イソップ童話

登録日:2018/07/11 Wed 04:15:31
更新日:2025/04/22 Tue 17:42:06
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イソップ童話(もしくはイソップ寓話)とは、古代ギリシャの童話作家イソップが作った童話群……だとされるものである。


イソップってどんな人?

多分紀元前6世紀ぐらいの古代ギリシャの奴隷。
生没年は紀元前620年頃~紀元前564年頃で、出身は小アジア(現在のトルコ辺り)のどこか。
ちなみにイソップは英語読みで、ギリシャ語では「アイソーポス」とされる。

……以上

いや、本当にそれぐらいしかわかっていないのである。
一応実在したのは確かなようで、奴隷の割には生没年も大体だが判明している。
紀元前400年代に書かれたヘロドトスの『歴史』に記述があるなど、古くから知られてはいたようだが、具体的にどういう人だったのかは全くわかっていない。
『イソップ伝』と呼ばれる伝記も存在するが、10~11世紀頃に書かれたもので歴史的な裏付けは無く、後世の創作と考えられている。
ただ、伝えられているエピソード*1からすると、頭の回転が速く弁の立つ人物だったのだろう、と想像することができる。

多くの童話を残したとされるが、当然イソップ直筆の原稿が残されているわけではない(というか文字の読み書きができたかも怪しいだろう)。
そのため、現在伝わっているイソップ童話とされるものは、
  • 実際にイソップが考えたもの
  • イソップ以前にあった話をイソップが翻案したもの
  • 後世に書かれたがイソップ童話の中に組み込まれたもの
がごっちゃになっており、現代では区別するのが不可能になっている。


イソップ童話の特徴

短く、わかりやすいストーリーで進む平易な教訓話である。
動物や無機物が平然と話すなど、その世界観はメルヘン

現代に伝えられているものは宗教的・差別的な要素の少ないものが中心となっているが、元々のエピソードにはかなり差別的な表現が含まれるものもある。

たとえ話や成句としても広く使われるなど、その知名度は非常に高い。

一方、これのせいで童話・昔話=教訓のイメージを持つ人も多く、他所の童話に「これはどんな教訓を伝えたいんだ?」「話を改変しては子供への教訓にならない」とイチャモンをつける事態も静かに起きている。


代表的なエピソード

アリとキリギリス

教訓:真面目に働くことは美徳である

イソップ童話の中でも特に有名なエピソードの一つ。
夏の間真面目に働いたアリと遊んで暮らしたキリギリスの対照的な運命が描かれる。
実はもともとはキリギリスではなく、アリと セミ だったのだが、セミの生息しないアルプス以北へ伝わる際にキリギリスに変更され、そのままセミだらけの日本に伝わったという複雑な経緯をたどっている。

元々の話では セミないしキリギリスはアリに見捨てられ、死んで終わり なのだが、
最近の絵本などではそれではあんまりなので「キリギリスが心の底から謝罪したので、アリは助けてあげました」とするパターンも見られるようになった。
古代ならともかく、現代では「生活保護」とか「社会保障」とかと絡めるとなかなかブラックな側面も見えてくるお話。
実は 「年中遊びもしないで蓄財に励んでいる守銭奴は、餓死しそうな人が目の前に居てもビタ一文助けてくれない」 という教訓の話なのではという説まである。

蛇足になるが、セミもキリギリスも成虫は冬に死ぬ虫である。つまり、本来は冬に餌がなくて飢え死にするのではなく、天寿を全うしたから種の寿命で死ぬのである。アリが見捨てなくてもいずれにせよ死んでた
夏に遊んでいるのは冬に死ぬ自分達の子孫を遺す為、いわば婚活だったりする。

北風と太陽

教訓:物事には厳格でなく寛容な態度で臨んだ方が良い

北風と太陽の勝負に巻き込まれた不運な旅人のお話。
旅人の服を脱がせようと、北風が強く吹き付けたが、旅人は服をしっかり押さえてしまったので失敗し、
太陽がジリジリと照り付けると、旅人は暑さに耐えきれず服を脱いだので、太陽の勝ちとなった。
「強引にやるだけではダメで、穏やかな手段こそ相手を動かす」ことの例として語られる。

ネット上では「北風勝利バージョンもある」という話が広まっており、Wikipediaにも一時期掲載されていたのだが、2017年に国立国会図書館が調査したところ、出典らしき資料が一切見つからなかった。
なので現代の誰かが創作したガセネタと見ていいだろう。

ちなみに出回っている「北風勝利バージョン」の内容は、
「北風と太陽が旅人の帽子を脱がせた方が勝ち、という条件で勝負し、まず太陽が燦燦と照り付けるが旅人は深く帽子を被って脱ごうとしない。そこに北風がぴゅうっと風を一吹きすると、帽子は飛んで行って北風の勝ちとなった」
というもので、「何かをするならそれにふさわしいやり方がある」というのが本来の教訓であるとされる。
割と説得力があるので、広まってしまうのも無理はないかもしれない。

金の斧と銀の斧

教訓:正直は美徳である

「正直者が得をする」という古代より広く使われてきた昔話のテンプレートの一つ。
ちなみに元々は泉ではなく川であり、女神ではなくその辺を歩いていたヘルメス神である。
「泉に何かを投げ込むといいものになって返って来る」というわかりやすさが受けたのか、
ドラえもん』のひみつ道具「きこりの泉」を始めこの話をモチーフにしたフィクションは結構多い。

ガチョウと黄金の卵

教訓:欲張りすぎると全てを失う

貧乏な農夫がある日、黄金の卵を産むガチョウを拾った。
卵を売った農夫は金持ちになったが、農夫はガチョウが1日1個しか卵を産まないことに満足できず、ガチョウを殺してしまう。
金塊が入っていると思われたガチョウの中身は、ただの肉であった……というお話。
「ガチョウ=利益を生み出す資源も考慮した視点が大事」ということであり、ビジネスの世界では時々引用されるエピソード。

オオカミ少年

教訓:嘘をつきすぎると信用されなくなる

「オオカミ少年」で一つの成句にもなっているエピソード。
暇つぶしに「が来たぞ!」と言いまくっていた少年だったが、それゆえに本当に狼が来た時に信じてもらえず……という可哀想なお話。
中国の周にも登場人物こそ異なるが、ほとんど同じ逸話が存在している。
どこの国、いつの時代でも人のやることは変わらない、ということだろうか。
現代でも小学校の非常ベルなんかはこれと似た効果で「どうせ悪戯だろう」と思い込まれてほとんど信頼されていない気がする。
だが、実際のセキュリティ業界においては「どうせ誤報だ」と決めつけてかかるのは極めて危険な行為である。
なぜなら、羊飼いが小賢しい嘘をつこうが「なんだ、うちの犬か…」と見間違いを繰り返そうがそれでも本物のオオカミが来なくなった訳ではないからだ。
ちなみに、ラストは基本的に少年が狼に食べられて終わるのだが、一部では少年は逃げ切れたものの、羊を食べられて主人に叱られるという改変をされる事もある。
かのホラ吹きな長鼻の狙撃手の元ネタでもある。
又、この寓話は確率と絡めやすい特徴があり、実際にNewton等の科学誌ではベイズ統計学を直感的に理解するためのモデルとして使われることがある。

ウサギとカメ

教訓:真面目にコツコツと努力することは美徳である/才能に溺れて努力を怠ることは悪徳である

ウサギにかけっこ勝負を挑むカメという無謀にも程があるエピソード。
それにしても、カメに追い抜かれるまで寝ているとか、このウサギ寝すぎではないだろうか(まぁ本来ウサギは夜行性なのだが)。

世界的に認知されている話だけに、ISO国際規格で「機械装置の動作モードで高速と低速を表現する」際に
高速動作にはうさぎ、低速時にはカメの絵で表現することができるようになっている。

酸っぱいぶどう

教訓:人は欲しかったものが手に入らないとそのものの価値を貶めて自分の心の安定を図る

お腹を空かせた狐が葡萄を取ろうとするが、高くてどうしても届かない。
とうとう諦めた狐はこう言う。「どうせあの葡萄は酸っぱいに決まっている」。
社会心理学では「認知的不協和」と呼ばれる現象の例とされ、フロイト心理学でも「防衛機制/合理化」の例として挙がるので、心理学を学ぶなら必ず目にするであろうエピソード。

卑怯なコウモリ

教訓:自分の損得ばかり優先してどっちつかずでいるとどちらからも嫌われる

獣と鳥の戦争において両方の軍にいい顔をし、優劣が変わる度に強い方へと乗り換えていたコウモリだったが、戦争が終わった後は両方から見捨てられてしまった、というお話。
コウモリが昼に暗い洞窟で眠り、他の動物が寝静まった夜に外に出る由来話にもなっている。

よくばりな犬

教訓:欲張ると損をする/他人の物は良く見える

肉をくわえたが橋の下を見ると、川の中の犬が自分よりも美味しそうな肉をくわえている。犬が脅かしてそいつの肉を奪ってやろうと吠えると、肉は川の中に落ちてしまった、というお話。
残念ながら子供には「水に映った自分の顔もわからないとかバカすぎww」で終わってしまい教訓が伝わらないことが多い。そもそも大抵の動物は鏡に映ってるのは自分だと認識できないので、犬や猫が鏡に映った自分に興味津々だったり威嚇するのはよくある話である。

ロバを売りに行く親子

教訓:周囲の意見に流されてはいけない

親子がロバを売りに市場へ向かう道中、通りすがりの人に「せっかくロバを連れているのに乗らないなんて勿体ない」と言われ、子供をロバに乗せた。
すると今度は別の人に「親だけ歩かせるなんて親不孝な子供だ。」と言われ、子供はロバから降り親が乗る。
すると今度は(ry「自分だけ楽をして子供を歩かせるなんてひどい親だ」と言われ、親子でロバに乗る。
すると(ry「2人も乗るなんてロバが可哀想」と言われ、棒にロバの足を括り付けて2人で担いでいく。
それを見た人たちは「バカな親子だな」と笑った。最後は橋を渡る途中窮屈な体勢に耐えかねたロバが暴れて川に落ちてしまった、という話。
エスニックジョークでも「周りの目を気にする」とネタにされる日本人には身につまされる話。

エチオピア人を白く洗う

教訓:生来の性質は決して変えることができない

現代のイソップ童話の絵本には絶対に掲載できないエピソードの一つ。
愚かな黒人奴隷が自分の肌を白くするために洗おうとするが、結局変わらなかった、というもの。
教訓自体は決して的外れではないが、そこに黒人を絡めてしまっている上、18世紀以降、人種差別的思想を後押しするためにこの童話が使われたという背景があるため、そのままでは絶対に掲載できないものになっている。
ただ、当時の文化からすれば特段イソップ(もしくはこのエピソードをイソップ童話に含めた人)が差別的だったとは言えないだろう(現代の感覚からすると違和感がある、というだけ)。

アリとヘルメス

教訓:自分にできないことを他人に求めてはいけない

マイナーなエピソードの一つ。
ある日、一艘の船が嵐に遭って沈没する。
それを見ていた若者はに向けて憤慨する。「あの船には罪人が一人乗っていただけなのに、それ以外の全員も殺してしまうとはひどいじゃないか」と。
と、そこに一匹のアリが現れ、若者の足に噛みつく。
怒った若者は辺りにいるアリを踏み潰して回る。
そこにヘルメス神が現れこう言う。「神のやったこととお前のやったことに何の違いがあるのか?」と。
そして若者は反省した、というお話。

「神は平等ではなく傲慢な存在であり、人間もまた同じという話」「人間は自分達を他の生き物と違う特別な存在だと思っているが、神から見れば所詮は動物の一種でしかないという話」等、人によって解釈が分かれる上、教訓話として扱うには神の行為が理不尽過ぎるという声もあるためか、あまり目にしないエピソード。

ミツバチとゼウス

教訓:人を呪わば穴二つ(?)

ある日ミツバチはゼウスに訴える。「我々が頑張って集めた蜜を人間が取っていってしまいます。どうか我々に強力な武器をください」。
するとゼウスはこう言った。「ではお前たちに毒針を与えよう。だが、これを使うとお前たちは死んでしまう。それでもいいかね?」
ミツバチたちはそのリスクを飲んで毒針を持つことを選んだので、ミツバチは毒針を使うと死んでしまうようになった。

どちらかというと教訓話というよりは由来話。それほどまでにミツバチの恨みは強かった、ということだろうか。
しかしこのエピソードからするとなぜゼウスは狂気のバーサーカーであるスズメバチたちに「何度刺しても死ぬことのない毒針」を与えたのだろうか。

三本の棒

教訓:一人でやるより誰かと協力してやればより大きな成果を上げられる

ある父親が三人の子供に一本ずつ棒を渡し、それを折るように言う。当然三人とも難なく棒を真っ二つにへし折った。
それから父親は棒を三本束にしたものを子供たちに配り、それも簡単に折ってみろと促す。すると、誰もそれをへし折ることがままならなかった。
最後に父親が言った。「3人が互いに協力するときこそが一人一人の場合以上に強くなるのだ」

タイトルからまんま想像した人もいた通り、日本でも同じような話が毛利元就の逸話として伝わっていたりする。ただし、こちらは長男の毛利隆元が40歳の若さで没しているため、後世の創作とする説が有力である。




追記・修正は教訓を忘れないようにお願いします。

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最終更新:2025年04月22日 17:42

*1 哲学者の主人を論破したとか、無理難題をとんち紛いの方法で解決したとか、主人の荷物持ちで重い食料を進んで持った(帰りは軽くなるため)とか。ただしいずれも創作の可能性が高い