瑞州合衆国連邦軍の部隊編成 (ずいしゅうがっしゅうこくれんぽうぐんのぶたいへんせい)とは、瑞州国防軍の前身である瑞州合衆国連邦軍が保持していた部隊の一覧である。
+ | 目次 |
第一歩兵師団 は、1779年に近衛鎮台を母体として編成された常設師団の一つ。同時に第二師団から第七師団がそれぞれ鎮台を改編したり分割したりして創設されたが、第一師団も含めこの時編成された7個師団が瑞州で最も古い師団である。編成地および本営所在地は瑞京府西山区。担当範囲は紀山、岡豆、瑞京、参河、尾治、静駿、遠淡海であった。
1790年からの東西戦争では、隷下の第一旅団(西山)が合衆国軍に、第二旅団(尾治州那古野)が共和連合軍につき、師団としては空中分解の事態に陥った。戦後に師団は再建された。
1946年の瑞州国防軍の成立時、師団長の富樫敏則陸軍少将は国防軍へ第一師団を編入させることを決定。師団内部から反対の声は上がることはなく、第一師団は大統領府国防部の指揮下に収まり、一時解体されて、第二八地域旅団などの他の編入部隊と共に歩兵第2師団の母体となった(*1)。
第二歩兵師団 は、1779年に東海鎮台を母体として編成された常設師団の一つ。同時に第一師団から第七師団がそれぞれ鎮台を改編したり分割したりして創設されたが、第二師団も含めこの時編成された7個師団が瑞州で最も古い師団である。編成地は三勢州錫鹿郡錫鹿市、本営所在地は同州身重郡身重市。担当範囲は三勢、波島、重賀、嶋海、川加、能石、嶺狭であった。
1790年からの東西戦争では合衆国軍につき、主に東部戦線を戦った。
1946年の瑞州国防軍の成立時、師団長の兒玉幸弘陸軍少将は国防軍への編入を拒否。これに抗命した第十八歩兵連隊(第四旅団隷下、能石州葉咋)が師団指揮下を離脱する事件が起こるも、師団としては旧軍に留まり、やがて旧軍を糾合した瑞州民主共和国軍へと参加。翌年からの瑞州内戦を戦った。
1948年10月からの国防軍の反抗作戦には耐えきれず、1月の身重の戦いで壊滅した。
第三歩兵師団 は、1779年に北陸鎮台を母体として編成された常設師団の一つ。同時に第一師団から第七師団がそれぞれ鎮台を改編したり分割したりして創設されたが、第三師団も含めこの時編成された7個師団が瑞州で最も古い師団である。編成地は山防州大丈市、本営所在地は同州磐国市。担当範囲は淡葉、山防、埼武江、神相、濃波であった。
1790年からの東西戦争では合衆国軍につき、主に西部戦線を戦った。
1946年の瑞州国防軍の成立時、師団長の黒田浩二陸軍少将は国防軍への編入を拒否。師団として旧軍に留まり、やがて旧軍を糾合した瑞州民主共和国軍へと参加。翌年からの瑞州内戦を戦った。
1948年10月からの国防軍の反抗作戦には耐えきれず、1月の弥栄の戦いで壊滅した。
第四歩兵師団 は、1779年に南海鎮台を母体として編成された常設師団の一つ。同時に第一師団から第七師団がそれぞれ鎮台を改編したり分割したりして創設されたが、第四師団も含めこの時編成された7個師団が瑞州で最も古い師団である。編成地は吉備作州見原市、本営所在地は穴門州穴門市。担当範囲は、当初は八雲、児隅、穴門であったが、1839年に吉備作が第六師団から移管された。
1790年からの東西戦争では共和連合軍につき、主に東部戦線を戦った。
1946年の瑞州国防軍の成立時、師団長の玉田泰正陸軍少将は国防軍へ第四師団を編入させることを決定。師団内部から反対の声は上がることはなく、第四師団は大統領府国防部の指揮下に収まり、一時解体されて、第三二地域旅団などの他の編入部隊と共に歩兵第6師団や歩兵第11師団の母体となった(*2)。
第五歩兵師団 は、1779年に西海鎮台を母体として編成された常設師団の一つ。同時に第一師団から第七師団がそれぞれ鎮台を改編したり分割したりして創設されたが、第五師団も含めこの時編成された7個師団が瑞州で最も古い師団である。編成地は梨甲州一宮町市、本営所在地は同州甲府市。担当範囲は那橡、那甲、越野、秋羽、岩陸であった。
1790年からの東西戦争では合衆国軍につき、主に西部戦線を戦った。
1946年の瑞州国防軍の成立時、師団長の兒玉幸弘陸軍少将は国防軍への編入を拒否。これに抗命した第十歩兵連隊(第十旅団隷下、秋羽州秦庄)が師団指揮下を離脱する事件が起こるも、師団としては旧軍に留まり、やがて旧軍を糾合した瑞州民主共和国軍へと参加。翌年からの瑞州内戦を戦った。
1948年10月からの国防軍の反抗作戦には耐えきれず、12月~1月の国防軍によるミルキーウェイ作戦中の一連の上陸戦で壊滅した。
第六歩兵師団 は、1779年に編成された常設師団の一つ。南海鎮台から改編された第四師団の負担軽減のために派生して編成された師団である。同時に第一師団から第七師団がそれぞれ鎮台を改編したり分割したりして創設されたが、第六師団も含めこの時編成された7個師団が瑞州で最も古い師団である。編成地・本営所在地は薩鹿州鹿児嶋市。担当範囲は、当初は吉備作、筑紫、日宮、薩鹿であったが、1839年に吉備作を第四師団に移管した。
1790年からの東西戦争では共和連合軍につき、主に西部戦線を戦った。
1946年の瑞州国防軍の成立時、師団長の熱田清久陸軍少将は国防軍へ第六師団を編入させることを決定。師団内部から反対の声は上がることはなく、第六師団は大統領府国防部の指揮下に収まり、一時解体されて、第二五地域旅団などの他の編入部隊と共に歩兵第7師団や騎兵第8師団の母体となった(*3)。
第七歩兵師団 は、1779年に編成された常設師団の一つ。北陸鎮台から改編された第三師団の負担軽減のために派生して編成された師団である。同時に第一師団から第七師団がそれぞれ鎮台を改編したり分割したりして創設されたが、第七師団も含めこの時編成された7個師団が瑞州で最も古い師団である。編成地・本営所在地は常陸中州水砥市。担当範囲は林播、中濃、常陸中、濃前であった。
1790年からの東西戦争では合衆国軍につき、主に西部戦線を戦った。
1946年の瑞州国防軍の成立時、師団長の川中啓太郎陸軍少将は国防軍への編入を拒否。師団として旧軍に留まり、やがて旧軍を糾合した瑞州民主共和国軍へと参加。翌年からの瑞州内戦を戦った。
1948年10月からの国防軍の反抗作戦には耐えきれず、11月~12月の水砥の戦いで壊滅した。この時第7師団は焦土作戦という暴挙に打って出ており、廃墟と化した水砥市は州都の座を助川市(後の常陸市)に明け渡さざるを得なかった。後に水砥市は復興し、常陸市を抜いて、常陸中州で最大の経済規模を誇る大都市へと成長した。
地域旅団とは、普段は予備役として活動し、有事の際には各師団に付与されたり増援として掩護することを目的として、各州に設置された旅団である。各々が一個の兵科で構成された単一兵科旅団であり、他の旅団・師団と組み合わせて運用することを前提としている。ただし、輜重旅団にさえも最低限の戦闘部隊が配置されており、有事・災害の際の初動対応を行うことも任務の一つであった。1890年代に立案・計画され、1900年代から編成された。
第一飛行師団 | ||||
![]() |
1920年に3個飛行大隊を擁する、独立兵科である航空兵科の師団として編制された。1925年には飛行大隊は航空連隊に昇格し、また1937年からは戦隊へと改称された。 画像は第一偵察戦隊の五式司令部偵察機。 ・1920年 - 第一飛行大隊(偵察)、第七飛行大隊(練習)、第十飛行大隊(戦闘)を隷下部隊とし、鯖江飛行場にて編制。 ・1926年 - 第十航空連隊(戦闘)が第九飛行師団(羽茂)へ転出。 ・1933年 - 第三十航空連隊(戦闘)が飛行第一師団隷下で新編される。 ・1937年 - 第七練習戦隊が第四飛行師団(浜松)へ転出。 ・1943年 - 第五一強撃戦隊が飛行第一師団隷下で新編される。 ・1947年 - 瑞州内戦の勃発に伴い、司令官・瀬尾中将のもと、飛行第一師団は瑞州連邦軍側につき、前線まで赴いて国防軍側と交戦した。 ・1948年 - 連邦軍の旗色が悪くなり、司令部内で協議した結果、飛行第一師団は前線から撤収。連邦軍指揮下を離れ国防軍側に降伏。鯖江飛行場も明け渡す。 最終時の部隊編成 - 最終時師団長:瀬尾晃一中将 ・鯖江飛行場 ・第一偵察戦隊(五式司令部偵察機) ・第三十戦闘戦隊(六式戦闘機) ・第五十一戦闘戦隊(四式強襲攻撃機) |
|||
部隊概要 | ||||
所属政体 | 瑞州合衆国連邦 | 所属組織 | 瑞州合衆国連邦陸軍 | |
発足 | 1920年4月 | 廃止 | 1947年 | |
所在地 | 鯖江 | 担当地域 | 西海道地方 | |
基地 | 鯖江飛行場 |
1920年に編成。編成地は飛騨州高山飛行場であったが、1939年に福富飛行場へ移転した。当師団・第四偵察戦隊の五式司偵が飛行可能な状態で現存しており、空軍博物館に保存されている。
最終時の部隊編成
第三飛行師団 | ||||
#ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 |
1920年に2個飛行大隊を擁する、独立兵科である航空兵科の師団として編制された。1925年には飛行大隊は航空連隊に昇格し、また1937年からは戦隊へと改称された。 ・1920年 - 第三飛行大隊(偵察)、第八飛行大隊(練習)を隷下部隊とし、塩尻飛行場にて編制。 ・1934年 - 第三四航空連隊(強撃)が飛行第三師団隷下で新編される。 ・1944年 - 第四九重爆戦隊が飛行第三師団隷下で新編される。 ・1947年 - 瑞州内戦の勃発に伴い、司令官・板野中将のもと、飛行第三師団は瑞州連邦軍側につき、前線まで赴いて国防軍側と交戦した。なお、第四十九重爆戦隊の戦隊長・外崎大佐はこれに抗命し、所属部隊ごと国防軍勢力範囲に向かい投降している。 ・1948年 - 連邦軍の敗戦が重なるにつれ、降伏する部隊が続出し始めたが、板野中将は戦闘の続行を命じた。同年内に国防軍の鎮圧部隊と交戦、飛行第三師団は壊滅、降伏して組織的抵抗を終了した。 最終時の部隊編成 - 最終時師団長:板野和昭中将 ・塩尻飛行場 ・第三偵察戦隊(四式司令部偵察機) ・第八練習戦隊(三式中等練習機) ・第三十四強襲攻撃戦隊(二式強襲攻撃機) ・第四十九重爆戦隊(三式重爆撃機) |
|||
部隊概要 | ||||
所属政体 | 瑞州合衆国連邦 | 所属組織 | 瑞州合衆国連邦陸軍 | |
発足 | 1920年4月 | 廃止 | 1947年 | |
所在地 | 塩尻 | 担当地域 | 北西地方 | |
基地 | 塩尻飛行場 |
航空基地:羽茂飛行場
最終時の部隊編成
航空基地:生葉飛行場
最終時の部隊編成
航空基地:高山飛行場
最終時の部隊編成
最終時の部隊編成
最終時の部隊編成
航空基地:大埼飛行場
最終時の部隊編成
航空基地:伊那飛行場
最終時の部隊編成
航空基地:浜松飛行場
最終時の部隊編成
航空基地:愛知川飛行場
最終時の部隊編成
航空基地:鈴鹿飛行場
最終時の部隊編成
哨戒・偵察など、主任務として後方防衛を行う部隊。主に水上偵察機(艦載機含む)や対潜哨戒機が多く配備された。以下、特記なき限り編成順に記す。
航空基地:下田第一飛行場、下田第二飛行場
瑞州海軍で最初に設立された航空部隊。1917年に編成。航空隊要員の教育・練成、新型機の実用実験、各機種の戦技研究を担当した。有事の際は首都近海防衛の任に就くことになっていた。内地作戦航空部隊に関しては、ここと四日市空のみに戦闘機などが配備されていた(分遣隊を除く)。
最終時の部隊編成
航空基地:四日市飛行場、四日市水上飛行場
1918年に編成。研究・教育機能を持つ下田空と違い、純然たる水上機基地として機能しており、北東瑞州近海の哨戒や四日市鎮守府に所属する艦艇の艦載機調達に従事した。四日市飛行場は滑走路が短く、陸上機の常駐には不都合が多かったため、陸上機はもっぱら渡会海軍航空隊が常駐する渡会飛行場を活用した。そのため、四日市鎮守府に配備された航空母艦の艦載機は四日市空ではなく渡会空や奥飛騨海軍航空隊で訓練・補給・休息を実施していた。
最終時の部隊編成
航空基地:真野水上飛行場
1918年に編成。軍都・真野の防衛及び西海・北西地方の各都市の防空のために設置された防衛部隊。全期間を通して水上偵察機のみからなる純粋な偵察専門部隊で、大規模な陸上航空施設を擁する下田海軍航空隊、近辺に渡会飛行場・九度山飛行場がある四日市海軍航空隊・筑紫野海軍航空隊のような陸上機分遣隊を保有する機会はなかった。
最終時の部隊編成
航空基地:小野田飛行場、小野田水上飛行場
1919年に編成。防空戦力が手薄になる南州地方先端地域の防衛部隊として開かれた。当初こそ多くの戦闘機部隊や爆撃機部隊を擁し、哨戒・偵察のみならず制空・近距離対艦攻撃も担ったが、安来飛行場と安来海軍航空隊が開かれるとともに実戦力はそちらへ移動した。
最終時の部隊編成
航空基地:筑紫野水上飛行場
1920年に編成。純然たる水上機基地として機能し、南州地方沖の哨戒や筑紫野鎮守府に所属する艦艇の艦載機調達に従事した。四日市空とは違い、そもそも筑紫野に飛行場を設けることができなかったため、陸上機はもっぱら九度山飛行場や東郷飛行場を活用した。国防海軍となった際には用地買収が進み、筑紫野にちゃんとした飛行場が設置されている。
最終時の部隊編成
航空基地:三種飛行場
1925年に編成。下田空は海軍初の航空隊であったため、研究・教育・作戦のすべてを一手に引き受けていた。航空戦力の拡大を図る中で、下田空の拡張も限界に達しつつあった。そこで各地に多くの飛行場や航空隊が新設された。そのうち、西海地方や北西地方の防空に当たっていた真野空の増援として航空隊が成立した。それが三種空である。ここに実戦部隊を新設するとともに、下田空の作戦部隊の装備の大半を移転させた(ただし小規模となりながらも実戦部隊は下田に存続している)。これにより、下田空は研究航空隊に特化し、海軍航空技術廠を併設することとなった。
最終時の部隊編成
平時には所属基地の周辺地域の防空を担当し、戦時には最前線基地から長距離攻撃を実施する部隊。主に爆撃機や攻撃機が配備されていた他、局地戦闘機(要撃機)の導入後は内地作戦航空部隊と同様にそれも配備された。また、一部の部隊は練習機も装備。
航空基地:東郷飛行場
1937年に編成。安曇野海軍航空隊と同時に開かれた瑞州初の陸上爆撃機部隊として、爆撃・攻撃・偵察行動に従事した。多くの陸爆隊が所属基地に帰る間もなく東郷での練成に励んだ。他の航空部隊には後に局地戦闘機部隊も配備されたが、ここには配備されなかった。
最終時の部隊編成
航空基地:安曇野飛行場
1937年に編成。東郷海軍航空隊と同時に開かれた瑞州初の陸上爆撃機部隊として、爆撃・攻撃・偵察行動に従事した。後に局地戦闘機部隊も配備される。
最終時の部隊編成
航空基地:渡会飛行場
1940年に編成。三番目の陸上爆撃機部隊として編制。後に局地戦闘機部隊も配備される。
最終時の部隊編成
航空基地:安来飛行場
1940年に編成。四番目の陸上爆撃機部隊として編制。後に局地戦闘機部隊も配備される。
最終時の部隊編成
航空基地:奥飛騨飛行場
1939年に編成。陸上爆撃機は配備されず、純粋な局地戦闘機と訓練部隊のみで構成された航空隊。
最終時の部隊編成
初期には艦上戦闘機隊/艦上練習機隊の組み合わせが多かったが、艦上攻撃機/艦上爆撃機の出現、増産配備により次第に艦上戦闘機隊/艦上攻撃機隊/艦上爆撃機隊の編成に変わっていった。また、航空隊ごとの機体の定数はまちまちであり、母艦の搭載数に左右された。
航空基地:下田第一飛行場、母艦:飛騨
航空母艦「飛騨」を母艦とする航空隊。
最終時の部隊編成
航空基地:渡会飛行場、母艦:那須野
空母「那須野」を母艦とする航空隊。那須野は四日市を母港としていたが、最も近い四日市飛行場は滑走路が短く、陸上機の常駐には不都合が多かったため、二空航はもっぱら渡会海軍航空隊が常駐する渡会飛行場を活用した。
最終時の部隊編成
航空基地:下田第二飛行場→三種飛行場、母艦:遠江
空母「遠江」を母艦とする航空隊。当初遠江が下田を母港としていたため下田第二飛行場を拠点としていたが、後に真野鎮守府に異動したため三空航も三種へ移動した。
最終時の部隊編成
航空基地:小野田飛行場、母艦:筑紫
空母「筑紫」を母艦とする航空隊。筑紫の巨大な収容数に合わせ、最大規模の勢力を誇る空母航空隊であった。
最終時の部隊編成
航空基地:東郷飛行場、母艦:陸奥、尾張
空母「陸奥」「尾張」を母艦とする航空隊。この二艦は性能も似通っており、また空母航空隊の不用意な拡充を避けるために二つの空母で一つの空母航空隊を搭載することとしたのである。どちらも下田を母港としたことからできたことであったが、後に尾張は真野へ移動している。
最終時の部隊編成
航空基地:奥飛騨飛行場、母艦:相模
空母「相模」を母艦とする航空隊。
最終時の部隊編成
航空基地:東郷飛行場、母艦:出雲
空母「出雲」を母艦とする航空隊。
最終時の部隊編成