トイ・ストーリー
原題:Toy Story
公開:1995年11月22日
時間:81分
監督:
ジョン・ラセター
ストーリー
アメリカの住宅街
トライ・カウンティに、おもちゃが大好きな6歳の少年
アンディ・デイビスが住んでいた。彼の一番のお気に入りのカウボーイ人形である
ウッディは、おもちゃたちのリーダーでもあった。デイヴィス一家が引っ越しが迫ったある日、アンディの誕生日パーティーが前倒しで行われることに。アンディが誕生日プレゼントとしてもらったおもちゃは、最新のアクションドール、
スペース・レンジャーの
バズ・ライトイヤーだった。バズは自分をおもちゃではなく、よその星に不時着した本物のスペース・レンジャー、と思い込む変わり者であった。かくして、格好いいバズにアンディのお気に入りNo.1とおもちゃたちのリーダーの座を奪われてしまう。頭に来たウッディはほんの出来心とハプニングが重なり、バズを家の窓から突き落としてしまい、他のおもちゃたちから責められることに。
ウッディは、宇宙ステーションをモチーフにしたレストラン「
ピザ・プラネット」に連れて行かれる途中のガソリンスタンドで、尾行してきたバズと喧嘩となり、アンディたちの車とはぐれてしまう。必死に彼を追うウッディと本物の宇宙船を探そうとするバズの食い違いからアンディの隣に住むオモチャ殺しの異名を持つ
シド・フィリップスに連れ去られてしまう。
概要
ピクサーは、CGが得意とするプラスチックの質感を再現したおもちゃのアニメーションとして、1988年の短編映画『
ティン・トイ』ですでに成功を収めていた。そのため、ディズニーから長編映画も行けるだろうと説得を受け、本格的な製作開始に至った。映画の製作自体はピクサーが中心となって行われた。
ジョン・ラセターをはじめ、
ピート・ドクター*や、エグゼグティブ・プロデューサーの
スティーブ・ジョブズ*などのメンバーはこの頃からすでに集結していた。
最初の5日間で3900万ドルのヒットを挙げた後、全世界で約3億6200万ドルの興行収入を上げる大成功を収めた。前述の特別賞のほかにも、アカデミー賞候補として、脚本賞、主題歌賞、作曲賞にノミネートした。
歴史
今度はディズニーのカッツェンバーグから提携して映画を作らないかと持ちかけられる。カッツェンバーグは経営手腕は確かだが業界からは映画製作にも細かく口出しをする暴君として恐れられ、ピクサーにも彼を嫌ってディズニーを退社したクリエイターが一定数いた。カッツェンバーグはラセターの才能を欲しており、ピクサーとの提携のために余計な口出しはしないことを自ら約束した。倒産の危機に瀕していたピクサーは何としてもディズニーと提携する必要があった。カッツェンバーグはピクサーの3Dアニメの技術譲渡を、ジョブズは映画(ビデオ販売や続編製作を含む)とキャラクターの権利を要求したが、互いに拒否した。
結局、ディズニーはピクサーの長編映画3作品の予算および配給を担当する代わりに、興行収入の12.5%を受け取る権利、映画とキャラクターの権利、そして続編をピクサー抜きでも自由に作れる権利、そして違反行為に対して映画の製作を中止させる権利を受け取ることとなった。『A Tin Toy Christmas』は中断となり、『ティン・トイ』で描いたおもちゃの物語をブラッシュアップさせた『トイ・ストーリー』の製作が決まった。双方の話し合いは1991年5月3日に合意に達し、7月上旬にサインが交わされた。
脚本
脚本の初稿はラセター、
アンドリュー・スタントン*、
ピート・ドクター*が担当し、『ティン・トイ』の主人公ティニーと腹話術人形の大冒険が描かれた。カッツェンバーグは「正反対な二人が冒険を通して相棒になるバディ・ムービーにしてはどうか」と提案し、『手錠のまゝの脱獄』(1958年)や『48時間』(1982年)を例に挙げた。1991年9月、基本的なプロットは完成したが主人公ティニーと腹話術人形のままであった。
ラセターはティニーがアンティークすぎるという理由から宇宙をテーマにしたアクションフィギュア『ルナ・ラリー』(後の
バズ・ライトイヤー)に変更した。相棒の腹話術人形はラセターが子供の頃に遊んでいたおばけのキャスパーをモデルに製作されていた。しかし腹話術人形は意地悪そうに見えるため、キャラクターデザインの
バド・ラッキーの提案でカウボーイ人形に変更となった。背中のひもを引くと喋るという機能は腹話術人形時代の名残である。
ピクサーは長編映画を作ったことが無いため、ラセター、スタントン、ドクター、
ジョー・ランフト*らは脚本に関しては初心者だった。ラセターとドクターは脚本家
ロバート・マッキー*の3日間のセミナーに出席し、「キャラクターが問題に直面した時のリアクションによって、そのキャラクターのリアリティが生まれる」ということを学んだ。ディズニーは脚本の改良のために
ジョエル・コーエン*、
アレック・ソコロウ*、
ジョス・ウェドン*を派遣した。彼らは脚本の良い要素を活かしつつ、アニメーション製作が始まってからも修正を続けた。最終的にディズニーからは監督やアニメーターなどもヘルプとして参加することとなった。
ピクサーの映像技術はディズニーを驚かせたが、脚本はディズニーの求める水準に達しておらず、カッツェンバーグが口出しするようになった。いつしかラセターは作りたいものが作れなくなり、「キャラクターはみんな意地悪だし、この世で最も不幸な物語になった」という。そこでラセターは脚本のリセットをするため、カッツェンバーグに二週間の猶予を要請した。その期間の間、製作は完全にストップし、ラセター、スタントン、ウェドンが中心となって脚本を修正した。中断の間はディズニーからの資金が途絶え、ジョブズがポケットマネーを出してクリエイターたちを支えていた。
脚本の修正はカッツェンバーグとシュナイダーを納得させ、製作は1994年2月に再開した。製作は約220名のチームで行われた(同時期にディズニーで製作していた『
ライオン・キング』(1994年)は約800名)。ジョブズはコストカットに注力し、カッツェンバーグを大いに感心させた。
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最終更新:2024年09月08日 15:53