松田優作

登録日:2022/07/30 Sat 20:05:00
更新日:2024/07/20 Sat 14:35:04
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松田優作とは、日本の俳優である(1949~1989)。
アクション作品に数多くの主演作品を持っており、その生き様から今なお語り継がれる存在として、死後30年以上たつ現在も高い人気を誇っている。

【誕生~俳優デビューまで】

1949年9月21日に山口県下関市にて生まれる。
彼の出生は後暗いもので、日本人の父と質屋を営んでいた韓国人の母*1との間に非嫡出子として生まれた。
彼の父親は実は彼の母親とは別に妻子がいたが、家を出ており優作の母と暮らしていた。
しかし優作の母の妊娠が発覚した途端、急に地元へ逃げて帰ったのである。
そして女手1つで遊郭の一角にて子供達を育てていったのである。
兄が2人おり彼らから可愛がられていたが、やがて自分の出生の秘密を知り、自分だけが父親が違う子供だと気付いた時は一気に孤独感を覚えたようである。

高校2年の頃、母親から米国に行って弁護士になれという命令を下され不本意にも中退しアメリカの学校へ入学し直した。
しかし異国の地になかなか馴染めず母の命令を反故にし、その学校を中退し帰国した。
その後1番上の兄を頼り東京に住むこととなり、夜間部の高校に編入、そのまま大学に進学した。
ちなみにこの頃、元文学座の岸田森・草野大悟・悠木千帆(後の樹木希林)らが当時結成していた『六月劇場』で「研修生」として舞台の裏方等を経験していた。
そして大学でアクション作品にハマったことをキッカケに、文学座の入所オーディションを受けたが1次試験で不合格。
その数ヶ月後に新演劇人クラブ・マールイに入団しており、そこでしばらく活動したあと翌年再度文学座を受け直し、見事メンバー入りを果たす。そして入団したその年に『突撃!ヒューマン!!』の主人公オーディションを受けていたが落選した*2
なお、役者活動に専念するため大学を中退している。

【俳優デビュー後~不祥事】

彼が新宿にてバーテンダーをしていた頃、様々な芸能人が来ており交友していた。
するとその中の1人、村野武範の誘いにより、当時新人を探していたプロデューサーの岡田晋吉に紹介されることとなった。
後日文学座に視察に行った岡田は、彼の迫真の演技力に心打たれ、早速彼を見極めるためにとある作品で端役で出演させた結果、その演技に多くのスタッフ達も心打たれすぐさまその作品にレギュラー出演させることに決めた。
それこそが彼の最初の代表作、『太陽にほえろ!』の柴田刑事(ジーパン)である。
レギュラー出演としてはこれが初めてだったが、彼自身の特技である空手を活かした体当たりの演技をひたすら行い、そして今なお語り継がれる殉職シーンの「なんじゃこりゃあ!!」など同番組に大きな爪痕を残し、彼の名を多くの人に知らしめる結果となった。
なおこの殉職のシーンのセリフは全てアドリブであり、「なんじゃこりゃあ!!」のセリフも実は出身地の山口の方言を取り入れたものである。

同時期に『狼の紋章』にて映画出演を果たしており、翌年の1974年からさらに一気にドラマや映画と仕事の量が増えていくことなる。
しかし1976年、暴力事件の犯人として逮捕されることとなった。
事の経緯は、前年の7月に俺たちの勲章というドラマの鹿児島ロケでの打ち上げを行った際、解散間際に番組スタッフが地元民と仲良くなり、その2人でタクシーを使って別の店に行こうとしたところ、その地元民の友人が2人の元について行こうとした。
それを見た松田らは「野暮なことをするな」と釘を指したが、何故かそこから押し問答へと発展してしまい、更には偶然それを見た予備校生がその友人を助けるために木刀で松田らに反撃しようとしたところ、木刀を取り上げられてしまい逆に反撃を食らったというものである。
その予備校生は全治3ヶ月の重症を負ったものの、松田が治療費や慰謝料といった示談金をちゃんと渡したため、公にはならず逮捕されることは無かった。
しかし検察が何故かこの事件を蒸し返し、示談が成立し半年経ったのにもかかわらず、彼を逮捕することに決めた。
そして裁判の結果懲役10ヶ月、執行猶予3年の判決を受けてしまった。
これがきっかけで事件が公となってしまい、一時的に干されることに。

【再出発】

しかし彼には支持者がおり、その人のおかげで判決から僅か2ヶ月後に映画の復帰を果たす。
なお、その映画のタイトル名はよりにもよって『暴力教室』である。
そして、翌年の1977年には『大都会 PARTII』の出演でドラマの復帰も果たせた。
以降、『人間の証明』『蘇える金狼』『探偵物語』『家族ゲーム』など、数多くの作品で主演を務め、再び栄光を浴びることに。
映画『野獣死すべし』では役作りのためだけに山篭りを行い、そして奥歯を4本抜くなど徹底的に行った。
この時期、デビューから長らく断ってきたCM出演を解禁する。初出演となったCMは原田芳雄*3・宇崎竜童との共演であり、このCM形態も当時としては非常に画期的であった。

【ブラック・レイン~死去】

1988年、オーディションにてハリウッド映画『ブラック・レイン』の主演に抜擢。
なお書類選考の段階で落とされていたが、日本のスタッフが「彼は書類選考で落とされるようなレベルの役者ではない」とアメリカスタッフ側に粘り強く説得。
それを聞きいれたことにより、彼のオーディション用ムービーを見たアメリカスタッフが彼の迫真の演技力に感心し、そのまま抜擢することとなった。
国内で撮影を順調に続けていたが、実はこの頃彼は膀胱癌に侵されていた。

撮影から遡ること2年前の1986年、血尿に気付きすぐさま病院で検査を受けたところ癌といった大きな病ではないという診断を下された。
しかしこの血尿の原因こそが癌だったのだが、当時は運悪く発見できなかったのだろうか上記のように誤診されたのであった。
それから2年経ち、血尿を理由に再度検査を受けた結果ようやく癌が分かったということである。
しかも2年間癌に関する何らかの治療を当然行わなかったため、膀胱の4分の1が癌に侵され、更にリンパに転移した疑惑があるほど広がっていった。
当然入院治療を勧められたものの、『ブラック・レイン』の出演のチャンスを掴み取った彼は通院治療を選択する。
また撮影に支障が来さないよう、非常に効果が強い抗がん剤の使用を拒否しており、支障が来さない程度の抗がん剤を使用しながら撮影を続けた。
しかし、全く効果がなく日本でのロケが終わった頃には他の臓器に移転していたようである。

その後のニューヨークのロケでも病魔を押して参加しており、治療も撮影に支障が来さない程度の抗がん剤で行っていた。
しかし症状は徐々に悪化していったものの、最後までやり遂げたのであった。
なお、自身が病魔に侵されていることを決して共演者やスタッフに言わないようにしており、それを悟られないようトイレに行く時は必ず自分1人だけという状況で行った。*4
帰国後すぐに病院で検査を受けたところ、手術をしても無理という状態になるほど大きく広がっていった。
すぐさま入院治療を勧められたが、単発ドラマの『華麗なる追跡』の撮影が入っていたため拒否。そのまま撮影に臨むのであった。そしてこのドラマが彼の遺作となった。

1989年8月、腰の痛みを覚えるほど病状は悪化していった。
同年10月に10月6日、第3回東京国際映画祭で来日したブラック・レインのリドリー・スコット監督に「どうしても挨拶したい」と出席したが上記のことがあって舞台挨拶はせずに帰宅。
翌日は入院治療を行うことになる。
しかし最早手遅れの状態で、残された道はモルヒネで痛みを緩和することのみ。
つまりそれは彼の死を指していた。

そして、1989年11月6日午後6時45分、彼は僅か40歳にしてこの世を去った。

【没後】

彼の早すぎる死に、多くの者が悲しんだ。
葬式には安岡力也、仲村トオル、萩原健一、倍賞美津子といった役者たちが参列した。
没後、当時はマイナー作品扱いだった『探偵物語』が再び注目を浴びるようになり、没後から8年後の1997年には、缶コーヒーのCMに『探偵物語』が起用。その翌年の1998年には再編集版が公開されるなど、リバイバルブームが沸き起こった。
以降も氏をオマージュしたキャラクターが各作品に登場するようになる。

現在も活躍する芸能人には松田にあこがれて芸能界入りした人も多く、古尾谷雅人や又野誠司のようにスタイルを模倣した後輩も現れたのだが、例に挙げた二者は非常に悲しい最期を遂げてしまっている*5

2022年、自社のバーチャル技術を使って彼を擬似的に復活させる試みを東映が発表し、2024年7月にはその第1弾としてシャープのスマホ「AQUOS R9」のCMキャラクターに起用された。彼は死してなお輝き続けているのである。

【私生活】

彼が最初に所属した新演劇人クラブ・マールイにて、最初の妻松田美智子と知り合う。
彼は在日2世であることを深く気にしており、このことを世間に知られたら皆から失望されると思い決してその事を誰にも伝えることは無かった。
しかし、彼女は彼が在日2世であることを親族の身辺調査で知ることになったものの、それで別れることはなく、むしろ彼が帰化したいという要望をすぐに聞きいれたのであった。
そして少し時間はかかったものの、彼は帰化することができ、戸籍名が松田優作となったのである。
その後1975年に彼女と結婚、1976年には子宝に恵まれるなどプライベートでは幸せに過ごせていた。
当時を振り返り美智子は「彼は自分の出生についてずっと悩んでいた。ファンが好きな松田優作はどこか漫画的で、血が通っていないような気がします。」と評している。

しかしその数年後の1979年、自身が主演を務める探偵物語にて、ゲスト出演していたまだ未成年の熊谷美由紀*6と相思相愛になり、不倫をしてしまう。
彼女は松田優作と結婚したいという気持ちが非常に強く、なかなか離婚をしてくれない美智子に対して直接家に乗り込み、彼女とその娘の目の前で自身の手首を切りつけ自殺を図ろうとするなどメンヘラな行動を見せつける。
それが決定打となったのか1981年に離婚が成立し、松田優作と同棲するようになる。

長らく籍を入れてない状態だったが、松田龍平の誕生を機に結婚することとなった。
そして2年おきに、松田翔太、松田ゆう姫と子を設けるのである。
そしてその子供達は長男を順に芸能界入りし、龍平は『あまちゃん』を、翔太は『LIAR GAME』とそれぞれ当たり役を掴み取る。
ゆう姫はミュージシャンであるが、ドラマへの出演経験も。
ちなみにこの3人は上から6歳、4歳、2歳の時に優作の葬儀に参加しており、その時の様子をテレビに映されていたため、芸能界デビューするよりずっと前にテレビデビューしていた。
なお、前妻との子供だけは葬儀に参加しておらず、一般人として過ごしている。

俳優仲間では水谷豊と交流を持っており、「優作ちゃん」「豊ちゃん」と呼び合う仲だった。氏の主演作品にゲスト出演する機会も多かった。

【彼がモチーフとなったキャラ】

海軍に所属する三大将のうちの1人。
その見た目からモチーフ元は松田優作ではないか?とファンの間で話題となっていたが、単行本のQ&Aコーナーにてその事を認めるコメントを寄せた。

江戸川コナン、正確にはその正体たる工藤新一の父。
苗字が探偵物語の主人公工藤俊作、名前が演じた松田優作とそれぞれの姓名から取られており、見た目と言うよりは名前がモチーフになっている。

本編開始時点で殉職している刑事。
苗字の由来が松田優作、名前の由来が「太陽にほえろ!」で演じた柴田純刑事のニックネーム「ジーパン刑事」から取られており、彼が作中でよく欠伸をしていたのも、ジーパン刑事がよくそうしていた事からのオマージュからである。

忍術学園事務員小松田秀作の兄。扇子屋。
名前の由来が「故・松田優作」





探偵物語に続きついに松田優作アニヲタ@wikiに登場!
どういうわけだかこのアニヲタは探偵物語とか太陽にほえろ!とか人間の証明とかの彼に関わる作品が書かれているのに肝心の松田優作本人がまだ書かれてなかったりするんです。
そのうち松田龍平とか松田翔太とか彼の身内の項目が書かれたらたまげたもんだよ。
ちなみにこの文章は探偵物語の文章からちょいと借用してるってことは内緒だ。
次回「華麗なる追記・修正」
充実していない記事なんですが一つ育ててくださることをお祈りします。

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最終更新:2024年07月20日 14:35

*1 ちなみに母(及び若かりし日の優作)の国籍は生前秘密とされており、没後大分経ってから出版された松田美智子氏の著書『越境者 松田優作』で初めて公表されている。

*2 同作で主演を務めた夏夕介が特撮専門誌にて語っている

*3 松田は俳優の先輩として氏を非常に慕っており、研究のために原田の家の近所に引っ越したほどであった。

*4 ただし、特に仲の良かった共演者の安岡力也だけにはこの事を告白しており、彼自身に誰にも言わないよう告げていた。

*5 これは平成期以降テレビドラマのトレンドが変わり、アクションをメインにした作品そのものが全体的に減ってしまったことも大きい。

*6 女優・熊谷真美の妹。