瑞州合衆国連邦の歴史(ずいしゅうがっしゅうこくれんぽうのれきし)では、瑞州合衆国連邦の歴史について述べる。
+ | 目次 |
考古学 |
狩猟時代 鉄器時代 渡洋文明 |
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前八洲 | 古八洲政権 | ||||
玄鷲 | 丹 |
南部三王朝 (南蛮) |
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東西朝期 | 西丹 | 東丹 | |||
東丹(再統一) | |||||
五朝夷戎 | 鷲戎 | 玄夷 | 東五朝 | ||
後八洲 | 潘 | ||||
合罕 | |||||
柴 | |||||
南北諸朝 | 北朝津 | 南朝衛 | |||
統一国家 | 単 | ||||
瑞 | |||||
再分離 | 北瑞 |
後罕 (南瑞) |
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柳朝時代 | 北瑞 | 征南鎮府 | |||
柳政統一 | 西海都護府 | ||||
前期戦国 | (地域国家分立) | ||||
豊河時代 | 御宿幕府 | ||||
後期戦国 | (地域国家分立) | ||||
設楽古海家 | |||||
笠置時代 | 古海幕府 | ||||
幕共移行 | 共和制瑞州 | 南瑞州共和連合 | |||
瑞州合衆国連邦 | |||||
軍民対立 | 鹿毛川幕府 | ||||
現代 |
古くから倭語→日本語を使用してきた。
約1万2千年前の氷河期の終わり頃、瑞州の地には、日本列島から島伝いに太平洋を渡って東進してきた日本人の1グループ(先瑞洲人)がいた。彼らは大型哺乳動物や中・小型哺乳動物を狩猟対象とし生活していた。大型の哺乳動物は季節によって広範囲に移動を繰り返すので、それを追って彼らもキャンプ生活を営みながら、頻繁に移動を繰り返していた(狩猟時代)。しかし紀元前8世紀ごろ、彼らは鉄器の製造を軸として力を蓄え、移住生活でなくても定住で生活が可能な生活にシフトしていった。その中で、血縁関係にある者たちが集まって「村」を作り、やがてはほかの村と争って支配下に加えることが多くなった(鉄器時代)。また、紀元前5世紀から6世紀頃、中国大陸から渡来してきたグループが漢字を伝えたため、土器~鉄器時代の記録を漢文を用いて後世に残している。また、中国大陸や日本列島からやって来る者は多く、漢字や瑞州語(日本語)は中国本土や日本列島と同等の進化を遂げることとなった。これは渡洋文明と呼ばれる。
しかし、村が巨大化するにつれて、住人の統率は難しくなっていったようで、ついには同じ村・民族同士でも争ってしまうような時代に突入した(紀元前2世紀頃)。ここで勝利した者を頂点として、その者が指導する「洲(読みはクニ)」と呼ばれる地域的政治集団が徐々に各地に形成されていった。
1世紀・2世紀前後に各洲が抗争を繰り返し、各地に地域的連合国家を形成した。中でも、8つの洲で構成される八洲政権が最も有力であり、これが王朝に発展したとする説が有力である。3世紀ごろに、八洲政権の首長(王)は豪族(地方首長)を従えて統一国家建設を進めた。この時期に、瑞州語を操り、瑞州地域の中央辺りに住む八洲人としての自覚が次第に芽生えたとされる。
丹朝
Tan dynasty |
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首都 |
豊都(遠淡海州豊比市) 丹城(尾治州扶桑市) |
公用語 | 古瑞州語 |
皇帝 | |
225年 - 261年 | 黎文斌(開世帝) |
298年 - 299年 | 幽縦帝 |
建国 | 225年 |
別称 | 丹、大丹、古瑞洲 |
国姓 | 黎 |
丹朝の始まりは黎文斌である。彼は八洲政権を構成していた8つの洲(黎洲、季洲、吽洲、沙洲、潘洲、駿洲、信洲、陸洲)を支配していた豪族全ての血を引く人物であり、豪族たちの合議により八洲政権の首長となった。これより以前は八洲政権は豪族たちの合議により政治が為されていたが、黎春光以後は彼の血筋の者が首長として政治を執り行うようになった。二代目の黎雅嘉は「八洲」の国号、「王」号に代わる「皇帝」号を設定した。これは対外的な権威付けであると考えられる。この後、黎文斌には開世帝の諡号が贈られた。
丹の王朝名は黎文斌の出身地である黎洲丹羽郡にちなむ。これは現在の尾治州扶桑市に相当する。
丹朝は地方豪族と中央の王(黎氏)による緩やかな連合体であったため、支配地域は現在の北西地方や中央地方の一部に限られ、全国的な統一政権とはならなかった。瑞州南東部にはテオティワカン文明やオルメカ文明、マヤ文明の勢力がおり、彼らは弖南(てなん)、織売(おるめ)、合罕(がっかん)の王朝を創始して丹朝に対抗した。また瑞州北西部には遊牧民族であるチチメカ族(玄鷲、げんしゅう)がおり、これも丹朝に対抗した。沖思帝の時代には南部の潘洲や沙洲が陥落し弖南の攻勢にさらされたため、豊都から丹城に遷都されている。丹城が選ばれた理由は、かつて黎洲の都であったからである。
乙卯の乱により皇帝を名乗る者が二人出現し、それぞれが国を東西に二分(東丹朝、西丹朝)したため、東西朝時代と呼ばれる。
東丹朝 br;Totan dynasty | |
首都 | 豊都(参河州豊橋市) |
公用語 | 古瑞州語 |
皇帝 | |
299年 - 300年 | 幽縦帝 |
建国 | 299年 |
別称 | 東丹、東洲 |
国姓 | 黎 |
西丹朝
Seitan dynasty |
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首都 | 丹城(尾治州扶桑市) |
公用語 | 古瑞州語 |
皇帝 | |
299年 - 321年 | 礼熙帝 |
建国 | 299年 |
別称 | 西丹、西洲 |
国姓 | 黎 |
乙卯の乱で敗走した幽縦帝はかつての丹の都である豊都に辿り着き、ここを本拠地として礼熙帝の軍に対抗した。勢力に劣る幽縦帝は圧政を敷き民衆からの反感を買ったが、弖南や織売、合罕の三国に贈り物をするなどの懐柔策を用い、後顧の憂いを断った(蛮丹の盟)。しかしながら305年、その圧政についに民衆の不満が爆発し、豊都の乱で幽縦帝やその長男は殺害され、後継者争いの火種となるのを避けるために幽閉されていた次男が帝位を継いだ。これが文賢帝である。文賢帝やその息子の凱介帝は善政を敷き、国を安定化させた。
一方西丹は、礼熙帝も誠崇帝も最初から善政を敷いていた。しかし霊繆帝は暗愚であり、放蕩生活に溺れた末、341年には玄鷲との戦いに敗れて戦死した。残された哀懐帝はまだ10歳と幼く、東丹の首脳部は西丹に和平交渉を持ちかけるも断られた。翌342年、ついに東丹が西進を開始し、丹城はあっけなく陥落して西丹は滅亡した。この際、礼熙帝統の皇族は皆殺しにされた。
こうして東丹は悲願の両朝統一を成し遂げたが、北西部には未だ玄鷲の勢力が残っており、凱介帝自身も345年に勢力争いに巻き込まれ暗殺されてしまい、統一期間はたった3年で終わった。
東丹が勢力争いで凋落すると、各地の有力者たちが活気づいて地方国家が分立した。玄鷲は、東丹の滅亡と時を同じくして西部に勢力を持つ鷲戎(じゅじゅう)、北東部に勢力を持つの玄夷(げんい)の二つに分裂し、またそれぞれが次第に八洲人と同化していった。南では特に力を持った五朝が分立し、北では鷲戎と玄夷が勢力を持っていた時代を、東西朝時代の中でも特に五朝夷戎時代と呼ぶ。なお、弖南や織売、合罕の南東部三国は南蛮と呼ばれ、東五朝の内に入らない。
国名 | 姓氏 | 領地 | 備考 |
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先衛(せんえい) | 白姓衛氏 | 静駿州の一部、重賀州の一部、紀山州の一部 | 南北諸朝時代の「衛」と区別するため先を付けて呼ばれる。 |
白姜(はくきょう) | 姜氏 | 先衛に従属 | |
鄭(てい) | 鄭氏 | 先衛に従属 | |
朱参(しゅさん) | 朱姓洪氏 | 遠淡海州南部、近海州の大半 | |
蔡栄(さいえい) | 隗姓蔡氏 | 朱参に従属 | |
南宮(なんきゅう) | 南宮姓 | 朱参に従属 | |
朱単(しゅぜん) | 朱姓 | 朱参に従属 | |
梁崗(りょうこう) | 梁姓馮氏 | ||
梁丹(りょうたん) | 黎姓 | 遠淡海州豊比市一帯 | 梁崗の保護下 |
大武(たいぶ) | 武氏 | 尾治州大武市一帯 | 梁崗に従属 |
林紫(りんし) | 万俟姓公氏 | ||
西鄭(せいてい) | 蒲姓鄭氏 | 林紫に従属 | |
季潘(きばん) | 季姓潘氏 | 林紫に従属 | |
暁北(ぎょうほく) | 許姓江氏 | ||
曾師(ぞうし) | 戎姓師氏 | 暁北に従属。元は鷲戎族貴族 | |
龍鳳(りゅうほう) | 戎姓龍氏 | 暁北に従属。元は鷲戎族貴族 | |
玄石(げんごく) | 玄姓石氏 | 暁北に従属。元は玄夷族貴族 | |
鍾諏(しょうしゅ) | 鍾氏 | 暁北に従属 |
国名 | 氏族 | 領地 | 備考 |
木曾(きそ) | 鷲戎族 | 中濃州木曾市一帯 | 東朝文化に迎合した鷲戎系貴族が八洲人化して建てた国家。 |
鳴波(めいば) | 玄夷族 | 波島州一帯 | 東朝文化に迎合した玄夷系貴族が八洲人化して建てた国家。 |
潘朝
Pan dynasty |
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首都 | 豊都(参河州豊橋市) |
公用語 | 古瑞州語 |
皇帝 | |
408年 - 413年 | 潘国亮(雍宣帝) |
471年 - 499年 | 孝哲帝 |
建国 | 406年 |
別称 | 潘、大潘、古瑞洲 |
国姓 | 潘 |
潘氏のルーツは玄夷族の地方貴族にまで遡るとされ、明確に記録上に現れるのは五代目とされる潘雲紀からである。鳴波国において、潘雲紀は軍の武将としての扱いを受けていたが、同時に野心高い人物でもあったようで、巧みな謀略を駆使してついには鳴波皇族の外戚にまで上り詰めた。その後彼は敵対勢力の放った刺客に暗殺されるも、その息子である潘国亮もやはり野心高く、鳴波に反旗を翻して独立。400年に潘の建国を宣言し、その二年後には鳴波を滅ぼした。
この新興勢力に対し五朝や木曾は警戒の色を強め、藍帆などによる連衡策(五朝および木曾を横に束ね、北の脅威である潘に対抗する)などが提唱された。一時は対潘大同盟が結成される事態となり潘は窮地に陥るも、潘国亮は宰相・胡又儒が提唱した合従策(潘と五朝・木曾で個別に同盟を結び、縦に連結する)を取り入れ、ピンチを乗り切った。その後潘国亮は国家を挙げて南下を開始し、五朝の一つである梁崗の保護下にあった丹朝の末裔国家・梁丹国および豊都を支配下に置くと、丹朝皇族家の末代である黎宜雅から禅譲を受けて雍宣帝として即位した。これを以って潘朝八洲が成立したと見なされるが、かつての丹朝の支配領域を再統一するまではこの後も数年掛かっている。
成立当時の八洲政権や丹朝、そして潘朝の支配地域は、現代瑞州の全域に及ぶものでなく、北西や南東などはまだ領域外だった。しかし南東の弖南や織売に対しては、紀元5世紀頃に潘朝による征服がなされ、支配下となった。特に5世紀前半は、北米・南米遠征も計画され、実際に侵攻が行われる(北狄・南蛮征伐)など帝国としての対外志向が強まった時期だが、5世紀中盤に入り、こうした動きも沈静化した。
八洲は5世紀前半から中華の法体系・社会制度を急速に摂取し、古代の中央集権国家としての完成を見た。
一方で、八洲は潘朝の統治下で安定したかのように思われたが、第三代皇帝である孝哲帝が後継者を決めないまま厠で急死したために、各地の領主たちが自らに都合の良い皇族を担ぎ上げて皇帝に推挙するお家騒動が勃発。やがては武力抗争にまで発展し、継承戦争が始まる。
後継者として有力と見られていたのは孝哲帝の弟である潘博然であり、博然のもとには豪氏や郭氏といった氏族が集まっていた。しかし豪氏と並ぶ有力氏族である秦氏は孝哲帝の外戚である黄鵬を推薦し、意見を異とした両勢力は武力に訴えた。
当初こそ潘博然の側が優勢であったが、450年に彼が急死(急性アルコール中毒と言われる)すると、その勢いは衰えた。翌年に黄鵬は即位を宣言したが、国号を「黄」に変え、継承戦争に功績のあった諸侯に封土を与えた上で、丹朝のような合議体による理想政治を目指したため、中央集権を理想とする秦氏の造反を招いた。このため、黄鵬は潘朝の皇帝と見做されていない。
一方で、孝哲帝の第二皇子である潘江春は、鎮北将軍として八洲北部防衛の任に当たっており、懐柔のために鷲戎族の貴族の娘と結婚し、姓を柴に変えていた。継承戦争勃発直後は北走した木曾国の残党(北曾)と戦っており、候補として名前を挙げられることはあっても、とても後継者争いに口を出せる状況ではなかった。459年に彼が戦死した後も嫡子の柴子良が引き続き任務に当たっていたが、467年に玄夷を鎮圧すると、黄鵬や秦氏に反発する豪氏や郭氏から皇帝候補として担ぎ出され、継承戦争に参戦した。
柴朝
Sai dynasty |
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首都 | 中城(常陸中州荊城市) |
公用語 | 古瑞州語 |
皇帝 | |
471年 - 480年 | 柴子良(明寧帝) |
608年 - 610年 | 孝哲帝 |
建国 | 551年 |
別称 | 柴、大柴、古瑞洲 |
国姓 | 柴 |
継承戦争を終結させた柴子良は、潘朝が首都としていた豊都に入京すると、471年に即位した。
これまでの王朝である黎や潘は中華に大きく影響を受けた統治システムや社会文化であったのが、柴の翼公帝が即位した頃から次第に中華文化との剥離が著しいものとなり、人名なども瑞州独自のものとなっていった。
六代目皇帝・干虚帝は非常に愚鈍で好色な皇帝であったと伝えられる。国中の美女を集めては王宮で侍らせており、臣下に讒言する者があれば自ら手討ちにするか、そうでなければ無実の罪を着せて処刑するなど、恐怖政治を敷いた。一方で対外戦争に関しては「天賦の才」を発揮したとされ、潘朝継承戦争にどさくさに紛れて八洲支配下から独立していた弖南や織売に侵攻、これを支配領域に取り戻した。戦後の論功行賞により封土を加増された地方豪族も多くいたため、臣下の間では不満こそ溜まっていったが、それが大爆発を起こすような事態にはならなかった。
しかし、干虚帝が崩御し次男の元章帝が即位すると事態は一変した。元章帝の異母兄で長男の柴道成は、父の干虚帝に讒言したことと、母の身分が低いことで皇位継承順では下位に位置していたが、長幼の序を理屈として自身が皇帝になるべきと主張。それに賛同する名門の衛氏(尾治)や真浦氏(信濃)などを中心とする諸侯と共に蜂起し、609年2月に濃尾の乱が勃発した。
また、元章帝は父親の政治を反省し、荒廃した国内を立て直すために中央集権化を推し進めようとしていたのだが、その中に「諸侯の封土削減・皇帝直轄領の増加」という政策が含まれていたため、諸侯たちが反発したのも乱の原因であった。これらの政策は一般庶民たちからは支持を得たものの、諸侯たちにとっては不愉快なものであったのだ。
609年12月7日、柴軍は道成軍を急襲し、総大将の道成を殺害する(飯田の戦い)。しかし諸侯たちは新たに、衛氏の当主である衛士門を総大将とし、再び柴軍に挑んだ。戦上手として知られた衛士門の指揮に、柴軍は敗北を重ね、610年10月24日には鹿児島の戦いで柴軍が殲滅され、元章帝は戦死。残された皇族たちも捕縛・処刑され、ここに柴朝は滅亡した。
柴朝が滅亡した後、濃尾の乱で連合を組んだ衛士門・真浦秀志は反目し合い、それぞれが独自に王家の創立を宣言する。611年、衛氏と真浦氏の対立は武力衝突に発展し、庄内川の戦いで真浦軍が衛軍を撃破、衛氏は本拠地であった尾治を失い、南方に逃れることとなる。これを以て真浦氏の建てた北朝(津朝とも)と、衛氏の建てた南朝(衛朝とも)が並立する南北朝時代の始まりであるとする説が一般的である。
真浦氏・衛氏による南北朝並立の時代は30年足らずで終了した。後衛は本拠地や従属していた異民族の領域を失っても、他の氏族と結んだ婚姻関係を軸に良好な統治を行ったのに対し、津の統治は上手く行くことがなく、二代目の皇帝・真浦俊直の死後にさらに十三国に分離した。
国名 | 姓氏 | 領地 | 備考 |
---|---|---|---|
後衛(こうえい) | 白姓衛氏 | 瑞州南部 | 五朝夷戎時代の「衛」と区別するため後を付けて呼ばれる。南朝衛とも。 |
津(しん) | 海姓真浦氏 | 瑞州北部 | 海津、大津とも呼ばれる。 |
八代(やつしろ) | 南宮姓全氏 | 梨甲州 | 北朝十三国の一つ。 |
武江(ぶこう) | 隗姓播野氏 | 那橡州、埼武江州、神相州 | 北朝十三国の一つ。 |
周芳(しゅうほう) | 周姓齋氏 | 山防州 | 北朝十三国の一つ。「すわ」とも。 |
羽州(うしゅう) | 秋姓 | 秋羽州 | 北朝十三国の一つ。 |
楠成(なんじょう) | 成姓鄭氏 | 濃波州、林播州 | 北朝十三国の一つ。 |
常陸(ひたち) | 成姓鄭氏 | 常陸中州、能石州、嶺狭州 | 通常北朝十三国とは数えられない。のちに鄭橘、嶺に分裂する。 |
鄭橘(ていきつ) | 成姓鄭氏 | 常陸中州 | 北朝十三国の一つ。 |
嶺(れい) | 干氏 | 能石州、嶺狭州、波島州 | 北朝十三国の一つ。 |
対島(つしま) | 朱姓 | 岩陸州 | 北朝十三国の一つ。 |
武遠(ぶえん) | 武姓杜氏 | 中濃州、濃前州 | 北朝十三国の一つ。 |
高(こう) | 高姓 | 三勢州、嶋海州 | 北朝十三国の一つ。後に単朝に組み入れられるが、その間に主君の愚鈍を理由とする「飯高崩れ」が発生し、統治者が家臣だった八重氏に代わる。 |
板(ばん) | 板姓城氏 | 重賀州 | 北朝十三国の一つ。 |
淡海(あわうみ) | 冷姓木菱氏 | 尾治州、遠淡海州、近海州 | 北朝十三国の一つ。 |
紀州(きしゅう) | 井姓 | 紀山州、静駿州 | 北朝十三国の一つ。 |
単朝
Zen dynasty |
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首都 | 岡山(吉備作州岡山市) |
公用語 |
弖南語 上代瑞州語 |
皇帝 | |
610年 - 654年 | 単富賢(忠壮帝) |
737年 - 740年 | 慎舒帝 |
建国 | 551年 |
別称 | 単、弖南 |
国姓 | 単 |
柴は対外戦争で領土を拡大し、南蛮と呼ばれていた異民族である弖南や織売を従属させ、各地域に督部を置いて彼らを支配していた。しかし濃尾の乱の混乱で、支配地域に置かれていた督部の権力も次第に減衰していた。609年末、備州の弖南族・羅國辰が蜂起し、備州督部を攻め滅ぼすと、弖南国家の再建を宣言した。しかし羅國辰は未だ若く、後継ぎもないままに、翌年正月の酒の席で急死する(死因は急性アルコール中毒とみられる)。困り切った弖南の各族長たちは、羅國辰の従兄であり、勇将の誉れ高かった単富賢を擁立し、皇帝に即位させた。これを以って単朝が始まったとみられる。
富賢は国力を温存するために、向かってくる敵には対処するものの、南北朝の争乱で混乱していた八洲への介入は避けていた。また同盟や契約を駆使し、北朝十三国のどれかに力を貸すなどの方針を以って力を伸ばし、次代の誠崇帝の時代、670年代前半には織売や合罕も糾合して一大勢力となっていた。社会基盤も整い、期は熟したと判断した三代目の彭強帝は八洲への侵攻を開始。721年までには南北朝全ての領域が単朝の支配下に入り、八洲は初めて異民族により統一された。
しかしながら八洲人の反抗も根強く、単朝の支配も安定しなかった。729年に八洲人官僚である許政宏と趙義憲が許趙の乱を引き起こすと、仁容帝は武勇で知られ単に忠誠を誓っていた八重伸隆を鎮圧に派遣した。一旦は反乱の鎮圧に成功するものの、732年に今度は伸隆が反乱を起こし(単勢戦争)、有効な対処策も見つからないままに単の支配領域はみるみる削り取られ、740年に首都の岡山が陥落。幼少の慎舒帝は行方不明となり、ここに単は滅亡した。
瑞朝
Zui dynasty |
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首都 | 鈴鹿(三勢州鈴鹿市) |
公用語 | 瑞州語 |
皇帝 | |
740年 - 749年 | 八重伸隆 |
813年 - 839年 | 八重忠隆 |
建国 | 740年 |
国姓 | 八重 |
北朝十三国の一つ・高の重臣で、数多くの周辺諸国との戦争で武勇を轟かせていた八重伸隆は、主君である高一輝の愚鈍を理由に飯高崩れを引き起こす(724年)。一輝は就寝中に襲撃、暗殺された。大河内氏は一輝に嫡子がいなかったため廃絶となり、また裏工作により高国の家臣たちの支持も集めた伸隆は、同国の実権を握った。伸隆は、急速に力を伸ばしてきた単へ歯向かうことは得策ではないと判断し、単へ帰順した。その結果、仁容帝にその武勇の才を見込まれ、伸隆は単の重臣として召し抱えられた。
729年に八洲人官僚である許政宏と趙義憲が許趙の乱を引き起こすと、仁容帝は伸隆を鎮圧に派遣した。許軍や趙軍に対する二方面作戦を強いられ苦戦するものの、伸隆は一旦は反乱の鎮圧に成功する。しかし単の支配能力の低下や腐敗を見て取った伸隆は、今度は自分が単に反旗を翻した(単勢戦争)。八重軍叛逆の報に、仁容帝は驚きのあまり吐血、失神し、そのまま崩御した。次代の逸淵帝は、戦上手で知られる伸隆に対し有効策を取ることができず、また勢いに乗る伸隆が単の重臣たちを大量に調略したために、瞬く間に支配地域を失っていった。逸淵帝本人も737年に崩御し、後を幼子の慎舒帝が継いだものの、残った家臣たちにそれを守り立てて単の支配を復活させる力はもう残っていなかった。
740年に単の首都である岡山を攻め落とした伸隆は、皇帝の座に就き(八重戴冠)、瑞朝を新しく開いた。首都は鈴鹿(三勢州)。「瑞」、つまり天が善政に感じてくだす、めでたいしるしへの期待としてこの国号を設定したと考えられる。またこの頃になると、皇帝の「諡号」の伝統が消失し、皇帝名は「本人の名+帝」で表記されるようになっていった。この時読み方としては、名の部分が全て音読みで読むことが非常に多い(例:八重伸隆(やえのぶたか)→伸隆帝(しんりゅうてい))。
即位後、伸隆帝は次なる標的を、許趙の乱や単勢戦争のどさくさに乗じて独立した小国家群を標的を定めたものの、瑞の勢いを既に知っていた数か国はすぐに降伏した。伸隆帝は戦場での苛烈さや野心の高さ、計算高さとは対照的に、配下に対しては慈悲深い人物でもあり、投降した君主家である城氏と木菱氏らを家臣団に加え入れている。降伏したいずれの主君筋も伸隆帝は厚遇したことから、家臣団の結束力はより強いものとなった。そしてこれは瑞の政権運営の原動力となった他、瑞の重臣格の家は貴族となり、現在でも存続しているような名家となった。しかしながら、降伏を拒んだ国に対しては、伸隆帝は徹底的な制圧戦を展開した。
747年に鄭橘、武遠を滅ぼした伸隆帝は、高くそびえたつ山々に囲まれうかつに手出しのできない後嶺と、未だ統一のされていない西海半島地域を天秤にかけ、748年に半島征伐を決意。総動員した船上戦力と、半島の付け根にある梨甲地域を支配する八代を攻め落としてからなだれ込む地上戦力の二軍を分けた伸隆帝は勝利を確信していた。しかし、菊多沖海戦の勝利の報に喜んだのもつかの間、自らも山々に囲まれて飛び出てくることはないだろうと踏んでいた後嶺が侵攻を開始し、波島地方を占拠したという急報が届いた。波島は首都の鈴鹿の目と鼻の先であり、しばし逡巡した伸隆帝は、船上戦力を引き戻して嶺へ急行させるも、749年に後嶺軍と向かい合った御嶽山の陣中にて、風邪をこじらせて没してしまう。遺言通りに帝位と家督を相続した嫡子の芳隆帝は対嶺戦の続行を指示しつつ、八代方面軍の指揮官の真方頼実に和睦を指示。ひとまず西海半島への戦役は中止され、瑞は後嶺との戦争に全力を投入することとなる。
750年、瑞軍上層部(柳営と称される)は集結しつつある全軍を三手に分け、山防方面から嶺狭を攻撃する嶺狭方面軍、常陸中や濃前方面から能石を攻撃する能石方面軍、重賀や三勢方面から波島を攻撃する波島方面軍が編制された。それぞれの方面軍大将には鎮北将軍、鎮西将軍、鎮東将軍の位が与えられ、それぞれ右藤吉胤・藪上邦茂・衛昌晃の三人が将軍職を拝命した。また、内政統治に忙しい皇帝に代わり、継続して集中的に全軍を指揮できる階位として輔国大将軍の位が新設され、大鳥井重輝が大将軍位に就いた。輔国大将軍は柳営のトップであり、軍政・軍略面に関して非常に大きな権限を有していた。
同年十二月、にらみ合いを破り、帝国軍が嶺の勢力範囲に進出するも、後嶺軍は地の利を最大に活かしてこれらを撃退。何度目かの侵攻失敗に際し、一度鈴鹿に帰っていた芳隆帝から(激励のつもりで)視察を行うという報告を受けた重輝は、皇帝の到着までになんとかして後嶺を攻め滅ぼさないといけないと焦り始め、ついには自身が陣頭指揮を執ると宣言。機動力を重視し、重装備で移動速度の遅い近衛兵の護衛を付けずに出撃するも、後嶺軍伏兵の挟撃に遭い討ち死にを遂げる。後任には木菱宜之が着任した。
木菱はこの時数え年で76歳という高齢であったが、十三国時代を淡海の王として生き抜いてきたその老練的な手腕は衰えを知らず、的確に軍を動かすことで後嶺軍を徐々に後退させた。752年4月、能石を制圧したことで嶺狭・波島で後嶺が分断されてしまい、「瑞帝国内での自治を認めてくれないなら戦うまで」という消極的主戦論を唱える嶺狭の後嶺(西嶺)と「帝国の首都・鈴鹿のある三勢まであと少し、攻め込めば勝てる」という積極的主戦論を唱える波島の嶺(東嶺)の二つに分かれた。東嶺がこのような主張をしたのは、東嶺の成り立ちとして、もともとは開戦時に嶺本土から出撃して波島を占拠した遠征軍が主体となって統治する軍事国家であったからで、冷静な判断を下せず血の気が盛んだったことによる。東嶺はもとより、瑞洲の中央政権による統一を目指す芳隆帝としては西嶺の主張も受け入れるわけにはいかず、結局は二つを相手にし戦うこととなってしまった。翌年、三勢から出撃した皇帝直下の近衛軍と鎮東将軍の軍勢の挟撃にあい東嶺は滅亡。残る西嶺もよく抵抗したものの、760年までには降伏した。
8世紀から9世紀にかけて、戦乱に巻き込まれた地方豪族や有力農民は、勢力の維持・拡大を図り、武装するようになった。彼らはしばしば各地で紛争を起こすようになり、政府は制圧のために中下級の貴族(公家と呼ばれる)を押領使や追捕使に任じて、各地に派遣したが、中には在庁官人となってそのまま定着するものも現れるようになった。これが武士の起こりである。武士は家子や郎党を率いて戦を繰り返したが、やがて連合体である武士団へと成長した。中でも中央貴族の系譜を引く平沢氏と熊谷氏は、軍事貴族である武家となって、武士を二分する勢力に成長した。また、戦時にのみ設置される最高司令部である柳営が、嶺山の陣における占領地域で軍政を敷いたことで、武家の領域支配の先例が確立された。これは後に、領域統治主体が皇帝から、軍を直接指揮できる将軍に移っていく遠因となる。
沢谷合戦期(たくこくがっせんき)とは、武家の二強として成長した平沢氏と熊谷氏による対立、戦乱の時代である。瑞朝の皇帝・忠隆帝が後継者決めに腐心している最中に亡くなってしまったため、忠隆帝の弟である清隆を推す平沢氏(能石平沢家)と、忠隆帝の側室が産んだ年少の遺児、徳千代を推す熊谷氏(参河熊谷家)で対立が勃発した。その対立は次第に軍事的な衝突となっていき、統一国家・瑞朝は瓦解してしまった。
戦乱は150年以上にも及び、当然の帰結として後継者たちもみんな死んでしまって、沢谷合戦は後継者決めの戦争から平沢氏・熊谷氏の権力闘争という構図に変化してしまっていた。1001年、鉢伏山の戦いで平沢氏が滅ぶと、名実ともに熊谷氏が瑞洲のトップの座に就いた。しかしこの混乱に乗じ、合罕の末裔・乙孩氏が自身の領地で独立を志向。やがて古代南蛮や瑞の伝統を糾合した罕(後罕)が成立し、熊谷瑞洲と拮抗を始める。
10世紀から12世紀にかけて、旧来の皇帝を中心とする古代の律令国家体制が大きく変質し、武士の熊谷氏らが実権を掌握する武家政権が保守的貴族勢力と拮抗しながら国内を統治する中世国家へと移行した。熊谷氏が継承した瑞(北瑞)と、後罕(南瑞)が併存する体制はしばらく続いたが、1153年には北瑞が設置した軍事機関・征南鎮府が後罕を滅ぼした。
瑞 Zui dynasty (Northern) |
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首都 | 大京(瑞京府) |
公用語 | 瑞州語 |
君主 | |
1001年 - 1015年 | 熊谷辰秋 |
1138年 - 1161年 | 熊谷利秋 |
1172年 - 1175年 | 熊谷信秋 |
成立 | 1001年 |
別称 | 瑞洲、熊谷瑞洲 |
熊谷氏は八重氏から帝位と国を継承したが、実体としては諸侯の連合体であり、熊谷氏は封土や官位を諸侯に分与する権限こそあったものの、これまでの皇帝のような強力な統治権限を全土に行使することはできなかった。このことから、多くの「洲(クニ)」が連帯して開かれた王朝であることを示す「瑞洲」が別称として用いられるようになり、これが現在の「瑞州」という国名に繋がる。熊谷氏は自らの直轄地のみに直接の権力を振る得たが、このときその直轄地かつ拠点であった葛城洲の一部地域を「大京」と改称し、首都とした。現在の瑞京である。また皇帝の位階もだんだんと廃れていくことになる。
それでもなお、第6代・熊谷利秋の頃には王朝は全盛期を迎えた。利秋は制度改革を進め、辺境防備を指揮する、最も信頼する重臣を配置した地方行政拠点である「鎮府」、それを輔弼する諸侯による「都護府」を配置した。鎮府の長たる将軍には大武家が抜擢され、東域鎮府(安東将軍:桜町家)、西域鎮府(安西将軍:城衛家)、南域鎮府(寧南将軍:朱雀山家)、北域鎮府(寧北将軍:深草家)の4鎮府が置かれた。1144年、利秋は後罕の打破を決意。南域鎮府が攻勢を主眼とした編成の「征南鎮府」に改編され、今までにらみ合いの状態であった対後罕戦線が再燃する。
罕
Kan dynasty |
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首都 | 門府(穴門州穴門市) |
公用語 | 瑞州語 |
皇帝 | |
1003年 - 1018年 | 乙孩正嗣 |
1145年 - 1153年 | 乙孩崇洋 |
建国 | 1003年 |
別称 | 井、瑞洲 |
国姓 | 乙孩 |
南部瑞洲を拠点とした後罕は、首都を穴門国・門府と定め、郡県制を採用した。
1144年ごろから北瑞の再侵攻が始まり、またその先鋒を担った征南将軍の朱雀山義広が無類の戦上手であったこともあり、後罕は次第に追い詰められていく。門府まで北瑞が迫った1153年7月18日、皇帝・乙孩崇洋が陪臣の外所貴彰に殺害され、ここに後罕は滅亡した(玄武門の変)。
征南鎮府
Margrave toward Southern Region |
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首都 | 豊河(参河州豊川)→門府(穴門州穴門市) |
公用語 | 瑞州語 |
征南将軍 | |
1144年 - 1179年 | 朱雀山義広 |
1179年 - 1389年 | 保坂康正 |
建国 | 1175年 |
別称 | 東関柳営、朱雀山政権 |
北瑞第6代・熊谷利秋が進めた制度改革により誕生した、辺境防備を指揮する、最も信頼する重臣を配置した地方行政拠点である「鎮府」のうち、南域鎮府が前身である。南域鎮府の長、寧南将軍には朱雀山勝広が任じられ、他の将軍位ともども世襲することが定められた。1143年に勝広が病死し、嫡男の義広がこれを継いだ。翌年、南域鎮府は攻勢を主眼とした編成の「征南鎮府」に改編され、義広も「征南将軍」となる。以降、義広は対後罕戦で前線を張り続けた。
玄武門の変後、義広は後罕の謀反人である外所貴彰を鳥屋野潟の戦いで討ち取り、門府を掌握した。旧後罕の領域に、征南鎮府の管轄下にある都護府を大幅に増やしたため、朱雀山氏の勢力自体も急成長した。軍閥「征南鎮閥」として勢力を拡大し続ける征南鎮府を危険視して、熊谷利秋は征南鎮府を南域鎮府に、征南将軍を寧南将軍に戻し、戦時編成を解除する勅令を出したものの、義広は「南蛮の脅威一掃され難し」としてこれを拒絶した。しかし義広は、自身が上京しての釈明と、血判の作成、嫡男の政広を人質に差し出したことにより、利秋の怒りを鎮めることに成功した。
1161年に利秋が死去すると、義広は手のひらを返したように、熊谷氏の許可なしに有力武家との婚姻仲介を進めるなど、血判の誓約内容に違反した行動をとるようになる。利秋の後を継いだ宗秋が軍備を整えているのを知るや否や、1164年、義広は管轄下の都護府に出陣命令を発し、京へ向けての進撃を開始した。数度の会戦を経て、1166年、宗秋は京を放棄し、東域鎮府を頼って落ち伸びた。義広は京へ入城し、宗秋のはとこにして幼年の信秋のみを残して、熊谷氏の縁戚を一人残らず探し出し殺害するか、または出家させた。
以後、義広は信秋を擁立した政権を確立し、寧北将軍として北域鎮府を率いていた深草家もこれに同調。宗秋を奉じる東域鎮府(桜町家)、西域鎮府(城衛家)との争いになった。1171年には那張の戦いで宗秋を戦死させ、戦う理由が消滅した二家とも和睦。信秋を傀儡とする体制がこのまま続くかと思われたが、1175年、信秋が流行り病をこじらせて、後継ぎを残さぬまま死去し、熊谷氏が断絶してしまう。
もはや圧倒的な武力を前に各将軍家も朱雀山家に従属せざるを得ず、北瑞の政府官僚も征南鎮閥出身者に挿げ替えられたことで、朱雀山家の天下が一時は確定した。もはや義広は帝位を必要とせず、将軍による武家政権(東関柳営)が瑞州の史上初めて成立した [(*1)] 。しかし代替わり時の混乱を狙った政権奪取という、義広が成し遂げたこの偉業は、むしろ悪しき先例として後世に影響を及ぼした。義広が死去した1179年、朱雀山家の暴挙に不満を抱いていた、西域鎮府管轄下の西海都護府を率いる城衛守隆 [(*2)] が反乱を起こし、主君にして主家筋の安西将軍・城衛秀勝を殺害し、西海半島を自身の勢力下とした。柳営によって全国が統一された期間は4年ほどであり、以後しばらくの間、西海都護府勢力と征南鎮府勢力が並存する。
東関柳営は5代目・泰広が急死し、後継者を明確に指名しなかったため、後継者争いである二条の乱が勃発する。泰広の遺児である正二郎はまだ2歳であったため、泰広の弟である清広を推す重臣・相野田重浩と、正二郎を推す屋宜正芳の間で意見が割れたためである。二条の乱は当初屋宜軍が優勢であり、正二郎は一度は正式に将軍位に就くが、西海都護府の介入もあり、戦局はだんだんと悪化、泥沼化した。1214年12月、正二郎は陣中にいたところを間諜(スパイ)によって暗殺される。流石に非道な戦い方であると、勝ったはずの清広・相野田軍の元から離反者が続発し、清広は一度は念願の将軍位に就いたわけであるが、翌年には重臣の裏切りに遭い謀殺されてしまう(稲沢の変)。
朱雀山家の本家筋が絶え、東関柳営も内乱によって瓦解すると、各地の諸侯が自らの覇を唱えて争いを始めた。地域国家が乱立する前期戦国時代が始まって、いよいよ収集がつかなくなった。
13世紀から15世紀までの時期には社会の中世的な分権化が一層進展したが、政争による統一政権の衰退を決定機として、13世紀前半頃から大名勢力による地域国家の形成が急速に進んだ(戦国時代)。この戦国大名たちは、もともとは封建制によって各地を領有した武家であり、その武力を背景に、自国こそが正統な統一国家であることを主張した。この地域国家の形成は中世社会の再統合へと繋がり、一度は御宿家による統一政権が発足した。一般的に、二条の乱からこの御宿幕府の成立までの時代を「前期戦国時代」と呼ぶ。
御宿幕府
Mishuku Shogunate |
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首都 | 豊河(参河州豊川市) |
公用語 | 瑞州語 |
上将軍 | |
1391年 - 1399年 | 御宿直隆 |
1448年 - 1453年 | 御宿尚徳 |
建国 | 1391年 |
別称 | 瑞洲 |
上将軍
朱雀山将軍家の傍流である参河御宿家は、前期戦国時代末期に御宿直隆という名将を生み、数々の合戦を経て御宿家の天下を勝ち取った。彼は朱雀山将軍家から征南将軍位を引き継ぎ、次いで輔国大将軍位への昇格を主張した。この時代、輔国大将軍位への任命権者である皇帝位は既に無く、(既に誰も名乗っていなかったが)他の3将軍位の請求権を持つ加州深草家、近衛桜町家、岩陸城衛家と協議した結果、皇帝を輔弼する「輔国」大将軍は不適当であり、将軍位より上の「上将軍」位への就任が適当であるという判断が下された。この結果、御宿直隆は上将軍職に就き、1391年に御宿幕府を開いた。以後、御宿幕府の滅亡までを、政庁が置かれた豊河にちなみ「豊河時代」と呼ぶ。
上将軍家である御宿家は、家臣の大名である下坂直孝が豊河に攻め入ったことによって、1453年に滅亡した(近衛門の変)。当時の上将軍であった尚徳はまだ7歳であり、補佐すべきである公家たちは誰が実権を握るか抗争しており、腐敗していた政権に見切りをつけた下坂によって、周りの公家ともども上将軍は打ち倒されてしまったのである。尚徳は自害に追い込まれた。
最終盤では権力はほぼ無きに等しい状態であったものの、幕府というストッパーを失った瑞洲国内では再び戦乱が拡大し、16世紀末に古海武利によって瑞洲の統一政権(笠置幕府もしくは古海幕府)が樹立されるに至り、近世へと移行した。
前期を含めた戦国期においては、北朝十三国の末裔を自認するなど、特徴的な国の出現も散見される。例えば後期戦国時代に、嶋津国答志郡付近で興った「後鳳」は、五朝夷戎時代から続く名家が指導する、土着の武士層による一揆のもと成立したとされ、今でいう選挙王政を採用するなど、かなり特異である。
前期・後期を通した戦国大名家の中でも、かつての王家、皇帝家の末裔(とされる者)を王に戴いて、大名自体は幕府を開き実権を握るという場合や、先祖に将軍家があると主張し、将軍家としての復権を期して幕府を再興させる場合があった。後者の最もたる例は古海氏である。古海家の系図を辿ると、12世紀ごろに安東将軍として東域鎮府を管轄した、近衛桜町家にまで遡ることができる。戦国期の頃には既に、王や皇帝などの「官位を授与する目上の存在」は国内に消失しており、古海氏や他の氏族が将軍家と名乗っても(王家の自称と同様)それは自称に過ぎず、本来は意味を為さないはずであった。しかしながら、豊河時代初期に、「鎮府将軍家」と呼ばれるかつての4将軍家が合議した結果、4将軍より目上の「上将軍」位が認められ、上将軍家をトップとした幕政・官位体制が確立した。諸侯は上将軍に就任し天下へ号令せんと、様々な手段で上将軍就任への正当性を得るのに奔走した。
古海氏は、元は近衛桜町家の傍流であり、豊河時代には本司名氏(もとしなし)を名乗る幕臣の立場にあった。参河国内に領地を有していたものの、国境の設楽郡などを有するにとどまり、あまり表舞台には立たない一族であった。しかし、その後の後期戦国時代を巧みに生き抜き、15世紀まで家名を存続させていた。1512年、若くして設楽古海家の当主となった古海武清は、先祖が将軍家であり、後任者がいなくなったが故に、自らも将軍となる権利があるとして征夷大将軍を自称。その天才的な内政手腕と軍事能力を以て他国を次々と屈服させ、参河・紀山・嶋海を制した。武清は親戚一同をまとめ上げる能力にも秀でていたようであり、効果的に軍を動かし戦国の覇者となるために、それまで直接指揮を行っていた古海軍を方面ごとに分け、方面軍司令官には八名・額田・渥美・碧海の各家の当主(幼少の場合は代理)を据えた。しかし1534年、参河国豊邦において、些細な出来事で恨みを持った家臣・新岡信久に暗殺されてしまった(豊邦の変)。新岡は逃亡したものの、父親暗殺の報を受けた武清の嫡男・正武が参河国内に非常線を張り、あえなく捕縛、処刑された。
古海氏当主の座は正武が継ぎ、父親の方針を引き継いで対外領土拡大政策を採った。正武は非常に開明的な思想を持っていたようで、嶋海国の港が支配下にあるのをいいことに、重臣・浦谷重成を正使として欧州へ使節を送り、膨大な知識を入手した(浦谷遣欧使節団)。この使節団には欧州の見分や知識の入手以外にも外交交渉の使命があったようだが、不発に終わったようである。正武は静駿・筑紫・薩摩を平定している最中にも欧州の研究を行っており、家臣団ともども欧州の優れた軍略に驚き、自国に適合するように取り入れることを計画。この軍制・戦略改革は成功し、古海軍は瑞洲や欧州のいずれの戦略にも似ることのない、独自の軍制度を確立。精強無比の強さを誇る最強の軍へと変貌した。よく訓練され、優れた指揮官に率いられた古海軍は連戦に連勝を重ね、1587年に正武が病没する頃には尾治以南の南瑞洲や三勢国を支配下においていた。
笠置幕府
Kasagi Shogunate |
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首都 | 京(瑞京府) |
公用語 | 瑞州語 |
将軍 | |
1599年 - 1617年 | 古海武利 |
1767年 - 1775年 | 古海武広 |
成立 | 1599年 |
別称 | 古海幕府 |
正武の病没後、家督は嫡男の次男・英武が継いだ。英武も父と同じく領土拡大政策を採り、間崎朝後嶺や後八重尾朝、鳴神朝と言った名門大名家を撃破し、1597年には北海半島以外のほぼ全土を掌握していた。しかし戦ばかりに明け暮れ、正室さえ取らなかった英武には当然として嫡子が無く、1598年に英武が膵臓癌(と思われる症状)で没すると後継者問題が急浮上する。
後継者問題で倒れた王朝はこれまでにも数多くあったため、重臣団は平和裏に後継者を確定することを誓った。会議の結果、碧海家に養子として出されていた英武の異母弟・碧海武利を設楽家に呼び戻すことで一致。武利はこれを快諾し、1599年に征夷大将軍への就任の儀を執り行い、政庁を京の笠置町に置いた。これを以って笠置幕府が正式に成立したと見做される。
19世紀中ごろに入り、欧米列強との接触が飛躍的に増えると、列強各国に対する他者意識の裏返しとしての「瑞洲」・「瑞洲人」意識がさらに強まり、ほぼ現代の「瑞州」・「瑞州人」意識と一致するまでに至った。大航海時代以降、米州各国が欧米列強の植民地とされる中で、瑞州が欧化政策を維持しつつ独立を長く保ったことは、後の国民国家意識にそのまま繋がる民族・国民意識の醸成をもたらし、結果として革命戦争以降の近代国家建設がスムーズに行われる基礎となった。また、この時期から瑞洲の「洲」の文字が、書き換え字である「州」に変わっていった。以前より「瑞州」表記は散発的に確認されていたが、時代の流れとして「瑞州」表記に置き換わっていったのはこの時代が初めてである。
古海幕府は20代・275年もの治世を保っていたが、欧米列強からの文化流入や機械技術の伝授に加え、欧米列強の「市民自治」「共和制」の考えが輸入されると、「ただ一人の強いリーダー」の行う政治に限界を感じたのか、20代将軍・古海武広は「共和制瑞州」の構想を諸邦の首長たちに伝え、共和制瑞州の発展を願いながら、1775年に幕府の幕を自ら下し(天治奉還)、臨時連邦政府が形作られ、共和制瑞州が本格的に始動するための準備を始めた。しかし共和制瑞州構想で触れられた、共和制のトップである大統領職を狙って、南東地域の旧藩主たちや公家の末裔たちが団結し、「独立宣言」を発して、参河・岡豆以東9州が南瑞州共和連合として蜂起した(1776蜂起)。彼らは大統領職に、中世の絶対王政君主レベルの権限があると勘違いしており、君主を話し合いで決めるものの、決まった後は政治のすべてをその君主や付属機関に委ねると解釈していたのである。その為、瑞州全土から希望者を募って大統領決めを行うまでは合議制として、南瑞州共和連合は明確なリーダーを定めなかった。一方、北西地域の首長たちは共和制・大統領制を正しく理解したのに加え、瑞州の風土では連邦制の導入が相応しいとし、諸邦を「州(シュウ)」として再編。また、1776年7月15日に初の民主的な大統領選挙(第一回瑞州大統領選)を行い、思想面での建国の父と呼べる古海武広を大統領に据えた。古海は諸州規約を制定し、国号を「瑞州合衆国連邦」と設定し、旧幕府軍や北西諸邦の兵を集めた近代化軍(瑞州合衆国軍)を組織。自分を総司令官、部下の武官を各方面軍司令官のポストに据え、南瑞州共和連合との全面対決に進んでいった。
十数年に渡る緊張関係の末、1791年に東西戦争(革命戦争、Zuish Civil War)が開戦。この戦争では瑞州史上初めて近代的な機械技術が主戦力として投入された。4月12日に東軍(共和連合軍)が西軍(合衆国軍)の前線基地(紀山-参河州境)である孝子峠の要塞を砲撃して戦端が開かれた(孝子峠要塞の戦い)。古海は合衆国に残ったすべての州に孝子峠要塞などの奪回を呼び掛け、軍事的な協力を要請した。
4月19日には古海が東部海岸線の海上封鎖を宣言した。この封鎖は大西洋岸から太平洋岸までにわたり、東部経済を締め付けていった。この海上封鎖を解かんと、共和連合海軍による散発的な攻撃や砲撃が合衆国海軍に向け行われたが、いずれにおいても封鎖を解くことはできなかった。
戦闘名称 | 月日 | 州 | 勝者 | 特記事項 |
---|---|---|---|---|
孝子峠要塞の戦い | 4月12日 | 紀山州 | 東軍 | |
洞海湾砲戦 | 4月19日 | 筑紫州 | 西軍 | |
葦毛湿原の戦い | 4月19日-21日 | 参河州 | 西軍 |
東西戦争は広大な地域で戦われたが、主な戦線としては西海岸の西部戦線と、中央山脈以西の東部戦線とに大別することができる。そして、東西戦争の最も主要な戦線であり、規模の大きな戦闘が繰り返し起こったのは西部戦線の方だった。これは、首都である瑞京が存在する西海岸の方が開発が進んでおり人口も多かったうえ、西部の中心都市の磐田市・東部の中心都市の御陵下市のどちらもが西海岸側に位置していたためである。さらに、両都市間に険しい山岳などの障害になる地形も少なかった。また、共和連合と合衆国連邦どちらも瑞京を首都として定義し、自然と両軍ともに相手の中心都市や瑞京をめざし進撃することが多かった。こうして、西部戦線(特に瑞京付近)で激しい戦いが多く繰り広げられることとなった。
孝子峠要塞の戦い以後、両軍共に軍隊の創出で大わらわであった。古海大統領は反乱軍を抑えるために7万を超えるの志願兵の召集を命令した。発足したばかりの陸軍には、十分な戦力といえるのは16000名の兵士程度しかいなかったのだ。陸軍は旧幕府軍からの古参兵である年長の玉田克己中将に指揮されていた。共和連合の方は、一握りの旧幕府軍士官と兵士、そしてかつての民兵団の一部が東軍に加わった。東軍の体系は各州によって整えられた。しかし、強い中央政府に対する各州の嫌悪感で助長された連合国防衛軍の分散した性格は戦争の間の東軍の弱みの一つであった。
西部戦線とは地理的懸隔もあってやや独立した動きとなっていたが、戦争後半では西部との連携が重要な課題となった。
西部戦線は当時もその後の歴史的な整理の段階でも、東部戦線よりかなり多くの注目を集めていた。これはその対立する両軍の主要都市が近く西部の大都市に大きな新聞の発行所が集中しており、西部で名声を博した人物がいたからでもある。このために西軍が東部で東軍を叩き、東部の領土を侵略していったことは、ほとんど気付かれないままであった。
孝子峠要塞の戦い後、紀山州から出撃した梶原和弘少将率いる西軍(紀山軍)は紀山と参河の州境である孝子峠要塞の奪還、及び弓張山地の突破を目指しており、第一次参河方面打通作戦を発動するに至った。すでに弓張山地の葦毛湿原を占領していた紀山州軍は、勢いそのままに孝子峠要塞の周辺にあり、東軍(参河軍)の兵站ルートの経由地点であった竜ヶ岩洞砦や石巻山要塞に攻め寄せ、これを陥落させた。
竜ヶ岩洞砦や石巻山要塞で撃破され、後退する東軍を押しとどめたのは米川啓之将軍率いる援軍であった。米川は旧幕府軍の陸軍歩兵奉行(少将クラス)であり、作戦指揮に精通していた。撤退してきた東軍と援軍とを合わせ、指揮系統がボロボロになっていた参河軍を再編し、的場峠に築かれた防衛ラインを用いて的確な防衛線を行った(的場の戦い)。西軍はこの堅固な防衛ラインを突破できず攻めあぐね、かといって引くわけにもいかず、自軍も防衛ラインを構築し相手の攻撃に備えた。的場の戦いにおいて、結局両軍は散発的な戦闘を五か月も繰り返したが、どちらも防衛ラインを突破するわけでもなく、結果として梶原が他地域の援軍に紀山軍を回すために撤退し、引き分けに終わっている。
戦闘名称 | 月日 | 州 | 勝者 | 特記事項 |
---|---|---|---|---|
第一次参河打通作戦 | ||||
竜ヶ岩洞砦の戦い | 4月25日-26日 | 参河州 | 西軍 | |
第一次石巻山要塞の戦い | 4月31日-5月2日 | 参河州 | 西軍 | |
的場の戦い | 5月15日-10月14日 | 参河州 | 引き分け | |
第二次石巻山要塞の戦い | 6月24日-25日 | 参河州 | 西軍 | 防衛ラインの隙をついて東軍が石巻山の奪還に乗り出し、奇襲攻撃を行ったが、西軍が防衛に成功。 |
1795年に東西戦争は合衆国の勝利で終結し、静駿講和条約が結ばれ、共和連合は解体された。しかし、南瑞州共和連合が、不勉強の勘違いによって蜂起した国家であったことから「南瑞州人は無知、無学」という偏見が生まれ、南東地域に対する地域差別はその後も続くことになる。
1797年12月17日には、連合規約に代えてさらに中央集権的な合衆国憲法が激論の末に制定される。1799年6月4日に発効され、同年に「やることは全て終えた」と古海は6選もした(というよりあまりにも古海が人気であり、市民が大統領選をボイコットした)大統領職を辞すが、結局は第8回大統領選(ボイコットにより第2回~第7回は『失われた選挙戦』となった)でまた担がれ、78歳の高齢で大統領に当選した。これより高齢の大統領はこの後には生まれていない。
瑞州は、「自由」と「民主主義」を掲げたことから、近代のの共和制国家としても、当時としては珍しい民主主義国家であった。
先述した通り、大航海時代以降、米州各国が欧米列強の植民地とされる中で、瑞州が欧化政策を維持しつつ独立を長く保ち、政権の交代にも(曲がりなりにも)成功したことは、後の国民国家意識にそのまま繋がる民族・国民意識、そして愛国心のさらなる醸成をもたらした。