瑞州合衆国連邦の著名な家系・人物

本項目では、瑞州合衆国連邦において著名である、または著名とみなされる人物について述べる。

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武家

鎮府将軍家

王や皇帝に代わって、軍という直接行使権力を司る武家政権が国内を実質的に統治した中世国家時代、特に北瑞王朝時代に興った家系である。辺境防備を指揮する、君主が最も信頼する重臣を配置した地方行政拠点である「鎮府」や、それを輔弼する諸侯による「都護府」がこの時代に制度化されたが、この内東西南北の4鎮府の長であり、各都護府を率いる権限を与えられた「将軍」位に就くことができるのは、桜町監府家、城衛大樹家、朱雀山武衛家、加州深草家の4家の世襲に限定された。この4家は本家筋として、「桜町将軍家」のように、傍流と区別され呼ばれた。

後世においてもその正統性が確立されており、瑞州を統治せんとする諸勢力は将軍家とのつながりを以てして、または将軍家たちの話し合いにより新たな将軍家として認められることにより、自身の統治権の基盤とした。


桜町氏

桜町氏(さくらまちし)は、瑞州の氏族。

桜町氏
Sakuramachi Clan
本姓
家祖
種別 武家
出身地
桜町監府家→近衛桜町家
桜町氏の一門であり、初代の桜町敦俊が八重朝瑞の時代に衛門府の長、衛門督を務めていたことから、その家系に彼の職務の漢名が充てられた。桜町氏は主君の八重皇帝家に付き従っていたが、沢谷合戦期を経て、参河熊谷家に従属。同家の起こした北瑞時代に、第6代・熊谷利秋によって、桜町頼俊が東域鎮府の長、安東将軍に任じられたことから、監府家は将軍家としての家格を得た。
後に、征南鎮府の朱雀山家が熊谷宗秋に反旗を翻した際、当時の当主である桜町一俊は宗秋派に着いて、忠を尽くした。結局は那張の戦いで宗秋が戦死し、朱雀山家への従属を余儀なくされたが、このときの忠義や功績をもって「近衛桜町家」の通称も使われるようになる。
近衛桜町家は東関柳営時代や前期戦国時代を有力諸侯として生き抜いた。御宿家に臣従した後は、その時代まで残っていた加州深草家、岩陸城衛家と共に将軍位より上の「上将軍」位を考案。御宿幕府の全国支配に正当性を与えた。
御宿幕府中で直系は断絶。現代までに残っている家系には、幕政時代に分岐し戦国大名となった遠野氏(後桜町家)、笠置幕府を開いた古海氏(分岐以後しばらくは本司名氏)がある。


城衛氏

城衛氏(じょうえし)は、瑞州の氏族。

城衛氏
Jōe Clan
本姓
家祖
種別 武家
出身地
城衛大樹家
城衛氏の一門であり、初代の城衛盛雄が熊谷朝北瑞の時代に近衛府の長、右近衛大将を務めていたことから、その家系に彼の職務の漢名が充てられた。第6代・熊谷利秋によって、城衛盛時が西域鎮府の長、安西将軍に任じられたことから、大樹家は将軍家としての家格を得た。
後に、征南鎮府の朱雀山義広が熊谷宗秋に反旗を翻した際、当時の当主である城衛盛信は宗秋派に着いたが、1171年の那張の戦いで宗秋は戦死し、朱雀山家への従属を余儀なくされた。朱雀山義広の天下のもと、城衛大樹家やその縁戚は西域鎮府や各都護府の所領を安堵されていた。しかし、1179年に西域鎮府管轄下の西海都護府を率いる、岩陸城衛氏の城衛守隆が反乱を起こし、主家たる安西将軍・城衛秀勝を殺害、西海半島を自身の勢力下とした。

岩陸城衛氏(守隆系:西海都護家)
岩陸城衛氏は、岩陸国周辺に勢力を持った、城衛氏内の一グループ。城衛大樹家の傍流であり、本家から分かれた後は代々西海都護等を務めていた。前述の通り、1179年に当時の西海都護であった城衛守隆が大樹家の城衛秀勝を殺害すると、秀勝に後継ぎがいないこと、城衛大樹家に最も近い血縁が岩陸城衛氏であったために、岩陸城衛氏のうち守隆の家系が将軍家を引き継いだ。ただし、守隆は将軍職自体は引き継がず、西域鎮府は本来傘下であったはずの西海都護府に飲み込まれる形で有名無実化した。守隆は征南鎮府政権にも反目し、西海都護府勢力と征南鎮府勢力が並存した期間もあったものの、後に戦国乱世の時代に大名勢力として没落し、武家から地方貴族へと転じた。
御宿家に臣従した後は、その時代まで残っていた加州深草家、近衛桜町家と共に将軍位より上の「上将軍」位を考案。御宿幕府の全国支配に正当性を与えた。
御宿幕府では文官の名門として数々の役職に血族を送り出したが、後期戦国時代までに直系は断絶。現代までに残っている家系には、幕政時代に分岐した城衛中丞家や、戦国大名となった笠間氏がある。


朱雀山氏

朱雀山氏(すざくやまし)は、瑞州の氏族。

朱雀山氏
Suzakuyama Clan
本姓
家祖
種別 武家
出身地
朱雀山武衛家
朱雀山の一門であり、熊谷朝北瑞の時代に代々兵衛府に兵衛尉として務めていたことから、その家系に職務の漢名が充てられた。特に朱雀山勝広は武勇の才を轟かせ、熊谷利秋によって取り立てられ、南域鎮府の長、寧南将軍に任じられた。1143年に勝広が病死した後は嫡男の義広がこれを継ぎ、また翌年、南域鎮府は攻勢を主眼とした編成の征南鎮府に改編され、義広も征南将軍となる。
以降、義広は対後罕戦で前線を張り続けたが、1154年に後罕の謀反人である外所貴彰を鳥屋野潟の戦いで討ち取り、後罕の首都であった門府を掌握すると独立志向を強める。一度は利秋への臣従をアピールするが、利秋が死亡し後を継いだその長男の宗秋には対決姿勢を鮮明にした。1164年、義広は管轄下の都護府に出陣命令を発し、京へ向けての進撃を開始した。数度の会戦を経て、1166年、宗秋は京を放棄し、東域鎮府を頼って落ち伸びた。義広は京へ入城し、宗秋のはとこにして幼年の信秋を擁立した。
この後、宗秋派についた東域鎮府(桜町家)、西域鎮府(城衛家)や、朱雀山家に同調した北域鎮府(深草家)も巻き込んだ戦乱となるが、1171年には那張の戦いで宗秋を戦死させ、信秋の病死と熊谷氏の断絶もあって、義広は皇帝ではなく将軍による政権、東関柳営として征南鎮府政権を確立した。この時、臣従した各将軍家から将軍位を引き継ぎ、東関柳営の長は4将軍を兼務することとなった [*1]
武衛家は、5代目・泰広が急死した後の後継者争い(二条の乱)やそれに乗じた混乱(稲沢の変)によって途絶え、東関柳営も瓦解し、地域国家が乱立する前期戦国時代に突入した。

参河御宿氏(直隆系:御宿上将軍家)
参河御宿氏は、参河国周辺に勢力を持った、朱雀山氏内の一グループ。元々参河国内を勢力とする有力諸侯(大名)の一家であったが、前期戦国時代末期に当主となった御宿直隆によって全国統一を成した。この際、朱雀山将軍家に連なる家系であることから、直隆は征南将軍位を引き継ぎ、その上で他3将軍への命令権をも欲した。この時代、輔国大将軍位への任命権者である皇帝位は既に無く、(既に誰も名乗っていなかったものの)他の3将軍位の請求権を持つ、御宿氏に臣従した岩陸城衛家や加州深草家、近衛桜町家と協議した結果、皇帝を輔弼する「輔国」大将軍は不適当であり、将軍位より上の「上将軍」位の創設・就任が適当であるという判断が下された。この結果、直隆は上将軍職に就き、1391年に御宿幕府を開いた。これをもって直隆系の家系は御宿上将軍家とも通称される。
第7代・尚徳は、家臣である下坂直孝に反乱を起こされ、自害に追い込まれる。尚徳は後継ぎを設けておらず、幕府とともに上将軍家は1453年に滅亡した(近衛門の変)。


深草氏

深草氏(ふかくさし)は、瑞州の氏族。

深草氏
Fukakusa Clan
本姓
家祖
種別 武家
出身地
加州深草家
将軍に任じられる前からもともと川加国に勢力を持っていた諸侯の一つと伝わっており、先祖などの出自ははっきりしていない。一説には、北陸道から東海道にかけて山賊として活動していた武装集団の長とも伝わる。深草教康が北瑞第3代・熊谷康秋によって川加国の猪子川郡守に取り立てられたことにより勢力を伸ばし、またその孫の清康は第6代・熊谷利秋によって北域鎮府を統括する寧北将軍の位階を得た。このような、地方長官の郡守程度の位階から一気に将軍職まで駆け上がる登用には、一部で反対意見も出たが、利秋としては不穏な動きを見せがちな北部諸侯に顔が利く深草家の登用は必要だったともされる。そのような経緯から、深草家を蔑視する勢力からは、この家系を「郡守家」と呼んで、他の将軍家から一段下に見る動きもあった。
朱雀山義広と熊谷宗秋の争いでは、当時の当主である義康は、初めは宗秋派に着いていた。しかし北部異民族との戦いをしている最中に、宗秋による強引な出陣命令や徴発が下り、義康は宗秋を見限る。それでも義康は、北域鎮府の軍は動かさなかったが、1166年に朱雀山義広の征南鎮府軍が京に迫ると、自身も出陣を決め、北域鎮府管轄下の各都護府にも号令を掛けた。北鎮決起す、の報に宗秋は不利を悟り、東域鎮府を頼って京を放棄し落ち伸びた。このような動きが逆徒と見做され、同時代の(熊谷氏寄りの)書物では、先述の「郡守家」呼びなど、加州深草家はさんざんに扱き下ろされている。
この後、宗秋を保護した東域鎮府(桜町家)、西域鎮府(城衛家)も巻き込んだ戦乱(縦横の乱)となるが、1171年には那張の戦いで宗秋が戦死、3将軍家は一大勢力となった朱雀山家への臣従を余儀なくされた。
加州深草家は東関柳営時代や前期戦国時代を有力諸侯として生き抜いた。御宿家に臣従した後は、その時代まで残っていた近衛桜町家や岩陸城衛家と共に将軍位より上の「上将軍」位を考案。御宿幕府の全国支配に正当性を与えた。
笠置幕府時代で直系は断絶。現代までに残っている家系には、本司名氏家臣から古海幕府の重臣となった舞草氏(参州舞草氏)がある。


政治家

古海武広

古海 武広(ふるみ たけひろ、1730年3月19日 - 1808年2月14日)は、笠置幕府の第20代上将軍、ならびに瑞州合衆国連邦の初代大統領。

生誕 1730年3月19日
死没 1808年2月14日
氏族 古海将軍家
将軍在位 1767年-1775年
大統領在任 1776年-1784年(1・2期)
1800年-1804年(3期)
経歴
第19代将軍・武親の次男として生まれる。長男は早世していたため、嫡子として養育された。1767年に将軍に就任。
英明な君主であった武広は、欧米列強の「市民自治」「共和制」の考えに触れ、「ただ一人の強いリーダー」の行う政治に限界を感じており、幕府を閉じ共和制に移行する算段をかねてより立てていた。1775年、周到な根回しを行った武広は自ら将軍位の廃止を宣言、連邦共和制への移行と男子普通選挙の実施を公表し、自身は移行期間の臨時政権を担うものとした。しかしこの共和制構想における、トップである大統領職を狙って、南東地域の旧藩主たちや公家の末裔たちが団結し、「独立宣言」を発して、翌年1月に参河・岡豆以東9州が南瑞州共和連合として蜂起した(1月蜂起)。彼らは大統領職に、中世の絶対王政君主レベルの権限があると勘違いしており、君主自体を話し合いで決めるものの、決まった後は国政のすべてをその君主や付属機関に委ねると解釈していたのである。結局武広は、共和制構想を正しく理解していた他の藩主らや高家を糾合して南瑞州共和連合に相対せざるを得ない状況に陥った。臨時政権では、武広は現在の連邦憲章の元になる諸州規約を制定し、国号を「瑞州合衆国連邦」と設定し、旧幕府軍や北西諸邦の兵を集めた近代化軍(瑞州合衆国軍)を組織した。1776年7月15日に初の民主的な大統領選挙(第一回瑞州大統領選)が南瑞州共和連合以外で行われ、武広は当初出馬しないつもりであったが、ここまで来て合衆国を見捨てるのかと周囲に迫られた結果出馬に追い込まれ、結局圧倒的多数の支持を得て初代大統領に当選した。


軍人

赤羽俊典

赤羽 俊典(あかば としのり、1908年7月8日 - 1965年10月12日)は、瑞州合衆国連邦の軍人、戦闘機操縦者でエースパイロット。瑞州合衆国連邦陸軍、瑞州国防空軍に所属した。薩鹿州出身。

生誕 1908年7月8日
死没 1965年10月12日
所属 連邦陸軍→国防空軍
軍歴 1931年-1963年
最終階級 一等空佐
経歴
1931年に陸軍に入隊、1935年から飛行第四師団の第十二戦闘戦隊に、1939年から飛行第二師団の第十一戦闘戦隊に所属した。1946年には空戦技術を買われて、首都防空を任務とする精鋭部隊・首都防空軍団に配属。第九九四独立飛行中隊に所属した。
1947年、瑞州内戦が勃発すると、部隊は国防軍首都航空集団に編入され、第4飛行中隊へと改称された。進撃してくる旧連邦軍に対し、ほぼ連日の出撃となっていたが、赤羽はそのいずれもから生還していた。1948年3月14日の戦闘で被弾し右翼端を喪失、機体はバランスを崩した。この時赤羽は死を覚悟し、寄ってきた僚機に対し「自分に構うな」というハンドサインを送っている。しかし、赤羽は天才的な操縦技術で機体を巧みに操り、油断ないし僚機を見失ってふらふらと飛んでいた1機を奇襲で撃墜。基地に無事に帰還した。これ以降彼は自らの名前に因んで、自分の機体の左翼端を赤色に塗装した。
自機の塗装からついたあだ名は「アカバネ」、敵機からは「レッドウィング」と呼ばれて畏怖の対象となった。
戦後はしばらくは国防空軍で地上配置となった後、古傷で体調を崩しがちとなったために1963年に退役した。
1965年に死去、享年57歳。


漆山徹朗

漆山 徹朗(うるしやま てつろう、1911年3月26日 - 1993年12月1日)は、瑞州合衆国連邦の軍人、戦闘機操縦者でエースパイロット。瑞州合衆国連邦陸軍、瑞州国防空軍に所属した。三勢州出身。

生誕 1911年3月26日
死没 1993年12月1日
所属 連邦陸軍→国防空軍
軍歴 1924年-1971年
最終階級 准空将
経歴
1924年に陸軍に入隊。教育部隊では視力が高いことで教官に目をつけられ、夜間戦闘機隊から勧誘を受けた。1928年、飛行第五師団隷下で新たに設立された、夜戦を専門とする第五〇一独立夜戦飛行中隊に配属され、1936年からは飛行中隊長を務めた。1946年、首都防空軍団・第九九六独立夜戦飛行中隊(七式夜間戦闘機装備)に指揮官として配属された。
1947年、瑞州内戦が勃発すると、部隊は国防軍首都航空集団に編入され、第6夜戦飛行中隊へと改称された。七式夜間戦闘機はI-1Dと改称され、漆山や隊員たちは機体を黒色に塗装し夜間迷彩としていた。撃墜数20機はすべて夜戦でのものであり、これは瑞州内戦で行われた夜戦における史上最多記録である。このうち14機は叛乱軍の爆撃機であった。
その活躍ぶりから叛乱軍兵士のあいだでは「黒い死神」、同僚たちからは機体のカラーと名字を掛けて「漆塗りのテツ」と渾名された。
1948年10月4日の戦闘で被弾、重傷を負ったためそのまま入院となり、再び戦場に戻ることはできなかった。一年後に退院。
戦後しばらくは国防空軍で夜戦教育士官となり、各部隊での夜間戦闘の教導を担当した。1971年に名誉除隊。
1993年に死去、享年82歳。


陣野原正満

陣野原 正満(じんのはら まさみつ、1908年10月8日 - 1948年7月2日)は、瑞州合衆国連邦の軍人、戦闘機操縦者でエースパイロット。瑞州合衆国連邦陸軍に所属した。越野州出身。

生誕 1908年10月8日
死没 1948年7月2日
所属 連邦陸軍→幕府陸軍
軍歴 1939年-1948年
最終階級 陸軍少佐
経歴
1934年に陸軍に入隊、1939年から飛行第四師団・第十二戦闘戦隊に所属した。
1947年に瑞州内戦が勃発すると、飛行第四師団は国防軍に編入されることをよしとせず、あくまでも旧連邦軍軍部についていく方針を固めた。部隊から国防軍派の数人が去ったが、陣野原は居残り、攻勢に参加した。戦前は目立つことがないただの一パイロットに過ぎなかったが、戦中にめきめきと頭角を現し、エースパイロットの条件である五機撃墜をやすやすと達成した。
彼の通った空域は敵機が全滅する、という評判から、味方からのあだ名は「焼野原」であった。後にこのあだ名は国防軍側にも伝わり、もっぱらの評判となっている。
1947年6月、連邦軍の中でも突出して撃墜数が多い彼を危険視したZIAの工作員により、基地内で暗殺されかかる。工作員は整備員に扮しており、陣野原が近づくとすぐさま発砲した。しかし動揺していたのか照準が狂い、銃弾は陣野原の頬を掠めただけであった。工作員はすぐさま取り押さえられ、その後行方不明となった(一説には連行される途中で逃走し、安全圏まで逃げ延びたとされる)。
同月、ZIAの暗殺失敗を受け、国防軍司令部は陣野原の殺害を目的とした特殊作戦「ロビンフッド作戦」を策定した。同作戦は通常の部隊とエースパイロットのみを集めた特殊飛行隊の二個部隊を陣野原の所属先とされる基地に送り、通常の部隊が囮として要撃を受けている間、要撃部隊にいると思われる陣野原機を特殊飛行隊によって集中して奇襲することを目的としていた。この作戦は7月2日に実行に移され、陣野原は策に嵌り撃墜され、搭乗機が爆発して戦死した。享年39歳。彼の機体は自己顕示・士気高揚のために派手な塗装を施されていたが、それが個人の識別となってしまい、仇となった。
陣野原を撃墜された連邦軍航空部隊は、芦塚茂男、新貝信久、坂江桂らの他エースの活躍もあったものの、その損失をカバーすることができなかった。結局最後まで航空優勢や制空権を国防軍から奪い返すこともできず、そのまま敗戦を迎えた。


雪野明信

雪野 明信(ゆきの あきのぶ、1914年6月26日 - 1986年9月18日)は、瑞州合衆国連邦の軍人、戦闘機操縦者でエースパイロット。瑞州合衆国連邦陸軍、瑞州国防空軍瑞州国防海軍の三つに所属した。川加州出身。

生誕 1914年6月26日
死没 1986年9月18日
所属 連邦陸軍→国防空軍→国防海軍
軍歴 1938年-1974年
最終階級 次席空将
経歴
1938年に陸軍に入隊、1942年から飛行第一師団の第三十戦闘戦隊に所属し、五式戦闘機に搭乗した。この頃から既に腕利きのパイロットとして鳴らしており、模擬戦においては一対五の不利な状況の中、高度有利を活かした戦法で全機から撃墜判定をもぎ取っている。
1945年から飛行第六師団の第四十七戦闘戦隊に配属され、高山飛行場で活動していた。1947年、瑞州内戦が勃発すると、部隊は国防軍への編入か旧連邦軍の軍部に付いていくかで揉め、結局自己判断でどちらかに分かれることとなり部隊は瓦解してしまった。雪野は国防軍に付くことを決め、首都防空を至上命令としたエース部隊・首都航空集団の第5飛行中隊に配属された。彼は空戦において47機の連邦軍機を撃墜し、内戦を通じてのトップエースとなった。
一方で、原隊である第四十七戦闘戦隊の尾翼マークを付けた機体を見つけても、通常の敵機と同様、情け容赦なしに墜としていったと同僚たちに証言されているが、当人は後年このことについて「何とも言えない、形容しがたい気持ちに襲われていた」と語っている。
戦後しばらくは国防空軍で勤務、ジェット機パイロットとなった後、その空戦技術を買われて国防海軍に転属、地上配備部隊であるVF-61に教官として所属した。現在、VF-61のコールサインが「SCHNEE」であるのは、シュネーと呼ばれた雪野を称えてのことである。
1986年に死去、享年72歳。

逸話
第5飛行中隊に限らず、首都航空集団の部隊は各パイロットにあだ名をつけることが多く、雪野は「シュネー(ドイツ語で雪の意)」と名付けられた。また、彼の機体のコックピットから機首にかけては撃墜マークが描かれ、マークは「雪」をイメージさせるよう白く塗られた。同様の理由で、部隊番号の「05」のうち「0」の部分も白く塗っている。機体左右に二つずつ、赤く塗られたマークがあるが、それは僚機を墜としてしまったときに撃墜した敵機のもので、二度と過ちを繰り返さないという雪野の強い決意の表れであった。


最終更新:2025年10月31日 22:01

*1 しかし強引な接収に反発もあったため、将軍位の承継順は武衛家の直系を第一位としながら、承継資格には各将軍家の直系を残置した。