遼は結局西夏と金の同盟により滅ぼされるが、皇族だった耶律大石がはるか西に逃れて西遼として復帰することとなる。

しかし、宋は海上の盟で約束された燕雲十六州の内六州引き渡しに滿足しておらず、今度は恥知らずにも遼残党と組んで金を攻撃し燕雲十六州完全奪還を企む。
この陰謀は当然のごとく露見し、金太祖の死後跡を継いでいた金太宗が軍を派遣し開封を包囲されるという事態に陥る。
慌てた徽宗は「己を罪する詔」を出し、皇太子に譲位してそそくさと開封から逃げ出す*19のだった。
その父の代わりに残務処理を行うことになった欽宗は渋々ながらも領土割譲や賠償金支払いを飲み、その時は撤退させた。

しかしいざ撤退すると「あんな北狄に従う理由なんかありませんよ!」という意見が朝廷の大勢を占めた。
はぁ?何いってんだこいつ…という向きもあるだろうが、この頃には北方民族に押され続けて民族主義の煮凝りみたいな様相を呈し始めていたので仕方がない部分もある。
だからって約束を破って良いことはまったくないことくらい分かりそうなものだが…相手を人間扱いしてなかったんだろうなあ…
ということで領土割譲も賠償金支払いも拒否した。そうなったらどうなるだろうか?
今までも役に立たん宋軍の尻ぬぐいをやったり、遼残党と結託しても一足飛びに殲滅しなかったりと(金側としては)かなりフレンドリーかつ理性的に接していた、にもかかわらず約束が一切守られないので流石にもう堪忍袋の緒がブチブチっと行った。
ぶっちゃけた話、文明人ぶってるアレらの方がよっぽど蛮族だし話が通じない、金はそう思ったのではないだろうか?

こうして金は全力での開封攻めを展開し、宋軍を打ち破って開封を占拠。
欽宗及び徽宗*20以下皇族・後宮の女性・官僚ら数千人は根こそぎ拉致され北方に抑留された。当然のごとく徽宗に大好きな芸術を楽しむ余裕なんかはなかったが、命があるだけありがたい話であった。
女性は妾として皇族や有力な将軍の報奨品として分配されたり、あるいは国営の娼館である洗衣院で貴族や将兵用の娼婦に落とされた、という話もある*21
こうして宋は滅亡した。この金による開封攻略などの一連の事件を年号から取って靖康の変と呼ぶ。

南宋

康王趙構擁立

さて、金軍は開封から宋皇族を根こそぎ拉致した…と書いたが、ただ二人拉致しそこねた人物がいた。
金への使節として開封を離れていた際に靖康の変が起こって宙ぶらりんとなっていた徽宗の九男・康王趙構と、いろんな事があって皇后としての位を失い実家に帰っていた哲宗の皇后・元祐皇后である。
この二人の存在は、金の描いた絵図を叩き壊すこととなる。

金は少数民族女真族による国家であり、人口が凄まじく多い中華の直接統治は難しいというのは最初から想定していた事態であった。
そのため、宋で宰相に登ったこともある張邦昌を傀儡の王として大楚を建国し、宋の領土を間接統治するというプランを立て実行した。
しかし、金軍主力が北へ撤退すると張邦昌は連れ去られていなかった元祐皇后を奉り帝位を放棄。
その後元祐皇后の指名という形で唯一逃げ延びていた宗室の人間である趙構を皇帝に即位させた。高宗である。ここに滅亡したはずの宋は蘇った。靖康の変以前を北宋、高宗即位後の南遷政権を南宋と歴史上便宜的に呼ぶが、再興した当人的には宋である。
ちなみに張邦昌は一度は傀儡とはいえ皇位に就くという大変な不敬を行ってしまったが、高宗は自らに位を譲ったことに免じこれを許すつもりであった。
が、宰相に就いていた李綱が処刑を強硬に主張したため、張邦昌は自殺を余儀なくされたという。

しかし、高宗は先代で兄の欽宗が拉致されたとはいえ健在であったりするなど、かなり無茶かつ由緒が弱い即位で正当性に欠ける面が多かったことで内乱が発生。
宋代はこの手の正しさにひっじょーにうるさいため、緊急時だったが高宗の即位は相当な反発を呼んでしまう。それどころじゃないでしょ!感はある。
その結果、南宋朝廷は金陵*22など各地を転々とし杭州を臨安府、臨時の首都として制定し落ち着けるまではかなりの苦労を強いられた。欽宗や徽宗の帰還を材料に金にゆすられたりもした。*23
ともあれ、臨安に落ち着いた後は統治力を取り戻し、反撃体制を作るが金も宋の北部領土を治める傀儡国家・斉を建国し体制を立て直す。
南宋VS傀儡国家斉*24・その親玉金帝国の戦いが始まるのであった。

英雄の黄昏と紹興の和議

さて、首都南遷及び皇帝拉致という2つの屈辱を浴びせられた宋という国は、唐以前に比べて民族主義的な思想が国中に広まっていた。
そんな中現れたのが農民義勇兵出身の尽忠報国・岳飛、兵卒上がりの万人敵・韓世忠、辺境匪賊上がりの張俊ら抗金の名将たちである。
彼らは良く戦い、対外戦争はほぼ負けっぱなしで戦術的勝利すら覚束なかった宋としては珍しく金を押し返すくらいの戦果を挙げ、民衆はこの戦いっぷりに熱狂していた。

しかし、彼らをよく思わない者もいた。その筆頭が金から逃げ出して高宗に仕え、宰相となっていた中国人が最も嫌う漢奸ランキングトップ3入り不可避の男・秦檜である。
かつては対金政策は硬軟取り混ぜた対応を是としていた秦檜だったが、帰国後は対金和平派に転じていたのである。そして高宗も、和約を結ぶべきという考えは持っていた(後述)。
もう国力の限界で淮河や長江を渡るのは無理と考えた和平派の金の重臣と密約を交わして帰ってきた、とも言われるので秦檜のみの手腕と断言もしにくいのだが金との和議をまとめ、一旦は講和に成功。
しかし金国内で秦檜を帰して対宋和平を目論んだ重臣が暗殺され再び主戦派が政権を握ったため戦争となるが、前述の抗金の名将たちの地勢を活かした奮闘で膠着状態となる。

秦檜はこの膠着状態を利用し再度の講和を志向。南宋朝廷・抗金の名将らが率いる軍閥の説得作業に入る。
主だった抗金の英雄のうち張俊は強欲であったことから地位・権益の保証や岳飛への嫉妬を煽って秦檜派に転向させ、岳飛と並ぶ武功を誇る韓世忠の説得にも成功したが、
岳飛は剛直すぎて絶対に和平に転ぼうとせず逆に和平派を面罵する有様で、元からソリの合わない秦檜とは非常に険悪となっていった。
そこで秦檜は宋の軍閥忌避傾向を利用して彼を陥れる方向で動いた。つまり、冤罪で嵌め殺すということである。
韓世忠はこれを聞き「なぜ岳飛を!?証拠はあるのか!?」と抗議したものの、秦檜からは「あったかもしれない、のですよ…(原文:莫須有)」とあまりにもな理由を答えられ、「莫須有の三文字で天下を納得させられるというのか!?」と激怒したと史書にはある。
こうして岳飛は逮捕された後処刑され、岳家軍と呼ばれた彼の私兵団は解体された。

他にも韓世忠ら義勇軍を核とした軍閥を率いた将軍から兵権を奪い解任し*25、和平反対派の官僚も左遷・免職に追い込み強引に和議をまとめ上げた。これを紹興の和議といい、淮河を国境線とし以北の領土は開封や洛陽などの大都市を含めすべて放棄、金に臣下の礼を取り毎年歳幣ではなく歳貢を贈ることなど数々の屈辱的な条件を飲み、その代償として平和が訪れた。1142年のことで、靖康の変から16年の月日が流れていた。


さて、この和議だが未だに諸説紛々というかなーりデリケートな問題となっている。
岳飛が開封まであと少しに迫ったこともあったのに秦檜の手回しで友軍が撤退したため孤立し岳飛も撤退した*26、などの事例もあり秦檜の策略で抗金軍は決定的勝利を得られなかった、秦檜がいなければ北伐は成功していた!と語られることは多い。
しかしながら、金軍をすべて北に追いやって旧領を回復できるのか?と言われればそれもまた微妙な線である。当時の南宋は華北との交易を失い、江南の片肺だけで経済を回していたようなものだったためそこまで安定感はなかった。
さらには岳家軍など当時の戦功を挙げ国民から仰ぎ見られていた軍はほとんどが私兵であり、禁軍…つまり宋の正規軍はそこまで精強というわけではなかった。
軍閥におんぶにだっこ状態だった、と考えるとおそらく秦檜がいなくてもどこかで軍閥同士、あるいは正規軍と軍閥で利害対立を起こして分裂した可能性はあるのだ。

もう一つ分裂する可能性として、岳飛は南宋を裏切らないだろうが、息子や岳家軍の宿将が南宋からの扱いに不満を持ち、黄袍*27に意欲を示したり、岳飛に着せようと考えればおそらくどうにもならなかったであろう。
岳飛がいくら高宗や宋に忠誠を誓おうとも、周りが岳飛を皇帝に!ということで一丸となれば止まらないのである。そうなった場合に岳飛がやり抜ける人物だったかはわからない。政治音痴なのでどっかしらでやらかした可能性は非常に高いだろう。あるいは強情すぎて岳家軍が四分五裂したかもしれない。
宋太祖・趙匡胤も狙って陳橋の変を起こしていないとすれば、それで後周から禅譲を受けろと周囲に担がれて渋々受けた人物である。
岳飛の活躍は南宋に対するリスク因子にしかならなくなる局面がいずれ出ただろう。皮肉な話だが、時勢や民意を吸って膨れ上がりつつあった岳飛の影響力が制御不能なほどに大きくなりすぎない内に切除したことで、南宋の寿命を伸ばした部分はあるのかもしれない。

さらにいえば、全面的な殲滅戦となり、両国が共倒れした可能性も否定はできなかった。
金軍は確かに当時モンゴル高原を含めた近隣最強の精鋭であったが、前述の通り女真族はモンゴル諸部族や華北の漢人と比べても数が少なく、戦が長引き明確な勝ちを得る機会が減ると国内統制を失う可能性は高く、分裂リスクは非常に高かった。
遼や華北を征服したとは言え、経済などの内政面ではまだ整備は進んでおらず、片肺だけの南宋にすら劣る経済力しか持ち合わせていないのだから。金は金でこれ以上の継戦はリスキーと言えるだろう。
だったら尚の事岳飛らを全力で戦わせるべきというのも考え方ではあるが、西夏や雲南の大理といったチベット系の国家も蚕食しようと色気を出してくるのは必至であり
金と南宋が長期戦の末疲弊し共倒れとなれば五胡十六国五代十国のような凄惨な時代が再来した可能性も十分に考えられた。
その後の南宋・金の発展を考えれば、秦檜があらゆる手を尽くして成し遂げた和平は長い目で見ると大陸に力をつける上で正しかった、と考えることも出来る。

そしてなによりも、秦檜の和議は秦檜が行ったことではない。秦檜の和議は、他でもない高宗自身の政策である
これは誰あろうその高宗本人が発言しているから間違いない。
曰く「あの講和策は、断じて朕自らの意志である。秦檜はただ、朕によく賛成したのみ。蒸し返して議論する余地などあるか? 近頃の無知蒙昧の輩は、やたら空論を振りかざしては文句ばかり言いおるが、朕は甚だ不本意である
和平も岳飛処断も、秦檜を批判するのは当たらない。その政策が非であるとするなら、批判されるべきは高宗なのだ。


とはいえ、秦檜の和平成立のためにやったことはとてもじゃないが褒められたものではなかったのは事実。
和平成立後もそれに不満を漏らした民衆をも弾圧し専権を振るうなど、南宋の病巣となる宰相による専権政治の形を作り上げるなどろくなもんじゃないのは否定しようがない。
高宗も金軍の脅威を煽り続け、さも自分のバックに金が付いているかのように振る舞っていた秦檜のことは忌み嫌っていたようで秦檜死後は掌を返して秦檜派官僚を多数弾劾し罷免しているほどである。
金の脅威を盾にして自身の栄耀栄華のために周囲を操り、独裁宰相としてすべてを差配し生殺与奪を握る快感に溺れていたと思われてもそりゃ不思議はない。

が、岳飛の側も自分が宋朝廷で忌み嫌われている軍閥であるということを一切自覚せず、反金である民衆の支持にのぼせ上がって自分が絶対正義と勘違いしていた側面もあったように見える。
相手が秦檜でろくでもない人間であるとはいえ面罵するなど、あまりにも世渡りが下手くそすぎる。
長生きしててもこういう政治センスの無さから高宗や他の将軍の怒りを買って誅殺されていたのではないか?と言われるとこれまた否定が難しい。
同じく戦功を挙げた韓世忠は軍権こそ不本意に奪われて隠居生活を強いられたが命は取られていないことから考えても、本当に中華を救う英雄の器であったならば秦檜ともあそこまで険悪になって冤罪で嵌め殺されるなんてことにはならなかったのではないだろうか。
宋代は趙匡胤の遺訓もあってよっぽどじゃないかぎり命は取られないことが多いので。

ともあれ、その狡猾さから秦檜は永遠に中国人から好かれることはないだろうし、岳飛が関羽らと並ぶ、中国人に最も好かれる歴史上の人物として語られていくのはおそらくもう揺らぎようがあるまい。

つかの間の平和

紹興の和議を結び、屈辱の代わりに平和が訪れたはずであったのだが、金では内紛が起こり、時の皇帝熙宗を暗殺して皇帝となった海陵王*28が、粛清と暴政の巷*29に叩き込んでいた。
これに巻き込まれて、保護されていた遼最後の皇帝天祚帝と欽宗の子孫らも一族誅滅・女は後宮送りの憂き目に遭い男子は全滅した。

海陵王は南宋制圧を志し南征するが、宋軍が采石磯の戦いで金の水軍を壊滅させ勝利し長江渡河を阻止すると金国内で海陵王への不満が爆発し
熙宗の甥である世宗が留守中に即位し支持を集める。海陵王は進退窮まり外地で暗殺されて果てた。ここまでが1161年のことである。
その後も淮南や四川方面で小競り合いがあったものの、金は宋の北伐を撃退し膠着する。

ところで高宗にはただ一人皇太子がおり、かつて一度武断派に担がれて譲位するはめになっていた。臨安に落ち着く前、統制がうまく取れていなかった頃のことである。
その時即位した元懿太子趙旉は病弱でこのころにはこの世におらず、高宗の兄弟やその子らは皆北に拉致されていた。
そこで、太祖趙匡胤の末裔*30である趙眘を養子にとり皇太子とし、譲位することにした。
北方で欽宗の男系子孫が皆殺しに遭い、帰る事ができなかったため、ここで太宗系は断絶し、皇統は太祖系に入れ替わることとなった。

こうして太祖系としては太祖本人を除けば初めて皇帝に即位した趙眘(孝宗)は金の世宗とともに名君と謳われる存在であり、
領土回復は望めないと見て、金との修好路線に切り替えて1165年には講和条約を再度締結する。これを乾道の和議という。
このなかで臣下の礼を取る条項は叔父と甥と大幅に譲歩され、歳貢も歳幣に改められ量も軽減された。ある意味では海陵王さまさまと言えるだろうか。
これで対外的に安定したため孝宗は内政、組織改革に邁進。南宋は安定を高め経済発展も著しく、臨安は開封にも負けない発展を遂げた。
1189年に譲位した後も太上皇として病弱かつ暗愚な息子光宗に実権を渡さずに君臨し、1194年に死去するまで実質統治し続けた。

太上皇の父もいなくなってさあこれから、という所であったが光宗は周辺からも評判が悪くあっさり退位させられてしまう。
趙汝愚*31、韓侂冑らの共謀で即位した光宗の子寧宗であったが、前述の二人が早速対立。
高宗の皇后を伯母にもち寧宗の皇后韓氏の一族でもある韓侂冑が趙汝愚を排斥して勝利をおさめると、趙汝愚の一党も慶元の党禁*32を行い排除して朝廷を完全に掌握。
自身が宰相になることはなかったが、軍政の最高機関枢密院の長として君臨。寧宗の近臣として残り続け、自分の息がかかった人材を宰相に据えることで朝廷を掌握する形を取り実際に持つ権力以上の影響力を発揮した。

ところがこの韓侂冑、軍政畑の人物だったのが災いしたか官僚にはあんまりいい顔はされておらず
そんな中行った慶元の党禁により他派からの求心力は日増しに低くなっていた。さらには権力の源泉であった韓氏も死亡してしまったのちは独裁権が揺らぎ始める。
そこで韓侂冑は金の体制の動揺を知ったこともあり、失地回復を図るべく北伐を計画し実行する。が、南宋朝廷は反金感情は身の丈以上に強かったものの、孝宗時代の経験からか専守防衛論が大半を占めており思うような布陣を組めず、
開戦当初のジャブの打ち合いでは優位だったものの本格的な戦闘が始まると宋軍は押されっぱなしになり終いには主力と頼んだ四川方面で寝返りが発生し進退窮まってしまった。

こうして講和会議となったのだが、条件としては当然のごとく歳幣の積み増しなど不利な条件での講和は不可避であり、さらには韓侂冑の首の引き渡しが条件となった。
韓侂冑は大慌てでなんとか命で贖うことを回避しようと画策するも金は韓侂冑の首は講和の絶対条件として頑として曲げなかったため
講和を急ぐ史弥遠らにより暗殺され、彼の首は金に引き渡され講和は成立した。
この後史弥遠は宰相として独裁権を握る。この独裁時代に重税で国内は疲弊、文治主義と軍事のバランスが文治主義側に大きく傾き軍事力を損ねていった。

―ところで韓侂冑の北伐、年号から開禧用兵や開禧北伐と呼ばれる軍事行動は1206年頃の出来事になる。
そのころ、モンゴル高原北部ではあることが行われていた。金によるモンゴル高原北部の治安維持活動に協力していたモンゴル部キヤト氏の首長・テムジンがそれを利用して敵対者を一掃し部族統一に成功。
クリルタイ*33が開かれ、テムジンは大ハーンに推挙されてチンギス・カン*34として即位。イェケ・モンゴル・ウルス*35、通称モンゴル帝国が誕生していたのである。
「祝え!全モンゴルを統一し、新たな世界秩序をしろしめす究極の王者。その名もチンギス・カン!13世紀最強国家、モンゴル帝国開祖即位の瞬間である!」
西夏、遼の末裔西遼、金、そして南宋。ここ2世紀近く中国大陸の主役を張ってきた者達の頭上にも死の宣告が下された。
滅亡までそれぞれあと21年、12年、28年、そして…

モンゴルの脅威

こうして誕生したモンゴル帝国は驀進を開始。
まず西夏、唐代のモンゴル高原の覇者ウイグルの生き残りである天山ウイグル王国を服属させ中央アジアへの橋頭堡を作ると取って返し金への侵攻を開始する。
この時は和議を結ぶが創建の地である満州を奪い取られほうほうの体で開封に遷都したら和約違反と詰られた上華北の大半を奪い取られ、黄河南側の僅かを保有する小国となってしまった。
このままだとあっという間に南宋に矛が向きそうなものだったが、この後は中央アジアのホラズム朝やアゼルバイジャン方面に駆けて行ったため南宋は一命を取り留めた。
なお中央アジアに陣取っていた西遼はひとたまりもなく通り道にされ滅び去った。諸行無常。

この間に河南の小国に落ちた金を攻め取る準備をするとか出来てればよかったのかもしれないが、前述の史弥遠独裁時代であり、逆に軍事力を損ねるような施策しか取っていなかった。
反史弥遠派の候補に変わって立太子され即位した理宗が即位した後も基本的に変わらなかった。

1227年に大英雄チンギス・カンには寿命が来たが、強固に構築された組織は揺らぐことがなく侵略を続行。
チンギス・カンの死の直前に侵攻を受けた西夏*36は降伏の後二代皇帝オゴデイにより皇室と民衆ごと抹殺という憂き目にあっていた。
そしてこの西夏遠征が終わると即座に金に対する最終戦争を布告し攻撃を開始。南宋はこれに乗ってモンゴルと同盟し、華北回復を企む。
海上の盟を思い出せ、という慎重論もあったが蹴っ飛ばされた。

最早河南しか持たない金であったがなんとか抵抗を試み、名将完顔陳和尚により勝利を得た時期もあったが、主力軍が三峰山の戦いに敗れて壊滅。陳和尚も処刑されてしまい抵抗力0となって1234年には滅亡した。
金最後の皇帝は即位後半日で最後に拠った蔡州が落とされたのちに捕らえられ即処刑となったので、中国大陸における皇帝即位期間最短記録など複数の記録を作るに至った。全く不名誉でしかない。
そして我らが南宋軍は例によってそんなに役にも立っていなかった。名将孟珙が金の国境警備隊を打ち破り補給を繋いでいたのがハイライトだろうか。

さて、モンゴル軍は目標も達成したので一旦北に退くが、宋を通しての悪い病気である異民族との約束鴻毛のごとし病の発作をよりによってモンゴル相手にやってしまう。
朝廷は軍部の制止を蹴っ飛ばし、和約を破っての北上を決断。条約ではモンゴルが取るはずだった開封を占拠したのである。バカかな?
こうしてモンゴルとの同盟は短命に終わり、1235年にはモンゴルの南征が開始、モンゴル・南宋戦争が開始するが、名将孟珙の必死の防衛線構築の前にモンゴルも手を焼き、中央軍を率いたオゴデイ嫡子のクチュが陣没。
さらに1241年には皇帝オゴデイも崩御し指揮系統が崩れたこともあり一時撤退、南征断念となった。

その後しばらくは、オゴデイの後継を巡りモンゴルは内部対立。3代皇帝グユクと一族の有力者バトゥの対立などで、内部の統制がうまく取れなかった期間が長く続き、戦争には間が開く。
その間の南宋はといえば、金が滅んだ頃から親政を始めた理宗が自らの傾倒する朱子学に基づいた政策を実施して
その高邁な理想と現実は全く噛み合わず失敗続き、それで政治にやる気を無くして宮殿造営マニアに堕すという最悪のパターンに入っていた。おおもう…

一方モンゴルは、1251年に四代皇帝モンケが即位するとモンゴルの政情も安定。モンケの弟クビライが総指揮官に任じられて1253年より長期戦略による対南宋侵攻を開始。手始めに雲南の大理を滅ぼし、高麗を本格的に服属させようとするなど周辺国から締め上げて孤立させようと企んだ。
が、兄のモンケは手早くパパっと真っ向から騎兵で粉砕しての制圧を望んでおりクビライは更迭された。…と思ったら後任のタガチャルの謎の撤退に激怒し解任。
クビライを再起用の上三方向、四川・鄂州(武漢、荊州方面)、広西の三方面から湖南地方に攻め込む大戦略を立て、モンケは四川方面軍を率いて親征する。
しかし急いては事を仕損じる、というのは本当なのか、1259年、モンケは四川で病気にかかり病死してしまい、再び南征は中止を余儀なくされた。*37

モンゴル軍は総指揮官・皇帝であるモンケを失ったため手勢を纏めて本拠に帰還することとなった。
その間に南宋では北方に帰還するクビライ軍を追撃して戦功を上げた武官で、孟珙の後任として対モンゴル最前線の大将であった賈似道が朝廷内で英雄として台頭。宰相に就任する。
戦前から理宗寵妃の弟だったため、最前線から朝廷内に介入し、誰もそれを無視できないという相当な権力を持っていたが、完全に一頭地を抜く第一人者として君臨することになった。
その後は他の武官を自身への功績集約の目的もあったのか些細な瑕疵もあげつらい免職・左遷など厳しい対応を取る一方、文官には優しく対応し、武官からのヘイトを買った。が、猟官活動*38や宦官の台頭は規制していた。
猟官活動は規制する一方で隠者になっていた学者を好んで登用したため、隠者にならないと登用されないのか?と訝しがられたという。
なお隠者の実務能力は軒並み低く、隠者を取り込む賈似道の器の大きさアピール及び自分がいなければ政治が回らないだろう?ということのアピールくらいにしかならなかったらしい。
理宗が崩御し度宗に代替わりすると私邸で側近と政治を行う体制を作り上げ、朝廷を追認判子押し機関に変えるほどの独裁っぷりを見せる。
その一方で骨董品やコウロギ相撲を愛し、自らの館で政を捌きつつ、趣味やエッセイ執筆にも力を注ぎ我が世の春を謳歌し続けた。

皇帝忠臣崖山に果てる

しかし、クビライが北方でアリクブケを撃破し五代皇帝となって後継者争いを終結させると、つかの間の栄華は終わる。1268年に三度目の南征が始まったのだ。
クビライは前回までの二回で、モンゴル軍の主力たる騎兵主体では長江以南を攻めるのは至難である、と判断。
司令官アジュ率いる少数精鋭のモンゴル騎兵団・金及び遼の遺風を継ぐ女真契丹らの兵団・中華王朝系といえる副将史天沢率いる旧華北軍閥*39歩兵団の三重構造による軍勢を編成し南征を開始。
前回の南征に対応した呂文徳の弟呂文煥が600万石の兵糧他膨大な物資とともに籠もる漢水北岸の樊城・南岸の襄陽を包囲した。

持久戦ならば中華の得意技…かと思われたが、クビライは前述の通り慎重な戦術を志向しており、華北の物資を開封に集積し補給網を構築してこの包囲戦に臨んでいた。
長大な土塁を築く姿を見て向こうが長期戦上等であると知った呂文煥、あるいは賈似道が朝廷に秘密裏に送った范文虎率いる虎の子の水軍が必死の攻撃を仕掛けるが
モンゴル軍は水軍の調練もしっかりしていたためすべての反攻は弾き返されて樊城・襄陽は孤立。
孤立無援となった呂文煥は必死で打開を図るが、クビライはじっくり攻める腹づもりで無理押しは一切しなかったため守り切られるという状況になっていた。
豊富な物資も五年もの長期に渡る戦いで底をつき始め、ついには包囲陣の只中に妻子を放り出してまで兵糧を節約し徹底抗戦するものの
クビライの弟フレグがアッバース朝などアラブ方面を制圧し打ち立てた国であるフレグ・ウルス(イル・ハン国)から運用要員ごと輸入した回回砲、トレビュシェットによる長距離砲撃を導入すると襄陽の士気はどん底に落ちた。
移動式のカタパルトのような中型クラスの投石機はあったものの、トレビュシェットのような大質量の巨石を長距離砲撃出来る大型投石機は中華に存在しなかったのだ。*40
その威力はあまりに甚大で樊城がまず陥落し、その後襄陽にも樊城からの砲撃が降り注ぎ逃亡者が相次ぐ事態となっては呂文煥も進退窮まり、1273年、襄陽防衛軍はついに降伏した。
因みにこの戦争の最中、1271年にクビライは新たに『大元』という中華風国号を制定している。この事はモンゴル皇帝政権が宋に代わる『中華帝国』としての外皮を纏うことを意味した。
まるで宋の時代の終焉を告げるかのように…


クビライは長期戦略によるじっくりとした攻めの他にも「心を攻める」ことを重視していたため、サマルカンド他ホラズム朝の各都市やバグダードを更地に変えるほどの虐殺や略奪を行って来たモンゴル勢としては珍しくそれらのことを禁じていた。
そういう点や賈似道に対する不満、援軍をちゃんと送られていなかったのでは?という疑念があったこともあり呂文煥は降伏後大元に仕えることを決断する。
クビライは襄陽での奮戦を評価しており即座に南征軍の将軍として取り立て、その呂文煥の調略や大元軍の寛容さもあって襄陽突破後は南宋の防衛網は弛緩。
これを見たクビライはバヤンにさらなる大軍を預け、本格的に南宋を滅ぼしにかかった。南宋軍は抵抗を試みるが、荊州方面の要所である鄂州が陥落。ここにきて宰相賈似道は大艦隊を率いて臨安から蕪湖まで進出。バヤンに使者を出し和睦を提案するが…
「長江を渡る前に提案すべきだったな。こちらはもう戦を辞める理由を失っている。そもそもこの期に及んで宰相殿自ら来ない時点で貴様らは終わっているわ!」とにべもなく蹴り飛ばされ開戦する。が、最後の大艦隊も大元水軍に惨敗。
賈似道は逃げ延びた上で臨安の朝廷に幼年の恭帝*41の臨安退避を提案する手紙を送るが
もはや賈似道に求心力はなく、腹心が賈似道派と見られたくないなどという理由で恭帝退避を却下。そんな場合でもあるまいに賈似道派と見られた連中は皆掌を返して極刑を提案する始末であった。
その後度重なる敗戦を罪に問われたがなんとか死罪は回避して流刑で済ませたものの、失脚した上流刑地に向かう途上に撲殺され、賈似道の栄華は終わる。
そして驀進を続け臨安に迫った大元軍はあっさりと無血で落城させた。1276年、事実上の南宋滅亡であった。
大艦隊が壊滅し、陸軍は大元の精兵に太刀打ちできずではもう抵抗する余裕は一切なかっただろう。

しかし、南宋に無限の忠義を誓う一部の忠臣は未だ諦めておらず度宗の三男と七男を連れて福州に退避し亡命政権を樹立。
三男を皇位につけて(端宗)巻き返しを図るが、前述の通り大元は心攻策を軸にして民を慰撫しつつ占領していったため南宋に対する支持は以前よりは薄くなっていた。
終いにはこの亡命政権も陸秀夫や張世傑ら主戦派すら意見をまとめきれずに一枚岩で立ち向かえない、そもそも手勢が大元軍に勝てるような数がいないなど問題山積状態でとてもじゃないが国家復興どころではなかった。
結局福州もすぐに追われ、海路広州に退避するが端宗の乗艦が嵐に見舞われ沈没してしまう。端宗は助けられたものの、海中にいたのが悪かったか病となり崩御するという悲劇に見舞われた。もはや天運すら味方しなかったのだろう…

こうして海を漂い崖山に追い詰められた南宋軍に対し、大元軍は総攻撃を仕掛ける。南宋軍も最後に残された千隻とも言われる軍船を持って最後の抵抗を試みる。
しかし衆寡敵せずついに抵抗力を失い、ここまで戦い抜いた将兵や官僚は次々と海に身を投げていった。その中には陸秀夫と兄の死後立てられた8歳の幼帝・祥興帝の姿もあった。
1279年、こうして幼帝入水の悲劇を最期に宋という国は本当に、僅かな命脈すらも断ち切られて表舞台から去ることとなった。

政治経済他

官制

当初は基本的に後周の官制をそのまま踏襲した使職体制を採用していた。が、唐代に律令体制が実態にそぐわないがために実働部隊として令外の官を増築していったものを
五代の混乱の中で変わる世情に対応するために更に複雑怪奇に増築した官制の九龍城砦と化していた体制であった。
宰相や執政といった官僚のトップすら人数不定でその時で増えたり減ったりする制度だったり、太祖の建国時にすでにして改革の必要性はあったと推察できるが、宋の基盤が固まっていないのに下手にイジるのはリスキーと判断されたかとりあえず続投となった。

しかしさらなる経済発展で経済担当部署の三司の権限が増大するにつれ異様に複雑化するなどの問題が発生し、運用すればするほど巨大かつ複雑な官制になっていった。
その後、神宗の元豊の改革により
  • 三省六部に再編、業務を時勢に合わせ整理
  • 肥大化しすぎていた三司の他部門への合併による廃止
  • 従来は人数不定であった官僚最高位である宰相・宰相次席の執政を2+4の6人に固定する
  • 上級職を除く人事権の吏部への集約
  • 寄禄官*42の整理・職権回復を含む見直し

などが達成され、官制は整理されてスッキリスリム化が成された。この体制は後続の大元・明・清でも修正を加えながらも基本体制として流用された。

南宋は元豊の改革を基本的に受け継いでいるが、秦檜や賈似道ら宰相やそれに準ずるものの独裁が頻発したのが特徴である。
とはいえ、宋は諌官や伴食大臣*43など御意見番系の人間による、時に時勢や現実にそぐわない的はずれな諫言や
政権に携わる官僚の政敵の讒言に皇帝がうっかり同意するようなことがあると人事や政策がひっくり返るのは日常茶飯事だった。
独裁権でも握らなければ些細な瑕疵を咎められて政権を失う可能性はそれなりに高かったため、政治の安定を高めるには仕方がない部分はあるのかもしれない。

基本的には講和を結んだ後も大規模な戦闘が無いだけで国境地帯は常に臨戦態勢になっており、大軍を養う必要性があった。
そのため、国家予算のうちかなりが軍事費に投入されていた。新法の施行による財政再建は国境地帯を防衛する上でも必須だったのである。

徴兵制ではなく俸禄を払い雇う傭兵制で、禁軍・廂軍・郷軍の三軍に分けられていた。
傭兵制だったため異民族も参加しており、中には日本人とおぼしき兵も混ざっていたことが記録されている。
禁軍はいわゆる主力軍で、精鋭中の精鋭の騎馬兵と大多数の歩兵が占めていた。
歩兵は対騎兵ということで年を追うごとに飛び道具が増え、南宋末期にはほとんどが弩か火槍や震天雷を使っていた。
廂軍は禁軍の基準を満たさない落伍兵や犯罪者、浮浪者で形成された軍で、基本対外戦争ではなく国内の警察力として治安維持や雑役に駆り出された。
しかし水軍においては彼ら廂軍が主力を担った。当時の軍船は漕手が多数必要だったためまあそういうことであろう。
郷軍は地方政府の選抜した傭兵で、禁軍の補助を務めた。
禁軍と廂軍には昇降格が存在し、スタートが禁軍でも弱っちいと廂軍まで落ちることもあったし、逆に廂軍スタートでも武勇に長けていたりすれば禁軍に昇格出来たりもした。

待遇はそこまで良かったわけではなさそうで、逃亡防止の為顔に刺青を入れられるという犯罪者にやる扱いをされたりしたのもあってあまり人気のある職ではなかった。
「良い鉄は釘にならず、良い人は兵にならず」と言われたくらいで、質の低さは大問題であった。
一方60歳(後に有能な人材は65歳まで)で満期退役後も剰員として軽い仕事をして稼ぐことも出来たし
傷病でやむなく退役した後、戦死後には遺族にも不十分ながら国から年金が与えられていたという。
兵士になると実質国にずっと面倒を見てもらえるということである。不十分とはいえ近代軍制に近い保障制度があるのはなかなかすごいことである。
ただし前述の通り、西夏や遼、金の国境には大規模な軍団を貼り付けていたため、保障費や現役世代への給与支払いで恐ろしい勢いで国庫負担は増えていった。
そのせいか明や清ではこの保障制度は受け継がれなかった。

質の低さに加え、将軍も兵士も一定の年月で異動を繰り返したため、将軍も兵士も互いの事をよく知らず
意志疎通が弱いため軍としての柔軟さに乏しく、優秀な将軍を以てしてもその戦術を実行することが難しい軍であったという。
しかし軍閥化はほぼ防ぐことが出来ていたため、内乱防止という点ではよく出来た制度であったといえる。良いのか悪いのかは…

軍のトップは当初は枢密院のトップである枢密使で、これは文官が就く職であった。
その下には武科挙*44出身の武官が役職に就いていたが、基本的には文官が統制していた。
枢密使は宰相に並ぶ高位であり、出世の頂点に位置する役職であった。*45

また、枢密使は軍政トップであるが実際に兵の統帥権を持っていたのは殿前司、侍衛馬軍司、侍衛歩軍司の三衙と呼ばれる部署が持っており
これらも皇帝直属であった。それぞれ近衛軍、騎兵、歩兵の担当である。
しかし南宋の時代になると地方軍を指揮する役職が生まれ、三衙は形だけの存在となっていった。

結局、宋代は最期まで兵及び軍の低質さはどうしようもなく、そのせいで下記の通り外交上でも優位に運べることはあんまりなかった。
国家の滅亡は基本政治の責任ではあるが、当時の情勢を鑑みるに軍がここまで敵国比で弱いと軍のアレさも片棒を担いだのは残念ながら確定的である。

外交

唐代までの場合、近隣に対しての基本スタンスであった冊封体制や羈縻政策は外交というよりは支配する、
あるいは貢物持って来たら君等の支配権を認めてあげるし攻めないでやるよ、という趣が強いものであった。
抜きん出て国力が高く軍事力でも互角以上で圧をかけ続けられるからこそ出来た超ウエメセ外交だったといえる。

ところが宋の場合、軍事力が周辺民族に比べて相当弱体化し上から目線ではいけなくなってしまった。
一方経済力では上回ったため、結果的に金やモノで釣って講和を結び平和を買い付けるという手法を取ることが多かった。
外交で平和を創る、といえばまあ聞こえは良いが唐代までは圧倒的超大国として一方的に行けた事もあって、鬱屈を抱え込んだのは察するに余りある。
この鬱屈とかつての大国のプライドなんかが土壇場の外交判断で致命的なミスを繰り返す理由になったのかもしれない…

燕雲十六州を巡り建国時から対立。太宗は北漢併合後奪還戦を仕掛けたが惨敗。遼が当時内紛中で中原進出どころではなかったため事なきを得た。
その後は真宗の時代に澶淵の盟を結び、休戦したが基本的には「カネで平和を買いながらスキを見て領土を取りに行く」スタンスであった。
カネで平和を買う方はだいたい成功裡に終わっていたが、領土を取りに行く方は概ね失敗した。軍が弱すぎる。おかげで平和代が増額されたりもした。

しかし歳幣や民間交易を重ねる内、貴族が宋由来の贅沢品に慣れて過剰に嗜み始めたために服属民族に重税を課すようになっていった。
特に喫茶の習慣が根付いたのは致命的で、茶葉は宋から輸入するしか買い付ける手段がなかった。
そうこうしている内に軍も遊牧民特有の餓狼の気風を失い弱体化。
かつて滅ぼした渤海の領域に住んでいた女真族怒りの蜂起を受けるが一方的に蹂躙されて押し込まれる。
そこに宋は海上の盟を結び女真族側に寝返った。…が結果は歴史の方に書いた通りのオチであった。

とはいえ、遼という国自体は経済的依存を高めた上で弱らせ、他の異民族の女真を利用し破壊することには成功した。夷を以て夷を制すというヤツである。
宋軍の軍事的脅威が北方民族的にはほぼ全くなかったがために燕雲十六州奪回どころか金の猛攻による華北失陥を招いたが、割といい線までは行っていた。
残念なことに徽宗が堕落した政権運営をしたため、ただバカみたいに先も読まず約束だけを破り続け終いには華北を失う羽目になったが
神宗のような政治意欲が高く尚且つ結果を出せていた皇帝の治世であれば宿願達成もワンチャンあったかもしれない。

この後、遼は西遼として中央アジアに逃れ宋は南遷し南宋となって国境線を接することはなくなり関係は途絶した。

西夏

当初は従属国と宗主国的な関係性であったが、塩の専売制度を整備し価格統制を始めた宋が安価だった西夏産塩の受け入れを全面拒否する。
主力輸出品を潰されて怒った李継遷は遼と組んで侵攻を開始。
李継遷が戦傷が悪化し亡くなり、子の李徳明に変わるなど激しい戦いになった。
しかし遼が澶淵の盟を結んで離脱するとこちらも一旦講和するが、李徳明の息子李元昊の代に変わると一転し再度侵攻を開始。
宋軍は例によって弱く西夏に押されっぱなしとなったが、西夏も宋との交易が断たれて経済面で苦境に立ったため慶暦の和約を結んで講和した。
なお、塩の輸出だけは受け入れられずじまいであり西夏は不満を持っていたため対遼に比べても国境地帯は不安定であった。
新法派は西方に拠点を作り西夏を牽制するが、旧法派はその経営を放棄するなど新法旧法の争いは対西夏外交にも影を落とした。
最終的には宋の南遷により国境線を接することはなくなり関係は切れた。

海上の盟から始まるが、宋が欲をかいて盟約を反故にすることが著しく、金の怒りを買い華北を奪い取られ、南遷する羽目になる。
その後も中国人がもっとも敬愛する英雄・岳飛の抗戦、海陵王の南征、南宋からの侵攻戦である開禧用兵など何度も交戦したり和議を結んだりを繰り返す。

そんな中、経済戦争では例によって南宋が圧勝。金国内でも人口で圧倒的優勢な漢人が女真族を圧倒し一部の貴族以外が没落するような事態になり
さらに中華かぶれの皇帝が漢化政策を進めた結果軍が大きく弱体化。
そうこうしている内にチンギス・カンがモンゴル帝国を樹立し金を激しく攻撃し始めると例によって南宋はモンゴルに歳幣を贈り同盟を結び、金を挟撃することを計画。
金の怒りの出兵を退けモンゴルと本格的に同盟し出兵、最終的にはモンゴルの猛攻で金は滅亡する。

遼同様に経済依存を強めて尚武の気風を堕落させ、他の夷狄を利用し破壊したという形にはなる。
ただし今回利用した相手は同年代世界最強ともいえる精鋭を擁し、金を滅ぼした段階でモンゴル高原の他にも旧西夏領や中央アジアを手広く支配しており
自前で大きな経済圏を持っていたモンゴルであったため三回目はなかった。

ちなみに金との物資のやり取りは北宋時代の国内物流と大差がなく、国内で南北回送するか国境を通るので手数料や関税を取られるくらいの違いしかなかったという。

モンゴル・大元

当初は同盟して金を共に滅ぼすが、開封欲しさに背信。時の皇帝二代目オゴデイは激怒して南宋と戦争状態に入る。
前述の通り、クビライ以前は地勢を活かした防衛と指導者が戦争中に倒れる運もあってギリギリでこらえたものの
クビライの代に南宋がオゴデイ期に奪還した重要拠点襄陽・樊城を攻撃。陥落させると一気に臨安まで突き進み南宋は滅んだ。
クビライはモンゴルとしては穏健な攻め方を志向したため、臨安陥落時に捕らえた皇帝や皇族は厚遇したという。
それでも大陸でゲリラ戦を繰り返した文天祥や崖山まで抵抗した陸秀夫ら南宋遺臣が長きに渡り反旗を翻し続けた。

前述の通り、南宋を陥す前にすでに大きな経済圏を持っていたためすぐに経済戦争を仕掛けるスキがなかった。
軍事力も当然のごとくどうしようもない差があった。水軍など勝っている部門もあったがすぐにリードを縮められてしまう有様だった。
最終的な責任者のクビライが中華を知悉したタイプだったのも南宋にとっては不幸であった。
それでもしばらくは耐えられたあたり、騎兵の江南地形適性の低さがうかがえる。

高麗

唐末~五代十国の動乱初期に朝鮮半島でも新羅が大きく弱体化し動乱に突入。その後王建が打ち立てたのがこの高麗である。
五代に朝貢し、宋にも早々に朝貢国として取り入っており交流が持たれていた。
しかし遼の攻撃の前に宋から遼に宗主替えし、しばらく宋との関係は断たれる。
神宗期に非公式の使者が送られたのをきっかけに宋との関係は回復。遼と宋の両方に朝貢することとなった。
その後は両方の子分であることを生かした仲介貿易で多大な利益を獲得した。
しかし南宋となったあとは関係が切れ、金の朝貢国、後にモンゴルに蹂躙され王族がモンゴル貴族化するなど中華との繋がりが大幅に弱くなった。

日本

南宋が滅亡するまで公式なやり取りはほぼなかったが、商人が博多や敦賀に来航して貿易を行っていた。
日本側も平安貴族文化の爛熟期に入った頃合いで貴族からの舶来品需要が高まったということもあり、民間交易は非常に盛んになっていった。
北宋時代は日本特有の工芸品・金銀といった鉱物、宋からの磁器や絹・書籍・銅銭のやり取りが多かったが、南宋になった後、日本の主力輸出品は大陸の資源枯渇に伴った木材となり、
宋の輸出品には華南の風土病に対応するべく急速に進んだ医術を取り入れるため医術書・薬の輸入が多数加わった。
徒然草にも「唐の物は、薬の外に、なくとも事欠くまじ(訳:中国からの舶来品は薬以外特にいるもんでもないね)」と記載があるほどで、当時の日本の医療は宋からの薬がなければ成り立っていなかったのがうかがえる。
代わりに華北を失い鋳造が難しくなった銅銭が外れた。

武家時代の到来にも日宋貿易は大きな影響をもたらしており、初の武家出身高位貴族となった平清盛を出した伊勢平氏は
敦賀のある越前守であった平忠盛の代に日宋貿易で輸入した舶来品を白河法皇に進呈し近臣となったのが繁栄のきっかけであった。
清盛の時代にはより日宋貿易を活用するべく都を摂津国福原に移し、瀬戸内海に面した港である大輪田泊を大規模開発する計画をぶち上げたこともあった。

初の武家政権である鎌倉幕府は経済に疎いイメージがあるが、禅宗の庇護者として宋から名僧を多数招聘するため民間交易については特に統制はしなかった。
自らも公認の建長寺船や御分唐船といった貿易船を送ったという。
この日宋貿易や、少し前の時期に別枠で東北から貿易を行っていた奥州藤原氏の存在があったが故に目をつけられ、元寇が始まったという説もある。
南宋が滅ぶまさに寸前まで日本とはやり取りがあり、正式な国交こそなくとも木材供給地などとして存在感は高かったと見られるので、クビライとしては南宋攻略のために潰しておきたい国だったのだろう。

新法

王安石らが政治改革の柱として制定・施行した各種法律。代表的なものを紹介する。
  • 青苗法
宋は飢饉時や貧民救済用の備えとして各地に専用の倉を設けていたのだが、運用が不味い部分が多く無意味に腐らせる事が多かった。
そのため、平時にこの蓄えを運用して貸付を行い財政再建の一助とするための法である。
基本は貨幣で貸付を行い、穀物で返済する方式であったが望むものには穀物を貸付し、貨幣で返済する形もとった。
ちなみに利息は三割なのでなかなか苛烈。後述する1保をベースにした連帯保証制度を作るなどして踏み倒しを防ぐ仕組みも導入された。
  • 募役法
地主階級は様々な徭役、つまり税としての労働を課されていたが負担が異様に重い上、万が一失敗して損害を出した場合全額補償を求められるものであった。
さらには地方官や胥吏に賄賂を求められるなど金銭負担が異常に大きく破産する地主すら現れる有様であった。
そこでこの法律は徭役をカネを払うことで免除し(免役銭と呼ぶ)、代わりの人間を政府が雇ってやらせる制度である。
ちなみにこの法律ではついでに今迄職役免除されていた官戸(官僚を輩出した家)や寺院、都市住民、独身男性、女子供しかいない家からも免役銭の半額を徴収するようにした。
その手の税負担が一切ないため科挙に遮二無二なって見事税負担0を勝ち取っていた官戸にも負担を強いたため旧法派から苛烈な攻撃を受けた。
  • 農田水利法
黄河や長江の氾濫で破壊されやすい堤防や水路、水田の復興に関する法律。
徽宗期にはこれが悪用され、花石綱運びのための一回限りの輸送用の無駄な新規水路引きなどに濫用されてしまった。
  • 均輸法
当時大商人が握っていた物流を政府が管理し、中央への上供品の回送を政府が行い収入の効率化や物価統制を行う法律。
しかし旧法派の激烈な反対で頓挫してしまった。
  • 市易法
均輸法リベンジで作成された法律。
物価の決定を政府公認の商人組合に任せる制度と中小商人や都市住民に貸付を行う制度の二本立て。
物価の安定と財政再建のための財源を補うための政策であった。が、当初は担当者が押し貸し紛いで拙速に施行しようとしたため大混乱を招き王安石の失脚の一因にもなった。
しかし軌道に乗ると景気拡大に貢献し、保甲法や倉法といった他のカネがかかる施策の財源に当てられるようになるほどの運用益を叩き出すようになった。
  • 倉法
胥吏に給与を払い、賄賂を受け取った場合厳罰に処す胥吏の悪行防止のための法律。
市易法の運用益で給与分の財源を確保し軌道に乗るかと思われたが、士大夫層の反対で廃止となった。胥吏が賄賂を渡して抵抗したのだろうか。
  • 保甲法
農村共同体の再生と軍事改革の側面を持った政策。
10戸を1保、5保を1大保、10大保を1都保として共同監視させて保の中から犯罪者が出た場合共同責任とするなど共同体としての繋がりを作る。
さらには保のなかで簡単な軍事訓練を行い、いざというときに民兵に出来るように仕立て上げるもの。

他にも様々な政策が実行され、神宗期の国力充実に一役買った。
が、農田水利法のように徽宗期に悪用されるなど新法派政権が最終的には北宋滅亡を招き
南宋では旧法派系が政権を握ったこともあり南宋では否定的に扱われることになった。
文化面でも高名だった王安石こそ回避したものの、新法派のリーダー格の官僚は概ね史書において佞臣伝に名を連ねている。
とはいえ、募役法などはすっかり定着してたため敢えて廃止をされることはなく、王安石アンチともいえるスタンスの朱熹も地方時代に青苗法に似た政策を実行しているなど世情に合った改革であったとは思われる。

科挙

唐代までは貴族が人事権を掌握していたためなかなか科挙出身者が出世を果たすことは末期までほぼなかったが、貴族階級の消滅に伴い、科挙出身者が必然官僚組織の中枢に座ることとなった。
これにより、幼い頃から勉強漬けが必須条件である科挙受験者を養える大地主・大商人・官僚の子息が科挙を通過し貴族に取って代わって政治を司り、そして富を集積していった。
ただし、貴族とは違ってその世代で男子の人数が0だったりあるいはボンクラだらけだと地位を失ってしまうため、血縁で生まれながらに一定の地位が保証され、養子縁組などで家を繋げば最低限権威を繋げる貴族ほどには絶対的な地位保証はなかった。
そのため士大夫層と呼ばれる階級を維持するには一族より進士を輩出し官僚とするしかなかった。
特に高い権力を持つには出世が約束される成績上位の三名、すなわち三元と呼ばれた一位状元・二位榜眼・三位探花の称号を獲得し初動で優位に立つ必要があった。

しかし朱熹のように19で進士となるのは天才と呼ばれる存在のみで、40代近く、中年になるまで落ちるのはザラという厳しい試験であった。
科挙に何回も落ちた場合救済措置としての任官制度で官僚になることも出来たが、当然出世は全く出来ないので進士になるまで受験するのが普通である。前述の通り金がなければとっても合格出来やしない。
そのため士大夫層やそこを目指す地主や大商人は共同財産を費やして塾を開き一族から合格を出すために必死になった。

苛烈な競争の結果、一族の財産が尽きたなどの経済的理由でドロップアウトを余儀なくされたり、一族ぐるみのプレッシャーに耐えかねて精神を病んで自殺したり、勉強漬けで過労死したりとあまりにもあんまりな残酷な地獄絵図が展開された。
命懸けで一族繁栄を賭けて臨む試験であったため、カンニングを試みる者や試験官買収を企む人間も出て来る始末。
答案の氏名を糊付けし名前の漏洩を防ぐ糊名法や、筆跡から人物を特定し贔屓するのを防止するため答案を第三者が書き改め、その答案を採点する謄録法などを使って不正防止の手は打っているが不正とはいたちごっこ状態であった。この状態は後世にも継続されていく。

宋代の目立った改革として、裏切り防止策の一環で唐までの解試(地方試験)→省試(全国試験)に加え、皇帝自ら執り行う面接試験である殿試の導入を行った。
「皇帝が最終的成績順位、出世の上で一番大事な要素を決める」
この工程を加えることで皇帝に忠誠心を集める仕組みを加え、皇帝なしでは出世も栄達もありえない、という要素を付け加えることで裏切りを防ぎ皇帝専制体制を固めた。
でも汚職はするし、一族繁栄重視で国益を無視することもある。仕方のない連中である。

当初は複数の科目が存在したが、神宗の時代には王安石が科目を進士科一本に絞る制度改革を実施。
詩作重視のきらいがあったため、実務能力の足りない人材の採用が多かったのを是正するべく経書・政治・歴史にまつわる解釈・論述問題重視に切り替わった。しかし司馬光が政権を取ると詩賦受験も復活している。
この詩文重視や科挙そのものの問題としてずっとあった試験至上主義がはるか先の時代に実務能力の欠如を招き中華帝国を終わらせることになるのだが、まあそんなことは予知できまい。

胥吏

しょりと読む。科挙に合格した官僚は地方や中央で業務に励むわけだが、その手足として機能した存在である。科挙官僚の誕生と軌を一にして生まれた。
現代日本でいうと科挙官僚がキャリア官僚、胥吏が時給労働の臨時職員、みたいなものだろうか。
元は民間から徭役として都度徴発していたのだが、法執行や徴税など専門的業務は慣れた人間を継続して雇うことが多かった。
そのベテランが家族や徒弟を取り業務を受け継がせるという形で利権にし、家族や一族ぐるみで続けるということはよくあった。

基本的には徭役、税の一環である無償労働であるので無給だったのだが、官僚は数年で任地を変えていくため実務能力において手慣れた胥吏に劣る場合が大多数で
また人数も当然実地で業務に当たる胥吏が頭となる官僚よりも多く、胥吏なしで業務は回らなかった。
そのため、胥吏はなんだかんだと言って官僚から手数料を貰ったり、民衆から官の代行者として搾取。こうした不正な収奪で富を築く者が圧倒的に多かった。
官僚からも手数料として奪う一方で、胥吏としての地位を守るために上役の官僚に上納金を支払うこともあった。
こうして胥吏は官と癒着して民に暴虐を振るう病巣的存在となっていった。

これを重大視した王安石は胥吏に給料を支払い、手数料名義での収奪や贈賄に厳罰を課す法律を制定してなんとかやめさせようとしたが、買収されたのか士大夫層からの反対で失敗に終わった。
胥吏による収奪は清の末期には旧弊の象徴として罵倒されるまでに根付き、行政制度上の害悪として民を苦しめ続けた。
王安石の施策が定着していれば、中華の歴史は良くも悪くもだいぶ変わったかもしれない。

ちなみに、今でも公務員を指して使われる官吏という言葉は官人(官僚)と胥吏の合成語である。

経済

農業・漁業

江南の米収穫量が格段に増加。「蘇湖熟れば天下足る」と言われるほどに発達し、食料面でも江南が中枢を担うに至った。
ベトナムから導入された占城稲や農具の発達、積み重ねられた経験則から二毛作や二期作が行われるなど様々なことが江南の生産力を大幅に高めた。
こういう積み重ねがあったため、南宋になっても食料生産力で困ることはほぼなかった。
とはいえ、旱魃や長雨、暴れる長江といった大自然にはさすがにそうそう勝てるものではなかったが…

他にも販売用のゴマやエゴマといった油脂の原料やウリやスイカなどの野菜・果物・茶の栽培なども盛んであり
油脂類や野菜は国内で、果物や茶は贅沢品として輸出品にもなるなど経済を支えた。

漁業では通常の漁獲に加え養殖を通じて安定供給を図る試みが行われ、現代にも「四大家魚」として伝わるアオウオ・コクレン・ハクレン・ソウギョ、他にコイが盛んに養殖された。
この四大家魚*46は纏めて養殖が可能ということもあり、唐代から養殖されていたが
宋代は植物性の餌を食うソウギョの稚魚を水田に放ち雑草を処理させるなどの方策が発達しより洗練された体制で安定して養殖されていった。

農業と兼業で行われた養蚕業、そこから作られる絹織物の販売は宋の主力産業の一つであり、歳幣で他国に送るなど需要も高かったため盛んに行われた。
品質では華北や益州のようにはるか昔からずっと行われている土地が名高い存在であったが、生産量の面では気候に恵まれて年に多くの回数繭を収穫できる江南が抜きん出ていた。
華北を失っても輸出品として強気に出られたのはやはり江南の生産力の賜物だろう。江南ってすごい。
餌は自前で桑の木を育てるかシーズン中に使う分の葉を買うかの二択であったが
宋代の商業の発展により、養蚕業に使う桑の葉は投機対象として資金が投入され暴騰することさえあったという。

茶・酒・塩

宋代には染料用のミョウバン、輸入品の薬、宝石などと並んで茶・酒・塩が政府専売品として財政を支えた。
が、経済の進展とともに嗜好品の需要も増えたため専売品を扱う商人の権力が大きくなっていく。
特に塩商人と茶商人は暴虐を振るうレベルにまで成長。塩商人は宋以降の王朝でも蓄えた富で地方政治に積極介入し壟断。
高利貸しと士大夫と王朝社会の三悪とまで称される邪悪となっていく。

一方茶商人は本格的な専売制度を断念させるほどに制度を悪用し富を集積。
ときにはその過程で生産者に回る利益すら減らし、廃業に追い込む例が多発するという暴虐っぷりであった。
手を焼いたため政府専売を諦めた後、販売許可料や利益に税金をかけるなどの手法で少しでも多く回収する制度に切り替えたり紆余曲折があった。
最終的には専売制度が復活したものの収益は塩のそれと比べると少なく、闇販売を取り締まる役人を殺害するため武装したり私兵を養う茶商人の前には大変苦労を強いられた。

なお、塩の専売については塩の輸出が主力産業の一つであった元従属国西夏との決裂の原因にもなっている。

貨幣

基幹通貨は銅銭であったが、四川や陝西など国境地帯では銅の敵国への流出を防ぐべく鉄銭が利用され、また海外との取引に政府による管理貿易以外での銅銭使用は禁止されていた。
宋の鋳造権が確立されていた*47銅銭については厳密に鋳造量が決まっていた。

王安石は改革の一環として、国庫で持て余していた銅を銅銭として大量鋳造し差益を得ることとし
同時に従来禁止であった私貿易における銅銭輸出も解禁し積極輸出に切り替え、国内への銅銭過剰供給を防止した。結果遼や西夏、日本や東南アジアなど各国にも宋銭が流通し取引が活発化。
周辺国にも波及するほどの好景気と貿易拡大による人的交流・物流の活発化で国境地帯の安定化や税収の大幅増を招来し、新法の改革財源確保や正当性確立に一役買ったりもした。
新法派は王安石の成功に習い銅銭を大量鋳造したが、徽宗期には各地の銅山が枯れて鋳造量が減ると
流通が減ったことで周辺国から発生した不景気が宋に跳ね返り、暴政とも相まって国内の大混乱を招き北宋の滅亡要因となり、南宋で新法派がクソミソに言われる原因にもなった。

南宋では鉱山の枯渇や戦争による鉱山の荒廃、金属加工の熱源になっていた石炭鉱山の多かった華北失陥などで銅銭鋳造量は大幅に減退する。
そのため銅銭の主力貨幣として扱うことを取りやめ、後述する紙幣が貨幣としての立場を大きくしていく。

経済の発展により多額の銅銭や鉄銭を得る商人が多かったが、持ち歩きや保管に一苦労するという事例が多かった。
特に重たい鉄銭を使用していた四川地方では馬鹿にならない負担になっており、解決策を見出すべく唐代の手形にならった鉄銭の預り証を発行。それを鉄銭の代わりとして決済に用いる方式が採用された。
これが世界初の紙幣・交子の始まりとなった。当初は成都の交子鋪16戸が合同で発行し、宋がそれを追認した民間紙幣であったが
交子鋪が事業に失敗し不払いを起こしたのをきっかけに政府がその事業を承継し全土に広めたことで一気に普及した。
当初は兌換紙幣、つまり銅銭や鉄銭と交換できる期限付き手形であったのだが、財源確保のため乱発すると価値が落ちていき、準備金を遥かに上回る発行額となってしまって兌換制度も停止され徽宗期の前半には流通が止まる。
しかし後継として銭引が、南宋でその銭引が暴落すると会子が発行されるなど、お手軽に発行できる財源としての紙幣の流れは続いた。特に南宋では銅銭の大量鋳造が難しくなったためなおのこと紙幣が主力となっていった。
純粋な通貨としての紙幣は華北の銅不足で銅銭大量鋳造が難しかった金において発行され、元にも受け継がれた交鈔が世界初となる。

司法

当初は五代の荒んだ世情に合わせ一銭盗んだだけで死罪など無茶苦茶な状況だったが、徐々に是正されていった。
それでも唐代より概ね刑罰は重かったという。
宋代の特筆すべき点はそれぞれ独立した警察が逮捕、検察が訴追、裁判所で判断するという体制が完成していることだろうか。
この年代としては珍しく兼任は厳罰に処され、完全に独立した存在であった。
さらには上告の権利があるなど、司法面ではすでに現代に近い形が出来上がりつつあった。
厳正かつ公正無私の名裁判官包拯のような存在が長く語り継がれる存在となったり、訴訟ゴロが出現する、訴訟合戦が激化し健訟と呼ばれる状況が出現するなど裁判が身近なものとなっていった。
ちなみに包拯は日本的には知名度が低いが、中国では水戸黄門や大岡越前、あるいは遠山の金さん的な人気を誇っている。
また、刑法にあたる律は社会情勢に対応しきれていないものは勅により逐次改定され、判例から判決を下すことも多くなっていった。
そのためか判例集、当時の呼び名では断例集が発行されている。

技術

世界史に大きな革命をもたらした技術が発明されている。
まずは火薬であろう。唐代にはすでに原型となる技術が発達していたが
手持ち式の火槍という火薬兵器や投石機用の弾として火薬を仕込んで炸裂させる霹靂砲などの兵器にまで昇華させたのは宋代の技術革新による。
モンゴルとの最終戦争期にはモンゴル側も震天雷という火薬を炸裂させる爆弾を使用するなど、南宋期には中国大陸でメジャーな軍事技術となっていたようだ。
元寇の際に大元軍により使われた日本名「てつはう」と呼ばれた爆弾は震天雷のことである。

方位磁針・羅針盤が発明されたのも宋の時代である。陸のシルクロードを塞がれたが故、華南から船を出しての南海貿易が主力となったためだろう。
中国には古来より指南魚という簡単な磁力を応用した方向を知る機構があったが、それをより本格的に改良し、より実戦的に仕上げたのが方位磁針・羅針盤である。
これにより航海術は大きく発展し南海貿易の効率は大幅アップ。全財産を賭した長距離航海に見事成功しボロ儲け、大金持ちなんて例も出たりしたという。

これら2つは大元によりユーラシア大陸に伝播。大航海時代を招来することとなる。

唐代には活用され始めていた活版印刷技術が完全に確立し民間にも普及したのもこの時期。
国家による出版の他にも民間でも様々な書物が出版された。職を辞した士大夫層が自らの考えなどを纏めた本を出版するなど活発に出版が行われた。
しかし宋代は民間の出版は統制されており、弾圧の対象となっていた。それでも活発な出版活動は止まず
南宋期には臨安に常設の本屋が出来る、つまり商売として確立されたほどの浸透を見せた。

陶磁器製造においても技術は進展しており、石炭を積極活用できるようになった窯の火力がアップしたこともあり硬く美しい陶磁器を製造できるようになった。
江南の大発達で華北の立つ瀬がなくなっていった時代ではあったが、陶磁器については華北がまだまだ中心だったという。
唐以来の華北の白磁、江南の青磁が有名であったが釉薬を使った黒や紅の釉器も流行した。
宇宙世紀においてもあれはいいものだと言われるほどの美しい名品が数多く生まれた。…というのは冗談にしても、国宝や重要文化財級の評価がされた代物は日本にも多数ある。

美術品としても通じる美しさと日用品としての強度を兼ね備えた陶磁器は貿易品目としても有力となり、各地に輸出され当地の陶磁器にも大きな影響をもたらした。
また、400年ほど先になるが日本で大流行した茶の湯において高級茶碗として重宝された天目茶碗は天目山の禅寺に留学した禅僧が喫茶の習慣とともに持ち帰ったものが結構ある。
特に最高クラスのものと謳われる曜変天目茶碗の国内に現存するもの、国宝指定されている3つはすべて南宋期の作品である。

文化

思想・宗教

儒教

この時代は科挙を受けて士大夫になるという図式が完成された時代であり、そのため儒教に対する考察もまた進んだ。
具体的には「理」を追求する方向に進み、北宋代には程顥・程頤兄弟の洛学、のちの道学や蘇軾・蘇轍兄弟の蜀学などが登場した。
特に洛学は後世の新たな流れに連なる重要な存在となった。
…が北宋代では地方名が付いているように官僚同士の政争の種になるような事もあった。
時期が新法旧法の争いの時期だったのが良くなかったとも言える。

その後、南宋の時代に道学を学んだ朱熹が禅宗や他派の教えをも一部取り込み体系化した学問として道学を大成させた。
これ以降の中華帝国の思想の根本を成す存在となった朱子学である。
だが朱熹自身は高邁すぎる理想と頑なな性格から官僚としては不遇のままこの世を去っているし、生前は韓侘冑により朱子学は弾圧の対象とされた。
しかし、韓侘冑自身は朱熹の態度が気に食わないからコイツも弾圧したるわ!くらいの考えでやっただけだったためか
韓侘冑死後朱子学は復興し、理宗に至っては信奉者となって政策に反映するほどであった。
科挙の基本的な考えとして国学となるのは大元になって科挙が復興してからとなるが、南宋初期~中期きっての碩学であった朱熹の思想は南宋後期にはすでに士大夫に受容され広まっていたと見られる。

仏教

唐代にピークを迎えた仏教。北宋期はインド仏教が決定的に衰えて消えていく時期と重なったこともあり
逃げ出してきた名僧を保護し、大規模な訳経が行われ大蔵経などたくさんの経典が翻訳されるなど活発な活動は続いた。
士大夫には禅宗、特に臨済宗が受け民衆には救済推しの浄土教が流行った。余談だが日本でも同時期に法然や親鸞が出ている。

また天台宗から分岐した白蓮宗が生まれたのも宋代。天台宗はいっつも変な仏教生んでるな。
後世弥勒下生や呪術的要素、マニ教などのエッセンスを取り込み、革命志向の宗教結社・白蓮教へと変質していった。
この白蓮教がモンゴル支配を打破するうねりを起こし、そこから世界史上最も最下層から世界帝国の主となった朱元璋が誕生するがそれはまた別の話である。

道教

真宗や徽宗は重用したものの、形の上では儒教仏教と同列に扱われることが多かった。
徽宗の時代に皇帝に侍った林霊素は5年程度しか寵愛されなかったものの、恐ろしい勢いで教団が堕落していったため新たな道教を開こうとする者が現れた。
金に支配された華北では様々な新道教が生まれ、その中には現代の主流ニ派の内の一派・全真教もあった。
南宋になると張魯なんかが有名な五斗米道の流れをくむ正一教が時々皇帝に召され、様々な儀式を行ったという。が、そこまで庇護はされなかったという。

文学

唐代ほど隆盛はしなかったものの、士大夫の基礎教養の一つであったこともありそれなりに繁栄はした。
北宋では学者や官僚としても名を馳せた蘇軾を筆頭に、古文復興運動を行った欧陽脩、王安石らが代表格として挙げられる。
南宋でも政情が安定すると科挙一次試験で秦檜の孫にうっかり勝ってしまったがために官僚としては不遇に終わった陸游を筆頭に様々な詩人が誕生した。
末期に亡国の悲嘆を詠った文天祥も有名である。

宋代にもっとも発展したのはこの分野。「歌詞」という言葉が現代普通に使われている通り、宴席で演奏される曲につける詞のことである。
唐に興った文化だが、宋代は俗っぽい題材も解禁され様々な詞が生まれた。
文学面でまさに巨人といえる活躍をした蘇軾がここでも筆頭格として現れるが、特筆すべきは女流の李清照だろうか。
靖康の変に巻き込まれ夫も家財も何もかもをなくし、再婚にも失敗してしまうなど流浪の人生を送らざるを得なかったが
その悲嘆などから編み出された詞は当時の女性の扱いを考えるととてつもない高評価を受けている。

形を重視した唐のスタイルから個人の意志や精神性を押し出したスタイルに変化したという。
またおまえか!とも言いたくなるが書家としても蘇軾は著名であり第一人者と言える人物である。
他にも書の分野では徽宗・蔡京の北宋滅亡の戦犯二人が名を馳せている。
前者は痩金体という新たな書体を興すなど書家として超一流であり、後者は唐以来の書式を継ぐ書家として高名であった。
が、蔡京は当時は名手と言われたが今は書体への批判も多い。
宋の四大家には一族に当たる蔡襄が入っているが、本来は蔡京が四大家に入っていたと推定されている。

講談

唐代は寺が仏教講話を行う際に耳目を引くものとして語られた講談であったが、宋代になると街のエンターテインメントとして芸人によって語られることになった。
当時は説三分と呼ばれていた三国志モノが一番人気であったという。赤壁の戦いを題材にした詩・赤壁賦を残している蘇軾も「子供がうるさい時は講談師を雇って三国志の物語を聞かせると劉備が負けると涙を流し、曹操が負けたと聞くと大喜びする」と記している。
当時から講談の世界では劉備が大正義だったことや、子供が容易く感情移入するほどに話が普及していたことなどがうかがえる。
また、水滸伝の原型である大宋宣和遺事に収録された北宋末期のお話も南宋の後期には語られるようになっていたらしい。
これらの講談師の語る種本として出回っていた文芸を整頓したのが元代に出版された三国志平話や大宋宣和遺事であり、これがそれぞれ明代にさらにブラッシュアップされ三国志演義・水滸伝として昇華されることとなる。

史学

北宋代の欧陽脩と司馬光が著名。前者は五代の頃に書かれた旧唐書や旧五代史に不満を持ち新唐書・新五代史を制作。
さらに石碑などを研究する金石学を創始するなど多彩な活躍を見せた。
後者は史記以降個人事績は見やすいが横の繋がりが見にくい紀伝体に寄りがちであった歴史書を
孔子が著した春秋同様にその年に何があったかを纏めた編年体に整え、戦国時代から五代までを纏めた大著・資治通鑑を著した。

また、三国志の正統が本格的に移り変わったのは南宋期の出来事であった。
朱熹が司馬光の資治通鑑を元に自身の思想をぶっこんで書いた歴史書あるいは思想書・通鑑綱目で「司馬光殿は思い違いをしている!蜀漢こそ正統なのだ!」と強く主張。
朱子学の浸透とともに正史においても曹魏ではなく蜀漢にこそ大義があったと大っぴらに言われるようになった。
一応これ以前にも習鑿歯らが言及はしており着目されてはいたし、この当時の三国志物語は張飛無双~ヒゲ耳長を添えて~って感じではあったので
講談の世界ではもうすでに蜀漢こそジャスティス扱いではあったが、歴史観でも蜀漢こそ正統!という意見で固まったのは南宋の頃である。
これは元代に講談脚本を挿絵物語として成立させた三国志平話、明代に羅貫中が読み物として完成させた三国志演義における蜀漢の描き方につながっていく。

ぶっちゃけると首都南遷の鬱屈を南宋を蜀漢に、北の夷狄を曹魏に投影してストレス解消する流れで思想含めて蜀漢推しに一気に振れた、という可能性は大きい。プライドボッキボキだもんね…
呉「え!?江南開発の先駆者のワイは!?」

絵画

水墨画が大いに流行り、山水画や花鳥画が多数描かれた。
ここでも出てくる蘇軾、皇帝としてはろくでなしの一語で片付けられるものの、画家としては超一流であった徽宗ら様々な画家が登場。
南宋代には禅宗の僧侶が多数の山水画を描き残している。
画風も多様に発展し、水墨画は大きく発展していった。
日本にも徽宗自筆とされる桃鳩図や日本の山水画の祖ともいえるほどの影響を残した南宋の僧侶・牧谿の名品のほぼすべてが現存している。

この時代を題材にした創作

筆頭に挙げられるのはやはり『水滸伝』だろうか。
方臘の乱~南宋成立ごろの時期を舞台にした講談・およびその種本の話を纏めた大宋宣和遺事がベースとなった白話小説で明代に成立した。
あまりに有名なので詳細は割愛するが、山東省で山賊をしていたとされる宋江三十六人なる集団をベースに
梁山泊なる沼沢地に山賊が根拠地を置いていた、方臘の乱で活躍した将に宋江という人物が居たなどの史実をつなぎ合わせて作られたと言われる。
大宋宣和遺事は南宋末期ごろにはもう成立していたとも言われるので、北宋滅亡や徽宗の暴政による首都南遷は民にも大きな鬱屈を与えていたことがうかがえる。

『水滸伝』は発刊後まもなくから人気が高く、明代には早くもスピンオフ作品の『金瓶梅』が作られている。『金瓶梅』は官能小説的なエロが強いもので、水滸伝とはかなり趣が異なっている。
日本でも江戸時代には人気を博しており、女体化翻案というそれなんてF○te?という作品である『傾城水滸伝』を曲亭馬琴が執筆している。売れ行き絶好調で版木が潰れて三版まで作られたとか。
曲亭馬琴は他にも超有名な『南総里見八犬伝』も書いているが、これも水滸伝がベースの作品である。

現代でも一定の人気を誇っており、中国や香港で度々映画化されたり創作モチーフに取られたりしている。
日本においても水滸伝ベースの創作、あるいは水滸伝ベースの八犬伝がベースの創作は数多い。
ファンタジー翻案したRPG『幻想水滸伝シリーズ』や、現代翻案+クトゥルフ神話追加の栗本薫作の『魔界水滸伝シリーズ』、
北方謙三らしい作風で大きく再構築した北方謙三の『大水滸伝シリーズ』など、三国志に比べれば多くはないが数多くの作品が存在している。

他にも祥興帝の哀れな最期が同じく幼帝であった安徳天皇の最期と重なることもあってか創作モチーフになるなど、五代十国に比べるとネタには事欠かないと言える。

余談

  • 趙匡胤の遺訓
石に刻まれた太祖・趙匡胤の遺訓とされるもので、皇帝を継ぐものはこれを拝み見るのが通例となっていたとされる。
・皇位を譲ってくれた柴家の皆々様を子々孫々、困窮しないよう面倒を見ること
・官僚を彼の考えや言動を理由に殺害してはならない
・以上2つを必ず守ること
以上の三条からなっているとされる。この遺訓は宋代を通して守られており
柴氏は崖山の戦いにまでついて行った子孫を出すなど宋皇室への忠誠心は非常に高かったし
官僚についても少なくとも党争などで左遷されその結果憤死したりしたこともあったが
党争に敗れたのを理由に殺害されるようなことはほぼ無かったし、朝廷の体制が変われば復職も可能であった。
太祖の優れた人間性は引き継がれていた、という証拠である。

…と言われるが、これが本当にあったかどうかはちょっと疑わしい気はする。太祖は暗殺にしろ脳溢血にしろ急死していて遺言を残す余裕があったのかという疑問は残る。
とはいえ、党争に敗れても生きてさえいれば朝廷の風向きが変われば復職は出来たということや柴氏の忠誠は事実ではあるが…

  • クビライ、呆れる
南宋の将軍が簡単に寝返る人物が多かったことから、降将にクビライが降伏した理由を問うたことがあったという。
降将たちは口々に賈似道ガー、何もかんも賈似道が悪い、#賈似道辞めろなど口々に恨み言を連ねた。
クビライは半ば呆れながら「お前たちを軽んじたのは賈似道で皇帝ではなかろう。それなのにお前たちは皇帝に忠節を尽くそうとしなかった。賈似道が軽んじるのも当然だろうが」と応じたとか。



追記修正は太祖の遺訓を守った上でお願いします。

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最終更新:2024年03月21日 22:00

*1 実際には犠牲はある程度出たらしいが、五代十国の阿鼻叫喚の殺戮を考えたら平和裏に済んだと言える。え?比較対象がクソすぎる?

*2 もっとも、ここまで来た人材を落とすというものではなく「皇帝自らが見て配属や最終的な試験順位を決める」≒人事権の掌握の意味合いが強いものであった

*3 皇帝の崩御によって改元を行う場合、崩御の翌年から元号を改めるのが通例であった

*4 西域、現在の銀川市あたりの地域担当節度使として唐に臣従していた一族の出身。宋の成立後は一応臣従する意志を見せ属国として振る舞っていた

*5 お友達料みたいなもの、一応上からあげるという形ではある

*6 後代の明王朝でもやはり同種の政争が起こっており、こちらは大礼の議と呼ばれる

*7 日本でも江戸時代に尊号一件という幕府と朝廷が似たような問題から対立する事件が起きていたりする。ただこちらは深刻な対立に至ることなく早期解決に至っている

*8 真っ先に王安石弾劾をしたと後に旧法派に称揚されたが、彼の弾劾文は新法施行前の発表であり、地方官から異例の大出世をした王安石へのやっかみ100%の人格批判に過ぎない、といってもいいくらいただの人格攻撃が並んでいたりする

*9 実力は確かだが人格がアレなタイプ。強力なリーダーシップを発揮し元豊年間の改革を通して宋の国力を大いに高めるも、のちに旧法派に弾劾され失意の中で死去。しかし一族総出でそれを恨んでおり、旧法派から政権を奪還した際に新法派にいた親族が旧法派を大弾圧してしまい、旧法派が強い南宋では親の敵のように批判される羽目に。さらには抜擢した王安石すら対立後はネチネチ批判していた性格や賄賂を平気で受け取る素行の悪さもあって史書に佞臣奸臣の類として書き記されてしまうに至った

*10 ただし全敗で目標は達せず

*11 旧法派政権では司馬光に取り入って無茶をやり抜いたりもしている

*12 一応宦官だが、筋骨隆々で髭が生えていたとも言われる。去勢手術で失敗でもしたのだろうか

*13 首謀者。マニ教徒だったらしい

*14 ただし水滸伝のヒットを受けて書き足された描写らしきものもあるという

*15 ちなみにではあるが、度々増額のために脅した結果、当初より増額を勝ち取っている

*16 エロ漫画家じゃないよ!!

*17 船便で使者をやり取りしたことから命名された

*18 現在の北京

*19 ちなみにだが、徽宗は善後策の協議中にぶっ倒れて半身不随になったのでやむを得ず息子に譲りますうぅ…みたいな態度だったが、息子が即位するとスタコラと逃げ出しているのでただの仮病だったらしい。歴史上の人物にいうのも傲慢がすぎるがガチのクズだなこいつ!

*20 一旦鎮江に逃げ出していたが、欽宗の手により共に逃げ出した近臣とともに呼び戻され、近臣は処刑・徽宗は幽閉されていた

*21 正史には記載がないが、南宋の確庵による『靖康稗史箋証』や金の李天民による『南征録匯』には記載がある。とはいえ一次資料としてはやや信頼性に欠ける部分はあり、まるっと信頼は置けない

*22 現在の南京

*23 高宗は自分の政権基盤を揺るがす事態にしないためにやんわりと断ったため、結局帰国できないまま二人共人生を終えた

*24 途中で金が直接支配に舵を切ったため1137年には消滅する

*25 張俊のみは岳飛を陥れるのに一役買ったため秦檜から軍部のトップ枢密院の長のポストを用意され大出世を果たすが、他の将軍とぶつかってすぐに罷免されている。前述の通り岳飛の敵に当たるため、抗金の名将といえる実績を残した人物ながら秦檜とその妻とセットで大変な憎しみを買う人物として語り継がれてしまった

*26 宋史には記載があるが金史には記載がない

*27 皇帝専用の衣服

*28 簒奪返しを受けたため、皇帝ではなく王の諡号を送られている、それどころか金史では王族からも外され庶人扱いである。Wikiを読むとわかるけど、項目に強姦・犯すが何回出てくるかしれたもんじゃないトンデモ人間なので致し方なし(多分に誇張はあるが)

*29 ちなみにだが熙宗も太子が早逝した後は粛清と暴政を繰り返していた。どうしようもねぇな!

*30 もう皇族とは扱われていなかったため難を逃れている

*31 宋三代皇帝真宗の弟の末裔

*32 趙汝愚が庇護していた官僚の中には朱子学の創始者朱熹がいたが、高い理想から批判を乱発し朝廷内が敵だらけで、韓侂冑もその一人であったため朱熹狙い撃ちの側面は多分にあったと思われる

*33 モンゴル語で血縁者の集まりの意味。転じて部族会議の意味合いを持つようになった。モンゴル帝国及びその末裔の最高意志決定機関である。

*34 ジンギス・カン、チンギス・ハーンほか日本語の表記ゆれが死ぬほど多いことでも有名。

*35 モンゴル語で大きい・モンゴル・国の意味

*36 前述の通りモンゴルを恐れ服属していたが、対ホラズム朝出兵に際し隙を突いてモンゴルを攻撃しようとしたのがバレてチンギス・カンの怒りを買い、親征されていた。ちなみにこの頃首都が地震で壊滅し疫病が蔓延する末期症状を呈していたという

*37 南宋への戦略で対立したクビライによる毒殺説もある。

*38 政権与党に取り入ることで官位を得ようとする活動のこと

*39 金に仕えていた宋の軍閥。クビライ即位後に指導の元解体され、クビライの腹心となった史天沢により再編された

*40 南宋は弾に火薬などを仕込んで爆撃する技術を持っているので、威力の追求法が違ったと見られる

*41 度宗の四男。度宗が酒色に溺れ35歳で崩御したのを受けて即位した。即位時5歳

*42 日本の武家社会における~守などのような、実態としては無いが階級を示す名目上の職のこと。出世するにはより上級の寄禄官が必要であった。実務は別の差遣と呼ばれる官職につく官僚が行う

*43 六部の中でも重要性の低い礼・兵・工の3つのトップのこと、元豊の改革以降に出現した

*44 武官を選抜する試験。ただし文官より常に立場は下で終わるため、軍部のトップに就くことは時代によるがそうそうなかった

*45 南宋後期に宰相が枢密使兼任となったため、最終的には宰相が文武のトップを兼ねる体制になった

*46 鯉を含めて五大家魚ということもある。鯉も養殖は容易で食用にも用いられる

*47 鉄銭は鋳造権が確立出来なかったため私鋳が横行しコントロール出来ていなかった