登録日:2023/07/27 Thu 02:23:43
更新日:2024/10/29 Tue 08:46:06
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週刊100名馬No.5 スーパークリーク 表紙より
スーパークリークとは日本の元
競走馬。
デビューから四半世紀が経ち、50代に入った現在もなお第一線で活躍する日本競馬史のレジェンドジョッキー・
武豊に初めてのGI勝利を齎した馬。
目次
【データ】
誕生:1985年5月27日
死亡:2010年8月29日
享年:25歳
父:ノーアテンション
母:ナイスデイ
母父:インターメゾ
調教師:伊藤修司 (栗東)
主戦騎手:
ウマ娘のおじさん武豊
馬主:木倉誠
生産者:柏台牧場
産地:門別町
セリ取引価格:-
獲得賞金:5億5,610万円 (中央)
通算成績:16戦8勝 [8-2-2-4]
主な勝鞍:88'菊花賞、89'天皇賞(秋)、90'天皇賞(春)
【誕生】
1985年5月27日生まれの鹿毛の牡馬。
父はノーザンダンサー系で後に重賞馬テンジンショウグン等も輩出したノーアテンション、母は菊花賞・有馬記念馬グリーングラスらを輩出したインターメゾの産駒ナイスデイ。生まれた柏台牧場は相馬野馬追で知られる大名家相馬氏の当主相馬和胤氏が経営していた。
当時としてはかなり珍しい徹底したステイヤーの血統で、その配合は牧場長と縁があった「マイネル軍団の総帥」こと故・岡田繁幸氏の主導によるものであったとされる。
生まれつき左前脚が外向きであったが、後にスーパークリークの調教師となる伊藤修司師は歩いた時の様子からその才能を感じていたという。
当歳馬のセリで買い手がつかず、翌年のセリでも買い手がつかなかったことから、馬主の木倉誠氏に交渉をもちかけ、
810万円と安価で購入。
「今は小川 (Creek) でも、いつか大河になって欲しい」という願いから「スーパークリーク」と命名された。
某少佐の演説でお馴染みのフレーズはドイツ語の「Krieg」(戦争)なので特に関係ない。ただ一部では「ゴルフクラブのクリーク(5番ウッド)」由来説もあるとか噂され、ウマ娘でもヒミツに反映されている。
【戦歴】
1987年夏のデビューを目指して函館競馬場入りするも、重度の下痢に悩まされデビューは12月の阪神競馬場までずれ込み、新馬戦では直線を内側に斜行しながらも2着。
この時の鞍上、田原成貴は「この馬はひょっとすると大変な大物かも知れない」と述べていた。
年内の「2回目」の新馬戦で勝利し、2戦1勝でシーズンを終える。
1988年は条件戦4着、初重賞となるきさらぎ賞では3着と好走。
続くすみれ賞ではデビュー2年目の武豊を鞍上に2勝目を挙げ、日本ダービーを視野に青葉賞への出走を目標にしていたが、調教中に左前脚を骨折。ダービーを断念し、秋まで休養に充てることになった。
休養明けの秋初戦、神戸新聞杯は3着。そのままトライアルとなる京都新聞杯に出走したが、「スーパークリーク、前が壁!」となっただけでなく、前を行く騎手の左ステッキが何発もクリークの顔にぶつかるなどのアクシデントもあり6着、菊花賞優先出走権を逃してしまう。
菊花賞では出走登録馬36頭のうち、スーパークリークは19番目。出走回避待ちの状態だったところを、岡田氏のラフィアン所有馬であるマイネルフリッセとセンシュオーカンの2頭が出走を辞退したため、抽選なしで出走が叶うことになった。
この菊花賞だが、武豊にとっては他に3頭騎乗できる馬がいたにもかかわらずスーパークリークに拘ったことや、立ち去ろうとした彼の袖を咥えた「逆指名」など、エピソードに事欠かないレースとなった。
菊花賞本番。1番人気は皐月賞馬
ヤエノムテキ、2番人気ディクターランドに次ぐ3番人気。
第2コーナーでヤエノムテキを射程圏に捉え、第4コーナーからインを突いて後続を突き放し、5馬身差をつけての圧勝。
スーパークリーク、および鞍上の武豊にとっても初のG1勝利となり、また史上最年少
19歳8ヶ月でのクラシック勝利、父・武邦彦との父子二代菊花賞制覇などの記録が伴う勝利となった。ちなみに2着は共に回避待ちをしていたガクエンツービートと言うところも何ともドラマを感じさせる。
年末には有馬記念にも出走。
オグリキャップ・
タマモクロスの「葦毛対決」の構図に単勝4番人気で出走し、オグリキャップ・タマモクロスに次ぐ3着入線と好走したが、メジロデュレンの進路を妨害したとして
失格。武豊は3度目の騎乗停止処分を受けてしまった。
翌1989年は昨年末からの後脚の筋肉痛が抜けず、春を全て休養に充てることに。
秋の始動戦の京都大賞典ではレコード勝ちを収め、天皇賞(秋)へ出走。1番人気オグリキャップに次ぐ2番人気に支持され、オグリキャップとの死闘をクビ差制してG1競走2勝目を挙げる。
その後
ジャパンカップに参戦するも、世界レコード
2分22秒2を叩き出したニュージーランド生まれの牝馬・ホーリックスの4着。
有馬記念は最終直線で先頭に立つもゴール寸前で
イナリワンにハナ差交わされての2着と惜敗。
翌1990年はG2・産経大阪杯を勝利し、続く天皇賞(春)は前年の覇者イナリワンを半馬身差抑えて勝利、史上初の天皇賞秋春連覇を達成。
次走を宝塚記念に見据えるも、筋肉痛を発症し回避。
凱旋門賞への参戦計画もあったがこれも白紙となり、秋に備えて休養に入る。
秋の初戦も前年と同じく京都大賞典を選択。グレード制になってから初となる連覇を達成するも、直後に左前脚に繋靱帯炎を発症。復帰もかなわず、年末に引退を発表した。
【引退後】
引退後はオグリキャップやイナリワンなどと同年度に種牡馬入りしたものの活躍馬は出ず。一応母父で中央重賞馬は輩出した。
2010年6月頃から加齢による食欲不振や下痢が続いていたが、8月29日に容体が急変、25歳で死去した。
【創作作品での登場】
第108戦「なんのために走るのか」に登場。
受胎中に骨折して死にかけていた娘・ヤマトクリークと対面、彼女の生きる意志を呼び覚ました。
のんびり屋で包容力のあるお姉さんなウマ娘。
人に頼られたり甘えられたりするのが大好き。何なら定期的に誰か甘やかさないと調子を崩してしまうほど。
【余談】
主戦騎手を務めた武豊もスーパークリークには非常に強い思い入れがある事を度々公言している。
「一緒に
凱旋門賞に挑戦したかった馬」として
メジロマックイーンや
キタサンブラックに並んでスーパークリークを挙げており、「ある意味で僕の原点、この馬と一緒に全国区になった」と語っている。
なお
顔がデカいことでも有名だったが、武はこの話をされるのを嫌がるとか。
追記・修正お願いします。
- 斤量少ない頃の武豊がこいつに乗ってたの、今考えてもヤバかったろうな… -- 名無しさん (2023-07-29 04:57:30)
- マックイーンを褒めるときに「強い馬は顔がシュッとしている」と言ってしまったため、クリークの顔がでかいネタを認める(=クリークが弱いと認める)訳にはいかなくなったからだと言われる<豊がクリークの顔がでかいネタを嫌がる -- 名無しさん (2023-12-18 21:36:27)
最終更新:2024年10月29日 08:46