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神武天皇

登録日:2026/02/11 Wed 20:00:32
更新日:2026/08/02 Sun 18:23:09
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(じん)()天皇とは、日本史上において最初の天皇とされる人物。
九州から瀬戸内海を渡って畿内に至り、大和盆地一帯を征服した、伝承における日本国の建国者

+ 目次

【概要】

天津神の主宰神である天照大御神の五世孫(来孫)であり、葦原中国(あしはらのなかつくに)(地上)に天降ったニニギノミコトの曾孫。
日向(宮崎県)で生まれ育ち、その後兄たちと共に新たな都を建設するために東進を開始(神武東征)。
途中で兄たちを喪うなどの苦難に見舞われるも、最終的に大和盆地一帯を征服、都を築いて即位した。

その業績から古くから「最初の天皇」として崇められ、江戸時代の国学の発展や明治維新以降の欧米列強に対抗した国づくりが進むと、「日本の建国者」としての地位が確立。
即位年月日を西暦に直した紀元前660年2月11日が建国日とされ、西暦紀元前660年を紀元元年とする神武紀元(皇紀)が紀年法として用いられ、2月11日は紀元節として祝日となった。
戦後は神武紀元は公式には用いられなくなったが、一部の法令に残っている他、民間で使われる場合もある。
紀元節も一度廃止されたが、1966年に「建国をしのび、国を愛する心を養う日」として建国記念の日の名前で復活した。*1

彼の業績は『古事記』と『日本書紀』のいわゆる『記紀』に記されているが、その史実性には様々な議論がある。
とはいえ、現在でも「最初の天皇」「日本の建国者」としての崇拝を受け続けており、奈良県の橿原神宮や宮崎県の宮崎神宮と狭野神社を始め、各地の神社で崇められている。
令和の世における今上陛下(徳仁)は神武天皇より数えて126代目の天皇であり、現存する世界最古の王朝となっている。*2

以降、基本的には日本の「正史」である『日本書紀』の記述を基に述べていく。


【名前】

「神武天皇」という名前は後世の人がつけた天皇としての名前であり、彼自身は『記紀』上で様々な名が記されている。名前にはそれぞれポジションがある。

  • 幼名:狭野(さの)
  • (いみな)(ひこ)火火出見(ほほでみ)
  • 和風諡号(しごう)(かむ)日本(やまと)(いわ)()(びこの)天皇(すめらみこと)
  • 漢風諡号:神武天皇
  • 美称:始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)
  • その他の別称:(わか)御毛沼(みけぬ)命、(とよ)御毛沼(みけぬ)

幼名は子どもの時の名前。源義経にとっての牛若丸、徳川家康にとっての竹千代のようなもの。

諱は成人後の本名。中国の「名」と同様、直接呼ぶことははばかられることから「忌み名」と呼ばれた。
このうち、「ヒコ」は男性に対する尊称であり、末尾の「ミ」も尊称の一つであることから、本来の名前は「ホホデ」だと考えられる。
古代においてハ行は現在のパ行で発音されたため、実際の読みは「ポポデ」であろうか。なんかかわいい
なお、この「彦火火出見尊」という名前は神武天皇の祖父であるホオリノミコト(山幸彦)の別名と全く同じである。そのため、両者は元は同じ伝承の人物であり、その後2人にわけられたという説もある。

諡号は「おくりな」とも呼ばれ、生前の業績を称えて死後に贈られる名である。そのため、生前に神武天皇がこれらの名で呼ばれたことはない。
日本語による和風諡号と漢文による漢風諡号とがあり、前者は飛鳥時代に、後者は奈良時代に導入され、共に平安時代前期ごろまで用いられた。神武天皇を含め、導入以前の天皇に対しては一気に諡号が贈られたようである。

美称の「始馭天下之天皇」は「初めて天下を治めた天皇」の意味。諡号と同じく業績を称えて呼ばれた名である。

その他の別称は共に『古事記』のみにみられる名である。

なお、これらの名前を組み合わせた「神日本磐余彦火火出見尊」などの表記もみられる。


【事績】

東征開始まで

後に神武天皇と呼ばれることになる彦火火出見尊は、ウガヤフキアエズノミコトの四男として日向(現在の宮崎県高原町)で生まれた。生年月日は西暦換算で紀元前711年2月13日。
母のタマヨリビメは海神の娘であり、その姉のトヨタマヒメはウガヤフキアエズノミコトの母である。つまり甥と叔母の近親相姦
子どもの頃は前述の通り狭野と呼ばれ、現在神武天皇生誕の地とされる地にある狭野神社の名はここから来ている。
3人の兄の名は上から順に、(ひこ)(いつ)()命、稲飯(いない)命、三毛(みけ)(いり)()命である。

15歳で後継者に指名され、成長後は吾田邑(現在の鹿児島県南さつま市の辺り)から()(ひら)()(ひめ)という女性を迎えて娶った。なお吾田邑は曾祖母のコノハナサクヤビメの出身地でもある。

45歳の時、兄たちや群臣を集めて次のように述べ、東征を提案した。

「昔、高皇産霊神と天照大御神はこの地上を我が祖ニニギノミコトに与えられた。ニニギノミコトはまだ蒙昧であった地上に天降られてからこの西の端の地を善政をもって治め、祖父、父と続き、実に179万2470年余りが経過した。しかし残念なことに、はるかに遠い地方は王権に服せず、それぞれに首長を立てて相争っている。塩土老翁*3によると、東の方に周囲を山で囲まれた美しい国があるらしい。そこには天から飛び降ったものがいるというが、その方は饒速(にぎはや)()であろうか。ともかく、そこはきっと天下に君臨するのに好都合なところであろうから、そこに行って都を営もうと思うがどうだろうか」

いや経過した年数長すぎ。つまり、天下を治めるのによりよい場所へと移って都を構え、そこから葦原中国全土を治めようという提案である。
兄たちも群臣もこの提案に同意し、かくして水軍を率いて東征へと出発することになった。


東征と苦難

日向を出発した一行は、速吸門(豊予海峡)を通り、菟狭(大分県宇佐市)、崗水門(福岡県の遠賀川河口一帯)、安芸の埃宮(広島県府中町)を経由して、吉備国(岡山県)に移動。
ここに仮の宮である高嶋宮を作って三年間滞在し、舟を備え兵糧を蓄えるなどし、準備を整えた。
現在では岡山市南区にある島に高島神社という神社があり、それがこの高嶋宮の跡地だと考えられている。

三年間の準備を終えて再び出発した一行は浪速(大阪府)に到着。
当時は現在の大阪府中部には河内湾という入り江が広がっており、淀川からこの河内湾に入った一行は生駒山地の麓、現在の東大阪市に上陸した。

そこから一行は東に向かい、生駒山地を超えて大和盆地に入ろうとしたが、そこに立ち塞がった者がいた。
この地域を支配していた首長である長髄彦(ながすねひこ)であり、彼は兵士を動員して防衛線を張り、彦火火出見尊たちと対峙した。

かくして戦が始まったが、彦火火出見尊側は劣勢となり、更には長兄の彦五瀬命が矢を受けてしまう。
彦火火出見尊は「太陽神の子孫なのに、太陽の方角(東)に向かって戦うことは天に背くことになる」と悟り、撤退を選んだ。
その後は太陽を背負って(西に向かって)戦うために大阪湾岸を南下していったが、やがて彦五瀬命の矢傷が悪化。
紀国の竈山(和歌山県和歌山市)というところで遂に彦五瀬命は亡くなってしまい、その地に葬られた。

その後は再び舟に乗り、やがて紀伊半島南部の熊野に至った一行であったが、そこで暴風雨に遭ってしまう。
次兄の稲飯命と三兄の三毛入野命は「俺たちの父祖は天神であり、母と伯母は海神の娘。それなのにどうしてこう陸でも海でも苦しめられなきゃいけないんだ」とブチギレ、そのまま自ら海に飛び込んでしまった。
その後はなんとか嵐も収まり、再び上陸することができたが、彦火火出見尊は3人の兄を一気に喪ってしまうこととなった。


神の助け、大和への侵入

進軍を再開した一行であったが、土地の神による毒気に当てられ、彦火火出見尊も兵士たちもみなダウンしてしまった。
この時、この土地に住んでいた高倉(たかくら)()という人物の夢の中に建御雷神が現れ、彼が持つ神剣である韴霊(ふつのみたま)を下賜し、彦火火出見尊に献上するように命じた。
高倉下が言われた通りに韴霊を献上し、彦火火出見尊が手にすると、兵士たちの体調はたちまち回復。
床に伏せていた彦火火出見尊も「俺はなんで今まで寝そべってたんだ?」と元気を取り戻して起き上がり、進軍を再開させた。

熊野から内陸に向かって兵を進めた一行。しかし紀伊山地の山路は険しく、なかなか進めずにいた。
この時彦火火出見尊は夢の中で天照大御神に拝謁。彼女から八咫(やた)(がらす)を下賜された。
八咫烏の導きによって一行は迷うことなく山路を踏破し、遂に大和盆地の東にある菟田(奈良県宇陀市)に到着した。

菟田は兄猾(えうかし)弟猾(おとうかし)の兄弟の豪族によって治められていた。
彦火火出見尊は2人に使者を送って帰順するように命じたが、帰順したのは弟猾のみだった。
兄猾は彦火火出見尊に従うつもりはなかったが、その軍勢の勢いを見て正面きって戦うことは困難と判断、
罠をかけた建物を作って彦火火出見尊を誘い込み、暗殺しようともくろんだ。
しかし弟猾がこれを彦火火出見尊に密告、彼の家臣によって兄猾は「安全なんやったらお前が先に入っても大丈夫やろ?」と脅され、自分の作った罠にかかって死んでしまった。


大和平定

菟田を得た彦火火出見尊はそこから西に向かい、大和の反抗する諸勢力を次々に撃破し、帰順した勢力を取り込んでいった。
そして遂に兄の仇である長髄彦の軍と対峙し戦うことになったが、連戦を重ねるも勝てずにいた。
すると突然空が暗くなり、雹が降ってきた。かと思えば金色の霊鵄(金色に輝くトビ)がどこからともなく飛んできて、彦火火出見尊の弓の先に止まった。
そのとき、ふしぎな事が起こった!霊鵄は稲光の如く光輝き、長髄彦の兵士たちは眼が眩み、また混乱して戦うことができなくなってしまったのである。友軍側はよく大丈夫だったな
ちなみに神武天皇の肖像画としてよく用いられるのがこのシーンであり、神武天皇が持つ弓に止まった霊鵄が後光の如く輝く様を描くことで、神武天皇の偉大さを象徴させている。
また戦前にあった勲章「金鵄勲章」もこの逸話にちなんだものである。

さて、軍を動かせなくなった長髄彦は彦火火出見尊に使いを送り、次のように述べて自らの正当性を主張した。

「この地には饒速日命という天神の子が天降られ、俺の妹を娶られた。だから俺は饒速日命を主君としてお仕えしている。天神の子が2人もおられるはずがないのに、何故天神の子を騙って他人の土地を奪おうとするのか」

饒速日命の名は東征開始時にも出てきており、実際に彼は彦火火出見尊よりも先に大和にやってきた天神の子であった。
しかし、天神の子が1人しかいないという理屈はない。彦火火出見尊が「天神の子は沢山いる。そっちの君主が天神の子だっていうしょーこは?しょーこ見せてよ!と反論すると、
長髄彦は饒速日命の持つ(あめの)羽々矢(はばや)を提示、天神の子に仕えていることを証明した。
彦火火出見尊も天羽々矢を持っていたので提示し、どちらも本物であることが明らかになった。

相手が天神の子であることがわかった長髄彦は畏怖したが、それでも彦火火出見尊に従おうとはしなかった。
ここでようやく本人が出てきた饒速日命は「天神の子と普通の人間は扱いが違うんや」と説得を試みるも、長髄彦はそれでも応じない。
両者の間を取り持つことが不可能だと判断した饒速日命は長髄彦を殺し、彦火火出見尊に恭順した。

こうして最大の敵を打ち破ることに成功した彦火火出見尊は、その後も抵抗する勢力をどんどん撃破していき、間もなく大和一帯を征服することに成功した。


即位とその後

大和一帯を平定しきったことで、彦火火出見尊は宮殿を造営し、即位して人々を治めることにした。
宮殿の所在地として選んだのは畝傍山の東南にある橿原という土地。明治になり、この推定地に橿原神宮が創建された。

また、即位するにあたって(既に妻子がいたものの)地元から正妃を迎えることにした。
そこで事代主(ことしろぬし)神(『古事記』では大物主(おおものぬし)神)が地元の女性との間に儲けた(ひめ)蹈鞴(たたら)五十鈴(いすず)(ひめ)を娶った。
大和の土地にとって「余所者」であった彦火火出見尊が地元の、それも神の子と結婚することは非常に重要なことだっただろう。
ちなみに『古事記』では2人の出会いの話が少し詳しく書かれており、「むさ苦しい小屋の中で、綺麗な畳を敷いて一緒に寝たよ」という感じの和歌も載せられている。その意味は敢えて書くまい。

そしてついに、日向を出発して6年と少しが経った辛酉年正月庚辰朔(西暦紀元前660年2月11日)、橿原の宮殿にて初代天皇として即位*4した。
正妃とした媛蹈鞴五十鈴媛を皇后とした。
即位二年目には大和の平定に対しての論功行賞を実施。八咫烏にも賞が与えられている。

即位三十一年目、大和一帯を巡幸し、とある丘に登って一帯を眺めた時にこう述べた。

「なんと素晴らしいことか、この国を得たことは。狭い国だが、まるでアキツ(トンボ)が交尾をしている時の形のように美しい」

このことから、日本の異称として秋津洲(あきつしま)が使われるようになった。

皇后との間には2人(または3人)の男の子が生まれ、そのうち末っ子の(かむ)渟名(ぬな)(かわ)(みみ)を皇太子とした。

即位七十六年目の3月11日(西暦紀元前586年4月3日)、橿原にて崩御。宝算(享年)は127歳(『古事記』では137歳)。
この崩御日は幕末以降「神武天皇祭」として宮中祭祀の日となっている。戦前は法定の祭日でもあった。
翌年、畝傍山東北陵に葬られた。現在の四条ミサンザイ古墳に治定されている。

崩御後は皇位継承について争いがあったが、神渟名川耳尊がこれを制して即位、後に綏靖(すいぜい)天皇の名が贈られた。


【考証・諸説】

さて、ここまで『日本書紀』を中心に神武天皇の事績について述べてきたが、これがどこまで史実に基づいたものなのかについては諸説あり、神武天皇が実在しなかったという説も根強い。
戦前には概ね事実として歴史の教科書でも教えられていたが、戦後は実在した証拠がないとか3/4が和邇とか明らかな伝説が含まれていることから歴史の教科書には登場せず、
金印であったり中国の資料に登場する倭国王帥升や邪馬台国が登場した後、倭の五王や稲荷山古墳の鉄剣に記された「ワカタケル大王」(雄略天皇)の形で初めて皇室が登場する。

「実在し、『日本書紀』に記された内容もその多くが事実」とする立場もあれば、「モデルとなった人物や戦争はいた・発生した」とする立場、「実在せず完全な神話」とする立場もある。
日本という国の始まりに関わる問題であることからプロ・アマ問わず多くの人々によって研究対象となっており、真っ当な説からトンデモ説まで様々な説が巷に溢れている。
しかし実在説・非実在説のいずれも、稲荷山古墳の鉄剣のような「考古学的な明確な証拠」がないわけであり、今のところは「実在したともしなかったとも明確には言えない」というあんまり煮え切らない回答に落ち着く。

しかしまあ、ここで全ての解説を放り投げても仕方ないので、ここからはある程度有名で妥当性のある考証や諸説を挙げていく。


東征の経路に関する説

・九州北部出発説

『記紀』においては、神武天皇一行は現在の宮崎県から出発したとされている。これを、「実際には九州北部が彼らの故郷で、ここから出発したのではないか」とする説である。

理由の一つには、宮崎県を含む九州南部が古代の後進地域であり、畿内まで渡ってそこを征服するような力を持った勢力がいたとは考えづらいというのが挙げられる。
実際『記紀』においてもこの地域には「熊襲」という大和とは別の勢力がいたことが書かれており、『記紀』の編纂された時期でも「隼人」という人々が住み、たびたび政府への反抗をみせていた。
その他、『日本書紀』に記された順序で海を渡った場合、難所である関門海峡を2度渡る必要があり、当時の航海術ではより困難であったというのも理由となっている。

一方の九州北部では弥生時代や古墳時代前期の遺跡が多く見つかっており栄えていたことがわかる他、『魏志倭人伝』に登場する伊都国や奴国などが存在したことが推定されており、より出発地として相応しいというわけである。
とりわけ、伊都国(糸島市)と奴国(福岡市)の間には「日向峠」や「日向山」という地名があり*5、ここが実際の神武天皇の故郷なのではないかという説もある。
ここから出発した場合、崗水門(遠賀川河口)→関門海峡→菟狭(宇佐市)→安芸(広島県)の順番で進めば関門海峡を一度通れば済むのもこの説を補強する。
なお速吸門(豊予海峡)のみ外れているが、『古事記』では速吸門が吉備と浪速の間に登場するため、実際には兵庫県の明石海峡のことであるとすれば整合性がとれる。

ちなみに、ニニギノミコトによる天孫降臨から神武天皇まで、その舞台は現在の宮崎県や鹿児島県とされている。
これは、山幸彦に敗れた海幸彦の子孫が隼人になったという記述もあり、彼らを朝廷の支配に組み込むため「皇室と同祖」という扱いにし、そのため本来は九州北部が舞台であったのを九州南部に移したのではないかとする説もある。実際、糸島市の辺りでは『記紀』とは異なる独自の神話が伝えられているという。


・紀ノ川遡上説

『記紀』においては、神武天皇一行は紀伊半島沿いをずっと南下し、南部の熊野に上陸し、その後紀伊山地を北上したとされている。
だが、紀伊半島南部が面する熊野灘は古くから航海の難所として知られており、また紀伊山地もかなり険しいため、これらの地域を兵士を伴って渡るのは困難ではないかとされる。
一方でGoogle Earthなどを見てもらえればわかるが、和歌山市から紀ノ川という大きな川を遡ると、平地の多い場所を通って五條市から奈良県に入ることができ、そこから宇陀市や大和盆地へも比較的容易に移動できる。
このことから、神武天皇の本来の経路はこの紀ノ川を遡上する経路であり、本来紀ノ川上流を指していた「熊野」という地名が紀伊半島南部の地名と混同されたことでこのような経路で描写されるようになったとする説がある。


在位年数の引き伸ばしと「辛酉革命説」

先述の通り、神武天皇の宝算(享年)は『日本書紀』で127歳、『古事記』で137歳と驚異的な寿命である。現在の世界最長寿記録よりも長寿である。
神武天皇に限らず初期の天皇は寿命が異常に長い方が多く、『日本書紀』の記述では100歳以上の天皇が計12名おられる。
100歳に達していない天皇でも、70代や80代など当時としてはかなりの長寿となる方もおり、更にはこれらの天皇の時代における事象の記録と、中国や朝鮮の文献資料や考古学的発見との間には明らかな年代のズレが生じている*6

これらを説明するため、「初期の天皇は在位年数が大きく引き伸ばされており、それは「辛酉革命説」に則ったものである」とする説が唱えられている。
「辛酉」とは60種ある干の一つであり、音読みでは「しんゆう」、訓読みでは「かのととり」と読む。
干支は年月日を表す時に用いられ、60種類あるため60年に一度同じ干支の年がやってくる。
天武天皇による壬申の乱は干支が「壬申」の年に起こったためこの名があるし、阪神甲子園球場は干支が「甲子」の年に建てられたのでこの名がつけられた。

そんな干支の一つである辛酉であるが、中国では「辛酉の年には天命があらたまり、王朝交代が発生する」すなわち「革命が起こる」という説があった。これを「辛酉革命説」という。
神武天皇の即位年である西暦紀元前660年も辛酉の年である。神武天皇の即位を「革命」に見立てて、「この年に即位した」とすることで神武天皇の偉大さや皇室の正当性を強調する意図があったと思われる。

じゃあ辛酉の年は60年に1回来るのに、何故西暦紀元前660年というめちゃくちゃ前に設定したのか。

これも中国の文献に「1260年に1回、または1320年に1回の辛酉の年には大変革が起こる」とあるのが由来。
西暦紀元前660年の1260年後は601年で、この頃は聖徳太子らが様々な制度を定めるなどの改革を行っていた時期であり、1320年後の661年は中大兄皇子(後の天智天皇)らが大化の改新に続く改革の実施を行っていた時期である。
『記紀』が編纂された当時の人々にとって、これらの改革は近い時期に発生した大変革であり、「これ程の大変革は神武天皇の即位以来である」と考え、1000年以上前のこの年に設定したと思われる。

在位年数と年齢を現実的なものに合わせて他資料との整合性をとると、神武天皇は実在した場合、西暦紀元前1世紀後半頃の方とされる。2020年代から数えると2050年くらい前であり、中国では前漢、ローマでは初代皇帝となるオクタウィアヌスが権力を確立した頃である。

なお、東征提案の時にでてきた「179万2470年余り」という途方もない年数も、単純な「非常に長い期間」という意味ではなく中国の文献に由来するという説もある。


欠史八代と「神武=崇神」説

神武天皇の後、第二代の綏靖天皇から第九代の開化天皇までは、天皇や妃、子供の名前や、宮殿や御陵(墓)の場所、在位年数などを除き、具体的な事績や在位中にあった出来事が殆ど『記紀』に記されていない。
そのため、これら8名の天皇を欠史八代(けっしはちだい)と呼び、実在を疑問視する意見が戦後多くの研究者に唱えられた。

それに関連して唱えられたのが「神武=崇神」説である。
第十代の崇神天皇には「御肇國天皇」という別称があるが、これは神武天皇の美称である「始馭天下之天皇」と同じ「ハツクニシラススメラミコト」と読める。
どちらも「初めて国を治めた天皇」と解釈することができ、ここから同じ称号を持つ神武天皇と崇神天皇は同一人物であり、
上述の在位年数引き伸ばしに合わせ、1人の天皇の事績を2人に分割したうえで、その間に「欠史八代」の8人の天皇を創作して配置した、という説である。

しかし、この説では神武天皇の「天下」と崇神天皇の「國」を同じ意味と解釈しており、これに関して反対する研究者も多くいる。
崇神天皇は「四道将軍」の派遣などを行い、日本各地に支配権を広げていったことが『記紀』に記されているが、
ここから崇神天皇はそれまで大和だけに留まっていた王権を日本各地に広げ始めた天皇であり、「御肇國天皇」という称号は「初めて国(日本)を治めた天皇」という意味。
一方「天下」は「(天津神のおわす天界に対する)地上世界」の意味であり、神武天皇の「始馭天下之天皇」という称号は「初めて地上世界に立ちこれを治めた天皇」という意味であり、両者は全く異なるという反論がなされている。

欠史八代についても、具体的な事績や出来事が記されてないのはそれらの記録が失われたからであり、名前などの記録のみが残されていたためそれが『記紀』に記されたという意見もあり、
彼らの妃の多くがそれ以降の時代と異なり大和の小豪族から出ていることから、「崇神天皇より前は王権は大和のみに留まっていたことを示す」として欠史八代の実在の肯定と「神武=崇神」説の否定を行う研究者もいる。


【余談】

1950年代には、特定の人物・事象に対して「建国以来類をみないほど優れている」という意味で「神武以来の○○」と表現することが流行した。
  • 神武以来の好景気:神武景気(高度経済成長期の最初の好景気)
  • 神武以来の天才:加藤一二三
  • 神武以来の美少年:美輪明宏


追記・修正は宮崎県から瀬戸内海と紀伊山地を通って奈良県に着いた人がお願いします。

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最終更新:2026年08月02日 18:23

*1 「の」とついているのは、この日の即位の史実性に疑問が呈される中、明確な建国日を定めずあくまで「建国をしのぶ日」として定めるため。

*2 日本を「現存最古の国」と呼ぶことがあるのはこれに由来。ただしどこまでを連続した「国」とするかは定義によって変わってくる。日本は「神話も含めた現存する最古の王朝」2600年と「歴史的事実として実在が確定している最長の王朝」としての継体天皇以降の1500年という意味では最長だが、「神話も含めた最長の王朝」は1974年に断絶したエチオピアのソロモン王朝の3000年である。また、古代エジプト王朝は、同一の血統ではないが、3000年間続いたことが考古学的に証明されている。

*3 シオツチノオジ。登場人物に対して情報提供を行う神様

*4 実際には「天皇」という称号は飛鳥時代に生まれており、当時の称号は「大王」(おほきみ)であった

*5 読みは「ひなた」。ちなみに宮崎の方の日向は古代の読みは「ひむか」である

*6 例えば、第15代応神天皇の母の神功皇后の時代は、『日本書紀』に記された年代と朝鮮の資料や七支刀に記された年代とでは120年ほどずれていることが知られている