登録日:2009/12/05(土) 23:07:41
更新日:2025/04/22 Tue 23:42:20
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宮本武蔵とは、安土桃山~江戸時代初期の剣豪である。
【経歴】
1584年生~1645年没。
「武蔵(守)」は通称で、本名は宮本玄信(はるのぶ)。姓は新免(しんめん)とも。号は二天(にてん)。
播磨国…現在の
兵庫県生まれ(吉川英治の小説などは岡山の出身とするが、武蔵の書いた『五輪書』には播磨生まれと明記してある)。
室町時代の守護大名として有名な赤松氏の末流という。
断絶した新免家を継ぐ、よく新免無二斎と親子のように語られるが無二斎は子を残さず死に、その数年後に武蔵が継いでいるので
面識すらない可能性が高い。
13歳の時に有間喜兵衛という新当流の剣客に勝利、更には16歳で秋山某という兵法者に勝利。若いながら剣客として実力は高かった。
同じく16歳の時、関ヶ原の戦いに西軍として参加したという説も有るが、五輪書や黒田家伝記によると
豊前中津藩前藩主・
黒田孝高(官兵衛。当時は出家して如水と号す)に従って九州で東軍に加わり、
数々の武巧を挙げたとする説が正しいようだ。
この辺りから正確な記録がないが、宮本伊織貞次が1654年(宮本武蔵の没9年後)に建立した小倉碑文によると
天仰実相円満 兵法逝去不絶
時に、承応三年四月十九日、孝子某、謹で建焉。
正保二年乙酉暦五月十九日、肥後国熊本に於て卒す。
兵法天下無双 播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士の碑
機に臨み変に応ずるは、良将の達道なり。武を講じ、兵を習ふは軍旅の用事なり。心を文武の門に遊ばせ、手を兵術の場に舞はせて、
名誉を逞しくする人は、其れ誰ぞや。播州の英産、赤松の末葉、新免の後裔、武蔵玄信、二天と号す。
想ふに夫れ、天資曠達、細行に拘らず、蓋し斯れ其の人か。二刀兵法の元祖と為るなり。
父、新免無二と号し、十手の家を為す。武蔵、家業を受け、朝讃暮研す。思惟考索して、十手の利は一刀に倍すること甚だ以て夥しきを灼知す。
然りと雖も、十手は常用の器に非ず、二刀は是、腰間の具なり。乃ち二刀を以て十手の理と為せば、其の徳違ふこと無し。故に十手を改めて二刀の家を為す。
誠に武剣の精選なり。或ひは真剣を飛ばし、或ひは木戟を投げ、北る者、走る者、逃避する能はず。其の勢、恰も強弩を発するが如し。
百発百中、養由も斯れに踰ゆる無し。
夫れ惟、兵術を手に得、勇功を身に彰す。方に年十三にして始む。播州に到り、新当流、有馬喜兵衛なる者と進んで雌雄を決し、忽ち勝利を得たり。
十六歳春、但馬国に至る。大力量の兵術の人、秋山と名のる者有り。又、反掌の間に勝負を決し、其の人を打ち殺す。芳声街に満つ。
後、京師に到る。扶桑第一の兵術、吉岡なる者有り。雌雄を決せんことを請ふ。彼の家の嗣、清十郎、洛外蓮台野に於いて竜虎の威を争ひ、
勝敗を決すと雖も、木刃の一撃に触れて、吉岡、眼前に倒れ伏して息絶ゆ。予て、一撃の諾有るに依り、命根を補弼す。
彼の門生等、助けて板上に乗せ去り、薬治、温湯し、漸くにして復す。遂に兵術を棄て、雉髪し畢んぬ。
然る後、吉岡伝七郎、又、洛外に出で、雌雄を決す。伝七、五尺余の木刃を袖にして来る。武蔵、其の機に臨んで彼の木刃を奪ひ、
之を撃ちて地に伏す。立ち所に吉岡死す。
門生、寃を含み、密かに語りて云く、兵術の妙を以ては、敵対すべき所に非ずと。籌を帷幄に運らして、吉岡亦七郎、事を兵術に寄せ、洛外下り松辺に会す。
彼の門生数百人、兵仗弓箭を以て、忽ち之を害せんと欲す。武蔵、平日、先を知るの才有り。非義の働きを察して、窃かに吾が門生に謂て云く、
汝等、傍人と為りて速やかに退け。縦ひ、怨敵、群を成し、隊を成すとも、吾に於いて之を視るに、浮雲の如し。何の恐ること之有るや。
衆の敵を散ずるや、走狗の猛獣を追ふに似たり。威を震ひて帰る。洛陽の人皆、之を感嘆す。勇勢知謀、一人を以て万人を敵する者は、実に兵家の妙法なり。
是より先、吉岡は代々公方の師範を為し、扶桑第一の兵術者の号有り。霊陽院義昭公の時に当たり、新免無二を召して、吉岡と兵術をして勝負を決せしむ。
三度を以て限り、吉岡、一度利を得、新免、両度勝ちを決す。是に於いて新免無二をして日下無双兵法術者の号を賜ふ。
故に武蔵、洛陽に到り、吉岡と数度の勝負を決し、遂に吉岡兵法の家泯び絶ゆ。
爰に兵術の達人、岩流と名のる有り。彼と雌雄を決せんことを求む。岩流云く、真剣を以て雌雄を決せんことを請ふ。
武蔵対へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ。吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。
長門と豊前との際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。両雄、同時に相会す。岩流、三尺の白刃を手にして来たり、命を顧みずして術を尽くす。
武蔵、木刃の一撃を以て之を殺す。電光も猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ。
凡そ、十三より壮年迄、兵術勝負六十余場、一つも勝たざる無し。且つ定めて云く、敵の眉八字の間を打たざれば勝ちを取らずと。
毎に其の的を違はず。古より兵術の雌雄を決する人、其の数を算するに幾千万かを知らず。然りと雖も、夷洛に於いて英雄豪傑の前に向かひ人を打ち殺す。
今古其の名を知らず。武蔵一人に属するのみ。兵術の威名、四夷に遍き、其の誉れや、古老の口に絶えず、今人の肝に銘じる所なり。
誠に奇なるかな、妙なるかな。力量旱雄、尤も他に異なれり。
武蔵、常に言う、兵術を手に熟し、心に得て、一毫も私無ければ、則ち、戦場に於て恐れる事もなく、大軍を領する事も、又、国を治る事も、豈に難からんやと。
豊臣太閤の嬖臣、石田治部少輔謀叛の時、或ひは、摂州大阪に於いて、秀頼公兵乱の時、武蔵の勇功佳名は縦に海の口、渓の舌に有り、寧ろ説き盡し、簡略に之を記さず。
旃加、礼、楽、射、御、書、数の文に通ぜざる無し。況や小芸巧業をや。殆ど為して為さざる無き者か。蓋し大丈夫の一体なり。
肥之後州に於いて卒する時、自ら、天を仰げば実相円満之兵法逝去して絶えず、の字を書き、以て言う、遺像と為せと。
故に孝子、碑を立て、以て不朽に伝へ、後人に見せしむ。嗚呼、偉なるかな。
福田正秀『宮本武蔵研究論文集』より、読み下しのみ引用
吉岡清十郎や吉岡伝七郎らの吉岡一門と戦い、ことごとく勝利。清十郎は出家し、伝七郎は死亡し、吉岡流を壊滅させた(清十郎に関しては、引き分けたとする書物も有る)とあるが、そもそも吉岡側の資料もあやふやで、清十郎、伝七郎についても実在が怪しい。
ただ数多く行ったとされる立会いの内ほぼ唯一詳細に記している辺り当時の京都でなんらかの決闘を行い大きな成果をあげた結果、諸国での立会いの中では一番の功績であると考えられかもしれない。
時期不明ながら長門舟島(厳流島)にて、「岩流」と名のる剣客と決闘し、これに勝利する。
武蔵にとってはあまり重要でもなかったのか本人は何も記していない(五輪書にも一切この話は出てこない)。
また、宮本伊織はこの決闘を直接は見ていない為、時期はもちろん「岩流」が
佐々木小次郎であるかもはっきりとはしていない。
「岩流」を佐々木小次郎としたのは、1776年に編纂された「二天記」であるが、武蔵の没後約130年も経ってからの編纂であるため、史実に忠実であるとは言い難い。
なお、武蔵がわざと試合に遅刻したというのは吉川英治の小説の設定である(小倉碑文には記載されていない)。
1615年、三河刈谷藩主・
水野勝成(のち備後福山藩主)勝俊の護衛につき、また彼に戦功を挙げさせる役を引き受けたらしい。
武蔵がどのような活躍をしたかは不明だが、水野隊が夏の陣では最も激しい戦いを潜り抜け、藩主親子も前線で戦ったこと
とその後武蔵が水野家家中の人間を養子に貰っていることから水野家で大いに信頼されるだけの成果は上げたのでないかと思われる。
1618年 本多忠政、小笠原忠政の姫路入り
この時期に両者と深い交流を結び、明石での城下町の街割りに関与、他にも明石城内の茶室や庭園の設計などを行っている。
また水野家で得た養子三木之助は、本多忠政の嗣子・忠刻の小姓(側近)となり、武蔵の息子として700石を与えられた。
1627年 明石の小笠原忠政に仕える田原貞次、宮本武蔵の養子になる。
ちなみにこの前年に三木乃助が主君忠刻の病死に合わせて殉死している。
1629年 海上物語にて明石で無想権之助との試合をして勝ったとされるが、所載不明。
二天記では江戸で戦っていることになっているが、二天記の元ねたである武公伝には記載すらない。
1632年 小倉藩への移封にあわせて養子の伊織共に豊前に移る。
1638年、小倉藩へ移封となっていた忠真と共に、天草四郎の起こした『島原の乱』の鎮圧軍に同行、武蔵は投石にて負傷する。
伊織は戦後この戦での功を理由に1500石加増、4000石となり小倉藩の家老筆頭になる。
1640年、細川忠利の招きで肥後熊本に移り門下生の育成に力を入れる。
大名や著名な人物がこぞって武蔵に教えを請うた為、武蔵の屋敷は常に人で溢れていたという。
またこの時期は絵画や工芸にも精を出し、のちに自らの武術・理論を纏めた『五輪書』を著す。
そして…
1645年6月13日
熊本にて死去。死因ははっきりとはしていないが、立花峯均の丹治峯均筆記には
「兵書五巻ヲ記サル。地水火風空ト号ス。清書ナキ内ニ病噎膈ノヨシ生ズ」とあり、
この嘔吐症状から胃癌ではないかと推測される。
生涯で戦う事66回、敗北は只の一度として無かったという。
もっとも、他の歴史上の大剣豪よろしくすべては自伝、伝承をそのまま記述したものである事を留意しなければならない。
宮本武蔵が使っていた
太刀としては以下の物があり、古刀を好んだとされる。小太刀については明確化されていない。
- 大和国住国宗(室町時代の備前鍛冶。二尺二寸。熊本の島田美術館に展示)
- 無銘金重(南北朝時代初期の関鍛冶。大磨上げ。吉岡戦に使用。熊本の島田美術館に展示)
- 和泉守藤原兼重(江戸時代初期の武蔵国の鍛冶。二尺七寸五分)
- 了戒(鎌倉時代後期の山城国の鍛冶。二尺八寸余の直刃、板目流れの鍛えに沸(にえ)出来の刃文)
- 伯耆安綱(平安時代中期の伯耆国の鍛冶。国宝の童子切もこの安綱の作品。三尺八寸。)
- 武蔵正宗(鎌倉時代末期の相模国の鍛冶。磨上長が二尺四寸四分半、幅九分一厘、肉二分)
主な様式として、
- 柄巻き:牛衷皮黒捻巻
- 鞘:黒、もしくは栗色朱うるみ塗り
- 鍔:海鼠透し(なまこすかし)
を好んだ模様である。刀身は刀工によって異なるが、組糸は滑るとして柄には皮を好んだ。また、鞘については落ち着いた色を好んだ。
鍔の海鼠透しについては宮本武蔵が考案したデザインである。
なお、老年になってからの武蔵は日常は刀を差さず、外出する時には五尺ほどの杖を携えていたとされる。
その杖には、のべ鉄が隠してあり、頭と石突きには胴金が付けられていた。そして紙捻で作った緒を通して腕貫としていたという。
【二天一流】
俗に言う
二刀流。
なお、鎖鎌の達人である宍戸梅軒との戦いで武蔵が編み出した、もしくは一条寺下り松で吉岡一門と戦った時に無意識で使ったなどというのは吉川英治の小説の設定である。
脇差を左手に中段、太刀を右手上段に構え、脇差で防御、太刀で攻撃を基本とする。また
左利きの人はその逆となる。
だが本来は二つの刀を同じように捌けるまでに熟練された『虎振之型』が真の型であり、二天一流の奥義でもある。
そもそも二天一流には『構え』という概念は存在せず、最も斬り易い、又は斬られ難い位置に剣を置くという事が理念である。
昭和の頃、邪道な剣術(後述)として嫌われた為に二刀流を教える人が減り、現在では使い手を殆ど見なくなってしまった。実に悲しい。
ちなみに、現代の
剣道では高校生以下の試合では禁止されているものの、大学生以上の試合では二刀流を使用して良い決まりになっている。
ただし、太刀は通常品よりも6センチほど短い物と決められているおかげで間合いは狭く、片手での打ち込みは軽いように思われ、残心も勢いが出にくいため、審判には有効打として認められにくい。
これは、一刀流での上段構えからの片手面と同じ傾向であり、「二刀流に切り替えたら弱くなった」という話は珍しくもない。
また、もう一方の小太刀での有効打突は事実上取れない事から、主に防御用として扱われる為、
剣道での二刀流は主に小太刀で受け流して太刀で面、もしくは小手を打つ(そのスタイルから抜き胴等がやりにくい)という、どちらかというと攻撃よりも防御に特化したスタイルとなる。
この事から、昭和初期での団体戦で引き分け狙いが横行した為、長らく試合での二刀流は禁止される事となってしまった。
実戦では小太刀の攻撃も有用な二刀流ではあるが、剣道では引き分け要員に成り下がってしまったのが実情とも言える。
伝統が断絶するのを危惧する声もあって近年では解禁こそされたが、そもそも指導者が少ない為に使用者も少ない。
更には審判さえも二刀流に慣れていないので打突を判断しきれない。実に残念である。
【余談】
宮本武蔵が街道で蕎麦を啜っていた時、ハエが飛んできたので箸で捕まえたというのは吉川英治の小説の設定である。
これについて武蔵は蕎麦は確実に食べていないと意義を申した研究家がいた。
武蔵は戦国時代の人間で、我々の良く知る細長い蕎麦は江戸中期以降に出来、当時は蕎麦粉に小麦粉を混ぜる事はなく、蕎麦粉のみで作っていたので我々の知る蕎麦ではボソボソして切れやすく美味しくなかったのだ。
この時代は、恐らく蕎麦粉を丸め串に差して焼いた蕎麦団子であったと思われる。
なので、もし麺類というならば宮本武蔵は街道で「うどん」を食べていたと言うのが正しい事になる。ハエはどうなったか?いや知らないってば。
しかし、それから時代が下って戦後になると蕎麦歴史の研究が進んでくる。
なんと、武蔵存命の年代に
僧侶が「そば切り」を食したという資料が見つかり、それより半世紀前にはお寺で「そば切り」を振る舞ったという資料も発見された。
やっぱり武蔵は蕎麦を食べていた時にハエを箸で捕まえたのだ!
しかし、それからさらに時代が下ると吉川英治の小説や吉川英治自身の研究も進む。
この「箸でハエを捕まえる」という話はなんと、岩国出身の宇野金太郎という幕末の剣豪の伝説であったことが判明する。
武蔵の来歴に不明点が多いため、吉川英治が小説を膨らませる際に多数の創作を投入し、(失礼な言い方だが)無名の剣客である宇野金太郎の伝説も取り込んだという見方が多い。
また、数多くの書画や彫刻を残していた事から、かなり手先が器用だったと言われている。
絵は水墨画を好んでいたが、墨の付け方から筆は左手で使用していたとされ、元々は左利きだった(かつての日本では左利きが言語道断の扱いであり、子供の頃から無理矢理変えさせられたのが当たり前であった)か、あるいはクロスドミナンスと思われる。
島原の乱にて武蔵は投石で負傷してしまったことに関して、あれこれ揶揄されることも多いが、
武蔵の名誉のために言うと、合戦で負傷すること自体は、不名誉なことではない。
どちらかといえば、合戦での負傷…特に飛び道具によるケガは、「仕方ないね」と許されることが殆どであり、むしろ最前線で戦った証として好意的に見られることが多かった。
【アニヲタ的には】
有名な剣豪だけにあちこちでモチーフにされており、講談でも小説でも実写でも漫画でもアニメでもラノベでも
ゲームでも引っ張りだこである。
司馬遼太郎が描いた新選組や
坂本龍馬と同様、宮本武蔵のイメージとして影響を与えた昭和を代表する大衆小説で、朝日新聞に1935年から39年にかけて連載された。
上述の他タケゾウという幼名、沢庵和尚との邂逅、又八やおつう(実在はしているが武蔵との面識はない)、柳生石舟斎との問答などは全てこの小説の設定である。
その一方、史実では「数回戦った、勝ったかもしんねーや」としか書いていない杖術の開祖・夢想権之助が中盤で仲間になる展開はあまり知られていない。
序盤こそ、ただひたすらに相手を殺し続けることしかできなかった武蔵は、沢庵和尚に諭され「人」であることを気づかされる。
姫路城での3年の猛勉強、吉岡道場との死闘、槍の宝蔵院・杖の権之助・鎖鎌の宍戸との異種格闘、佐々木小次郎との宿命の対決。
そうした果てなき死闘の陰で、断ち切れなかったおつうへの思慕、弟子と慕う城太郎や伊織との絆。
吉野太夫や本阿弥光悦との出会いにより、武蔵は文化人としての教養や知恵を身に着けていき、やがてその覇道は「剣の道」とは何かという哲学を導き出していく。
山田風太郎の「忍法帖」シリーズの一作。
島原の乱を生き延びた森宗意軒の忍法「魔界転生」により、天草四郎らと共に魔界の者として生まれ変わり、主人公である柳生十兵衛の敵として登場する。
「人類史最強の男」として
ブルース・リーと共に生き返らされ、主人公に挑みかかる。
江戸時代からそのまま生きていたという設定で、主人公である鉄刃の師匠として登場する。
詳細は
宮本武蔵(YAIBA)を参照。
カラオケ「DAM」の採点ゲーム「YOUR STORY」の一つ。武蔵が巌流島で小次郎と戦うまでを描く。
他のゲーム同様中間発表があり、ひどい出来だと敵からボコボコにされてしまう。
戦う敵はお決まりの吉岡や宍戸に加え、百地三太夫(死んでね?)や伊藤一刀斎など江戸時代初期の武芸者・達人オールスターが揃っている。
吉川英治の小説を原作とした『
スラムダンク』の作者の漫画。
2015年以降休載が続いており、完結を危ぶまれている。
第1章「宮本武蔵編」のキーパーソン。陸奥圓明流27代目陸奥八雲と戦い、無空波を受けて倒れた武蔵本人は負けを認めたものの、八雲が「無手で勝てなかった」
(武蔵の一刀を小刀で受けた)事を理由に引き分けを宣言。作中唯一、陸奥が引き分けを認めた相手となる。
主人公・ガンリュウ/佐々木小次郎の最大の
ライバルとして登場。柳生一門に命を狙われてからはタケゾウ読みに改名。
2から初登場。吉川版に描かれた「剣とは何か」「何をもって最強とするのか」という問いを探し続ける設定。
男塾シリーズの完結編。
同姓同名の
宇宙人が登場。2本の刀と2本の
触手の4刀流で戦う。
キャラデザは『天より高く』の原始時代編に登場したミヤモトンのまんま流用。
四剣鬼(ダークサムライ)として登場。木刀で石すら真っ二つにする
ツンデレである。
『
ルパン三世』のモンキー・パンチ原作の時代劇ガンアクションアニメ。二刀流ではなく二丁拳銃のスタイルでアヤカシと戦う。
紹介メディアによって作品名表記が「GUN道MUSASHI」「GUNDOH ムサシ」等と異なっている。
作者にとって望ましくない形で名前が売れてしまった作品
ロボポンのムサシが登場。櫂型木刀二刀流で闘う。
漫画版では主要キャラであるコジロウの宿敵であり、原作ゲーム同様闘志を燃やすコジロウにそっけない対応を取るも、その実力に一目置いている。
主人公がムサシで、
ライバルはコジロウで、ガールフレンドにおつう…ではなくオツルがいる。
大食いでバカで迂闊で奇麗な女性にすぐ騙されるが、心は誰よりも熱い。
主人公の癖に、敵に捕まった回数が両手の指で余るくらいある。
第2巻「龍馬が来る! 武将VS維新志士」で、桶狭間ファルコンズが幕末レッドスターズへの代打として登板させる。
その後、第9巻「開幕地獄甲子園! 武蔵&小次郎」では巌流島ソードマスターズの4番(ただし主将は小次郎)で登場した。
必殺技はでかい櫂でとにかくボールを当て、勢いが弱まった所を木刀バットでフルスイングする二刀流打法。
既に故人だがまだ霊として現世をさまよっており、自身の著書で春画を挟んで買おうとした不届きな主人公に制裁を下した。
ちなみに小次郎とは死んだ後久々に再会したが、既に小次郎から恨まれておらず、めっちゃ親しくなっていた。
主人公の名前が武蔵だが、まだ話の序盤の為二刀流は使用していない。相方は「鐘巻小次郎」。
戦国武神バサラーズの伝説レアとして実装されている。
黒い敵に極ダメージを与えるが、サシ主義なのか単体攻撃。
正当派の剣道漫画。ライバルの乾俊一が試合中に左腕を骨折し、それを克服するため右手で小太刀を持つ『逆二刀流』を極めて、再び六三四と対決する。
ただし、高校生での二刀流の公式試合は禁止事項なので、作中の描写はフィクションである。
実在の空手家・大山倍達の一代記。
暇つぶしに読んでいた吉川英治の小説に衝撃を受けて、空手の道を志す。
なお、空手バカ一代(に限らず、梶原一騎原作のノンフィクション全て)はかなりの部分に創作が入っているが、大山自身が宮本武蔵の大ファンなのは事実であり、
道場訓の監修を吉川に頼んだりしている。
アニメ349話『まる子たちの巌流島』で3年4組が巌流島を題材とした劇をやる事になり、「卑怯だから」という身も蓋もない理由で藤木が武蔵役に。
我等が主人公まる子は「迂闊だから」という理由で小次郎役に選抜される。
迎えた当日、藤木は緊張しすぎるあまり主演にも拘らず体育館から逃げ出すが、あまりの卑怯ぶりに見かねた武蔵の霊が登場し、藤木を一喝した。
果たしてその霊は本物の武蔵だったのか、あるいは藤木の心の奥の勇気の表れだったのか、それを知るすべは無いが、この時の武蔵の激励は本作でも指折りの名言である。
巌流島の戦いで天下に広く名が知られており名前だけは序盤から出ていたが、中盤に本人が登場。
作中ではほぼ無敵とも言えるあずみを追い詰めた、名実ともに最強クラスの大剣豪。ただし途中であずみの仲間により戦いが中断させられたため、決着はついていない。
あずみが無傷だった一方武蔵は手傷を負っていたが、当のあずみは内心で「中断させられなければ斬られていた」と負けを認めている。
武蔵も武蔵で「あのまま続けば斬っていた」と確信していたものの、あずみの性格的に相手を殺すまいと手を抜いていた疑念が拭えず、最後まで自分は勝ったのか負けたのかを悩み続けていた。
【宮本武蔵をモデルとしたキャラ】
【宮本武蔵をモデルとした(?)飲食店】
関西、東海地区を中心に展開する定食屋チェーン店。
店名の由来は、創業者の息子が幼いとき、“むさし”となかなか言えずに“むなし”と言っていたことから採ったとのこと。
追記・修正は二刀流で同時によろしくお願いします
- 待ち伏せ 逃走 勝てる勝負しかしなかったのでは?って話もあった あと晩年は勝負を挑んできた相手がいざ武蔵を前にしたら戦意喪失したとか -- 名無しさん (2013-11-28 16:12:24)
- 巌流島の件も小次郎が老齢で衰えてて勝負は見えてたって話もあったな。まぁ二刀流選ぶような人だし、狡猾な性分なのは確かだ -- 名無しさん (2013-11-28 17:24:42)
- 二刀流の理由の一つが「片方を腰にさしたまま死ぬのは武士としてどう?」 -- 名無しさん (2013-11-28 17:34:18)
- 小次郎を倒した方法はカイでも二刀流でもなく手裏剣だったという説もある(「小説:藤枝梅安」から) -- 名無しさん (2013-11-28 17:38:04)
- 小次郎の止めをさしたのは 物陰でスタンバってた武蔵の弟子と言う話もある -- 名無しさん (2013-11-28 17:55:19)
- 『強い』って言うよりは『負けない』って事に重きを置いてたんだろうな。セコいと言えばそうなんだろうが、負け=死の世界でそれを死ぬまで徹底したのは見事だと思う -- 名無しさん (2013-11-28 18:26:11)
- 勝負といっても殺し合いでゲームやスポーツじゃないからね。同じ条件で正々堂々なんてする理由ないよな -- 名無しさん (2013-11-28 22:31:56)
- 小次郎複数人説みたいに、武蔵複数人説もあrっよな -- 名無しさん (2014-04-11 19:34:14)
- 20XX年、その大剣豪のクローンが、スカイツリー地下にて再び産声を上げる……ッッ!! -- 名無しさん (2014-04-11 20:39:08)
- ↑2 そも、武蔵の来歴ってあんまり判ってないからな。ここにあるのだって「大まかに言って多分こう」って話だし。 -- 名無しさん (2014-04-11 20:42:06)
- ↑×2 知能も鍛錬もしてないクローンがオリジナルと同等になるって似非科学よりは、タイムスリップで現代に登場って展開のほうがマシだと思った(小並感 -- 名無しさん (2014-04-11 20:54:15)
- 巌流島の決闘は、武蔵と小次郎どっちが強いか、て互いの弟子が論争した事から始まったらしい。で、武蔵が勝ったんだから小次郎フクロにする必要ないよね?更に -- 茶沢山 (2014-04-16 08:36:09)
- まあ剣士というより兵法者だから奇襲だまし討ち何でもありなんだろう。兵は鬼道ってね -- 名無しさん (2014-05-22 16:24:36)
- ↑3 あのクローンに本物の霊が憑りついてるんだから良いんだよ -- 名無しさん (2014-07-21 18:36:33)
- 夢想権之助とか、結構「武蔵に勝った」て伝承遺した人多い。 -- 名無しさん (2014-07-21 18:52:01)
- そのうち宮本武蔵(バキシリーズ)の項目を作ることになるかもなぁ -- 名無しさん (2014-07-21 18:59:02)
- どっかの歴史小説家はめちゃめちゃアンチ武蔵で、「勝てる相手としか戦わなかった」「単なる卑怯者」「剣豪ではあったかも知れないが、(塚原卜伝や上泉伊勢守のような)剣聖にはなれなかった男」とか書いてた。 -- 名無しさん (2014-07-21 21:46:58)
- ↑剣聖に関しては武蔵にゆかりの場所や関係者にそう称されるだけでそれ以外の人達からは言われてない -- 名無しさん (2014-07-21 21:52:25)
- 弟子とかもいっぱいいたらしいのになぁ。 -- 名無しさん (2014-07-21 21:58:31)
- この人、万能の才能の持ち主だけどな。剣術・兵法・内政・芸能と多芸に渡る上に全部実績として残ってるし -- 名無しさん (2014-07-22 00:17:28)
- ある漫画家は武蔵の自画像を「目がヤバい」と評していた。 -- 名無しさん (2014-07-22 00:47:54)
- ↑5 -- 名無しさん (2014-07-22 00:58:20)
- 考えて見たら、負けはしたけど佐々木小次郎って、日本で二番目に有名な剣豪になってるよね。 -- 名無しさん (2014-08-15 11:35:16)
- てか知名度は普通にどっこいどっこい。 -- 名無しさん (2014-08-15 11:54:48)
- よく「勝てる相手としか戦わなかった」とか言われてるけど、負け=死みたいな世界だから当たり前だよなぁ。逆に「相手を徹底的に調べて、絶対に勝てると確信できない限り戦わない」という武蔵の戦術眼を褒めてる小説もあった。 -- 名無しさん (2014-09-22 01:17:40)
- いわゆる武士や侍ってタイプの人では無さそうだよな。軍人っぽい -- 名無しさん (2014-09-22 01:28:01)
- ↑2 塚原卜伝なんか相手を島に置き去りにして「これが無手勝流だよ^^」とかかましてるからなぁ。 -- 名無しさん (2014-09-22 02:01:25)
- ↑2 軍人と言うより…自称喧嘩最強の不良に近い。それとの違いは、本当の意味での命懸けであった事、実績を作った事、かな。 -- 名無しさん (2014-09-22 07:29:38)
- 将軍秀忠に招かれて剣技を披露した際、ノリノリで召し抱えようとした秀忠を但馬守宗矩が反対してやめさせた、って話は 将軍直々に召し抱えた場合、それなりの地位を与えなくちゃいけないけど、武蔵は一武芸者として輝く人間であり、指導者や管理職には向かない人物だから、って説があった。 -- 名無しさん (2014-09-22 10:18:28)
- 平和ボケした時代の武士じゃあるまいし、卑怯だろうが何だろうが勝たなきゃ意味ないもんなぁ。剣士なら兎も角、兵法家なら尚更。 -- 名無しさん (2014-12-04 19:56:18)
- 剣技にしても小倉藩や熊本藩まで招聘されて指南せがまれてるんだから弱いって事は絶対無いし、大名クラスにも名が通ってるレベルの達人なのは違いないんだがな。低く見られるのは・・・まぁ一種の判官贔屓のせいなんだろうな -- 名無しさん (2014-12-05 07:58:52)
- あの世で武蔵に敗れた者同士が同窓会やってたりしてなぁ。「今日、小次郎来るってよ!」「え、マジ?でもあいつばっか有名でずるいよな。」「吉岡は今日も欠席?」「だって会場に70人も余計に入らないよ!」 -- 名無しさん (2014-12-05 11:56:52)
- あまり好きじゃないんだよなこの人…本当に凄い人なのか素人には分かり辛くて… -- 名無しさん (2014-12-05 14:48:57)
- ↑素人には巌流島の決闘で勝った方、ぐらいの認識でいいと思うよ -- (2014-12-05 15:03:54)
- ぶっちゃけ何度も命賭けの戦いしてその度に生き残ったってだけで十分凄い。 -- 名無しさん (2014-12-06 01:02:25)
- 実際、二刀使ったとして、片手で太刀振っただけでもうスゲェよ。めっちゃ重いもん。 -- 名無しさん (2014-12-06 01:40:10)
- ↑、↑2、↑3あざーッス!!! -- 名無しさん (2014-12-06 01:51:51)
- 大体、小次郎だって細川藩の剣術指南役だし、無敗だったらしいから、彼に勝ったと言うだけでも -- 名無しさん (2014-12-06 02:32:33)
- ↑続き もう強い。っつーか、この人に負けた為に無名で終わった実力者も多数いただろうし、夢想権之助は後年、神道夢想流を創始した達人。どんな手を使ったとしても、それに勝った武蔵が弱かった筈は無い。 -- 名無しさん (2014-12-06 02:37:02)
- バガボンドはマジで完結するのか?自分が最後に見た話では、武蔵が農業に目覚めてた気がするが・・・。 -- 名無しさん (2015-03-18 16:25:47)
- ↑農業編は38巻で終わったよ。 -- 名無しさん (2015-03-18 16:34:16)
- 卑怯な手も使ったとか聞くけどな、逃げながらウンコ投げて挑発したり -- 名無しさん (2015-10-04 17:59:17)
- 実際どこまでが真実でどこまでが嘘なんだろうな、かっこいい侍としてイメージが定着してるけど -- 名無しさん (2015-10-04 18:19:50)
- 勝って名を上げて仕官する事を目指してた(当時としては)普通の武士だと思う。只才覚や戦術眼はズバ抜けてたけど -- 名無しさん (2015-11-02 13:34:27)
- 自分は転々として市出世はパッとしてなかったけど、居住地を定めた途端に養子をハイスピード出世させた事から、本人は出世にそれほど興味無かったのでは? -- 名無しさん (2015-11-02 15:32:22)
- 吉岡流との戦いは武蔵敗北説もあったりしてマジわからん。 -- 名無しさん (2015-11-02 17:54:52)
- ↑勝ち負け以前に戦ったかどうかが怪しいレベルだからな。てか吉岡流が謎すぎる -- 名無しさん (2015-11-02 17:58:13)
- 武蔵が凄い(強い)のか否かって論争は創作の場では昔からあったようね。直木三十五やら坂口安吾あたりは「対して凄い人でもない」って意見やったみたいやが。藤沢周平の「決闘の辻」の解説でその辺に関して触れられてたわ。因みに同書に収めてある武蔵モノ「二天の窟」が面白いので興味ある方はぜひ(ステマ)。 -- 名無しさん (2015-11-04 17:18:03)
- 山口貴由の『魔剣豪画劇』における『自身の醜い容貌へのコンプレックスから、相手をより醜い惨殺死体に変えて心を慰めるために強くなった』って翻案はコワイ。がま剣法の屈木とほとんど一緒だけどw -- 名無しさん (2015-11-04 18:08:13)
- 有名であるが故に叩かれる典型だな -- 名無しさん (2015-11-04 22:34:48)
- ↑ティラノサウルスみたいな御仁だw -- 名無しさん (2015-11-04 22:49:26)
- ↑あながち間違いじゃない。名が売れるほど後世には必死に粗探しされるからなw -- 名無しさん (2015-11-04 22:55:13)
- あらゆるサブカルチャーで異常なほどの上に見られたり強キャラ扱いされたり奉られたりして、それに反発する人々からは逆に過剰なまでに低く見られたり卑怯者扱いされたり、あまつさえ存在自体を疑われたりする。なんというか、三国志の諸葛孔明と並んで、最も「公平な評価」から縁遠い人だなぁ、と思う。それだけ多くの人にとって思い入れ深いってことなんだろうけど。 -- 名無しさん (2015-11-05 01:36:05)
- とりあえず適当に史実ベースであやしいところだけ直した -- 名無しさん (2015-11-05 09:58:49)
- クロガネを例に挙げてるが、高校剣道なのに漫画だからって二刀流出すような作品を『マジで登場』扱いするのは大いに抵抗があるなあ・・・? -- 名無しさん (2015-11-05 10:07:49)
- ↑*1 【アニヲタ的には】 に書けばよい事なのでコメントアウトしておきました。『本当に』必要ならばそちらへ追加して下さい。 -- 名無しさん (2015-11-05 10:49:17)
- 「構え(という概念)が存在しない」と聞くと、サウザーの南斗鳳凰拳みたいでかっこいいな。 -- 名無しさん (2015-11-05 17:01:34)
- 男塾の武蔵と仮面ライダーゴーストのムサシ魂、両方とも4刀流出来るのは偶然か? -- 名無しさん (2015-11-22 08:17:38)
- 関ケ原の話マジかよ、幼少期に読んだ学研の伝記では関ケ原本戦に参加したように書いてあったわ。子供向けだからって適当すぎだろ学研 -- 名無しさん (2016-10-05 12:17:29)
- ↑8 実際に武蔵をドヤ顔で批判しつつ塚原卜伝の戦歴(卜伝の弟子の孫が「聞いた話だけど……」と前置きして後世に記したもの)や小野忠明は柳生宗矩に勝って徳川家に仕官したって逸話(実際は忠明の方が1年早く仕官している)を鵜呑みにしている奴なんていくらでもいるからな -- 名無しさん (2016-11-14 18:31:35)
- 大正時代ぐらいにも論争になるぐらいだしな。武蔵の強さ、弟子に高名な人物が居ないから大したことなかったのではと言われたりしてるけど。 -- 名無しさん (2017-01-05 02:22:08)
- ↑3 適当だからというより、それだけ吉川英治の『宮本武蔵』のインパクトがすごかったんだよ。正確性って意味では佐々木小次郎とだって史実じゃ対決してないんだし。 -- 名無しさん (2017-01-05 11:38:53)
- だがちょっと待って欲しい、蕎麦団子の串でハエを捕まえた可能性はないだろうか -- 名無しさん (2017-01-05 13:23:20)
- ちなみに、信長の野望・創造・戦国立志伝の大阪の役のシナリオで、その武蔵が水野勝成に付き添って武勲をあげさせる場面が出てきます。 -- 名無しさん (2018-08-14 07:41:32)
- 小次郎の鞘捨てを【戦う時に掴まれるとヤバイから鞘捨てるのは当たり前】と解説されるの多いけど、それを逆手に取って武蔵に「それは軍勢と戦う時の作法だろ、俺一人を大軍に見間違えるとかビビってんな?」とやり返す漫画には感心した -- 名無しさん (2019-02-01 16:38:58)
- 武蔵伝ってゲームの記述がなくて悲しい。もうかなり古い作品だもんなぁ… -- 名無しさん (2022-06-05 10:51:31)
- 聖徳太子の非実在説を唱えた大山誠一氏は「宮本武蔵非実在説」も唱えていたりする。なんでも文人・画家の宮本さんと剣豪の武蔵さんは別々で、その後江戸時代の講談で混ざって一人になったんだとか。 -- 名無しさん (2023-09-27 10:54:55)
- 修羅の刻で宮本武蔵と戦ったのは出海(幕末の陸奥で龍馬の友)じゃなくて八雲(江戸時代初期の陸奥で狛彦の子、天斗の父)ッス。 -- 名無しさん (2024-08-08 20:57:31)
- ↑1 修正しておきました。 -- 名無しさん (2024-12-05 17:05:56)
- ↑ありがとうございます。 バガボンドの「天下無双が何なのかは天下無双になってから考える」みたいなセリフが好き。 -- 名無しさん (2024-12-05 17:35:42)
- 2025ページ目 -- 名無しさん (2025-02-06 08:45:57)
最終更新:2025年04月22日 23:42