全日本仮装大賞(日本テレビの番組)

登録日:2025/01/29 Wed 23:35:00
更新日:2025/04/15 Tue 19:43:36
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では次行きましょう! 1979番、全日本仮装大賞!
ジジリリリリリ~ン…


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全日本仮装大賞とは、日本テレビ系列で1979年から放送されている特別番組である。
通称は「仮装大賞」または「欽ちゃんの仮装大賞」。


【概要】

出場者が自分達で一から作り上げた仮装を披露し、それを見た審査員達が点数をつけていくという視聴者参加型番組。
参加者は原則素人だが、ごく稀に芸能人が参加する回こともある。

1979年に放送を開始。
当時はタレントとして絶頂期だった萩本欽一(以下、欽ちゃんとする)のいち冠番組に過ぎなかったが、1980年代後半以降は欽ちゃんのレギュラー番組が続々と終了し、令和以降も続く欽ちゃん唯一の冠番組となったこともあり、今となっては「欽ちゃん=仮装大賞の司会」というイメージが圧倒的。

当初は正月・春の年2回放送だったが、応募者の急増から1982年以降は正月・春・秋の年3回放送に拡大した。
しかし2004年から当初と同じ正月・春の2回に縮小し、2014年から冬の年1回放送とさらに縮小した。
正月回は生放送が定番となっていたが、71回を最後に行われなくなってしまった。
これは作品の仕掛けが複雑な物が多くなってしまったため、準備に時間がかかりすぎてしまうことが大きな原因とされる。

番組のテーマ曲は「火曜サスペンス劇場」のテーマを手掛けた木森敏之によるもの。
ダイアナ・ロスとマイケル・ジャクソンのデュエット楽曲「Ease on Down The Road」との類似性が指摘されるが、たまたま楽曲が似ただけである


【内容】

出場者が仮装を会場にて披露し、それを見た審査員が最大2個までボタンを押していき、15点以上(81~83回のみ12点)になったら合格、合格した証である金メダルを1つ首にかけてもらいステージの脇にある合格者のゾーンに移動し待機する。
審査はボタンが入るとタワーの得点パネルが徐々に点灯。15点以上はランプが赤に変わり合格のBGMが流れる。
逆に15点未満だとち~んという音とともに不合格となり、メダルを貰えないばかりかステージから退場させられてしまう。
そして番組の最後に合格者の中から6種の部門賞や3位、準優勝、優勝がそれぞれ決められていく。
初回は減点方式で、満点の15点から8点未満に減ったら不合格となっていた。

ボタンを押すことができるタイミングは仮装の披露が終わった直後~その出場者が完全に退場するまでなので、披露が終わったものの15点未満になったので不合格となったが、その後のインタビューで審査員が感銘を受けたのかボタンを追加で押し逆転合格となるというのは仮装大賞のあるあるである。
なんなら不合格となった子供に対し欽ちゃんが「(点数)入れてあげてよ~」と粘り強く審査員達に語りかけたことにより、お情けで点数を入れ合格するという光景もたまに見かけられる。とはいえこちらに関しては「欽ちゃんは子供を贔屓しすぎてる、いい歳した大人には絶対にやらないのに」と一部の視聴者による非難もある。
ただし減点することはできないようで、実際に合格となった出場者が何らかのおふざけな発言をした時に欽ちゃんがごく稀に「減点ができるものならしたいよ」という旨の発言をしておりその事を裏付けている。

仮装の内容は年によってさまざまだが、傾向的にストーリー性の強い作品が優勝することが多い。
とはいえショートネタや一発ギャグ・どうしようもないダジャレをモチーフにした作品も少なくなく、前述した減点ネタはこれらの作品の出場者に向けられることが多い。

【表彰】

合格者はメダルが貰えるだけでなく、さらにそのうちの何組かは6種類の部門賞と第3位、準優勝、優勝の3種類、計9種類が選ばれるチャンスがある。
ちなみにこれらの賞は重複して貰えることができないので、合格者のうち9組が貰えるチャンスがくるというわけである。

以下、100回大会時点での各賞の一覧と賞金。

優勝 100万円
準優勝 50万円
第3位 30万円

以下6つの部門賞は全部10万円で統一されている。

技術賞
努力賞
ファンタジー賞
演技賞
ユーモア賞
アイデア賞


【出演者】

司会

  • 萩本欽一・香取慎吾
番組の進行だけでなく、出場者や審査員とのやり取り、審査員長廃止後は入賞作品の読み上げなど仕事は多岐にわたる。
またあまり知られていないが、収録後には出場者との2ショット撮影会も行われる。
近年はあまり見かけないが、出場者の作品披露中に何か手間取ったりしていると欽ちゃんが茶々を入れるということも稀にあった。
香取は第56回から登場。欽ちゃんのアシスタント的役割が大きかったが、99回からは欽ちゃんの意向もあり香取が主体で行うこととなった。
また、香取にとってはSMAP時代から続く唯一のレギュラー番組である。

ナレーション

  • 堀敏彦
第26回から99回までのナレーションを担当した、仮装大賞もう一人の進行。
元々は萩本とも縁の深い浅井企画所属のタレントであり、学生時代から日テレや欽ちゃん関連の番組で活躍していた。
その後、故郷の新潟県に戻り1998年に日テレ系列局であるテレビ新潟にアナウンサーとして中途入社し、以降は新潟地区の予選担当スタッフも兼業していた。
堀が定年退職したことに伴い、第99回大会を最後に降板。

第100回は日本テレビアナウンサーの鈴江奈々が担当。
堀以外では第3-5・7-24回で橋本テツヤ、変わったところでは第6回が福留功男、第25回が鹿児島テレビ*1アナウンサーの小澤一彦が担当している。


出場者

上記の通り出場者の大多数はテレビに縁もゆかりも無い素人達である。
しかし番組に複数回出場することで番組内で知名度も高まり、固定ファンも付くなどセミプロ的存在となっている出場者もかなりいる。
たまに芸能事務所に所属する芸能人が参加することもあるが、これらはきちんと予選オーディションを経た上での出演であり、ダウンタウンやナインティナインやトニセン等がこの番組の出演のため、一般の参加者に混ざって予選オーディションに参加したことを告白しており、その裏側が時折番組内で紹介されることもある。
一般出場者の作品より芸能人の作品の方が採点基準が厳しいのでは?という声もあり、実際合格率及び入賞率が低めである。

数多くいる常連参加者の中で特に有名なのは梶原比出樹であろう。
初登場の39回にていきなりユーモア賞を取り、数回の単独出場を経た後何度も団体で出場し続けてきた彼らは幾度となく賞を獲得し優勝を9回も勝ち取るなど爪痕を常に残し続けてきた。
そのうちの優勝作品の1つ、「ピンポン」は海外でも話題となり海外のペプシのCMがこのアイデアをオマージュすることとなった。
さらにはこれらの功績が認められたのか、98回では審査員として登場。まさにこの番組とは切っても切れない関係となった。ちなみに番組から誕生した出場者が審査員になるのは初であり現在のところこの人が唯一である。
番組外でも過去の作品を披露しており、海外の人気オーディション番組「アメリカズ・ゴット・タレント」にて大会初優勝を果たした作品「あん馬」を披露し拍手喝采を浴びた。
余談だが、週刊少年ジャンプにてかつて存在していた読者投稿コーナー「ジャンプ放送局」にて梶比樹出原の名で投稿戦士として活躍していたこともある*2

審査員

作品の点数を審査する方々。
毎回10人体制で行われている*3が1回は15人、81~85回は5人体制で行われていたことも。
俳優や歌手、芸人など様々な芸能人が起用されており、オリンピック等のスポーツの大会で主に活躍したスポーツ選手が起用されることも多かった。
また主に出演時点で情報番組のMCを務めている日本テレビのアナウンサーや読売新聞や報知新聞等の記者、上記にも触れた通り常連出場者である梶原比出樹が起用されたこともある。

審査員全員も回ごとによって異なるテーマに沿った仮装をしており、例えばスポーツ選手がテーマだとサッカー選手や野球選手、民族衣装がテーマだとチマチョゴリやサリーの格好をするといった具合である。
またテーマがアニメ漫画関連だと様々なキャラクターのコスプレを審査員を行い、日テレ以外の作品のコスプレで登場することもしばしば見られた。
その例として岡田真澄が当時レギュラー出演していた仮面ノリダーのファンファン大佐を思わせる仮装だったり*4岡本太郎が自身の代表作の1つ、太陽の塔をイメージした仮装をしたこともある。後のタローマンである。
初回から毎回の恒例であったが第81回に廃止。その後第86回に復活したが第91回にまたもや廃止されている。

香取が司会に加わる64回までは審査員長が設けられていた。
名前の通り審査員達のリーダー的存在であり表彰式で各賞の発表や審査の統括、講評を行う。

最初の頃は審査員達の評価基準が厳しく、合格率が現在に比べると非常に低かった。
第5回大会では8作品連続不合格なんてことも。
その中でも岡田真澄は評価基準が更に厳しく辛口な批評を行っており、2点付けることは滅多になかった。例えそれが相手が子供であろうと容赦なく評価していた。
しかしなるべく審査員に点を入れて欲しいと思ってる欽ちゃんとは年を追うごとに齟齬が生じ、ついには自主降板に至ってしまった。

エスコートガール

この番組のアシスタントで、バニーガールの格好をしている。
主な役割としては合格者にメダルをかけたり、合格者には合格者用の席、不合格者にはそのまま帰したりと出場者の誘導を行ったりしている。
衣装についてだが最初はまさに誰もが思いつくバニーガールといったもので、数年ごとにウサ耳とレオタードの色がビリジアンに変わっていくといった程度の変更点があったぐらいだが、56回からは当時のコンプライアンスに合わせてか肌露出をかなり減らした衣装に大きく変更となっており、見た目はまさにウサギの着ぐるみ風といったところ。
しかし99回からはまたまたコンプライアンスが厳しくなったのか、白を基調としたスーツ姿とウサギとは白以外全く関係ないものに。
そのため衣装変更に悲しがる一部の紳士が嘆いたそうな。
さらに合格者のメダル掛けも司会に交代しており、ここでもコンプライアンスの波を感じさせる変更点が見られる。

【出場までの道】

書類選考

まずは番組ホームページにある申込書を印刷するなどで手に入れそこに自分が考えているアイデアを絵や文章で分かりやすく説明し*5、それを番組に送る。
ちなみにアイデアが複数思いついたら1チーム何作でも送ってもOKである。
審査期間中番組スタッフが電話かメールで応募した作品のことを深掘りし、それを元にここをこうしたらいいとアドバイスを送る。
なおこの作業は応募した人全てに行うため、少なくとも応募用紙を見て不合格ということはないようである。
この作業を行ったうえで、後日合格した人のみ選考通過の電話が届く。
こうして合格した人は早速作品を作成して行くわけだが、材料費は自費である。故にそれほど充分な貯えがなくあまり仮装大賞にお金をかけられない人にとっては、少ない予算でどのように審査員に満足できる作品を作れるかも重要になってくる。

予選

札幌、名古屋、大阪、東京、福岡等、各地方ごとに番組が用意した会場で予選が行われる。
スケジュールの都合や、予選会の交通費は自己負担なので予算の都合で遠出できないなどの理由でどうしても会場へ行けない人のために作品を撮影してそれを番組に送付するVTR審査も設けられている。
仮装で使用する小道具や衣装、背景等はオーディション用の試作品か本番さながらの出来栄えかというのは特に選考に関係ないが、少なくとももしここで落ちてしまったら折角作った作品が日の目を浴びずに消えてしまうということは間違いない。
ちなみにこの予選オーディション、非常に審査が厳しくとある予選会場では10組以上参加したのに合格者0という事例もあるほど。
また発表後の総評も激辛な物で、「何がやりたいのか伝わらなかった」、「演技に手間取りすぎてる」等、例え相手が小学生以下の子供であろうと容赦なく選考スタッフからズバズバ言われる。
ただし辛口コメントで終わるのではなく、ここをこうすればいいというアドバイスもくれるなど優しさを見せてくることも。
こうして合格した人には後日番組スタッフから連絡が届き晴れて番組出演が決定する。


【歴史】

開始まで

全ての始まりは番組がスタートする3年前の1975年のことである。
当時大人気お笑いコンビであったコント55号がNHK紅白歌合戦に対抗すべく、裏番組として「コント55号の紅白歌合戦をぶっ飛ばせ!なんてことするの?」を放送。
紅白の裏でありながら手応えのある視聴率を獲得できたため、以後1977年まで毎年の大晦日に放送。
その後、1979年に再びコント55号メインの番組が大晦日に放送されることとなった。
しかし、マンネリ化を恐れたためメインはそのままにコンセプトは全く別の番組を考えることとなる。
企画会議にて欽ちゃんが「向こうは芸能人ばかり集まってるからこちらは真逆に素人が集う番組にしよう」のアイデアで素人参加番組というコンセプトが決まった。
後日、番組スタッフが何をするかの企画を50個ほど巻物に書き上げそれを欽ちゃんに見せたところ、その中に書かれてあった「仮装」という案に興味を惹かれ、これで行くことにした。

こうして出来上がったのがコント55号の欽ちゃん単独司会の視聴者参加型番組「欽ちゃんの紅白歌合戦をぶっ飛ばせ!第1回全日本仮装大賞〜なんかやら仮そう!〜」である。
その頃は出場者や司会、審査員のみならず観客まで仮装が行われており、どうしても仮装を用意できなかった観客には目元を隠す眼鏡のような仮面が番組側から配布されるといった救済策があった。

当時、コスプレイベントやハロウィンの仮装といった文化がなく日本に仮装という文化が今ほど根付いてなかった時代。そういう背景もあってか予選会では女装するだけという作品が圧倒的に多かった。酷いものだと裸踊りをしただけと仮装の意味を分かってない人も。

しかし蒸気機関車の格好をしただけでなくタバコを蒸気機関車の煙に見立てた作品「蒸気機関車」を見て、当時チーフプロデューサーであった神戸文彦はようやく自分が求めていたものと出会い、大きな感銘を受けたのであった。
当然ながらこの作品が優勝を掻っ攫いこうして最初の仮装大賞は幕を閉じた。

視聴率は4.8%と非常に低く当然ながら次回の話は出てこなかったものの、神戸はこの番組に将来性を感じたため早速この部分をダビングし、日本テレビ系列の他局に送り付け熱心にプレゼンした。

レギュラー化

神戸の熱意が伝わり翌1980年5月に第2回が放送。紅白とは全く関係の無くなった放送であるのでタイトル名も「欽ちゃんの爆笑仮装コンテスト 全日本仮装大賞」へと改めて変更された。
すると、視聴率は14.8%と一気に上がり成功を収めた。そして4回目にて裏番組であるナイター中継の巨人 - 広島戦を上回ったことが決定打となり、最初は紅白の対抗馬としてぶつけてきた番組が日本テレビの末永く続く特別番組へと成り上がったのである。

こうして順調に番組が続いていくかと思われた矢先の1985年。
欽ちゃんが休養を発表し、レギュラー番組を全て降板することとなった。
本番組も例外でなく早くも司会者交代かと思われたが、当時番組の監修を務め欽ちゃんとは古い付き合いのあったディレクターの齋藤太朗から

「欽ちゃんの番組は欽ちゃんがやめると言えば終わりだけど、これは素人の番組だ。俺が一生懸命作って、素人ががんばったんだよ。欽ちゃんはその司会をしているんであって、勝手にやめるって言えないんじゃないの」

と説得され、仮装大賞だけは降板を取りやめている。

こうして終了の危機を乗り越え順調に番組は続いていったが、21世紀初頭となると年齢的な問題から体力的な意味で難しいと感じるようになった。
この際、日本テレビ側が誰かパートナーを付けたらどうかと提案したことにより、欽ちゃんはそれを承諾。
パートナーは編成とディレクターの判断により当時SMAPのメンバーとして大きな人気を誇っていた香取慎吾を欽ちゃんに提案し、以前から自身の番組で世話になっていたというのもあってかこれも承諾。
こうして2002年の65回、欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞と名前をリニューアルし2人体制として再び番組が幕を開けた。

だが、それを揺るがすある出来事が起こる。

終了の危機

2020年初頭から始まったコロナ禍。
このせいで様々な催し物が中止され、仮装大賞より歴史の長い高校野球も鳥人間コンテストもその煽りを食らってしまった。
このままだと2021年の放送が中止になってしまうのではないかと思われたものの、何と開催が発表される。
ただし感染防止のため「単独で参加」か「一緒に住んでいる家族の参加」のみという制限が設けられ、そのこともあってか全25作品と歴代で1番作品数が少ない。
このような配慮もありつつ無観客で開催されたものの、収録中欽ちゃんが「この番組を降りる」と衝撃発言を発した。
これには審査員にスタッフ、たまたまそこにいた出場者一同凍りついたものの、その後何事も無かったかのように収録が最後まで行われた。

何故彼がこのような発言をした理由についてだが、その後のインタビューで大きく2つの理由に分けて語っている。
ひとつはコロナ禍なのに中止にせず放送を強行したことに疑問を抱いており、もし万が一この番組でコロナにかかった人が続出したら責任をもって辞めると考えていたこと。
そしてもうひとつは体力的に限界を感じ、司会を後任に譲ろうと考えていたこと。
実際収録時欽ちゃんの年齢は79歳でかなりの高齢である。それより年上の芸能人が精力的に活動しているものの、これ以上続けることは無理だと判断したのだ。
彼の意向もあってか、新作の放送はしばらく休止となった。

そしてコロナが5類感染症に格下げされた2023年の夏、待ってましたとばかりに仮装大賞の開催を告知するお知らせが流れた。
これにはファンも大喜びしたが、それだけでなく降板宣言した欽ちゃんもそのまま司会続投ということにも喜びに拍車をかけた。
実は本当に欽ちゃんは香取に全てを任せて降板するつもりだった。しかし香取の「欽ちゃんが辞めるなら俺も辞める」という粘り強い説得に加え、どれだけ断っても日本テレビのスタッフが諦めずに司会続投を依頼し続けたこと、99回のスタッフの中に彼と旧知の仲である田中裕樹が参加するのを知ったこと、それらの理由で続投を決めた。
欽ちゃんの体力を考えたうえで香取が主体の司会にするというやり方で行くこととなり、無事再スタートを図れた。

そして2025年1月の放送を持って記念すべき100回を達成。
欽ちゃんはこの100回目を「新しい仮装大賞の1回目」だと宣言しており、これからもまだまだ続くだろうと思われる。

【各回の主な出来事】

第1回

  • 1979年12月31日21:00 - 23:24放送
全てはここから始まった。

最初ということもあって番組コンセプトが定まっておらず、ただ仮装しただけという作品がどちらかといえば多かったそうである。また出場者数が全78組と全ての回を通してみても作品数が一番多いが、上記のように仮装しただけの作品が多いので、1つ1つの作品の披露時間が短いというのもあると思われる。
審査が減点方式&放送が大晦日&会場が新宿コマ劇場なのはこの回のみ。
最初の不合格者は素人時代の竹中直人。「松田優作のドラキュラ」を披露したそうである。

第2回

  • 1980年5月3日 19:30 - 20:54放送
会場が後楽園ホールに変更。以後75回まで大半が後楽園ホールでの開催だった。
ここから審査が加点方式に変更されたりユーモア賞や努力賞などの賞が設けられた。
加点方式になったため不合格からの追加得点で合格になる光景が見られるのもここから。
また得点音が初登場し合格音も変更された。

第3回

  • 1981年1月3日 19:00 - 20:54放送
初めて収録形式で行われた。
またこの頃になると番組コンセプトが分かった参加者が増えたのか、ただ仮装しただけという作品がかなり減ってきた。

第6回

  • 1982年5月1日 19:00 - 20:54放送
得点音、合格音が現在のものと同じ物へ変更される。
38番「明治神宮」で明治神宮に扮したアメリカ人留学生が「明治神宮デゴザイマス!ドゾヨロシク!!」と挨拶するだけで会場の笑いを誘った。
全作品の演技が終了し、審査員が各賞選考してる合間に5回にて優勝した「スーパーマン」を披露した兄弟が特別に登場。そして再び同作品を披露した。
ちなみにこの時のインタビューにて優勝賞金の100万は全額定期預金にしたことが判明。

第9回

  • 1983年4月30日 19:00 - 20:54放送
審査員の選考により22番「スネークキューブ」、27番「野菜畑」の2作品が準優勝となり、あとはそのことを結果発表で伝えるはずだった。
しかしスタッフの不手際により「野菜畑」の作品の表彰が完全にスルーされてしまった。
番組終了までにそのことを指摘する人はいなかったのか「野菜畑」が準優勝を受賞したことを発表せずに終わってしまった。
その翌日、なぜかニュースではなく昼の「スーパーJOCKEY」にて、発表漏れがあったことを伝えお詫びのコメントを出し、次の回ではフォローが行われることとなる。

第10回

  • 1983年9月17日 19:00 - 20:54放送
全作品が終わりこれから審査といったところで欽ちゃんから前回受賞の発表をし忘れたと説明があり、表彰のため「野菜畑」のチームが登壇。「野菜畑」を再度披露させたあとにその後賞金とトロフィーが授与された。
この一連の流れはスタッフ達の「野菜畑」チームに対する精一杯の償いであろう。
このような人の期待を踏みにじる行為をしてはいけないとスタッフ間で共有されたのか、これ以後発表漏れのハプニングは起きていない。

第13回

  • 1984年9月1日 19:00 - 20:54放送
12番「指相撲」を披露し見事合格した学生が欽ちゃんとのトークで、苦学生なので納豆と豆腐だけを食べて生活費を節約していたと告白。そこで欽ちゃんは「メダルより食費の方が良いんじゃないのか?」と言ったところ、「合格メダルを米と肉に変えて欲しい」と発言。
このような経緯で合格メダルは返納されそのまま退場となった。
番組側もそれにきっちり応え、後日米とハムやソーセージといった肉の加工品をプレゼントし、この様子がテレビで放送された。

準優勝を獲得した13番「噴水」チームの代表の小学生が、「みんなが一つになるために番組に参加しただけで、賞金目当てではないので賞金は24時間テレビに募金する」と宣言。
これに欽ちゃん達は困惑し、審査員として参加し準優勝の賞金を渡そうとした森光子は「よく考えて……」と宥めた。
結局トロフィーだけを受け取り、賞金ボードは萩本が預かる形となったが約束通り全額24時間テレビに募金されたかどうかは不明である。

第18回

  • 1986年5月22日 19:00 - 20:54放送
4回以来5年振りの収録となった。
しかし久々すぎて撮影スタッフがつい生放送の気分になっていたのか、放送用のVTRを回し忘れていたことが2番目の作品披露後に発覚。
すぐさま1番と2番の作品が再度披露、点数付けされることとなった。
番組側としては大きなミスと捉えたのか、一部スタッフが当時の日本テレビ本社正面玄関前に正座し謝罪の言葉を述べた。
とはいえ、非常に早い段階で回し忘れていた事に気付きたった2作品だけやり直せたのは不幸中の幸いか。

第20回

  • 1987年1月1日 18:30 - 20:54放送
11番「あしながおじさん」を披露した女の子が出番が終わったのにも関わらず、ずっと舞台に居残り続けた。
普通ならば彼女の親が舞台から降りるよう言い聞かせるべきだが、なんとその親は完全にスルー。
そのせいでこの子供の姿をカメラがずっと撮らざるを得なくなった。
これに我慢が出来なくなった岡田眞澄が49番目の披露後のトーク中、一切女の子に注意をしない親に対する苦言を呈していた。

第26回

  • 1989年1月1日 18:30 - 20:54放送
昭和最後の放送。
13番「爆竹」の披露後、使用した紙くずがフロアに散らばったため、急遽出場メンバーが掃除する羽目に。その手助けとしてエスコートガールやスタッフも参戦し、さらにはCHA-CHAのメンバー、勝俣州和と中村亘利*6が観客席から飛び出し一緒に掃除した。
その後も23番「間一髪」はセットが倒れてしまったり、41番「カニ」は目玉やハサミが外れてバラバラになってしまったり、53番「シャワー」はセットから顔を出す段取りが上手くいかなかったりと披露中のハプニングが立て続けに起きてしまった。

第27回

  • 1989年5月27日 19:00 - 20:54放送
平成最初の放送。
この年日本テレビに入社した新入社員が研修の一環として、「仮装大賞」に取り組むという命令が下された。
予算は2万円以内、期間は5日以内という厳しい条件の中、一般出場者と同じように書類審査からの予選オーディションにも参加した。
結果1番「クラッカー」、14番「陽気なアオムシ」、24番「三面鏡」の3チームが本選の出場が決まった。
そのうえ、「三面鏡」は3位を受賞したためこのチームにとっては忘れられない研修となっただろう。

第31回

  • 1990年10月7日 19:00 - 20:54放送
ダウンタウンダウンタウンのガキの使いやあらへんで!にて仮装大賞出場を宣言し実際に参加した。
30回では予選オーディションで不合格となってしまい、その原因を「仮装大賞に舐めてかかっていたが予選の厳しい雰囲気に飲まれ、またネタ自体もグダグダになってしまった」と分析。
その反省から真剣に取り組み31回目となる今大会で出場。番組のパロディである「合格ライン」でトリを飾った。
ちなみにプロデビューしてる芸能人が出場するのは彼らが初めてで、以後様々な芸能人が出場することになる。
因みにこの大会の優勝者は当時4歳の少女の単独演技。2025年現在に至るまで最年少記録である。

第32回

  • 1991年1月1日 18:30 - 20:54放送
この回様々な動物ネタが登場したが、尽く不合格となってしまう事態が発生してしまう。
後半、その事に気付いた欽ちゃんが次の作品が動物ネタだと知ると「動物ネタは心配です」 と心配そうに声を掛ける場面があった。
なお、その皮切りとなった6番「バトンタッチ」にて羊役を演じた男性に対しその豊満な体格からか豚だと勘違いして「ブタさん」呼ばわりしてしまう失礼すぎるハプニングも。
なお、11番「正義の味方」に素人時代でまだ高校生のたむらけんじが出演するものの不合格となった。

第33回

  • 1991年5月4日 19:00 - 20:54放送
28番「黒板消し」が番組史上初となる0点となってしまう。そもそもこの作品自体黒板消しに扮した2人がただぶつかり合ってるだけのなんの面白みもない作品だったのが要因と思われる。
当然ながら審査員から「ただプロレスごっこしてるだけ」と辛口な発言が飛び出し、0点となってしまった不甲斐なさも合わさり演者がいたたまれない状況となってしまう。
しかし、審査員の1人であるスポニチの記者が「0点自体が大変珍しくユニークな出来事。新聞記事としても面白い」という理由で1点加点。こうして0点という不甲斐なさすぎる状況から脱出した。
なお、2018年の95回にて本当に0点の作品が誕生してしまう。

第36回

  • 1992年5月7日 19:00 - 20:54放送
35番「ゾンビの館」にて1点をつけた岡田真澄以外の審査員が2点という状況の中、満点が欲しいと思った欽ちゃんは彼の行動に納得がいかず採点のやり直しをするよう要求。
自分の意思を貫いて審査する岡田は欽ちゃんの要求に納得がいかず、反論をしたものの聞き入れられなかったため、仕方なく採点のやり直しを行い彼も2点を付け20点満点となった。
後の大会でも意見の食い違いがあり、第41回に決定的な衝突が起きたことでこれが岡田の番組降板へ発展していく。

第41回

  • 1994年1月1日 18:30 - 20:54放送
欽ちゃんの判断でおバカちゃん作品がこの回のみ設けられ、不合格作の中から欽ちゃんがおバカだと思った作品は合格者席の隅に座らされることとなった。
37番「街灯」にて欽ちゃんと岡田の意見が真っ向対立、そこで欽ちゃんが独断で彼をおバカちゃん作品達が集まる席へと移動させてしまう。さらに次の38番「激辛ラーメン」にて審査員が1人足りないからとすぐさま審査員席へ戻される。
上記の欽ちゃんの自分勝手な言動に遂に溜まっていたものが爆発したのか、この回をもって岡田は仮装大賞の審査員を降板することとなる。

第44回

  • 1995年1月1日 18:33 - 20:54放送
この回のみ、「気持ちは合格者」というコンセプトで不合格者は画面から見て左側の合格者席に座らせてもらえる企画が登場。
49番「クリスマスの出来事」が3位だと発表された瞬間、8番「日本アルプスのクリスマス」が即座に立ち上がるというハプニングが発生。そのせいでカメラも状況把握が出来ず、乱れた画がそのまま放送されてしまった。
この回のタイトルにクリスマスが付いていた&クリスマスを題材とした作品だったからこそ、このような勘違いが生まれてしまったかと思われる。ちゃんと番号とタイトル名聞いとけよ!

第45回

  • 1995年5月27日 19:00 - 20:54
20番「落ちちゃった」は、首を一瞬で落としたあと体が一気にぺちゃんこになるという内容であったためにどのような仕組みになってるのかと会場が騒然。故に文句なしの優勝作品となった。
なお、これを見たマジシャンがこれを披露した女子高生に交渉しネタを習得、以後この手法が広く知られるようになった。
2024年のパリオリンピックの開会式にて、斬首されたマリーアントワネットが自分の手のひらの上で歌う光景が見られたがそれが仮装大賞の「落ちちゃった」によく似ていると話題となった。

第50回

  • 1997年1月1日 18:30 - 20:54放送
記念すべき50回ということで、特別に全ての賞金を倍増。例えば優勝の賞金は従来の100万円から200万円へと設定された。
また合格不合格関わらずどの作品でも貰えるチャンスのある特別賞がこの回のみ設けられ、6作品が選出。そのうち2作品は不合格作品だった。
放送前に50回を記念した特別番組を放送。仮装大賞ファンの芸能人達によるインタビューと好きな仮装作品を紹介するコーナーがあったが、その中にまだ仮装大賞の司会になる前の香取の姿も。

第51回

  • 1997年5月24日 19:00 - 20:54放送
18番「レッツ・ロックン・ロール」にて声優として活動する前の高校生時代の新井里美が黒子役として友人と一緒に出場。しかしあと1点のところで残念ながら不合格となった。
黒子役が後に黒子役を演じるだなんてあまりにもできすぎた話ですの……

第54回

  • 1998年5月16日 19:00 - 20:54放送
39番「線香花火」のインタビュー時、作品に使われた大量のスーパーボールが突如会場に溢れかえり、出場者とスタッフが慌てて回収するというハプニングがあった。
番組の進行を妨げたとして欽ちゃんや一部の審査員からお叱りを受け、更には反省の意味でかつての合格者席であったセット置き場に立たされることとなってしまった。

第65回

  • 2002年1月1日 18:00 - 20:54放送
この回から香取慎吾が司会に加わった。
この時、同メンバーの草彅剛が香取に内緒で出演。32番「池の鯉」を放送作家である鈴木おさむと一緒に披露。まさかのメンバー出演に香取が戸惑いつい草彅の演技を邪魔してしまうといった場面も。
ちなみにジャニーズ事務所所属タレントが出場するのは草彅が初めて。

第68回

  • 2003年1月1日 18:00 - 20:54放送
27番「Mr.マジック」終了後にエキシビションとして2作品が披露された。
1つは2代目引田天功が出演する「謹賀新年」、もう1つは本物のチンパンジーが飼育員さんと一緒に出演した「キングコング」。どちらもエキシビションということで採点は行われず、審査対象から外れている。
ちなみにこの審査対象外のエキシビションコーナーは71回まで毎回行われており、その中に人気アイドルのモーニング娘やプロレスラーの神取忍が参加していた。

第73回

2005年1月8日 19:00 - 20:54放送
7番「雪の朝」において、メインで出る予定の3歳の女の子が大量の観客の姿に気圧されたのか号泣し、欽ちゃんや香取がどれだけ宥めてもなかなか止まらなかった。そのため結局棄権となってしまった。
急に外せない仕事が入ったり急病になってしまったりといった理由で番組出場前に棄権というのは過去にも例があったが、出場して作品披露前に棄権したというのはこれが初めて。

第75回

  • 2006年1月7日 19:00 - 20:54放送
なかなか泣き止まずに棄権してしまった3歳の女の子のチームではあるが、1回越しに再び出場。
26番目に同じ作品で出ることになっていたが、やはりまたもや涙が出てしまいなかなか始まらなくなってしまう。
そこで順番を後回しにすることになり、33番「カウントダウン」の後でようやく披露する。
披露中決して泣くことなく終えた女の子の姿に会場からは惜しみない拍手が送られ、プレッシャーに負けずリベンジし最後まで頑張ったとして審査員特別賞がこのグループのために送られることとなった。

第76回

  • 2006年5月6日 19:00 - 20:54放送
19番「バレエ組曲 白球の湖」はバレリーナ3人の作品で、バレエと野球を組み合わせた異色作として評価されたのか優勝を飾った。
しかし3人とも本気で優勝すると思ってなかったのか、そのうち2人は賞発表の前にバレエのリハーサルのために先に帰ってしまった。
残念ながら3人で優勝の喜びを分かち合うことができなかったものの、番組最後に収録終了後の彼女たちの様子が放送された。
なお、2番「シャラポワと対決」以外は全員合格というまさかの事態になってしまい、逆に唯一不合格となってしまった「シャラポワと対決」を披露した男性が目立ってしまったため、欽ちゃんの計らいで「がんばったで賞」が特別賞として設けられた。賞金はないものの、目録の代わりとして水引が手渡された。
ちなみにこの男性は次の77回にも出場し15点で合格した。

第81回

  • 2009年1月8日 19:00 - 20:54放送
これまでの審査方法を見直し、審査員が5人1人あたりの持ち点4点となった。また、12点以上で合格と基準が少し緩くなった。なおウケが悪かったのかどうか分からないが、前者は86回から、後者は84回から従来通りに戻る。
オープニングにて、ボストンレッドソックスに所属していた野球選手の松坂大輔からの応援メッセージが放送され、番組内でサインボールがプレゼントされた。

第83回

  • 2010年1月10日 18:59.30 - 20:54*7
この回の不合格者はたった2作品だけであった。そのため欽ちゃんから、「この2組がいて優勝、合格がある」と彼らに労りの言葉を述べ、特別に一時的に優勝トロフィーと賞金パネルが渡された。

第86回

  • 2011年5月7日 19:00 - 20:54放送
23番「春の訪れ」はマギー審司を代表に、山上兄弟等のマジシャンが集まり披露した。
この回が収録されたのは東日本大震災から僅か1ヶ月経った4月24日。宮城県気仙沼市出身のマギー審司は故郷を元気にしたいという思いで参加。3位を獲得し、賞金は桜の苗木を気仙沼市に送るために使うと宣言。
番組最後に苗木を寄付する様子が放送された。

第87回

  • 2012年1月9日 19:00 - 20:54放送
まさかの不合格作品が1つも存在しないという史上初の事態になった。
おかげで合格者席にこの回の出場者全員が収まることとなった。

第89回

  • 2013年1月12日 19:00 - 20:54放送
データ放送を利用して視聴者がどの作品が良かったかを投票する生投票を実施。以後、98回まで行われることとなった。
その得票数ベスト3が番組の最後に発表された。

第92回

  • 2015年1月12日 19:00 - 20:54放送
24番「ロックンロール花火」は香取慎吾の後輩グループA.B.C-Zのメンバー全員による作品でこのことは香取を驚かせた。
ちなみにジャニーズ事務所のグループ丸ごと出場するのはこれが初めて。

第94回

  • 2017年1月21日 19:00 - 20:54放送
10番「霊長類最強女子」を披露した4歳の女の子は放送日の数週間前の1月9日に放送されたはじめてのおつかいにも出演しており、1ヶ月以内に日本テレビの人気長寿番組にハシゴで出演したことになる。
26番「あばれ御輿」は不合格となったものの、欽ちゃんが何か足りないと感じたところ、同じく不合格になっていた17番「流鏑馬」を組み合わせたらどうかと提案。
「日本伝統文化」と改題して再挑戦をさせたところまさかの20点満点を記録、2組に合格メダルがかけられた。

第95回

  • 2018年2月3日 19:00 - 20:54放送
32番「山頂アタック」は番組史上初となる0点の作品となった。
作品を披露したのはブルゾンちえみの後ろにいることでお馴染みブリリアンというお笑いコンビだったが、審査員として参加していたブルゾンちえみから点数を付けられなかったどころか呆れたような反応を示された。
さらに香取は「歴史に残るくらいひどかった」、欽ちゃんは「0点、出ちゃったねぇ。歴史だよ」、審査員の梅沢富美男は「帰れ!」の言葉が出るなどとにかく酷い言われようであった。*8
ちなみに彼らは次の96回にも挑戦したそうだが、予選オーディションにすら通過しなかったことが96回にて欽ちゃん達から暴露されてしまう。

第98回

  • 2021年2月6日 19:00 - 20:54放送
コロナ禍真っ只中ではあるが、無観客と仮装方法の制限という形で対策。それもあってか過去最小の25作品の作品数で、全部流してもまだ尺が余ってしまうということで過去作品の中で選りすぐりの作品が再放送された。
なお、この頃鬼滅の刃人気もあり審査員の中に竈門炭治郎を演じた花江夏樹がいただけでなく、鬼滅絡みの作品が2作あった。
この回を最後に2年の休止期間が設けられた。

第100回

  • 2025年1月13日 19:00 - 21:54放送
記念すべき大台の100回を達成。
そのため19時から1時間過去の作品をランキング形式で振り返る記念番組が放送され、続けて20時から仮装大賞本編が放送されるといった構成であった。

V6でトニセンの3人が香取に内緒で出場。30番「20世紀の人気者」*9を披露した。
そのうち井ノ原快彦、坂本昌行の2人はデビュー前から仲良くしていたがなかなか共演機会に恵まれず、さらに香取も事務所を退所し、残った3人もジャニーズ事務所解体& STARTO ENTERTAINMENTへの移行等のゴタゴタもあって共演は絶望的かと思われた。
しかし井ノ原達の香取とまた共演したいという強い思いにより、予選オーディションを経て無事再会を果たしたのである。

【余談】

24時間テレビ内にて2005年と2010年の2度、障害者達が仮装に取り組む特別企画が放送された。
そのうちの2005年の方は司会者の1人が香取だったため、仮装大賞絡みの企画ができたところもあると思われる。

アプリゲーム「空気読み」にて仮装大賞を題材にした問題がある。その内容は子供が14点で不合格となってしまい、欽ちゃんらしき司会者が「あと1点入れてあげてよ~」と懇願するのでプレイヤーは1点入れるか否かといったものである。

デジモンアドベンチャーの第33話「パンプとゴツは渋谷系デジモン」にて渋谷で遊んでいたパンプモンとゴツモンが、そこにいた大人のお姉さんに声をかけたところ、デジモンの存在が知られてないのもあって彼らのことを「欽ちゃんの仮装大賞から抜け出してきたガキ」と勘違いする場面がある。

デッデレレデーデーデデー
デッデレデーデデン!


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最終更新:2025年04月15日 19:43

*1 FNS系列局だが、当時は日本テレビとのクロスネット局だった。

*2 ついでに言うとジャンプ放送局にて、最近の仮装大賞は全然仮装してないという苦言が採用されている。

*3 猿岩石や中川家等のように2人を1人分としてカウントするというパターンも稀にあった。

*4 その回のテーマは「世界史に登場する有名人」であったが、紹介のアナウンスでは「仮面ノリダーのファンファン大佐ならぬネルソン提督」という明らかにファンファン大佐を意識した遊び心のあるものとなっている。

*5 ホームページには絵を描くのが苦手であれば文章のみでも可と書かれている。

*6 欽ちゃんがプロデュースしたアイドルグループ。欽ちゃんファミリーは元日に彼と会うのが恒例となっており、彼らが観客席にいたのもこのため。

*7 開始時刻が中途半端な理由は、ザ!鉄腕!DASH!!の実質的な放送開始時刻がこの時間だったためそれに合わせて(2025年現在もこのスタイルは変わっていない)。

*8 この次に登場した33番「ケンカ三番勝負」で満点合格·準優勝した男の子からもインタビューでこの事に対して「あんだけやって0点っておかしくないですか?」と笑われてしまうほどだった。

*9 太陽の塔、エリマキトカゲ、インベーダーゲームなど昭和~平成に流行したものに仮装。最後はジャニーズ時代の先輩・少年隊の『仮面舞踏会』を披露した